戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0136人間七七四年
2013/04/27(土) 14:58:35.87ID:N+FLUHz7どう見ても他向けに書いた彦左衛門さんに何か
0137人間七七四年
2013/04/27(土) 15:01:20.23ID:JoVQ+hvdいろいろ藩内のこと言ってるからねw
それでも常朝さんの遺言通り、葉隠の原本は世に残っていない。
現在まで続いたのは写本が何種類かあったお陰様
0138人間七七四年
2013/04/28(日) 00:04:31.89ID:zc7Bpf76他人の悪口を書き連ねるもの。
0139人間七七四年
2013/04/28(日) 03:06:49.33ID:RAYSwZPo二代将軍秀忠のころ。
秀忠に従って上洛した藤堂高虎は、
月代を剃ろうにもあいにくその心得のある者を同行していなかった。
(もっとも、藩邸にあってもお抱えの月代剃りなといなかったようだが)
そこで「一銭剃り」なる町の髪結い職を招いたところ、
これがまたはるかに上手で心地良かった。
高虎が
「なかなかの腕前。十三石で召抱えよう。」
と言うほどであった。
ところがこの髪結い職、
「仰せはありがたいのですが・・。
うちには妻子と老いた母がおりまして、十三石ではとてもとても。
十五石五人扶持なら御奉公いたしますが?」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「十五石五人扶持といえば、平侍一人の禄と同じ。
それを剃工一人に与えるなどとんでもない。
この話、なかったことに。」と言った。
同じ日。高虎は家臣から、
福島浪人久留島和彦左衛門が会阪街でわび住まいしていることを聞く。
「これは捨て置けぬ。一万石で召抱えよう。」
と、さっそく使いを出した。
ところが、この久留島、
「仰せはありがたいのですが・・。
旧主、福島左門太夫が和泉殿と不仲であるのは周知の事実。
扶持米欲しさに元の主人の仇に仕えるなど、できませぬ。
よろしくお断り申し上げる。」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「さすがは豪傑!よくぞ申した。さても惜しいことよ。」と言ったという。
ほどなくして、久留島は紀伊国に召抱えられることになった。
俸禄は1万石。
久留島は、
「これはまったく人を見定める力の賜物である」と
書状をもって、高虎に謝意を表したという。
「開国遺事」
0141人間七七四年
2013/04/28(日) 09:33:11.02ID:26vnujXI0142人間七七四年
2013/04/28(日) 10:19:11.39ID:JO9xexL+大名クラスだと信頼できる近習にやらせるものだと思ってた
まあ高虎さんの近習は衆道大流行の集団だったらしいから別の意味で危険だったかもしれないが
0144人間七七四年
2013/04/28(日) 14:48:24.79ID:7HUDBhEw「秋之夜之夢噺」(個人蔵)という史料には、三春藩秋田氏歴代藩主のエピソードが記されています。
真偽とりまぜたエピソードの中に、初代俊季について、次の話が載せられています。
俊季はタバコが好きだったようです。3月か4月のころ、タバコの火消しを持ってくるよう声をかけたところ、
誰もやってこなかったそうです。俊季は、御殿を歩き回って家来を探しましたが誰もいません。
それもそのはず、家来達は、春の陽気に誘われ、三春城三階櫓の辺りで駆けくらべをやっていたのです。
家来達の遊びが終わった後、俊季は咎めることもせず、何の話もしなかったそうです。
俊季のタバコ好きはすさまじく、狩りに出かけた時は、馬の口取りをする中間のキセルを使ってタバコを吸ったそうです。
(記述者 個人名)
秋田俊季とタバコ|Web資料館|三春町歴史民俗資料館(生涯学習課) より引用
出羽より常陸宍戸、後に三春に移封した秋田俊季。俊季は、三春藩主になってわずか3年半、
ほとんど三春に住むことなく、慶安2(1649)年正月3日、52歳で死去しました。との記述もあります。
移封の顛末は 過去レスで 秋田実季と嫡男・俊季 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1136.html
三春は江戸時代から葉タバコの名産地だそうです。俊季が地元の煙草を吸っていたかどうかは
