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戦国ちょっといい話37

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0001人間七七四年2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0277人間七七四年2013/05/13(月) 16:06:08.20ID:w5b7iIIp
まだ志村さんはいないんだな
0278人間七七四年2013/05/13(月) 21:04:29.35ID:EVX2OC1n
朝鮮役において、加藤清正は朝鮮の国境を越え兀良哈(オランカイ)に侵入。
そこで攻め懸かって来た兀良哈人の大軍を何とか退けると、朝鮮側の”鬼ぜく”という地域まで
後退した。

清正の軍はこの”鬼ぜく”に五日間逗留して人馬の足を休めていたが、
ここより五日の行程ほど離れた、”東せいしう浦”という所に、”せるとうす”という北国の武者大将が
居るということを清正が聞き、これを捕えるために東へと進軍した。

”せるとうす”は歳の程54,5。身長6尺5寸(約2メートル)ばかりの大男で、
彼は日本人の軍勢が接近していると聞き、要害に大勢の軍兵を集め引きこもっていた。

しかし清正家臣の鵤(いかるが)平治という者が大将となり、能き人数2千に鉄砲百挺を添えて
遣わし、要害の後ろの山より攻め懸けて、難なくこの”せるとうす”の身柄を捕縛した。

この時、ここで後藤という通詞を一人生け捕った。
この後藤という人物は日本の松前(北海道松前町)より漁船で出港した所、風に流され、
”せいしう浦”に流れ着き、それから20年ばかりここに居住しているのだという。

彼は兀良哈語も、朝鮮語も、勿論日本語も自由に使う能き通詞であったため、加藤清正も大変重宝し、
彼に直々に、二郎と名を付け、後藤二郎と名乗らせた。

この”せいしう浦”から、天気の良い日は、富士山が殊の外近々と見ることが出来た。
ここから富士山は、未申の方角(南西)に見ることが出来た。
松前は富士山の真北に当たるそうである。

そして”せいしう浦”は昆布が大変多く、家の屋根すら昆布で葺いていた。
清正の軍は、最初は昆布だとは考えもしなかったが、後に昆布だと知り、そこで日本人は
家々の上葺を取って汁にして食べていたそうである。
(清正高麗陣覚書)

浦というからは、今のウラジオストクあたりだろうか?流石にそこから富士山は見えないだろうと思うが、
ともかく清正の異国における記録である。昆布の屋根…。
0279人間七七四年2013/05/13(月) 21:16:13.85ID:8kKHaFUv
ウラジオストクは「東方を征服せよ」
とかいうロシア語だから、このころの現地の名称とは関係ないのでは
0280人間七七四年2013/05/13(月) 21:20:45.67ID:EVX2OC1n
>>279
ああそうか、ややこしくてすいません。
浦=港、ということで、今のウラジオストク港あたりかなとw
0281人間七七四年2013/05/13(月) 21:38:52.10ID:TqheAgPb
>>278
ttp://northernphotogallery-edge.blogspot.jp/2013/04/ls-denmark.html
これがデンマークの海藻で葺いた屋根らしい。意外と普通な印象。
0282人間七七四年2013/05/13(月) 23:21:32.29ID:tKj90qUw
海草と言ったら、きょんきょん師匠の海草列車を思い出す
0283人間七七四年2013/05/14(火) 16:25:23.21ID:zXnARiyL
慶長三年正月、蔚山に布陣する日本勢へ明軍数十万が攻め寄せてきた。
戦国叩き上げの日本勢であったが、
日頃古典で親しんでいる漢民族の大軍に、
皆、一言の発することも出来ず呆気にとられていた。
直茂さまが、
「とんでもない人数だ。あの分では何十万という単位であろう」
と仰せになると、中野神右衛門が、
「我らが日本国では、
数知れぬことを三歳牛の毛の数と申しますが、
これがつまり、その、三歳牛の毛の数ですな
ガハハハハハハw」
と冗談を言ったので、鍋島勢のみならず、
日本勢の人々は思わず笑いだして、
よい具合に落ち着き、力を取り戻したという。
このことは、勝茂さまが白石山で狩をなさったとき、
中野又兵衛政良にお話になって、
「おまえの親父のほかに、あのとき一言いえた者はなかったぞ」
と声をかけられたとのことだ 【葉隠】
0284人間七七四年2013/05/14(火) 16:34:59.78ID:zXnARiyL
ちなみにこの中野神右衛門清明という人は、
山本常朝の祖父にあたる人。
かなりの剛の者だったらしく、
筑後三池城攻め一番首、
肥後和仁城一番乗り、
筑後戸原城攻め一番乗り、
筑後江ノ浦城攻め一番乗り、
と武勇を記録に残している。
直茂公逝去時に追腹を願い出るも、
勝茂公に止められ断念。
光茂公逝去のときの山本常朝を考えると、
魂も受け継がれるのかと思うようなエピソード
0285人間七七四年2013/05/14(火) 20:31:00.51ID:HtG3D7C4
初陣の若者の目には、さぞ頼もしく映ったことだろうな
0286人間七七四年2013/05/14(火) 20:37:11.44ID:vRnyMHSf
その頃出羽国の住人に、白鳥十郎という者があり、谷地という場所に居住している武士であったが、
この十郎は日頃から、どうにかして最上義光を滅ぼし、最後には出羽一国の主となりたいとの
野望を持っていたが、ある時思い立って上方へと上り、織田信長に対し、大鷹一羽、馬一頭を捧げ、
「私こそ最上地域の主人であります」と、誠しやかに申し上げると、信長も遠国の事であるので、
最上の事情を全く知らなかったが故に、十郎の申すに任せ、懇ろに返事を与えたため、
十郎も大いに喜び、この返事を有難く頂戴し、これこそ弓箭の冥加のであると、急ぎ本国へと帰り、

「最早この上は、最上郡中において心にかかる輩を相従え、意義に及ぶ者達は一々に討ち取るべし。
特に山形の領主である最上義光を滅ぼして、思うままに世を治めるのだ!」

そう決意し朝夕に義光の動向を伺ったが、しかし隙を見出すことが出来なかった。

このような中、最上義光は白鳥十郎の今回の動きを知り、

「さても憎い者の振る舞いであろうか!私こそ内々に国中を平らげて速やかに世を治めんと、
心深く決意しているというのに、このような思いもよらぬことを聞くとは!
こうなっては時間をかけてはならない。急ぎ織田信長公に仔細を言上するのだ!」

そう言って志村九郎兵衛(後に伊豆守)を使者として、最上の系図、並びに白鷹一羽を持たせて
上方へと向かわせた。
この頃は諸国乱れていたため通路も自由にならず、越後を回って到着し、山本彦九郎という者の
家を宿舎として、信長のご機嫌を相伺った上で、件の趣を言上に及び、先の系図を提出した。

