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戦国ちょっといい話37

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0001人間七七四年2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0183人間七七四年2013/05/04(土) 22:07:18.59ID:055+2qbo
>>182
気にするな、腕の先にはキップもついておろう
0184人間七七四年2013/05/05(日) 00:41:03.70ID:wsoNoVcB
この話、続きはないのか
まあ、続きがあったら何人かの首が飛んでいそうなので、ない方がいいんだけど
0185人間七七四年2013/05/05(日) 09:59:52.54ID:uqsrtS/X
禁裏での能興行で首は飛ばないだろう
ただ秀吉を題材にした新作能はその後演じられなかったみたいだから評判よくなかったのかもね
0186人間七七四年2013/05/05(日) 11:26:16.45ID:fmTYy2Wi
でも結構出来がいいよな
秀吉の能とか和歌って
0187人間七七四年2013/05/05(日) 12:31:17.38ID:z1SzEs6S
和歌しか知らないけど、子供の頃からの知識や技巧の積み重ねがないだけで、センスはいいと思う
技巧にこってない分、現代人でも理解しやすい
0188人間七七四年2013/05/05(日) 12:45:26.47ID:7wlvYMVy
徳川政権下だし演じられなくて当然
と思ったが明智光秀や秀吉や清正は能でもけっこういい役か
0189人間七七四年2013/05/05(日) 12:49:38.18ID:Q8UBk4O3
秀吉の作った「明智討」「柴田」「北條」あたりは、露骨な自分の戦功を宣伝するためのプロパガンダだからなあ。
はっきり言えば秀吉が生きている間しか意味が無い。
0190人間七七四年2013/05/05(日) 12:54:55.89ID:BkSiWucm
秀吉の新作能

「吉野詣」 :吉野に参詣した秀吉の前に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を寿ぐ内容
「高野参詣」 :母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称える内容
「明智討」「柴田」「北條」 :それぞれの合戦における秀吉の戦功を称えたもの

これだけ露骨な自己宣伝ができるのが、よくも悪くも秀吉の強みだなw
0191人間七七四年2013/05/05(日) 13:29:18.87ID:GBiO5QUA
>>190
自作を公言するんだから悪気はないだろw
本当に悪い統治者なら、石田三成が作ったことにする
0192人間七七四年2013/05/05(日) 14:06:11.14ID:4SvqP0Kd
成り上がりのワンマン社長が自著配ったからって皆読むかって言うと・・・ってのと一緒で
出来のよしあしと別にお偉いさんの自慢話好き好んで上演したいかというと
0193人間七七四年2013/05/05(日) 17:05:28.29ID:v8cyr6lz
下女が殺されなくてホッとした
0194人間七七四年2013/05/06(月) 00:34:38.52ID:pZRMsUYR
良し悪しはともかく、秀吉がどういう人物かわかるよなw
0195人間七七四年2013/05/06(月) 01:19:22.83ID:T+8jpSKj
故太閤殿下は自慢話ばっかで周囲もまた始まったかと聞き流してたby忠興
だからなぁ
フロイスも秀吉は必要以上に自分を大きく見せようとしていたと記してるし
天下人の演出なのか、素の性格なのか…後者な気もするがw
0196人間七七四年2013/05/06(月) 07:31:06.78ID:UwuGLQuO
丹羽長秀、任官を断る

