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戦国ちょっと悪い話34

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0001人間七七四年2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0472人間七七四年2012/11/23(金) 06:53:10.56ID:dl9dHUF/
薩摩隼人「酒と血しぶきが大好きです、釣りに引っ掛かったバカの首狩るのが特に楽しくて楽しくて」
0473人間七七四年2012/11/23(金) 09:47:50.09ID:Ol09G7q6
ニート・引きこもりが社会問題となっている昨今、
薩摩国ではちぇすと・すてがまりが深刻化しており…
0474人間七七四年2012/11/23(金) 10:37:57.13ID:ZTR2EY3J
ひえもんとりも深刻化
0475人間七七四年2012/11/23(金) 16:01:33.05ID:PKSClC2s
>>471
いや、そりゃ強敵倒すよりは評価低いだろうけど
一定の地位のやつ倒せばそれはそれで評価上がるでしょ
0476人間七七四年2012/11/23(金) 16:54:03.24ID:4zixlAjn
>>473
一瞬チェストステマに見えた
0477人間七七四年2012/11/23(金) 17:22:39.10ID:nNaCNMWS
自分はステマ狩りに見えた
0478人間七七四年2012/11/23(金) 17:41:57.69ID:jFuokJTt
>>475
まぁ問題は「考える事は皆同じ」って所だったりするかも
0479人間七七四年2012/11/23(金) 18:22:09.21ID:nvVEh4UF
「あ、あの武将弱そう」ってしっかり見抜いて討ち取ってかえってくる…
凄すぎるだろw
0480人間七七四年2012/11/23(金) 19:58:25.93ID:Q0PWAsmz
まてまて、「弱そう」と「弱い」は全く違うからな

「お、あいつ、いい甲冑着てるがヒョロっとしてて腕っ節はなさそうだな。
さしずめ筆より重い物は持ったことがないってクチか?もらった!」

なんつってうっかり挑みかかったらこれが釣りで、実は百戦錬磨の返り討ち
職人でした〜、なんてこともないとは限らんからな
0481人間七七四年2012/11/23(金) 20:08:30.95ID:38qBCV/1
ルソンの日本人町開設の経緯


戦国時代後期、ルソン(ルソン島、現フィリピン)に日本人町があったという事は割と有名であるが
その開設の経緯というのは決して穏やかなものではなかった。

天正18年(1591年)9月、豊臣秀吉は原田孫七郎を使者にしてルソンのスペイン総督府に対して入貢を要求した。
スペインからすれば何とも屈辱的な出来事であったが当時のスペインはアマルダの海戦で無敵艦隊が敗れるなど
既に衰退期に入り始めていたため、報復などの行動は取らずこれをスルーした。

しかし、翌年に秀吉が朝鮮出兵を実行に移したことで秀吉のルソン侵攻も無いとは言い切れない情勢になると、
スペイン総督府は現地にいる日本人たちが有事の際に日本側に付くことを警戒して、
当時ルソンに住んでいた日本人をマニラのディオラ地区にまとめて強制移住させた。

これがマニラの日本人町の始まりであったと言われている。
0482人間七七四年2012/11/23(金) 20:13:30.58ID:a2c6DmNE
なにかあるとすぐに刀振り回して暴れるからなあ
0483人間七七四年2012/11/23(金) 20:19:19.58ID:LnXJOezq
ルソン行く場合は、やっぱ中国沿岸に沿って向かうのかな。
直線で行くのは遠そうだよなー
0484人間七七四年2012/11/23(金) 20:21:51.57ID:YGa+HmrI
隔離地区だったのか・・・
0485人間七七四年2012/11/23(金) 21:42:18.40ID:3CnQY/Ac
>>479
家康が若い武士と経験豊富なつわものの違いを語ってたような
0486人間七七四年2012/11/23(金) 21:45:06.68ID:fY8xBBsI
雇い主のスペイン人に殴られてムシャクシャしたので
八つ当たりで全然関係ない他のスペイン人の家を刀振り回して襲撃する
とか普通にやる蛮族どもなので隔離は妥当
0487人間七七四年2012/11/23(金) 22:18:50.69ID:X2nhYk3I
永禄3年(1560)、長尾景虎(上杉謙信)が小田原城を包囲した、最初の越山のあった年だが、
小田原攻略に失敗し退いた景虎に対し、成田長泰が反旗を翻した。

ところがこの時厩橋城には、成田長泰の次男の小児と、成田家家老・豊島美作守の二名が、
景虎への人質として置かれたままであった。

景虎が厩橋に帰城する前日、城の夜番を勤めているかせ者(名字を持つ下級の侍)が一人やってきて、
豊島を物陰に呼び出して囁いた

「豊島殿、あなたは成田長泰の御別心のために、明日には切腹させられるともっぱらの噂です。
そういうことですが、私はあなたの御命をお助けしてもいい。
あなたは忍に帰れば、五千貫程の大名だと聞いています。
…私に三十貫の所領を与える気はありますか?」

この言葉に豊島は大いに驚き

「それは何よりも易き事なり!」

と、この夜番の者と深く語らい、三十貫の所領を与える書状を書き与え、「ひとえに頼む」と
協力を依頼した。
夜番の者大いに喜び、馳せめぐって川船などを置き様々な準備をし、帰ってくると
豊島を夫男に変装させ、熊手などを背負わせて、城から出そうとした。
この時豊島は

「成田の御子息もどうにかして一緒に落ち延びさせたい。」

と言ったが、夜番の男は

「美作守殿一人を落とすのさえ大変なことです!その上御子息のことは、父である屋形(成田長泰)
ですら捨てて反旗を翻したのです。そうである以上是非に及ばず。御子息はここに残して、我々は
退きましょう。」

