戦国ちょっといい話37
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0201人間七七四年
2013/05/06(月) 12:11:19.22ID:rbk7QNbd兵は好ましくないことである、と。
間違いない。天もこれを憎む。
しかし、やむにやまれぬときこれを用いる。
これもまた天の道である。
これはどういうことかと言うならば、
弓矢、太刀、長刀、これを兵と言い、
これらは不吉で好ましくないと言うことだ。
それはなぜかと言えば、
天の道は万物を活かす道であるから、
殺すということは実に好ましくないことである。
だからこれは天の道に違うことであり憎むという。
然れども、やむにやまれず兵を用いて人を殺すことを、
これもまた天の道という。
その心は、と問われ答えるならば、
春には花が咲き、緑が溢れるものだが、
秋には霜が来て、葉は落ち、木はしぼむ。
これ、天の成敗なり。
天には完成(極点に至った)したものを、打つという道理がある。
人も運命のなかで仕方なく悪をなしてしまうこともある。
しかしその悪も極点にまで至れば、これを討つ。
ここをもって、兵法も天の道であるとわかる。
一人の悪によって万人が苦しむことがある。
して、一人の悪を殺して万人を活かす。
是のように、人を殺す刀は、人を活かす刀であるべきだろう
【柳生宗矩 兵法家伝書序文より】
0203人間七七四年
2013/05/06(月) 13:59:06.82ID:VRfQYVs90204人間七七四年
2013/05/06(月) 14:03:28.71ID:rfW7RL6N0205人間七七四年
2013/05/06(月) 14:05:17.21ID:VRfQYVs90206人間七七四年
2013/05/06(月) 16:39:12.55ID:MdqkBZOeほかには鳥居元忠あたりが思い浮かぶけど
こっちは主君(家康)以外からはものはもらわん!という主張だったけど
0207人間七七四年
2013/05/06(月) 16:47:18.72ID:dnehOCSr0208人間七七四年
2013/05/06(月) 23:52:31.27ID:XfzQvwLM家臣に大杯の時には少量の酒を受け、小杯の時には満杯の酒を受ける者がいた。
嘉明はこれを見て「汝等は酒の受け方を誤解している。
大盃は一時にたくさん飲むためのものだから、十分に受けるものであり、
小盃は何度も少量を飲むためのものだから、軽く受けるものだ」と言った。
――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』
0209人間七七四年
2013/05/07(火) 10:25:10.37ID:UThT27B9松山城行ったら鎧があったけど、隣の松平定勝のやつより一回り小さかった
0210人間七七四年
2013/05/07(火) 13:43:56.19ID:+9nPv47oあるいは叛臣を征し不逞の国を伐っするに武威をもって
あるいは忠功を賞し慈愛をもって降を許したまう。
これによって諸侯大夫は武命に帰し、初めて天下一統す。
(小松軍記)
小松軍記の出だしなんだけど、読んだ瞬間、目が点になったので紹介
0211人間七七四年
2013/05/07(火) 14:10:22.76ID:pCP2coqL0212人間七七四年
2013/05/07(火) 18:37:55.09ID:XmOH3kGB0213人間七七四年
2013/05/07(火) 20:27:09.64ID:k87/HpNS秀吉が伴の小姓衆14,5騎ばかりで宿泊する事があった。
井伊兵部少輔(直政)はこれを見て、徳川家康に進言した
「これぞ幸いの時分です!今押し寄せて秀吉を討ち取ってしまえば、天下を奪うこと
掌にあるようなものです!」
流石は隙あらば秀吉を殺したい病気の井伊直政である。しかしこれに家康は
「今回の秀吉の軍事行動自体、この家康を頼りにしての出馬であったのだ。
そうであるのに、飼い鳥の首を絞めるような、酷いことはせぬものだ。
武辺というものは、その身が産まれてからの努力で身に付けることが出来るが、