天正三年信長、長秀に惟任の氏を賜り壱岐守に任じた。

長秀は「惟任については畏まり受け奉りますが、
壱岐守についてはご勘弁ください
某は若き時分より呼ばれている五郎左衛門のままでいたいのです。」

と達て申し上げたので、その望みに任された。
0197人間七七四年2013/05/06(月) 07:32:19.04ID:UwuGLQuO
>>196
出典が抜けてた。(名将言行録)
0198人間七七四年2013/05/06(月) 08:43:05.61ID:br2kSEcp
>>196
惟任じゃなくて惟住じゃね
0199人間七七四年2013/05/06(月) 09:43:17.03ID:UwuGLQuO
>>198
判ってはいるけど、元本にそう書いてあったのでそのままにしといた。
0200人間七七四年2013/05/06(月) 10:10:09.55ID:MqipYOaQ
丹羽丹羽丹羽丹羽長秀がいる
0201人間七七四年2013/05/06(月) 12:11:19.22ID:rbk7QNbd
古の言葉にこうある。
兵は好ましくないことである、と。
間違いない。天もこれを憎む。
しかし、やむにやまれぬときこれを用いる。
これもまた天の道である。
これはどういうことかと言うならば、
弓矢、太刀、長刀、これを兵と言い、
これらは不吉で好ましくないと言うことだ。
それはなぜかと言えば、
天の道は万物を活かす道であるから、
殺すということは実に好ましくないことである。
だからこれは天の道に違うことであり憎むという。
然れども、やむにやまれず兵を用いて人を殺すことを、
これもまた天の道という。
その心は、と問われ答えるならば、
春には花が咲き、緑が溢れるものだが、
秋には霜が来て、葉は落ち、木はしぼむ。
これ、天の成敗なり。
天には完成(極点に至った)したものを、打つという道理がある。
人も運命のなかで仕方なく悪をなしてしまうこともある。
しかしその悪も極点にまで至れば、これを討つ。
ここをもって、兵法も天の道であるとわかる。
一人の悪によって万人が苦しむことがある。
して、一人の悪を殺して万人を活かす。
是のように、人を殺す刀は、人を活かす刀であるべきだろう

【柳生宗矩 兵法家伝書序文より】
0202人間七七四年2013/05/06(月) 13:52:55.00ID:mcee2Ndv
>>196
別に任官しても五郎左衛門は改名しない限り一生五郎左衛門だろうに
ただそう呼ばれなくなるだけで
0203人間七七四年2013/05/06(月) 13:59:06.82ID:VRfQYVs9
左衛門も官位だからね。自称だけど。
0204人間七七四年2013/05/06(月) 14:03:28.71ID:rfW7RL6N
壱岐と呼ばれても応えなければそのうち呼び名は元に戻るだろうに
0205人間七七四年2013/05/06(月) 14:05:17.21ID:VRfQYVs9
そうはいかんでしょ、余程の幼馴染でないと
0206人間七七四年2013/05/06(月) 16:39:12.55ID:MdqkBZOe
官位を断る人って結構いるのかね?

ほかには鳥居元忠あたりが思い浮かぶけど
こっちは主君(家康)以外からはものはもらわん!という主張だったけど
0207人間七七四年2013/05/06(月) 16:47:18.72ID:dnehOCSr
関白、太政大臣、征夷大将軍、どれにならはりますのん?
0208人間七七四年2013/05/06(月) 23:52:31.27ID:XfzQvwLM
加藤嘉明は家臣に酒を与える時に、大小二つの盃を使った。
家臣に大杯の時には少量の酒を受け、小杯の時には満杯の酒を受ける者がいた。

嘉明はこれを見て「汝等は酒の受け方を誤解している。

大盃は一時にたくさん飲むためのものだから、十分に受けるものであり、
小盃は何度も少量を飲むためのものだから、軽く受けるものだ」と言った。

――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』
0209人間七七四年2013/05/07(火) 10:25:10.37ID:UThT27B9
余談だけど加藤嘉明って小男だったのかな?
松山城行ったら鎧があったけど、隣の松平定勝のやつより一回り小さかった
0210人間七七四年2013/05/07(火) 13:43:56.19ID:+9nPv47o
豊臣秀吉公、天正・文禄の間数年、軍計を事として
あるいは叛臣を征し不逞の国を伐っするに武威をもって
あるいは忠功を賞し慈愛をもって降を許したまう。

これによって諸侯大夫は武命に帰し、初めて天下一統す。
(小松軍記)

小松軍記の出だしなんだけど、読んだ瞬間、目が点になったので紹介
0211人間七七四年2013/05/07(火) 14:10:22.76ID:pCP2coqL
嘉明は猛将と言われているのに後世に残る逸話が細かく手堅いネタばかりで結構好き
0212人間七七四年2013/05/07(火) 18:37:55.09ID:XmOH3kGB
そこがジミー扱いされる由縁かと
0213人間七七四年2013/05/07(火) 20:27:09.64ID:k87/HpNS
小田原の陣や東北仕置が終わり、豊臣秀吉が畿内へと帰陣する時、
秀吉が伴の小姓衆14,5騎ばかりで宿泊する事があった。

