トップページsengoku
1001コメント410KB

戦国ちょっと悪い話34

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0722人間七七四年2012/12/11(火) 01:35:00.24ID:PpWtN/9B
>>714
独眼竜TERU
やだカッコイイ
0723人間七七四年2012/12/11(火) 01:45:30.97ID:GjqladoG
独眼竜の父親もTERUなわけで
将軍からの偏諱だからかぶるのは当たり前だが
0724人間七七四年2012/12/11(火) 10:27:40.03ID:MDsAJeiJ
>>703
ググったら享年100歳越えてて吹いたw
小西の息子とはえらい違いだなw
0725人間七七四年2012/12/11(火) 11:22:26.03ID:AvncbbWD
>>724
最後は岸和田で、三成の曾孫だか玄孫の弘前藩士に看取られたそうな
0726人間七七四年2012/12/11(火) 12:46:03.42ID:fJz8buMZ
>>721
この話の人が山城守か。仲良かったのかな?w
0727人間七七四年2012/12/11(火) 12:49:38.82ID:hyrqZ8PA
>>714
TERUが隻眼なんて初めて知ったわ
0728人間七七四年2012/12/11(火) 14:54:48.42ID:Lmq2x0dX
>>720-721
筋肉で語り合うって素敵やん?
0729人間七七四年2012/12/11(火) 16:14:10.35ID:QmhEt8hH
>>725
いい話だな
0730人間七七四年2012/12/11(火) 17:27:36.29ID:r5+UWTJF
輝元は主義主張も無く、間に居たから大将にされて
それを解ってたハズなのに途中から誰も期待してない頑固さを貫くあたり
野田首相に似ている。
0731人間七七四年2012/12/11(火) 18:03:57.46ID:hyrqZ8PA
TERUは東西の争いに合わせて本国の勢力拡大を狙ってたけど
西軍があまりに弱すぎて計算が狂っちゃったってだけでしょ。
0732人間七七四年2012/12/11(火) 18:20:19.99ID:MDsAJeiJ
西軍というか、殆どTERUの身内が原因w
0733人間七七四年2012/12/11(火) 19:11:02.06ID:wxaMRhDt
神輿は軽くて云々…
0734人間七七四年2012/12/11(火) 19:33:57.74ID:gVkTCXmJ
>>731
西軍の弱さの7割は毛利一門の吉川と小早川のせいだけどな
0735人間七七四年2012/12/11(火) 19:38:48.99ID:GvO91ry1
>>729
感動的だな
0736人間七七四年2012/12/11(火) 19:39:16.54ID:PpQD1IgI
つうか、西軍がまともにぶつかっていたら毛利は潰されているんじゃない?
そういう状況だったら家康も秀忠と合流するだろうし
0737人間七七四年2012/12/11(火) 21:06:57.64ID:OI4os2Ea
>>730
誰も期待してない頑固さを貫ているのは
石田の方じゃね
家康討伐なんて誰も望んでなかったわけだし

>>734
吉川と小早川のせいで負けた戦なんて関ヶ原以外であったか?
普通に敵勢力を攻めて勝利しているし
むしろ石田たち首脳陣のちんたらした対応の方が弱さの原因じゃね
0738人間七七四年2012/12/11(火) 21:42:28.69ID:wMrRmq/a
両川と言ったって、隆景もおらず、昔の家臣は毛利家に引き取られて織豊系の家老が主導権を握ってて、
もはや毛利一門というより豊臣一門なのが関が原当時の小早川だしなあ

毛利・吉川・安国寺と別に考えるべきだと思うぞ
0739人間七七四年2012/12/12(水) 01:07:04.16ID:hWZbYsjO
>>737
伏見城攻めをはじめ諸将の動きが鈍重極まってたのにその言い種はないわ
0740人間七七四年2012/12/12(水) 05:29:13.12ID:/eJrE2dz
永禄12年(1569)、武田信玄の駿河侵攻。

信玄は大宮通に討って出てあつばらを過ぎて加島へ進出し、悉く放火して富士川を渡り、岩淵の宿を焼いて
蒲原へ押し寄せた。

蒲原には北條新三郎が籠っていたが、当時駿河方面の北條方は、信玄の小田原侵入の煽りを受けて
小田原に集まっており、蒲原に残るものは少数であった。
このため甲州勢は、『きっと聞落(軍勢が迫るのを聞いただけで自落する)』と侮っていた。

しかし北條新三郎は少しも怯まず、信玄が城を取り巻き、徐々に攻め寄せると、新三郎は弟の少将をここに留め、
自身は狩野新八郎と共に出撃し、甲州勢を悉く追い立て、信玄の近臣・小幡弾正を初めとして悉く討ち取った。

