戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0723人間七七四年
2012/12/11(火) 01:45:30.97ID:GjqladoG将軍からの偏諱だからかぶるのは当たり前だが
0730人間七七四年
2012/12/11(火) 17:27:36.29ID:r5+UWTJFそれを解ってたハズなのに途中から誰も期待してない頑固さを貫くあたり
野田首相に似ている。
0731人間七七四年
2012/12/11(火) 18:03:57.46ID:hyrqZ8PA西軍があまりに弱すぎて計算が狂っちゃったってだけでしょ。
0732人間七七四年
2012/12/11(火) 18:20:19.99ID:MDsAJeiJ0733人間七七四年
2012/12/11(火) 19:11:02.06ID:wxaMRhDt0736人間七七四年
2012/12/11(火) 19:39:16.54ID:PpQD1IgIそういう状況だったら家康も秀忠と合流するだろうし
0737人間七七四年
2012/12/11(火) 21:06:57.64ID:OI4os2Ea誰も期待してない頑固さを貫ているのは
石田の方じゃね
家康討伐なんて誰も望んでなかったわけだし
>>734
吉川と小早川のせいで負けた戦なんて関ヶ原以外であったか?
普通に敵勢力を攻めて勝利しているし
むしろ石田たち首脳陣のちんたらした対応の方が弱さの原因じゃね
0738人間七七四年
2012/12/11(火) 21:42:28.69ID:wMrRmq/aもはや毛利一門というより豊臣一門なのが関が原当時の小早川だしなあ
毛利・吉川・安国寺と別に考えるべきだと思うぞ
0740人間七七四年
2012/12/12(水) 05:29:13.12ID:/eJrE2dz信玄は大宮通に討って出てあつばらを過ぎて加島へ進出し、悉く放火して富士川を渡り、岩淵の宿を焼いて
蒲原へ押し寄せた。
蒲原には北條新三郎が籠っていたが、当時駿河方面の北條方は、信玄の小田原侵入の煽りを受けて
小田原に集まっており、蒲原に残るものは少数であった。
このため甲州勢は、『きっと聞落(軍勢が迫るのを聞いただけで自落する)』と侮っていた。
しかし北條新三郎は少しも怯まず、信玄が城を取り巻き、徐々に攻め寄せると、新三郎は弟の少将をここに留め、
自身は狩野新八郎と共に出撃し、甲州勢を悉く追い立て、信玄の近臣・小幡弾正を初めとして悉く討ち取った。
ところが、である。蒲原城内に武田に内通したものがあり、これが甲州勢を城内に引き入れてしまった。
出撃していた北條新三郎・狩野新八郎・新三郎弟少将・渡邊以下三百余人、城に引き返し一人も残らず斬死した。
この新三郎という人は、北條一門でも優れた勇者であり、氏康に特に評価され、人も多い中に、この地域の拠点である
蒲原城を任されたほどの人であった。
ところがこの不慮の討ち死にに、最期に大きな怨念を持ち、霊鬼となってこの蒲原の山に留まった。
樵夫・刈草の童は、これを見て恐れること限りないほどであった。
天正の頃、この山に居住する僧があったが、新三郎の霊はこの僧の元に訪れ物語などをしていた。
ある時僧が、「あなたは何者ですか?」と問えば、「私は北條新三郎の亡魂である」と言って、たちまち煙のように
消えてしまった。
今でも蒲原の住人は、この新三郎の霊に遭う事があるのだという。
(關侍傳記)
0741人間七七四年
2012/12/12(水) 08:52:21.29ID:gQv2B+4w関ヶ原の西軍自体が一日持たずに蹂躙されてるから
広家のせいにしてよいのかさえ疑問。
軍記物と違って兵数に大差があったんじゃなかろうか。
0743人間七七四年
2012/12/12(水) 09:28:04.31ID:DJa15wa9秀吉が死んで戦国の世に逆戻りするところをうまく回避できたのはぶっちゃけ輝元のおかげだったりする。
0745人間七七四年
2012/12/12(水) 15:21:51.00ID:j+rWurv3長男は夭折して、残った次男三男はここで討死に
幻庵じいさまの息子はこれで全員死んじゃった事になる
