戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0103人間七七四年
2013/04/23(火) 20:13:20.07ID:g26aoxZVみんな相応の武士だったんだな
0105人間七七四年
2013/04/23(火) 22:18:35.15ID:3mSfHB9G良い家臣が揃っていたんだろうけど宇喜田騒動後の関が原でもきっちり戦っていたし
0106人間七七四年
2013/04/23(火) 22:25:14.98ID:7RO21V+k0107人間七七四年
2013/04/23(火) 22:30:59.89ID:sewJ/kWG調べてみたけどよく解らなかったです。すいません。
>>106
宇喜多騒動で家中がボロボロに成って、関ヶ原の時は慌てて雇った浪人衆が中心で、
組織としてかなり弱体化していたのは確かみたいね
0109人間七七四年
2013/04/23(火) 23:58:27.68ID:+v3PqY6p異国の鎧は興味深いものだったんだろうか
0110人間七七四年
2013/04/24(水) 00:16:10.19ID:UVm6ppJ6小笠原氏の兵に安積覚兵衛という者がいた。
関が原の戦いにて敵の首級を五つまでも斬り取り帰ろうとしたとき、
道で敵兵が弾丸に当り痛み苦しんでいる所を見た。
覚兵衛は大いに哀れみの心を起こし、懐中より用意の薬を取り出してこの敵に与えた。
敵兵は涙を垂れて深くその徳を深く感謝したという。(武人百話)
0111人間七七四年
2013/04/24(水) 00:18:33.88ID:WUOOn8ck0112人間七七四年
2013/04/24(水) 00:53:11.32ID:UVm6ppJ6まとめのときは後半の深くを消して下さい。申し訳ないです。
0114人間七七四年
2013/04/24(水) 10:14:30.56ID:jpOzawHf0115人間七七四年
2013/04/24(水) 14:40:59.52ID:aP/+VbRj/ `ヽ、
ー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::',
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ
l { .、 /
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'、 `'ー‐''" / lzュ、__
---‐ヽ -' / 〃ィ ヾ'‐,--
/ | |iゝr;ァ--‐''" 〃/./ l |
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0117人間七七四年
2013/04/24(水) 20:04:32.46ID:HIWjC6t10118人間七七四年
2013/04/24(水) 20:05:47.99ID:l8zmPzHF0119人間七七四年
2013/04/25(木) 01:02:54.87ID:2K+/FzGxモデルのほうは江戸中期の人らしいし
祖父か曾祖父あたり?
0120人間七七四年
2013/04/25(木) 01:09:51.62ID:sGsayooU0121人間七七四年
2013/04/25(木) 09:48:52.95ID:cv448O930122人間七七四年
2013/04/26(金) 02:32:17.22ID:tctn1ZL0鮭様の息子のうちなんだかんだで長生きできたのは山野辺義忠だけで、
水戸黄門の設定に一番近いっぽい水戸藩家老山野辺家の当主がその息子の義堅
それでも計算は合わないんだけど、その次の代だともっと計算が合わない
0123人間七七四年
2013/04/26(金) 08:38:38.83ID:tevBDvFtそのなかで、山野辺さまは当主になる前の黄門さまに、自身の体験を引き合いにして歴史を綴るものの心得を喚起しながらも藩の金を無駄にするんじゃねえと釘をさしてたなあ
0124人間七七四年
2013/04/26(金) 16:21:44.73ID:6ELO8pjd大昔から弓術をもって名を顕す者は多いといえども、その強弱、審固、持満は詳らかではない。
しかし、正次は一人その微妙を得ている。古今に傑出しているというべきだ。
正次は諸国に遊び、後に紀州高野山に赴き、剃髪して瑠璃光坊威徳と号した。五十九歳で没す。
(武家小伝)
内野合戦の時、日置の矢先にとどまる物はなかった。矢種が尽きてしまうと日置は土居陰に隠れた。
そこを敵が襲ってきたので、日置はふと出でて弦打ちして「えい」と言った。
すると、敵はその声を聞いて逃げ散ってしまった。
(関六蔵伝書)
――『日本史伝文選』
0125人間七七四年
2013/04/26(金) 16:46:37.63ID:lk5iIdeN01261/2
2013/04/26(金) 20:05:43.28ID:8ddZDRGHこれに高野山八谷は会合して詮議をした。何故なら秀吉の主君(信長)は高野山の大敵であったので、
今になって騙し寄せて、流刑や死罪を科すのではないかと強い疑いが有ったためである。
高野山ではそこかしこで集まっては、毎日この件を論じたが、自分が行く、という僧は一人も
いなかった。しかしこのまま遅参をしては、直以って不審を被る事になる。どうすべきかと
悩んでいた所に、とある僧がここんな事を言い出した
「私が思うに、近頃高野に上がってきた木食(木食応其)という者がいるが、これを頼んではどうだろう?
