戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話33
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戦国ちょっといい話35
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0521人間七七四年
2012/11/28(水) 19:30:19.40ID:vZJ3EBrF夜、神埼の長者林を通りかかると、
突然に大男が立ちふさがり、
「裸になり、持っている物すべて置いていけ」
と言うと同時に、大力で相田が刀を抜けぬよう両手首を抑えた。
相田は、
「裸になるから、どうか命だけは助けてほしい」
と力なく言うと、大男は両手を放した。
すると相田はまず大小を大男に渡し、
つぎに衣服をいそいで脱ぎ渡し、
おそるおそる立ち去る様子を見せながら、
すれ違いざまに、大男が取り上げた刀の柄を握り、
立ち去る方向に抜き、そこから反転し袈裟がけに斬り殺した。
相田はそれから神埼へ行き、事の次第を届け出た。
何のお咎めもなく済むかと思われたが、
しばらくしたある日、鍋島紀伊守様が佐賀城へお越しになり、
「わたしは足を一本折ってしまいました」
と、いきなり勝茂様に申し上げた。
普通に歩行しているが、なぜそんなことを言うのかと勝茂様が尋ねると、
「普段から可愛いがっていた、
数人分の大力を持ちよく働く駕籠かきがいたのですが、
それを中野内匠のところの者に斬り殺されたのです。
ですからすぐにその者に切腹をお命じください。」
と訴えた。
勝茂様は事情を紀伊守様に説明したのだが、
最後はやむなく、相田に切腹を命じることになり、
これは何とも残念なことであった。
切腹の当日、中野一門が総出で相田の見舞いに訪れた。
相田はそれを殊更喜んで、
「わざわざのお見舞い、誠にかたじけなく思います。
お礼に、日頃練習していた仕舞をお目にかけましょう」
と、子供たちを呼び拍子をとらせ、
ゆうゆうと仕舞を舞い終わると、
甥の相田権兵衛が介錯をつとめ最後を遂げた【葉隠】
0522人間七七四年
2012/11/28(水) 19:34:29.08ID:zt5JlkmR0523人間七七四年
2012/11/28(水) 19:37:58.99ID:aCLMo1m90524人間七七四年
2012/11/28(水) 19:41:46.70ID:wAyX7EF70525人間七七四年
2012/11/28(水) 20:33:19.68ID:hxqGvG8Vその因縁は彼らの子弟にも、不思議に受け継がれていた。
長宗我部元親の後を継いだ盛親が、関ヶ原で西軍に付き、改易され京で寺小屋の師範をしていたこと、
これは有名である。
一方、仙石秀久は東軍に付き、彼の仙谷家は近世大名として生き延びた。
ところが、である
秀久の跡継ぎである仙石秀範は関ヶ原において、父とは違い西軍についた。
そのため戦後、秀久より廃嫡・追放処分を受けた。
こうして仙石秀範は京に牢人し、奇しくも彼も、寺小屋の師範となった。
そして大阪の陣が起こる。仙石秀範も、長宗我部盛親と同じように豊臣方として大阪城に入城した。
この時秀範は豊臣秀頼より、大名格として三万石ほどの所領を与えられたという。
しかし夏の陣で豊臣家が崩壊すると彼は行方不明となる。討ち死にしたとも、丹波に逃亡したのだとも伝わる。
そして、秀範の息子である長太郎、この時十歳は伯耆で捕らえられ、閏6月22日、乳母の子とともに
六条河原で斬首、晒し首とされた。
関が原後、不思議にも長宗我部盛親とほぼ同じような人生を送った、仙石秀久の息子についての話である。
0526人間七七四年
2012/11/28(水) 20:37:49.50ID:mC8QOvN40527人間七七四年
2012/11/28(水) 21:00:15.73ID:7gcmoWU50529人間七七四年
2012/11/28(水) 21:12:46.68ID:hxqGvG8Vうわ、なんで耳川なんて書いたんだろw;
>>525
1行目
? 耳川の戦い
◯ 戸次川の戦い
申し訳ない
0530人間七七四年
2012/11/28(水) 21:13:25.17ID:eYxSm6Lj0531人間七七四年
2012/11/28(水) 21:44:32.63ID:sbemlcRKそれとも柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦いだったかな?
0534人間七七四年
2012/11/28(水) 23:41:47.33ID:xvXPbHwF詫びとしてちょっとすてがまり要員として井伊勢に吶喊してくる
0535人間七七四年
2012/11/28(水) 23:46:25.07ID:HGwaImoa0536人間七七四年
2012/11/29(木) 00:12:54.99ID:GxJjnsEb柏木源藤さんか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6524.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6519.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-858.html
0537人間七七四年
2012/11/29(木) 08:24:34.16ID:ad3LN7d1クマーを釣ったのが田手畷
センゴクと信親と十河さん釣ったのが戸次川
0539人間七七四年
2012/11/29(木) 09:44:27.85ID:CG4P9gBD0540人間七七四年
2012/11/29(木) 09:59:31.59ID:/mCku+bg島原の戦いは沖田畷
0541人間七七四年
2012/11/29(木) 11:08:37.38ID:zK9ZsB660542人間七七四年
2012/11/29(木) 11:34:54.86ID:5nEj0bsG津軽信建の嫡男である熊千代はこの年のある日に祖父為信の元へ遊びに行った。
その折にどうしたことか、囲炉裏の中へ真っ逆さまに落ちてしまい、顔から頭にかけて、月代まで焼けただれてしまったといわれる。
熊千代ののやけどは為信によって秘密にされていた。しかし、噂が信建の耳に入ってしまう。信建は烈火のごとく怒った。
「熊千代をすぐさま黒石から堀越へ連れて来い」と、家臣に命じた。
この使者に選ばれたのが、天藤家の衛門四郎、小太郎、佐衛門四郎、甚右衛門の四兄弟(津軽家譜草案)であった。
天藤兄弟はさっそく黒石館に駆けつけ、為信に目通りした。信建の意志を伝えたが、為信は拒絶した。
やけどの熊千代を見れば信建が何をしでかすか分からないからである。
しかたなく四人は堀越城へ帰還、その旨を信建に報告した。しかし、逆上している信建は、
「必ず連れてもどれ」と重ねて厳命。兄弟は再び黒石を訪れたが、為信は依然として連れ帰ることを許さなかった。
兄弟は板ばさみとなり、しばらくは黒石館で粘ったものの、ついにはあきらめて堀越へ帰ることにした。
ところがその途中、ちょうど天藤家の前にさしかかった時、四人は信じられないものを見た。
家族が皆殺しに遭い、その遺体を縁者、知人らが葬ろうとしていたのである。
仰天して訳を聞くと、四人の帰りが遅いので、激怒した信建が斬り殺させたのだという。
兄弟は呆然し、怒った。
0543人間七七四年
2012/11/29(木) 11:36:14.04ID:5nEj0bsG我々の家来としての命運もここに尽きた。家族を皆殺しにするほどの主君だから、我々も極刑に処されるだろう。
しばり首になるよりは、場内へ斬りこみ、命を懸けて諌言しよう。 それから腹を切っても遅くは無い。むしろ家族への供養になる。」
四人は堀越城に着くと、喚声をあげて無二、無三に斬り込んだ。黄昏時だったという。
不意をつかれた城内の武士はたちまち斬られて、四人は信建の居間の近くまで迫った。
しかし、ここで「三代相伝の主君へうらみをなし奉らんことは、臣たる者の道にあらず。」と剣先が鈍った。
そこで、この上は、日ごろ奸臣と苦々しく思っていた奴ばらを討って取り、最後の思い出とするべく城内を発った。
一方の津軽信建は居間にいた。騒ぎを聞いて仰天し、乱入者どもが近づくにつれて、色青ざめ、立ち尽くすばかりであった。
とうとう、女中のすすめに従い、長持の中にかくれ、女どもにかつがれて居間を脱出、四兄弟が城を出るまで離れたところに隠れていた、とされる。(永禄日記)
さて、城外へ出てきた天藤兄弟は白取瀬兵衛を襲うも、下人どもがかけつけたため、撤退。