定かではありませんが、草葉(葉タバコ?)の陰から末永く三春の地を見守っていることでしょうね
0146人間七七四年
2013/04/29(月) 00:37:22.45ID:llpKtHqJでもタバコが狂おしいほど好きならそうは思わないよな
0147人間七七四年
2013/04/29(月) 01:29:46.44ID:jqvMRw0Nせっかくみんなが楽しく遊んでるのに水を差しても可哀想だと思ったのではなかろうか
0148人間七七四年
2013/04/29(月) 01:59:13.26ID:ADp+5ffoそれはさておきDQN眼竜も愛煙家だったっけ
0149人間七七四年
2013/04/29(月) 06:30:46.22ID:BjfKzb7M0151人間七七四年
2013/04/29(月) 12:57:07.98ID:RWWE4Uuz両者の対立中、利家の傍にあった細川忠興は、彼の跡継ぎである肥後守利長についてこの様に語った
「仮に奉行の者共が内談して、家康公を滅ぼすような事になれば、大納言殿(利家)は老病であります。
遠からず卒去なされるでしょう。そうなった後は奉行たちが肥後守殿を追い倒すのに、手間はいりません。」
そのように将来を見通し、
「そういう状況であると私は判断しますが、ここで家康公と筑前守殿が入魂な関係になれば、これは将来的に肥前守殿の
おためにとっても良い結果となるのではありませんか?」
このように異見したところ、前田利家もこれに納得し、さらに加藤主計頭清正、浅野左京大夫幸長を加えて
相談した上、家康との和平を行うとの決断に至った。
この事は後になって知られたことである。
(玉露叢)
細川忠興、前田利家を説得する、というお話
0152人間七七四年
2013/04/29(月) 13:04:43.06ID:GIZpt2zd0153人間七七四年
2013/04/29(月) 13:11:06.96ID:RWWE4Uuz0154人間七七四年
2013/04/29(月) 16:12:40.42ID:MYQo4QZ8ある夜、仏道の話題になって和尚が「仏法は元来釈迦如来の法ですが、八宗・十宗と分かれ、
その宗旨ごとに、それぞれの教え方、勤め様があります。
しかし、元来は一の法なので、諸宗を信仰し、あれもこれも学ぶことを雑学・雑門と申します。
どの宗においてもよろしからぬ事でありまして、ましてや念仏宗はたいそう嫌っています」
と申し上げた。
それを聞いて家康は「それは当然だな。万の筋道を学び、諸芸を努めているようでは、
一筋に思い入って修行することが難しいのも道理である。
しかしながら、後世を願う有り様には大と小では心の違いがある。
つまり、我が身を助けたいためばかりに後世を願う者は、何れにしてもその身に
思い入る宗旨を一向に頼み入っていれば、他宗を構わなくとも埒が明く。
だが、天下国家を統治する者にとっては、自分一人が成仏する分別では義理が違う。
願わくは、天下の諸民をことごとく成仏させようと思う願いを立てなくては叶わない事だ。
宗旨には八宗・十宗があって一様ではない。それでも、諸宗とも手抜かりなく立て置き、
諸々の衆生を遍く導かす。これを天下を有つ者の願い様というのだ」と言った。
これを聞いて和尚は「誠に御尤もの事です」と感銘を受けた。
――『責而者草』
0155人間七七四年
2013/04/29(月) 17:14:58.18ID:d4YkiolL0156人間七七四年
2013/04/29(月) 17:40:08.52ID:RWWE4Uuz個人として後世を願う範囲のことを言ってるんでしょ。>大小
普通の人なら個人の救済を願えばいいけど、天下人の立場だと自分個人より天下の人々全てに対する
救済を願わなければならない、という。
0157人間七七四年
2013/04/29(月) 21:37:18.27ID:oyb4lvdoそういう問題よりも、近習や小姓が一人も主君の声の届くところに居なかったっていうのは
本来はかなりの責任問題のような気がする
0158人間七七四年
2013/04/30(火) 17:21:45.60ID:WcLDP+Sq加賀において三百貫の知行を得ていた。おそらく一向宗であったのだろう。
ところが、三方ヶ原の合戦で家康が敗北したことを聞くと、三百貫を捨てて家康の元に帰参してきた。
家康も不思議に思い
「どうして帰ってきたのだ?」
と尋ねると、善助は
「三方ヶ原にて御負けになったと承り、御用に立とうと罷り帰って参りました!