彼はよろずの事に学才があり、考え深い者なので、公儀に送っても間違いはしないでしょう。」
これを聞き、僧たちは皆、それが最も良いと考え早速木食を召し寄せた。
ところでこの木食は、近江北部の武士であったが、戦乱により一所懸命の地を離れることになって
世を恨み、それならば高野山に上り木食(木の実や草だけを食べて修行すること)を成して、
往生の素懐を解くべきと思い定め、峠の川で御山の方を伏し拝み
『我、故郷を去って大師を頼み、高野山に上る以上、今後再びこの川を渡らぬ!』
と大願を立てて高野に上ったのである。
かくして柴の庵を結び、木の実を食して経を読み念仏し、また徒然には歌を読み、趣味に
連歌などして光陰を送るほどに、高野の各寺院の僧たちも彼を寺に呼んで、茶を轢かせたり
掃除をさせるなどさて、ここそこで「木食、木食」と召し使っていた。
さて、衆徒会合の桟敷に罷り出て、沓脱ぎのあたりに畏まった木食は「何の御用でしょうか?」と
申し上げると、高野山の長吏が代表して
「ただいま汝を呼び出したのは他でもない、御辺も聞き及んでいるだろうが、殿下様(秀吉)より
高野の老僧に急ぎ御礼に参るようにとの御諚使を下された。ではあるが我らは山僧なので
公儀の儀礼作法など知らない。
一方汝は年頃も丁度良く、また才覚のある人物なので、高野山の代僧となって殿下のもとに
行って頂きたいのだ。これをやり遂げればその後、その方の望みは何であっても叶えて取らすぞ?」
木食承って「皆様がこのようにお頼みになっている以上、拒みがたい事ではありますが、私は
この山に登ろうと決心した時、峠の川において大師に、この度この川を、今生渡るまじきと申し
誓いを立てたのです。ですので当山を降りる事は出来ません。」
僧たちはこれを聞いて「その義は安心してほしい。高野の一山が大師にお詫び申し上げる。
よって罪は些かも御辺に科されることはない。」
これに木食も「そこまで言われては、この上は仕方有りません。」と了承し。大阪へと
参ることと決まる。諸僧は大いに喜んだ。
01272/2
2013/04/26(金) 20:06:18.05ID:8ddZDRGH「お主は高野山の長吏であるか?」
「左様でございます。木食上人とは愚僧のことでございます。」
木食の事を聞いた秀吉は、彼が木食の修行をしている事を大変殊勝に思い、たいへん機嫌も良く、
そのまま逗留させ高野山の様子を丹念にお尋ねになった。木食は元より文才深厚の人物なので、
秀吉はすっかり彼に魅了され、ついには
「今後は木食上人に高野山の支配を任せ置く!もし異議に及ぶ僧などがあった場合は、
上人の心次第にいかようにも計らいをなされて、無事に治めてほしい。
弘法大師の仕置のごとく、仏法勤行を昔に返し、経学を業とすべし!
甲冑や武具など出家の身に必要ない。早急に点検して没収すべきである!」
この命を受けて木食は大阪を離れることとなった。その際様々な禄を給わったという。
かくして木食上人は大阪より輿に乗り、秀吉より付けられた50人の足軽に守られ高野の麓の
木ノ芽峠まで来るとここで一宿して高野山へと使者を立てた。
『一山、老僧を始めとして一人残らず出迎えに来るように。』
これを見た高野の僧たちは大いに驚き、
「これは一体何事か!?かかる慮外千万の使いを木食はどうして寄越したのだ!?」
と憤慨し評議したが、一方で
「いやいやそのように考えてはならない。殿下様からいかなる事を仰せ付けられたのか測り難いではないか。
まずは言われた通りに行って見るべきであろう。」
この意見に皆もそう思い、老若の僧たち揃って木ノ芽峠に集まった。
そこで木食は座上に座り、彼らに申し渡す
「いかに高野の法師たちよ!今後一山をこの木食が仕置いたす事となった!