天下を知るためには自分自身ではどうにもならない、大きな幸運が必要だ。
だいたいお前の進めるような働きは、敵に怯えるあまり、却ってさらなる強敵を
呼び寄せるようなものである。
私のところに嫁いできた秀吉の妹は、3年前に死去した。
その上今度の敵であった北条氏直は、私の婿であった。
それにもかかわらず秀吉は私に心許した。そう言う人にむごい行為を
するべきではない。」
そういって、同心されなかったという。
(紀伊國物語)
0214人間七七四年
2013/05/07(火) 20:43:24.51ID:asfRCIOu0215人間七七四年
2013/05/07(火) 22:05:08.64ID:xw7xX6oa「兵法家伝書」の柳生宗矩の言葉だとこれと
「目的が正しければ謀(はかりごと)も真となる」みたいなのが好き
他の剣豪の言葉と(良くも悪くも)一線を画してる感じだけど
0216人間七七四年
2013/05/07(火) 22:07:42.56ID:T9McTrWu柳生が幕府の隠密あつかいされる理由がわかった気がする
0217人間七七四年
2013/05/08(水) 11:44:46.31ID:R4tdSUWV0218人間七七四年
2013/05/08(水) 12:13:00.93ID:97/v4Lob帯刀が喉が渇いたと言っているのに!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6770.html
大坂落城の日、上記の逸話の直後のお話
家康公は茶臼山へ登られたが、谷合から家康公めがけて鉄砲が
打ち込まれた。
お供の衆は大いに騒いだが小従人衆の三人がそこへ駆けつけ、
鉄砲を打ち込んだ者を見つけると、それは金笠をかぶった足軽
一人だったので、これを召し捕えて茶臼山へ引っ立てた。
本多上野介がその場に居合わせ、お前は誰の家来で只今鉄砲を
打ち出したのだと尋ねられると「私は本多上野介の足軽です。
上様とは存ぜず、敵と思い打ちかけました」と話すと上野介は
「言語道断不届きなる奴かな」と言い放つ。
家康公は小従人衆の方へ向かわれ「放してやれ放してやれ」と
仰せられたので足軽は追い放された。
上野介が「不届きな奴なので成敗しようと思っていた所、御意を
もって助けられ冥加に叶いたる奴です」と申し上げると、
家康公は「我らは本道ではなく脇道から来て、その上に持旗長柄等
も無かったのだから敵だと思うのも道理であり、足軽どもには罪は
ない」と仰せられた。
(近古武談)
0219人間七七四年
2013/05/08(水) 12:17:39.48ID:c1R9hiqg0220人間七七四年
2013/05/08(水) 12:33:58.42ID:d39vHQ9f柳生宗矩は創作だと「権」を強調されて「剣」はいまいち扱いされがちだけど
当時の評価は剣豪としてもぶっちぎりに高いよ
0221人間七七四年
2013/05/08(水) 12:46:39.42ID:Wm0auKVY0222人間七七四年
2013/05/08(水) 13:10:00.33ID:97/v4Lob広家は石田三成に与力していたが、ある日美濃路をさして来る
敗軍の士卒があった。戦いも始まらないのになんびとだと尋ね
させると水口城主長束正家であった。
正家は「あれを見てくれ、海上に雲霞の如く兵船が押し寄せて
敵に取り囲まれたらどうしようかと存じ、あなたと合流してから
戦おうと人数を引き取ってきた」と言う。
広家が水上を見るとそれは漁火の影であった。「これは兵船に
あらず漁火の光です」と告げると正家は言葉も無かった。
広家はこれは衰運のなすところこそと思い、たちまち心を翻し
徳永法印も諭したのを幸いとして遂に関東に味方した。
このたび広家がもし関東に味方せずば、いかに毛利家に西国を
賜うことが出来たであろうか。
知勇兼備よく機変を考え禄を本家へ譲り周防長門の主となったが
自身は退いて陪臣となった。
(近古武談)
0223人間七七四年
2013/05/08(水) 13:46:11.03ID:SeK/Wbwr漁火って木曽川とか長良川の鵜飼の篝火かね?