せめて兄と弟は別の城に置いてやれよ、って気がする
0746人間七七四年
2012/12/12(水) 18:18:09.79ID:qa/7RCob同じ死ぬなら兄弟共に一箇所で斬死にを、て考えなのかな。
兄弟がそう願ったのか上の配置なのかは分からんが。
0747人間七七四年
2012/12/12(水) 18:22:55.85ID:zdNSsK1S0748人間七七四年
2012/12/12(水) 18:26:29.60ID:p8wEpweF0749人間七七四年
2012/12/12(水) 20:14:11.62ID:R9HsZojG0750人間七七四年
2012/12/12(水) 22:13:28.08ID:3HxTAQSD鍋島屋敷内で石井杢之助と大小の刀を賭けて博打をした。
このことが上役まで知れて、両者は切腹、
居間番だった松野喜兵衛は死罪と決まった。
甚左衛門は国に召し返された後、牢屋へと入れられた。
甚左衛門は御家老たちによるお調べに、
「私は自分の行った悪事で牢屋に入り、
やがて処罰が決定されるのを待つだけです。
思い残すことはなにもありません。
しかし一つだけ無念なことがあり昼夜口惜しい思いをしています。
それは何かというと、牢屋の樋の下を鎖で縛ってあることです。
武士でもこのような身におちると、
樋の下をもぐって逃げ出すかもしれないと思われたこと、
これだけが残念で仕方ありません。」
と申し上げた。
しばらくして甚左衛門の処罰も近くなり身柄が寺へ移された。
そこへ藤井嘉平次が酒と小芋を持って見舞いに訪れ、
甚左衛門と酒を酌み交わし、小芋を二人で食べた。
小芋を食べながら甚左衛門が呟く。
「これは喉から出るかな(介錯されると)」
嘉平次が、
「出るわけがない」
と言うと、甚左衛門は、
「いや、胸が詰まって喉を通らぬのだ。
斬られたとき芋が見えたら見苦しいだろう」
と言い、食べるのを止めた。
そして嘉平次に向かい、
「オレはひとかどの口を利いた武士だが、
いま思い返してみると、やはり腰抜けだ。
死場で死にきれず這い回る姿を見せてしまえば、
普段の振る舞いに対して恥ずかしいから、
正直なところ、早く処刑してほしい。
剛の者は死場でも普段と変わらないと言うが、
オレは昨日まで死ぬことなどなんとも思わなかったが、
寺に移されてからなんとなく変わるものがあり、・・・無念である」
と言った。介錯は大塚貞助。
死にぎわは極めて見事だった、と嘉平次の話だ 【葉隠】
0751人間七七四年
2012/12/13(木) 05:16:00.91ID:SpqHlJrPまあ、出世競争の面があるのかもしれない
失点したやつは確実に潰しておくと
0752人間七七四年
2012/12/13(木) 05:37:36.86ID:N0woZZw4居間番には切腹を認めないのが武家の倫理感だな
やらかした者より、見てみぬふりした者のほうが罪が重いという。。。
0753人間七七四年
2012/12/13(木) 06:02:06.13ID:00k5tS9n江戸中期辺りに武士を美化し始めた頃に作られた創作の気がしないでもない
0754人間七七四年
2012/12/13(木) 18:55:31.44ID:STVFrRk4宗文が「こちらは鈴木正三老人なり」と紹介すると、侍は「おのれは薩摩の老職、
諏訪杢右衛門なり」と名乗った。
すると正三は一言も返さずに突然「伊勢神楽を舞って見せよう」と肌を脱ぎ、
「ひらりひらり」と謡いながら両手両足で踏みたたき、その様子はさながら物狂い
のようであった。すべては杢右衛門が自ら老職と名乗った驕傲をくだくためである。
杢右衛門は初めは茫然としていたが、やがてその心を悟って深く崇信の心を抱き、
これより正三の門人となって教えを受けたのだという。
――『近古禅林叢談』
0755人間七七四年
2012/12/13(木) 19:16:50.67ID:8ZDiG6dc1580年3月17日、長年あらそっていた本願寺と信長との間で和睦が成立すると、大勢の門徒たちは帰村した。
5月28日、その門徒たちが勝久寺に集まって法義談合を行っていると不意に信長軍が襲撃してきた。