ところが、である。蒲原城内に武田に内通したものがあり、これが甲州勢を城内に引き入れてしまった。
出撃していた北條新三郎・狩野新八郎・新三郎弟少将・渡邊以下三百余人、城に引き返し一人も残らず斬死した。

この新三郎という人は、北條一門でも優れた勇者であり、氏康に特に評価され、人も多い中に、この地域の拠点である
蒲原城を任されたほどの人であった。

ところがこの不慮の討ち死にに、最期に大きな怨念を持ち、霊鬼となってこの蒲原の山に留まった。
樵夫・刈草の童は、これを見て恐れること限りないほどであった。

天正の頃、この山に居住する僧があったが、新三郎の霊はこの僧の元に訪れ物語などをしていた。
ある時僧が、「あなたは何者ですか?」と問えば、「私は北條新三郎の亡魂である」と言って、たちまち煙のように
消えてしまった。

今でも蒲原の住人は、この新三郎の霊に遭う事があるのだという。
(關侍傳記)
0741人間七七四年2012/12/12(水) 08:52:21.29ID:gQv2B+4w
>>737
関ヶ原の西軍自体が一日持たずに蹂躙されてるから
広家のせいにしてよいのかさえ疑問。

軍記物と違って兵数に大差があったんじゃなかろうか。
0742人間七七四年2012/12/12(水) 09:19:47.57ID:T6krAu3h
>>740
僧が何とかしてくれるのかと思ったがそんなことは無かった
0743人間七七四年2012/12/12(水) 09:28:04.31ID:DJa15wa9
>>730
秀吉が死んで戦国の世に逆戻りするところをうまく回避できたのはぶっちゃけ輝元のおかげだったりする。
0744人間七七四年2012/12/12(水) 11:56:16.27ID:cpj77mD9
>>740
幻庵さんの息子さんだっけ
0745人間七七四年2012/12/12(水) 15:21:51.00ID:j+rWurv3
そうだよ
長男は夭折して、残った次男三男はここで討死に
幻庵じいさまの息子はこれで全員死んじゃった事になる

せめて兄と弟は別の城に置いてやれよ、って気がする
0746人間七七四年2012/12/12(水) 18:18:09.79ID:qa/7RCob
>>745
同じ死ぬなら兄弟共に一箇所で斬死にを、て考えなのかな。
兄弟がそう願ったのか上の配置なのかは分からんが。
0747人間七七四年2012/12/12(水) 18:22:55.85ID:zdNSsK1S
弟が指揮官である兄の副官を務めるのは普通の配置
0748人間七七四年2012/12/12(水) 18:26:29.60ID:p8wEpweF
だよね
0749人間七七四年2012/12/12(水) 20:14:11.62ID:R9HsZojG
弟が若年だと女装して兄の篭る城に単騎駆けするんだろ
0750人間七七四年2012/12/12(水) 22:13:28.08ID:3HxTAQSD
石井甚左衛門が江戸で留守詰めを務めたときのこと。
鍋島屋敷内で石井杢之助と大小の刀を賭けて博打をした。
このことが上役まで知れて、両者は切腹、
居間番だった松野喜兵衛は死罪と決まった。
甚左衛門は国に召し返された後、牢屋へと入れられた。
甚左衛門は御家老たちによるお調べに、
「私は自分の行った悪事で牢屋に入り、
やがて処罰が決定されるのを待つだけです。
思い残すことはなにもありません。
しかし一つだけ無念なことがあり昼夜口惜しい思いをしています。
それは何かというと、牢屋の樋の下を鎖で縛ってあることです。
武士でもこのような身におちると、
樋の下をもぐって逃げ出すかもしれないと思われたこと、
これだけが残念で仕方ありません。」
と申し上げた。
しばらくして甚左衛門の処罰も近くなり身柄が寺へ移された。
そこへ藤井嘉平次が酒と小芋を持って見舞いに訪れ、
甚左衛門と酒を酌み交わし、小芋を二人で食べた。
小芋を食べながら甚左衛門が呟く。
「これは喉から出るかな(介錯されると)」
嘉平次が、
「出るわけがない」
と言うと、甚左衛門は、
「いや、胸が詰まって喉を通らぬのだ。
斬られたとき芋が見えたら見苦しいだろう」
と言い、食べるのを止めた。
そして嘉平次に向かい、
「オレはひとかどの口を利いた武士だが、
いま思い返してみると、やはり腰抜けだ。
死場で死にきれず這い回る姿を見せてしまえば、
普段の振る舞いに対して恥ずかしいから、
正直なところ、早く処刑してほしい。
剛の者は死場でも普段と変わらないと言うが、
オレは昨日まで死ぬことなどなんとも思わなかったが、
寺に移されてからなんとなく変わるものがあり、・・・無念である」
と言った。介錯は大塚貞助。
死にぎわは極めて見事だった、と嘉平次の話だ 【葉隠】
0751人間七七四年2012/12/13(木) 05:16:00.91ID:SpqHlJrP
自分がしたことでなくても管理不行届きで死罪か
まあ、出世競争の面があるのかもしれない
失点したやつは確実に潰しておくと
0752人間七七四年2012/12/13(木) 05:37:36.86ID:N0woZZw4
博打した二人は切腹なのに、
居間番には切腹を認めないのが武家の倫理感だな
やらかした者より、見てみぬふりした者のほうが罪が重いという。。。
0753人間七七四年2012/12/13(木) 06:02:06.13ID:00k5tS9n
まだ戦国時代終わった直後の話だろ?
江戸中期辺りに武士を美化し始めた頃に作られた創作の気がしないでもない
0754人間七七四年2012/12/13(木) 18:55:31.44ID:STVFrRk4
ある時、鈴木正三が深川に宗文を訪ねて話していたところ、一人の侍がやって来た。
宗文が「こちらは鈴木正三老人なり」と紹介すると、侍は「おのれは薩摩の老職、
諏訪杢右衛門なり」と名乗った。