信長はこれを詳しくご覧になり、取次の山本彦九郎に対し、忝くも直々に質問をされた。
山本は大変名誉なことと思い、最上側の主張を残らず申し上げた所、信長も委細を聞き分けられ、

「ならば、出羽国の守護は最上義光である。」

と仰られ、義光に対し返書を書き、ここに『最上出羽守』と記され、さらに引き出物まで
下された。その上召し連れてきていた下々まで庭上に召し出され、ご褒美を下された。

このような厚遇に、使者の志村九郎兵衛は深く有難く思い、信長からの返書を申し受けると
急いで本国へと帰国した。

義光は志村九郎兵衛の帰国を聞くとすぐさま召し寄せ、信長との会見の終始の様子を一々
聞き届けられ、大いに喜び、その他御前に詰めていた人々も、本望これに過ぎずと大いに
喜悦した。

そしてこれにより、最上義光は白鳥十郎を謀殺する計略を進めるのである。
(最上出羽守義光物語)

最上義光の使者、信長に対面する、という逸話である
0287人間七七四年2013/05/15(水) 07:51:39.62ID:PUAhtiC1
これを聞いて○○の□□というもの、我こそが出羽国のまことの主であると……
と続いていくと落語になりそうな
0288人間七七四年2013/05/15(水) 09:15:29.69ID:RcCk4CuQ
ヒゲ殿と白鳥十郎どうして差がついたのか…
最上と南部、ノブとラスボスの違い
0289人間七七四年2013/05/15(水) 14:38:03.48ID:T+SpSqWZ
中野一門の手明槍や足軽は、
御門番を勤めるときは内匠のもとへ挨拶し、
番明けにもまた挨拶に来た。
そうすると内匠は、
「御番の勤めは、つまらぬ仕事だという者もいるが、
目立たないからこそ大事な仕事なのだ。
御苦労だったな。まあ、飲んでいってくれ」
と言い、暑いときには冷酒を茶碗につぎ、
珍しい肴を出して労った。
そのとき、手足の爪の綺麗な者がいると、
「そのように手足を汚さずにいては、
平時も戦時も武家の仕事は出来ないぞ。
見かけも弱々しいが大丈夫か?
まあ、とりあえず飲め」
と注意をあたえた。
手足の荒れた者を見つけると、
「おお!頼もしい者だ。
男らしく働いてくれるならば、
平時も戦時もお役に立つであろう。
よし!飲んでくれ」
と褒めた。
内匠の家は、居間から通りを見渡せるように作り、
居間の横には蔵を設えてあり、
中野家を城にして戦が出来るようになっていた。
絶えず家内には酒樽が置いてあり、
中野一門の仕事をする者であれば、
身分問わず好き勝手に酒が飲めた。

内匠の息子の兵右衛門は年寄役を勤めていた。
お城から下がってくると、夜中でも挨拶に来た。
なので内匠も寝ずに待っていたという。
息子の話の中に殿中の話題がふと出ると、
「殿のお膝元で御奉公する者は、
たとえ親族にでも殿中のことを話さぬものだ」
と厳しく言い聞かせていたそうだ 【葉隠】
0290人間七七四年2013/05/15(水) 18:50:21.59ID:sB46zRyn
本多三弥(正重)は隠れ無き武勇強直の士である。本多美濃守の家臣で、後に蒲生氏郷に属した。

蒲生殿が筑紫の岩石の城を攻めなさった時、氏郷が貝を吹かれたところ、三弥は、
「腰抜けの吹きは鳴らぬものぞ」言い、貝を引き奪って、音高く吹いた。

帰陣の後、氏郷はこれを恨みに思い、ある時、三弥が禁所で鳥を撃ったことを口実にして、
三弥の屋敷を取り囲んで誅しようとした。

ちょうどその時、都筑惣左衛門という東照宮(家康)麾下の武士が通り合わせて理由を尋ねた。
しかじかと答えると、都筑は大知音なので槍一本を持って三弥宅へ駆け入った。

そして、攻める者が氏郷に注進して「この者もともに討ち取りますか」と言ったところ、
氏郷が「何があっても、二人ともに逃がすのだぞ」と命じたので、ついに命をまっとうしたのである。

この都筑は、顔つきが生まれつき猿に似た人だった。今、麾下にその子孫がいる。

――『老人雑話』
0291人間七七四年2013/05/15(水) 21:47:30.50ID:N/jQmoYI
長野業正は和歌や連歌が上手だった。

ある時、家臣の男が百姓の家から妻を娶った。
ある日のこと、この妻が髪を結んでいると庭を5,6尺ほどの蛇が這っている。
妻は夫である男を呼び、「見て、オウコ(肥桶を荷う棒)みたいな蛇よ」と叫んだ。
それを聞いた男は、このような下品な言葉を使う田舎者な妻と一緒にいると笑いものにされると、この妻を親元に帰した。
妻は去り際に「万葉の 歌の言の葉 なかりせば 思いのほかの 別れせまじ」(万葉集の歌の言葉さえ無ければ、
このような別れはなかっただろうに的な)と和歌を1首残していった。

男はそのわけがわからず、いろいろな人にそのことを話した。
それが業正の耳に入り、早速男は業正に呼ばれた。
そして男がその経緯を業正に説明したところ、業正はこう言った。。

「これは恥ずかしいことだ。『陸奥(みちのく)の 千引の石と わが恋を になわばオウコ 中や耐えなん』
と万葉集にも出ているように、オウコという言葉はけして下品な言葉ではない。それなのに下品な言葉を使ったとして
離縁したとあれば末代までの恥だ。早く仲人に頼んで呼び返すべきだ。」

そして男は業正の言葉通り妻を呼び戻して、復縁しましたとさ。

『名将言行録』より
0292人間七七四年2013/05/15(水) 21:50:26.19ID:HGl43v6v
>>291
流石は 在原業平の子孫
0293人間七七四年2013/05/15(水) 22:53:11.86ID:1GA0Oylg
百姓の出と言っても、いいとこのお嬢さんだったのかな
0294人間七七四年2013/05/15(水) 23:43:22.62ID:pXdybTPZ
金上盛備「メゴイと言ったら都の連中に嘲笑われましたが
     古の歌にも使われている言葉です」


太田道灌「雨が降ってきたので蓑を借りに民家に立ち寄ったら
     雨に濡れるよりも恥ずかしさで汗塗れでした」
0295人間七七四年2013/05/16(木) 08:21:47.42ID:XGQ9uYst
>>290
この都筑惣左衛門は都築秀綱かな?
子孫は大身旗本と本多(忠勝)家付家老だね
0296人間七七四年2013/05/16(木) 14:37:54.97ID:N7I0LoSI
私は宮城の人間なんだが>>286の白鳥十郎長久の書状が発見されたって話を、
震災前に宮城の河北新報のネット版記事で読んだ記憶があったなと思ったら、
その時の記事をPDFにして保存してた人がいたみたいだ。