信長軍は堂舎を焼き払い、多数の門徒たちを捕えて殺害した。そのため、辺り一面が血の海となり、
それ以後、寺の前のその場所を流れの馬場と呼ぶようになった。
0758人間七七四年
2012/12/14(金) 09:31:39.14ID:w+rX1iE90763上
2012/12/14(金) 21:20:33.32ID:+r/iV0Ox山城殿の家来、蒲原喜兵衛の娘であった。
小右衛門は三石という小身、芦原で細々と暮らしていた。
小右衛門の隣には、徳永三左衛門が住んでいた。
三左衛門も同じく十太夫の家来だったが家老をつとめ裕福であった。
八月十五日に小右衛門の妻の実家の町で祭りがあるので、
小右衛門夫婦はそろって実家の神社へと参拝に行こうと話しあった。
そういえば妻の実家から借りた蚊帳を三左衛門へ質として預けている。
祭りのお客が来ることもあるかと思い、
三左衛門のところへ行き、ニ、三日だけ蚊帳を借してほしいと頼んだが、
これを承知しない。それどころか悪口を言い、
「借金があるのに返済せずに、
質に預けた物を返せとは無理無体だ。
今後そたならは当家出入禁止とさせてもらう。
もし姿を見かけたら打ち捨てても構わぬと証文を書け」
と言った。
小右衛門は、ここまで言われてはもはや是非善悪もない。
討ち入って武士の面目を立てるまでだと覚悟を決め、
その場は三左衛門の言うとおりに証文を書いて帰った。
祭りの参拝も中止にして、八月ニ十七日までに身の回りを片付けた。
ニ十八日には新米で餅をついて、夜になると子供二人の枕へそれを並べておいた。
そして妻に知らせず、独り三左衛門の家へと向かった【続く】
0764下
2012/12/14(金) 21:23:21.89ID:+r/iV0Ox三左衛門は、内から戸締りして、なんの返答もしない。
このとき、三左衛門は弟の与左衛門のもとへ、娘のお七を走らせ急を知らせていた。
与左衛門は駆け付け、小右衛門の後ろから斬りかかり、
頭に傷を負わせたが、小右衛門はひるまず向き直り斬り合った。
与左衛門はしだいに小右衛門の気迫に追い詰められたが、
なんとか小右衛門を斬り殺し、近所の新助という者の肩をかり帰っていった。
小右衛門の妻は、夫が討ち入ったことを知ると、
鎌をつかんで三左衛門の家へと駆け向かったが、
途中で小右衛門の死骸を見付け、
「無念」
と歯噛みをした。
そして小右衛門の脇差を手に取り、三左衛門の家に声をかけたが、
三左衛門は出合おうとせず、家の中から長刀で斬り払ってきた。
小右衛門の妻はその長刀の柄にしがみつき引くと窓が崩れた。
そこから妻は内へと斬り込んで、三左衛門にかなりの手傷を負わせたが、
加勢してきた三左衛門の下男どもに斬り殺された。
与左衛門は九月一日に斬り合い傷がもとで死亡。
三左衛門は同四日切腹となった 【葉隠】
0765人間七七四年
2012/12/15(土) 06:53:43.43ID:NaDdx/zv0766人間七七四年
2012/12/15(土) 07:15:44.09ID:FQXJtEvs慶長五年(1600)十二月、関ヶ原合戦ののち次子・信繁と共に九度山に移った真田昌幸は同十六年(1611)に六十五歳で病死するまで、同地で悶々とした日々を送ることとなる。
配流から三年後、慶長八年(1603)に比定される昌幸の書状がある。
…なおなお銀子二匁目を送りいただき、忝なく思います。
度々お手紙を頂き、恐悦の至りであります。
おっしゃるように、それ以来は便りもありません。
こちらは別段変わった事もございませんのでご安心下さい。
内府様(家康)が当夏中に関東へ下向なされる、との噂を聞き及んでおりますから、拙者の事を本佐州(本多正信)がおそらくご披露に及ばれるでしょう。
もし下山できる事があれば、久々にお目にかかってお話したく存じます。恐惶謹言。
卯之三月十五日 安房
信綱寺座下 昌幸(花押)
(『先公実録』)
これは、昌幸が長篠合戦で討死を遂げた兄・真田信綱の菩提を弔う為に建立した信綱寺の住職に宛てた手紙であり、現在も同寺に伝わっている。
さて、配流後昌幸は長男・信之や家康と親しかった浅野長政らに働きかけて、家康に赦免してくれるようにと嘆願を繰り返していたらしい。