次に森岡信元を暗殺した梶仁右衛門方を襲撃し、仁右衛門の母を惨殺。夜明けの頃だったという。
この後も四人は散々に暴れ回り、奈良岡万助が討たれ、他にも怪我人が十数人いたという。
徹夜で暴れた天藤兄弟は疲れ、近くの空き家に入り休憩した。
この頃には騒動を聞いた津軽家中の諸士が天藤兄弟の立てこもる空き家を包囲。
双方とも激しい攻防戦をするも、多勢に無勢。
東海幸義が向かいの家の屋根にこっそり登り、雁股の大矢を放ち、矢は衛門四郎の首を貫き、二本目の矢は小太郎の胸板を射通し、二人は討たれた。
これを見た左衛門四郎と甚右衛門は立ち腹を切り、最期を遂げた。
家臣が首を持ち帰り、ことの次第を言上すると、信建は怒りにまかせて首を獄門にかけたという。
津軽の官製史書『津軽一統志』もさすがに哀れと思ってか、一件っを記したあと、「天藤が横死せし、不運のほどこそ浅ましけれ」と結んでいる。
以上、「続・つがるの夜明け」から
ちなみに熊千代のやけど跡は治らず、醜いままであったのも一因となり、津軽氏を継承せずに為信三男で関ヶ原合戦時に家康本陣にいた津軽信枚が二代目を継承することとなった。
0544人間七七四年
2012/11/29(木) 14:19:17.31ID:ebhULvH2信建が豊臣に近かったことと為信よりも先に亡くなったことで、この系統は没落するんだよな
0545人間七七四年
2012/11/29(木) 18:05:53.89ID:iGTjITmr奮戦して敵に目に物見せてやろうと、五郎入道正宗がうった乱刃の
抜けば玉散るばかりの太刀三尺二寸を軽々と掲げ、多勢の中に打って出た。
隆豊は活人剣、殺人刀、向上極意の妙剣、十字手裏剣、沓ばう身などの
兵法の術を尽くして斬り廻ったので、もはや手先に向かう兵もいなくなった。
隆豊は「もう相手になる敵もいないか。雑兵なぞを太刀汚しに殺しても仕方ないな」
と立ち帰り、仏前で鎧を脱ぎ短冊を一枚取り出して
「見よや立つけぶりも雲もなか空にさそひし風のあとも残らず」と辞世を残す。
黄門定家卿の末流とはいえこのような時に歌を詠むとは思いもよらなかったが、
歌道に入魂したのでこのように口ずさんだ。優美な心である。
かくて隆豊は腹を十文字に切り、返す太刀で胸もとを突き立て夕の露と消える。
その死を惜しまない人はいなかった。
――『室町殿物語』
0546人間七七四年
2012/11/29(木) 18:31:49.44ID:MIYs+5wb0547人間七七四年
2012/11/29(木) 18:59:30.64ID:CG4P9gBD0548人間七七四年
2012/11/29(木) 19:22:44.14ID:oQXW4n1B一条さんとこと同じ
0549人間七七四年
2012/11/29(木) 19:34:57.38ID:oQXW4n1B中国にはそのタイプの英雄が多いな。
まあ、広大な大陸だから逃走しながら闘争する戦術使いやすいのだろうな
0550人間七七四年
2012/11/29(木) 19:42:51.96ID:ynFq+kSp0552人間七七四年
2012/11/29(木) 21:42:50.99ID:bwSx+5J3永禄十二年(1569)、武田信玄と北条氏康が三増峠で合戦に及んだ。
結局戦いは信玄方が勝ったが、武田方の殿として残った三島一族は北条方の追い討ちにあい、味方から引き離されてしまった。
三島勢は追撃を振り払い、なんとか鳶尾山のあたりまで落ち延びた。
「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」
落ち武者たちはお互いに励ましあって夜の山道を進みつづけたが、突然一人が叫びだした。
「う、海じゃ!」
指さすあたりを眺めると、確かに海のようだ。見渡す限り一面に白い波がきらめいていた。
当然、甲斐に海はない。
「で、では、われらは道を間違え小田原の海に出てしまったと言うのか」
落ち武者たちは呆然として顔をみあわせた。
故郷の山が近いと、心がゆるんだあとだけに、もはや一歩も踏み出す気力は無かった。
「もはやこれまで、敵の手に掛かって死ぬよりは……」
と、一人が腹に刀を突き立てると、もう止めるものもなく、次々とそのあとを追って死んで行った。