悲運の戦国大名白鳥十郎長久 実在裏付ける書状 発見(20100307)
ttp://www.morobito.com/jyuro/jyu1_h22.pdf
0297人間七七四年2013/05/16(木) 20:24:12.92ID:oOjh39ia
徳川家康公がある時、このような事を仰った

「人が優れた発言をした時に、それを発言した人の前では良くない発言であるかのように言って、
その発言を取って人前で、自分の考えた言葉のようにして語るものが有る。

こういう人間は、穢れた者と呼ぶべきである。
意味を突き詰め、実を研鑽する人と、席を同じくして論じてはならない。

例え、かねてから自分の心に思っていた道理であったとしても、それを人が言った以上、
それは発言した人の名誉なのである。

また主君はそれを名誉として認め、用いるようにすれば、その人の賢良は日々に進み、
善のみを行うであろう。」

(武野燭談)
0298人間七七四年2013/05/16(木) 21:43:37.16ID:8bBTfSnQ
一豊の事ですね。分かります。
0299人間七七四年2013/05/16(木) 22:01:19.98ID:I/km091e
22歳のアイデアを盗用する55歳ェ……
0300人間七七四年2013/05/16(木) 22:05:04.41ID:VUgbty10
偉そうな事を言っておきながら、全く人を見る目がない権現さまの悪い話
0301人間七七四年2013/05/16(木) 22:09:20.04ID:pYPgzhgo
>>298-299
それについても100年後の話がソースだから、どこまで信用していいやら
0302人間七七四年2013/05/16(木) 22:16:36.05ID:I/km091e
新井白石のだっけ?
0303人間七七四年2013/05/17(金) 10:17:35.37ID:u3XJPXN6
後世作ったとしてもいつの世も人のアイディアとかパクろうとする奴は絶えんので仮託してみたってとこだろ

実際そういうのはどこにもいるしな
0304人間七七四年2013/05/17(金) 12:27:22.83ID:YHjMJwaY
パクりと仮託はベクトルがまるっきり逆だが
0305人間七七四年2013/05/17(金) 13:54:00.33ID:kROGa/BJ
柳生流と言えば無刀取り。
近頃は町人たちもその様に言う。
しかし無刀と言っても必ずしも、
相手の刀を素手にて奪う技ということではない。
こちらが刀を使えない時にでも、
他人に斬られないということこそが本意である。
相手は刀を持ち、こちらは素手だから、
相手の刀を奪ってやろうとするということではない。
相手が、素手の者に刀を奪われないぞとするところを、
そのままにし、刀をあえて奪わないのも無刀の技である。
刀をけして奪われはしないぞ!と意識する者は、
刀を奪われないことに意識が集中するゆえに、
人を斬ることに意識がいかなくなる、そういうものである。
柳生流は斬られないことをこそ勝ちと定義する。
素手で刀を取るなどは芸人の道理だ。
無刀取りとは、ただ自分が刀を使えないときに、
他人に斬られないようにする工夫のことである

【兵法家伝書】
0306人間七七四年2013/05/17(金) 14:54:10.96ID:MD13DrHo
「あら?そうなの?じゃあちょっとあーた本物の無刀取り見せてくださる?」
0307人間七七四年2013/05/17(金) 16:10:10.97ID:+AJA/1tj
>>304
パクリが多いので先人に仮託した教訓話を作ってみた、でなんかおかしいところあるか?
0308人間七七四年2013/05/17(金) 18:20:42.76ID:rAUJwgWy
堀直寄殿は人を遣う事が巧みで、人を取り立て慈しむことは世に超えていた。
このために好士が多く、この人に奉公した侍は諸大名が好んだので、大半は立身した。

ある老人が昔直寄に奉公していたので、さる者がその仕方を質問した。老人によれば、

「特別に人の遣い方が変わっていた覚えはない。ただし、直寄は万事につけて従者に
言い勝つことをよしとせず、下の言うことを立てる事をもっぱら好まれていた。
これが世上の人と違うところでありましょうか」とのことであった。

そのような心得なので、従う者も智を増して励んだというのは、もっともである。
主人が強いて位を増し恐れさせる時に、下々がどうして奉公を励むことだろうか。

――『責而者草』
0309人間七七四年2013/05/17(金) 20:57:21.33ID:Dj61ghSa
なんだか面倒くさい家臣を量産しそうでもあるが、そうはならなかったところが天下の名家老たる所以か
0310人間七七四年2013/05/17(金) 20:59:28.32ID:Dj61ghSa
いかん直寄は名家老の直政の息子の方か・・・
0311人間七七四年2013/05/18(土) 02:27:27.59ID:cLZecNzm
無刀とは、よく間積もりを心得るためのものなり。
敵と我が身との間がどれ程あれば、敵の太刀が当たらぬか、を知ることなり。
当たらぬ間積もりをよく知れば、敵の打つ太刀は畏れるものではない。
我が身に当たる時は当たる分別の働きがあるものなり。

無刀とは、敵の太刀が我が身に当たらぬ距離では取る事が叶わぬものなり。
敵の太刀が我が身に当たる所において取るべきものなり。
斬られて取るべし。

無刀とは、当流における専一の秘事とすることなり。
身構え、太刀構え、場の位、遠近、動き、働き、つけ、かけ、表裏(かけひき)
これ等はことごとく無刀の間積もりからでるものなり。
ゆえにこれ、簡要の眼なり。

柳生宗矩【兵法家伝書】
0312人間七七四年2013/05/18(土) 10:49:13.42ID:5SL6Wh/g
>>305は無刀之巻の前半部分の意訳で、
>>311は無刀之巻の後半部分の読み下しだな
0313人間七七四年2013/05/20(月) 13:23:17.00ID:fs0Twc3e
光茂さまが十四歳でお作りになられた歌がこれだ

さむき夜に 裸になりて 寝たならば
明くる朝は 凍え死ぬべし
(冷える夜に、裸で寝たなら、
次の日の朝には、凍え死んでいるだろう)

これが始めて作られた歌だと言い伝えられている。
一説では、多久美作守から、
「唐の山辺も紅葉しにけり」
という歌をお聞きになられてから、
和歌に熱心になられたとも伝わる 【葉隠】
0314人間七七四年2013/05/20(月) 13:34:15.53ID:fs0Twc3e
鍋島光茂は父の勝茂や家老からも、
和歌に没頭する癖を注意され続けたが、
努力を続け、後には細川幽斎に次ぐ、
日本史上、武家としては二人目の古今伝授者となった。
古今伝授の際に三条西家との交渉役となったのが、
誰あろう、山本常朝その人である
0315人間七七四年2013/05/20(月) 14:07:39.49ID:FBpMFycF
東常縁「えっ」
0316人間七七四年2013/05/20(月) 19:24:31.27ID:dnMQ90as
>さむき夜に 裸になりて 寝たならば 明くる朝は 凍え死ぬべし