井伊兵部少輔(直政)はこれを見て、徳川家康に進言した

「これぞ幸いの時分です!今押し寄せて秀吉を討ち取ってしまえば、天下を奪うこと
掌にあるようなものです!」

流石は隙あらば秀吉を殺したい病気の井伊直政である。しかしこれに家康は

「今回の秀吉の軍事行動自体、この家康を頼りにしての出馬であったのだ。
そうであるのに、飼い鳥の首を絞めるような、酷いことはせぬものだ。

武辺というものは、その身が産まれてからの努力で身に付けることが出来るが、
天下を知るためには自分自身ではどうにもならない、大きな幸運が必要だ。

だいたいお前の進めるような働きは、敵に怯えるあまり、却ってさらなる強敵を
呼び寄せるようなものである。

私のところに嫁いできた秀吉の妹は、3年前に死去した。
その上今度の敵であった北条氏直は、私の婿であった。

それにもかかわらず秀吉は私に心許した。そう言う人にむごい行為を
するべきではない。」

そういって、同心されなかったという。
(紀伊國物語)
0214人間七七四年2013/05/07(火) 20:43:24.51ID:asfRCIOu
影武者徳川家康の回想シーンの元ネタはこれかな?
0215人間七七四年2013/05/07(火) 22:05:08.64ID:xw7xX6oa
>>201
「兵法家伝書」の柳生宗矩の言葉だとこれと
「目的が正しければ謀(はかりごと)も真となる」みたいなのが好き
他の剣豪の言葉と(良くも悪くも)一線を画してる感じだけど
0216人間七七四年2013/05/07(火) 22:07:42.56ID:T9McTrWu
影武者徳川家康じゃないが、
柳生が幕府の隠密あつかいされる理由がわかった気がする
0217人間七七四年2013/05/08(水) 11:44:46.31ID:R4tdSUWV
宗りんは権の人じゃろ?
0218人間七七四年2013/05/08(水) 12:13:00.93ID:97/v4Lob
家康公我に向かって発砲せる兵卒を許す

帯刀が喉が渇いたと言っているのに!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6770.html

大坂落城の日、上記の逸話の直後のお話

家康公は茶臼山へ登られたが、谷合から家康公めがけて鉄砲が
打ち込まれた。

お供の衆は大いに騒いだが小従人衆の三人がそこへ駆けつけ、
鉄砲を打ち込んだ者を見つけると、それは金笠をかぶった足軽
一人だったので、これを召し捕えて茶臼山へ引っ立てた。

本多上野介がその場に居合わせ、お前は誰の家来で只今鉄砲を
打ち出したのだと尋ねられると「私は本多上野介の足軽です。
上様とは存ぜず、敵と思い打ちかけました」と話すと上野介は
「言語道断不届きなる奴かな」と言い放つ。

家康公は小従人衆の方へ向かわれ「放してやれ放してやれ」と
仰せられたので足軽は追い放された。

上野介が「不届きな奴なので成敗しようと思っていた所、御意を
もって助けられ冥加に叶いたる奴です」と申し上げると、

家康公は「我らは本道ではなく脇道から来て、その上に持旗長柄等
も無かったのだから敵だと思うのも道理であり、足軽どもには罪は
ない」と仰せられた。

(近古武談)
0219人間七七四年2013/05/08(水) 12:17:39.48ID:c1R9hiqg
ここで万が一銃弾に当たって家康が死んでたら正純も切腹かね?
0220人間七七四年2013/05/08(水) 12:33:58.42ID:d39vHQ9f
>>217
柳生宗矩は創作だと「権」を強調されて「剣」はいまいち扱いされがちだけど
当時の評価は剣豪としてもぶっちぎりに高いよ
0221人間七七四年2013/05/08(水) 12:46:39.42ID:Wm0auKVY
独眼竜政宗で白刃取りした時は子供ながらにえっ?ってなったが
0222人間七七四年2013/05/08(水) 13:10:00.33ID:97/v4Lob
吉川広家漁火をみて敗兆を知る