すると正三は一言も返さずに突然「伊勢神楽を舞って見せよう」と肌を脱ぎ、
「ひらりひらり」と謡いながら両手両足で踏みたたき、その様子はさながら物狂い
のようであった。すべては杢右衛門が自ら老職と名乗った驕傲をくだくためである。

杢右衛門は初めは茫然としていたが、やがてその心を悟って深く崇信の心を抱き、
これより正三の門人となって教えを受けたのだという。

――『近古禅林叢談』
0755人間七七四年2012/12/13(木) 19:16:50.67ID:8ZDiG6dc
摂津の勝久寺の住職頓恵(とんけい)は数千の門徒とともに本願寺に味方して織田信長と戦った。
1580年3月17日、長年あらそっていた本願寺と信長との間で和睦が成立すると、大勢の門徒たちは帰村した。

5月28日、その門徒たちが勝久寺に集まって法義談合を行っていると不意に信長軍が襲撃してきた。
信長軍は堂舎を焼き払い、多数の門徒たちを捕えて殺害した。そのため、辺り一面が血の海となり、
それ以後、寺の前のその場所を流れの馬場と呼ぶようになった。
0756人間七七四年2012/12/13(木) 21:49:13.74ID:dZV3MS5W
>>754
むつかしくて意味わからん
0757人間七七四年2012/12/14(金) 09:22:54.79ID:Kn39yz35
>>754
こんなので言いたい事が伝わるものなんだな
杢右衛門が凄いのか?
0758人間七七四年2012/12/14(金) 09:31:39.14ID:w+rX1iE9
伊勢神楽は市井で受け継がれてきた神楽ってのが関係するかの?
0759人間七七四年2012/12/14(金) 10:01:07.07ID:N5/vMG73
>>754
むかしの人間は時々コミュスキルが高すぎてわけがわからないよ
0760人間七七四年2012/12/14(金) 10:26:08.28ID:gIr+Q4Wo
>>755
場所的にこの「信長軍」ってやっぱり高山さんなのかしら…
0761人間七七四年2012/12/14(金) 13:23:36.26ID:Mld+2kR9
>>754
レベルが高すぎて、もはや何がなんだかわからん
0762人間七七四年2012/12/14(金) 18:52:12.07ID:exEa+8G4
>>760
高山さんなら躊躇しないね
07632012/12/14(金) 21:20:33.32ID:+r/iV0Ox
鍋島十太夫の家来、黒川小右衛門の妻は、
山城殿の家来、蒲原喜兵衛の娘であった。
小右衛門は三石という小身、芦原で細々と暮らしていた。
小右衛門の隣には、徳永三左衛門が住んでいた。
三左衛門も同じく十太夫の家来だったが家老をつとめ裕福であった。
八月十五日に小右衛門の妻の実家の町で祭りがあるので、
小右衛門夫婦はそろって実家の神社へと参拝に行こうと話しあった。
そういえば妻の実家から借りた蚊帳を三左衛門へ質として預けている。
祭りのお客が来ることもあるかと思い、
三左衛門のところへ行き、ニ、三日だけ蚊帳を借してほしいと頼んだが、
これを承知しない。それどころか悪口を言い、
「借金があるのに返済せずに、
質に預けた物を返せとは無理無体だ。
今後そたならは当家出入禁止とさせてもらう。
もし姿を見かけたら打ち捨てても構わぬと証文を書け」
と言った。
小右衛門は、ここまで言われてはもはや是非善悪もない。
討ち入って武士の面目を立てるまでだと覚悟を決め、
その場は三左衛門の言うとおりに証文を書いて帰った。
祭りの参拝も中止にして、八月ニ十七日までに身の回りを片付けた。
ニ十八日には新米で餅をついて、夜になると子供二人の枕へそれを並べておいた。
そして妻に知らせず、独り三左衛門の家へと向かった【続く】
07642012/12/14(金) 21:23:21.89ID:+r/iV0Ox