才能無さ過ぎるだろ(´・ω・`)
0317人間七七四年2013/05/20(月) 20:05:56.66ID:Mg0CMXgc
藤堂高虎が羽柴秀長の家臣と成って間もなくの頃
丹波の国人達が所々で一揆を起こし、立て籠もるという事があった。

この時、「大屋」という地点は一揆勢が出撃する際の通過地点に当たる、重要な地域であったため、
秀長は藤堂高虎に鉄砲の者を付けて、ここを防衛させた。

こう言った状況で、宇塚尾白という場所に一揆勢が押し出してきた。
高虎はわずかの手勢で終日これと戦い、数ヶ所にわたって負傷したが、それでも終に打ち破り、
特に一揆の大将の一人である、富安という者を討ち取った。

その後、一揆勢は横伊喜という場所に山籠りし、要害を構え小屋掛けをした。

藤堂高虎は深夜、これに密かに忍び込んだ。
所がこの気配に内から気付かれ、敵兵に板の垣越しに鑓で突かれてしまった!

しかし高虎、冷静に、自分に突き刺さった鑓を羽織で拭った。
アクション時代劇などで天井に忍んで鑓で突かれた忍者がたまにやるアレである。

敵兵は鑓に血が付いてないのを見て、さては先ほどの気配は人ではなかったのかと油断し、
兵を呼び出すことをしなかった。

こうして危機一髪のところを助かった高虎であったが、敵から傷を被ったまま戻るのも
非常に残念多いことだと考えた。そして「火が出た!火事であるぞ、出会え出会え!」と叫ぶ。
このため端々から驚いた敵兵がゾロゾロ出てきた。結局自分で呼び出すのかよ。

そこを襲いかかり自身で一人討ち取り、またこの時共をしていた居相孫作も一人討ち取り、
そうして自陣へと帰った。

それまで高虎の知行は三百石であったが、この但馬の一揆が平定された後、一挙に
三千石が加増され、合計三千三百石と成ったのである。
(藤堂家覺書)

それにしても高虎さん、敵の基地に忍び込んで鑓で突かれる負傷をしながらこの大暴れ。
素でアクション映画の主人公みたいな人である。
0318人間七七四年2013/05/20(月) 20:15:55.29ID:V6ns/YWh
一気に三千石加増ってすごいもんだな
0319人間七七四年2013/05/20(月) 20:27:15.63ID:kaCLPvV8
人並み外れた巨体でよく忍び込めるよなあ
0320人間七七四年2013/05/20(月) 20:34:18.06ID:HGFZ4pVY
いや、気付かれてるじゃんw
0321人間七七四年2013/05/20(月) 21:37:43.93ID:FBpMFycF
一揆勢はランボーに襲われたようなもんだな
0322人間七七四年2013/05/20(月) 23:24:02.73ID:vQNRgNm7
当時の平均身長と高虎の体格で考えると、「そんなでかいババァ、じゃなくて間者がいるか」って状態だろうな。
いきなり目の前にラオウがたってる状態。
0323人間七七四年2013/05/21(火) 09:24:45.58ID:G3YpY67V
こいつ絶対ニンジャだろ・・・
0324人間七七四年2013/05/21(火) 10:18:21.69ID:6Wm7rRKu
>結局自分で呼び出すのかよ

「敵だ!」と叫ばれて武器持って出て来られるのと
「火事だ!」と叫んで裸同然で出て来られるのでは
とんでもなく違いますがな。
0325人間七七四年2013/05/21(火) 18:29:41.87ID:i86wmNCt
史実版「げぇ━っ、関羽!!!」だと聞いて
0326人間七七四年2013/05/22(水) 05:05:25.83ID:YXi0xOw8
近江国東浅井郡脇坂野の国人、脇坂安明の息子であった脇坂安治は、浅井長政、明智光秀と仕え、
永禄12年(1569)、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。この時脇坂安治、16歳であった。

翌元亀元年、秀吉は浅井の小谷城の押さえとして、横山の城に逗留していたが、摂津に一揆が勃発したとの
報告があり、近江から陸路、勢多を回り、京へと急行した。しかしこの時、児小姓や若者は長浜に
残し置くと秀吉は命じた。

17歳の安治も留守居とされたが、彼は秀吉に召し連れられないことを大変無念に思い、お供させて
頂けるよう訴え出ようと考えていた所、秀吉の御膳船を長浜から直に大津に回すと聞いて、密かに
その船に乗り込み、籠を担いでその中に隠れていると、船奉行たちは彼に気が付かず、船はその日のうちに
大津へと着いた。

安治は船から走り出て松本のあたりまで行くと、道の傍に伺候して、秀吉の馬が来るのを待った。

やがて来た秀吉は、馬上から脇坂安治に気がつくと大変に激怒した
「我が命に背いてこの様にここまで来たことは、以ての外の曲事である!」

平伏する安治に、
「…しかし、若輩でありながら志を持っていることに感じ入った。仕方がないので
今夜は側で召使うが、夜が明ければまた船で長浜に帰るのだ。」
そう命じた。

安治はこれに「畏まりました」と答えたが、その夜、大津を忍び出て京都に馳せ上り、
三条の橋の傍で夜を明かし、また道の傍に伺候して秀吉の御馬を待った。

ここまで来た秀吉は安治を見て
「我が命を重ねて聞かず、こんな所まで来るとは、重大なる曲事である!」と、やはり激怒したが、
「しかしそれほどまで、深き志を持っておるのだな」と感じ入り、それから乗り換え用の馬を
安治に貸し与え、お伴することを許したとのことである。
(脇坂家傳記)
0327人間七七四年2013/05/22(水) 07:26:48.64ID:ZYdRhicC
ストーカーやん
0328人間七七四年2013/05/22(水) 10:12:45.59ID:4jeW38s4
>319、出羽のシスコンさんが興味を持ちそうだなw
0329人間七七四年2013/05/22(水) 21:15:13.11ID:xP92OfjL
「あたし、やすはる。いま船の中にいるの…」

