戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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0890人間七七四年
2012/12/25(火) 13:57:31.25ID:/io3l8860891人間七七四年
2012/12/25(火) 14:10:21.46ID:Sx2pncVL家康「しかしだな、結果的に味方は大損害を…」
直政「じゃあ、自ら敵に突っ込んでいくような男はお嫌い?」
家康「そ、そのようなことはないぞ///」
0892人間七七四年
2012/12/25(火) 14:17:00.22ID:a5ZDCWX4何でって聞かれるほどの手間は掛けてないし
0893人間七七四年
2012/12/25(火) 15:58:03.21ID:YlWUj1pp総指揮官としてはアレだけど、現場指揮官としてはすこぶる優秀な人だし
0895人間七七四年
2012/12/25(火) 22:01:55.73ID:0wz/8eSZ0896人間七七四年
2012/12/26(水) 00:27:24.19ID:f6/0IznDクリスマスだったからっていちゃついてるんじゃねーぞw
あ、もう26日か
権現様お誕生日おめでとうございます
0897人間七七四年
2012/12/26(水) 02:42:04.09ID:hvn5iwYX大失態があったとはいえ、助けたくなる何かがあったんだろうな
0898人間七七四年
2012/12/26(水) 07:18:06.93ID:vEVuEvQh忠吉サンとか「だから(義)息子の前でイチャつくなよな…(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」
帯刀サンとか「|ω・`)……………。゚・(ノД`)人(´Д`)人(Д` )・゚。」
健全三河武士「∩(´・ω・`)つ―*'``*:.。. .。.:*・゜゚・* もうどうにでもな〜れ」
08991/2
2012/12/26(水) 21:06:18.43ID:1lrPS9Ok天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄の仲が険悪となると、秀吉と通じたとして
信雄が三老臣(岡田重善・津川義冬・浅井多宮丸)を誅殺するのではないかという
風聞が流れていた。
3月3日、上巳の祝いのために鷹狩で獲った雁を与えると
三老臣へ使いがあったので、皆出仕した。
各々が饗膳の席に着いたころ、信雄は南蛮張の大筒を出して、
これは父祖より譲られたものであると言ったので、岡田・津川は謹んでそれを拝見した。
信雄はさらに岡田に対し、その大筒を持ってみよと言い、
岡田が畏まって大筒を取り手に持った所、土方雄久が飛び掛って抱きつき、
片手に短刀を持ち岡田を突いた。岡田は突かれながらも土方を引っ立て脇差を抜いた。
信雄は大左文字の刀を抜き、岡田を斬ってくれようと、
「雄久放せ!」と命じたが、
土方は、
「大事の役目なので放すわけにはいきませぬ、早く某もろとも斬りなされ!」と答えた。
0900人間七七四年
2012/12/26(水) 21:12:51.10ID:LSyBy1dk豊臣方の大野治房の軍勢が紀伊国に向かう途中、和泉国貝塚で、願泉寺卜半斎という物の出迎えを受けた。
卜半斎は軍勢に馳走を振舞い、貝塚の町や近在から集めた麦飯を集め、半切(樽状の桶)に入れて運び、
また酒も大いに振舞った。
大野治房軍の兵士たちはそれまで夜通しの行軍をしてきたこともあり、疲れ空腹であったので、彼らは
この振舞いを喜び受けると、たちまち酔っ払ってその場で寝てしまった。
さらに岸和田方面の抑えに出ていた、宮田七平の兵たちまで集まってきての酒盛りになった。
このため、この軍の行軍は甚だしく遅れ、戦場に間に合わず、これによって和泉樫井の戦いで
豊臣方は大敗を喫した。
実はこれらは全て、願泉寺卜半斎が豊臣軍の足を止めるための策略であり、彼らはそれに