仔細は後で山で聴かせるであろう。
僧侶たちよ!この木食の乗っている輿を担いで、私を山に上げよ!」
木食の前後には6,70人の侍があり、僧たちが反抗的な態度をとるのを厳しく制したため、
僧たちは異議に及ばず、各々輿を担いで山へと上ったそうである。
木食はこうして一山の長吏となり、新たに制法を定めた。これにより山も治まり、
つつがなく目出度いことである。
(義殘後覺)
木食上人が高野山の長吏となった経緯である。
0128人間七七四年
2013/04/26(金) 21:36:07.25ID:EC1KSH/hでもこの人が居なかったら高野山の復興は相当遅れただろうしなあ
0129人間七七四年
2013/04/26(金) 21:44:12.69ID:EHn1Pe3t源義家成分(要素?)もけっこうな濃度で入ってる気がする
もっとも、日置さんが退治したやつはモノノケじゃなくて生身の人間なんですねい
0130人間七七四年
2013/04/27(土) 01:33:03.76ID:E5ujqAhY0131人間七七四年
2013/04/27(土) 12:01:35.57ID:JoVQ+hvdなんの取り柄もない私だから、
目立った奉公もせず、戦場の働きにも出会えなかったが、
若い頃からひたすら一心に、
「殿の一番の家来は自分である。
武士の道では誰にも負けない」
と、骨の髄まで思い込むようにしていたからか、
どれほど知識ある人も、また武勇ある人も、
私を見下すようなことは出来なかった。
それどころか、人々が親切にしてくれてもったいないばかりであった。
自分はただ殿を大切に思い、何が起ころうと、
そのときには直茂さまより伝わる、
死狂いの働きを我一人がするのみぞと、
その覚悟を決めていただけのことであった。
これまで口にしなかった事を今だから言うが、
一念が神仏に通じたとでも言えばいいのだろうか、
不思議と私の覚悟を世間も認めてくれたものである。
(1/2)
0132人間七七四年
2013/04/27(土) 12:31:21.93ID:JoVQ+hvd御一統の方々の親切に心から感謝の意を表すばかりである。
主君に身命を捨ててお仕えすることは、
お家代々に仕えてきた武士の場合は、
奉公に出るのか、出ないのかは別にして、
なにか御用を勤める場合には、
格別の心がまえを持つべきであろう。
録高を増していただいたり、
金銀をたくさんいただいたり、
それらもとてもありがたい事だが、
切腹するほどの志は、主君のありがたい御一言から起こるものだった。
江戸で火事場の部署を決めるときに、
私を御書物の係にするよう申し上げられたところ、
「若者の事であるから、私の直参として召し抱えよう」
と仰せられたときは、すぐにも身命を差し上げる気持ちになった。
また、殿の使われた夜着とお布団をいただいた時にも、
「私が独断で召し抱えた者に録高を増すのも憚るから、
気持ちだけのことをお前にしたまでだ。
家老たちに礼を言う必要はない」
と仰せられた。
このときも、追腹の法度が出る以前なら、
このお布団を敷き、夜着をかぶって、
殿の後を追うほどの御恩だと、
格好をつけず自然とありがたく思ったものである【葉隠】
(2/2)
0133人間七七四年
2013/04/27(土) 14:06:44.92ID:Zm2+Zaus葉隠れでは何度もこんなことを語ってるけど本当に黙っていたのだろうかといつも気になる
0134人間七七四年
2013/04/27(土) 14:15:24.22ID:JoVQ+hvd黙っていたのは本当だと思うよ。
田代陣基が、山本常朝の出家した後の籠り山を訪ねなければ、
葉隠は世に出ていないだろうから
0135人間七七四年
2013/04/27(土) 14:46:40.56ID:ESSa2gdl常朝さん的にはあの世でフェイスファイヤーもんだろう
0136人間七七四年
2013/04/27(土) 14:58:35.87ID:N+FLUHz7どう見ても他向けに書いた彦左衛門さんに何か
0137人間七七四年
2013/04/27(土) 15:01:20.23ID:JoVQ+hvdいろいろ藩内のこと言ってるからねw
それでも常朝さんの遺言通り、葉隠の原本は世に残っていない。
現在まで続いたのは写本が何種類かあったお陰様