さて、窓から遺恨を述べて果たし合いを求めたが、
三左衛門は、内から戸締りして、なんの返答もしない。
このとき、三左衛門は弟の与左衛門のもとへ、娘のお七を走らせ急を知らせていた。
与左衛門は駆け付け、小右衛門の後ろから斬りかかり、
頭に傷を負わせたが、小右衛門はひるまず向き直り斬り合った。
与左衛門はしだいに小右衛門の気迫に追い詰められたが、
なんとか小右衛門を斬り殺し、近所の新助という者の肩をかり帰っていった。
小右衛門の妻は、夫が討ち入ったことを知ると、
鎌をつかんで三左衛門の家へと駆け向かったが、
途中で小右衛門の死骸を見付け、
「無念」
と歯噛みをした。
そして小右衛門の脇差を手に取り、三左衛門の家に声をかけたが、
三左衛門は出合おうとせず、家の中から長刀で斬り払ってきた。
小右衛門の妻はその長刀の柄にしがみつき引くと窓が崩れた。
そこから妻は内へと斬り込んで、三左衛門にかなりの手傷を負わせたが、
加勢してきた三左衛門の下男どもに斬り殺された。
与左衛門は九月一日に斬り合い傷がもとで死亡。
三左衛門は同四日切腹となった 【葉隠】
0765人間七七四年2012/12/15(土) 06:53:43.43ID:NaDdx/zv
やっぱよーわからんな
0766人間七七四年2012/12/15(土) 07:15:44.09ID:FQXJtEvs
梟雄の晩年

慶長五年(1600)十二月、関ヶ原合戦ののち次子・信繁と共に九度山に移った真田昌幸は同十六年(1611)に六十五歳で病死するまで、同地で悶々とした日々を送ることとなる。


配流から三年後、慶長八年(1603)に比定される昌幸の書状がある。


…なおなお銀子二匁目を送りいただき、忝なく思います。
度々お手紙を頂き、恐悦の至りであります。
おっしゃるように、それ以来は便りもありません。
こちらは別段変わった事もございませんのでご安心下さい。
内府様(家康)が当夏中に関東へ下向なされる、との噂を聞き及んでおりますから、拙者の事を本佐州(本多正信)がおそらくご披露に及ばれるでしょう。
もし下山できる事があれば、久々にお目にかかってお話したく存じます。恐惶謹言。

卯之三月十五日 安房
信綱寺座下 昌幸(花押)

(『先公実録』)

これは、昌幸が長篠合戦で討死を遂げた兄・真田信綱の菩提を弔う為に建立した信綱寺の住職に宛てた手紙であり、現在も同寺に伝わっている。

さて、配流後昌幸は長男・信之や家康と親しかった浅野長政らに働きかけて、家康に赦免してくれるようにと嘆願を繰り返していたらしい。
事実、この書状には自身の赦免が家康のブレーンである本多正信から家康に披露されるであろう、との旨が記されており、また昌幸もかなり楽観的な意見を述べているから、一定以上の成果をあげたようだが、結果は周知の通りであった。

更にこの書状の八年後、慶長十六年(1611)、昌幸の最晩年に比定され、家臣小山田氏の娘、小宰相に宛てた書状には
「われら、しよくぢのあじも、しかじかおほえ候わず」などと記しており、食欲も衰えてきたのであろう。
その後、「心地はよく候あひだ、御心やすく候へく候」と続き、安心するように述べている。
しかし小康状態も長くは続かず、同年六月四日、かつて信玄に「我が両目の如し」、秀吉に「表裏比興の者」と評された男の眼光は既に無く、遠く故郷に戻る事を夢見ながら没した。
0767人間七七四年2012/12/15(土) 16:14:39.84ID:O0pXVcS+
関ヶ原で西軍なんかについたばかりに・・・。
でも真田親子の蟄居がなければ真田幸村の活躍も無かったんだよなあ。
0768人間七七四年2012/12/15(土) 17:25:09.03ID:6eAZaUB+
真田人気もなかったかもしれないからね

