戦国ちょっと悪い話34
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0680人間七七四年
2012/12/08(土) 01:35:54.53ID:qMHWH+Hs世界にその名が知られるのは当然だ。
都は大変広々とした平野にあるが、この地に住む人間が大勢なのでその必要がある。80万を越すとの証言もある。
人口については様々な説を聞き、40万というものもあったが、少なくとも30万は居る。とにかく絶対確かなことは、
世界で知られている都市でこれより大きい所はないということだ。
端から端まで10レグアを城壁が取り囲んでおり、朝の7時から夕べの祈りの時間(午後6時)まで、正午に1時間
休憩しただけで歩き続けたが、それでも最初の家群の域から出られなかった。
この町には、日本の王である内裏(天皇)が住んでいる。彼は別名『ボイ』(不明)と呼ばれる。
この王は日本の初めの始まりから直径継承されてきた。日本では王や領主は人目に触れず、ひとと交わらないのが
威厳と考えられているので、常にここに閉じこもって来た。
法的には日本諸国の統治権は彼に帰すが、少し前、太閤様(秀吉)がこの王国に立ち、全ての殿と領主を
武力で彼に服従させたので、この生まれながらの王である内裏は名目のみ残している。
彼は皇帝(徳川家康)自身やこの国の大身の者に権威や官爵の授与を行う。その為の日(除目の日)が
決まっており、当日には全ての者が彼に目通りを求め、各自爵位を示す記章をつけて馳せ参じる。
また「ボンソ」(坊主)と呼ばれる偶像の司祭らにも位階や称号を授与する。ボンソにとって彼は教主であり
最高の司祭なのだ。
皇帝のみが最初の除目の時を除いてこの認証式に来るのを免れる。この(最初の除目の)時ばかりはやむを得ない。
外目に触れる行為や儀式では、皇帝は常にこの内裏に非常に敬意を表し、上席を与える。
この事は良いが、後は彼に許されるのはわずかでしか無い。ほとんど生計の術を持たないのだ。
都のこの町で、内裏が住む宮殿は贅を極め、皇太子(秀忠)や皇帝の城に比肩しうるという。
最も私はこれを見たことがない。というのは、今述べたその日でないと誰の目にも触れさせず、王宮からも出てこない。
この町の奉行所も、王宮の門より内側には統治の手段も権限も何もないからだ。
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)
江戸初期の、京都と天皇についてのスペイン人による記録である。
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