事実、この書状には自身の赦免が家康のブレーンである本多正信から家康に披露されるであろう、との旨が記されており、また昌幸もかなり楽観的な意見を述べているから、一定以上の成果をあげたようだが、結果は周知の通りであった。
更にこの書状の八年後、慶長十六年(1611)、昌幸の最晩年に比定され、家臣小山田氏の娘、小宰相に宛てた書状には
「われら、しよくぢのあじも、しかじかおほえ候わず」などと記しており、食欲も衰えてきたのであろう。
その後、「心地はよく候あひだ、御心やすく候へく候」と続き、安心するように述べている。
しかし小康状態も長くは続かず、同年六月四日、かつて信玄に「我が両目の如し」、秀吉に「表裏比興の者」と評された男の眼光は既に無く、遠く故郷に戻る事を夢見ながら没した。
0767人間七七四年
2012/12/15(土) 16:14:39.84ID:O0pXVcS+でも真田親子の蟄居がなければ真田幸村の活躍も無かったんだよなあ。
0768人間七七四年
2012/12/15(土) 17:25:09.03ID:6eAZaUB+だが晩年の昌幸の事を考えれば赦免してやっても良かったと思うがな
0769人間七七四年
2012/12/15(土) 17:29:10.38ID:PTjSIrKc東軍が100%勝つなんてわかるのは後世の人間だけ
0770人間七七四年
2012/12/15(土) 19:08:31.26ID:mRNRElBD0771人間七七四年
2012/12/15(土) 19:25:13.57ID:JdZhUVQv0772人間七七四年
2012/12/15(土) 19:30:01.28ID:tCJu2Vox0773人間七七四年
2012/12/15(土) 19:55:50.73ID:MLXmjZsX葉隠理論は正しい
0774人間七七四年
2012/12/15(土) 23:02:28.16ID:Rqf1vsgO0775人間七七四年
2012/12/15(土) 23:13:33.51ID:KMS9TfBIうちの祖先は正純さんが飛ばされた後の宇都宮に赴任する途中、
見沼用水の辺りで農民になったらしい
でもなんか眉唾っぽいわなwww
0776人間七七四年
2012/12/15(土) 23:46:43.55ID:w3hZYWjJ我が家の先祖がお寺に家系図とその由来を納めていたようで・・
『領地も名前も失った武士』
池田九右衛門は摂津池田氏の一族であった。
しかし知っての通り摂津池田氏は戦国の荒波に飲まれ没落してしまう。
一族であった九右衛門も先祖代々の土地を失い、流浪の日々を送ることになる。
流れに流れ九右衛門がたどり着いたのは備前岡山の地。
ここで九右衛門は帰農することを選び平穏な日々を送ることとなるのだが、
何年か経ったのちに重大な案件が起こる。
それは新たに岡山の地を領すことになった大名家が原因であった。
やって来たのは九右衛門と同じ苗字をもつ池田氏だったからである。
さすがに殿様と同じ名は恐れ多いと思ったのか、
それとも池田氏サイドから命令が出たのかは定かではないが
九右衛門は改姓を余儀なくされる。
先祖代々守り抜いた土地に加え名前まで失ってしまったのだ。
しかし九右衛門の精一杯の意地か新たな領主に対するささやかな抵抗か、
久右衛門は新たに「池本」と名乗ったのである。
まるで池田の本流は我らであるとでも言わんばかりに。
0777人間七七四年
2012/12/15(土) 23:53:12.10ID:Z7yXSjk/摂津池田氏!凄いな。なんか感動するわ。
一時期は三好長慶の一門扱いで、畿内で相当の威勢を張っていたんだよなあ。
信長の例の金ヶ崎の退き口も、殿軍を主導したのは秀吉ではなく池田勝正だったらしいのに。
0778人間七七四年
2012/12/16(日) 00:31:11.40ID:l5GMZZkq0779人間七七四年
2012/12/16(日) 01:05:37.85ID:EQyYH/KO0780人間七七四年
2012/12/16(日) 09:58:48.94ID:oARWiNWo都には王や領主が皆屋敷を構えており、多数の兵で守り固める大変大きな城がある。
