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戦国ちょっといい話37

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0001人間七七四年2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0230人間七七四年2013/05/08(水) 22:30:47.20ID:qR8O890g
>>229
なんで投稿する前に確認しないの?
できないの?
する気がないの?
する能力がないの?
0231人間七七四年2013/05/08(水) 22:38:06.51ID:gZ3yoD8a
>>230みたいなお客様意識だけは満開の人間にはなりたくないね
0232人間七七四年2013/05/08(水) 22:45:57.27ID:UilRIF9g
>>230
なんでお前が偉そうなんだよw
0233人間七七四年2013/05/08(水) 23:59:24.49ID:97/v4Lob
>>230 がフルボッコでワロタw
0234人間七七四年2013/05/09(木) 01:17:28.21ID:Bw6eNhzJ
それで金とってるわけでもなし、誤字くらい気にすることか
0235人間七七四年2013/05/09(木) 06:32:57.24ID:6mHml9+f
上杉謙信が武田信玄との合戦の時、謙信は自陣を超えて突出した。
ところが川向うの信玄の備を見て、戦うこと無く引き返した。
その信玄の備は、一の手が若武者によって、二の手が老巧の者達によって
作られ、川に向かっていた。

謙信が引き下がったのはこの備の構成が

「一の手の若武者を用いる時は、二の手の老巧の者達に恥を見せぬよう
一層尽力する。また二の手の老武者たちも、若者に劣ってはならぬと、
互いに競争して働くためである。」

との理由からであった。
(紀伊國物語)
0236人間七七四年2013/05/09(木) 08:30:45.58ID:h9hVhWtf
つまり隙がなかったということか
0237人間七七四年2013/05/09(木) 10:36:56.26ID:lwJghpaT
謙信「信玄? 強いよね、序盤中盤終盤隙がないと思うよ、だけど俺ぁ負けないよ、
兵だ…兵たちが躍動するオレの合戦を皆さんに見てもらいたいね」
0238人間七七四年2013/05/09(木) 12:50:30.50ID:FivVzY7W
古代ローマ軍団も前から若手、中堅、ベテランの構成
0239人間七七四年2013/05/09(木) 13:14:04.61ID:+d9AMszk
>>238
古今兵法の常道ってことか
0240人間七七四年2013/05/09(木) 13:22:26.59ID:+d9AMszk
デイリーポータルで塙団右衛門のご子孫の自宅拝見レポートを見つけた↓
『おじいちゃんちが国指定重要文化財』

団右衛門の子孫が製鉄で成功していたのも意外だったが…
まさか現当主のお孫さんがデイリーポータルのライターさんだったとはw
0241人間七七四年2013/05/10(金) 15:13:02.99ID:9ORzefhI
>>230
みたいに誤字をあげつらう奴もいるけど、既出の指摘ももっと柔らかくしてほしい
0242人間七七四年2013/05/10(金) 20:48:31.21ID:w60nnMZO
>>241
参照性上げるためのタグだと思って、まぁあんまキニスンナ
0243人間七七四年2013/05/10(金) 21:15:12.96ID:lGmqy69l
戦国板ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
0244人間七七四年2013/05/10(金) 21:20:29.21ID:R0QiUwUc
吉野家コピペなんて、何年前のネタだ
0245人間七七四年2013/05/10(金) 21:30:37.41ID:+w/xDqSI
十年以上前だな
0246人間七七四年2013/05/10(金) 21:37:31.40ID:EbLUFYri
戦国時代まで遡れないから、スレチだな
0247人間七七四年2013/05/11(土) 01:56:42.53ID:040ewWhl
苗木城の戦い

遠山友忠は言った。
まとめサイト「美濃苗木城主、遠山友忠は悩んでいた。」
で森武蔵がキレているから、近々また来るだろう…

案の定、兵5000与騎にて攻め込んで着ると聞こえて来ました。
時は天正11年5月10日。

鬼武蔵は軍議にて5000与騎を二手に別けた。

「また狙撃されるの嫌だから、俺大手側な、見通しいいし。」
前回の狙撃に懲りた鬼武蔵は大手側(苗木城の正面木曽川対岸)に陣取る。

木曽川は広く、また遠山勢も皆殺しは勘弁とばかりに弓鉄砲、石や木を落とすなど必死に抵抗をするおかげで
ようやく川は渡れたものの苗木城に近づけず、麓に備えをたてて見上げるばかり。
搦め手側2500も遠山勢1200の弓鉄砲隊の防御を突破できず、次第に天候も悪くなり城内は霞がかかり、守備側優位のまま膠着します。
0248人間七七四年2013/05/11(土) 01:58:47.12ID:040ewWhl
その頃苗木城

遠山友忠「鬼武蔵が来ても、さすがは我が城、なんともないぜ! そのうち謀りごとでなんとかなんべえ」
家臣「でも殿、遠山民部(明知遠山利景)の内通によりますと、秀吉が後詰めで攻めて来るそうですよ」
遠山友忠「あー、うちらには後詰めが無いなあ。しかも秀吉、これは… 」
遠山友忠「決めた!ここに至っては仕方がない。皆で城を枕に討ち死にして後代に名を残そう!」
家臣「」

家臣「いや、殿、時節を待ちましょう。そのうちいいこともあります。秀吉の後詰めのないうちに一あてして後退しましょう。」
遠山友忠「然もありなん。その意見採用。 どこに逃げるか… 三河の家康か、相模の北条か。 信長御一門と言うことで家康卿は襲ってこないだろうから、こっちにしよう。」

