戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
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0002人間七七四年
2013/04/08(月) 11:47:22.69ID:3J1aZnFX0003人間七七四年
2013/04/08(月) 16:06:46.69ID:I5VuPmCh.~旦 )
(( 旦~ グラグラ
.旦
..旦~
(旦~~
/⌒ヽ みなさん ごくろうさまです
/ ´_ゝ`)
| / お茶がはいりましたよ
| /| |
// | |
U .U
0004人間七七四年
2013/04/09(火) 06:15:13.50ID:XyZ8bU0F時に米沢の上杉景勝家臣・杉原(水原)常陸介親憲は大変悩んでいた。
「私には先祖伝来の鎧一領しか無く、これは数度の合戦に着古した物の具である。
国元の坪軍(小さな合戦)であればこれで構わないのだが、今度、両御所様は二条伏見に
御在城であり、京に着到した軍兵は皆、野路、篠原、石部、坂本より華麗な物の具を着けて
入京する、との風聞である。はげた鎧では見苦しい。どうするべきか…。」
これを同僚たちに相談すると、
「我々は、一手の物頭でさえ替えの鎧を持っておらぬ。田舎であるから、鎧を借りると言うことも
出来ない。常陸介殿は機転のある人だから、何とか上手く考えてほしい。」
そこで親憲は、猿楽の能装束の法被を具足の上に着て、摂津まで罷り立った。
さて、大御所様(家康)は親憲の姿をご覧になり
「上杉はさすが古い家だ、常陸介の武具立見事である。
古風にも紺地に綿の鎧直垂を着ている。皆々、後学のためあれを良く見ておけ。」
と言われ、天下の話題になったのも不思議なことだ。
さて、親憲はこの戦いで感状を拝領したが、それを頂いて帰る時
「しかし思いもよらない物を貰ってしまった。今回の摂州御陣は子供が喧嘩して礫を投げ合うのと
同じようなものであり、互いに恐ろしい事など何もない。
昔、関東北国において、今死ぬか、明日死ぬかと思うほど激しい合戦に、朝も晩も戦っていた時には
御感状頂いたことは無かったのに、今回のような礫の打ち合いのような戦で、公方様(秀忠)からの
御感状を取ってしまったわ!」
そう、大笑いしたそうである。
(北越太平記)
0005人間七七四年
2013/04/09(火) 08:03:49.03ID:LEAfepJf0006人間七七四年
2013/04/09(火) 08:47:10.51ID:W0KcGvTL0008人間七七四年
2013/04/09(火) 10:00:18.53ID:nCkaafnu0009人間七七四年
2013/04/09(火) 10:10:44.55ID:A2R2u8oJ00107
2013/04/09(火) 12:29:08.20ID:BTECQ8AVなぜらくがあたまのなかからきえていたのかはわからない
0011人間七七四年
2013/04/09(火) 16:54:01.93ID:9GVZM0Xd0013人間七七四年
2013/04/09(火) 19:15:33.38ID:6IQdFSk7http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3402.html
後半の話に似たの(そんな恐い景勝の大坂の陣エピ)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3840.html
後半は景勝の話だから上杉の将兵みんな子供の喧嘩程度としか思ってなかったのかもしれない
0014人間七七四年
2013/04/09(火) 20:27:04.43ID:Nf2lKSWt0015人間七七四年
2013/04/10(水) 10:49:44.94ID:B/tnBpqF0016人間七七四年
2013/04/10(水) 11:07:06.24ID:AUX/BoND0017人間七七四年
2013/04/10(水) 15:30:03.40ID:Cs78qUv/「大野主馬(治房)は天下を望んでいる、と言われているが、それは本当だろうか?」
と仰った。しかしその言葉や表情には、主馬を憎いと思っている様子は少しもなかった。
その後、再びこのように言われた
「天下に望みを持ったとしても、不可能だとはいえない。
天下というものは、例え武辺に達したからといって、得ることは出来ぬものであり、生まれながらに定まった
運命のようなものである。
私には、天下が転がり込んできた。
信玄や謙信といった者達は、武勇に達した武将であったが、天下を得ることは出来なかった。
これも運命であったのだろう。
こう言った運命を持つものは、誰に寄るという事はない。
だから、大野主馬が天下を望んだといって、それが不可能だとは誰にも言えないのだ。」
そう、皆に仰った。
(紀伊國物語)
徳川家康の天下観のについての逸話である
0018人間七七四年
2013/04/10(水) 16:50:56.31ID:15yf3Jkg0019人間七七四年
2013/04/10(水) 16:58:37.01ID:DglHUvqt0020人間七七四年
2013/04/10(水) 21:02:29.71ID:MEfwTKUF0022人間七七四年
2013/04/10(水) 21:38:50.47ID:P2BlyUI/0023人間七七四年
2013/04/10(水) 23:20:03.47ID:A4sSkpRdある時利胤は、仲の良い大名小名を10人余り、また御旗本の小身の人々などを屋敷に招待した。
そこではみな打ち解け、よもやまに今昔のことなど物語していたが、ここで本多出雲守(忠朝)殿が
このようなことを仰った
「私は、自分自身が相馬殿に何事にもさほど劣るとは思っていないが、羨ましいことが1つだけあります。
こればかりは及び難い事です。」
列座の人々は、雲州殿が何事をそれほど迄に羨んでいるのかと問うと、彼は
「しからば、相馬殿は重臣・諸卒は勿論のこと、百姓町人、下々陪従に至るまで、累代相伝の者達であり、
子々孫々、主従の新愛深い関係にあると承っております。
このような親睦は、金銀や知行で得ることはできません。
私のような者でも、明日何事があったとしても、人数・騎兵を相馬殿に劣らず召し連れることが出来ます。
ですがそれは昨今に成って召抱えた者達であり、すなわち私一人が、自身が恥をかかないために
仕えさせた者達なのです。ですから、主人と死生存亡を同じくして、身命を軽んじて働くものは、
千から千五百の中に、良くて7、80、多くて100人というところでしょう。
これでは思うままの合戦など、出来るはずが有りません。
一方で、相馬殿について伝え聞く所によれば、幾度も分に過ぎた大敵と対戦して、一度も城下まで
攻め込ませた事はない、とのこと。こういった事は、主人の武勇だけでは成し得ないことです。
家中上下の心が一致していた故なのでしょう。
相馬殿の配下の千や千五百の人数は、下々までも、存亡の気持ちを同じくして、意地を立てる
人々なのでしょう。
尤もその中にも、臆する者達もいるのでしょうが、それは二百や三百程度といった所でしょう。
とすれば、千のうち6,700、千五百のうち千は、心のままに従うということになります。
そういった軍勢であれば、敵が五千、一万であっても、安心して合戦に挑むことができます。
何故ならば、そのような大敵を迎える時は、いくら知行を与えたからといっても働きを望めず、
しかし旧好の親しみほど、有り難いものはないからです。
関ヶ原の時も、配下には私に親しもうとする者と、親しもうとしない者が居ました。
そうだからと言って、彼らを分け隔てて扱ったわけでは有りませんが、それでも
少しは分けて扱いたい気持ちがありました。ですが、親しまない者を私に親しませるために、
その分を過ぎて所領を与えるということも、私のような小身では、難しいことです。
ですので、所領や褒美を取らせるまでもなく、上下が懐かしみ、親しみ睦み深く人を召し使う
状態こそ、理想的な環境は無いと、この頃そう考えていたのです。」
この発言に座中の人々は大変感心した。
この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
「彼は志が別格な武将であり、只人ではない。流石天下に隠れない御父上(本多忠勝)の業に
続こうとする御仁である。若き者共よ、今に見ておれ。天下に事あらば、彼はきっと人の耳目を
驚かせる働きをされるであろう。」
この本多忠朝殿は関ヶ原でも高名され、家康公の御感に預かった人であり、その後大阪の陣において
涼しき討死をなさったと、世の美談に成ったことを考えれば、捨てがたい挿話であるので、ここに
記して置くのである。
(奧相茶話記)
相馬家の記録に残る、本多忠朝についての逸話である。
0024人間七七四年
2013/04/10(水) 23:39:50.21ID:LBOqjtB80025人間七七四年
2013/04/10(水) 23:40:34.28ID:P2BlyUI/ああ、あいつね…
0027人間七七四年
2013/04/11(木) 00:21:05.84ID:VaBqG/LL0028人間七七四年
2013/04/11(木) 00:39:10.88ID:kyiGr4DV0029人間七七四年
2013/04/11(木) 00:53:35.61ID:FP5ZV500小田は...(´・ω・`)
0030人間七七四年
2013/04/11(木) 01:01:12.02ID:pWR8nQsB相馬の殿様は、いま北海道にいるんだっけか
震災のあとも相馬復興や野馬追い存続に尽力してたような
相馬に限らず、いまも殿様と家臣として続いてるところは多いんだろうなあ
0031人間七七四年
2013/04/11(木) 04:09:43.58ID:xklBYn3s江戸時代の話になるけど、年貢とかに関してもかなり柔軟な制度を作ってた記憶
0033人間七七四年
2013/04/11(木) 14:33:47.48ID:Ms41/CEEと号泣してたら海外に移住しなくては
首都が陥落してしまうw
0034人間七七四年
2013/04/11(木) 14:48:49.48ID:oMB5PsNs菅谷官房長の御子息は戦死してしまうわけだが
0035人間七七四年
2013/04/11(木) 15:27:53.24ID:pn0sfKu+0036人間七七四年
2013/04/11(木) 15:45:09.90ID:kfOqjU8h0038人間七七四年
2013/04/11(木) 16:17:53.65ID:/N+KTY3m石高だけでみたら頭2つ抜けてる程度だが動員兵力数がずば抜けすぎてるからその辺が集まった程度では無理
0039人間七七四年
2013/04/11(木) 21:08:36.42ID:5hItfGM4天下を取れる人は大勢いても
敵と身内に対してタヌキ役になってくれる人がいないと中韓に乗っ取られるような社会になるんやで
運だとしても最終的に天下人が家康だった日本の運も強いな
0040人間七七四年
2013/04/11(木) 22:10:57.97ID:eEJD0fni政権安定のためには中央と各大名の力の差を決定的に大きくしないと不安定になる
0041人間七七四年
2013/04/11(木) 22:33:52.61ID:/N+KTY3m豊臣政権が安定するには1570年代に秀頼が産まれてないと無理なわけで機関的に別に時代を先取りどうこうの問題ではない
0042人間七七四年
2013/04/11(木) 22:58:21.30ID:kfOqjU8h全部自分の判断で家を切り盛りしたってのはなかなかいないわな〜
0043人間七七四年
2013/04/12(金) 09:07:25.80ID:MduJAiYx0044人間七七四年
2013/04/12(金) 11:00:44.30ID:TGx2uC6u0045人間七七四年
2013/04/12(金) 11:04:25.45ID:Csa6Z3XB0046人間七七四年
2013/04/13(土) 00:47:44.51ID:wcXnoL+X>この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
これってこの人?
(`●∀・)
0048人間七七四年
2013/04/13(土) 01:52:31.95ID:ahRJfDKC「どうだ利胤、政宗から杯を受けては?」って提案したら、利胤が
「無理です。それだけは上様からの命令でも絶対無理です」って言って場を中座したのに
秀忠からは何もお咎めがなかった(最初からそれが目的だった)って話があったよね
いい話とか悪い話に分類できない話だけどさ
0049人間七七四年
2013/04/13(土) 04:17:22.26ID:xQfOKq9z0051人間七七四年
2013/04/14(日) 13:26:10.54ID:lpkrl6Yz豊臣家は直轄領だけで220万石くらいで家康の直轄100万石の倍くらいだし
秀吉存命の頃は中国東部から近畿濃尾に大量に居た小大名群も直轄軍扱いだっただろうから
他の大名に比べ隔絶した動員力を持ってはいたんだよね
秀頼が直接指揮できる年齢になっていればこれが活きたんだろうけど・・・
0052人間七七四年
2013/04/14(日) 14:02:33.23ID:JcDrIcE2関ヶ原は徳川vs豊臣じゃないんで
それと大坂の陣を見る限り適齢でも前線に出てこない可能性のほうが高いと思う
0053人間七七四年
2013/04/14(日) 17:11:00.80ID:eoSiXQZV秀秋見倣えと言いたい
0054人間七七四年
2013/04/14(日) 20:28:00.32ID:IRgUakJp徳川方の平原宮内が密かに北条氏直に内通しているとの情報を
保坂金右門が漏れ聞き、これを言上したため両者が呼び出され糾明が行われた。
そこに元武田家臣の辻盛昌も立ち合っていたところ、
平原はその罪を逃れがたい状況となったため、
奥山新八郎の従者が主の刀を携えていたのを見てとるや、馳せ寄ってこれを奪い、斬り回った。
その場に丸腰でいた辻盛昌は、捕えようと素手で立ち向かったが面を斬られ血が目に入り
進みかねて退き、結局土屋権右衛門(重成)、永見新右衛門(勝定)が立ち向かい、
小幡又兵衛昌忠が平原を討ち取った。
この話を家康が聞き、平原を討ち取った小幡昌忠らを賞したが、
辻盛昌については、その心は剛であるが
打ち物もなしに白刃に立ち向かったため思わぬ手傷を蒙ったとして
深く賞することはなかった。
けれども、辻盛昌に対して絹衣に黄金を添えて与えたという。
これは、このような剛の者をみだりに褒め称えると、
手に武器もなしに白刃に立ち向かうことがよいことであることになり、
別の機会において或いは死んでしまうことがあるかもしれない
という家康の心配りであったという。
以上、武徳編年集成、武徳大成記、家忠日記追加、古人物語を出典とする干城録より。
ちなみに貞享書上には、辻盛昌が平原を組み伏せ討留めたと記録されているそうですが
なんにせよ家康公の細かな配慮がいい話ということで。
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