広家は石田三成に与力していたが、ある日美濃路をさして来る
敗軍の士卒があった。戦いも始まらないのになんびとだと尋ね
させると水口城主長束正家であった。

正家は「あれを見てくれ、海上に雲霞の如く兵船が押し寄せて
敵に取り囲まれたらどうしようかと存じ、あなたと合流してから
戦おうと人数を引き取ってきた」と言う。

広家が水上を見るとそれは漁火の影であった。「これは兵船に
あらず漁火の光です」と告げると正家は言葉も無かった。

広家はこれは衰運のなすところこそと思い、たちまち心を翻し
徳永法印も諭したのを幸いとして遂に関東に味方した。

このたび広家がもし関東に味方せずば、いかに毛利家に西国を
賜うことが出来たであろうか。

知勇兼備よく機変を考え禄を本家へ譲り周防長門の主となったが
自身は退いて陪臣となった。

(近古武談)
0223人間七七四年2013/05/08(水) 13:46:11.03ID:SeK/Wbwr
美濃路で海上も糞もないだろうに
漁火って木曽川とか長良川の鵜飼の篝火かね?
0224人間七七四年2013/05/08(水) 13:51:33.49ID:GqUWQBhZ
>>223
多分伊勢路と間違えているんだと思う
0225人間七七四年2013/05/08(水) 14:46:59.92ID:HDRoXa+z
琵琶湖じゃね?淡海ってことで
0226人間七七四年2013/05/08(水) 15:17:29.21ID:cV3DKTfK
伊勢の安濃津城攻めの後だろう
0227人間七七四年2013/05/08(水) 15:38:53.99ID:97/v4Lob
家康と誤認して正家が動揺したと言われるのは、一般的には阿野津攻めの前かな。

史実では8月5日頃に正家と恵瓊が伊勢へ向かい。
広家もその頃までは瀬田で普請をしてて、同じ時期に伊勢に陣替えになった筈。
0228人間七七四年2013/05/08(水) 20:54:39.02ID:GQFIaNJS
加藤嘉明の重臣である藪与左衛門は故あって閉門に処された。
嘉明は密かに侍臣を遣わしてその状況を見てこさせた。

帰ってきた侍臣は大体の状況を述べた。
次に、来会していた人名を告げようとすると、嘉明はこれを制して曰く、

「その氏名を聞く必要はない。友人に善き者は、主人にもまた忠なる者だ」と言った。

来会した人々はこれを伝え聞いて嘉明の人徳雅量に感動し、
それ以来、大いに謹慎して、かつ忠勤を尽くしたということである。

――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』
0229人間七七四年2013/05/08(水) 21:06:41.88ID:GQFIaNJS
>>228
何度もすいません、変換ミスがあったので訂正します。 ×人徳 ○仁徳
0230人間七七四年2013/05/08(水) 22:30:47.20ID:qR8O890g
>>229
なんで投稿する前に確認しないの?
できないの?
する気がないの?
する能力がないの?
0231人間七七四年2013/05/08(水) 22:38:06.51ID:gZ3yoD8a
>>230みたいなお客様意識だけは満開の人間にはなりたくないね
0232人間七七四年2013/05/08(水) 22:45:57.27ID:UilRIF9g
>>230
なんでお前が偉そうなんだよw
0233人間七七四年2013/05/08(水) 23:59:24.49ID:97/v4Lob
>>230 がフルボッコでワロタw
0234人間七七四年2013/05/09(木) 01:17:28.21ID:Bw6eNhzJ
それで金とってるわけでもなし、誤字くらい気にすることか
0235人間七七四年2013/05/09(木) 06:32:57.24ID:6mHml9+f
上杉謙信が武田信玄との合戦の時、謙信は自陣を超えて突出した。
ところが川向うの信玄の備を見て、戦うこと無く引き返した。
その信玄の備は、一の手が若武者によって、二の手が老巧の者達によって
作られ、川に向かっていた。

謙信が引き下がったのはこの備の構成が

「一の手の若武者を用いる時は、二の手の老巧の者達に恥を見せぬよう
一層尽力する。また二の手の老武者たちも、若者に劣ってはならぬと、
互いに競争して働くためである。」

との理由からであった。
(紀伊國物語)
0236人間七七四年2013/05/09(木) 08:30:45.58ID:h9hVhWtf
つまり隙がなかったということか
0237人間七七四年2013/05/09(木) 10:36:56.26ID:lwJghpaT
謙信「信玄? 強いよね、序盤中盤終盤隙がないと思うよ、だけど俺ぁ負けないよ、
兵だ…兵たちが躍動するオレの合戦を皆さんに見てもらいたいね」
0238人間七七四年2013/05/09(木) 12:50:30.50ID:FivVzY7W
古代ローマ軍団も前から若手、中堅、ベテランの構成
0239人間七七四年2013/05/09(木) 13:14:04.61ID:+d9AMszk
>>238
古今兵法の常道ってことか
0240人間七七四年2013/05/09(木) 13:22:26.59ID:+d9AMszk
デイリーポータルで塙団右衛門のご子孫の自宅拝見レポートを見つけた↓
『おじいちゃんちが国指定重要文化財』