皇帝(徳川家康)の娘婿(松平貞勝)がその城の総督である。
大阪には太閤様の息子(豊臣秀頼)がいるが、こちらは皇太子(徳川秀忠)の女婿である。
彼は日本中で最良の城の一つに閉じ込められ、誰も彼との会話を許されない。
彼が何を簒奪されても誰も話せないよう、皇帝に戦を挑む気にならないようにである。
それで婦人たちが彼に仕え、夜会や劇を催し続けている。
あんなに武勇優れたものの子息が軟弱にしているのを見るのは残念なことである。
彼はたいそう肥満しており、30歳にもなっていないのに、もう身体が自由にならない。
(中略)
この国では皇帝や領主まで、何ら確実なこと、あるいは確定したことはない。
なぜなら他の者が各々の名目を手に入れるのは暴力により、力を他より持つものが多くを手に入れるのだ。
皇帝が死ねば、太閤の子息、あるいは他の権力を羨望する者が大変大きな戦争を起こすだろう。
武士は平和が来れば餓死するから、戦争しか望まない。
人々は武器を愛好する人間で、男の子は乳離れする前から帯刀させる程だ。
利害が絡むことでは、親であろうと子供にすら信義を守らない。』
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
スペイン人による秀頼についての記録、及び日本人に関する考察である。
0783人間七七四年
2012/12/16(日) 12:05:57.93ID:WnokO+Fz0784人間七七四年
2012/12/16(日) 13:12:32.22ID:dEcJ7a5n大抵の小説そのシーンは、すらっとしたイケメンだしなw
0785人間七七四年
2012/12/16(日) 13:16:22.53ID:aco87qBs豪奢なのもあるだろうけど侍の飯は軍人の食生活だからカロリー高目を心がけるだろうし、
その上で他の武士が日常こなしてる運動を制限されてたら太るだろうなぁ。
鷹狩りとか家康が絶対許さなそうだし
0786人間七七四年
2012/12/16(日) 15:19:52.64ID:MWWL6TV5実像はそれと正反対といってもいいのでは…
秀頼が秀吉と違い背が高くて肥満体だった事については、実は結構多くの出典があるんだよな
「世に無き御太り」『長沢聞書』
「秀頼公勢(背)高ク顔ニクニクシク荒テ。力は不(普)通之人ノ拾人許有ケルガ。太ク逞シキ御馬ニ召レシカバ。」『豊内記』
0787人間七七四年
2012/12/16(日) 15:22:06.39ID:JWRqHtvi0788人間七七四年
2012/12/16(日) 15:28:02.21ID:MWWL6TV5それは、大切に奥に隠して育てられた秀頼を見た事無い上方の町人が
淀の方が生んだ「関白様の御曹司」ということで勝手に想像して作った歌らしい
0790人間七七四年
2012/12/16(日) 15:48:38.78ID:MWWL6TV5大坂の陣で大坂方である後藤又兵衛の近習として参戦している
0791人間七七四年
2012/12/16(日) 15:53:08.63ID:qUwy2ZqEて伝説があるが、案外本当だったのかもしれん
どうせ落人伝説つくるなら、もっと貴公子っぽくするだろうし
0792人間七七四年
2012/12/16(日) 15:57:43.66ID:rysdjfOs生々しい話のほうが真実味があるかもね
0793人間七七四年
2012/12/16(日) 16:05:51.31ID:9/T3kXL70794人間七七四年
2012/12/16(日) 18:46:29.47ID:xZJpsoOW0795人間七七四年
2012/12/16(日) 19:44:34.29ID:/EVut8fi蒲生氏郷の軍によって九戸城が包囲され、いよいよ落城となると、城内は逃げまどう人々で
大混乱におちいった。
城主九戸の奥方も急いで逃げ出そうとしたが、履物が見当たらない。とにかく城主の妻であるから
裸足で歩くことには慣れていなかった。そこで、そばをうろついている者を捕えて履物を奪った。
0796人間七七四年
2012/12/16(日) 20:46:33.26ID:1lv3g2guえ?