「あたし、やすはる。いま松本にいるの…」

「あたし、やすはる。いま京都にいるの…」

「あたし、やすはる。いま三条の橋の傍にいるの…」

「あたし、やすはる。いまあなたの後ろににいるの…」
0330人間七七四年2013/05/22(水) 22:32:42.03ID:cmYmasHT
また出たと、秀吉びっくり、貂の皮
0331人間七七四年2013/05/22(水) 23:59:56.49ID:SZccgyFS
そうか。マイ先祖はストーカーキャラだったのかorz
0332人間七七四年2013/05/23(木) 00:08:11.44ID:WeR9a0K7
脇坂家はすぐに堀田に変わったのでは
0333人間七七四年2013/05/23(木) 13:25:12.28ID:iR7EMgCU
>>326
ここにでる長浜って横山城近くにあったのかな?
まさか今のじゃないよね?
0334人間七七四年2013/05/23(木) 20:50:01.23ID:Mnno51pM
慶長五年六月、家康公が関東へ出陣したのち輝元並びに奉行衆が
逆心の沙汰に及んだ。
その頃、黒田如水は家康公の無二の味方であり豊前中津に在城し
九州の事をとりしきっていた。

祐兵は西軍に取り込まれていたが東軍に属していた証を残して
おきたかったので、如水の指図を得て届を出しておこうと考え
如水に使札を出した。

如水の返答は「祐兵が味方したいと考えても小身であり上方に
居ては思ったように働けないだろう。急ぎ帰国して敵に向かって
攻めかけてはどうか」と申しこされた。

しかし祐兵は病にかかっており、病状は日を追って悪化し風毒腫
となり病臥していた。(仮病ではなく同年10月11日に病死)

祐兵の帰国は困難であったから、留守居の家老へ申し遣わして
敵に攻めかけるようにしようと考え、検使を一人受け入れたい
との旨を稲津又次郎に申し含めて如水への使者に立てた。

如水翁は「検使を遣わすのは容易いことだが、父子ともに大坂に
いたままでは家康公のお味方と言っても、今後疑義を受けることも
あるだろう。父子三人は帰国しなさいとの旨を、急ぎ大坂に戻って
祐兵へ申し入れなさい」と仰せられた。

又次郎は「もっともなお話ですが、私は国許に戻り軍を調えて
御味方である事を表明しなさいと堅く祐兵から申しつけられて
おりますので、ただちに国許へ罷り戻りたいのです」と申し上げた。

如水は「伊東の家が続くように謀ることこそが大切だ。私の考えに
従って大坂へ帰りなさい」と強く仰せになった、

又次郎は「それならば検使を一人たまわり、それがしの手の者を
添えて日向へ下して関東お味方の由を知らせたい」と申し入れたので
如水は宮川伴左衛門尉と言う侍を検使に出された。

又次郎は喜んで手の者一人を差し添えて日向へと遣わし、自身は
大坂へ立ち戻り如水翁の仰せられた旨を祐兵に報告した。

そして嫡男である左京亮(伊東祐慶)が十二歳になられていたが、
これを日向へ下す事に決めた。

このとき落合九右衛門尉が「祐兵の病は日々悪化しているが、もし
御存命のうちに、この事が漏れれば奉行方より討手を向けられるだろう。
その時は御自害をお勧めし、私は老人なので死出三途のお供こそ相応しい。
あなたは若いので左京亮殿にお供してなにがなんでも日向へ降り、
本懐を遂げられよ」と又次郎に言った。

左京亮を又次郎の小姓であるかのように装わせ、輝元の船手衆が固めていた
番所も軍勢を呼びに国許へ帰るのですと披露して遁れ日向に戻った。

(日向記)

如水さんが伊東祐兵に適切なアドバイスを送る話。
0335人間七七四年2013/05/23(木) 21:49:20.21ID:Mnno51pM
当主祐兵の大病により、再三にわたる奉行方からの出陣催促を免れて
きた伊東家であったが、京極高次が大津城に立て籠もったことで再び
危機を迎えた。

毛利輝元、増田長盛らは大坂にあって相談し大津城を攻める事にした。
在大坂の大名小名は残らずに出陣させることになったが、軍勢は少なく
立花宗茂、毛利元康に大坂七組の衆を加えて大津城に差し向けた。

この為、祐兵が病気であるなら家来を差し出すよう催促頻りであったので
祐兵は伊東与兵衛、平賀喜左衛門を呼び

「私は関東の味方をするが敵中にいる状態で拒めば逆心なりと討ち果た
されるのは必定だろう。一段の害を遁れる為にそなたらに弓鉄砲を添えて
大津へ遣わすが、まったく奉行の味方ではないので心せよ」
と言われた。

両人は畏まって御前を退出したが、伊東与兵衛が平賀に向かって「功を
立てるべき戦ではなく、敵に寝返りを悟られれば主君の大事ともなる。
我らは討死してみせるより他はない」と言い、平賀も「そうですな」と答えた。

伊東与兵衛は秘蔵していた刀に小袖を添えて寺門に至り後生を菩薩に頼んで
大津へと赴いた。

伊東勢は立花宗茂の手に属し仕寄をつけた。もとより討死と思い定めた
者どもであったから、立花家のものよりも前に出て進んだので、宗茂も
心のうちを知ることも無く「伊東殿はよき侍をもっておられる」と言い、
たびたび褒美があった。

九月十一日の城攻めで伊東与兵衛は前後を顧みずに、真っ先に進んで
乗り入れようとしたところを城兵の槍七八本を突きたてられ、平賀も
続いて討死したので祐兵は急難を遁れた。

そして濃州関ヶ原において九月十五日に家康公は勝利を得られ
祐兵に別心なき事を聞き届けられた。

(日向記)

伊東祐兵、二士を捨て害を免れる事と題された話
0336人間七七四年2013/05/24(金) 00:12:19.07ID:Ggzcewb1
慶長二十年閏六月、喜連川頼氏は上京して徳川家康に拝謁した。

頼氏が退出しようとする時、家康は御座から立ち上がり、頼氏は御送礼を受けた。
これは頼氏が室町将軍家の支族で鎌倉幕府の末裔なので、その筋目を重んじての事だった。

徳川秀忠の時代より後は御送礼の儀は停められたという。

――『徳川実紀(駿府政事録)』
0337人間七七四年2013/05/24(金) 00:14:23.48ID:BhoaUw4r
>>336
鎌倉府じゃないかな
0338人間七七四年2013/05/24(金) 00:28:13.66ID:OzcH20ZZ
男系では小弓御所の末裔だし価値なし
0339人間七七四年2013/05/24(金) 00:34:14.85ID:Bw6khoQu
一万石に満たないのに大名扱いだから
江戸時代通して価値あると見られてたんでは
0340人間七七四年2013/05/24(金) 01:00:28.64ID:N9Zz2Cb5
足利将軍家最近親たる平島公方家の冷遇されっぷりを見ると
反徳川勢力の旗印として担ぐには不足だが利用価値はある血筋の微妙さが喜連川厚遇の理由かと
0341人間七七四年2013/05/24(金) 10:33:59.95ID:9VBw2bEs
確かに平島家なんか厚遇したら「わしが征夷大将軍だ!」なんて
うっとうしい事を言い出しそうだな。
0342人間七七四年2013/05/24(金) 11:21:34.86ID:+qovmhjL
>>341
それは冷遇しても言い出す可能性あるから名門の扱いは難しい。
そういう戦略や秩序維持の目的だけではなく、
名門への遠慮や敬意って部分もあるとは思うけど
0343人間七七四年2013/05/24(金) 13:34:50.65ID:azAGZ2bs
蹴鞠の人はもはやそういうことはないけどこう頻繁に遊びに来られると別の意味でうっとうしい
0344人間七七四年2013/05/24(金) 13:45:50.32ID:Ju0ZH8Vp
うっとうしがられるほど遊びに行ってないと危険視されるかもと思って…たわけないか
0345人間七七四年2013/05/25(土) 08:10:35.46ID:++3Iv3+U
伊東祐兵逝去と祐慶家督の事