団右衛門の子孫が製鉄で成功していたのも意外だったが…
まさか現当主のお孫さんがデイリーポータルのライターさんだったとはw
0241人間七七四年2013/05/10(金) 15:13:02.99ID:9ORzefhI
>>230
みたいに誤字をあげつらう奴もいるけど、既出の指摘ももっと柔らかくしてほしい
0242人間七七四年2013/05/10(金) 20:48:31.21ID:w60nnMZO
>>241
参照性上げるためのタグだと思って、まぁあんまキニスンナ
0243人間七七四年2013/05/10(金) 21:15:12.96ID:lGmqy69l
戦国板ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
0244人間七七四年2013/05/10(金) 21:20:29.21ID:R0QiUwUc
吉野家コピペなんて、何年前のネタだ
0245人間七七四年2013/05/10(金) 21:30:37.41ID:+w/xDqSI
十年以上前だな
0246人間七七四年2013/05/10(金) 21:37:31.40ID:EbLUFYri
戦国時代まで遡れないから、スレチだな
0247人間七七四年2013/05/11(土) 01:56:42.53ID:040ewWhl
苗木城の戦い

遠山友忠は言った。
まとめサイト「美濃苗木城主、遠山友忠は悩んでいた。」
で森武蔵がキレているから、近々また来るだろう…

案の定、兵5000与騎にて攻め込んで着ると聞こえて来ました。
時は天正11年5月10日。

鬼武蔵は軍議にて5000与騎を二手に別けた。

「また狙撃されるの嫌だから、俺大手側な、見通しいいし。」
前回の狙撃に懲りた鬼武蔵は大手側(苗木城の正面木曽川対岸)に陣取る。

木曽川は広く、また遠山勢も皆殺しは勘弁とばかりに弓鉄砲、石や木を落とすなど必死に抵抗をするおかげで
ようやく川は渡れたものの苗木城に近づけず、麓に備えをたてて見上げるばかり。
搦め手側2500も遠山勢1200の弓鉄砲隊の防御を突破できず、次第に天候も悪くなり城内は霞がかかり、守備側優位のまま膠着します。
0248人間七七四年2013/05/11(土) 01:58:47.12ID:040ewWhl
その頃苗木城

遠山友忠「鬼武蔵が来ても、さすがは我が城、なんともないぜ! そのうち謀りごとでなんとかなんべえ」
家臣「でも殿、遠山民部(明知遠山利景)の内通によりますと、秀吉が後詰めで攻めて来るそうですよ」
遠山友忠「あー、うちらには後詰めが無いなあ。しかも秀吉、これは… 」
遠山友忠「決めた!ここに至っては仕方がない。皆で城を枕に討ち死にして後代に名を残そう!」
家臣「」

家臣「いや、殿、時節を待ちましょう。そのうちいいこともあります。秀吉の後詰めのないうちに一あてして後退しましょう。」
遠山友忠「然もありなん。その意見採用。 どこに逃げるか… 三河の家康か、相模の北条か。 信長御一門と言うことで家康卿は襲ってこないだろうから、こっちにしよう。」

5月19日 女中老人を密かに逃し…
0249人間七七四年2013/05/11(土) 02:00:49.89ID:040ewWhl
翌日…

出来るだけ華々しい戦果を、と言うことで
派手で有名な 遠山友政弟の勘兵衛(後の苗木藩家老)を指名します。
その日の装いは
萌葱威しの鎧に猩々緋の陣羽織。
重藤の弓と押張染め羽の矢筈を高く背負って、照る日に輝いて鞍掛にすくっと立ち上がり
十三束三伏の箭をつがい…
「亡き三位中将信忠卿が長島の合戦時、私の弓勢を御覧になり、おまえは強弓の者だなあと感嘆された形見はこれだ!」
と矢継ぎ早に雨あられのように射落とします。
さらに城内からは鬨の声を揚げつつ
「武蔵、汚い!森あげて捕らえ給う!!」と口々に悪口を言って挑発します。

一方鬼武蔵の方は… 
内心どうあれ
「天晴れ、弓取って剛の者!」
と評しつつ、
「…とでもいうとおもったか?!」
とやっぱり 総攻撃を命じます。

怒濤の勢いで攻め上る森勢。 苗木城の南側の嶮岨を凌ぎ城の屏下に取り付きます。
0250人間七七四年2013/05/11(土) 02:02:59.16ID:040ewWhl
遠山友忠「計画通り (AA略」