0798人間七七四年
2012/12/17(月) 00:15:38.50ID:nlXYvHQN0799人間七七四年
2012/12/17(月) 00:20:00.55ID:FKRQZc1P大久保忠世が杉浦久勝とコントをしていた時のこと。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3049.html
この時、光明山の住僧高継の案内で徳川家康が寺中に立ち寄ったところ、
高継は家康に勝栗を献じた。
家康は勝栗をひとつ食して機嫌良く「光明山で勝栗を食ったぞ!
これぞ、まさにこうみょう勝栗なり! 行末目出度き吉兆だ!」と言った。
これより後々までこうみょう勝栗といって、かの寺より奉る御佳例になったという。
――『徳川実紀(光明山書上など)』
光明だけに功名ってか。
0800人間七七四年
2012/12/17(月) 00:35:37.28ID:mTxjSZHZシャレが寒すぎるくらい寒いから、なのか?
0801人間七七四年
2012/12/17(月) 00:37:19.47ID:mTxjSZHZ0802人間七七四年
2012/12/17(月) 00:38:07.39ID:mTxjSZHZ0803人間七七四年
2012/12/17(月) 01:38:16.58ID:WviuVYra>>795の九戸城の話は戦国の合戦事典の本で紹介されていたものだが、その続きは
書かれていなかった。他の史料の天正南部軍記によれば九戸政実の妻は息子の亀千代とともに
城の外へ出たが、蒲生勢に捕えられて母子ともども斬首されてしまったらしい。
0804人間七七四年
2012/12/17(月) 10:05:37.76ID:bP7jvpZP然れどもその一身修まらざるにより、名を恥ずかしめ、それに縁座する大名もまた、名家数代の武臣であったが、
多くがこれに連座し改易された。
この事について、『荒き御政務である』との批判があった。
土井大炊頭利勝はこれを聞くと
「なんと愚かなことを申すのだろう。
私のような者でも今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めているが、もし子孫に君命に背くものが出れば、
他のものよりもきつく罪に問われる事を望む。
それに時期が来れば大久保・本多らも、存命の子孫があればそれが、宜しく召し使われるだろう。
それこそ仁政というものである。
今は、天下創業の御政務の時期である。まず譜代こそ厳しく戒め置かれなければならない。
にもかかわらず天下を動揺させるような行為をすれば、しかも譜代のものであれば別してその罪は深い。
これはお上の御威光を傷つけるものであるからである。
そんな事は、泉下の大久保七郎右衛門忠世、本多佐渡守正信も強く憎んだと想像できる。
仮に彼らが存命なら、子を勘当していただろう。」
その様に申されたという。
(武野燭談)
大久保忠隣・本多正純改易への批判に対する、土井利勝の意見である
0805人間七七四年
2012/12/18(火) 01:04:07.34ID:HmoTXQtY暇を遣わし、自身は伊勢で暮らして吉村又右衛門と大筆に宿札を掛け置いた。
生活の中で夫婦や娘は段々と困窮して食事もままならず、妻は衣服に困り、
娘は泣き伏して飢えに及んだ。
ある時、古い朋輩の大崎長行が訪ねて来て、紀州家に召しだされたので
又右衛門の添え状が欲しいという。宣充は添え状を用意すると、
「路銀はあるのか」と尋ね、長行は無いと答えた。
すると宣充は具足櫃から金三百両を出して五十両を分け与え、さらに
沓籠から銭を出して一貫文を渡した。長行は大いに喜んで武具等を
調えて奉公に出て行った。
その後、宣充の女房は怒って「あんなに金銭があったというのに妻子の飢えを