0138人間七七四年
2013/04/28(日) 00:04:31.89ID:zc7Bpf76他人の悪口を書き連ねるもの。
0139人間七七四年
2013/04/28(日) 03:06:49.33ID:RAYSwZPo二代将軍秀忠のころ。
秀忠に従って上洛した藤堂高虎は、
月代を剃ろうにもあいにくその心得のある者を同行していなかった。
(もっとも、藩邸にあってもお抱えの月代剃りなといなかったようだが)
そこで「一銭剃り」なる町の髪結い職を招いたところ、
これがまたはるかに上手で心地良かった。
高虎が
「なかなかの腕前。十三石で召抱えよう。」
と言うほどであった。
ところがこの髪結い職、
「仰せはありがたいのですが・・。
うちには妻子と老いた母がおりまして、十三石ではとてもとても。
十五石五人扶持なら御奉公いたしますが?」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「十五石五人扶持といえば、平侍一人の禄と同じ。
それを剃工一人に与えるなどとんでもない。
この話、なかったことに。」と言った。
同じ日。高虎は家臣から、
福島浪人久留島和彦左衛門が会阪街でわび住まいしていることを聞く。
「これは捨て置けぬ。一万石で召抱えよう。」
と、さっそく使いを出した。
ところが、この久留島、
「仰せはありがたいのですが・・。
旧主、福島左門太夫が和泉殿と不仲であるのは周知の事実。
扶持米欲しさに元の主人の仇に仕えるなど、できませぬ。
よろしくお断り申し上げる。」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「さすがは豪傑!よくぞ申した。さても惜しいことよ。」と言ったという。
ほどなくして、久留島は紀伊国に召抱えられることになった。
俸禄は1万石。
久留島は、
「これはまったく人を見定める力の賜物である」と
書状をもって、高虎に謝意を表したという。
「開国遺事」
0141人間七七四年
2013/04/28(日) 09:33:11.02ID:26vnujXI0142人間七七四年
2013/04/28(日) 10:19:11.39ID:JO9xexL+大名クラスだと信頼できる近習にやらせるものだと思ってた
まあ高虎さんの近習は衆道大流行の集団だったらしいから別の意味で危険だったかもしれないが
0144人間七七四年
2013/04/28(日) 14:48:24.79ID:7HUDBhEw「秋之夜之夢噺」(個人蔵)という史料には、三春藩秋田氏歴代藩主のエピソードが記されています。
真偽とりまぜたエピソードの中に、初代俊季について、次の話が載せられています。
俊季はタバコが好きだったようです。3月か4月のころ、タバコの火消しを持ってくるよう声をかけたところ、
誰もやってこなかったそうです。俊季は、御殿を歩き回って家来を探しましたが誰もいません。
それもそのはず、家来達は、春の陽気に誘われ、三春城三階櫓の辺りで駆けくらべをやっていたのです。
家来達の遊びが終わった後、俊季は咎めることもせず、何の話もしなかったそうです。
俊季のタバコ好きはすさまじく、狩りに出かけた時は、馬の口取りをする中間のキセルを使ってタバコを吸ったそうです。
(記述者 個人名)
秋田俊季とタバコ|Web資料館|三春町歴史民俗資料館(生涯学習課) より引用
出羽より常陸宍戸、後に三春に移封した秋田俊季。俊季は、三春藩主になってわずか3年半、
ほとんど三春に住むことなく、慶安2(1649)年正月3日、52歳で死去しました。との記述もあります。
移封の顛末は 過去レスで 秋田実季と嫡男・俊季 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1136.html
三春は江戸時代から葉タバコの名産地だそうです。俊季が地元の煙草を吸っていたかどうかは
定かではありませんが、草葉(葉タバコ?)の陰から末永く三春の地を見守っていることでしょうね
0146人間七七四年
2013/04/29(月) 00:37:22.45ID:llpKtHqJでもタバコが狂おしいほど好きならそうは思わないよな
0147人間七七四年
2013/04/29(月) 01:29:46.44ID:jqvMRw0Nせっかくみんなが楽しく遊んでるのに水を差しても可哀想だと思ったのではなかろうか
0148人間七七四年
2013/04/29(月) 01:59:13.26ID:ADp+5ffoそれはさておきDQN眼竜も愛煙家だったっけ
0149人間七七四年
2013/04/29(月) 06:30:46.22ID:BjfKzb7M0151人間七七四年
2013/04/29(月) 12:57:07.98ID:RWWE4Uuz両者の対立中、利家の傍にあった細川忠興は、彼の跡継ぎである肥後守利長についてこの様に語った
「仮に奉行の者共が内談して、家康公を滅ぼすような事になれば、大納言殿(利家)は老病であります。
遠からず卒去なされるでしょう。そうなった後は奉行たちが肥後守殿を追い倒すのに、手間はいりません。」
そのように将来を見通し、
「そういう状況であると私は判断しますが、ここで家康公と筑前守殿が入魂な関係になれば、これは将来的に肥前守殿の
おためにとっても良い結果となるのではありませんか?」
このように異見したところ、前田利家もこれに納得し、さらに加藤主計頭清正、浅野左京大夫幸長を加えて
相談した上、家康との和平を行うとの決断に至った。
この事は後になって知られたことである。
(玉露叢)
細川忠興、前田利家を説得する、というお話
0152人間七七四年
2013/04/29(月) 13:04:43.06ID:GIZpt2zd0153人間七七四年
2013/04/29(月) 13:11:06.96ID:RWWE4Uuz0154人間七七四年
2013/04/29(月) 16:12:40.42ID:MYQo4QZ8ある夜、仏道の話題になって和尚が「仏法は元来釈迦如来の法ですが、八宗・十宗と分かれ、
その宗旨ごとに、それぞれの教え方、勤め様があります。
しかし、元来は一の法なので、諸宗を信仰し、あれもこれも学ぶことを雑学・雑門と申します。
どの宗においてもよろしからぬ事でありまして、ましてや念仏宗はたいそう嫌っています」
と申し上げた。
それを聞いて家康は「それは当然だな。万の筋道を学び、諸芸を努めているようでは、
一筋に思い入って修行することが難しいのも道理である。
しかしながら、後世を願う有り様には大と小では心の違いがある。
つまり、我が身を助けたいためばかりに後世を願う者は、何れにしてもその身に
思い入る宗旨を一向に頼み入っていれば、他宗を構わなくとも埒が明く。
だが、天下国家を統治する者にとっては、自分一人が成仏する分別では義理が違う。
願わくは、天下の諸民をことごとく成仏させようと思う願いを立てなくては叶わない事だ。
宗旨には八宗・十宗があって一様ではない。それでも、諸宗とも手抜かりなく立て置き、
諸々の衆生を遍く導かす。これを天下を有つ者の願い様というのだ」と言った。
これを聞いて和尚は「誠に御尤もの事です」と感銘を受けた。
――『責而者草』
0155人間七七四年
2013/04/29(月) 17:14:58.18ID:d4YkiolL0156人間七七四年
2013/04/29(月) 17:40:08.52ID:RWWE4Uuz個人として後世を願う範囲のことを言ってるんでしょ。>大小
普通の人なら個人の救済を願えばいいけど、天下人の立場だと自分個人より天下の人々全てに対する
救済を願わなければならない、という。
0157人間七七四年
2013/04/29(月) 21:37:18.27ID:oyb4lvdoそういう問題よりも、近習や小姓が一人も主君の声の届くところに居なかったっていうのは
本来はかなりの責任問題のような気がする
0158人間七七四年
2013/04/30(火) 17:21:45.60ID:WcLDP+Sq加賀において三百貫の知行を得ていた。おそらく一向宗であったのだろう。
ところが、三方ヶ原の合戦で家康が敗北したことを聞くと、三百貫を捨てて家康の元に帰参してきた。
家康も不思議に思い
「どうして帰ってきたのだ?」
と尋ねると、善助は
「三方ヶ原にて御負けになったと承り、御用に立とうと罷り帰って参りました!
聞いた所によると、上方の誰々とか言うような名の通った者達を、80人ばかり召抱えて出陣した所、
その者達は皆、逃げ出したそうでは有りませんか!
だいたい上方者などというのは、何れもそういう連中なのですぞ!」
つまりまあ、そんな連中を召抱えるくらい困っているのであれば、自分が帰った方が役に立つ。
と言いたいのであろう。
これを聞いた家康は
「お前が居なくても、私が事欠くようなことなど有るものか!」
と強がったが、影では喜んでいたそうである。
(汝が無きとて御事欠らるべきやと御意成候へども、影にては御よろこび被成候由)
(紀伊國物語)
ちょっとツンデレな家康と三河者のお話である。
0159人間七七四年
2013/04/30(火) 23:32:34.23ID:jVZGkdIB0160人間七七四年
2013/05/01(水) 11:05:29.74ID:VzXwjVnU0161人間七七四年
2013/05/01(水) 14:16:35.37ID:ZEPS/1lc三河一向宗問題も落ち着き、
東三河の今川氏の吉田城を攻め落としたことで、
徳川氏悲願の三河統一を果たしたときのこと。
家康公は民政にあたらすために、
岡崎に三奉行をおくことにした。
その三人というのが、
高力清長、本多重次、天野康景。
この三人はそれぞれの気質から、
『仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野』
とそれぞれに異名がついていたのである
0162人間七七四年
2013/05/01(水) 15:05:54.48ID:hDelicPc0163人間七七四年
2013/05/01(水) 22:14:44.51ID:bwMuGTIT天野康景の「どちへんなし」っていうのは、公正無私っていう解釈でおkなのかな?
>>158
帰参した善助さんがどれくらいの知行を貰ったのかが気になるw
0164奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2013/05/01(水) 22:56:49.69ID:AQh68GHL0165人間七七四年
2013/05/01(水) 22:59:08.37ID:u3rwnvl2つまり外面如菩薩内面如夜叉
0166人間七七四年
2013/05/02(木) 16:30:16.37ID:adGYcaG/0167人間七七四年
2013/05/02(木) 18:18:59.52ID:m+xnMj9D成政は本陣をもって後巻を抑え、厳しく攻めた。成政は「この城さえ破れば能登一国は即座に
打ち従うことだろう。後巻のないうちに乗っ取れ!」と命じた。
末森城はわずか二、三百ばかりの士卒で敵を防いでおり、永福は「これほど強く攻められては、
もはやこれまでだ。自害しよう…」と悲観的であった。
しかし、その妻は小袖を掻き取り、鉢巻をして刀を横たえ、鹿をたくさん煮て下女に持たせ、
塀内の人々に自ら配り食べさせていた。
そして「昔、楠とかいう大将は日本国を敵にして籠城したと聞きます。
明日は金沢より後詰のあることでしょう。ただ、一夜を防ぎなさい」と励まし廻っていた。
その姿を見て永福は「今日の振る舞いは男子よりもすぐれている」と言った。
――『責而者草』
0169人間七七四年
2013/05/02(木) 21:47:00.01ID:xLl5yIBO0170人間七七四年
2013/05/03(金) 08:57:08.53ID:ZVfYmyJK0171人間七七四年
2013/05/03(金) 11:37:56.35ID:8SKGvBND勝茂さまの時代に仕えた人たちは、
「七度浪人しない者は本当の奉公人ではない」
(七度浪人せねば誠の奉公人にてなし)
「七転八起 七転八起」
と、口癖のように申していたとのことだ。
成富兵庫も七度浪人を言い渡されたという。
起き上がり小法師のように心掛けていればよい。
殿も、家臣のためを思い言い渡すこともあろう 【葉隠】
0172人間七七四年
2013/05/03(金) 11:44:23.98ID:gebgZCnY0173人間七七四年
2013/05/04(土) 17:07:29.49ID:PjsXC9Kx赤前垂れを掛けて出て見物した。
秀吉は馬上より見て「只今、わしは内裏にて能を行うつもりだ。皆々見物においで」
と、声をかけた。
――『老人雑話』
0174人間七七四年
2013/05/04(土) 17:47:43.83ID:JTaylOhgTERU様や権現様、三斎様達も一緒に演じたという
0175人間七七四年
2013/05/04(土) 17:50:32.29ID:FpbL+zkr0176人間七七四年
2013/05/04(土) 17:58:14.34ID:ZewW5fSu0177人間七七四年
2013/05/04(土) 18:23:47.63ID:m1oTDi/P0178人間七七四年
2013/05/04(土) 18:50:52.21ID:fZHH2sSl0179人間七七四年
2013/05/04(土) 19:17:04.04ID:6do0mkWy0180人間七七四年
2013/05/04(土) 19:50:28.66ID:JTaylOhg0181人間七七四年
2013/05/04(土) 19:59:13.41ID:bdi90EW+今回は、下女の耳や鼻を削がなかったよい話
0184人間七七四年
2013/05/05(日) 00:41:03.70ID:wsoNoVcBまあ、続きがあったら何人かの首が飛んでいそうなので、ない方がいいんだけど
0185人間七七四年
2013/05/05(日) 09:59:52.54ID:uqsrtS/Xただ秀吉を題材にした新作能はその後演じられなかったみたいだから評判よくなかったのかもね
0186人間七七四年
2013/05/05(日) 11:26:16.45ID:fmTYy2Wi秀吉の能とか和歌って
0187人間七七四年
2013/05/05(日) 12:31:17.38ID:z1SzEs6S技巧にこってない分、現代人でも理解しやすい
0188人間七七四年
2013/05/05(日) 12:45:26.47ID:7wlvYMVyと思ったが明智光秀や秀吉や清正は能でもけっこういい役か
0189人間七七四年
2013/05/05(日) 12:49:38.18ID:Q8UBk4O3はっきり言えば秀吉が生きている間しか意味が無い。
0190人間七七四年
2013/05/05(日) 12:54:55.89ID:BkSiWucm「吉野詣」 :吉野に参詣した秀吉の前に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を寿ぐ内容
「高野参詣」 :母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称える内容
「明智討」「柴田」「北條」 :それぞれの合戦における秀吉の戦功を称えたもの
これだけ露骨な自己宣伝ができるのが、よくも悪くも秀吉の強みだなw
0192人間七七四年
2013/05/05(日) 14:06:11.14ID:4SvqP0Kd出来のよしあしと別にお偉いさんの自慢話好き好んで上演したいかというと
0193人間七七四年
2013/05/05(日) 17:05:28.29ID:v8cyr6lz0194人間七七四年
2013/05/06(月) 00:34:38.52ID:pZRMsUYR0195人間七七四年
2013/05/06(月) 01:19:22.83ID:T+8jpSKjだからなぁ
フロイスも秀吉は必要以上に自分を大きく見せようとしていたと記してるし
天下人の演出なのか、素の性格なのか…後者な気もするがw
0196人間七七四年
2013/05/06(月) 07:31:06.78ID:UwuGLQuO天正三年信長、長秀に惟任の氏を賜り壱岐守に任じた。
長秀は「惟任については畏まり受け奉りますが、
壱岐守についてはご勘弁ください
某は若き時分より呼ばれている五郎左衛門のままでいたいのです。」
と達て申し上げたので、その望みに任された。
0200人間七七四年
2013/05/06(月) 10:10:09.55ID:MqipYOaQ0201人間七七四年
2013/05/06(月) 12:11:19.22ID:rbk7QNbd兵は好ましくないことである、と。
間違いない。天もこれを憎む。
しかし、やむにやまれぬときこれを用いる。
これもまた天の道である。
これはどういうことかと言うならば、
弓矢、太刀、長刀、これを兵と言い、
これらは不吉で好ましくないと言うことだ。
それはなぜかと言えば、
天の道は万物を活かす道であるから、
殺すということは実に好ましくないことである。
だからこれは天の道に違うことであり憎むという。
然れども、やむにやまれず兵を用いて人を殺すことを、
これもまた天の道という。
その心は、と問われ答えるならば、
春には花が咲き、緑が溢れるものだが、
秋には霜が来て、葉は落ち、木はしぼむ。
これ、天の成敗なり。
天には完成(極点に至った)したものを、打つという道理がある。
人も運命のなかで仕方なく悪をなしてしまうこともある。
しかしその悪も極点にまで至れば、これを討つ。
ここをもって、兵法も天の道であるとわかる。
一人の悪によって万人が苦しむことがある。
して、一人の悪を殺して万人を活かす。
是のように、人を殺す刀は、人を活かす刀であるべきだろう
【柳生宗矩 兵法家伝書序文より】
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