まんまと引っかかったのである。
(大阪合戦口伝書書入)
09022/2
2012/12/26(水) 21:14:31.99ID:1lrPS9Okすると信雄はすぐさま岡田を斬り、止めを刺した。
この有様を見た津川、
「そ、某をも誅されるおつもりか?」
信雄答えて、
「汝もどうして赦せようか?」
津川はこれに対して、
「なんと薄情な! 某の心底がお分かりにならないのか!?」
と言ったが、その時かねて討手と決められていた飯田半兵衛らが襲い掛って一太刀斬りつけ、
そこに信雄また続いて津川を仕留めた。
残りの一人、浅井多宮丸は未だ17歳にもならぬ若者だったので、
森勘解由が承って難なく斬り伏せた。
こうして三老臣を誅殺したので、残党を掃討するため岡田の星崎、津川の松ヶ島、浅井の刈安賀と、
三人の居城へそれぞれ討手を差し向けたのであった。
(伊勢国司記略)
0903人間七七四年
2012/12/26(水) 22:26:21.74ID:3tvf34An仮に翻意があればさっさと刀抜いてそうなものだが
0904人間七七四年
2012/12/26(水) 23:13:09.40ID:Jb6y8Dqs0905人間七七四年
2012/12/27(木) 01:34:46.48ID:uwGaSoc40906人間七七四年
2012/12/27(木) 01:38:58.51ID:+pVjqYKa0907人間七七四年
2012/12/27(木) 05:52:58.78ID:7TE8nu7A0908人間七七四年
2012/12/27(木) 10:35:43.04ID:MdLaw1F30909人間七七四年
2012/12/27(木) 11:02:50.04ID:bu3fi/5y0910人間七七四年
2012/12/27(木) 12:47:09.31ID:7VcFyRgh0911人間七七四年
2012/12/27(木) 13:32:55.98ID:LruDLFiG問題は口先だけで実行しない鳩山小沢の類で
0912人間七七四年
2012/12/27(木) 15:13:02.10ID:6jii2X/e叔父のカエサルも30代だよな
0913人間七七四年
2012/12/27(木) 21:35:37.30ID:hlwGoHLy俺の中で大野治房は脳筋っぽいイメージだな
一度戦いになるとめちゃ強いけど頭が弱いせいで知略に長けた相手によくやられる印象
0914人間七七四年
2012/12/27(木) 23:44:48.15ID:BFGZEA3B「相国寺の仁如和尚の御門弟に俗男の儒学を志して詩作を自慢する者がいた。
彼は入道して和尚に道号を求めたのだが、和尚は彼の心中をご存知だったのだろう、
『ただその方の思うように付けよ』と言ったところ宋の詩人、蘇東坡と黄山谷から
一字ずつ取って坡谷庵(はこくあん)と付けた。
しかし『はこ』は糞のことだから、人々に『汚い庵号だなあ』と笑われたのだ。
笑われていると知った彼はそれならばと庵を取って斎の字を付けてしまったもの
だから、ますます酷い呼び名になって人に笑われたそうだ。
とまあ、そんな話を由己法橋が語られていたのだ。大笑い、大笑い」
――『仮名世説』
0915人間七七四年
2012/12/28(金) 00:00:24.15ID:n9mqw1bW0916人間七七四年
2012/12/28(金) 05:50:36.57ID:yhLVZSVlそうすると17歳は満年齢だと15歳ぐらいだよね
歴史小説家は当時は成長早くていまの15歳と比べられないといってるけどどんなもんだろ
0917人間七七四年
2012/12/28(金) 12:20:07.91ID:/VWf/rLzこの時陶軍からの捕虜のうち、重見因幡守(通種)と言う者があった。
彼は伊予河野氏の一門・十八家の内にある者で、河野対馬守(法名・天徳寺)の近親であった。
しかし天徳寺殿が、嫡子弾正忠と父子不和となり、ついに合戦となった。
因幡守は父子の礼儀を重んじ、天徳寺殿の見方となり、遂には伊予を浪人し、大内義隆を頼って
周防へ亡命をした。