だが晩年の昌幸の事を考えれば赦免してやっても良かったと思うがな
0769人間七七四年2012/12/15(土) 17:29:10.38ID:PTjSIrKc
信之は東軍についたんだし、家の生き残りを図るんなら東西両軍について保険をかけておくのが普通だろ
東軍が100%勝つなんてわかるのは後世の人間だけ
0770人間七七四年2012/12/15(土) 19:08:31.26ID:mRNRElBD
真田紐ビジネスで一山当てるつもりだったんだよ!
0771人間七七四年2012/12/15(土) 19:25:13.57ID:JdZhUVQv
本当に応仁の乱のように長引くと思ってたのかね?
0772人間七七四年2012/12/15(土) 19:30:01.28ID:tCJu2Vox
長引くと思って当てが外れた武将も多いんだろうな
0773人間七七四年2012/12/15(土) 19:55:50.73ID:MLXmjZsX
当てが外れた場合、やはり死を選んだ(ことになった)幸村さんが英雄になるんだよな
葉隠理論は正しい
0774人間七七四年2012/12/15(土) 23:02:28.16ID:Rqf1vsgO
大阪夏の陣で大阪方について、戦後命乞いしてなんとか助命された俺の先祖は負け組かよ…
0775人間七七四年2012/12/15(土) 23:13:33.51ID:KMS9TfBI
助命されてなかったら今の自分がいないと思いねぇ・・・

うちの祖先は正純さんが飛ばされた後の宇都宮に赴任する途中、
見沼用水の辺りで農民になったらしい

でもなんか眉唾っぽいわなwww
0776人間七七四年2012/12/15(土) 23:46:43.55ID:w3hZYWjJ
法事の時にお坊さんが教えてくれた我が家の先祖の話です。
我が家の先祖がお寺に家系図とその由来を納めていたようで・・

『領地も名前も失った武士』

池田九右衛門は摂津池田氏の一族であった。
しかし知っての通り摂津池田氏は戦国の荒波に飲まれ没落してしまう。
一族であった九右衛門も先祖代々の土地を失い、流浪の日々を送ることになる。

流れに流れ九右衛門がたどり着いたのは備前岡山の地。
ここで九右衛門は帰農することを選び平穏な日々を送ることとなるのだが、
何年か経ったのちに重大な案件が起こる。
それは新たに岡山の地を領すことになった大名家が原因であった。

やって来たのは九右衛門と同じ苗字をもつ池田氏だったからである。

さすがに殿様と同じ名は恐れ多いと思ったのか、
それとも池田氏サイドから命令が出たのかは定かではないが
九右衛門は改姓を余儀なくされる。
先祖代々守り抜いた土地に加え名前まで失ってしまったのだ。

しかし九右衛門の精一杯の意地か新たな領主に対するささやかな抵抗か、
久右衛門は新たに「池本」と名乗ったのである。
まるで池田の本流は我らであるとでも言わんばかりに。
0777人間七七四年2012/12/15(土) 23:53:12.10ID:Z7yXSjk/
>>776
摂津池田氏!凄いな。なんか感動するわ。
一時期は三好長慶の一門扱いで、畿内で相当の威勢を張っていたんだよなあ。
信長の例の金ヶ崎の退き口も、殿軍を主導したのは秀吉ではなく池田勝正だったらしいのに。
0778人間七七四年2012/12/16(日) 00:31:11.40ID:l5GMZZkq
元池田って感じではまずかっただろうか。
0779人間七七四年2012/12/16(日) 01:05:37.85ID:EQyYH/KO
北条「これからお前は喜多条な」
0780人間七七四年2012/12/16(日) 09:58:48.94ID:oARWiNWo
『(1612年5月)伏見を通って16日に大阪の町についた。伏見は都とほぼ同じくらいの大きな町である。
都には王や領主が皆屋敷を構えており、多数の兵で守り固める大変大きな城がある。
皇帝(徳川家康)の娘婿(松平貞勝)がその城の総督である。

大阪には太閤様の息子(豊臣秀頼)がいるが、こちらは皇太子(徳川秀忠)の女婿である。
彼は日本中で最良の城の一つに閉じ込められ、誰も彼との会話を許されない。
彼が何を簒奪されても誰も話せないよう、皇帝に戦を挑む気にならないようにである。
それで婦人たちが彼に仕え、夜会や劇を催し続けている。