……しかし、落ち武者たちが見たのは海ではなかったのである。
月の光をうけて、一面にしろじろと揺れている蕎麦の花を、海と間違えたのだった。
わずかに生き残った落ち武者の一人からこのことを聞いた村人たちは、あまりの痛ましさに言葉もなく、それから蕎麦づくりをやめたのだという。
今でも厚木の市島では、蕎麦はつくらない。
『乱世に生きる 日本の民話8』より
本棚をあさってたら面白そうな本を見つけたので一部を編集して抜粋してみた。
蕎麦の花を海(川)と間違えた、って話は上杉謙信が川中島から撤退する時にもあった話だけど、これは逸話のテンプレなのかしら
0553人間七七四年
2012/11/29(木) 22:08:21.68ID:1uUTXw8I>「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」
いやいやいや、まだまだ全然遠いから、
険しい丹沢つっきって直線でも国境まで20km以上あるから(´・ω・`)
0554人間七七四年
2012/11/29(木) 22:28:36.25ID:Why8UaWw0555人間七七四年
2012/11/30(金) 01:14:07.14ID:Ba2DCcCh0556人間七七四年
2012/11/30(金) 06:30:43.10ID:szDOamf6史料的に、とうもろこしが伝来するのはこの10年後だけど
0557人間七七四年
2012/11/30(金) 09:09:24.71ID:pJDwcquZどんだけ遠くから見てるんだ
0558人間七七四年
2012/11/30(金) 11:05:56.64ID:2tcsPcxhこういう錯覚を起こしても不思議ではないな
0559人間七七四年
2012/11/30(金) 12:18:44.93ID:y8PtCFIH極限状態下で今までの苦労が無駄と判明したら心折れるわ
厚木に出たなら実際に道間違えたっぽいし
0560人間七七四年
2012/11/30(金) 13:51:07.33ID:k53uNVz4城が燃えていると勘違いして自害した白虎隊士も近い感じかね
0562人間七七四年
2012/11/30(金) 15:44:41.78ID:8UXR3/YH0563人間七七四年
2012/11/30(金) 15:50:43.87ID:gG4Vpwu30564人間七七四年
2012/11/30(金) 17:17:15.99ID:IYlXkk4M『日本の皇帝で、「コンバコンドノ(関白殿)」と称する者は、薪売りの卑しい身分から今の身分へと
暴力を以ってのし上がってきたもので、現在はその身分に尊大に安んじています。
彼は反乱の恐れのあるところには、身分は低いが彼の信頼するものを統治責任者として送り込み、それまでの
血統と相続故に支配していた者達を殺害、あるいは幽閉します。
また彼が領地、あるいは何らかの地位に誰かを据える際には、その者の子、あるいは兄弟、又は他の人質を
自分の元に取ります。
このようにしてすべての基礎を固め服従させたので、今は国内で何もすることが無くなり、それぞれ兵力五万を擁する
軍隊を3隊作り上げました。各軍は兵糧、武器、弾薬を多量に備えた艦船多数で武装しています。
彼は朝鮮遠征を公にしましたが、朝鮮というのは中国に隣接した屈強で過酷な地であり、遠征しても必ずや
敗北に終わるほど獲得の難しい土地であります。ですから、彼は彼はマニラを攻撃するためわざと朝鮮の名を出し
噂を広めたのだと明らかに推測できます。
何故なら、彼は当地の情報を収集するために放ったスパイ(私がこの手紙を書く3年前に、3〜40人の日本人が
キリスト教の巡礼衣でやって来ました。信心行のため当地の教会を訪問するという名目で、首からロザリオをかけ
たくさんの苦行をしていましたが、マニラ市に隣接する、周囲1.5レグアに及ぶ地帯全体を、海や河口を通って
くまなく歩きまわり、全て偵察して帰っていったのです)の他に、ガスパール(原田孫七郎)とか言う日本人キリシタンが
極めて特異で、またしばしば目立ちました。この男は当地の事情について非常に多くの情報を得、偵察していったのです。