大内義隆はこれを許容し、陶尾張守(晴賢)に預けられ、安芸西条の桑原という場所に小知を与え、
浪人分として大内家に属した。そして今回陶晴賢と共に厳島に渡海した。
その様であったので、捕虜になった重見因幡守は毛利方に対し、「御検使を下されればそこで
切腹をしたい」との申し出をした。
これを聞いた毛利元就は、内々に彼を召抱えたいと考えていたので、
『一命を助けるので、御奉公申し上げるように』
と、児玉内蔵丞、兼重左衛門から申し渡された。
因幡守は承り、しかし、
「ありがたき御意、身に余り、忝く思っています。
ですが、切腹のことはもう決心しているのです。どうかそこを解っていただきたい。」
そう申し上げた。
これを聞いた元就は再び彼に伝えた
『もし自分の家臣になることを受け入れないというのなら、西条に居るそなたの倅達を召し捕らえ、
その方の面前で殺してやるぞ!それを憐れだと思うのなら、私の意に従い、切腹のことは
思い留まるように。』
因幡守はこれを承り
「重ね重ねの有難きお言葉、生々世々忘れがたき幸せです。
ですが私は、生国は伊予、河野一族の者であります。
さる仔細があって伊予を立ち退き、大内義隆を頼み山口に罷り越したいとしていた所を、
これを御許容下され、当国西条において小知を頂き、陶氏に預け置かれました。
そして入道(陶晴賢)は私に対して別して懇切でありました。ですからその報謝として、
この度厳島へお伴し、同じ場所で如何にも罷り成るべしと考えていたのですが、多勢に隔てられ、
あまつさえ生け捕りになってしまい、この様な有様で、もうどうしようもありません。
もし今、御厚恩をいただけるのなら早々に切腹を仰せつけて下さい。
子供については、どのように仰せ付けられても構いません。
その様なことは、常日頃から覚悟させております。」
これを再び児玉・兼重から報告された元就は、
『さてさて、惜しく思うが、この上は望みに任せて切腹を申し付けよう。
子供については取り立て、召し使いたい。』
との旨を伝えた。
これを聞いた重見因幡守は
「有難く存じ候」
と御礼申し上げ、厳島のありの浦にて切腹した。
彼の二人の子供は召しだされ、別して良く召し使われた。
兄は木原兵部、弟は木原二郎兵衛と申して、戦場での御奉公数度に及び、
そのためより一層重用されたという。
(吉田物語)
毛利元就、重見因幡守の決意を覆せず、という逸話である
0919人間七七四年
2012/12/28(金) 15:20:08.29ID:RK4YLfHe0920人間七七四年
2012/12/28(金) 21:54:08.75ID:D2nU7MF50921人間七七四年
2012/12/28(金) 23:19:42.96ID:sPgezdbT自らを周武王になぞらえ、織田信長を殷紂に比した。これは謀叛の宿志である。
羽柴筑前守は信長の手の者の様にて、その上度量が広く小事にこだわらない
気質なので人に対する言葉はいつもずけずけとしていた。それに比べて光秀は
外様の様に、その上つつしみ深く、まじめで温厚な人だったので言葉はいつも
うやうやしかった。
ある時、筑前守が「わぬしは周山に夜普請をして謀叛を企てていると人は皆言う。
実際のところはどうなんですか?」と尋ねた。これに光秀は「でたらめを言うものだ」
と笑ったのでその話題は打ち切られたのだという。
――『老人雑話』
0923人間七七四年
2012/12/29(土) 03:43:14.70ID:tZsoP29G0926人間七七四年
2012/12/29(土) 19:43:45.36ID:fYL989m60927人間七七四年
2012/12/29(土) 20:24:21.01ID:vSVJvJim0928人間七七四年
2012/12/29(土) 21:05:26.53ID:K1iLnD6M0931人間七七四年
2012/12/30(日) 00:37:49.57ID:eTQ1sVGQ0932人間七七四年
2012/12/30(日) 01:15:16.68ID:E04ZgmIHどうしますか?