あんなに武勇優れたものの子息が軟弱にしているのを見るのは残念なことである。
彼はたいそう肥満しており、30歳にもなっていないのに、もう身体が自由にならない。

(中略)

この国では皇帝や領主まで、何ら確実なこと、あるいは確定したことはない。
なぜなら他の者が各々の名目を手に入れるのは暴力により、力を他より持つものが多くを手に入れるのだ。

皇帝が死ねば、太閤の子息、あるいは他の権力を羨望する者が大変大きな戦争を起こすだろう。
武士は平和が来れば餓死するから、戦争しか望まない。
人々は武器を愛好する人間で、男の子は乳離れする前から帯刀させる程だ。
利害が絡むことでは、親であろうと子供にすら信義を守らない。』

(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

スペイン人による秀頼についての記録、及び日本人に関する考察である。
0781人間七七四年2012/12/16(日) 10:50:56.75ID:f7zTcakh
>>780
伏見城代は松平定勝なんじゃ?
0782人間七七四年2012/12/16(日) 10:57:19.28ID:oARWiNWo
>>781
変換ミスです。すいませんw;
0783人間七七四年2012/12/16(日) 12:05:57.93ID:WnokO+Fz
へー歴史小説なんかだと二条城で対面したころはまだ肥満してないことになってるけどほんとうはもうそのときからぶくぶくだったんだろうな
0784人間七七四年2012/12/16(日) 13:12:32.22ID:dEcJ7a5n
そういえばそうだな
大抵の小説そのシーンは、すらっとしたイケメンだしなw
0785人間七七四年2012/12/16(日) 13:16:22.53ID:aco87qBs
>>783
豪奢なのもあるだろうけど侍の飯は軍人の食生活だからカロリー高目を心がけるだろうし、
その上で他の武士が日常こなしてる運動を制限されてたら太るだろうなぁ。
鷹狩りとか家康が絶対許さなそうだし
0786人間七七四年2012/12/16(日) 15:19:52.64ID:MWWL6TV5
>>784
実像はそれと正反対といってもいいのでは…
秀頼が秀吉と違い背が高くて肥満体だった事については、実は結構多くの出典があるんだよな

「世に無き御太り」『長沢聞書』

「秀頼公勢(背)高ク顔ニクニクシク荒テ。力は不(普)通之人ノ拾人許有ケルガ。太ク逞シキ御馬ニ召レシカバ。」『豊内記』
0787人間七七四年2012/12/16(日) 15:22:06.39ID:JWRqHtvi
花のようなる秀頼様…
0788人間七七四年2012/12/16(日) 15:28:02.21ID:MWWL6TV5
>>787
それは、大切に奥に隠して育てられた秀頼を見た事無い上方の町人が
淀の方が生んだ「関白様の御曹司」ということで勝手に想像して作った歌らしい
0789人間七七四年2012/12/16(日) 15:35:28.66ID:f7zTcakh
>>787
ラフレシアだったとか
0790人間七七四年2012/12/16(日) 15:48:38.78ID:MWWL6TV5
ちなみに秀頼について「世に無き御太り」と書いた『長沢聞書』の作者・長沢九郎兵衛は
大坂の陣で大坂方である後藤又兵衛の近習として参戦している
0791人間七七四年2012/12/16(日) 15:53:08.63ID:qUwy2ZqE
薩摩に逃げ延びた秀頼が呑んだくれて乱暴な振る舞いをしていた、
て伝説があるが、案外本当だったのかもしれん
どうせ落人伝説つくるなら、もっと貴公子っぽくするだろうし
0792人間七七四年2012/12/16(日) 15:57:43.66ID:rysdjfOs
たしかに美化されたものより、
生々しい話のほうが真実味があるかもね
0793人間七七四年2012/12/16(日) 16:05:51.31ID:9/T3kXL7
秀頼を騙った落人が無銭飲食ツアーしてたんじゃねw
0794人間七七四年2012/12/16(日) 18:46:29.47ID:xZJpsoOW
そんなでかい図体の人がどうやって大坂城の包囲を抜け出したのか
0795人間七七四年2012/12/16(日) 19:44:34.29ID:/EVut8fi
1591年に起きた九戸政実の乱は九戸側の敗北に終わった。
蒲生氏郷の軍によって九戸城が包囲され、いよいよ落城となると、城内は逃げまどう人々で
大混乱におちいった。
城主九戸の奥方も急いで逃げ出そうとしたが、履物が見当たらない。とにかく城主の妻であるから
裸足で歩くことには慣れていなかった。そこで、そばをうろついている者を捕えて履物を奪った。
0796人間七七四年2012/12/16(日) 20:46:33.26ID:1lv3g2gu
>奪った。