帰国したこの男を、主人であるコンバコンドノは大いに褒め、多くの褒美を取らせ、自分の甥に領国を放棄させた上、
手元の300万金のうち200万金を与えました。
あの男は自らこの遠征にやってくるはずです。戦に勝とうが死のうが、ここに留まるためです。その狙いは
毎年当地から陛下に送られる、多額の金です。
コンバコンドノはそれを聞き及び、当地の征服を企て、その実行を望んでいる、ということなのです。』
フィリピン総督からの、豊臣秀吉の脅威についての報告である。
0565人間七七四年
2012/11/30(金) 17:22:30.98ID:eTJKxE2aそりゃスペインの守備隊なんてカスみたいな人数しかいないだろうけど…
0566人間七七四年
2012/11/30(金) 17:50:00.55ID:PJUFqn7+明から大軍がやってくるわけでもないし、スペイン人追い払うだけならなんとでもなるでそ。
もちろん、その後きちんと統治できるとは、とても思えないけど。
0567人間七七四年
2012/11/30(金) 18:13:57.18ID:wGHN8sOI鷹狩りに出かけ、一日中遊んで暮らした。同じ時、十河一存の子・孫六郎修理大夫の
次男・七郎兵衛が五十人ばかりで勝尾寺より帰るところだった。
一行が草の深い所の傍を通ると駒形の鷹犬が草原を嗅ぎ回っているところだった。
犬は人々をきっと見て見知らぬ奴だと大いに吠え掛かり、飛びついて噛み付こうとしたので、
小姓が素早い手利きで打刀を引き抜き、犬の細首をずんと切り伏せた。
その後、犬引きが犬の死骸を見つけて仰天し駒形に報せると駒形は「なんたる狼藉だ!
畜生をかように切って棄てるとは、あの野郎め逃がさんぞ!!」と、只一人三町ばかりを
走って一行を追いかけた。追いついた駒形は一行五、六十人の中へ押し入り、
「只今鷹犬を殺しなさったのはどなたですか」と言ったが、侍たちは「いやぁ知らないな」
とばかり言うので駒形は機転を利かせて「犬は畜生ですから別に死んでもよいのです。
ただ、もし噛まれた方がいて痛がっておられるのではと思いここへ参ったのです」と言った。
例の小姓は「ああ、そういうことか」と思って「それがしと主人へ噛みつこうとしたので、
ただ一打ちに致した。あんな癖の悪い犬を飼うなんておかしいですよ」と厳しく言った。
「さてはコイツか…」と感づいた駒形は「おのれも共に畜生道へ行きやがれ!」と言うままに
小姓の細首を宙に落とした。一行は大騒ぎになって傍にいた若侍が刀を抜いて向かったところを
駒形はその右腕を切り落とし、そのまま多勢を切って廻ると近寄る者もいなくなった。
そこへ駆けつけた駒形の侍や勢子三十人ばかりが切り掛かったので、勢子どもも多く切られた。
しかし、かなわないと思ったのだろう、五十余りの侍たちは主を捨てて逃げ出し、遅れた
七、八人が切られてしまった。後に隣郷にも聞こえて「駒形が手柄、修理の孫六郎後を取りける」
と噂になったので暫く世間へ出てこなかった。
――『室町殿物語』
駒形さんは愛犬家なんだなぁ(棒読み)
0568人間七七四年
2012/11/30(金) 18:27:38.41ID:Z1IEIH2n0569人間七七四年
2012/11/30(金) 19:32:14.01ID:Ba2DCcCh0570人間七七四年
2012/11/30(金) 19:44:08.71ID:QGq5E4hF0571人間七七四年
2012/11/30(金) 20:53:09.48ID:8UXR3/YH0573人間七七四年
2012/11/30(金) 21:26:48.41ID:jAQ+L2/w「大阪の大野修理より伊勢神宮の御師(祈祷師)たちに、内々に関東方を調伏するための祈祷が依頼され、
禰宜たちが大勢申し合わせ、大野から多くの金子を受け取り、人形を作り将軍家御父様(家康)などを
呪詛し奉りました!」
「そうか、それはけしからぬことであるな。」
と、勝重は答えたものの、訴えを聞き流し取り調べようともしなかった。
訴人はそれを不満に思い
「これは以ての外の罪であり、早々にお仕置きなさるべき事でありましょう!
