明智光秀は亀山の北、愛宕山から続く山に城郭を構えた。この山を周山と号す。
自らを周武王になぞらえ、織田信長を殷紂に比した。これは謀叛の宿志である。

羽柴筑前守は信長の手の者の様にて、その上度量が広く小事にこだわらない
気質なので人に対する言葉はいつもずけずけとしていた。それに比べて光秀は
外様の様に、その上つつしみ深く、まじめで温厚な人だったので言葉はいつも
うやうやしかった。

ある時、筑前守が「わぬしは周山に夜普請をして謀叛を企てていると人は皆言う。
実際のところはどうなんですか?」と尋ねた。これに光秀は「でたらめを言うものだ」
と笑ったのでその話題は打ち切られたのだという。

――『老人雑話』