見て見ぬふりをしたのですか」と暇を乞うた。
これに宣充は「武士は売買の道を知らない。この金が尽きた時は今のような
生活になるだけだ。つまりは少し遅いか早いかでしかない。それならば我が
武勇の名を落とすまいと万が一の用を心掛けているのだ。それがお前には
わからぬか」と、言って妻と離別したという。
――『名将言行録』
0806人間七七四年
2012/12/18(火) 06:45:34.06ID:7grfk2Zi「今川義元は、臨済寺の雪斎和尚(太原雪斎)と相談して領内の統治などを行なっていた。
この頃は本当に国もよく治まっていた。
しかし雪斎は累代の家老というわけではなかったので、彼が遷化されたあとは、その政治を受け継ぐものが無く、
それ以前の状況に戻ってしまった。
それでも義元が生きているうちは、今川家の武備が衰えることはなかったが、義元が討死にした後は
諸人に今川家に対する疑念が起こり、また氏真の代になってからは風流婆娑羅のみにて日を送り、
終に家国を失ってしまった。
諸人に疑念を持たせた、というのは、主将の依怙から起こったものだった。」
(武野燭談)
家康の語る、今川家のこと、である
0808人間七七四年
2012/12/18(火) 20:39:50.61ID:NRw1bfoAところが、重臣の松永久秀の陰謀により、22歳の若さで毒殺されてしまった。
息子を失った三好長慶は悲しみで嘆くあまり、背中が丸くなってしまうほどであった。
亡くなった三好義興は芥川の霊松寺に葬られた。
長慶は瀬戸内海の屋島から鉄のように硬い石を取り寄せて義興の墓にした。その墓は
叩くとカンカンという金属音が鳴り響くので、人々はその墓石をカンカン石と呼び、
今でも三好長慶がカンカンに怒っているのだと噂しあった。
0809人間七七四年
2012/12/18(火) 20:45:32.00ID:lyCvzWs30810人間七七四年
2012/12/18(火) 20:50:13.30ID:EMnqOhHK0811人間七七四年
2012/12/18(火) 22:13:41.89ID:MFrnsNcW固いし鉄分多いから確かに、金属的な音はする
0812人間七七四年
2012/12/18(火) 22:19:40.29ID:RpdeJRVA0813人間七七四年
2012/12/19(水) 00:13:31.71ID:x7B2mBNB実際楽器にしたりするし
0814人間七七四年
2012/12/19(水) 02:21:18.55ID:HIPuai2Z0815人間七七四年
2012/12/19(水) 03:01:48.67ID:4DTDAUTF石見本同士を叩き合って石の良し悪しを客に教えてたりはしてた
>>814
ちょっと趣旨がずれるけど、鼠小僧でぐぐって墓石にまつわるエピソードを読んでみると良いかも
昔からの墓地の、古い墓の蓮華が欠けているのも博打好きの仕業であることが多い
0816人間七七四年
2012/12/19(水) 04:39:07.07ID:F6PdzPoTこれ長慶さんが息子の墓を叩いたわけじゃないでしょ?
0818人間七七四年
2012/12/19(水) 14:45:06.68ID:0YsdnxQ6墓石を削れば薬になる、て信じられてたのでは
0819人間七七四年
2012/12/19(水) 14:57:01.73ID:Ane5dlL0実際に皆が叩いてたわけじゃないと思うよ。
0820人間七七四年
2012/12/19(水) 16:01:13.71ID:52/mes1M0821人間七七四年
2012/12/19(水) 16:10:35.02ID:iU+P6x/1■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています