戦国ちょっと悪い話34
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0525人間七七四年
2012/11/28(水) 20:33:19.68ID:hxqGvG8Vその因縁は彼らの子弟にも、不思議に受け継がれていた。
長宗我部元親の後を継いだ盛親が、関ヶ原で西軍に付き、改易され京で寺小屋の師範をしていたこと、
これは有名である。
一方、仙石秀久は東軍に付き、彼の仙谷家は近世大名として生き延びた。
ところが、である
秀久の跡継ぎである仙石秀範は関ヶ原において、父とは違い西軍についた。
そのため戦後、秀久より廃嫡・追放処分を受けた。
こうして仙石秀範は京に牢人し、奇しくも彼も、寺小屋の師範となった。
そして大阪の陣が起こる。仙石秀範も、長宗我部盛親と同じように豊臣方として大阪城に入城した。
この時秀範は豊臣秀頼より、大名格として三万石ほどの所領を与えられたという。
しかし夏の陣で豊臣家が崩壊すると彼は行方不明となる。討ち死にしたとも、丹波に逃亡したのだとも伝わる。
そして、秀範の息子である長太郎、この時十歳は伯耆で捕らえられ、閏6月22日、乳母の子とともに
六条河原で斬首、晒し首とされた。
関が原後、不思議にも長宗我部盛親とほぼ同じような人生を送った、仙石秀久の息子についての話である。
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