もしこれを放置していることが大御所様のお耳に入れば、伊賀守様の罪にも相成りますぞ!」
と言い募った。
これに京都所司代の中にも、訴人に言うことに同調するものが出てきた。
そのため重勝は家康に、この措置についてお伺いを立てた。
家康はこれを聞くと呆れ
「そもそも禰宜・山伏のたぐいが、金子をもらって人に頼まれその様なことをするのは、珍しくもない話だ。
それゆえ、仮に我々が豊臣家より更に多くの金品を渡していれば、その者たちは喜んで、逆に秀頼を呪詛したであろう。
そんな連中の手際で動くような運で、天下の権が握れるものか!
そんな者達の命など奪うまでもない。示しがつかぬというのなら、厳しく叱りつけ追い払えば良い。」
勝重は我が意を得たりと頷き、呪詛をした禰宜たちに伊勢からの追放を命じた。
命が助かったことに彼らは大いに喜び
「誠に寛大なるお仕置きです!徳川家は万代にわたって栄えるでしょう!」
と、口々に言ったという。
(明良洪範)
なるほど、家康の言った通りの者たちであった。
0576人間七七四年
2012/11/30(金) 22:27:18.93ID:IfA6klnT同じ逸話の別バージョン
伊勢大神宮の御師と家康 出典は老談一言記
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4115.html
あとこれも。ソース不記載だけど、ググったら駿河土産が出典らしい
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3740.html
駿河土産の逸話では、追放されずに御咎めなしになってる
管轄から考えると、伊勢の案件だから山田奉行が処理している
駿河土産が出典のバージョンが一番史実に近いのかな
0577人間七七四年
2012/12/01(土) 14:37:03.30ID:Ss79z7lE『今より前には、嘗ては互いに通信したことなしと雖も、礼儀を尽くしてこの書簡をしたためる。
我が偉大なる主君関白は、来年戦争を行わんため中国に向かわんとしている。もし同国が、他の諸国とともに
降伏し貢物を送らざる時は、仮に遠しと雖も、戦士を派遣してその国を占領せいむべし。
これ故に、付近の諸国はみな降伏して命令に服従している。
貴殿の富める国に対しても、また戦争を行おうと考えていたが、原田(孫七郎)が関白の顧問会議の一員である
何某に告げ、同人が関白に告げた所によれば、もし日本国およびその宮廷において決定したるところを通知せば、
必ず貢物を贈るべきが故に、戦を行う必要なしとの事であった。
右の意見に従いて、この書簡を贈る。
私は当国の大官の一人であり、我々が速やかに相まみえられるよう、この書簡の如くいたせば、
貴国は安全に眠れることを得るであろう。
恐れること無く、躊躇すること無く、私が派遣する人物、すなわち私の通事に一切の秘密を語れ。
適当なる、敬意を表す。
天正十九年九月十一日。シャウリュウキュウ発(地名らしい。不明)。執事』
(異国往復書簡集)
この「ティアン・キット侍従」なる人物、浅野長吉、すなわち浅野長政であったらしい。
長吉→チョーキツ→ティアン・キット、となった模様。
大陸出兵と同時期に進められていた、豊臣政権によるスペイン勢力への圧力の一端である。
0578人間七七四年