南側の石弓を切って放せば、寄せ手の上にドウと落ち、数千丈の谷底に落ち重なって死んだ。
寄せ手はこれで多く討たれた。
 
友忠「よし、いまのうちに逃げるぞ。 いや待て。まずは酒だ。 みんな飲むぞ!」

このとき討ち取った首級は859首。 遠山方の討ち死にはわずかに256人。

その後遠山友忠・友政親子は 大手の矢倉に火を放って、2000与騎を前後に従え、しずしずと東に退いていった。
このとき敵は一兵も見えなかったという。


で、鬼武蔵はどこに行ったのだろうか?
逸話を知るばかり、報復が恐ろしいのですが…

苗木遠山家に伝わる資料なので一方的な記述ですね。

――『苗木伝記 中』

長文 大変失礼しました。
0251人間七七四年2013/05/11(土) 08:28:18.41ID:NtE3yEVo
もう少し読み手を意識して書いてみたらいいんじゃないかな?
書き手と読み手でかなり温度差を感じる文章とみた

金さんは明知の一族なんだっけ?
0252人間七七四年2013/05/11(土) 11:18:28.25ID:GOfghqmf
どこぞの馬の骨だろ光秀
0253人間七七四年2013/05/11(土) 13:20:18.29ID:zr8FVg9W
一番殺伐としてるのはどこの家中だろ?
0254人間七七四年2013/05/11(土) 13:22:13.64ID:/+TgyIYB
那須氏とかどういう精神で仕えていいのかわからん
0255人間七七四年2013/05/11(土) 13:22:57.78ID:/Lu1uE87
現当主 vs 前当主 vs 現当主の実父 の三竦みだった頃のあそこじゃね?
0256人間七七四年2013/05/11(土) 13:54:49.48ID:5p63js68
那須は誰が主君で誰が味方かもよく分からないからな
俺だったら出奔するわ
0257人間七七四年2013/05/11(土) 15:32:21.53ID:ZY8GgYgq
大田原三兄弟の言うとおりにしてれば大丈夫大丈夫
0258人間七七四年2013/05/11(土) 16:01:21.54ID:In/u6lII
ただし伸びるのは大田原三兄弟
あっ、でも次男の福原は出し抜かれたんだったな
0259人間七七四年2013/05/11(土) 17:26:17.13ID:KRXffVC8
それも弟の子にな。
0260人間七七四年2013/05/11(土) 19:29:40.85ID:zr8FVg9W
きたないな大関、さすがきたないw
0261人間七七四年2013/05/12(日) 00:38:33.09ID:kr3CJHLk
薩摩だと何時の時代も生きづらそう
0262人間七七四年2013/05/12(日) 16:38:22.90ID:I8hjgfPM
永禄4年3月、長尾景虎(上杉謙信)が総勢9万6千にて小田原へ攻め寄せるとの情報を察知した北条氏は、
重臣集まり、これは由々しき事態である。敵が近づく前に先ず大磯・小磯に人数を出し防衛戦を形成して
ここで交戦を行う。その上で江戸城、河越城の人数を出して敵を挟撃しよう、などと評議していた。

ここに大屋形である北条氏康が、老臣たちを呼び寄せて言った

「今度の長尾景虎発向の事をよくよく考えてみたが、確かにそなたたちの作戦案も尤もである。
であるが、今度の敵である景虎という人物は、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、
腹を立て怒る時には、火の中にも飛び込もう、鬼であっても掴みひしごうと考える、短気な勇者である。

であるが、怒りの時が少し過ぎれば、その勇猛さは醒め、万事に思い悩むような傾向があると聞いている。
今回彼は上杉憲政より職を譲られ関東管領を名乗り、諸侍を配下に付けたため、彼らが自分を見ていることを
意識し、一層強さを見せようとするだろうし、その上多勢である。

であればその勢とぶつかるよりも、人数を出さず籠城し、彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。
向かってくる鋭鋒を避けてその惰気を討つ、というのはこの事だ。
勇気疲れ数日対陣し、食に飢えたところを、討つべし。

私は一日片時も枕を泰山の安きに置かず、粉骨をなし私欲を去り、士卒の労に変わって身を苦しめ、
現在の乱世を治めて日本の衰えた政道を興し、永遠に仁政が行われる事を欲する者である。
そして、進退にあたってはその機に応じて変化させることも、勇者の心とする所である。

今度の合戦、手を下したとしても、進むべきを知って進むのは時を失わざるためである。
退くべきを見て退くのも、後を全うして国を治めるためである。

先ず籠城の用意をし、敵を外に引き寄せてその馬の足を疲弊させよ!矢弾を尽きさせよ!
此の方から人数を出すべからず!」

この氏康の仰せを、北条氏政を始め重臣の面々も、尤もであると感心し、籠城の用意を始めた。
(關侍傳記)