聞いた所によると、上方の誰々とか言うような名の通った者達を、80人ばかり召抱えて出陣した所、
その者達は皆、逃げ出したそうでは有りませんか!
だいたい上方者などというのは、何れもそういう連中なのですぞ!」
つまりまあ、そんな連中を召抱えるくらい困っているのであれば、自分が帰った方が役に立つ。
と言いたいのであろう。
これを聞いた家康は
「お前が居なくても、私が事欠くようなことなど有るものか!」
と強がったが、影では喜んでいたそうである。
(汝が無きとて御事欠らるべきやと御意成候へども、影にては御よろこび被成候由)
(紀伊國物語)
ちょっとツンデレな家康と三河者のお話である。
0159人間七七四年
2013/04/30(火) 23:32:34.23ID:jVZGkdIB0160人間七七四年
2013/05/01(水) 11:05:29.74ID:VzXwjVnU0161人間七七四年
2013/05/01(水) 14:16:35.37ID:ZEPS/1lc三河一向宗問題も落ち着き、
東三河の今川氏の吉田城を攻め落としたことで、
徳川氏悲願の三河統一を果たしたときのこと。
家康公は民政にあたらすために、
岡崎に三奉行をおくことにした。
その三人というのが、
高力清長、本多重次、天野康景。
この三人はそれぞれの気質から、
『仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野』
とそれぞれに異名がついていたのである
0162人間七七四年
2013/05/01(水) 15:05:54.48ID:hDelicPc0163人間七七四年
2013/05/01(水) 22:14:44.51ID:bwMuGTIT天野康景の「どちへんなし」っていうのは、公正無私っていう解釈でおkなのかな?
>>158
帰参した善助さんがどれくらいの知行を貰ったのかが気になるw
0164奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2013/05/01(水) 22:56:49.69ID:AQh68GHL0165人間七七四年
2013/05/01(水) 22:59:08.37ID:u3rwnvl2つまり外面如菩薩内面如夜叉
0166人間七七四年
2013/05/02(木) 16:30:16.37ID:adGYcaG/0167人間七七四年
2013/05/02(木) 18:18:59.52ID:m+xnMj9D成政は本陣をもって後巻を抑え、厳しく攻めた。成政は「この城さえ破れば能登一国は即座に
打ち従うことだろう。後巻のないうちに乗っ取れ!」と命じた。
末森城はわずか二、三百ばかりの士卒で敵を防いでおり、永福は「これほど強く攻められては、
もはやこれまでだ。自害しよう…」と悲観的であった。
しかし、その妻は小袖を掻き取り、鉢巻をして刀を横たえ、鹿をたくさん煮て下女に持たせ、
塀内の人々に自ら配り食べさせていた。
そして「昔、楠とかいう大将は日本国を敵にして籠城したと聞きます。
明日は金沢より後詰のあることでしょう。ただ、一夜を防ぎなさい」と励まし廻っていた。
その姿を見て永福は「今日の振る舞いは男子よりもすぐれている」と言った。
――『責而者草』
0169人間七七四年
2013/05/02(木) 21:47:00.01ID:xLl5yIBO0170人間七七四年
2013/05/03(金) 08:57:08.53ID:ZVfYmyJK0171人間七七四年
2013/05/03(金) 11:37:56.35ID:8SKGvBND勝茂さまの時代に仕えた人たちは、
「七度浪人しない者は本当の奉公人ではない」
(七度浪人せねば誠の奉公人にてなし)
「七転八起 七転八起」
と、口癖のように申していたとのことだ。
成富兵庫も七度浪人を言い渡されたという。
起き上がり小法師のように心掛けていればよい。
殿も、家臣のためを思い言い渡すこともあろう 【葉隠】
0172人間七七四年
2013/05/03(金) 11:44:23.98ID:gebgZCnY0173人間七七四年
2013/05/04(土) 17:07:29.49ID:PjsXC9Kx赤前垂れを掛けて出て見物した。
秀吉は馬上より見て「只今、わしは内裏にて能を行うつもりだ。皆々見物においで」
と、声をかけた。
――『老人雑話』
0174人間七七四年
2013/05/04(土) 17:47:43.83ID:JTaylOhgTERU様や権現様、三斎様達も一緒に演じたという
0175人間七七四年
2013/05/04(土) 17:50:32.29ID:FpbL+zkr0176人間七七四年
2013/05/04(土) 17:58:14.34ID:ZewW5fSu0177人間七七四年
2013/05/04(土) 18:23:47.63ID:m1oTDi/P0178人間七七四年
2013/05/04(土) 18:50:52.21ID:fZHH2sSl0179人間七七四年
2013/05/04(土) 19:17:04.04ID:6do0mkWy0180人間七七四年
2013/05/04(土) 19:50:28.66ID:JTaylOhg0181人間七七四年
2013/05/04(土) 19:59:13.41ID:bdi90EW+今回は、下女の耳や鼻を削がなかったよい話
0184人間七七四年
2013/05/05(日) 00:41:03.70ID:wsoNoVcBまあ、続きがあったら何人かの首が飛んでいそうなので、ない方がいいんだけど
0185人間七七四年
2013/05/05(日) 09:59:52.54ID:uqsrtS/Xただ秀吉を題材にした新作能はその後演じられなかったみたいだから評判よくなかったのかもね
0186人間七七四年
2013/05/05(日) 11:26:16.45ID:fmTYy2Wi秀吉の能とか和歌って
0187人間七七四年
2013/05/05(日) 12:31:17.38ID:z1SzEs6S技巧にこってない分、現代人でも理解しやすい
0188人間七七四年
2013/05/05(日) 12:45:26.47ID:7wlvYMVyと思ったが明智光秀や秀吉や清正は能でもけっこういい役か
0189人間七七四年
2013/05/05(日) 12:49:38.18ID:Q8UBk4O3はっきり言えば秀吉が生きている間しか意味が無い。
0190人間七七四年
2013/05/05(日) 12:54:55.89ID:BkSiWucm「吉野詣」 :吉野に参詣した秀吉の前に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を寿ぐ内容
「高野参詣」 :母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称える内容
「明智討」「柴田」「北條」 :それぞれの合戦における秀吉の戦功を称えたもの
これだけ露骨な自己宣伝ができるのが、よくも悪くも秀吉の強みだなw
0192人間七七四年
2013/05/05(日) 14:06:11.14ID:4SvqP0Kd出来のよしあしと別にお偉いさんの自慢話好き好んで上演したいかというと
0193人間七七四年
2013/05/05(日) 17:05:28.29ID:v8cyr6lz0194人間七七四年
2013/05/06(月) 00:34:38.52ID:pZRMsUYR0195人間七七四年
2013/05/06(月) 01:19:22.83ID:T+8jpSKjだからなぁ
フロイスも秀吉は必要以上に自分を大きく見せようとしていたと記してるし
天下人の演出なのか、素の性格なのか…後者な気もするがw
0196人間七七四年
2013/05/06(月) 07:31:06.78ID:UwuGLQuO天正三年信長、長秀に惟任の氏を賜り壱岐守に任じた。
長秀は「惟任については畏まり受け奉りますが、
壱岐守についてはご勘弁ください
某は若き時分より呼ばれている五郎左衛門のままでいたいのです。」
と達て申し上げたので、その望みに任された。
0200人間七七四年
2013/05/06(月) 10:10:09.55ID:MqipYOaQ0201人間七七四年
2013/05/06(月) 12:11:19.22ID:rbk7QNbd兵は好ましくないことである、と。
間違いない。天もこれを憎む。
しかし、やむにやまれぬときこれを用いる。
これもまた天の道である。
これはどういうことかと言うならば、
弓矢、太刀、長刀、これを兵と言い、
これらは不吉で好ましくないと言うことだ。
それはなぜかと言えば、
天の道は万物を活かす道であるから、
殺すということは実に好ましくないことである。
だからこれは天の道に違うことであり憎むという。
然れども、やむにやまれず兵を用いて人を殺すことを、
これもまた天の道という。
その心は、と問われ答えるならば、
春には花が咲き、緑が溢れるものだが、
秋には霜が来て、葉は落ち、木はしぼむ。
これ、天の成敗なり。
天には完成(極点に至った)したものを、打つという道理がある。