そう言われたため、成田の次男が寝入った隙に、豊島は夜番の者に付いて番所を忍び出て、
船に乗り早々に忍へ帰った。

成田の次男は豊島がいなくなったことに気が付き、後を追って外に出て探したものの見つからず、
そうしている内に追手が迫ったため川に飛び入り、そのまま空しく亡くなられたという。


さて、豊島美作守は忍へ帰ると自分の家にも入らず、先ず息子の左馬助を呼び出し、城に使いを
立てさせた。その言上はこうである

『私は数度の忠孝を立て、更に一度の不忠もありませんでした!それなのに何故、私を捨て殺しに
為されようとしたのか!?甚だ以て口惜しい!
この上は小田原へ参り、氏康殿に奉公仕ります!御暇を申し上げる!』

そうしてまさに打立とうとしている所を、成田長泰の息子の五郎が城から駆けてきて豊島を呼び止め

「誠に代々の家老である事と言い忠節といい、お主の言うことは全て、道理至極である」

と謝罪したので、仕方なく豊島も忍に帰り、元にように家老に復帰した。
そしてあの夜番も取り立て、約束通り三十貫の所領を与えた。

しかし、この時の恨みにより、後に豊島美作守は成田長泰の子息・氏長と一味して、長泰を
追放したのだという。
(關侍傳記)

成田長泰に見捨てられた家老、についての逸話である。
0488人間七七四年2012/11/23(金) 23:17:17.02ID:LnXJOezq
戦国の習いとは言え、頼みの家老がいなくなって、
慌てて逃げ戸惑っているうちに堀に落ちて死んだ次男が憐れだなー
0489人間七七四年2012/11/24(土) 07:46:09.28ID:Nv1NUoo1
夜番も見る目があるなw
戦国の立身出世は無法地帯だ
0490人間七七四年2012/11/24(土) 08:15:52.70ID:fOzuw8R1
まあ、夜の番なら夜の闇も、戦国の世の一寸先も見る眼がないとね
0491人間七七四年2012/11/24(土) 09:03:26.74ID:n6A74ZEw
よし、ちょっと眼力を養うために橋の番やってくる
0492人間七七四年2012/11/24(土) 09:21:23.34ID:2Sp792xX
眼力養ったら、北斗七星の柄の先から二番目の星が二重になってるのがわかるらしい
0493人間七七四年2012/11/24(土) 09:37:47.42ID:u6/4nlA+
むう あの星は死兆星!
しっておるのか半兵衛!
0494人間七七四年2012/11/24(土) 10:01:50.61ID:iTkx5WcK
ウルトラ七つの誓いを何故だか思い出した・・・
0495人間七七四年2012/11/24(土) 10:02:21.20ID:iTkx5WcK
五つだったわwwww
0496人間七七四年2012/11/25(日) 03:07:57.31ID:JRdbPDlr
これかな?
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3382.html
0497人間七七四年2012/11/25(日) 06:24:09.31ID:39PHEawU
>>490
夜の閨に見えたので細川邸に忍び込んでくる
0498人間七七四年2012/11/26(月) 18:41:29.94ID:VSIyx/om
聞いたこと見たこと、何であってもよく覚えて忘れないというのは、その身の徳であり、第一の宝である。
見ても覚えず、学問・講習の筋を習っても、忘れ果てては何の役に立つだろうか?
人と近付きになっても、一度ばかりではその名前も顔も覚えられない、という例は多い。
記憶力が強いというのは、人の羨むことである。

青山伯耆守忠俊は記憶力に非常に優れ、旗本・小身の輩まで、一度その名を聞きその顔を見れば
能く覚えて、再び会った時には、必ずその名を呼んで挨拶をした。
その様であったので青山も自分の物覚えの良さを自慢していたが、ある会合において、
一座のものから青山に
「真似ようとしても出来ないことだ。有り体に言って中々及ばないことです。」
と声をかけられると、青山これに対し

「だいたい物覚えなどというものは、努力次第でどうにか成る事ですよ。」
と言い出した。これを聞いて同席・末座の人々、口をそろえて
「稽古によって出来る事なら、是非習いたい!」と、その答えを所望すると、青山は笑いながら

「意地がキレイか、意地が汚いかという事です。」
という。一座の人々困惑し、「そう言われても、全く理解できない。」と言えば青山

「されば、である。あなた達も、御三家・国持大名などの顔名前はきっと覚えているでしょう?
しかし小身の者たちに対しては侮っているから、その名も知りません。
私は末々まで、人であることに替わりはないと、平等に考えているので、能く覚えるのです。」

この言葉に一座のもの、皆感じ入った様子であった。

と、この場の遙か末座に、未だ無官の、若き日の知恵伊豆、松平伊豆守信綱があった。
彼は一人、青山の答えに感心した様子も見せずに嘯いていた。

青山はこの信綱の様子をいち早く見て取り、彼の方を見て声をかけた
「どうした!そこに居る小癪仁はどう思うのか!?」

これに信綱、冷然と
「…私の考えとは違う了見です。感じ入る所までは行きませんね。」と言う。
青山「では、お主の考えを聞きたい!」と、信綱の話を聞く姿勢を見せる。
すると信綱、少し進み出て

「太陽・月の事はきっと知っておられるでしょう。では、その他の星の名、星座の名など、
それをすべて覚えていらっしゃいますか?」

青山はこれを聞くと「どうやってすべての星の名を究め知ることが出来るだろうか?
天文の家であっても、細かな星は粟三斗分の数ほどもあると言っているが、それでも尚
具体的な数はわからないのだ。そうであるものを、どうしてその名を知ることが出来るだろうか?

