追沢二股の竹


天正10年(1582年)、本能寺の変の後のこと。
信濃から美濃へと舞い戻った森長可は周辺の東濃の諸氏と日夜戦いを繰り広げていたが、
森家に喧嘩を売った家の中に明智光秀の嫁の実家である妻木家があった。

ある時、合戦で敗れた妻木家臣の茂塚六兵衛の一団は森家の追手から逃れるべく追沢の地に辿り着き、
ここでとある民家の老婆に金を与えて屋根裏に匿って貰う事になった。
それを追ってきたのが森家臣の豊前市之丞という男で、追沢の辺りで消息を絶った武将たちの事を
この老婆に聞いたが「知らぬ」の一点張りで取り付く島がない。

ならばと有力な情報提供の恩賞として市之丞は懸賞金を懸けて再び老婆に行方を聞いた所、
老婆は六兵衛の金より市之丞の金のほうが額が多かったので天井を指差して六兵衛らを匿っている事をあっさりと白状し、
即座に天井裏に攻め込んだ市之丞の軍勢に六兵衛一行は悉く討ち取られた。

この事件の後にやがて老婆が死ぬとこの家には住む人間が居なくなったが、他の人間が新たにこの家に住むと
重病に倒れたり何かしら血を見るような死に方をしたりと不吉な出来事が必ず起こった為、やがて誰も住まなくなった。
そんな家に事件後に生えた二股の竹にも「きっと六兵衛の怨念がこもっている」と恐れられたという。


現在はこの竹はもう無くなってしまったが六兵衛の無念を弔う小さな祠だけは伝承と共に現地に残っている。