人も運命のなかで仕方なく悪をなしてしまうこともある。
しかしその悪も極点にまで至れば、これを討つ。
ここをもって、兵法も天の道であるとわかる。
一人の悪によって万人が苦しむことがある。
して、一人の悪を殺して万人を活かす。
是のように、人を殺す刀は、人を活かす刀であるべきだろう
【柳生宗矩 兵法家伝書序文より】
0203人間七七四年
2013/05/06(月) 13:59:06.82ID:VRfQYVs90204人間七七四年
2013/05/06(月) 14:03:28.71ID:rfW7RL6N0205人間七七四年
2013/05/06(月) 14:05:17.21ID:VRfQYVs90206人間七七四年
2013/05/06(月) 16:39:12.55ID:MdqkBZOeほかには鳥居元忠あたりが思い浮かぶけど
こっちは主君(家康)以外からはものはもらわん!という主張だったけど
0207人間七七四年
2013/05/06(月) 16:47:18.72ID:dnehOCSr0208人間七七四年
2013/05/06(月) 23:52:31.27ID:XfzQvwLM家臣に大杯の時には少量の酒を受け、小杯の時には満杯の酒を受ける者がいた。
嘉明はこれを見て「汝等は酒の受け方を誤解している。
大盃は一時にたくさん飲むためのものだから、十分に受けるものであり、
小盃は何度も少量を飲むためのものだから、軽く受けるものだ」と言った。
――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』
0209人間七七四年
2013/05/07(火) 10:25:10.37ID:UThT27B9松山城行ったら鎧があったけど、隣の松平定勝のやつより一回り小さかった
0210人間七七四年
2013/05/07(火) 13:43:56.19ID:+9nPv47oあるいは叛臣を征し不逞の国を伐っするに武威をもって
あるいは忠功を賞し慈愛をもって降を許したまう。
これによって諸侯大夫は武命に帰し、初めて天下一統す。
(小松軍記)
小松軍記の出だしなんだけど、読んだ瞬間、目が点になったので紹介
0211人間七七四年
2013/05/07(火) 14:10:22.76ID:pCP2coqL0212人間七七四年
2013/05/07(火) 18:37:55.09ID:XmOH3kGB0213人間七七四年
2013/05/07(火) 20:27:09.64ID:k87/HpNS秀吉が伴の小姓衆14,5騎ばかりで宿泊する事があった。
井伊兵部少輔(直政)はこれを見て、徳川家康に進言した
「これぞ幸いの時分です!今押し寄せて秀吉を討ち取ってしまえば、天下を奪うこと
掌にあるようなものです!」
流石は隙あらば秀吉を殺したい病気の井伊直政である。しかしこれに家康は
「今回の秀吉の軍事行動自体、この家康を頼りにしての出馬であったのだ。
そうであるのに、飼い鳥の首を絞めるような、酷いことはせぬものだ。
武辺というものは、その身が産まれてからの努力で身に付けることが出来るが、
天下を知るためには自分自身ではどうにもならない、大きな幸運が必要だ。
だいたいお前の進めるような働きは、敵に怯えるあまり、却ってさらなる強敵を
呼び寄せるようなものである。
私のところに嫁いできた秀吉の妹は、3年前に死去した。
その上今度の敵であった北条氏直は、私の婿であった。
それにもかかわらず秀吉は私に心許した。そう言う人にむごい行為を
するべきではない。」
そういって、同心されなかったという。
(紀伊國物語)
0214人間七七四年
2013/05/07(火) 20:43:24.51ID:asfRCIOu0215人間七七四年
2013/05/07(火) 22:05:08.64ID:xw7xX6oa「兵法家伝書」の柳生宗矩の言葉だとこれと
「目的が正しければ謀(はかりごと)も真となる」みたいなのが好き
他の剣豪の言葉と(良くも悪くも)一線を画してる感じだけど
0216人間七七四年
2013/05/07(火) 22:07:42.56ID:T9McTrWu柳生が幕府の隠密あつかいされる理由がわかった気がする
0217人間七七四年
2013/05/08(水) 11:44:46.31ID:R4tdSUWV0218人間七七四年
2013/05/08(水) 12:13:00.93ID:97/v4Lob帯刀が喉が渇いたと言っているのに!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6770.html
大坂落城の日、上記の逸話の直後のお話
家康公は茶臼山へ登られたが、谷合から家康公めがけて鉄砲が
打ち込まれた。
お供の衆は大いに騒いだが小従人衆の三人がそこへ駆けつけ、
鉄砲を打ち込んだ者を見つけると、それは金笠をかぶった足軽
一人だったので、これを召し捕えて茶臼山へ引っ立てた。
本多上野介がその場に居合わせ、お前は誰の家来で只今鉄砲を
打ち出したのだと尋ねられると「私は本多上野介の足軽です。
上様とは存ぜず、敵と思い打ちかけました」と話すと上野介は
「言語道断不届きなる奴かな」と言い放つ。
家康公は小従人衆の方へ向かわれ「放してやれ放してやれ」と
仰せられたので足軽は追い放された。
上野介が「不届きな奴なので成敗しようと思っていた所、御意を
もって助けられ冥加に叶いたる奴です」と申し上げると、
家康公は「我らは本道ではなく脇道から来て、その上に持旗長柄等
も無かったのだから敵だと思うのも道理であり、足軽どもには罪は
ない」と仰せられた。
(近古武談)
0219人間七七四年
2013/05/08(水) 12:17:39.48ID:c1R9hiqg0220人間七七四年
2013/05/08(水) 12:33:58.42ID:d39vHQ9f柳生宗矩は創作だと「権」を強調されて「剣」はいまいち扱いされがちだけど
当時の評価は剣豪としてもぶっちぎりに高いよ
0221人間七七四年
2013/05/08(水) 12:46:39.42ID:Wm0auKVY0222人間七七四年
2013/05/08(水) 13:10:00.33ID:97/v4Lob広家は石田三成に与力していたが、ある日美濃路をさして来る
敗軍の士卒があった。戦いも始まらないのになんびとだと尋ね
させると水口城主長束正家であった。
正家は「あれを見てくれ、海上に雲霞の如く兵船が押し寄せて
敵に取り囲まれたらどうしようかと存じ、あなたと合流してから
戦おうと人数を引き取ってきた」と言う。
広家が水上を見るとそれは漁火の影であった。「これは兵船に
あらず漁火の光です」と告げると正家は言葉も無かった。
広家はこれは衰運のなすところこそと思い、たちまち心を翻し
徳永法印も諭したのを幸いとして遂に関東に味方した。
このたび広家がもし関東に味方せずば、いかに毛利家に西国を
賜うことが出来たであろうか。
知勇兼備よく機変を考え禄を本家へ譲り周防長門の主となったが
自身は退いて陪臣となった。
(近古武談)
0223人間七七四年
2013/05/08(水) 13:46:11.03ID:SeK/Wbwr漁火って木曽川とか長良川の鵜飼の篝火かね?
0225人間七七四年
2013/05/08(水) 14:46:59.92ID:HDRoXa+z0226人間七七四年
2013/05/08(水) 15:17:29.21ID:cV3DKTfK0227人間七七四年
2013/05/08(水) 15:38:53.99ID:97/v4Lob史実では8月5日頃に正家と恵瓊が伊勢へ向かい。
広家もその頃までは瀬田で普請をしてて、同じ時期に伊勢に陣替えになった筈。
0228人間七七四年
2013/05/08(水) 20:54:39.02ID:GQFIaNJS嘉明は密かに侍臣を遣わしてその状況を見てこさせた。
帰ってきた侍臣は大体の状況を述べた。
次に、来会していた人名を告げようとすると、嘉明はこれを制して曰く、
「その氏名を聞く必要はない。友人に善き者は、主人にもまた忠なる者だ」と言った。
来会した人々はこれを伝え聞いて嘉明の人徳雅量に感動し、
それ以来、大いに謹慎して、かつ忠勤を尽くしたということである。
――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』
0234人間七七四年
2013/05/09(木) 01:17:28.21ID:Bw6eNhzJ0235人間七七四年
2013/05/09(木) 06:32:57.24ID:6mHml9+fところが川向うの信玄の備を見て、戦うこと無く引き返した。
その信玄の備は、一の手が若武者によって、二の手が老巧の者達によって
作られ、川に向かっていた。
謙信が引き下がったのはこの備の構成が
「一の手の若武者を用いる時は、二の手の老巧の者達に恥を見せぬよう
一層尽力する。また二の手の老武者たちも、若者に劣ってはならぬと、
互いに競争して働くためである。」
との理由からであった。
(紀伊國物語)
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