戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2012/10/24(水) 14:04:14.43ID:5/lQHHOm骨折り!
0003人間七七四年
2012/10/24(水) 16:27:40.46ID:DqXG8z9C0004人間七七四年
2012/10/24(水) 19:20:46.25ID:jXxGHb6vというのは本当ですか?
0005人間七七四年
2012/10/24(水) 19:30:13.93ID:SqIYoogSというか三成の茶の弟子ってなんのことやら。
0007人間七七四年
2012/10/24(水) 20:45:41.49ID:N595Hho+全裸で茶を被ったのも本当です。
0008人間七七四年
2012/10/24(水) 21:48:15.57ID:NC9PyKAqしかし、松永の遺児と利休の関係やら
荒木村重の遺児が高名な絵師になったやら
ググるまではフィクションだとおもってた
0009人間七七四年
2012/10/24(水) 22:00:54.17ID:oltT++sDいいスレより一スレ分少ないんだな
0010人間七七四年
2012/10/24(水) 22:07:53.70ID:SqIYoogS0011人間七七四年
2012/10/24(水) 22:09:36.83ID:oltT++sD三歳様の奥方覗いてくる
0012人間七七四年
2012/10/24(水) 23:25:36.19ID:DqXG8z9C───────────────────────────−──────―
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0014人間七七四年
2012/10/25(木) 00:35:40.41ID:98zLAwTl0015人間七七四年
2012/10/25(木) 00:40:49.81ID:PQEWfqaeまああの漫画は史実や講談をベースにそれをちょっと外して来るのが基本なので、
割りと突拍子のないことでも根拠がある場合が多い
0016人間七七四年
2012/10/25(木) 01:51:28.01ID:jh1lM60o0017人間七七四年
2012/10/25(木) 02:42:10.13ID:57zFIOAP0018人間七七四年
2012/10/25(木) 07:12:56.00ID:NtEXG0w+最上勢に攻められた下次右衛門が籠城したまでは同じだが、籠城したのは谷地である。
そして経過は…
守備側「安全を保証するなら降伏します」
攻撃側「わかった、出てきなさい」
守備側「すみません、戦わないであっさり降伏とかしたら流石に馬鹿にされますよね。
やっぱキャンセルするんで攻めてください」
攻撃側「ふざけんな!だましたのかよ!わかったよ、堀埋めるからな、覚悟しとけ」
守備側「あわわわ、やめてください! まった、待ってください!
安全を保証するなら庄内の松本を切腹させますんで。大山取って義光殿に味方しますんで!
起請文もありますよ、ほら」
攻撃側「また騙されるかばーか! …と思ったけどちょっと待ってな」
攻撃側の志村光安らは起請文を義光に持参し判断をあおいだ。義光は、
「降る降る詐欺とかナメてんの? でもいいや、城から出して。攻めると味方損害出るしな。
長谷堂で長いこと戦ったばかりだしみんなおつかれさんだもんね。
早く終わったほうがいいだろ。なんかもういいや」
こんなぐだぐだだったらしい。
現実ってわりとかっこわるいんだなあ。
(『鮭延越前守聞書』)
0019人間七七四年
2012/10/25(木) 07:18:51.20ID:/0z1ycQMちょっと悪い話だな。
0021人間七七四年
2012/10/25(木) 17:37:35.94ID:lWLwL3kQ0022人間七七四年
2012/10/25(木) 17:46:06.49ID:lfQyMjrI0023人間七七四年
2012/10/25(木) 18:33:49.74ID:o5qn/mo50024人間七七四年
2012/10/25(木) 18:43:17.83ID:o5qn/mo50025人間七七四年
2012/10/25(木) 19:19:06.60ID:v8fctGZt0026人間七七四年
2012/10/25(木) 22:14:12.55ID:LHMizG6b1.織田信長を本当に討ったのは明智光秀本人の意思ですか?
2.天海は明智光秀と思われますか?
0027人間七七四年
2012/10/25(木) 22:19:40.91ID:zFNn+Zn8http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1342945821/
0028人間七七四年
2012/10/25(木) 22:54:00.08ID:NtEXG0w+ところが具足箱にしまっておいた采配がなくなっている!
「なんか嫌な予感…あああ、ちゃんと勝てますように」
秀綱はそう思いつつ、そのへんにあった竹を切って代用した。
気を取り直して進む秀綱だが、四・五百人ほどの敵勢に待ち伏せをされてしまった。
しかもこのとき! なんと兜の緒が切れたではないか。
「今朝は采配なくすし、今度は兜かよ! 今日はもう討ち死にだろコレ」
すっかりヤケになった秀綱は兜を投げ捨てて進もうとした。
すると板垣牛之助という者が「おいおい、この大軍に兜なしで挑むとかありえないだろ」と止めに入る。
「ちょっと待って、今直するから」と牛之助はたくさんのこよりをより合わせ、即席の緒を作り、兜をかぶせてくれた。
秀綱は気を取り直し出陣、見事に活躍したのであった。
鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話。
(『鮭延越前守聞書』)
0029人間七七四年
2012/10/26(金) 01:00:13.74ID:Xc640gXl0030人間七七四年
2012/10/26(金) 03:54:37.96ID:8dhAPQZiいい話だ
0031人間七七四年
2012/10/26(金) 05:10:22.88ID:z3mDjgZL蝦夷に下国師季という武将がいた。
下国氏は安東氏の一族で茂別館に拠り下国守護を任じられていた。蠣崎氏と同格以上の家柄である。
また1551年にはアイヌと和人の講和が結ばれ平和な時代が訪れていた。
…にも関わらず、1562年なぜか師季はアイヌの攻撃を受け茂別館を落とされてしまった。
そうして松前に逃れて蠣崎氏を頼り、その臣下に甘んじることになる。
しかしそれだけでは終わらず、息子重季と不和になり、
挙句に頼っていた蠣崎氏から追放されてしまう。
そしてセタナイで1563年死亡した。
ただただ没落しまくったことしか記録がない地方の武将の話。
0032人間七七四年
2012/10/26(金) 05:42:18.69ID:MtAUdzdA0033人間七七四年
2012/10/26(金) 08:13:51.18ID:wJxlblL80034人間七七四年
2012/10/26(金) 18:22:44.89ID:5bAlAIIx0035人間七七四年
2012/10/26(金) 18:27:21.87ID:Mf2CTX0fhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1353.html
↑にある寛永十二年正月二十八日の政宗亭への将軍家光の御成。
政宗渾身の接待に家光も喜んだことこの上なく、後日同朋衆の佐野福阿弥を通して、
なんと直筆のこれを感謝する書状を送ったほどであった。
さて、この書状が届いた日は取り分けて天気快晴であった。
ところがどうしたことであろうか、政宗の座敷の前の庭に、一尺(約30センチ)あまりの鯉が空から降ってきた。
しかも空から落ちてきたくせに極めて生きが良く、庭でピチピチ跳ね踊っていた。
政宗の周りに居た侍たち、「こんな目出度い日に鯉とは!なんと折の良いことだ!」
とこれを捕まえ喜んでいると、政宗はすぐさま包丁を申し付け、これを料理し祝いの酒とともに列座の諸侍に
振舞ったそうである。
…空から降ってきたことは、特に疑問に考えていなかったようである。
が、その後政宗が仙台に帰国していた7月の初め、島津家の上屋敷より出荷があり、伊達屋敷も尽く消失してしまった。
人々は
「伊達屋敷が燃えたのは鯉が空から降ってきて、あまつさえ食べたせいだよ。」
と囁いたのだという。
(玉露叢)
0036人間七七四年
2012/10/26(金) 18:34:01.97ID:N6X1y0F70037人間七七四年
2012/10/26(金) 18:36:54.30ID:o7hxpn4H一瞬島津さんとこが鯉を出荷したのかと
しかしどう対応したら正解だったんだ
0038人間七七四年
2012/10/26(金) 19:43:41.42ID:28nmfMkyFORTIANに連絡しなければ
0039人間七七四年
2012/10/26(金) 19:53:22.52ID:8d5Ap/Yittp://fsm.vip2ch.com/-/hirame/hira123732.jpg
0040人間七七四年
2012/10/26(金) 20:46:22.43ID:hPEqwThh「魚には鱗があり、鱗は甲冑に、甲冑は戦に通ずる。それが宮殿に降ったということは、
即ち天下に戦乱が起きるということだったんだよ!!( AA 省略」
↓
ナ、ナンダッテー
↓
事実そうなった
どっとはらい
0041人間七七四年
2012/10/26(金) 21:38:15.19ID:NaMLM/Cnしかし魚が空から降ってきても不思議がりもせずヒャッホーしてるあたり政宗というかなんというか
案外、誰かが迷信の事を言い出す前に
とっさに縁起の良さに結び付けて場の空気が悪くなるのを防いだのかも
0042人間七七四年
2012/10/26(金) 22:33:33.81ID:+oB3hxg8「主君に対して、その政道の正しさをことさら取り上げ、人々は善政に潤っています、などと言ってくる者が居る。
そんな者の言うことなど、全く聞くに及ばぬ!
少しであっても、その政道に対して異論が存在していれば、主君は早々にそれを聞き出さねばならない。
『自分には誤りなど無い』などといって聞き捨てにしてはならないのだ!
しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
主君の心ひとつに収めて、その異論をよく吟味し、改めるべきところを改めるのだ。
物には思いもよらない事というものがある。あの織田信長が、明智などにああも安々と討たれるなど、一体誰が
予想したであろうか?
また信長の織田一門は歴々たるものがあったというのに、秀吉に主親の敵を討たせて、彼の風上に立ってしまった事など、
全く時の至というものであり、天が秀吉に与えた福というべきだろうか。
こういったことから解るのは、例え天をも計り地をも察することができても、計り難きは人の心なのだ。
だからこそ、仮初のことであっても、主君たる者は心をかけて見聞きしなければならない。
主君や傍輩にも真実をつつみ隠すような佞奸の者は、世の人々の見解を鏡として、早く退けるべきである。
どんな佞奸の者でも、天下の見解まで包み隠すことは出来ないものだ。
また、主君に対しその様な異見が世間に存在することは、決して恥ずかしいことではないぞ。」
(武野燭談)
徳川家康の、主君は異論こそ聞け、世の中の言葉を聞け、というお話
0043人間七七四年
2012/10/26(金) 22:33:36.71ID:k4qeeCS70044人間七七四年
2012/10/26(金) 22:38:25.75ID:gS9QP7Ba使えなくても一応きちんと異論を聞く家康はえらいな
0045人間七七四年
2012/10/26(金) 23:06:27.36ID:ulPhwur8その実態が当事者によって語られていた。
当時父の秀綱は38歳、子の左右衛門は15歳である。
子「父上、私も参戦したいです!」
父「ただでさえ味方が少なくて大変なのに、おまえごときに割けん。あきらめなさい」
子「ならば私ひとりで出るまでです」
父「あー、わかった。仕方ない、50人くらいつけてやる、がんばるんだぞ」
子「はい、父上!」
こうして出陣した左右衛門だが敵に深入りしてしまい、供回りの過半数が討たれ、
指物までとられそうになる始末であった。
父は子の窮地に気付き、半町ほど敵陣に入りこみ子を探すが見つからない。
父「むう、遅かったか。あとに残っているのかもしれんが…」
子「あっ、父上!」
父「これはいかん! 左右衛門、ついて来なさい」
父が探し回り子をやっとみつけ合流したが、父もまた大苦戦してしまう始末。
ついに父は子の目の前でありながら、余裕が全くなく半町あまりも先に退いてしまった。
「俺、息子の前なのに先に逃げちゃってかっこわるかったよね…」
と当時を振り返る秀綱であった。
それにしても正直に語り残さねば、颯爽とした活躍だけが記録に残っただろうに。
(『鮭延越前守聞書』)
0047人間七七四年
2012/10/27(土) 00:20:22.17ID:aEIVsLLX200年以上安定をもたらした初代はさすがだな。
>>45
余裕が無い状況って分かってるのに参戦したがる15歳って凄いな。さすが武家の子
0048人間七七四年
2012/10/27(土) 00:55:29.38ID:rESl656N関ヶ原の島津の退き口のとき、島津豊久は殿軍となって島津義弘を逃がし、
烏頭坂(岐阜県大垣市上石津町)で討ち死にしたというのが定説である。
だが異説によると、このとき豊久は生きていたという。
重傷を負った豊久は、生き残りの薩摩兵の手で近くの集落まで運ばれた。
この集落には七軒の家があり、薩摩兵は豊久の治療のため一軒一軒訪ね歩いたが、
関わりあいを恐れた村人は中に入れようとしなかった。
豊久は間もなく息を引き取り、亡骸は荼毘に伏され集落の近くに埋葬された。
そしてのち、この集落は明治まで続いたが、決して栄えることなく七軒のままで
あった。さらに豊久の墓のまわりには草木も生えなくなった。
これは豊久や薩摩兵の祟りだという。
この異説にはさらに別の説がある。村人は豊久を家に入れて必死で手当てをしたが、
村人に後難が降りかかるのを忍びなく思った豊久が自刃したという話である。
あなたならどの説を採る?
0049人間七七四年
2012/10/27(土) 01:05:20.00ID:rlRYPEzWてのは冗談として、槍玉に挙げられたってのが本当なら普通そこで死んでそうだが
0050人間七七四年
2012/10/27(土) 06:33:28.50ID:MTzhoiLC彼は安東家政の孫であるという。家政は1457年のコシャマインの乱の鎮圧にも参加した人物で、
1501年に没した。
またその子で師季の父に当たる家季は父家政より早く1492年に没したらしい。
よって師季は1490年前後の生まれのようだ。それから1563年に没しているので70歳以上は生きているなかなかの長寿。
問題は師季の妻だ。
師季は蠣崎季広の二女を妻にしているのだ。蠣崎季広は1507年生まれである。
長男の舜広は1539年生まれで、長女の嫁いだ南条広継は1529年生まれだから、
概ね二女の生まれはこの間の1530年代半ばくらいだろう。
となると、二人の年齢差は40歳以上…?
しかも二人の間には重季という子供もしっかり生まれている。
戦国時代の加藤茶とでもいうべきだろうか。
0052人間七七四年
2012/10/27(土) 12:34:48.76ID:sWrG/cwGもっとも産んだ異父兄弟の年の差が40以上という無理ある話だが
0053人間七七四年
2012/10/27(土) 12:38:17.36ID:mTSUofq/ドリフターズだな
0054人間七七四年
2012/10/27(土) 12:41:57.97ID:qWN6W0Zi昔は年齢差が大きい結婚が多そうだよね
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