豊後守祐兵の病はついに治らず、慶長五年十月十一日に
御年四十二歳にして大坂で逝去された。

しかし嫡男祐慶は未だ幼年であり日向に下って合戦を
仕掛けている最中でもあり祐兵逝去が露見すれば、
その威が軽くなり功も成り難いと考え、落合九右衛門、
山縣太郎右衛門、看病の者には山田紀伊介入道玄清など
わずか数名で秘密にし病中の真似をして、日向宮崎の
様子を聞き届けていた。

翌年春の終わり頃にご逝去の旨を披露して御葬礼を営んだ。
法名は報恩寺殿心関宗安大禅定門と申し、当家中興の明君
なれば、上下万民が嘆き悲しむこと事限りなかった。

高橋越中守は殉死しようと思い定めていたが、祐慶が幼年で
あるため、しばらく守り立て七回忌の際に殉死を遂げた。

嫡男左京亮祐慶は十三歳で家督を相続して、慶長六年四月八日
に上洛して家康公に謁見し、翌年四月十日に従五位下修理大夫
に任ぜられた。

(日向記)

激動の時期に若年の当主への相続を成し遂げた伊東家のお話
0346人間七七四年2013/05/25(土) 20:25:30.11ID:WefcJGVz
慶長5年9月14日、関ヶ原前夜の事である。

その未明に、細川忠興の軍勢は、陣屋の外から東軍の諸隊が陣替えを行なっている様子が見え、
これを忠興に報告した所、「どういう事かよく解らない」と述べた所、隼人左馬充殿が御前に上がり
「諸隊は色めき立っております」と報告した。

この時福島正則より、『急ぎこちらにお出で下さい』との遣いが到着し、忠興はそのまま出て行った。
残った家臣たちはこの事を玄蕃殿(忠興弟・細川興元)にも知らせ、そうして何れも陣屋の
小屋の前に出て忠興が帰るのを待った。

すると北の方より、馬に乗り「玄蕃!玄蕃!」と声高に呼びながら、忠興が帰ってきた。
そして小屋前まで乗り付けると、小屋前に居た人々はそのまま立っていた。
ここで忠興は玄蕃に、正則の陣でのことを語った

「太夫殿(正則)の陣所に乗り付けと、太夫殿は手で私を招いた。そこで『こんな時に騒いでは、
下々の気が違う物ですぞ!』と大声で言ったのだが、太夫殿が言われたのは

『吉川(広家)の所から黒田(長政)の所に申越した所によると、昨日は毛利は、東軍の
お味方をすると言ったのであるが、今夜になって治部少輔(三成)が大垣から関ヶ原へと廻り、
色々と仕掛けたため、昨日の状態ならお味方できたのだが、今の状況では、敵対はしないまでも、
御見方も出来ない、』

と言うことであった。」

そして忠興は

「話はこれで済んだ。仕掛けてきた合戦は、ただ受け取るのみである!
急ぎ小屋の前に軍勢を集結させよ!」

そう玄蕃に命じ、また先手の軍勢も、あらかじめ垂井の宿の方に進出させていたため、
忠興はそこから戻らせ、軍勢を伊吹山に続く山際まで移動させ、また黒田長政の備に乗り付けられ、
合戦が始まるまでは、左馬殿(加藤嘉明)、出雲殿(金森可重)、黒田殿(長政)、そして
細川忠興が一所にて、敵味方の状況を観察したとの事である。
(細川忠興軍功記)
0347人間七七四年2013/05/26(日) 19:39:22.77ID:5Oi8POlq
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2048.html
検索したらすでにあったが俺が知ってる話ではちょっと細部が違っていてこんな感じだった

蒲生氏郷の家臣に西村という者がいた
この西村は戦の時に勇敢でいつも一番槍をつけるので人が褒め称えると
「俺を褒めるな。氏郷さまのように俺を理解してくれる人がいるから俺が安心して働けるんだ」
と言って逆に氏郷をもちあげていた

ある合戦の時に秀吉が「これからは一番槍を禁じる。みなで連携して戦をするように」
と命じていたが西村はそれを無視して一本槍をつけると秀吉が怒って氏郷に処分をさせるように命じた
氏郷は自分の為に勇敢に戦ってくれている西村を処分するのに忍びなかったが西村を解雇処分にした
西村は恨み事ひとつも言わずに黙って立ち去った

年日がすぎて西村を呼び戻し、氏郷が一緒に相撲を取ろうと誘うと再三、西村は氏郷を投げ倒した
近くの人が「再就職したいならわざと負けろ」と忠告したが構わず放り投げる
氏郷は「年月が経っているのにさすがに未だに体の衰えがないな」と言うと
西村は「私はつねに殿のことを考え、いつでもお役に立てるように用意しておりました」と言った

氏郷は西村が浪人生活の間に気力が衰えて媚を売るようなことがあれば再び自分の元には置かなかっただろう

こんな感じ
0348人間七七四年2013/05/26(日) 20:50:30.38ID:lFG5zsHQ
>>347
空気読めない悪い話にもなりかねないけど、
空気読む人間は所属する家の衰退も、
敏感に察知できるってことだから、
西村さんの一途タイプは戦乱期に頼もしいだろうな
0349人間七七四年2013/05/27(月) 01:08:55.28ID:taYDyabt
つい最近会津若松に行ってきたので貼っておく
若松は生まれ故郷にちなんだ名前なんだよね

http://uproda.2ch-library.com/667833ZgV/lib667833.jpg
http://uproda.2ch-library.com/667836Bxy/lib667836.jpg

ちなみに、同寺には紀子様の先祖の会津藩士の墓もある
0350人間七七四年2013/05/27(月) 01:21:37.78ID:SSlHN4FS
蒲生氏郷の家臣に蒲生という者がいた。
この蒲生は戦の時に勇敢で功を挙げ、蒲生の姓と郷の字を賜った。
0351人間七七四年2013/05/27(月) 02:06:26.13ID:lLItYNuO
どの量産型蒲生だよ
0352人間七七四年2013/05/27(月) 09:21:18.23ID:q4RGpC9u
河崎駿河守は祐兵の外祖父にあたり、彼の肝煎により日向流浪以来
天正九年までの四年間、大峰修行の護摩を焼いていた。

その時の山伏は三峰と言う人で、生国は越前だったが心ならずも日向に
下国し数年の間、入道殿(義祐)の扶持を受けて在国していた。
三峰は流浪にも同行し、彼は山伏としての働きで歳月を送っていた。

天正九年、三峰は上洛した際に播州姫路はさる天正五年に信長公より
羽柴筑前守秀吉が拝領し、五年にも及ぶ普請でとても賑わっていると
伝え聞き、これを見物しようと立ち寄った。

そこで偶然出会った人物に「御僧は何処の人ですか」と尋ねれたので
「九州日向の者です」と答えた所、「それならば仔細を尋ねたい事が
あるので、こちらにおいでください」と言われた。

三峰はいったいなんだろうと思ったが辞退する訳にもいかず伺候した。
彼は「日向の伊東殿は浪人されたと聞きました。また伊東の東は藤
と言う字でしょうか?」と問われたので、三峰は「伊東の東は字は
ひがしと言う字でございます。島津に国を奪われ四国河野殿の領内で
蟄居しております」申し上げた。

掃部助は「それならば私と祖を同じくする一家です、羽柴殿にお仕え
したいのであれば、若くあられるようだし随分と取成し致しましょう。
私は伊東掃部助と言うものです」と仰せられた。

三峰は「ありがたい話です。急ぎ下国して、この旨を申し上げ早速上洛
するようにして頂きます。その際にはお取り成しの程を頼み入ります」
と申し上げ、急いで伊予に下国した。

この旨をありのままに言上したが、伊予道後は人の心根も良い国で
あれば名残惜しく、大内殿の情も振り捨てがたいとぐずぐずしている間
に月日が経って行った。

三峰は歯噛みしてぜひとも播州へ急がれるべきですとしきりに言上した
ので翌天正十年正月になってようやく、全員が小舟に乗って伊予道後を
後にして播州へと渡海した。

掃部助は即座に秀吉公に祐兵を推挙したが、当時は蔵米が不足しており
新たに浪人を召し抱えるのは難しいとの御意であった。

掃部助は祐兵は器量の優れた若武者であるから、秀吉公にお目に掛かり
さえすれば召し抱えられるはずだと考え、御通路に祐兵を置かれた。

案の定秀吉公がご覧になられ、何者かと尋ねられたので「日向の伊東で
ございます」と言上したところ「器量たくましき勇士である、扶持を
与えよう」と仰せられ、30人扶持を下された。

祐兵はその時までは六郎五郎と称していたが、掃部助が「それは
よろしくないでしょう民部大輔と名乗られては如何」と勧めたので以後は
民部大輔と名乗ることにした。

(日向記)

祐兵、秀吉公に仕える
0353人間七七四年2013/05/27(月) 09:38:31.50ID:q4RGpC9u
>>352 の続きの話

伊東掃部助は入道殿(伊東義祐)も秀吉公にお目見えされるのが宜しいで
しょうと申された。

しかし入道殿は「元は日向の太守にして代々藤家の名家である。その上
すでに三品に叙し、歳も七旬を越えようとしている。たとえ流浪の身で
あると言えどもなんの面目があって羽柴藤吉ごときに追従できるだろうか。
但し子孫再興の為なので祐兵は別だ」と申され、遂に謁見されなかった。

(日向記)

三位入道、面目の為に秀吉との謁見を断る
0354人間七七四年2013/05/27(月) 12:50:56.35ID:F/21qvt6
まあ、自分はプライドを取って、息子には実を取らせるってことで両面通した話だな>義祐さん
まあその後野垂れ死にに近い状態になったから体調が悪い状態で会うわけにもいかなかった、って部分もあるんかねえ
0355人間七七四年2013/05/27(月) 13:52:37.96ID:RvMipcHU
これは日向伊東氏の良い話っていうより伊東長実の良い話だと思うんだけど、
話の流れには諸説あるよね
三峯側が長実を頼っていったとか
0356人間七七四年2013/05/27(月) 14:43:19.82ID:q4RGpC9u
>>355
たしかに伊東掃部助の良い話って感じですね。
ただ掃部助が長実かどうかは官途からして微妙な気がします。
0357人間七七四年2013/05/27(月) 16:37:58.12ID:XFfsTUPl
去年の年末頃に蒲生家臣だった先祖の話を書きこんだ者です。
あの後いろいろ調べてみました。

実は松坂に遠い親戚と言うか昔から付き合いのある家があり、苗字も同じなので少々話を聞かせてもらってきました。
その家も元は氏郷公に仕えていてうちの親戚だそうですが会津移封以前に商人に転向したそうです。
江戸時代に交流はあまりなかったそうですが戊辰戦争終結直後、その松坂の親戚がこちらを心配して連絡を取ったことから交流が復活、太平洋戦争時には逆に松坂の親戚を疎開させたそうです。
これといった特別な話はありませんがせっかくなので少し。

蒲生家に仕える前の話ですが、所謂地侍であったそうです。
いつも特定の家に仕えている訳ではなくそのときによってころころ勢力を変えていたとか。
時にはあえて親兄弟が別れるというプチ真田家のようなこともしていたようです。
規模は全く違いますが割とよくある手段だったのかもしれません。

それからあまり戦国関係ありませんが曾祖父の訛りがやや変わっていました。
私の実家近辺は大河ドラマの会津弁をやや乱暴にした訛りなのですが、なんというか西の方のイントネーション寄りだったように思います。
偶然当時のビデオが残っていたので聞いてみたのですが、今聞いてみても会津弁とはどことなく違っているようです。
私自身、喋っているのは標準語寄りの会津弁のつもりなのですが地元の友達からはちょっと違うように聞こえるとのこと。

そういや工場長のお墓に毎年お参りに行ってたなーとか今考えると色々あったりします。
何か分かったらまた来るかもしれませんのでその時はよろしくお願いします。
0358人間七七四年2013/05/28(火) 12:09:24.64ID:NL44dUxg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原に敗れた石田治部少輔(三成)は伊吹山に退き隠れていた所を、
田中越前守(吉政)の家臣に捕らえられた。
小西摂津守(行長)、安国寺恵瓊も方々にて捕らえられ、3人共に洛中を引き回すということになった。

この時太夫殿(福島正則)はこの3人に小袖を2つ贈った。
正則の厚志に、中でも石田三成は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、着衣を着替え
正則の贈った小袖を着て洛中を引き回され、三条河原にて斬首された、とのことである。
(福島太夫殿御事)
0359人間七七四年2013/05/28(火) 17:52:34.35ID:TlJeSdSw
侍だな
0360人間七七四年2013/05/28(火) 17:55:19.11ID:NL44dUxg
>>358
あ、少し書き間違えましたすいません。4行目

×この3人に小袖を2つ贈った
○この3人に小袖を2つづつ贈った
0361人間七七四年2013/05/29(水) 10:05:45.23ID:17RD7LED
この話既出じゃね?
0362人間七七四年2013/05/29(水) 10:15:02.35ID:1Cbsdpkf
三成「家康、田中吉政、黒田長政、福島正則、みんなが服くれるの、でもこんなにたくさん着れないの」
0363人間七七四年2013/05/29(水) 10:19:31.52ID:+uk4+4+v
お色直しタイムが必要だな
0364人間七七四年2013/05/29(水) 11:12:31.22ID:GL+Xoqqs
引き回し中にお色直しとな
0365人間七七四年2013/05/29(水) 11:15:17.25ID:gcBK2x6w
三成それ白無垢やない白装束や
0366人間七七四年2013/05/29(水) 12:34:35.54ID:sFq67Zj3
続きまして、頸部入刀です
0367人間七七四年2013/05/29(水) 12:42:38.81ID:OiSrvu48
三歳さまが手本を見せるようです
0368人間七七四年2013/05/29(水) 13:43:27.56ID:GL+Xoqqs
三歳様は福知山城へおいでですので、他の方におまかせするしか
0369人間七七四年2013/05/29(水) 14:44:43.17ID:GL+Xoqqs
義益様が御早世されて以来、永禄十二年より天正五年までの前後九年間。
慶龍丸(伊東義賢)御若年ゆえ祖父三位入道殿(伊東義祐)が後見していた。

天正五年八月、六郎義賢が十一歳の時に公方義昭公へ御太刀を進上。
これにより御書を頂戴し家督の祝儀として左京亮に任じられた。

九月十六日、八幡御神事の時には前代よりの吉例に任せて騎馬にて御社参。
御陣代は祖父入道が勤められた。

九月二十八日の夜より怪星が西南の方角に現れ、十一月に入るまで止まず。
その光は闇の夜も月夜の如く照らし四十日間も続いた。

(日向記)

日向記では「義賢様家督の事」と言うタイトルなのだが、注目すべきは
どちらかと言うと怪星の方なのだ。

この怪星はむろん死兆星…ではなくて、絶対等級?1.8等と言われる大彗星。
甫庵信長記の松永弾正謀反のところでも触れられている。

西洋ではティコ・ブラーエがこの大彗星の観測結果から、現象が月よりも
遠方で起きていることを証明し旧来の天動説を覆す重要な証拠となった。
0370人間七七四年2013/05/29(水) 15:13:26.75ID:GL+Xoqqs
>>369
文字化けすまぬ。絶対等級-1.8等でした。
0371人間七七四年2013/05/29(水) 21:07:45.85ID:+2HHqZSd
40日間ってすげーな。
0372人間七七四年2013/05/30(木) 01:09:56.82ID:f0yYgYYI
>>358>>360
太夫殿ではなく越中守殿であれば初めの書き方で間違いないはずだ
「三将二桃」の故事があるからな
0373人間七七四年2013/05/30(木) 06:18:53.27ID:NLkeaN4h
米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

先年、米良美濃守(矩重)は当家の恩を忘れ、領する所の三ツ山、
須木の地を島津兵庫頭(義弘)に捧げて背いた。

これが伊東家没落の始まりとなり、ことに天正五年に島津義久が
日向へ出陣した時には先鋒を命じられ、一番に乗り入れた事で本領
を安堵され義久の幕下となっていた。

しかし美濃守は一時の恨みで数代の主君を裏切った事が心の重荷と
なり日夜苦しみつづけていたが、天正十五年の九州征伐後に祐兵が
飫肥の領主として復帰する事を知った。

美濃守は生きて日々を不快に過ごすよりも、帰参して先非を懺悔
してから殺された方が良いと考え、密かに薩摩を立ち退き祐兵の
前でその旨を述べた。

敵ともなり味方ともなるのは勇士の習いでもあるが、かの美濃守の
反逆は随一のもので、特に島津の先鋒となり国を乱したものである
から死罪にするのが当然であろうと誰もが考えていた。

しかし祐兵は先非を悔い死をもって詫びようと言うのは奇特である
として御感浅からず、その罪を許してすぐさま知行を与えた。

米良美濃守は、祐兵逝去の後も修理大夫祐慶に仕えて清武の地の
地頭に任じられたが程なく病を得て亡くなった。

末期の際に嫡子勘之助に「私が先非を悔い当家へ戻った時、その罪
を許しあまつさえ深く情けをかけていただいたので面目を保つこと
が出来た。祐兵様が逝去なされた時には報恩の為に殉死しようと
思っていたが、世は静かならずして祐慶様も幼年であられたので、
死をもって忠功を果たす機会も別にあるだろうと止めていたところ、
更に当地の地頭まで任され、その厚恩ははなはだしい。汝は祐慶様
に忠節を遂げ殉死の約束をして欲しい」と言い残した。

これにより祐慶逝去の際に勘之助は殉死を遂げた。

(日向記)

一度は謀反までした米良美濃守が前非を悔いて忠節を尽くす話

米良美濃守が伊東家に背いた話しは下記を参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7574.html
0374人間七七四年2013/05/30(木) 18:34:39.07ID:REgp+8SU
当州の野民村翁の伝話によると(田中)吉政は筑後入国の時、自ら扇を開き、
「一石取った兵部が一国取った。見さいな」と言って舞ったのだという。

よって、元足軽であることは明らかである。

――『筑後国史 筑後将士軍談』
0375人間七七四年2013/05/30(木) 20:35:43.78ID:CulmnOIK
私(山本常朝)が若いころ、
沢辺平左衛門の介錯をしたときの話だ。
中野数馬が私の介錯を褒める手紙を送ってきた。
それは、
「山本殿こそが中野一門の誉れである」
などと言う大げさな書面のものだった。
敵首ならまだしも、介錯くらいのことで、
ここまで褒めるとは、老人とは大げさなものだ。
と、その時は思っていたのだが、
しかし、その後、いろいろ経験して、
深くみるようになると、
それが、いかにも老練な人の行いだとわかるようになった。
若い者に対しては、ほんの少しでも武士らしい行いがあれば、
褒めて喜ばせ、勇往邁進するようしてやるためなのである。
中野将監からも、そのときすぐに褒める手紙が届いた。
二通の手紙は今でも保管してある。
山本五郎左衛門からは鞍と鐙が贈られてきた 【葉隠】
0376人間七七四年2013/05/30(木) 23:37:41.43ID:h4aiswuR
これ葉隠全部書き写すまでやる気?
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