小田原籠城を決めた、北条氏康の演説である
0263人間七七四年2013/05/12(日) 18:23:47.73ID:Yol+DUeY
「籠城戦得意だし!」じゃ駄目?
0264人間七七四年2013/05/12(日) 20:01:59.32ID:TM7RAPf5
籠城すると田畑は荒らされて、町も略奪と放火で荒廃するけど
しゃーないね(´・ω・`)
0265人間七七四年2013/05/12(日) 20:24:57.90ID:65XgNyOV
もともと小田原って攻めづらい城なの?
この頃はまだ拡張されてないよね?
0266人間七七四年2013/05/12(日) 21:02:05.91ID:uv7wSVWB
【歴史】「官兵衛が合戦の前線にいたことが裏付けられた」…軍師・黒田官兵衛が賤ヶ岳の前線にいた。秀吉サインの指令書発見
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1368342730/

来年の大河でさっそく利用されそう
0267人間七七四年2013/05/13(月) 02:13:46.54ID:2yuZXREe
つかあの足萎え殿を軍師と思ってるのはライトな歴史ファンくらいで
一般人はどこまで知ってるのやら、福岡や姫路除いたら黒田節の殿様とかかね

まあ間違いなく軍師黒田如水は広まるんだろうけど
0268人間七七四年2013/05/13(月) 03:04:04.04ID:A5u6ut0s
軍師というか、尻に敷かれても嫁さんを大事にして、
戦と血が流れるのが嫌いだけど、戦国の世を終わらせる為に血を流す戦をし、その頭脳(原案、嫁さん)を持って策を立案、実行する……
そのギャップに苦悩し陰で涙を流す(やっぱり嫁さんに泣きつきケツを叩かれる)イケメンと思われるよ
0269人間七七四年2013/05/13(月) 09:05:51.72ID:AfJuxrOu
>>262
氏康は敵を知って戦略を変えられる男
それに引き換え息子ときたら・・・
0270人間七七四年2013/05/13(月) 09:34:12.78ID:K2Mji3yO
>>268
誰が主人公でも戦国物はそうじゃん
0271人間七七四年2013/05/13(月) 10:17:54.02ID:2nMyGQcb
一刻も早く平和を招来するため心を鬼にして同僚を殺害し一揆勢を根切りしに向かう冨田長繁
その心には押し殺した人間的な魂の慟哭が・・・・


無理だな
0272人間七七四年2013/05/13(月) 12:48:05.53ID:GEMHQYuK
誰が主役でも「凡庸だけど嫁の手助けで愛と平和な世界を作る善人」になるから大丈夫
勿論有名な武将の逸話は全部嫁が考えた策で、悪いことは全部秀吉の責任になります
0273人間七七四年2013/05/13(月) 13:11:44.70ID:Vye7mXnY
直家「つまりワシも・・・!」
0274人間七七四年2013/05/13(月) 13:38:35.47ID:10Qu+YgU
1000人の死者を出さぬため奴一人を殺す、外道とみられても甘んじて受けよう、

という人道の武将宇喜多直家君爆誕の瞬間である
0275人間七七四年2013/05/13(月) 14:14:21.75ID:tKj90qUw
戦国の世を終わらせるためなら娘すら省みない非情の人だよね
0276人間七七四年2013/05/13(月) 14:48:19.29ID:zhidyYg3
最上義光、山賊の首魁を討つ

最上義光通称は二郎太郎、修理大夫義守の子である。
左近権少将に進み、出羽守を兼ねる。

義光の体格は衆に優れ五、六歳の頃には他の十二、三歳くらいに見えた。
年を長ずるに及び、力はあくまでも強く七、八人でも動かせなかった大石を
軽々と転がして見せたので人々は皆、舌を巻いて驚き「成長の暁には、どんな
勇将になられるのだろうか」と語り合い、深く望みを託した。

永禄四年四月、義光十六歳の時に父義守に従い高湯温泉へと出かけた。

当時この地方には一団の山賊が横行しており、諸方の富家に乱入して
財宝を掠奪しており、諸人は皆恐れ慄いていた。

四日の夜、その山賊の首魁は部下七十人余りを率いて高湯を襲い、火を
仮屋に放ってドッと鬨をあげた。

「賊が押し寄せたぞ」義守の従者は皆、太刀を取って出て防ぐ。
義守は事に慣れた勇将であり、じきに小具足に身を固めて指揮をとった。

義光もまた太刀を取って躍り出たところ、大きな男がしきりに部下に
激を飛ばしていた。義光は「さては奴こそ首魁だろう、討ち取ってやろう」
と考え、疾風の如く駆け寄って真っ向から真っ二つに切り割った。
その早業は目にも留まらぬものであった、