0934人間七七四年
2012/12/30(日) 09:32:19.00ID:Q0BFbw83亀だけど釣られる。
成長という言葉の意味が、いっぱしに大人の仲間入りできるか否かという事なら、その通りだと思うが。
現代人の15歳、そりゃ平均身長は高くなってるだろうよ。100メートル走の日本記録だって伸びてるさ。
しかし中流階級の平均値となると、当時の満15歳と戦って勝てる現代っ子は、野生児か格闘技選手じゃねーの。
知力にしても、元服前の小童でも人体の急所とか自害の手順ぐらいは常識だからな。日常で謀殺の
危険にさらされるケースもあるだろうし。
現代のヌルさが戦国と比べ物になるわけない。
0935人間七七四年
2012/12/30(日) 09:58:44.75ID:5PXD0suK当時は武士(1割に満たない特別な環境の人物)で考えるふしぎ
0936人間七七四年
2012/12/30(日) 10:20:26.40ID:gA08ZAGa子供が15歳で一人前の大人になるように教育されてる戦国時代と
20歳で一人前の大人になるように教育されてる現代を比べる事がナンセンスじゃないの
0937人間七七四年
2012/12/30(日) 10:28:52.64ID:71xstaYYいっしょにしてる時点でなんだかなぁ
0938人間七七四年
2012/12/30(日) 10:34:40.09ID:Q9CrYugm現在の大学新卒と高卒四年目の社会人を比べても
考え方目つき顔つきまったく違うように過去現在の15歳もちがうだろう。
ましてや農民でも気を抜けば死んじゃう当時の状況を考えれば、的な話だろ
0939あ
2012/12/30(日) 11:07:35.22ID:SxEis8evhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1356831130/
0940人間七七四年
2012/12/30(日) 16:48:41.04ID:jGus6LDt0941人間七七四年
2012/12/30(日) 16:52:13.74ID:7xxOFoqG初潮年齢が下がってきているとか
0942人間七七四年
2012/12/30(日) 17:43:40.48ID:5cduvKbbどういった経緯でそういったレポートを出したかは忘れたが、まあ身近な例からもそんなとこだろうな
0943人間七七四年
2012/12/30(日) 17:56:10.58ID:XZQzdEQK0944人間七七四年
2012/12/30(日) 17:58:24.40ID:6swtotlv太閤を討つも降参して坊主になり大津へやって来た。この時、太閤は
大津城にいて陸奥守の礼を受ける。
さて陸奥入道は、大津の城中で武道の談話があった時に浅野弾正殿を
散々に叱った。「武道の事はお前などが知ることではない」とのことで、
聞いた人は皆「後々不味いことになるだろう」と言った。
太閤は肥後半国を陸奥守に与えた。入部の後に一揆があって状況は
悪くなり遂に陸奥守は身を滅ぼした。弾正殿の妨げもあったという。
陸奥守の入道号は道閑、尾崎の寺にて自滅。尾崎に石塔があるという。
――『老人雑話』
0945人間七七四年
2012/12/30(日) 18:30:24.49ID:jGus6LDt0946人間七七四年
2012/12/30(日) 19:58:17.71ID:gA08ZAGa0947人間七七四年
2012/12/30(日) 20:16:11.34ID:d2XjDVlS0948人間七七四年
2012/12/30(日) 20:51:26.49ID:OgB2jqau0949人間七七四年
2012/12/30(日) 22:30:46.02ID:z5Xbx46G0950人間七七四年
2012/12/30(日) 22:39:28.80ID:LlHyKvV70951人間七七四年
2012/12/31(月) 00:57:32.14ID:nQWz7N9pつまんない事書いた挙句、屁理屈こねるとこうなる。
0952人間七七四年
2012/12/31(月) 08:53:24.82ID:XmcM5dOLまあ皆お茶でも飲んで落ち着かれよ( ´・ω・`)っ【毒】
0953人間七七四年
2012/12/31(月) 08:53:40.44ID:i/jmB30T権勢をかさに着たこの種の横柄な公私混同は豊臣の家風なのかね?
昔懐かしい某大河ドラマだと豊臣の天下が終わった途端
恨みを我慢してた伊達さんから出入り禁止食らってたじゃん
0954人間七七四年
2012/12/31(月) 09:10:08.90ID:FQuRrf3p0955人間七七四年
2012/12/31(月) 09:14:22.76ID:yEczM5Nn0956人間七七四年
2012/12/31(月) 15:15:03.10ID:GPkwHloS挙げ句宇都宮の件に加えて佐々まで・・・
0957人間七七四年
2012/12/31(月) 16:33:27.76ID:di0KPi6D0958人間七七四年
2012/12/31(月) 16:43:39.54ID:xzIqKjG7立ち位置的に恨まれやすい立ち位置だったという気もする
0959人間七七四年
2012/12/31(月) 16:51:10.22ID:hcZfLqjy0960人間七七四年
2012/12/31(月) 17:03:09.32ID:di0KPi6D「とりあえず奴のせいにしておけば丸く収まる」的ポジションだったのかねぇ・・・
0961人間七七四年
2012/12/31(月) 17:25:51.52ID:c0om2kDiそれだけ豊臣という権力が急進且つ不安定だった、というのもあったとは思う。
制圧する手段に信服させる段取りが追いついてなかったというか。
0962人間七七四年
2012/12/31(月) 17:29:20.71ID:rsk1zaCt0963人間七七四年
2012/12/31(月) 17:57:39.65ID:pay35FP+だが赤穂浅野テメェーはダメだ、知れば知るほど殿様は擁護できなくなる
0964人間七七四年
2012/12/31(月) 19:11:14.54ID:SeZsMtLu0965人間七七四年
2012/12/31(月) 19:19:01.75ID:bsCCajT90966人間七七四年
2012/12/31(月) 19:22:16.19ID:ForaGXAdうちの方リアルに猿ときどき出るから普通に電柱に登る子猿想像しちまって「?」てなったw
0967人間七七四年
2012/12/31(月) 19:23:13.97ID:Df2MEhDu木沢や山田はほとんど出てこないし、
浅井は浅井でだいたい出てくるし、
弾正を使うとだとこのスレでは爆死と決まってるから長政でおk
0968人間七七四年
2012/12/31(月) 19:32:48.82ID:SeZsMtLu真田「…」
保科「…」
決めつけイクナイ
0969人間七七四年
2012/12/31(月) 19:41:30.56ID:Df2MEhDu受け弾正、攻め弾正、槍弾正で弾正単独では出てこない
0971人間七七四年
2012/12/31(月) 20:18:56.25ID:aJFP4uiP0972人間七七四年
2012/12/31(月) 20:29:50.26ID:nQWz7N9p人生の大半が長吉だったんだし
0973人間七七四年
2012/12/31(月) 20:46:29.18ID:bsCCajT90975人間七七四年
2012/12/31(月) 22:04:41.78ID:aJFP4uiP0976人間七七四年
2012/12/31(月) 22:05:52.29ID:bsCCajT9恩賞を出す立場のラスボスは長い付き合いおまけに親戚だから
浅野さんがどんな人間かよーく知ってたんだろう
0979人間七七四年
2012/12/31(月) 23:54:14.75ID:Rl+4GUZd0980人間七七四年
2013/01/01(火) 00:23:59.61ID:N569VcYa攻め弾正
槍弾正
新年早々卑猥すぎますぞ、お館様
0981人間七七四年
2013/01/01(火) 00:25:50.78ID:o9FxWBXx責め弾正
ヤリ弾正
0982人間七七四年
2013/01/01(火) 00:26:06.06ID:/1QRb4qP0983人間七七四年
2013/01/01(火) 00:29:05.12ID:/1QRb4qP>またの機会にどうぞ。。。
出来んかった。どなたか頼みます…
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戦国ちょっと悪い話35
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0984人間七七四年
2013/01/01(火) 00:38:44.48ID:eGqTxKD/http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/
0987人間七七四年
2013/01/01(火) 11:59:03.64ID:2/ycnmwHが、その後に資親には実子・資久が産まれた。
永正11年(1514)、資親はその臨終の刻に、宿老である大田原胤清・資清親子に対し、実子・資久を家督とするよう
遺言して死去した。
これにより大田原親子は、金丸・大関・芦野・伊王野氏といった有力家臣と共に、資久の邪魔となる資永を滅ぼすため
挙兵し、総勢300騎で蛭田ヶ原(現・栃木県湯津上村)に陣を敷いた。
しかし資永は屈せず、わすか50騎ながら箒川を挟んで決戦を挑むが、勝敗は決することがなかった。
夜になり、資永は福原城で討ち死にを覚悟した。しかし最後の手段と、大雨を幸いに家臣を、那須資久の居城
山田城に密かに派遣し、資久の身柄を捕らえ、福原城へと拉致した。
8月3日、資永は捕らえた資久の首を刎ね、自ら城に火を放ち自害して果てた。
ここに那須惣領家(上那須家)は滅亡したのである。
(那須記)
以上、那須記より、那須惣領家滅亡の顛末である。
0988人間七七四年
2013/01/01(火) 13:57:04.96ID:z66QIb7/汚いな大田原さすが汚い
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