この答えに信綱

「さて、あなたもそうお考えになりますね。
例えば、私のような愚かなものであっても、御三家は勿論、国取り大名も数が少ないので、
日月・五星・二十八宿と同じように、覚えるのが楽です。

しかし小身の衆は天の星の数よりも多いほどですので、どうして覚えられるでしょうか?
伯耆守殿のように、生まれつき記憶力の良い人には、そういったものも覚えられるのでしょう。
あなたがどう申されても、自分の意地の清濁とは関係ないことです。」

これには流石の青山伯耆守忠俊も閉口してしまったそうである。

ちなみに、物覚えには少しはコツがあるらしいよ!(物を覚ゆるは少しは傅も有る事とか)
(武野燭談)

青山忠俊と知恵伊豆の、記憶力についてのお話。
0499人間七七四年2012/11/26(月) 20:55:34.56ID:luN+5ubm
伊豆守に聞いた青山が悪かったなw
0500人間七七四年2012/11/26(月) 21:16:46.67ID:A9QZagF9
>私は末々まで、人であることに替わりはないと、平等に考えているので

江戸時代にこんな奴いる訳ないだろうが
0501人間七七四年2012/11/26(月) 21:21:01.19ID:VSIyx/om
>>500
ちなみに原文

『我等は末々までも人に替りなき處を考へて、平等に存ずる故に能く覚え候』

武野燭談は宝永6年(1709)成立
0502人間七七四年2012/11/26(月) 21:25:32.97ID:T7w6fXkL
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772575/21
の53p見たらそのまんま書いてある
0503人間七七四年2012/11/26(月) 21:33:57.24ID:Z47zLL3B
人類皆平等的なのは実際にはともかく宗教ではよくある表現だし
表現としてはそうおかしくないんでないの
0504人間七七四年2012/11/26(月) 21:54:09.00ID:luN+5ubm
平等とか公平観は江戸時代にあった。最近読んだ東遊雑記にも出てきてた
0505人間七七四年2012/11/26(月) 21:59:08.26ID:MtgoaPV4
差別は許さん 大名、小名、旗本を、俺は見下さん!すべて…平等に価値がない!
口で焼き味噌垂れる前と後に権現様と言え!

こうですか?
0506人間七七四年2012/11/26(月) 22:34:59.64ID:fv8Yc8Y/
家光乙
0507人間七七四年2012/11/26(月) 23:33:23.45ID:/sxQ+pTx
※但しイケメンはのぞく
0508人間七七四年2012/11/27(火) 00:54:18.38ID:/cGhAlBG
本音と建前を忘れちゃいかんよ
人類平等という思想と社会秩序のための階級格差は別なのだ
05091/22012/11/27(火) 20:02:32.43ID:/gAGb3HT
永禄9年(1566)の事

成田長泰は71歳の老年と成り、子息氏長が成人したというのに、彼に家督を譲らず、常々色を好み酒に長じ、
城外に別荘を建てて、小筑という女を上方から呼び寄せ寵愛した。
家老や一門の者達、これを諌めたものの聞き入れようとしなかった。まさに老醜である。
このような状況の中

成田長泰に見捨てられた家老
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7055.html
↑これで危うく見殺しにされかけた豊島美作守は長泰への恨みを忘れておらず、氏長、及びその母に
申し上げることには

「長泰様は老体の御身でありながらあのような無行儀の作法、御一門も他家も、嘲り疎み果てております。
この時に、私は皆々と相談し、大殿を無理に隠居させられるように才覚いたし、若殿を世に立てたいと
考えているのです!」
これに母親も氏長も同意し、豊島の計画に参画した。

そんな陰謀が起こっているとは知らず、成田長泰は梅阿弥という同朋衆一人を共とし、妾の小筑の元へ
出て酒宴していた所、成田一門家中、豊島に賛同し、重臣である小田伊賀守を始め、豊島左馬助、
別府兄弟といった人々は忍城に集結し、成田長泰を城に入れないために門などを皆閉じた。
恐るべき嫌われっぷりである。
帰ってきた成田長泰が見たものは、完全に閉じられ自分を拒絶する忍城であった。

が、この成田長泰は只者ではなかった。

彼は水落の桶が城内に繋がっていることを知っており、特殊部隊のごとくそこに潜りこんだ。
長泰に続いて梅阿弥も桶を潜った。

「大殿が桶をくぐられた!」
05102/22012/11/27(火) 20:03:08.44ID:/gAGb3HT
物見の通報によりこれを知った城内の者達は桶の口を固め、三友十兵衛というものが、桶の口で
槍を構え待ち構えた。と、潜ってくる長泰の姿が!十兵衛は一気にこれを突いた!

が!成田長泰は塚原卜伝の第一の弟子であった。彼は兵法の達者であり、桶の口から突かれた槍の刃を、
口で噛み止め受け止めたのだ!
奇妙な手応えに十兵衛、槍を引きぬく。すると

『ズザザザザザザザザ!!! スポッ!』

槍の穂先を咥えて成田長泰が、桶口から引っ張りだされた!槍で大殿を釣ってしまったのだ!
藁で穴の中の土蜘蛛釣り上げたような、あの感じである。まあこっちは釣りたくて釣ったわけではないが。
三友十兵衛はこれに当然ながら驚愕し、さらにその後から梅阿弥も出てくるとその場から逃げ出してしまった。
しかしそれを誰が攻められるだろうか?