5月19日 女中老人を密かに逃し…
0249人間七七四年2013/05/11(土) 02:00:49.89ID:040ewWhl
翌日…

出来るだけ華々しい戦果を、と言うことで
派手で有名な 遠山友政弟の勘兵衛(後の苗木藩家老)を指名します。
その日の装いは
萌葱威しの鎧に猩々緋の陣羽織。
重藤の弓と押張染め羽の矢筈を高く背負って、照る日に輝いて鞍掛にすくっと立ち上がり
十三束三伏の箭をつがい…
「亡き三位中将信忠卿が長島の合戦時、私の弓勢を御覧になり、おまえは強弓の者だなあと感嘆された形見はこれだ!」
と矢継ぎ早に雨あられのように射落とします。
さらに城内からは鬨の声を揚げつつ
「武蔵、汚い!森あげて捕らえ給う!!」と口々に悪口を言って挑発します。

一方鬼武蔵の方は… 
内心どうあれ
「天晴れ、弓取って剛の者!」
と評しつつ、
「…とでもいうとおもったか?!」
とやっぱり 総攻撃を命じます。

怒濤の勢いで攻め上る森勢。 苗木城の南側の嶮岨を凌ぎ城の屏下に取り付きます。
0250人間七七四年2013/05/11(土) 02:02:59.16ID:040ewWhl
遠山友忠「計画通り (AA略」

南側の石弓を切って放せば、寄せ手の上にドウと落ち、数千丈の谷底に落ち重なって死んだ。
寄せ手はこれで多く討たれた。
 
友忠「よし、いまのうちに逃げるぞ。 いや待て。まずは酒だ。 みんな飲むぞ!」

このとき討ち取った首級は859首。 遠山方の討ち死にはわずかに256人。

その後遠山友忠・友政親子は 大手の矢倉に火を放って、2000与騎を前後に従え、しずしずと東に退いていった。
このとき敵は一兵も見えなかったという。


で、鬼武蔵はどこに行ったのだろうか?
逸話を知るばかり、報復が恐ろしいのですが…

苗木遠山家に伝わる資料なので一方的な記述ですね。

――『苗木伝記 中』

長文 大変失礼しました。
0251人間七七四年2013/05/11(土) 08:28:18.41ID:NtE3yEVo
もう少し読み手を意識して書いてみたらいいんじゃないかな?
書き手と読み手でかなり温度差を感じる文章とみた

金さんは明知の一族なんだっけ?
0252人間七七四年2013/05/11(土) 11:18:28.25ID:GOfghqmf
どこぞの馬の骨だろ光秀
0253人間七七四年2013/05/11(土) 13:20:18.29ID:zr8FVg9W
一番殺伐としてるのはどこの家中だろ?
0254人間七七四年2013/05/11(土) 13:22:13.64ID:/+TgyIYB
那須氏とかどういう精神で仕えていいのかわからん
0255人間七七四年2013/05/11(土) 13:22:57.78ID:/Lu1uE87
現当主 vs 前当主 vs 現当主の実父 の三竦みだった頃のあそこじゃね?
0256人間七七四年2013/05/11(土) 13:54:49.48ID:5p63js68
那須は誰が主君で誰が味方かもよく分からないからな
俺だったら出奔するわ
0257人間七七四年2013/05/11(土) 15:32:21.53ID:ZY8GgYgq
大田原三兄弟の言うとおりにしてれば大丈夫大丈夫
0258人間七七四年2013/05/11(土) 16:01:21.54ID:In/u6lII
ただし伸びるのは大田原三兄弟
あっ、でも次男の福原は出し抜かれたんだったな
0259人間七七四年2013/05/11(土) 17:26:17.13ID:KRXffVC8
それも弟の子にな。
0260人間七七四年2013/05/11(土) 19:29:40.85ID:zr8FVg9W
きたないな大関、さすがきたないw
0261人間七七四年2013/05/12(日) 00:38:33.09ID:kr3CJHLk
薩摩だと何時の時代も生きづらそう
0262人間七七四年2013/05/12(日) 16:38:22.90ID:I8hjgfPM
永禄4年3月、長尾景虎(上杉謙信)が総勢9万6千にて小田原へ攻め寄せるとの情報を察知した北条氏は、
重臣集まり、これは由々しき事態である。敵が近づく前に先ず大磯・小磯に人数を出し防衛戦を形成して
ここで交戦を行う。その上で江戸城、河越城の人数を出して敵を挟撃しよう、などと評議していた。

ここに大屋形である北条氏康が、老臣たちを呼び寄せて言った

「今度の長尾景虎発向の事をよくよく考えてみたが、確かにそなたたちの作戦案も尤もである。
であるが、今度の敵である景虎という人物は、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、
腹を立て怒る時には、火の中にも飛び込もう、鬼であっても掴みひしごうと考える、短気な勇者である。

であるが、怒りの時が少し過ぎれば、その勇猛さは醒め、万事に思い悩むような傾向があると聞いている。
今回彼は上杉憲政より職を譲られ関東管領を名乗り、諸侍を配下に付けたため、彼らが自分を見ていることを
意識し、一層強さを見せようとするだろうし、その上多勢である。

であればその勢とぶつかるよりも、人数を出さず籠城し、彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。
向かってくる鋭鋒を避けてその惰気を討つ、というのはこの事だ。
勇気疲れ数日対陣し、食に飢えたところを、討つべし。

私は一日片時も枕を泰山の安きに置かず、粉骨をなし私欲を去り、士卒の労に変わって身を苦しめ、
現在の乱世を治めて日本の衰えた政道を興し、永遠に仁政が行われる事を欲する者である。
そして、進退にあたってはその機に応じて変化させることも、勇者の心とする所である。

今度の合戦、手を下したとしても、進むべきを知って進むのは時を失わざるためである。
退くべきを見て退くのも、後を全うして国を治めるためである。

先ず籠城の用意をし、敵を外に引き寄せてその馬の足を疲弊させよ!矢弾を尽きさせよ!
此の方から人数を出すべからず!」

この氏康の仰せを、北条氏政を始め重臣の面々も、尤もであると感心し、籠城の用意を始めた。
(關侍傳記)

小田原籠城を決めた、北条氏康の演説である
0263人間七七四年2013/05/12(日) 18:23:47.73ID:Yol+DUeY
「籠城戦得意だし!」じゃ駄目?
0264人間七七四年2013/05/12(日) 20:01:59.32ID:TM7RAPf5
籠城すると田畑は荒らされて、町も略奪と放火で荒廃するけど
しゃーないね(´・ω・`)
0265人間七七四年2013/05/12(日) 20:24:57.90ID:65XgNyOV
もともと小田原って攻めづらい城なの?
この頃はまだ拡張されてないよね?
0266人間七七四年2013/05/12(日) 21:02:05.91ID:uv7wSVWB
【歴史】「官兵衛が合戦の前線にいたことが裏付けられた」…軍師・黒田官兵衛が賤ヶ岳の前線にいた。秀吉サインの指令書発見
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1368342730/

来年の大河でさっそく利用されそう
0267人間七七四年2013/05/13(月) 02:13:46.54ID:2yuZXREe
つかあの足萎え殿を軍師と思ってるのはライトな歴史ファンくらいで
一般人はどこまで知ってるのやら、福岡や姫路除いたら黒田節の殿様とかかね

まあ間違いなく軍師黒田如水は広まるんだろうけど
0268人間七七四年2013/05/13(月) 03:04:04.04ID:A5u6ut0s
軍師というか、尻に敷かれても嫁さんを大事にして、
戦と血が流れるのが嫌いだけど、戦国の世を終わらせる為に血を流す戦をし、その頭脳(原案、嫁さん)を持って策を立案、実行する……
そのギャップに苦悩し陰で涙を流す(やっぱり嫁さんに泣きつきケツを叩かれる)イケメンと思われるよ
0269人間七七四年2013/05/13(月) 09:05:51.72ID:AfJuxrOu
>>262
氏康は敵を知って戦略を変えられる男
それに引き換え息子ときたら・・・
0270人間七七四年2013/05/13(月) 09:34:12.78ID:K2Mji3yO
>>268
誰が主人公でも戦国物はそうじゃん
0271人間七七四年2013/05/13(月) 10:17:54.02ID:2nMyGQcb
一刻も早く平和を招来するため心を鬼にして同僚を殺害し一揆勢を根切りしに向かう冨田長繁
その心には押し殺した人間的な魂の慟哭が・・・・


無理だな
0272人間七七四年2013/05/13(月) 12:48:05.53ID:GEMHQYuK
誰が主役でも「凡庸だけど嫁の手助けで愛と平和な世界を作る善人」になるから大丈夫
勿論有名な武将の逸話は全部嫁が考えた策で、悪いことは全部秀吉の責任になります
0273人間七七四年2013/05/13(月) 13:11:44.70ID:Vye7mXnY
直家「つまりワシも・・・!」
0274人間七七四年2013/05/13(月) 13:38:35.47ID:10Qu+YgU
1000人の死者を出さぬため奴一人を殺す、外道とみられても甘んじて受けよう、

という人道の武将宇喜多直家君爆誕の瞬間である
0275人間七七四年2013/05/13(月) 14:14:21.75ID:tKj90qUw
戦国の世を終わらせるためなら娘すら省みない非情の人だよね
0276人間七七四年2013/05/13(月) 14:48:19.29ID:zhidyYg3
最上義光、山賊の首魁を討つ

最上義光通称は二郎太郎、修理大夫義守の子である。
左近権少将に進み、出羽守を兼ねる。

義光の体格は衆に優れ五、六歳の頃には他の十二、三歳くらいに見えた。
年を長ずるに及び、力はあくまでも強く七、八人でも動かせなかった大石を
軽々と転がして見せたので人々は皆、舌を巻いて驚き「成長の暁には、どんな
勇将になられるのだろうか」と語り合い、深く望みを託した。

永禄四年四月、義光十六歳の時に父義守に従い高湯温泉へと出かけた。

当時この地方には一団の山賊が横行しており、諸方の富家に乱入して
財宝を掠奪しており、諸人は皆恐れ慄いていた。

四日の夜、その山賊の首魁は部下七十人余りを率いて高湯を襲い、火を
仮屋に放ってドッと鬨をあげた。

「賊が押し寄せたぞ」義守の従者は皆、太刀を取って出て防ぐ。
義守は事に慣れた勇将であり、じきに小具足に身を固めて指揮をとった。

義光もまた太刀を取って躍り出たところ、大きな男がしきりに部下に
激を飛ばしていた。義光は「さては奴こそ首魁だろう、討ち取ってやろう」
と考え、疾風の如く駆け寄って真っ向から真っ二つに切り割った。
その早業は目にも留まらぬものであった、

それを見た一人の賊が槍をひねって突いてかかったが、義光はサッと刀を
振るい肩から乳の下まで斬り下げた。

こうしている間にも従者たちは各々奮って戦い、あちらこちらに敵を追い詰め
或いは殺し、或いは傷つけた。残った賊はおおいに恐れおののき、先を争って
逃げて行った。

義守は義光を召して、「汝は幼きといえど、よき我が教えを守って武芸に熟達した。
今日の難において賊の首魁を倒したのはこのうえもない手柄である。
この太刀は我が初陣の時に楢下口で高名したときに父より賜った重代の宝だ。
これを今日の褒美に与えよう」と告げ、手ずから篠切貞宗の刀を授けた。

義光はこの太刀を受け取って感涙にむせんだ。

義光のこの日の奮闘は鏡宿における源義経の勇武に劣らず、
青年の鋭気は今なお古のごとし

(青年美談)

めずらしく親子の仲が良い話
0277人間七七四年2013/05/13(月) 16:06:08.20ID:w5b7iIIp
まだ志村さんはいないんだな
0278人間七七四年2013/05/13(月) 21:04:29.35ID:EVX2OC1n
朝鮮役において、加藤清正は朝鮮の国境を越え兀良哈(オランカイ)に侵入。
そこで攻め懸かって来た兀良哈人の大軍を何とか退けると、朝鮮側の”鬼ぜく”という地域まで
後退した。

清正の軍はこの”鬼ぜく”に五日間逗留して人馬の足を休めていたが、
ここより五日の行程ほど離れた、”東せいしう浦”という所に、”せるとうす”という北国の武者大将が
居るということを清正が聞き、これを捕えるために東へと進軍した。

”せるとうす”は歳の程54,5。身長6尺5寸(約2メートル)ばかりの大男で、
彼は日本人の軍勢が接近していると聞き、要害に大勢の軍兵を集め引きこもっていた。

しかし清正家臣の鵤(いかるが)平治という者が大将となり、能き人数2千に鉄砲百挺を添えて
遣わし、要害の後ろの山より攻め懸けて、難なくこの”せるとうす”の身柄を捕縛した。

この時、ここで後藤という通詞を一人生け捕った。
この後藤という人物は日本の松前(北海道松前町)より漁船で出港した所、風に流され、
”せいしう浦”に流れ着き、それから20年ばかりここに居住しているのだという。

彼は兀良哈語も、朝鮮語も、勿論日本語も自由に使う能き通詞であったため、加藤清正も大変重宝し、
彼に直々に、二郎と名を付け、後藤二郎と名乗らせた。

この”せいしう浦”から、天気の良い日は、富士山が殊の外近々と見ることが出来た。
ここから富士山は、未申の方角(南西)に見ることが出来た。
松前は富士山の真北に当たるそうである。

そして”せいしう浦”は昆布が大変多く、家の屋根すら昆布で葺いていた。
清正の軍は、最初は昆布だとは考えもしなかったが、後に昆布だと知り、そこで日本人は
家々の上葺を取って汁にして食べていたそうである。
(清正高麗陣覚書)

浦というからは、今のウラジオストクあたりだろうか?流石にそこから富士山は見えないだろうと思うが、
ともかく清正の異国における記録である。昆布の屋根…。
0279人間七七四年2013/05/13(月) 21:16:13.85ID:8kKHaFUv
ウラジオストクは「東方を征服せよ」
とかいうロシア語だから、このころの現地の名称とは関係ないのでは
0280人間七七四年2013/05/13(月) 21:20:45.67ID:EVX2OC1n
>>279
ああそうか、ややこしくてすいません。
浦=港、ということで、今のウラジオストク港あたりかなとw
0281人間七七四年2013/05/13(月) 21:38:52.10ID:TqheAgPb
>>278
ttp://northernphotogallery-edge.blogspot.jp/2013/04/ls-denmark.html
これがデンマークの海藻で葺いた屋根らしい。意外と普通な印象。
0282人間七七四年2013/05/13(月) 23:21:32.29ID:tKj90qUw
海草と言ったら、きょんきょん師匠の海草列車を思い出す
0283人間七七四年2013/05/14(火) 16:25:23.21ID:zXnARiyL
慶長三年正月、蔚山に布陣する日本勢へ明軍数十万が攻め寄せてきた。
戦国叩き上げの日本勢であったが、
日頃古典で親しんでいる漢民族の大軍に、
皆、一言の発することも出来ず呆気にとられていた。
直茂さまが、
「とんでもない人数だ。あの分では何十万という単位であろう」
と仰せになると、中野神右衛門が、
「我らが日本国では、
数知れぬことを三歳牛の毛の数と申しますが、
これがつまり、その、三歳牛の毛の数ですな
ガハハハハハハw」
と冗談を言ったので、鍋島勢のみならず、
日本勢の人々は思わず笑いだして、
よい具合に落ち着き、力を取り戻したという。
このことは、勝茂さまが白石山で狩をなさったとき、
中野又兵衛政良にお話になって、
「おまえの親父のほかに、あのとき一言いえた者はなかったぞ」
と声をかけられたとのことだ 【葉隠】
0284人間七七四年2013/05/14(火) 16:34:59.78ID:zXnARiyL
ちなみにこの中野神右衛門清明という人は、
山本常朝の祖父にあたる人。
かなりの剛の者だったらしく、
筑後三池城攻め一番首、
肥後和仁城一番乗り、
筑後戸原城攻め一番乗り、
筑後江ノ浦城攻め一番乗り、
と武勇を記録に残している。
直茂公逝去時に追腹を願い出るも、
勝茂公に止められ断念。
光茂公逝去のときの山本常朝を考えると、
魂も受け継がれるのかと思うようなエピソード
0285人間七七四年2013/05/14(火) 20:31:00.51ID:HtG3D7C4
初陣の若者の目には、さぞ頼もしく映ったことだろうな
0286人間七七四年2013/05/14(火) 20:37:11.44ID:vRnyMHSf
その頃出羽国の住人に、白鳥十郎という者があり、谷地という場所に居住している武士であったが、
この十郎は日頃から、どうにかして最上義光を滅ぼし、最後には出羽一国の主となりたいとの
野望を持っていたが、ある時思い立って上方へと上り、織田信長に対し、大鷹一羽、馬一頭を捧げ、
「私こそ最上地域の主人であります」と、誠しやかに申し上げると、信長も遠国の事であるので、
最上の事情を全く知らなかったが故に、十郎の申すに任せ、懇ろに返事を与えたため、
十郎も大いに喜び、この返事を有難く頂戴し、これこそ弓箭の冥加のであると、急ぎ本国へと帰り、

「最早この上は、最上郡中において心にかかる輩を相従え、意義に及ぶ者達は一々に討ち取るべし。
特に山形の領主である最上義光を滅ぼして、思うままに世を治めるのだ!」

そう決意し朝夕に義光の動向を伺ったが、しかし隙を見出すことが出来なかった。

このような中、最上義光は白鳥十郎の今回の動きを知り、

「さても憎い者の振る舞いであろうか!私こそ内々に国中を平らげて速やかに世を治めんと、
心深く決意しているというのに、このような思いもよらぬことを聞くとは!
こうなっては時間をかけてはならない。急ぎ織田信長公に仔細を言上するのだ!」

そう言って志村九郎兵衛(後に伊豆守)を使者として、最上の系図、並びに白鷹一羽を持たせて
上方へと向かわせた。
この頃は諸国乱れていたため通路も自由にならず、越後を回って到着し、山本彦九郎という者の
家を宿舎として、信長のご機嫌を相伺った上で、件の趣を言上に及び、先の系図を提出した。

信長はこれを詳しくご覧になり、取次の山本彦九郎に対し、忝くも直々に質問をされた。
山本は大変名誉なことと思い、最上側の主張を残らず申し上げた所、信長も委細を聞き分けられ、

「ならば、出羽国の守護は最上義光である。」

と仰られ、義光に対し返書を書き、ここに『最上出羽守』と記され、さらに引き出物まで
下された。その上召し連れてきていた下々まで庭上に召し出され、ご褒美を下された。

このような厚遇に、使者の志村九郎兵衛は深く有難く思い、信長からの返書を申し受けると
急いで本国へと帰国した。

義光は志村九郎兵衛の帰国を聞くとすぐさま召し寄せ、信長との会見の終始の様子を一々
聞き届けられ、大いに喜び、その他御前に詰めていた人々も、本望これに過ぎずと大いに
喜悦した。

そしてこれにより、最上義光は白鳥十郎を謀殺する計略を進めるのである。
(最上出羽守義光物語)

最上義光の使者、信長に対面する、という逸話である
0287人間七七四年2013/05/15(水) 07:51:39.62ID:PUAhtiC1
これを聞いて○○の□□というもの、我こそが出羽国のまことの主であると……
と続いていくと落語になりそうな
0288人間七七四年2013/05/15(水) 09:15:29.69ID:RcCk4CuQ
ヒゲ殿と白鳥十郎どうして差がついたのか…
最上と南部、ノブとラスボスの違い
0289人間七七四年2013/05/15(水) 14:38:03.48ID:T+SpSqWZ
中野一門の手明槍や足軽は、
御門番を勤めるときは内匠のもとへ挨拶し、
番明けにもまた挨拶に来た。
そうすると内匠は、
「御番の勤めは、つまらぬ仕事だという者もいるが、
目立たないからこそ大事な仕事なのだ。
御苦労だったな。まあ、飲んでいってくれ」
と言い、暑いときには冷酒を茶碗につぎ、
珍しい肴を出して労った。
そのとき、手足の爪の綺麗な者がいると、
「そのように手足を汚さずにいては、
平時も戦時も武家の仕事は出来ないぞ。
見かけも弱々しいが大丈夫か?
まあ、とりあえず飲め」
と注意をあたえた。
手足の荒れた者を見つけると、
「おお!頼もしい者だ。
男らしく働いてくれるならば、
平時も戦時もお役に立つであろう。
よし!飲んでくれ」
と褒めた。
内匠の家は、居間から通りを見渡せるように作り、
居間の横には蔵を設えてあり、
中野家を城にして戦が出来るようになっていた。
絶えず家内には酒樽が置いてあり、
中野一門の仕事をする者であれば、
身分問わず好き勝手に酒が飲めた。

内匠の息子の兵右衛門は年寄役を勤めていた。
お城から下がってくると、夜中でも挨拶に来た。
なので内匠も寝ずに待っていたという。
息子の話の中に殿中の話題がふと出ると、
「殿のお膝元で御奉公する者は、
たとえ親族にでも殿中のことを話さぬものだ」
と厳しく言い聞かせていたそうだ 【葉隠】
0290人間七七四年2013/05/15(水) 18:50:21.59ID:sB46zRyn
本多三弥(正重)は隠れ無き武勇強直の士である。本多美濃守の家臣で、後に蒲生氏郷に属した。

蒲生殿が筑紫の岩石の城を攻めなさった時、氏郷が貝を吹かれたところ、三弥は、
「腰抜けの吹きは鳴らぬものぞ」言い、貝を引き奪って、音高く吹いた。

帰陣の後、氏郷はこれを恨みに思い、ある時、三弥が禁所で鳥を撃ったことを口実にして、
三弥の屋敷を取り囲んで誅しようとした。

ちょうどその時、都筑惣左衛門という東照宮(家康)麾下の武士が通り合わせて理由を尋ねた。
しかじかと答えると、都筑は大知音なので槍一本を持って三弥宅へ駆け入った。

そして、攻める者が氏郷に注進して「この者もともに討ち取りますか」と言ったところ、
氏郷が「何があっても、二人ともに逃がすのだぞ」と命じたので、ついに命をまっとうしたのである。

この都筑は、顔つきが生まれつき猿に似た人だった。今、麾下にその子孫がいる。

――『老人雑話』
0291人間七七四年2013/05/15(水) 21:47:30.50ID:N/jQmoYI
長野業正は和歌や連歌が上手だった。

ある時、家臣の男が百姓の家から妻を娶った。
ある日のこと、この妻が髪を結んでいると庭を5,6尺ほどの蛇が這っている。
妻は夫である男を呼び、「見て、オウコ(肥桶を荷う棒)みたいな蛇よ」と叫んだ。
それを聞いた男は、このような下品な言葉を使う田舎者な妻と一緒にいると笑いものにされると、この妻を親元に帰した。
妻は去り際に「万葉の 歌の言の葉 なかりせば 思いのほかの 別れせまじ」(万葉集の歌の言葉さえ無ければ、
このような別れはなかっただろうに的な)と和歌を1首残していった。

男はそのわけがわからず、いろいろな人にそのことを話した。
それが業正の耳に入り、早速男は業正に呼ばれた。
そして男がその経緯を業正に説明したところ、業正はこう言った。。

「これは恥ずかしいことだ。『陸奥(みちのく)の 千引の石と わが恋を になわばオウコ 中や耐えなん』
と万葉集にも出ているように、オウコという言葉はけして下品な言葉ではない。それなのに下品な言葉を使ったとして
離縁したとあれば末代までの恥だ。早く仲人に頼んで呼び返すべきだ。」

そして男は業正の言葉通り妻を呼び戻して、復縁しましたとさ。

『名将言行録』より
0292人間七七四年2013/05/15(水) 21:50:26.19ID:HGl43v6v
>>291
流石は 在原業平の子孫
0293人間七七四年2013/05/15(水) 22:53:11.86ID:1GA0Oylg
百姓の出と言っても、いいとこのお嬢さんだったのかな
0294人間七七四年2013/05/15(水) 23:43:22.62ID:pXdybTPZ
金上盛備「メゴイと言ったら都の連中に嘲笑われましたが
     古の歌にも使われている言葉です」


太田道灌「雨が降ってきたので蓑を借りに民家に立ち寄ったら
     雨に濡れるよりも恥ずかしさで汗塗れでした」
0295人間七七四年2013/05/16(木) 08:21:47.42ID:XGQ9uYst
>>290
この都筑惣左衛門は都築秀綱かな?
子孫は大身旗本と本多(忠勝)家付家老だね
0296人間七七四年2013/05/16(木) 14:37:54.97ID:N7I0LoSI
私は宮城の人間なんだが>>286の白鳥十郎長久の書状が発見されたって話を、
震災前に宮城の河北新報のネット版記事で読んだ記憶があったなと思ったら、
その時の記事をPDFにして保存してた人がいたみたいだ。

悲運の戦国大名白鳥十郎長久 実在裏付ける書状 発見(20100307)
ttp://www.morobito.com/jyuro/jyu1_h22.pdf
0297人間七七四年2013/05/16(木) 20:24:12.92ID:oOjh39ia
徳川家康公がある時、このような事を仰った

「人が優れた発言をした時に、それを発言した人の前では良くない発言であるかのように言って、
その発言を取って人前で、自分の考えた言葉のようにして語るものが有る。

こういう人間は、穢れた者と呼ぶべきである。
意味を突き詰め、実を研鑽する人と、席を同じくして論じてはならない。

例え、かねてから自分の心に思っていた道理であったとしても、それを人が言った以上、
それは発言した人の名誉なのである。

また主君はそれを名誉として認め、用いるようにすれば、その人の賢良は日々に進み、
善のみを行うであろう。」

(武野燭談)
0298人間七七四年2013/05/16(木) 21:43:37.16ID:8bBTfSnQ
一豊の事ですね。分かります。
0299人間七七四年2013/05/16(木) 22:01:19.98ID:I/km091e
22歳のアイデアを盗用する55歳ェ……
0300人間七七四年2013/05/16(木) 22:05:04.41ID:VUgbty10
偉そうな事を言っておきながら、全く人を見る目がない権現さまの悪い話
0301人間七七四年2013/05/16(木) 22:09:20.04ID:pYPgzhgo
>>298-299
それについても100年後の話がソースだから、どこまで信用していいやら
0302人間七七四年2013/05/16(木) 22:16:36.05ID:I/km091e
新井白石のだっけ?
0303人間七七四年2013/05/17(金) 10:17:35.37ID:u3XJPXN6
後世作ったとしてもいつの世も人のアイディアとかパクろうとする奴は絶えんので仮託してみたってとこだろ

実際そういうのはどこにもいるしな
0304人間七七四年2013/05/17(金) 12:27:22.83ID:YHjMJwaY
パクりと仮託はベクトルがまるっきり逆だが
0305人間七七四年2013/05/17(金) 13:54:00.33ID:kROGa/BJ
柳生流と言えば無刀取り。
近頃は町人たちもその様に言う。
しかし無刀と言っても必ずしも、
相手の刀を素手にて奪う技ということではない。
こちらが刀を使えない時にでも、
他人に斬られないということこそが本意である。
相手は刀を持ち、こちらは素手だから、
相手の刀を奪ってやろうとするということではない。
相手が、素手の者に刀を奪われないぞとするところを、
そのままにし、刀をあえて奪わないのも無刀の技である。
刀をけして奪われはしないぞ!と意識する者は、
刀を奪われないことに意識が集中するゆえに、
人を斬ることに意識がいかなくなる、そういうものである。
柳生流は斬られないことをこそ勝ちと定義する。
素手で刀を取るなどは芸人の道理だ。
無刀取りとは、ただ自分が刀を使えないときに、
他人に斬られないようにする工夫のことである

【兵法家伝書】
0306人間七七四年2013/05/17(金) 14:54:10.96ID:MD13DrHo
「あら?そうなの?じゃあちょっとあーた本物の無刀取り見せてくださる?」
0307人間七七四年2013/05/17(金) 16:10:10.97ID:+AJA/1tj
>>304
パクリが多いので先人に仮託した教訓話を作ってみた、でなんかおかしいところあるか?
0308人間七七四年2013/05/17(金) 18:20:42.76ID:rAUJwgWy
堀直寄殿は人を遣う事が巧みで、人を取り立て慈しむことは世に超えていた。
このために好士が多く、この人に奉公した侍は諸大名が好んだので、大半は立身した。

ある老人が昔直寄に奉公していたので、さる者がその仕方を質問した。老人によれば、

「特別に人の遣い方が変わっていた覚えはない。ただし、直寄は万事につけて従者に
言い勝つことをよしとせず、下の言うことを立てる事をもっぱら好まれていた。
これが世上の人と違うところでありましょうか」とのことであった。

そのような心得なので、従う者も智を増して励んだというのは、もっともである。
主人が強いて位を増し恐れさせる時に、下々がどうして奉公を励むことだろうか。

――『責而者草』
0309人間七七四年2013/05/17(金) 20:57:21.33ID:Dj61ghSa
なんだか面倒くさい家臣を量産しそうでもあるが、そうはならなかったところが天下の名家老たる所以か
0310人間七七四年2013/05/17(金) 20:59:28.32ID:Dj61ghSa
いかん直寄は名家老の直政の息子の方か・・・
0311人間七七四年2013/05/18(土) 02:27:27.59ID:cLZecNzm
無刀とは、よく間積もりを心得るためのものなり。
敵と我が身との間がどれ程あれば、敵の太刀が当たらぬか、を知ることなり。
当たらぬ間積もりをよく知れば、敵の打つ太刀は畏れるものではない。
我が身に当たる時は当たる分別の働きがあるものなり。

無刀とは、敵の太刀が我が身に当たらぬ距離では取る事が叶わぬものなり。
敵の太刀が我が身に当たる所において取るべきものなり。
斬られて取るべし。

無刀とは、当流における専一の秘事とすることなり。
身構え、太刀構え、場の位、遠近、動き、働き、つけ、かけ、表裏(かけひき)
これ等はことごとく無刀の間積もりからでるものなり。
ゆえにこれ、簡要の眼なり。

柳生宗矩【兵法家伝書】
0312人間七七四年2013/05/18(土) 10:49:13.42ID:5SL6Wh/g
>>305は無刀之巻の前半部分の意訳で、
>>311は無刀之巻の後半部分の読み下しだな
0313人間七七四年2013/05/20(月) 13:23:17.00ID:fs0Twc3e
光茂さまが十四歳でお作りになられた歌がこれだ

さむき夜に 裸になりて 寝たならば
明くる朝は 凍え死ぬべし
(冷える夜に、裸で寝たなら、
次の日の朝には、凍え死んでいるだろう)

これが始めて作られた歌だと言い伝えられている。
一説では、多久美作守から、
「唐の山辺も紅葉しにけり」
という歌をお聞きになられてから、
和歌に熱心になられたとも伝わる 【葉隠】
0314人間七七四年2013/05/20(月) 13:34:15.53ID:fs0Twc3e
鍋島光茂は父の勝茂や家老からも、
和歌に没頭する癖を注意され続けたが、
努力を続け、後には細川幽斎に次ぐ、
日本史上、武家としては二人目の古今伝授者となった。
古今伝授の際に三条西家との交渉役となったのが、
誰あろう、山本常朝その人である
0315人間七七四年2013/05/20(月) 14:07:39.49ID:FBpMFycF
東常縁「えっ」
0316人間七七四年2013/05/20(月) 19:24:31.27ID:dnMQ90as
>さむき夜に 裸になりて 寝たならば 明くる朝は 凍え死ぬべし

才能無さ過ぎるだろ(´・ω・`)
0317人間七七四年2013/05/20(月) 20:05:56.66ID:Mg0CMXgc
藤堂高虎が羽柴秀長の家臣と成って間もなくの頃
丹波の国人達が所々で一揆を起こし、立て籠もるという事があった。

この時、「大屋」という地点は一揆勢が出撃する際の通過地点に当たる、重要な地域であったため、
秀長は藤堂高虎に鉄砲の者を付けて、ここを防衛させた。

こう言った状況で、宇塚尾白という場所に一揆勢が押し出してきた。
高虎はわずかの手勢で終日これと戦い、数ヶ所にわたって負傷したが、それでも終に打ち破り、
特に一揆の大将の一人である、富安という者を討ち取った。

その後、一揆勢は横伊喜という場所に山籠りし、要害を構え小屋掛けをした。

藤堂高虎は深夜、これに密かに忍び込んだ。
所がこの気配に内から気付かれ、敵兵に板の垣越しに鑓で突かれてしまった!

しかし高虎、冷静に、自分に突き刺さった鑓を羽織で拭った。
アクション時代劇などで天井に忍んで鑓で突かれた忍者がたまにやるアレである。

敵兵は鑓に血が付いてないのを見て、さては先ほどの気配は人ではなかったのかと油断し、
兵を呼び出すことをしなかった。

こうして危機一髪のところを助かった高虎であったが、敵から傷を被ったまま戻るのも
非常に残念多いことだと考えた。そして「火が出た!火事であるぞ、出会え出会え!」と叫ぶ。
このため端々から驚いた敵兵がゾロゾロ出てきた。結局自分で呼び出すのかよ。

そこを襲いかかり自身で一人討ち取り、またこの時共をしていた居相孫作も一人討ち取り、
そうして自陣へと帰った。

それまで高虎の知行は三百石であったが、この但馬の一揆が平定された後、一挙に
三千石が加増され、合計三千三百石と成ったのである。
(藤堂家覺書)

それにしても高虎さん、敵の基地に忍び込んで鑓で突かれる負傷をしながらこの大暴れ。
素でアクション映画の主人公みたいな人である。
0318人間七七四年2013/05/20(月) 20:15:55.29ID:V6ns/YWh
一気に三千石加増ってすごいもんだな
0319人間七七四年2013/05/20(月) 20:27:15.63ID:kaCLPvV8
人並み外れた巨体でよく忍び込めるよなあ
0320人間七七四年2013/05/20(月) 20:34:18.06ID:HGFZ4pVY
いや、気付かれてるじゃんw
0321人間七七四年2013/05/20(月) 21:37:43.93ID:FBpMFycF
一揆勢はランボーに襲われたようなもんだな
0322人間七七四年2013/05/20(月) 23:24:02.73ID:vQNRgNm7
当時の平均身長と高虎の体格で考えると、「そんなでかいババァ、じゃなくて間者がいるか」って状態だろうな。
いきなり目の前にラオウがたってる状態。
0323人間七七四年2013/05/21(火) 09:24:45.58ID:G3YpY67V
こいつ絶対ニンジャだろ・・・
0324人間七七四年2013/05/21(火) 10:18:21.69ID:6Wm7rRKu
>結局自分で呼び出すのかよ

「敵だ!」と叫ばれて武器持って出て来られるのと
「火事だ!」と叫んで裸同然で出て来られるのでは
とんでもなく違いますがな。
0325人間七七四年2013/05/21(火) 18:29:41.87ID:i86wmNCt
史実版「げぇ━っ、関羽!!!」だと聞いて
0326人間七七四年2013/05/22(水) 05:05:25.83ID:YXi0xOw8
近江国東浅井郡脇坂野の国人、脇坂安明の息子であった脇坂安治は、浅井長政、明智光秀と仕え、
永禄12年(1569)、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。この時脇坂安治、16歳であった。

翌元亀元年、秀吉は浅井の小谷城の押さえとして、横山の城に逗留していたが、摂津に一揆が勃発したとの
報告があり、近江から陸路、勢多を回り、京へと急行した。しかしこの時、児小姓や若者は長浜に
残し置くと秀吉は命じた。

17歳の安治も留守居とされたが、彼は秀吉に召し連れられないことを大変無念に思い、お供させて
頂けるよう訴え出ようと考えていた所、秀吉の御膳船を長浜から直に大津に回すと聞いて、密かに
その船に乗り込み、籠を担いでその中に隠れていると、船奉行たちは彼に気が付かず、船はその日のうちに
大津へと着いた。

安治は船から走り出て松本のあたりまで行くと、道の傍に伺候して、秀吉の馬が来るのを待った。

やがて来た秀吉は、馬上から脇坂安治に気がつくと大変に激怒した
「我が命に背いてこの様にここまで来たことは、以ての外の曲事である!」

平伏する安治に、
「…しかし、若輩でありながら志を持っていることに感じ入った。仕方がないので
今夜は側で召使うが、夜が明ければまた船で長浜に帰るのだ。」
そう命じた。

安治はこれに「畏まりました」と答えたが、その夜、大津を忍び出て京都に馳せ上り、
三条の橋の傍で夜を明かし、また道の傍に伺候して秀吉の御馬を待った。

ここまで来た秀吉は安治を見て
「我が命を重ねて聞かず、こんな所まで来るとは、重大なる曲事である!」と、やはり激怒したが、
「しかしそれほどまで、深き志を持っておるのだな」と感じ入り、それから乗り換え用の馬を
安治に貸し与え、お伴することを許したとのことである。
(脇坂家傳記)
0327人間七七四年2013/05/22(水) 07:26:48.64ID:ZYdRhicC
ストーカーやん
0328人間七七四年2013/05/22(水) 10:12:45.59ID:4jeW38s4
>319、出羽のシスコンさんが興味を持ちそうだなw
0329人間七七四年2013/05/22(水) 21:15:13.11ID:xP92OfjL
「あたし、やすはる。いま船の中にいるの…」

「あたし、やすはる。いま松本にいるの…」

「あたし、やすはる。いま京都にいるの…」

「あたし、やすはる。いま三条の橋の傍にいるの…」

「あたし、やすはる。いまあなたの後ろににいるの…」
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