2012/12/01(土) 14:50:54.49ID:63HARdOs0579人間七七四年
2012/12/01(土) 15:29:29.94ID:3tkmdVk/0582人間七七四年
2012/12/01(土) 15:52:14.30ID:967gJXn3天正十七年(1589)二月二十五日の、聚楽第落書事では秀吉は、警備責任者17人、容疑者・関係者60数人を処刑している
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5904.html
一方、家康は京都で『御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼』という落書が出た時、板倉勝重に
「落書きは禁止するな。はしたないことだが私が見て参考になることもあるだろうからそのままにしろ」
と命じている。
0583人間七七四年
2012/12/01(土) 18:01:06.58ID:669Qsn1+0584人間七七四年
2012/12/01(土) 18:21:19.91ID:XRs2qPBY0585人間七七四年
2012/12/01(土) 19:30:47.01ID:ODu+rC7g佐久間は怠け者だと罵倒されたし安藤は大昔の謀反容疑が理由だったからな
要するにおまえは気に入らないから追放すると言うことだからな
天才だから人の気持ちがわからなかったんだね現代でもそういう上司がいるが
0586人間七七四年
2012/12/01(土) 19:33:55.00ID:dlP8Q0d40587人間七七四年
2012/12/01(土) 19:34:50.19ID:Ss79z7lE信長の実際の性格→俗説の家康の性格
秀吉の実際の性格→俗説の信長の性格
家康の実際の性格→俗説の秀吉の性格
こんなイメージ
0589人間七七四年
2012/12/01(土) 19:39:54.21ID:5YiYLZ5M0590人間七七四年
2012/12/01(土) 20:53:22.27ID:ekfVfwoM昔の謀反で追放といえば林佐渡守の方が有名だろ(´・ω・`)
信長の性格の過酷さをあらわすエピというと
塙直政討ち死に後の遺族への扱いだな
明智の謀反にも絶対に影響してるわ
0591人間七七四年
2012/12/02(日) 13:06:03.36ID:3doiYio0佐久間折檻状はまず石山本願寺攻略の遅滞と炎上への怒りが最初にあって
なまじ自分で書いたもんだから途中から筆と勢いが乗っかって書き過ぎちゃった、
て気配が半端ない
一晩寝かせて祐筆に清書させたら内容変わってたんじゃないか、あれ
0593人間七七四年
2012/12/02(日) 14:30:32.51ID:DhGJv2v5ある時、将軍自ら美麗な印籠を求め、忠俊に「どうだ?中々見事なものだろう?」と、自慢げに見せた。
これを手にとった青山忠俊、
「上様にはなんとなさる!!!」
激怒
「御祖父様(家康)は一生のうち、かような印籠を持たれたことはありませぬ!全て長門の黒塗りでありましたぞ!
そもそも印籠などというものは、薬が入れば用が足りるもの。上様のご治世未だ間もない折柄、かような華美なものを
ご自身が好まれれば、皆がこれに習いまする!!」
と、この印籠を庭石に向かって投げつけた!
それでも未だ怒りが収まらなかったか、そのまま庭に出てこれを足蹴にし踏み砕いた!