それを見た一人の賊が槍をひねって突いてかかったが、義光はサッと刀を
振るい肩から乳の下まで斬り下げた。

こうしている間にも従者たちは各々奮って戦い、あちらこちらに敵を追い詰め
或いは殺し、或いは傷つけた。残った賊はおおいに恐れおののき、先を争って
逃げて行った。

義守は義光を召して、「汝は幼きといえど、よき我が教えを守って武芸に熟達した。
今日の難において賊の首魁を倒したのはこのうえもない手柄である。
この太刀は我が初陣の時に楢下口で高名したときに父より賜った重代の宝だ。
これを今日の褒美に与えよう」と告げ、手ずから篠切貞宗の刀を授けた。

義光はこの太刀を受け取って感涙にむせんだ。

義光のこの日の奮闘は鏡宿における源義経の勇武に劣らず、
青年の鋭気は今なお古のごとし

(青年美談)

めずらしく親子の仲が良い話
0277人間七七四年2013/05/13(月) 16:06:08.20ID:w5b7iIIp
まだ志村さんはいないんだな
0278人間七七四年2013/05/13(月) 21:04:29.35ID:EVX2OC1n
朝鮮役において、加藤清正は朝鮮の国境を越え兀良哈(オランカイ)に侵入。
そこで攻め懸かって来た兀良哈人の大軍を何とか退けると、朝鮮側の”鬼ぜく”という地域まで
後退した。

清正の軍はこの”鬼ぜく”に五日間逗留して人馬の足を休めていたが、
ここより五日の行程ほど離れた、”東せいしう浦”という所に、”せるとうす”という北国の武者大将が
居るということを清正が聞き、これを捕えるために東へと進軍した。

”せるとうす”は歳の程54,5。身長6尺5寸(約2メートル)ばかりの大男で、
彼は日本人の軍勢が接近していると聞き、要害に大勢の軍兵を集め引きこもっていた。

しかし清正家臣の鵤(いかるが)平治という者が大将となり、能き人数2千に鉄砲百挺を添えて
遣わし、要害の後ろの山より攻め懸けて、難なくこの”せるとうす”の身柄を捕縛した。

この時、ここで後藤という通詞を一人生け捕った。
この後藤という人物は日本の松前(北海道松前町)より漁船で出港した所、風に流され、
”せいしう浦”に流れ着き、それから20年ばかりここに居住しているのだという。

彼は兀良哈語も、朝鮮語も、勿論日本語も自由に使う能き通詞であったため、加藤清正も大変重宝し、
彼に直々に、二郎と名を付け、後藤二郎と名乗らせた。

この”せいしう浦”から、天気の良い日は、富士山が殊の外近々と見ることが出来た。
ここから富士山は、未申の方角(南西)に見ることが出来た。
松前は富士山の真北に当たるそうである。

そして”せいしう浦”は昆布が大変多く、家の屋根すら昆布で葺いていた。
清正の軍は、最初は昆布だとは考えもしなかったが、後に昆布だと知り、そこで日本人は
家々の上葺を取って汁にして食べていたそうである。
(清正高麗陣覚書)

浦というからは、今のウラジオストクあたりだろうか?流石にそこから富士山は見えないだろうと思うが、
ともかく清正の異国における記録である。昆布の屋根…。
0279人間七七四年2013/05/13(月) 21:16:13.85ID:8kKHaFUv
ウラジオストクは「東方を征服せよ」
とかいうロシア語だから、このころの現地の名称とは関係ないのでは
0280人間七七四年2013/05/13(月) 21:20:45.67ID:EVX2OC1n
>>279
ああそうか、ややこしくてすいません。
浦=港、ということで、今のウラジオストク港あたりかなとw
0281人間七七四年2013/05/13(月) 21:38:52.10ID:TqheAgPb
>>278
ttp://northernphotogallery-edge.blogspot.jp/2013/04/ls-denmark.html
これがデンマークの海藻で葺いた屋根らしい。意外と普通な印象。
0282人間七七四年2013/05/13(月) 23:21:32.29ID:tKj90qUw
海草と言ったら、きょんきょん師匠の海草列車を思い出す
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