え?
0797人間七七四年2012/12/17(月) 00:14:37.93ID:mTxjSZHZ
>>795  男物だったりしてw
0798人間七七四年2012/12/17(月) 00:15:38.50ID:nlXYvHQN
続くのかと思ったらこれでおしまい?
0799人間七七四年2012/12/17(月) 00:20:00.55ID:FKRQZc1P
光明勝栗由来

大久保忠世が杉浦久勝とコントをしていた時のこと。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3049.html

この時、光明山の住僧高継の案内で徳川家康が寺中に立ち寄ったところ、
高継は家康に勝栗を献じた。

家康は勝栗をひとつ食して機嫌良く「光明山で勝栗を食ったぞ!
これぞ、まさにこうみょう勝栗なり! 行末目出度き吉兆だ!」と言った。

これより後々までこうみょう勝栗といって、かの寺より奉る御佳例になったという。

――『徳川実紀(光明山書上など)』

光明だけに功名ってか。
0800人間七七四年2012/12/17(月) 00:35:37.28ID:mTxjSZHZ
なにが悪い話なのかわかりにくいが
シャレが寒すぎるくらい寒いから、なのか?
0801人間七七四年2012/12/17(月) 00:37:19.47ID:mTxjSZHZ
毎度お馴染みネーミングセンスの悪い話
0802人間七七四年2012/12/17(月) 00:38:07.39ID:mTxjSZHZ
あ、ID被った
0803人間七七四年2012/12/17(月) 01:38:16.58ID:WviuVYra
>>798

>>795の九戸城の話は戦国の合戦事典の本で紹介されていたものだが、その続きは
書かれていなかった。他の史料の天正南部軍記によれば九戸政実の妻は息子の亀千代とともに
城の外へ出たが、蒲生勢に捕えられて母子ともども斬首されてしまったらしい。
0804人間七七四年2012/12/17(月) 10:05:37.76ID:bP7jvpZP
大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖より代々御当家に仕え、大功ある人々の子である。
然れどもその一身修まらざるにより、名を恥ずかしめ、それに縁座する大名もまた、名家数代の武臣であったが、
多くがこれに連座し改易された。

この事について、『荒き御政務である』との批判があった。
土井大炊頭利勝はこれを聞くと

「なんと愚かなことを申すのだろう。
私のような者でも今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めているが、もし子孫に君命に背くものが出れば、
他のものよりもきつく罪に問われる事を望む。

それに時期が来れば大久保・本多らも、存命の子孫があればそれが、宜しく召し使われるだろう。
それこそ仁政というものである。

今は、天下創業の御政務の時期である。まず譜代こそ厳しく戒め置かれなければならない。
にもかかわらず天下を動揺させるような行為をすれば、しかも譜代のものであれば別してその罪は深い。
これはお上の御威光を傷つけるものであるからである。

そんな事は、泉下の大久保七郎右衛門忠世、本多佐渡守正信も強く憎んだと想像できる。
仮に彼らが存命なら、子を勘当していただろう。」

その様に申されたという。
(武野燭談)

大久保忠隣・本多正純改易への批判に対する、土井利勝の意見である
0805人間七七四年2012/12/18(火) 01:04:07.34ID:HmoTXQtY
福島家が改易となった時、吉村宣充は家人下僕に至るまで金銀家財を与えて
暇を遣わし、自身は伊勢で暮らして吉村又右衛門と大筆に宿札を掛け置いた。
生活の中で夫婦や娘は段々と困窮して食事もままならず、妻は衣服に困り、
娘は泣き伏して飢えに及んだ。

ある時、古い朋輩の大崎長行が訪ねて来て、紀州家に召しだされたので
又右衛門の添え状が欲しいという。宣充は添え状を用意すると、
「路銀はあるのか」と尋ね、長行は無いと答えた。

すると宣充は具足櫃から金三百両を出して五十両を分け与え、さらに
沓籠から銭を出して一貫文を渡した。長行は大いに喜んで武具等を
調えて奉公に出て行った。

その後、宣充の女房は怒って「あんなに金銭があったというのに妻子の飢えを
見て見ぬふりをしたのですか」と暇を乞うた。

これに宣充は「武士は売買の道を知らない。この金が尽きた時は今のような
生活になるだけだ。つまりは少し遅いか早いかでしかない。それならば我が
武勇の名を落とすまいと万が一の用を心掛けているのだ。それがお前には
わからぬか」と、言って妻と離別したという。