成田長泰は、あまりのことに硬直したその場の者達を蹴散らし本丸に入り、息子長氏を発見すると
たちまちに捕らえたちどころに殺そうとする!城内の者達はこの猛獣か悪鬼のような老人(71歳)に
どう対処していいか解らず右往左往し、捕縛された氏長も死ぬ覚悟を決めた。

と、ここで長泰、何故か述懐を始めた

「しかし、氏長がこのように歳たくるまで、家督を渡さないことについて腹立するのは仕方のない事だ。
されども私は、かつて城攻めに失敗した盃尾を攻め落として後に隠居すると心に決めていたのだ。
それがあれこれと引き伸ばしに成り、このような親子の不和になったこと、口惜しき次第である…」

などと嘆きながらやっぱり氏長を殺そうとした、その時!

「まてまてまてー!!!!!」

現れたのは成田家の菩提寺・立圓寺の長老!彼はこの親子の紛争への扱いを入れに来たのである。
長老は先ず(実に賢明なことに)長泰を無理やり引き立て、立圓寺に入れた。そのお供に何故か
今回の陰謀の主犯・豊島美作守まで付き合わされた。お供の者達が「氏長様が御父君に向かって
このような例の少ない反逆を為されるなど、天道に背く行為です!」とさめざめと泣いている中、
長泰は豊島美作守に対し「美作守、お前は嘘泣きしなくていいぞ。この逆心、お前の仕業であろう!」
と言ったとか。

そうしている内に氏長が、やっぱりあんな邪悪な父親は討ち滅ぼさねばならないと軍勢を立圓寺に向けたが、
この時は立圓寺の僧侶たちが皆鉄砲・槍・刀で武装し迎撃の体制をとったため攻めこむことが出来ず、
親子の紛争は降着。ここに小田原の北条氏が介入する動きを見せたことで、成田長泰もここでようやく、
このままでは北条に成田家は併呑されると危機感を覚え、氏長に家督を譲り自らは出家した。
(關侍傳記)

成田家の親子不和、についての逸話である。
0511人間七七四年2012/11/27(火) 20:18:29.37ID:eahOQBlN
なるほど、これは落城しない
0512人間七七四年2012/11/27(火) 21:19:03.07ID:LWIGGGqm
成田記の姫武者の話もそうだが、成田関連はどうしてこうネジの飛んだ話が多いんだ
0513人間七七四年2012/11/27(火) 21:20:17.46ID:7A9ljxOf
なんと言うハッスル爺ちゃん…
0514人間七七四年2012/11/27(火) 21:45:36.79ID:cXcv4PNS
浅野長政の家臣が、夜道を歩いていると若い女が佇んでいてこちらに
ニッカリと笑いかけてきた。
この男はこんな夜中に若い女がいる訳が無い、これは物の怪の類に違いないと思い
一刀で女の首を刎ねた。

翌日、同じ場所を通ったが女の死体はみあたらず、そこには首の無い地蔵があったという。

この男の刀は備中青江貞次作のもので以後は「ニッカリ青江」と呼ばれたという。(常山紀談)
0515人間七七四年2012/11/27(火) 21:47:09.43ID:CgL4870A
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2959.html
こっちには異説が
0516人間七七四年2012/11/27(火) 21:55:55.27ID:cXcv4PNS
>>515
ニッカリ青江の話はいくつかパターンがあるが
今、丸亀市立資料館にあるニッカリ青江は脇差なんだぜ

http://www.city.marugame.lg.jp/institution/culture/01.html
0517人間七七四年2012/11/28(水) 00:36:57.71ID:FIiRvD43
>>509
素敵な坂東武者ですねえw
0518人間七七四年2012/11/28(水) 08:32:18.16ID:XcCkf9pN
>>509
結局、北条が動きを見せたことで隠居したのか
道徳心がとか武士の道がとかそんなのカンケーねぇ!って話だなw
しかも坊主が出てきても話がややこしくなってるだけだし神も仏もねー
0519人間七七四年2012/11/28(水) 11:30:28.26ID:A7PgpirE
関東は力が全てよ
0520人間七七四年2012/11/28(水) 18:55:08.62ID:sbemlcRK
無刀取りどころか槍を口で受け止める新当流の奥深さに驚嘆したw
0521人間七七四年2012/11/28(水) 19:30:19.40ID:vZJ3EBrF
中野内匠の家来、相田吉左衛門が、
夜、神埼の長者林を通りかかると、
突然に大男が立ちふさがり、
「裸になり、持っている物すべて置いていけ」
と言うと同時に、大力で相田が刀を抜けぬよう両手首を抑えた。
相田は、
「裸になるから、どうか命だけは助けてほしい」
と力なく言うと、大男は両手を放した。
すると相田はまず大小を大男に渡し、
つぎに衣服をいそいで脱ぎ渡し、
おそるおそる立ち去る様子を見せながら、
すれ違いざまに、大男が取り上げた刀の柄を握り、
立ち去る方向に抜き、そこから反転し袈裟がけに斬り殺した。
相田はそれから神埼へ行き、事の次第を届け出た。
何のお咎めもなく済むかと思われたが、
しばらくしたある日、鍋島紀伊守様が佐賀城へお越しになり、
「わたしは足を一本折ってしまいました」
と、いきなり勝茂様に申し上げた。
普通に歩行しているが、なぜそんなことを言うのかと勝茂様が尋ねると、
「普段から可愛いがっていた、
数人分の大力を持ちよく働く駕籠かきがいたのですが、
それを中野内匠のところの者に斬り殺されたのです。
ですからすぐにその者に切腹をお命じください。」
と訴えた。
勝茂様は事情を紀伊守様に説明したのだが、
最後はやむなく、相田に切腹を命じることになり、
これは何とも残念なことであった。