全て家光の目の前、他の家臣たちもいる前での出来事である。
当然ながら家光はこれに激怒し、即座に所領召し上げを命じたが、忠俊は「こんな事もあろうとは、かねてより覚悟!」
と、嫡男の宗俊を伴い、相模藤沢に蟄居した。
これに対し家光は
「罪をなしたのは忠俊であって、子息には何ら罪はない。従前通り出仕するよう」と、
宗俊に戻ってくるよう伝えたのだが、
「父が勘気を受けたのに、子供だけがどうして栄えられましょうか!」
そう言って出仕しようとはしなかった。
後に家光は大いに後悔し、忠俊に対して再三出仕するように命じたのだが、ついに出仕することはなく、
蟄居のまま一生を終えた。
青山忠俊、将軍の面目を丸つぶしにしてまでの諫言であった。
(駿江雑説弁)
0594人間七七四年
2012/12/02(日) 14:45:40.20ID:u6VZGYqj0596人間七七四年
2012/12/02(日) 15:51:44.29ID:W5qoZGjU0598人間七七四年
2012/12/02(日) 19:03:32.14ID:wM6SK17W慶長13年(1608年)2月、森忠政が統治する美作でのこと。
津山城普請奉行の一人である薗四郎右衛門が今村与一右衛門の屋敷の前を通りかかったところ、
かねてより遺恨のある足軽数人に襲撃を受けるという事件が起きた。
しかしながらこの四郎右衛門も只の奉行ではない。殺されるどころか敵相手に大立ち回りを演じてついには足軽たちを撃退したのである。
主君の森忠政はこれを聞いて四郎右衛門の首尾よきを賞して50石を加増した後、足軽たちを一人残らず処刑した。
(森家先代実録)
0599人間七七四年
2012/12/02(日) 19:09:38.62ID:NAmIn8cp0600人間七七四年
2012/12/02(日) 19:12:34.52ID:dkwSjn/Q0601人間七七四年
2012/12/02(日) 19:16:03.93ID:p39R6qdU0602人間七七四年
2012/12/02(日) 19:20:32.42ID:YUwcE7Qz0603人間七七四年
2012/12/02(日) 19:23:40.81ID:6xDbdqAk0604人間七七四年
2012/12/02(日) 19:47:04.12ID:VPBbHfJr0605人間七七四年
2012/12/02(日) 19:55:14.52ID:ejwx7XgR0606人間七七四年
2012/12/02(日) 20:54:28.56ID:/LHDYjR+今川氏真みたいに、讒言を受けて家臣を誅殺したものの後で罪を撤回し、
讒言した者を罰するけど命は助ける、みたいなことをやってると遺恨が
深まる一方になる
0607人間七七四年
2012/12/02(日) 21:03:12.35ID:71bXYi1H0608人間七七四年
2012/12/02(日) 21:16:18.37ID:nxs0sbJaよっぽどひどい恨みを買ったんだろうけど、何やらかしたんだ?
0609人間七七四年
2012/12/02(日) 21:32:16.43ID:p6ggS3XC・・・ていう幻聴が聞こえたorz
0610人間七七四年
2012/12/02(日) 21:36:55.60ID:WHuJOZktって声が聞こえたような…
0612人間七七四年
2012/12/03(月) 02:06:10.41ID:6mzFXQpn0613人間七七四年
2012/12/03(月) 06:42:39.38ID:B4nuTJbp0614人間七七四年
2012/12/03(月) 10:39:53.93ID:WuGekULZ0616人間七七四年
2012/12/03(月) 12:37:58.85ID:iWZv2K9t0617人間七七四年
2012/12/03(月) 12:41:42.75ID:+CZVJZi60618人間七七四年
2012/12/03(月) 18:02:06.58ID:tVKt69Nz駿河にて塙団右衛門は名高き大剛士と聞いたお万は、
「お子たちに太刀を参らすのは当たり前のことです。
大将の宝とはまさに士であって、それ以上の物はありません」
と、鏡台金として毎年賜る五百両のうち二百両を団右衛門が
流落していた時に与えていた。
「有事の時には剛の者を一人でも愛しき子に参らせたい」
と言っていたのだとか。
大槻磐渓曰く
「化粧に務めてその美を飾るのは婦人の常態である。
その化粧料を捨てて国家のために猛士を養うなど思いもよらぬことだ。
ああ、この母にしてこの子あり。南龍公が勇武絶倫であることは
怪しむに足りないことである」
――『近古史談(常山紀談)』
でも結局団右衛門は…。
0619人間七七四年
2012/12/03(月) 19:06:57.08ID:iMgPW1C60620人間七七四年
2012/12/03(月) 21:10:34.29ID:3KzWe+JKそういう伝手があれば大坂の陣でちょっと活躍すれば取り立ててもらえたのに
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