0225人間七七四年
2013/05/08(水) 14:46:59.92ID:HDRoXa+z0226人間七七四年
2013/05/08(水) 15:17:29.21ID:cV3DKTfK0227人間七七四年
2013/05/08(水) 15:38:53.99ID:97/v4Lob史実では8月5日頃に正家と恵瓊が伊勢へ向かい。
広家もその頃までは瀬田で普請をしてて、同じ時期に伊勢に陣替えになった筈。
0228人間七七四年
2013/05/08(水) 20:54:39.02ID:GQFIaNJS嘉明は密かに侍臣を遣わしてその状況を見てこさせた。
帰ってきた侍臣は大体の状況を述べた。
次に、来会していた人名を告げようとすると、嘉明はこれを制して曰く、
「その氏名を聞く必要はない。友人に善き者は、主人にもまた忠なる者だ」と言った。
来会した人々はこれを伝え聞いて嘉明の人徳雅量に感動し、
それ以来、大いに謹慎して、かつ忠勤を尽くしたということである。
――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』
0234人間七七四年
2013/05/09(木) 01:17:28.21ID:Bw6eNhzJ0235人間七七四年
2013/05/09(木) 06:32:57.24ID:6mHml9+fところが川向うの信玄の備を見て、戦うこと無く引き返した。
その信玄の備は、一の手が若武者によって、二の手が老巧の者達によって
作られ、川に向かっていた。
謙信が引き下がったのはこの備の構成が
「一の手の若武者を用いる時は、二の手の老巧の者達に恥を見せぬよう
一層尽力する。また二の手の老武者たちも、若者に劣ってはならぬと、
互いに競争して働くためである。」
との理由からであった。
(紀伊國物語)
0236人間七七四年
2013/05/09(木) 08:30:45.58ID:h9hVhWtf0237人間七七四年
2013/05/09(木) 10:36:56.26ID:lwJghpaT兵だ…兵たちが躍動するオレの合戦を皆さんに見てもらいたいね」
0238人間七七四年
2013/05/09(木) 12:50:30.50ID:FivVzY7W0240人間七七四年
2013/05/09(木) 13:22:26.59ID:+d9AMszk『おじいちゃんちが国指定重要文化財』
団右衛門の子孫が製鉄で成功していたのも意外だったが…
まさか現当主のお孫さんがデイリーポータルのライターさんだったとはw
0243人間七七四年
2013/05/10(金) 21:15:12.96ID:lGmqy69l0244人間七七四年
2013/05/10(金) 21:20:29.21ID:R0QiUwUc0245人間七七四年
2013/05/10(金) 21:30:37.41ID:+w/xDqSI0246人間七七四年
2013/05/10(金) 21:37:31.40ID:EbLUFYri0247人間七七四年
2013/05/11(土) 01:56:42.53ID:040ewWhl遠山友忠は言った。
まとめサイト「美濃苗木城主、遠山友忠は悩んでいた。」
で森武蔵がキレているから、近々また来るだろう…
案の定、兵5000与騎にて攻め込んで着ると聞こえて来ました。
時は天正11年5月10日。
鬼武蔵は軍議にて5000与騎を二手に別けた。
「また狙撃されるの嫌だから、俺大手側な、見通しいいし。」
前回の狙撃に懲りた鬼武蔵は大手側(苗木城の正面木曽川対岸)に陣取る。
木曽川は広く、また遠山勢も皆殺しは勘弁とばかりに弓鉄砲、石や木を落とすなど必死に抵抗をするおかげで
ようやく川は渡れたものの苗木城に近づけず、麓に備えをたてて見上げるばかり。
搦め手側2500も遠山勢1200の弓鉄砲隊の防御を突破できず、次第に天候も悪くなり城内は霞がかかり、守備側優位のまま膠着します。
0248人間七七四年
2013/05/11(土) 01:58:47.12ID:040ewWhl遠山友忠「鬼武蔵が来ても、さすがは我が城、なんともないぜ! そのうち謀りごとでなんとかなんべえ」
家臣「でも殿、遠山民部(明知遠山利景)の内通によりますと、秀吉が後詰めで攻めて来るそうですよ」
遠山友忠「あー、うちらには後詰めが無いなあ。しかも秀吉、これは… 」
遠山友忠「決めた!ここに至っては仕方がない。皆で城を枕に討ち死にして後代に名を残そう!」
家臣「」
家臣「いや、殿、時節を待ちましょう。そのうちいいこともあります。秀吉の後詰めのないうちに一あてして後退しましょう。」
遠山友忠「然もありなん。その意見採用。 どこに逃げるか… 三河の家康か、相模の北条か。 信長御一門と言うことで家康卿は襲ってこないだろうから、こっちにしよう。」
5月19日 女中老人を密かに逃し…
0249人間七七四年
2013/05/11(土) 02:00:49.89ID:040ewWhl出来るだけ華々しい戦果を、と言うことで
派手で有名な 遠山友政弟の勘兵衛(後の苗木藩家老)を指名します。
その日の装いは
萌葱威しの鎧に猩々緋の陣羽織。
重藤の弓と押張染め羽の矢筈を高く背負って、照る日に輝いて鞍掛にすくっと立ち上がり
十三束三伏の箭をつがい…
「亡き三位中将信忠卿が長島の合戦時、私の弓勢を御覧になり、おまえは強弓の者だなあと感嘆された形見はこれだ!」
と矢継ぎ早に雨あられのように射落とします。
さらに城内からは鬨の声を揚げつつ
「武蔵、汚い!森あげて捕らえ給う!!」と口々に悪口を言って挑発します。
一方鬼武蔵の方は…
内心どうあれ
「天晴れ、弓取って剛の者!」
と評しつつ、
「…とでもいうとおもったか?!」
とやっぱり 総攻撃を命じます。
怒濤の勢いで攻め上る森勢。 苗木城の南側の嶮岨を凌ぎ城の屏下に取り付きます。
0250人間七七四年
2013/05/11(土) 02:02:59.16ID:040ewWhl南側の石弓を切って放せば、寄せ手の上にドウと落ち、数千丈の谷底に落ち重なって死んだ。
寄せ手はこれで多く討たれた。
友忠「よし、いまのうちに逃げるぞ。 いや待て。まずは酒だ。 みんな飲むぞ!」
このとき討ち取った首級は859首。 遠山方の討ち死にはわずかに256人。
その後遠山友忠・友政親子は 大手の矢倉に火を放って、2000与騎を前後に従え、しずしずと東に退いていった。
このとき敵は一兵も見えなかったという。
で、鬼武蔵はどこに行ったのだろうか?
逸話を知るばかり、報復が恐ろしいのですが…
苗木遠山家に伝わる資料なので一方的な記述ですね。
――『苗木伝記 中』
長文 大変失礼しました。
0251人間七七四年
2013/05/11(土) 08:28:18.41ID:NtE3yEVo書き手と読み手でかなり温度差を感じる文章とみた
金さんは明知の一族なんだっけ?
0252人間七七四年
2013/05/11(土) 11:18:28.25ID:GOfghqmf0253人間七七四年
2013/05/11(土) 13:20:18.29ID:zr8FVg9W0254人間七七四年
2013/05/11(土) 13:22:13.64ID:/+TgyIYB0255人間七七四年
2013/05/11(土) 13:22:57.78ID:/Lu1uE870256人間七七四年
2013/05/11(土) 13:54:49.48ID:5p63js68俺だったら出奔するわ
0257人間七七四年
2013/05/11(土) 15:32:21.53ID:ZY8GgYgq0258人間七七四年
2013/05/11(土) 16:01:21.54ID:In/u6lIIあっ、でも次男の福原は出し抜かれたんだったな
0259人間七七四年
2013/05/11(土) 17:26:17.13ID:KRXffVC80260人間七七四年
2013/05/11(土) 19:29:40.85ID:zr8FVg9W0261人間七七四年
2013/05/12(日) 00:38:33.09ID:kr3CJHLk0262人間七七四年
2013/05/12(日) 16:38:22.90ID:I8hjgfPM重臣集まり、これは由々しき事態である。敵が近づく前に先ず大磯・小磯に人数を出し防衛戦を形成して
ここで交戦を行う。その上で江戸城、河越城の人数を出して敵を挟撃しよう、などと評議していた。
ここに大屋形である北条氏康が、老臣たちを呼び寄せて言った
「今度の長尾景虎発向の事をよくよく考えてみたが、確かにそなたたちの作戦案も尤もである。
であるが、今度の敵である景虎という人物は、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、
腹を立て怒る時には、火の中にも飛び込もう、鬼であっても掴みひしごうと考える、短気な勇者である。
であるが、怒りの時が少し過ぎれば、その勇猛さは醒め、万事に思い悩むような傾向があると聞いている。
今回彼は上杉憲政より職を譲られ関東管領を名乗り、諸侍を配下に付けたため、彼らが自分を見ていることを
意識し、一層強さを見せようとするだろうし、その上多勢である。
であればその勢とぶつかるよりも、人数を出さず籠城し、彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。
向かってくる鋭鋒を避けてその惰気を討つ、というのはこの事だ。
勇気疲れ数日対陣し、食に飢えたところを、討つべし。
私は一日片時も枕を泰山の安きに置かず、粉骨をなし私欲を去り、士卒の労に変わって身を苦しめ、
現在の乱世を治めて日本の衰えた政道を興し、永遠に仁政が行われる事を欲する者である。
そして、進退にあたってはその機に応じて変化させることも、勇者の心とする所である。
今度の合戦、手を下したとしても、進むべきを知って進むのは時を失わざるためである。
退くべきを見て退くのも、後を全うして国を治めるためである。
先ず籠城の用意をし、敵を外に引き寄せてその馬の足を疲弊させよ!矢弾を尽きさせよ!
此の方から人数を出すべからず!」
この氏康の仰せを、北条氏政を始め重臣の面々も、尤もであると感心し、籠城の用意を始めた。
(關侍傳記)
小田原籠城を決めた、北条氏康の演説である
0263人間七七四年
2013/05/12(日) 18:23:47.73ID:Yol+DUeY0264人間七七四年
2013/05/12(日) 20:01:59.32ID:TM7RAPf5しゃーないね(´・ω・`)
0265人間七七四年
2013/05/12(日) 20:24:57.90ID:65XgNyOVこの頃はまだ拡張されてないよね?
0266人間七七四年
2013/05/12(日) 21:02:05.91ID:uv7wSVWBhttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1368342730/
来年の大河でさっそく利用されそう
0267人間七七四年
2013/05/13(月) 02:13:46.54ID:2yuZXREe一般人はどこまで知ってるのやら、福岡や姫路除いたら黒田節の殿様とかかね
まあ間違いなく軍師黒田如水は広まるんだろうけど
0268人間七七四年
2013/05/13(月) 03:04:04.04ID:A5u6ut0s戦と血が流れるのが嫌いだけど、戦国の世を終わらせる為に血を流す戦をし、その頭脳(原案、嫁さん)を持って策を立案、実行する……
そのギャップに苦悩し陰で涙を流す(やっぱり嫁さんに泣きつきケツを叩かれる)イケメンと思われるよ
0271人間七七四年
2013/05/13(月) 10:17:54.02ID:2nMyGQcbその心には押し殺した人間的な魂の慟哭が・・・・
無理だな
0272人間七七四年
2013/05/13(月) 12:48:05.53ID:GEMHQYuK勿論有名な武将の逸話は全部嫁が考えた策で、悪いことは全部秀吉の責任になります
0273人間七七四年
2013/05/13(月) 13:11:44.70ID:Vye7mXnY0274人間七七四年
2013/05/13(月) 13:38:35.47ID:10Qu+YgUという人道の武将宇喜多直家君爆誕の瞬間である
0275人間七七四年
2013/05/13(月) 14:14:21.75ID:tKj90qUw0276人間七七四年
2013/05/13(月) 14:48:19.29ID:zhidyYg3最上義光通称は二郎太郎、修理大夫義守の子である。
左近権少将に進み、出羽守を兼ねる。
義光の体格は衆に優れ五、六歳の頃には他の十二、三歳くらいに見えた。
年を長ずるに及び、力はあくまでも強く七、八人でも動かせなかった大石を
軽々と転がして見せたので人々は皆、舌を巻いて驚き「成長の暁には、どんな
勇将になられるのだろうか」と語り合い、深く望みを託した。
永禄四年四月、義光十六歳の時に父義守に従い高湯温泉へと出かけた。
当時この地方には一団の山賊が横行しており、諸方の富家に乱入して
財宝を掠奪しており、諸人は皆恐れ慄いていた。
四日の夜、その山賊の首魁は部下七十人余りを率いて高湯を襲い、火を
仮屋に放ってドッと鬨をあげた。
「賊が押し寄せたぞ」義守の従者は皆、太刀を取って出て防ぐ。
義守は事に慣れた勇将であり、じきに小具足に身を固めて指揮をとった。
義光もまた太刀を取って躍り出たところ、大きな男がしきりに部下に
激を飛ばしていた。義光は「さては奴こそ首魁だろう、討ち取ってやろう」
と考え、疾風の如く駆け寄って真っ向から真っ二つに切り割った。
その早業は目にも留まらぬものであった、
それを見た一人の賊が槍をひねって突いてかかったが、義光はサッと刀を
振るい肩から乳の下まで斬り下げた。
こうしている間にも従者たちは各々奮って戦い、あちらこちらに敵を追い詰め
或いは殺し、或いは傷つけた。残った賊はおおいに恐れおののき、先を争って
逃げて行った。
義守は義光を召して、「汝は幼きといえど、よき我が教えを守って武芸に熟達した。
今日の難において賊の首魁を倒したのはこのうえもない手柄である。
この太刀は我が初陣の時に楢下口で高名したときに父より賜った重代の宝だ。
これを今日の褒美に与えよう」と告げ、手ずから篠切貞宗の刀を授けた。
義光はこの太刀を受け取って感涙にむせんだ。
義光のこの日の奮闘は鏡宿における源義経の勇武に劣らず、
青年の鋭気は今なお古のごとし
(青年美談)
めずらしく親子の仲が良い話
0277人間七七四年
2013/05/13(月) 16:06:08.20ID:w5b7iIIp0278人間七七四年
2013/05/13(月) 21:04:29.35ID:EVX2OC1nそこで攻め懸かって来た兀良哈人の大軍を何とか退けると、朝鮮側の”鬼ぜく”という地域まで
後退した。
清正の軍はこの”鬼ぜく”に五日間逗留して人馬の足を休めていたが、
ここより五日の行程ほど離れた、”東せいしう浦”という所に、”せるとうす”という北国の武者大将が
居るということを清正が聞き、これを捕えるために東へと進軍した。
”せるとうす”は歳の程54,5。身長6尺5寸(約2メートル)ばかりの大男で、
彼は日本人の軍勢が接近していると聞き、要害に大勢の軍兵を集め引きこもっていた。
しかし清正家臣の鵤(いかるが)平治という者が大将となり、能き人数2千に鉄砲百挺を添えて
遣わし、要害の後ろの山より攻め懸けて、難なくこの”せるとうす”の身柄を捕縛した。
この時、ここで後藤という通詞を一人生け捕った。
この後藤という人物は日本の松前(北海道松前町)より漁船で出港した所、風に流され、
”せいしう浦”に流れ着き、それから20年ばかりここに居住しているのだという。
彼は兀良哈語も、朝鮮語も、勿論日本語も自由に使う能き通詞であったため、加藤清正も大変重宝し、
彼に直々に、二郎と名を付け、後藤二郎と名乗らせた。
この”せいしう浦”から、天気の良い日は、富士山が殊の外近々と見ることが出来た。
ここから富士山は、未申の方角(南西)に見ることが出来た。
松前は富士山の真北に当たるそうである。
そして”せいしう浦”は昆布が大変多く、家の屋根すら昆布で葺いていた。
清正の軍は、最初は昆布だとは考えもしなかったが、後に昆布だと知り、そこで日本人は
家々の上葺を取って汁にして食べていたそうである。
(清正高麗陣覚書)
浦というからは、今のウラジオストクあたりだろうか?流石にそこから富士山は見えないだろうと思うが、
ともかく清正の異国における記録である。昆布の屋根…。
0279人間七七四年
2013/05/13(月) 21:16:13.85ID:8kKHaFUvとかいうロシア語だから、このころの現地の名称とは関係ないのでは
0280人間七七四年
2013/05/13(月) 21:20:45.67ID:EVX2OC1nああそうか、ややこしくてすいません。
浦=港、ということで、今のウラジオストク港あたりかなとw
0281人間七七四年
2013/05/13(月) 21:38:52.10ID:TqheAgPbttp://northernphotogallery-edge.blogspot.jp/2013/04/ls-denmark.html
これがデンマークの海藻で葺いた屋根らしい。意外と普通な印象。
0282人間七七四年
2013/05/13(月) 23:21:32.29ID:tKj90qUw0283人間七七四年
2013/05/14(火) 16:25:23.21ID:zXnARiyL戦国叩き上げの日本勢であったが、
日頃古典で親しんでいる漢民族の大軍に、
皆、一言の発することも出来ず呆気にとられていた。
直茂さまが、
「とんでもない人数だ。あの分では何十万という単位であろう」
と仰せになると、中野神右衛門が、
「我らが日本国では、
数知れぬことを三歳牛の毛の数と申しますが、
これがつまり、その、三歳牛の毛の数ですな
ガハハハハハハw」
と冗談を言ったので、鍋島勢のみならず、
日本勢の人々は思わず笑いだして、
よい具合に落ち着き、力を取り戻したという。
このことは、勝茂さまが白石山で狩をなさったとき、
中野又兵衛政良にお話になって、
「おまえの親父のほかに、あのとき一言いえた者はなかったぞ」
と声をかけられたとのことだ 【葉隠】
0284人間七七四年
2013/05/14(火) 16:34:59.78ID:zXnARiyL山本常朝の祖父にあたる人。
かなりの剛の者だったらしく、
筑後三池城攻め一番首、
肥後和仁城一番乗り、
筑後戸原城攻め一番乗り、
筑後江ノ浦城攻め一番乗り、
と武勇を記録に残している。
直茂公逝去時に追腹を願い出るも、
勝茂公に止められ断念。
光茂公逝去のときの山本常朝を考えると、
魂も受け継がれるのかと思うようなエピソード
0285人間七七四年
2013/05/14(火) 20:31:00.51ID:HtG3D7C40286人間七七四年
2013/05/14(火) 20:37:11.44ID:vRnyMHSfこの十郎は日頃から、どうにかして最上義光を滅ぼし、最後には出羽一国の主となりたいとの
野望を持っていたが、ある時思い立って上方へと上り、織田信長に対し、大鷹一羽、馬一頭を捧げ、
「私こそ最上地域の主人であります」と、誠しやかに申し上げると、信長も遠国の事であるので、
最上の事情を全く知らなかったが故に、十郎の申すに任せ、懇ろに返事を与えたため、
十郎も大いに喜び、この返事を有難く頂戴し、これこそ弓箭の冥加のであると、急ぎ本国へと帰り、
「最早この上は、最上郡中において心にかかる輩を相従え、意義に及ぶ者達は一々に討ち取るべし。
特に山形の領主である最上義光を滅ぼして、思うままに世を治めるのだ!」
そう決意し朝夕に義光の動向を伺ったが、しかし隙を見出すことが出来なかった。
このような中、最上義光は白鳥十郎の今回の動きを知り、
「さても憎い者の振る舞いであろうか!私こそ内々に国中を平らげて速やかに世を治めんと、
心深く決意しているというのに、このような思いもよらぬことを聞くとは!
こうなっては時間をかけてはならない。急ぎ織田信長公に仔細を言上するのだ!」
そう言って志村九郎兵衛(後に伊豆守)を使者として、最上の系図、並びに白鷹一羽を持たせて
上方へと向かわせた。
この頃は諸国乱れていたため通路も自由にならず、越後を回って到着し、山本彦九郎という者の
家を宿舎として、信長のご機嫌を相伺った上で、件の趣を言上に及び、先の系図を提出した。
信長はこれを詳しくご覧になり、取次の山本彦九郎に対し、忝くも直々に質問をされた。
山本は大変名誉なことと思い、最上側の主張を残らず申し上げた所、信長も委細を聞き分けられ、
「ならば、出羽国の守護は最上義光である。」
と仰られ、義光に対し返書を書き、ここに『最上出羽守』と記され、さらに引き出物まで
下された。その上召し連れてきていた下々まで庭上に召し出され、ご褒美を下された。
このような厚遇に、使者の志村九郎兵衛は深く有難く思い、信長からの返書を申し受けると
急いで本国へと帰国した。
義光は志村九郎兵衛の帰国を聞くとすぐさま召し寄せ、信長との会見の終始の様子を一々
聞き届けられ、大いに喜び、その他御前に詰めていた人々も、本望これに過ぎずと大いに
喜悦した。
そしてこれにより、最上義光は白鳥十郎を謀殺する計略を進めるのである。
(最上出羽守義光物語)
最上義光の使者、信長に対面する、という逸話である
0287人間七七四年
2013/05/15(水) 07:51:39.62ID:PUAhtiC1と続いていくと落語になりそうな
0288人間七七四年
2013/05/15(水) 09:15:29.69ID:RcCk4CuQ最上と南部、ノブとラスボスの違い
0289人間七七四年
2013/05/15(水) 14:38:03.48ID:T+SpSqWZ御門番を勤めるときは内匠のもとへ挨拶し、
番明けにもまた挨拶に来た。
そうすると内匠は、
「御番の勤めは、つまらぬ仕事だという者もいるが、
目立たないからこそ大事な仕事なのだ。
御苦労だったな。まあ、飲んでいってくれ」
と言い、暑いときには冷酒を茶碗につぎ、
珍しい肴を出して労った。
そのとき、手足の爪の綺麗な者がいると、
「そのように手足を汚さずにいては、
平時も戦時も武家の仕事は出来ないぞ。
見かけも弱々しいが大丈夫か?