切腹の当日、中野一門が総出で相田の見舞いに訪れた。
相田はそれを殊更喜んで、
「わざわざのお見舞い、誠にかたじけなく思います。
お礼に、日頃練習していた仕舞をお目にかけましょう」
と、子供たちを呼び拍子をとらせ、
ゆうゆうと仕舞を舞い終わると、
甥の相田権兵衛が介錯をつとめ最後を遂げた【葉隠】
0522人間七七四年2012/11/28(水) 19:34:29.08ID:zt5JlkmR
なにがどうしてやむなくになるのかわかんねえ…
0523人間七七四年2012/11/28(水) 19:37:58.99ID:aCLMo1m9
喧嘩両成敗とか屁理屈ゴネられたんじゃない?
0524人間七七四年2012/11/28(水) 19:41:46.70ID:wAyX7EF7
全裸でも鮭さまとか幽斎さまとかだと返り討ちにできそう
0525人間七七四年2012/11/28(水) 20:33:19.68ID:hxqGvG8V
仙石秀久と長宗我部元親といえば、耳川の戦いでの大敗という大きな因縁がある。
その因縁は彼らの子弟にも、不思議に受け継がれていた。

長宗我部元親の後を継いだ盛親が、関ヶ原で西軍に付き、改易され京で寺小屋の師範をしていたこと、
これは有名である。

一方、仙石秀久は東軍に付き、彼の仙谷家は近世大名として生き延びた。
ところが、である

秀久の跡継ぎである仙石秀範は関ヶ原において、父とは違い西軍についた。
そのため戦後、秀久より廃嫡・追放処分を受けた。

こうして仙石秀範は京に牢人し、奇しくも彼も、寺小屋の師範となった。

そして大阪の陣が起こる。仙石秀範も、長宗我部盛親と同じように豊臣方として大阪城に入城した。
この時秀範は豊臣秀頼より、大名格として三万石ほどの所領を与えられたという。
しかし夏の陣で豊臣家が崩壊すると彼は行方不明となる。討ち死にしたとも、丹波に逃亡したのだとも伝わる。
そして、秀範の息子である長太郎、この時十歳は伯耆で捕らえられ、閏6月22日、乳母の子とともに
六条河原で斬首、晒し首とされた。


関が原後、不思議にも長宗我部盛親とほぼ同じような人生を送った、仙石秀久の息子についての話である。
0526人間七七四年2012/11/28(水) 20:37:49.50ID:mC8QOvN4
もし十河存英も浪人中、寺子屋で教えていたら面白いのに
0527人間七七四年2012/11/28(水) 21:00:15.73ID:7gcmoWU5
シンクロニシティwとか好きな人は昔からいたんだなー
0528人間七七四年2012/11/28(水) 21:07:25.80ID:i0SBGpEe
>>525
まてまて、耳川じゃねーだろ
0529人間七七四年2012/11/28(水) 21:12:46.68ID:hxqGvG8V
>>528
うわ、なんで耳川なんて書いたんだろw;

>>525
1行目

? 耳川の戦い
◯ 戸次川の戦い

申し訳ない
0530人間七七四年2012/11/28(水) 21:13:25.17ID:eYxSm6Lj
耳川は龍造寺が島津にフルボッコされた戦いだったような
0531人間七七四年2012/11/28(水) 21:44:32.63ID:sbemlcRK
いやいや、一条兼定が長宗我部元親に敗れた戦であろう
それとも柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦いだったかな?
0532人間七七四年2012/11/28(水) 23:23:40.95ID:xvXPbHwF
>>530
それ田手畷の戦い
耳川は日向に進出してきた大友勢を島津がフルボッコにした戦い
0533人間七七四年2012/11/28(水) 23:34:11.21ID:EAL7b8Oc
>>520

真剣白歯取り
なんちゃって
0534人間七七四年2012/11/28(水) 23:41:47.33ID:xvXPbHwF
あれ、田手畷じゃなくて沖田畷だった
詫びとしてちょっとすてがまり要員として井伊勢に吶喊してくる
0535人間七七四年2012/11/28(水) 23:46:25.07ID:HGwaImoa
でも井伊直政撃った本人は薩摩に帰れたような
0536人間七七四年2012/11/29(木) 00:12:54.99ID:GxJjnsEb
>>535
柏木源藤さんか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6524.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6519.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-858.html
0537人間七七四年2012/11/29(木) 08:24:34.16ID:ad3LN7d1
宗麟の子分のカニ怪人を釣ったのが耳川
クマーを釣ったのが田手畷
センゴクと信親と十河さん釣ったのが戸次川
0538人間七七四年2012/11/29(木) 09:28:05.83ID:4awvqKpm
>>537
沖田畷だろw
0539人間七七四年2012/11/29(木) 09:44:27.85ID:CG4P9gBD
もう何が何やら
0540人間七七四年2012/11/29(木) 09:59:31.59ID:/mCku+bg
家兼じいさまが鍋島祖父と大内を蹴散らしたのが田手畷
島原の戦いは沖田畷
0541人間七七四年2012/11/29(木) 11:08:37.38ID:zK9ZsB66
結局、全部島津の釣り自慢でおk?
0542人間七七四年2012/11/29(木) 11:34:54.86ID:5nEj0bsG
慶長7年(1602)、津軽氏は堀越城に本拠を置いていたが、津軽為信は黒石の館で政務を執っており、長子・津軽信建が堀越城の城主となっていた。
津軽信建の嫡男である熊千代はこの年のある日に祖父為信の元へ遊びに行った。
その折にどうしたことか、囲炉裏の中へ真っ逆さまに落ちてしまい、顔から頭にかけて、月代まで焼けただれてしまったといわれる。