――『名将言行録』
0806人間七七四年2012/12/18(火) 06:45:34.06ID:7grfk2Zi
徳川家康がある時語ったことである

「今川義元は、臨済寺の雪斎和尚(太原雪斎)と相談して領内の統治などを行なっていた。
この頃は本当に国もよく治まっていた。

しかし雪斎は累代の家老というわけではなかったので、彼が遷化されたあとは、その政治を受け継ぐものが無く、
それ以前の状況に戻ってしまった。

それでも義元が生きているうちは、今川家の武備が衰えることはなかったが、義元が討死にした後は
諸人に今川家に対する疑念が起こり、また氏真の代になってからは風流婆娑羅のみにて日を送り、
終に家国を失ってしまった。

諸人に疑念を持たせた、というのは、主将の依怙から起こったものだった。」

(武野燭談)

家康の語る、今川家のこと、である
0807人間七七四年2012/12/18(火) 08:15:20.17ID:YZoRbVHX
>>806
攻め込んだ当人が語ってるから悪い話なのかな?
0808人間七七四年2012/12/18(火) 20:39:50.61ID:NRw1bfoA
三好長慶の息子の三好義興は智勇に優れた男で三好家の跡継ぎとして将来を期待されていた。
ところが、重臣の松永久秀の陰謀により、22歳の若さで毒殺されてしまった。
息子を失った三好長慶は悲しみで嘆くあまり、背中が丸くなってしまうほどであった。

亡くなった三好義興は芥川の霊松寺に葬られた。
長慶は瀬戸内海の屋島から鉄のように硬い石を取り寄せて義興の墓にした。その墓は
叩くとカンカンという金属音が鳴り響くので、人々はその墓石をカンカン石と呼び、
今でも三好長慶がカンカンに怒っているのだと噂しあった。
0809人間七七四年2012/12/18(火) 20:45:32.00ID:lyCvzWs3
叩くなよ・・・w
0810人間七七四年2012/12/18(火) 20:50:13.30ID:EMnqOhHK
墓石を叩けばそりゃカンカンに怒るわなw
0811人間七七四年2012/12/18(火) 22:13:41.89ID:MFrnsNcW
庵治石かなぁ、写真見ただけではよくわからなかったけど
固いし鉄分多いから確かに、金属的な音はする
0812人間七七四年2012/12/18(火) 22:19:40.29ID:RpdeJRVA
ちょっと横になるわ
0813人間七七四年2012/12/19(水) 00:13:31.71ID:x7B2mBNB
サヌカイトだろ
実際楽器にしたりするし
0814人間七七四年2012/12/19(水) 02:21:18.55ID:HIPuai2Z
墓石叩くなんて思いついたこともないわw
0815人間七七四年2012/12/19(水) 03:01:48.67ID:4DTDAUTF
811だけど、元墓石屋なのでね、
石見本同士を叩き合って石の良し悪しを客に教えてたりはしてた

>>814
ちょっと趣旨がずれるけど、鼠小僧でぐぐって墓石にまつわるエピソードを読んでみると良いかも
昔からの墓地の、古い墓の蓮華が欠けているのも博打好きの仕業であることが多い
0816人間七七四年2012/12/19(水) 04:39:07.07ID:F6PdzPoT
ムカつくやつの墓石だったら叩いたり蹴ったりしたい
これ長慶さんが息子の墓を叩いたわけじゃないでしょ?
0817人間七七四年2012/12/19(水) 11:35:48.04ID:HErw0SDC
>>815
アカギの墓が削られてるって話に元ネタあったのか!
0818人間七七四年2012/12/19(水) 14:45:06.68ID:0YsdnxQ6
この武将に参拝すると、この病気が治る、の延長で
墓石を削れば薬になる、て信じられてたのでは
0819人間七七四年2012/12/19(水) 14:57:01.73ID:Ane5dlL0
「今でも長慶さんが怒ってはるせいで、叩くとカンカンって音がするんやで」ていう浪花ギャグでしょ。
実際に皆が叩いてたわけじゃないと思うよ。
0820人間七七四年2012/12/19(水) 16:01:13.71ID:52/mes1M
杉原常陸の墓は「おこり」に効く、ってアレか
0821人間七七四年2012/12/19(水) 16:10:35.02ID:iU+P6x/1
削れば手癖の悪さが治るお墓はないのかね?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています