北海道駒ヶ岳の名の由来

道南十二館のうち大館の主で松前守護でもあった安東恒季は行状が悪く、訴えられて宗家檜山安東忠季の命による蠣崎光広の攻撃によって滅ぼされた。
その後は小館領主の相原季胤が松前守護の代理を務めることになった。

その頃海難事故が多発し、季胤は頭を悩ませていた。
ある時老占い師に「これは矢越岬の海神の怒りである、人身御供を捧げて怒りを鎮めるべし。」と言われた。
そんな怪しい神信じられぬと季胤は思ったが、恒季時代からの家臣である村上政儀に押し切られて実行することにしてしまう。
しかしそうは言っても誰を生贄にするか迷った。
領民から選ぶのも家臣の一族から選ぶのも気が引ける…。

しかし、そこで政儀は進言する。
「アイヌ人を人身御供にしちゃえばいいじゃん。」

こうしてアイヌ人の娘を20人ばかりさらってきて海に沈めてしまった。

これにアイヌ達は激怒。
大軍を率いて大館小館を囲んだ。
村上政儀は討死し、ついに落城。
季胤は二人の娘を連れて大沼へ逃れるが、逃げ切ること能わずと悟り、娘とともに入水して果てる。
この時乗っていた愛馬の鞍をとき、山へ逃れるよう言い聞かせた。
その馬は狂ったように啼き叫んだかと思うと、瞬く間に山へ駆け登った。

以来その山を駒ヶ岳と呼ぶようになった。また季胤が外した鞍を掛けた岩を鞍掛岩と呼ぶようになった。
その後も季胤の馬は生きていて、入水した7月3日になると馬の嘶きが聞こえるという。