熊千代ののやけどは為信によって秘密にされていた。しかし、噂が信建の耳に入ってしまう。信建は烈火のごとく怒った。
「熊千代をすぐさま黒石から堀越へ連れて来い」と、家臣に命じた。
この使者に選ばれたのが、天藤家の衛門四郎、小太郎、佐衛門四郎、甚右衛門の四兄弟(津軽家譜草案)であった。

天藤兄弟はさっそく黒石館に駆けつけ、為信に目通りした。信建の意志を伝えたが、為信は拒絶した。
やけどの熊千代を見れば信建が何をしでかすか分からないからである。

しかたなく四人は堀越城へ帰還、その旨を信建に報告した。しかし、逆上している信建は、
「必ず連れてもどれ」と重ねて厳命。兄弟は再び黒石を訪れたが、為信は依然として連れ帰ることを許さなかった。
兄弟は板ばさみとなり、しばらくは黒石館で粘ったものの、ついにはあきらめて堀越へ帰ることにした。

ところがその途中、ちょうど天藤家の前にさしかかった時、四人は信じられないものを見た。
家族が皆殺しに遭い、その遺体を縁者、知人らが葬ろうとしていたのである。
仰天して訳を聞くと、四人の帰りが遅いので、激怒した信建が斬り殺させたのだという。
兄弟は呆然し、怒った。
0543人間七七四年2012/11/29(木) 11:36:14.04ID:5nEj0bsG
「まことに宮仕えほどくやしきものはない。連れ帰れというのも主君なら、おさえて帰さぬのも主君。臣たる者、どちらの道をとれば良いのか。
 我々の家来としての命運もここに尽きた。家族を皆殺しにするほどの主君だから、我々も極刑に処されるだろう。
 しばり首になるよりは、場内へ斬りこみ、命を懸けて諌言しよう。 それから腹を切っても遅くは無い。むしろ家族への供養になる。」

四人は堀越城に着くと、喚声をあげて無二、無三に斬り込んだ。黄昏時だったという。
不意をつかれた城内の武士はたちまち斬られて、四人は信建の居間の近くまで迫った。

しかし、ここで「三代相伝の主君へうらみをなし奉らんことは、臣たる者の道にあらず。」と剣先が鈍った。
そこで、この上は、日ごろ奸臣と苦々しく思っていた奴ばらを討って取り、最後の思い出とするべく城内を発った。

一方の津軽信建は居間にいた。騒ぎを聞いて仰天し、乱入者どもが近づくにつれて、色青ざめ、立ち尽くすばかりであった。
とうとう、女中のすすめに従い、長持の中にかくれ、女どもにかつがれて居間を脱出、四兄弟が城を出るまで離れたところに隠れていた、とされる。(永禄日記)


さて、城外へ出てきた天藤兄弟は白取瀬兵衛を襲うも、下人どもがかけつけたため、撤退。
次に森岡信元を暗殺した梶仁右衛門方を襲撃し、仁右衛門の母を惨殺。夜明けの頃だったという。
この後も四人は散々に暴れ回り、奈良岡万助が討たれ、他にも怪我人が十数人いたという。
徹夜で暴れた天藤兄弟は疲れ、近くの空き家に入り休憩した。

この頃には騒動を聞いた津軽家中の諸士が天藤兄弟の立てこもる空き家を包囲。
双方とも激しい攻防戦をするも、多勢に無勢。
東海幸義が向かいの家の屋根にこっそり登り、雁股の大矢を放ち、矢は衛門四郎の首を貫き、二本目の矢は小太郎の胸板を射通し、二人は討たれた。
これを見た左衛門四郎と甚右衛門は立ち腹を切り、最期を遂げた。

家臣が首を持ち帰り、ことの次第を言上すると、信建は怒りにまかせて首を獄門にかけたという。
津軽の官製史書『津軽一統志』もさすがに哀れと思ってか、一件っを記したあと、「天藤が横死せし、不運のほどこそ浅ましけれ」と結んでいる。

以上、「続・つがるの夜明け」から

ちなみに熊千代のやけど跡は治らず、醜いままであったのも一因となり、津軽氏を継承せずに為信三男で関ヶ原合戦時に家康本陣にいた津軽信枚が二代目を継承することとなった。
0544人間七七四年2012/11/29(木) 14:19:17.31ID:ebhULvH2
豊臣時代に信建は京でそつなく為信の代行をこなしてるんだよな

信建が豊臣に近かったことと為信よりも先に亡くなったことで、この系統は没落するんだよな
0545人間七七四年2012/11/29(木) 18:05:53.89ID:iGTjITmr
大内義隆が無念の死を遂げた大寧寺の変の際、冷泉隆豊は最期の戦を
奮戦して敵に目に物見せてやろうと、五郎入道正宗がうった乱刃の
抜けば玉散るばかりの太刀三尺二寸を軽々と掲げ、多勢の中に打って出た。

隆豊は活人剣、殺人刀、向上極意の妙剣、十字手裏剣、沓ばう身などの
兵法の術を尽くして斬り廻ったので、もはや手先に向かう兵もいなくなった。

隆豊は「もう相手になる敵もいないか。雑兵なぞを太刀汚しに殺しても仕方ないな」
と立ち帰り、仏前で鎧を脱ぎ短冊を一枚取り出して
「見よや立つけぶりも雲もなか空にさそひし風のあとも残らず」と辞世を残す。

黄門定家卿の末流とはいえこのような時に歌を詠むとは思いもよらなかったが、
歌道に入魂したのでこのように口ずさんだ。優美な心である。

かくて隆豊は腹を十文字に切り、返す太刀で胸もとを突き立て夕の露と消える。
その死を惜しまない人はいなかった。

――『室町殿物語』
0546人間七七四年2012/11/29(木) 18:31:49.44ID:MIYs+5wb
囲いを突破してきたなく生きて再起を図ればいいのにな
0547人間七七四年2012/11/29(木) 18:59:30.64ID:CG4P9gBD
定家の子孫ってことは公家なのかこの人?
0548人間七七四年2012/11/29(木) 19:22:44.14ID:oQXW4n1B
公家→武家のパターン
一条さんとこと同じ
0549人間七七四年2012/11/29(木) 19:34:57.38ID:oQXW4n1B
>>546
中国にはそのタイプの英雄が多いな。
まあ、広大な大陸だから逃走しながら闘争する戦術使いやすいのだろうな
0550人間七七四年2012/11/29(木) 19:42:51.96ID:ynFq+kSp
母方に冷泉家の出身者が居た程度じゃなかったっけ
0551人間七七四年2012/11/29(木) 19:52:20.56ID:dqla+REu
>>546
しかし再起を図ろうにも
周囲は大友・毛利・尼子だぞ?
0552人間七七四年2012/11/29(木) 21:42:50.99ID:bwSx+5J3
神奈川県は厚木の市島に伝わる伝説だそうだ。

永禄十二年(1569)、武田信玄と北条氏康が三増峠で合戦に及んだ。
結局戦いは信玄方が勝ったが、武田方の殿として残った三島一族は北条方の追い討ちにあい、味方から引き離されてしまった。
三島勢は追撃を振り払い、なんとか鳶尾山のあたりまで落ち延びた。
「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」
落ち武者たちはお互いに励ましあって夜の山道を進みつづけたが、突然一人が叫びだした。
「う、海じゃ!」
指さすあたりを眺めると、確かに海のようだ。見渡す限り一面に白い波がきらめいていた。

当然、甲斐に海はない。

「で、では、われらは道を間違え小田原の海に出てしまったと言うのか」
落ち武者たちは呆然として顔をみあわせた。
故郷の山が近いと、心がゆるんだあとだけに、もはや一歩も踏み出す気力は無かった。

「もはやこれまで、敵の手に掛かって死ぬよりは……」
と、一人が腹に刀を突き立てると、もう止めるものもなく、次々とそのあとを追って死んで行った。

……しかし、落ち武者たちが見たのは海ではなかったのである。
月の光をうけて、一面にしろじろと揺れている蕎麦の花を、海と間違えたのだった。

わずかに生き残った落ち武者の一人からこのことを聞いた村人たちは、あまりの痛ましさに言葉もなく、それから蕎麦づくりをやめたのだという。
今でも厚木の市島では、蕎麦はつくらない。

『乱世に生きる 日本の民話8』より

本棚をあさってたら面白そうな本を見つけたので一部を編集して抜粋してみた。
蕎麦の花を海(川)と間違えた、って話は上杉謙信が川中島から撤退する時にもあった話だけど、これは逸話のテンプレなのかしら
0553人間七七四年2012/11/29(木) 22:08:21.68ID:1uUTXw8I
>なんとか鳶尾山のあたりまで落ち延びた。
>「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」

いやいやいや、まだまだ全然遠いから、
険しい丹沢つっきって直線でも国境まで20km以上あるから(´・ω・`)
0554人間七七四年2012/11/29(木) 22:28:36.25ID:Why8UaWw
まあそれまでの道のり考えれば後少しと鼓舞できる位なんじゃないの
0555人間七七四年2012/11/30(金) 01:14:07.14ID:Ba2DCcCh
地図を見ると甲斐まで三増から遠くなってるwww
0556人間七七四年2012/11/30(金) 06:30:43.10ID:szDOamf6
北条側でも、収穫されたとうもろこしの茎を武田方の槍と見間違えて自刃した伝承があるんだろ
史料的に、とうもろこしが伝来するのはこの10年後だけど
0557人間七七四年2012/11/30(金) 09:09:24.71ID:pJDwcquZ
米が水に見えたり蕎麦が海に見えたり
どんだけ遠くから見てるんだ
0558人間七七四年2012/11/30(金) 11:05:56.64ID:2tcsPcxh
峠で合戦→殿で奮戦→山道を行軍で心身共に極限状態だっただろうから
こういう錯覚を起こしても不思議ではないな
0559人間七七四年2012/11/30(金) 12:18:44.93ID:y8PtCFIH
持ち上げられた後に落とされるのは結構きつい
極限状態下で今までの苦労が無駄と判明したら心折れるわ
厚木に出たなら実際に道間違えたっぽいし
0560人間七七四年2012/11/30(金) 13:51:07.33ID:k53uNVz4
城が見える飯盛山まで敗走したら周辺に上がった戦闘時の煙のせいで
城が燃えていると勘違いして自害した白虎隊士も近い感じかね
0561人間七七四年2012/11/30(金) 13:57:42.07ID:cAUg0cNa
>>560
それは単に捕まりたくなかっただけっていう生存者の証言がなかったっけ
0562人間七七四年2012/11/30(金) 15:44:41.78ID:8UXR3/YH
鬼武蔵の部下だと道連れ求めて敵に突っ込むんだろうな
0563人間七七四年2012/11/30(金) 15:50:43.87ID:gG4Vpwu3
もっと打算的だと思うが
0564人間七七四年2012/11/30(金) 17:17:15.99ID:IYlXkk4M
1592年5月31日付・スペイン王フィリペ2世宛、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャ書簡

『日本の皇帝で、「コンバコンドノ(関白殿)」と称する者は、薪売りの卑しい身分から今の身分へと
暴力を以ってのし上がってきたもので、現在はその身分に尊大に安んじています。

彼は反乱の恐れのあるところには、身分は低いが彼の信頼するものを統治責任者として送り込み、それまでの
血統と相続故に支配していた者達を殺害、あるいは幽閉します。
また彼が領地、あるいは何らかの地位に誰かを据える際には、その者の子、あるいは兄弟、又は他の人質を
自分の元に取ります。

このようにしてすべての基礎を固め服従させたので、今は国内で何もすることが無くなり、それぞれ兵力五万を擁する
軍隊を3隊作り上げました。各軍は兵糧、武器、弾薬を多量に備えた艦船多数で武装しています。

彼は朝鮮遠征を公にしましたが、朝鮮というのは中国に隣接した屈強で過酷な地であり、遠征しても必ずや
敗北に終わるほど獲得の難しい土地であります。ですから、彼は彼はマニラを攻撃するためわざと朝鮮の名を出し
噂を広めたのだと明らかに推測できます。

何故なら、彼は当地の情報を収集するために放ったスパイ(私がこの手紙を書く3年前に、3〜40人の日本人が
キリスト教の巡礼衣でやって来ました。信心行のため当地の教会を訪問するという名目で、首からロザリオをかけ
たくさんの苦行をしていましたが、マニラ市に隣接する、周囲1.5レグアに及ぶ地帯全体を、海や河口を通って
くまなく歩きまわり、全て偵察して帰っていったのです)の他に、ガスパール(原田孫七郎)とか言う日本人キリシタンが
極めて特異で、またしばしば目立ちました。この男は当地の事情について非常に多くの情報を得、偵察していったのです。

帰国したこの男を、主人であるコンバコンドノは大いに褒め、多くの褒美を取らせ、自分の甥に領国を放棄させた上、
手元の300万金のうち200万金を与えました。

あの男は自らこの遠征にやってくるはずです。戦に勝とうが死のうが、ここに留まるためです。その狙いは
毎年当地から陛下に送られる、多額の金です。
コンバコンドノはそれを聞き及び、当地の征服を企て、その実行を望んでいる、ということなのです。』

フィリピン総督からの、豊臣秀吉の脅威についての報告である。
0565人間七七四年2012/11/30(金) 17:22:30.98ID:eTJKxE2a
朝鮮よりフィリピンのほうが楽に征服できたのかねえ?
そりゃスペインの守備隊なんてカスみたいな人数しかいないだろうけど…
0566人間七七四年2012/11/30(金) 17:50:00.55ID:PJUFqn7+
>>565
明から大軍がやってくるわけでもないし、スペイン人追い払うだけならなんとでもなるでそ。
もちろん、その後きちんと統治できるとは、とても思えないけど。
0567人間七七四年2012/11/30(金) 18:13:57.18ID:wGHN8sOI
摂津の住人駒形甚九郎光親はある時、若侍十人ばかりと多くの勢子を連れて
鷹狩りに出かけ、一日中遊んで暮らした。同じ時、十河一存の子・孫六郎修理大夫の
次男・七郎兵衛が五十人ばかりで勝尾寺より帰るところだった。

一行が草の深い所の傍を通ると駒形の鷹犬が草原を嗅ぎ回っているところだった。
犬は人々をきっと見て見知らぬ奴だと大いに吠え掛かり、飛びついて噛み付こうとしたので、
小姓が素早い手利きで打刀を引き抜き、犬の細首をずんと切り伏せた。

その後、犬引きが犬の死骸を見つけて仰天し駒形に報せると駒形は「なんたる狼藉だ!
畜生をかように切って棄てるとは、あの野郎め逃がさんぞ!!」と、只一人三町ばかりを
走って一行を追いかけた。追いついた駒形は一行五、六十人の中へ押し入り、

「只今鷹犬を殺しなさったのはどなたですか」と言ったが、侍たちは「いやぁ知らないな」
とばかり言うので駒形は機転を利かせて「犬は畜生ですから別に死んでもよいのです。
ただ、もし噛まれた方がいて痛がっておられるのではと思いここへ参ったのです」と言った。

例の小姓は「ああ、そういうことか」と思って「それがしと主人へ噛みつこうとしたので、
ただ一打ちに致した。あんな癖の悪い犬を飼うなんておかしいですよ」と厳しく言った。

「さてはコイツか…」と感づいた駒形は「おのれも共に畜生道へ行きやがれ!」と言うままに
小姓の細首を宙に落とした。一行は大騒ぎになって傍にいた若侍が刀を抜いて向かったところを
駒形はその右腕を切り落とし、そのまま多勢を切って廻ると近寄る者もいなくなった。

そこへ駆けつけた駒形の侍や勢子三十人ばかりが切り掛かったので、勢子どもも多く切られた。
しかし、かなわないと思ったのだろう、五十余りの侍たちは主を捨てて逃げ出し、遅れた
七、八人が切られてしまった。後に隣郷にも聞こえて「駒形が手柄、修理の孫六郎後を取りける」
と噂になったので暫く世間へ出てこなかった。

――『室町殿物語』

駒形さんは愛犬家なんだなぁ(棒読み)
0568人間七七四年2012/11/30(金) 18:27:38.41ID:Z1IEIH2n
ただ、城塞に立て篭もったヨーロッパ人はつえーからなあ…
0569人間七七四年2012/11/30(金) 19:32:14.01ID:Ba2DCcCh
国性爺「んなぁ事ない」
0570人間七七四年2012/11/30(金) 19:44:08.71ID:QGq5E4hF
ヴォーバン「俺が手がけた城でないのならたいしたことないって」
0571人間七七四年2012/11/30(金) 20:53:09.48ID:8UXR3/YH
真田パパン「城より守る人間の質が大切だ?見せてやろうか?」
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