まあ、とりあえず飲め」
と注意をあたえた。
手足の荒れた者を見つけると、
「おお!頼もしい者だ。
男らしく働いてくれるならば、
平時も戦時もお役に立つであろう。
よし!飲んでくれ」
と褒めた。
内匠の家は、居間から通りを見渡せるように作り、
居間の横には蔵を設えてあり、
中野家を城にして戦が出来るようになっていた。
絶えず家内には酒樽が置いてあり、
中野一門の仕事をする者であれば、
身分問わず好き勝手に酒が飲めた。
内匠の息子の兵右衛門は年寄役を勤めていた。
お城から下がってくると、夜中でも挨拶に来た。
なので内匠も寝ずに待っていたという。
息子の話の中に殿中の話題がふと出ると、
「殿のお膝元で御奉公する者は、
たとえ親族にでも殿中のことを話さぬものだ」
と厳しく言い聞かせていたそうだ 【葉隠】
0290人間七七四年
2013/05/15(水) 18:50:21.59ID:sB46zRyn蒲生殿が筑紫の岩石の城を攻めなさった時、氏郷が貝を吹かれたところ、三弥は、
「腰抜けの吹きは鳴らぬものぞ」言い、貝を引き奪って、音高く吹いた。
帰陣の後、氏郷はこれを恨みに思い、ある時、三弥が禁所で鳥を撃ったことを口実にして、
三弥の屋敷を取り囲んで誅しようとした。
ちょうどその時、都筑惣左衛門という東照宮(家康)麾下の武士が通り合わせて理由を尋ねた。
しかじかと答えると、都筑は大知音なので槍一本を持って三弥宅へ駆け入った。
そして、攻める者が氏郷に注進して「この者もともに討ち取りますか」と言ったところ、
氏郷が「何があっても、二人ともに逃がすのだぞ」と命じたので、ついに命をまっとうしたのである。
この都筑は、顔つきが生まれつき猿に似た人だった。今、麾下にその子孫がいる。
――『老人雑話』
0291人間七七四年
2013/05/15(水) 21:47:30.50ID:N/jQmoYIある時、家臣の男が百姓の家から妻を娶った。
ある日のこと、この妻が髪を結んでいると庭を5,6尺ほどの蛇が這っている。
妻は夫である男を呼び、「見て、オウコ(肥桶を荷う棒)みたいな蛇よ」と叫んだ。
それを聞いた男は、このような下品な言葉を使う田舎者な妻と一緒にいると笑いものにされると、この妻を親元に帰した。
妻は去り際に「万葉の 歌の言の葉 なかりせば 思いのほかの 別れせまじ」(万葉集の歌の言葉さえ無ければ、
このような別れはなかっただろうに的な)と和歌を1首残していった。
男はそのわけがわからず、いろいろな人にそのことを話した。
それが業正の耳に入り、早速男は業正に呼ばれた。
そして男がその経緯を業正に説明したところ、業正はこう言った。。
「これは恥ずかしいことだ。『陸奥(みちのく)の 千引の石と わが恋を になわばオウコ 中や耐えなん』
と万葉集にも出ているように、オウコという言葉はけして下品な言葉ではない。それなのに下品な言葉を使ったとして
離縁したとあれば末代までの恥だ。早く仲人に頼んで呼び返すべきだ。」
そして男は業正の言葉通り妻を呼び戻して、復縁しましたとさ。
『名将言行録』より
0293人間七七四年
2013/05/15(水) 22:53:11.86ID:1GA0Oylg0294人間七七四年
2013/05/15(水) 23:43:22.62ID:pXdybTPZ古の歌にも使われている言葉です」
太田道灌「雨が降ってきたので蓑を借りに民家に立ち寄ったら
雨に濡れるよりも恥ずかしさで汗塗れでした」
0296人間七七四年
2013/05/16(木) 14:37:54.97ID:N7I0LoSI震災前に宮城の河北新報のネット版記事で読んだ記憶があったなと思ったら、
その時の記事をPDFにして保存してた人がいたみたいだ。
悲運の戦国大名白鳥十郎長久 実在裏付ける書状 発見(20100307)
ttp://www.morobito.com/jyuro/jyu1_h22.pdf
0297人間七七四年
2013/05/16(木) 20:24:12.92ID:oOjh39ia「人が優れた発言をした時に、それを発言した人の前では良くない発言であるかのように言って、
その発言を取って人前で、自分の考えた言葉のようにして語るものが有る。
こういう人間は、穢れた者と呼ぶべきである。
意味を突き詰め、実を研鑽する人と、席を同じくして論じてはならない。
例え、かねてから自分の心に思っていた道理であったとしても、それを人が言った以上、
それは発言した人の名誉なのである。
また主君はそれを名誉として認め、用いるようにすれば、その人の賢良は日々に進み、
善のみを行うであろう。」
(武野燭談)
0298人間七七四年
2013/05/16(木) 21:43:37.16ID:8bBTfSnQ0299人間七七四年
2013/05/16(木) 22:01:19.98ID:I/km091e0300人間七七四年
2013/05/16(木) 22:05:04.41ID:VUgbty10■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています