戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2012/10/24(水) 14:04:14.43ID:5/lQHHOm骨折り!
0003人間七七四年
2012/10/24(水) 16:27:40.46ID:DqXG8z9C0004人間七七四年
2012/10/24(水) 19:20:46.25ID:jXxGHb6vというのは本当ですか?
0005人間七七四年
2012/10/24(水) 19:30:13.93ID:SqIYoogSというか三成の茶の弟子ってなんのことやら。
0007人間七七四年
2012/10/24(水) 20:45:41.49ID:N595Hho+全裸で茶を被ったのも本当です。
0008人間七七四年
2012/10/24(水) 21:48:15.57ID:NC9PyKAqしかし、松永の遺児と利休の関係やら
荒木村重の遺児が高名な絵師になったやら
ググるまではフィクションだとおもってた
0009人間七七四年
2012/10/24(水) 22:00:54.17ID:oltT++sDいいスレより一スレ分少ないんだな
0010人間七七四年
2012/10/24(水) 22:07:53.70ID:SqIYoogS0011人間七七四年
2012/10/24(水) 22:09:36.83ID:oltT++sD三歳様の奥方覗いてくる
0012人間七七四年
2012/10/24(水) 23:25:36.19ID:DqXG8z9C───────────────────────────−──────―
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0014人間七七四年
2012/10/25(木) 00:35:40.41ID:98zLAwTl0015人間七七四年
2012/10/25(木) 00:40:49.81ID:PQEWfqaeまああの漫画は史実や講談をベースにそれをちょっと外して来るのが基本なので、
割りと突拍子のないことでも根拠がある場合が多い
0016人間七七四年
2012/10/25(木) 01:51:28.01ID:jh1lM60o0017人間七七四年
2012/10/25(木) 02:42:10.13ID:57zFIOAP0018人間七七四年
2012/10/25(木) 07:12:56.00ID:NtEXG0w+最上勢に攻められた下次右衛門が籠城したまでは同じだが、籠城したのは谷地である。
そして経過は…
守備側「安全を保証するなら降伏します」
攻撃側「わかった、出てきなさい」
守備側「すみません、戦わないであっさり降伏とかしたら流石に馬鹿にされますよね。
やっぱキャンセルするんで攻めてください」
攻撃側「ふざけんな!だましたのかよ!わかったよ、堀埋めるからな、覚悟しとけ」
守備側「あわわわ、やめてください! まった、待ってください!
安全を保証するなら庄内の松本を切腹させますんで。大山取って義光殿に味方しますんで!
起請文もありますよ、ほら」
攻撃側「また騙されるかばーか! …と思ったけどちょっと待ってな」
攻撃側の志村光安らは起請文を義光に持参し判断をあおいだ。義光は、
「降る降る詐欺とかナメてんの? でもいいや、城から出して。攻めると味方損害出るしな。
長谷堂で長いこと戦ったばかりだしみんなおつかれさんだもんね。
早く終わったほうがいいだろ。なんかもういいや」
こんなぐだぐだだったらしい。
現実ってわりとかっこわるいんだなあ。
(『鮭延越前守聞書』)
0019人間七七四年
2012/10/25(木) 07:18:51.20ID:/0z1ycQMちょっと悪い話だな。
0021人間七七四年
2012/10/25(木) 17:37:35.94ID:lWLwL3kQ0022人間七七四年
2012/10/25(木) 17:46:06.49ID:lfQyMjrI0023人間七七四年
2012/10/25(木) 18:33:49.74ID:o5qn/mo50024人間七七四年
2012/10/25(木) 18:43:17.83ID:o5qn/mo50025人間七七四年
2012/10/25(木) 19:19:06.60ID:v8fctGZt0026人間七七四年
2012/10/25(木) 22:14:12.55ID:LHMizG6b1.織田信長を本当に討ったのは明智光秀本人の意思ですか?
2.天海は明智光秀と思われますか?
0027人間七七四年
2012/10/25(木) 22:19:40.91ID:zFNn+Zn8http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1342945821/
0028人間七七四年
2012/10/25(木) 22:54:00.08ID:NtEXG0w+ところが具足箱にしまっておいた采配がなくなっている!
「なんか嫌な予感…あああ、ちゃんと勝てますように」
秀綱はそう思いつつ、そのへんにあった竹を切って代用した。
気を取り直して進む秀綱だが、四・五百人ほどの敵勢に待ち伏せをされてしまった。
しかもこのとき! なんと兜の緒が切れたではないか。
「今朝は采配なくすし、今度は兜かよ! 今日はもう討ち死にだろコレ」
すっかりヤケになった秀綱は兜を投げ捨てて進もうとした。
すると板垣牛之助という者が「おいおい、この大軍に兜なしで挑むとかありえないだろ」と止めに入る。
「ちょっと待って、今直するから」と牛之助はたくさんのこよりをより合わせ、即席の緒を作り、兜をかぶせてくれた。
秀綱は気を取り直し出陣、見事に活躍したのであった。
鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話。
(『鮭延越前守聞書』)
0029人間七七四年
2012/10/26(金) 01:00:13.74ID:Xc640gXl0030人間七七四年
2012/10/26(金) 03:54:37.96ID:8dhAPQZiいい話だ
0031人間七七四年
2012/10/26(金) 05:10:22.88ID:z3mDjgZL蝦夷に下国師季という武将がいた。
下国氏は安東氏の一族で茂別館に拠り下国守護を任じられていた。蠣崎氏と同格以上の家柄である。
また1551年にはアイヌと和人の講和が結ばれ平和な時代が訪れていた。
…にも関わらず、1562年なぜか師季はアイヌの攻撃を受け茂別館を落とされてしまった。
そうして松前に逃れて蠣崎氏を頼り、その臣下に甘んじることになる。
しかしそれだけでは終わらず、息子重季と不和になり、
挙句に頼っていた蠣崎氏から追放されてしまう。
そしてセタナイで1563年死亡した。
ただただ没落しまくったことしか記録がない地方の武将の話。
0032人間七七四年
2012/10/26(金) 05:42:18.69ID:MtAUdzdA0033人間七七四年
2012/10/26(金) 08:13:51.18ID:wJxlblL80034人間七七四年
2012/10/26(金) 18:22:44.89ID:5bAlAIIx0035人間七七四年
2012/10/26(金) 18:27:21.87ID:Mf2CTX0fhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1353.html
↑にある寛永十二年正月二十八日の政宗亭への将軍家光の御成。
政宗渾身の接待に家光も喜んだことこの上なく、後日同朋衆の佐野福阿弥を通して、
なんと直筆のこれを感謝する書状を送ったほどであった。
さて、この書状が届いた日は取り分けて天気快晴であった。
ところがどうしたことであろうか、政宗の座敷の前の庭に、一尺(約30センチ)あまりの鯉が空から降ってきた。
しかも空から落ちてきたくせに極めて生きが良く、庭でピチピチ跳ね踊っていた。
政宗の周りに居た侍たち、「こんな目出度い日に鯉とは!なんと折の良いことだ!」
とこれを捕まえ喜んでいると、政宗はすぐさま包丁を申し付け、これを料理し祝いの酒とともに列座の諸侍に
振舞ったそうである。
…空から降ってきたことは、特に疑問に考えていなかったようである。
が、その後政宗が仙台に帰国していた7月の初め、島津家の上屋敷より出荷があり、伊達屋敷も尽く消失してしまった。
人々は
「伊達屋敷が燃えたのは鯉が空から降ってきて、あまつさえ食べたせいだよ。」
と囁いたのだという。
(玉露叢)
0036人間七七四年
2012/10/26(金) 18:34:01.97ID:N6X1y0F70037人間七七四年
2012/10/26(金) 18:36:54.30ID:o7hxpn4H一瞬島津さんとこが鯉を出荷したのかと
しかしどう対応したら正解だったんだ
0038人間七七四年
2012/10/26(金) 19:43:41.42ID:28nmfMkyFORTIANに連絡しなければ
0039人間七七四年
2012/10/26(金) 19:53:22.52ID:8d5Ap/Yittp://fsm.vip2ch.com/-/hirame/hira123732.jpg
0040人間七七四年
2012/10/26(金) 20:46:22.43ID:hPEqwThh「魚には鱗があり、鱗は甲冑に、甲冑は戦に通ずる。それが宮殿に降ったということは、
即ち天下に戦乱が起きるということだったんだよ!!( AA 省略」
↓
ナ、ナンダッテー
↓
事実そうなった
どっとはらい
0041人間七七四年
2012/10/26(金) 21:38:15.19ID:NaMLM/Cnしかし魚が空から降ってきても不思議がりもせずヒャッホーしてるあたり政宗というかなんというか
案外、誰かが迷信の事を言い出す前に
とっさに縁起の良さに結び付けて場の空気が悪くなるのを防いだのかも
0042人間七七四年
2012/10/26(金) 22:33:33.81ID:+oB3hxg8「主君に対して、その政道の正しさをことさら取り上げ、人々は善政に潤っています、などと言ってくる者が居る。
そんな者の言うことなど、全く聞くに及ばぬ!
少しであっても、その政道に対して異論が存在していれば、主君は早々にそれを聞き出さねばならない。
『自分には誤りなど無い』などといって聞き捨てにしてはならないのだ!
しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
主君の心ひとつに収めて、その異論をよく吟味し、改めるべきところを改めるのだ。
物には思いもよらない事というものがある。あの織田信長が、明智などにああも安々と討たれるなど、一体誰が
予想したであろうか?
また信長の織田一門は歴々たるものがあったというのに、秀吉に主親の敵を討たせて、彼の風上に立ってしまった事など、
全く時の至というものであり、天が秀吉に与えた福というべきだろうか。
こういったことから解るのは、例え天をも計り地をも察することができても、計り難きは人の心なのだ。
だからこそ、仮初のことであっても、主君たる者は心をかけて見聞きしなければならない。
主君や傍輩にも真実をつつみ隠すような佞奸の者は、世の人々の見解を鏡として、早く退けるべきである。
どんな佞奸の者でも、天下の見解まで包み隠すことは出来ないものだ。
また、主君に対しその様な異見が世間に存在することは、決して恥ずかしいことではないぞ。」
(武野燭談)
徳川家康の、主君は異論こそ聞け、世の中の言葉を聞け、というお話
0043人間七七四年
2012/10/26(金) 22:33:36.71ID:k4qeeCS70044人間七七四年
2012/10/26(金) 22:38:25.75ID:gS9QP7Ba使えなくても一応きちんと異論を聞く家康はえらいな
0045人間七七四年
2012/10/26(金) 23:06:27.36ID:ulPhwur8その実態が当事者によって語られていた。
当時父の秀綱は38歳、子の左右衛門は15歳である。
子「父上、私も参戦したいです!」
父「ただでさえ味方が少なくて大変なのに、おまえごときに割けん。あきらめなさい」
子「ならば私ひとりで出るまでです」
父「あー、わかった。仕方ない、50人くらいつけてやる、がんばるんだぞ」
子「はい、父上!」
こうして出陣した左右衛門だが敵に深入りしてしまい、供回りの過半数が討たれ、
指物までとられそうになる始末であった。
父は子の窮地に気付き、半町ほど敵陣に入りこみ子を探すが見つからない。
父「むう、遅かったか。あとに残っているのかもしれんが…」
子「あっ、父上!」
父「これはいかん! 左右衛門、ついて来なさい」
父が探し回り子をやっとみつけ合流したが、父もまた大苦戦してしまう始末。
ついに父は子の目の前でありながら、余裕が全くなく半町あまりも先に退いてしまった。
「俺、息子の前なのに先に逃げちゃってかっこわるかったよね…」
と当時を振り返る秀綱であった。
それにしても正直に語り残さねば、颯爽とした活躍だけが記録に残っただろうに。
(『鮭延越前守聞書』)
0047人間七七四年
2012/10/27(土) 00:20:22.17ID:aEIVsLLX200年以上安定をもたらした初代はさすがだな。
>>45
余裕が無い状況って分かってるのに参戦したがる15歳って凄いな。さすが武家の子
0048人間七七四年
2012/10/27(土) 00:55:29.38ID:rESl656N関ヶ原の島津の退き口のとき、島津豊久は殿軍となって島津義弘を逃がし、
烏頭坂(岐阜県大垣市上石津町)で討ち死にしたというのが定説である。
だが異説によると、このとき豊久は生きていたという。
重傷を負った豊久は、生き残りの薩摩兵の手で近くの集落まで運ばれた。
この集落には七軒の家があり、薩摩兵は豊久の治療のため一軒一軒訪ね歩いたが、
関わりあいを恐れた村人は中に入れようとしなかった。
豊久は間もなく息を引き取り、亡骸は荼毘に伏され集落の近くに埋葬された。
そしてのち、この集落は明治まで続いたが、決して栄えることなく七軒のままで
あった。さらに豊久の墓のまわりには草木も生えなくなった。
これは豊久や薩摩兵の祟りだという。
この異説にはさらに別の説がある。村人は豊久を家に入れて必死で手当てをしたが、
村人に後難が降りかかるのを忍びなく思った豊久が自刃したという話である。
あなたならどの説を採る?
0049人間七七四年
2012/10/27(土) 01:05:20.00ID:rlRYPEzWてのは冗談として、槍玉に挙げられたってのが本当なら普通そこで死んでそうだが
0050人間七七四年
2012/10/27(土) 06:33:28.50ID:MTzhoiLC彼は安東家政の孫であるという。家政は1457年のコシャマインの乱の鎮圧にも参加した人物で、
1501年に没した。
またその子で師季の父に当たる家季は父家政より早く1492年に没したらしい。
よって師季は1490年前後の生まれのようだ。それから1563年に没しているので70歳以上は生きているなかなかの長寿。
問題は師季の妻だ。
師季は蠣崎季広の二女を妻にしているのだ。蠣崎季広は1507年生まれである。
長男の舜広は1539年生まれで、長女の嫁いだ南条広継は1529年生まれだから、
概ね二女の生まれはこの間の1530年代半ばくらいだろう。
となると、二人の年齢差は40歳以上…?
しかも二人の間には重季という子供もしっかり生まれている。
戦国時代の加藤茶とでもいうべきだろうか。
0052人間七七四年
2012/10/27(土) 12:34:48.76ID:sWrG/cwGもっとも産んだ異父兄弟の年の差が40以上という無理ある話だが
0053人間七七四年
2012/10/27(土) 12:38:17.36ID:mTSUofq/ドリフターズだな
0054人間七七四年
2012/10/27(土) 12:41:57.97ID:qWN6W0Zi昔は年齢差が大きい結婚が多そうだよね
0055人間七七四年
2012/10/27(土) 13:17:11.00ID:aEIVsLLX0056人間七七四年
2012/10/27(土) 14:01:43.46ID:bDmnSvcGそこそこ身分の有る人間が年寄りになると、
「あの方も寂しかろう」つうて勝手に周りが十代の下女兼愛人を世話してくれる時代なんだよなあ
0057人間七七四年
2012/10/27(土) 15:18:04.49ID:XLJRcSZd松平信綱は大下戸であった。対して土井利勝は大上戸であった。
信綱は「天下の老中でありながら酒を飲むなど…」と心の中で誹った。
ある日、老中たちが神田橋を通った時、一人の酔っ払いが
ヨロヨロとみっともなく歩いていた。
これを見て「良い機会だ。利勝を困らせよう」と思った信綱は
「大炊殿大炊殿、向こうを御覧なされませい、見事な伊達歩みですぞ」
と言った。
すると利勝は「伊豆殿、御嗜みなさい。下戸が酒に酔うことほど
見苦しいことはありません」と返したので流石の信綱も返答できずに
困ってしまった。
――『名将言行録』
0058人間七七四年
2012/10/27(土) 15:37:17.57ID:aIJKGdv5めんどくさい人たちが揉め事起こしたら
ベロンベロンに酔わせて権現様と錯覚させて解決させてたかも
0059人間七七四年
2012/10/27(土) 16:00:05.01ID:t2TVrZnV0060人間七七四年
2012/10/27(土) 16:24:55.93ID:oclVz5Rv_,,..,,,,_ ,,_ ,,_ ,,_ ,,_ _∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧_
/ ●ω・ ヽ ヽ.ヽ ヽ.ヽ > そ、その動きは伊達歩み!<
l l .l l .l l  ̄∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨ ̄
`'ー---‐´‐´‐´‐´‐´
0061人間七七四年
2012/10/27(土) 16:32:57.31ID:i/mGEpuT0062人間七七四年
2012/10/27(土) 17:18:18.46ID:9ySdeeFX0063人間七七四年
2012/10/27(土) 17:24:50.36ID:i/mGEpuT0064人間七七四年
2012/10/27(土) 17:27:20.02ID:sWrG/cwG0065人間七七四年
2012/10/27(土) 18:10:48.82ID:ZXiMqwVP0066人間七七四年
2012/10/27(土) 18:27:25.72ID:MTzhoiLC永正5年(1508)が正しいらしい。
18歳くらいで城を奪われて蠣崎の庇護に入った己を恥じて長く妻は娶らなかったのかな?
0067人間七七四年
2012/10/28(日) 01:05:14.60ID:enuPRoD0若狭武田家という名門の子息として生まれる→出奔→南部家ののち蠣崎家へ
→コシャマインの戦いでアイヌの反乱を鎮圧→蠣崎家の婿養子として後を継ぎ、蝦夷地と樺太をおさめる
なんか御曹司島渡の貴種流離譚そのまんまのような
0068人間七七四年
2012/10/28(日) 01:46:20.58ID:GbnvUDqp原材料イモムシってそれ何処のゲテモノすぃ〜つ…。
>>60
見ようによっちゃずんだ豆?眼帯した豆キャラクターにしたら売れるかなw
0069人間七七四年
2012/10/28(日) 07:21:13.20ID:lRKgg1Vm全般的にテンプレみたいな話ばっかだよね、蠣崎の歴史。
松前守護の安東恒季は粗暴で無実の民を殺すこともあったという典型的な暴君。
で、訴えられて安東宗家に滅ぼされる。
跡を継いだ相原季胤もアイヌ人を人身御供にしたとかでアイヌに滅ぼされる。
最終的に蠣崎氏が全部接収してるから、実は全部蠣崎が仕組んだことじゃね?とも言われてる。
0070人間七七四年
2012/10/28(日) 14:27:16.24ID:MFodyCec0071人間七七四年
2012/10/28(日) 17:21:36.54ID:41hI+zuF0072人間七七四年
2012/10/28(日) 17:42:57.59ID:r0VZYzL9http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1351326083/
ソース:Infoseek ニュース/ゲンダイネット
http://news.infoseek.co.jp/article/27gendainet000177457
0073人間七七四年
2012/10/28(日) 17:44:13.64ID:r0VZYzL93週連続で1ケタ台の視聴率にあえいでいるNHK大河「平清盛」。
21日の放送は関西地区で7.5%(ビデオリサーチ調べ)を記録し、
またまた過去最低を更新。最終回(12月23日)まできっちり放送するというが、
クライマックスの源平合戦を待たずして“討ち死に”状態である。
早くも話題の中心は次の大河に移っていて、13年は綾瀬はるか(27)主演の「八重の桜」、
14年は岡田准一(31)主演の「軍師官兵衛」と先日発表になったが「本当は『島津義弘』が当確だったが、
二転三転し、黒田官兵衛になった」というのはNHK関係者だ。
14年大河を巡っては、発表の1カ月前にも一部スポーツ紙が「明智光秀が有力」と報じている。
しかし、フタを開けたら「官兵衛」になっていた。舞台裏で何があったのか――。
島津義弘は、織田信長や豊臣秀吉と同世代に活躍した薩摩の戦国大名。
島津家中興の祖といわれた第15代当主・貴久の次男で、兄の義久を助けた島津家最強部隊の将だ。
関ケ原の合戦では300足らずの兵で敵中突破したことで有名。
他にも、文禄の役と慶長の役で朝鮮へ出兵し、明の大軍相手に
勇敢な戦闘力を発揮したことで知られる。
0074人間七七四年
2012/10/28(日) 17:45:07.66ID:r0VZYzL9“鬼島津”と恐れられたという資料も残っている。絶対に外せないシーンだし、
申し分ない“山場”です。が、8月に勃発した竹島の領土問題で日韓が揉めている中で、
局内から難色を示す声が出た。物議を醸すような事態を避けたわけです」(NHK関係者=前出)
義弘公の地元・鹿児島は県を挙げて大河の誘致活動に積極的だった。
数年前には鹿児島にゆかりのある人物でプッシュしようと署名活動までし、
09年には「観光かごしま大キャンペーン推進協議会」を発足させ、
昨年10月にNHKへ要望書を提出していた。
大河の舞台となった地元への経済効果は絶大で、
08年の「篤姫」は鹿児島県内に262億円をもたらした。
コトなかれ主義で弱腰なNHKと野田外交に振り回されては、
義弘公もいい迷惑である。(了)
0075人間七七四年
2012/10/28(日) 17:56:51.64ID:KLaFifEY0076人間七七四年
2012/10/28(日) 18:00:54.00ID:KxF19LFE0077人間七七四年
2012/10/28(日) 18:47:15.13ID:5Qsk18pC0078人間七七四年
2012/10/28(日) 20:33:43.69ID:n6iugp6u大河にするなら義久の方がいいと思う
自分は目立たなくても弟たちを上手く指揮した名将ってことでどっかの総理たちに見習ってほしい
0079人間七七四年
2012/10/28(日) 20:40:27.13ID:k+NV0yan0080人間七七四年
2012/10/28(日) 21:21:46.85ID:hbstFqpK軍記しか材料がなく、わかりにくかった最上家の状況も、彼の証言によってあきらかになる部分もありそうだ。
22の歳に主君大宝寺義氏を失った鮭延秀綱だが、その後最上義光配下に入るのはご存じの方も多いであろう。
しかし、その課程には軍記と実際でかなり差があることがわかる。
「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」
軍記:
義光の優れた武勇と威光によって出羽はほぼ最上家支配下に入ったが、
気位の高い若武者・鮭延秀綱(16)は抵抗した。出羽統一のため、義光は鮭延へ出兵することとした。
秀綱の回想:
大宝寺家に仕えていた鮭延城主秀綱(24)は、二年前主家の滅亡にあうも、大宝寺にかわって
庄内を支配するようになった東禅寺筑前のはからいにより、城を確保できていた。
東禅寺は最上義光に接近し、義光もこれに応じて庄内攻めをしたいと考えた。
しかし最上と庄内のあいだには鮭延がある。
(庄内の)鮭を獲るためには鮭延をまず攻めよということで、義光は庄内攻めの先頭に立つよう依頼。
しかし秀綱は、「庄内あっての鮭延、なのに味方できるか」と拒否。
これを受け、延沢満延によって鮭延攻めが開始されるのであった。
「秀綱の夜襲」
軍記:
鮭延城を包囲した最上勢は、夜間水くみに出る鮭延勢を待ち伏せて攻撃していた。
そこで秀綱は一計を案じ、取水部隊に中に強者をひそませ逆襲、最上の武田兵庫を討ち取ったのである。
義光は秀綱の知勇に感じ入り、これに懲りて持久戦に切り替えた。
秀綱の回想:
秀綱はわずか三百で粘るが、最上側は氏家守棟も投入。
事態の打開のため、守備側は夜襲を思いついた。
秀綱は「よし、俺が偵察してくる」と自らこのとき城外に行くが、帰り道に敵だと勘違いした味方に襲われ、
あやうく同士討ちするところであった。
こんなに苦労したのに、戻ってみると「夜襲はやめましょう」とあっさり却下されてしまうのであった。
(つまり、実際は夜襲そのものがなかったと思われる)
「決着」
軍記:
いよいよ落城間近となったとき、秀綱たち一行は夜陰に乗じて城外に脱出した。
城を落としたあと、物資の尽きた様子を見た最上勢は「これなら力攻めしたら楽勝だったな」と感想をもらす。
しかし義光は「秀綱は見所があるから、敢えて見逃した。いずれ私のもとに来よう…」と言うので周囲はその度量と先見の明に感心した。
この言葉通り、秀綱は落城間際に庄内の大宝寺をたよって落ち延びたが、大宝寺滅亡後最上家に仕えるようになった。
秀綱の回想:
降着した事態は義光の根回しによって新たな局面を迎える。
秀綱が庄内の援軍を頼りに粘っていると考えた義光は、庄内の小野寺家から説得してもらうことにした。
秀綱本人は頑なであったが、小野寺家の説得を受けた家老が秀綱に意見し、ついに降伏して最上家に仕えることとなった。
こうして比較すると時系列が逆転していたり、夜襲をかっこよく描いていたり、義光の度量を強調している。
また、秀綱は武将の意地よりも庄内からの援軍を頼りに抵抗しているとわかり、
理想論だけではない戦国武士の現実的思考がわかるといえよう。
(『鮭延越前守聞書』)
0081人間七七四年
2012/10/29(月) 22:19:31.79ID:N9b6t+TY伊那郡代の武田家臣、秋山虎繁。
彼は信玄の西上作戦の折、別働隊を率いて東美濃に侵攻、遠山夫人おつやの方を誑し込んで岩村城を落とす活躍をしたと言われる。
しかしその一方で、信玄とともに三方原の戦いに参加したという記録もある。
あるぇー、どっちだあ??
しかも前者の場合、当初から同盟者信長に対して断交を宣言するものであり、上洛して天下を取ることを視野に入れた行動であったことを示すが、
後者の場合、あくまで狙いは徳川領の奪取だったということになり、その違いは大きい。
…どうやら答えはどうも後者のようだ。
秋山はずっと山県昌景と行動をともにしており、一緒に信玄と合流したという。
では岩村城はどうなったのだろうか?
実は信玄動くの報を聞き、自ら武田側に寝返ってしまったのが真相のようである。
また城主遠山景任は信玄が動くより以前に病没していたという。
そして岩村城に武田方から援兵として送られたのが秋山…ではなく、下条伊豆守という武将であった。
この後行われた上村合戦というのも裏切った遠山夫人に対する他の遠山一族との戦いだったようだ。
秋山虎繁が美濃に向かい岩村城に入るのは三方原の合戦も終わり、信玄が死ぬ直前になってからのようである。
各書物もこれを裏付けるような記述が見られる。
『甲陽軍鑑』においては「馬場信春が岩村城を落とした」など間違いはあるものの、
三方原の合戦の後「徳川の陣に織田家の平手らがいたのはうちへの敵意の表明だよな?」と言ってここで断交を宣言。
その後馬場が岩村城を落とした後、秋山が入城したとしており、流れ自体は概ね合っている。
『三河物語』にも武田軍は手引きをする者がいたので東美濃へ向かうことにしたとあり、
遠山夫人の裏切りを示唆している。
0082人間七七四年
2012/10/29(月) 22:34:46.34ID:Zq4K3Vw0そりゃ信長は怒り心頭にもなるだろうなぁ。まともに調略された武田崩れの時の木曽よりもアレかも。
しかも、場合によったら織田が武田崩れのような連鎖的造反になっていたんだものなぁ。
0083人間七七四年
2012/10/29(月) 23:14:10.36ID:dokWj/k20084人間七七四年
2012/10/30(火) 00:28:44.16ID:xScnRV2g徳川家の家臣である小栗又一は己の武功を誇り甚だ人を軽蔑し、
多少の誉れのある者なら「米数米数」と言って嘲っていた。
ある時、又一は勝れた武功があってもそれほどの増地がないのに、
久世広宣と坂部広勝が知行を多く賜ったことに腹を立てていた。
そんな時に又一と広宣がばったり出くわした。又一は腹を立てた顔で、
「お前たちは何事をして、多分の御加増を取ったのだ」と言い咎めた。
これに広宣は「この耳たぶが厚いので御加増を取りました」と、自分の耳を
引っ張って見せた。これには流石の又一も白けて笑いながら通り過ぎた。
人々は「広宣の挨拶は奇妙だ」と感じあったという。
――『名将言行録』
0086人間七七四年
2012/10/30(火) 04:08:43.60ID:uQi0NCj2これのせいでなし崩し的に織田と敵対する羽目になり、後の滅亡に繋がるわけで。
もっともあちこちに「俺近いうちに上洛するから」って宣伝しまくってた信玄にも問題があるわけだけども。
0087人間七七四年
2012/10/30(火) 07:00:14.84ID:5zL6fSPaちりぢりになった天童家臣のうち、藤の山大膳ら十六人は、慈恩寺をめざし落ち延びていくこととなる。
一行は溝延の渡しまで来て、船頭に話しかけた。
「おーい、向こうへ渡してくれんかあ」
「山形から落人は渡すなと命令されていますが、見ればあまりにお気の毒なことで。
小さな舟ですが乗せましょう」
この言葉に安堵した一行は我先にと舟へ乗り込む。ほどなく岸につこうとしたところ…
事件は起こった。
なんとあの船頭が舟のふちにあがり揺さぶり、次から次へと落人たちを水へと落としたのである!
落ちたほうはたちまち溺死してしまった。
船頭が義光配下であったのか、ただ単に恩賞にでも目がくらんだのかはわからないが、
地味ではあるが後味の悪い話である。
(『天童落城並仏向寺縁起』)
00881/2
2012/10/30(火) 07:58:19.47ID:Rgn5Goix要害である九戸城に籠る政実に、浅野長政、蒲生氏郷などを中心とする6万の豊臣軍はこれを攻めあぐね、
戦線は膠着した。
そこで南部信直の献策により、浅野長政は九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者として
九戸城に送り、書状を以って九戸政実にこの様に申し入れた
『九戸がこのように籠城し、諸人をあい煩わせているのは意味のない行為です。何故なら、天下を敵に受けて
どれだけ防ぎ続けたとしても、どうして本望を達せられるでしょうか。終には城を攻め落とされて、皆々殺戮され、
一門郎党までも滅亡するでしょう。
ただし九戸は元来天下に対して逆意を持っているわけではありません。であれば速やかに降参し、前非を改め、
京に上がって右の趣を弁明すれば、秀吉公もきっとお赦しになるでしょう。その上私を始めとする諸大名があなたを
弁護するので、死罪、流刑ということには決してなりません。
よしなき謀反人となって一門が滅亡するよりも、戦をやめ降人となってどうか城より出てください。
しかし、もしこれに同心無いのであれば、致し方なく攻め果たすでしょう。』
これに九戸政実は動揺した
「その通り、私は元来天下に対して逆心があるわけではない。弾正殿(長政)さえ納得しているのなら、降伏したものを
死罪や流罪にまですることはないだろう。
それに、私自身の身の上はどうなっても構わない。だが心に懸かるのは11歳になるわが子亀千代のことである。
あの子が生き延び、どこの野の末、山の奥であっても健やかに生活していけるのなら、私はこの首を斬られても
少しも厭わない。」
これに対し政実の舎弟・彦九郎実親は
「殿の仰ることは尤もだと思います。ですが上方の習いとして、弓矢で以って敵を討つ事はせず、ただ謀略ばかりによって
骨折りすること無く人を倒すといいます。去年北条殿も、そのように謀られたために、小田原の城は落ちてしまったのです。
その上、仮に弾正殿が赦したとしても、私達が直接反旗を翻した南部信直が私達を許すでしょうか!?
侍というものは、死すべき場所で死なねば必ず後悔するものです。
今、この城を枕に潔く討ち死にすれば、名は後代に残り滅亡したあとも人々はその薫香を感じてくれるでしょう。
殿はこれをどうお考えか!?」
そう、はばからず発言し、これに九戸家中は、さもありなんと押し黙った。
しかし使者の薩天和尚はこれに
「彦九郎様の仰ることも一理あります。しかし弾正殿ほどの侍が、出家であるこの私に対し偽るとは思えません。
それに降参すれば命を助けると仰った以上、南部信直も自我を押し通して殺害するようなことはしないでしょう。
とにかく天下を敵に請けて、万が一にも遁れられません。一人の覚悟のためだけに万人を殺すというのは、仏神の
咎も深いものです。一旦敵に下り、身命を全うし子孫の後の繁栄を図るのは、これもまた孝行の道ではないでしょうか。
どうか恨みの心を止めて、これをお請けなさるべきです。」
この言葉に九戸政実の遂に、降伏を決めた。
当然、長政の嘘である
九戸城の本丸は蒲生氏郷が接収し、籠城衆はみな二の丸、三の丸に移された。九戸政実は重臣たちとともに
九戸城を出て浅野長政の陣に出頭した。
ところがここで彼らは「降人の作法である」と武器を剥ぎ取られ、囚人のように一ヶ所に監禁された。
「騙された!」
もう遅かった。
00892/2
2012/10/30(火) 08:00:23.27ID:Rgn5Goix政実の舎弟・彦九郎実親は降人に出ず、一人であってもこの城を守って自害しようと思い定めていたが、
浅野長政から様々に『命においては問題ありません。どうか下城してください』としきりに勧められたため、
疑いつつも本丸を降りて二の丸に至ったところで、蒲生氏郷の軍勢が本丸より銃撃し、撃ち殺された。
そして殺戮が始まる。
哀れを極めたのは九戸政実の北の方と子息・亀千代である。
城内に敵が乱入したため途方に暮れ、北の方は亀千代の手を取り落人に紛れ城の外に出た所を、蒲生軍に捕らえられた。
そして氏郷の陣に引き連れられると、氏郷は外池甚五左衛門に命じた。
「首を刎ねよ」
母子を後方の森に引き出し、甚五左衛門が太刀を取り後に回ると、北の方は
「少し待ってください。心静かに最期の十念をしてそれから討たれたいのです。」
そう言うと泣きながら亀千代の側まで近づき
「どうか、未練に見えないようにしなさい。西に向かって手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えていれば、必ず浄土に
迎え取られますよ。」と教えすと、亀千代はおとなしく合掌し、念仏を唱えながら言った。
「早く討たれよ」
そう言われて外池甚五左衛門は彼の後ろに回ったが、誠に容顔美麗な子供が、細い手をあわせて畏まって居るのを見ると
さすがに哀れだと感じ、暫く討つことが出来なかった。
この姿を見た者達、涙を流さぬものはいなかったという。
北の方は言った
「私から斬られるのが順というものでしょう。ですが、幼い者が母を討たれるのを見れば、きっと驚いてしまうでしょう。
先ず、その子を早く斬ってください。」
この言葉に外池は太刀を振るうと、亀千代の頸は前に落ちた。それを見た北の方は守り刀を取り出し自害した。
外池は母子2つの首を取って氏郷のお目に懸け、氏郷から弔うようにと、菩提寺である長光寺に送られた。
九戸城の二の丸に押し込められた九戸一族郎党は、四方より火をかけられ、猛火の中逃げでてくる者達は
弓・鉄砲・槍・長刀にて討ち取られ、刃を恐れ逃げる者達は、焔に巻かれ焼け死んだ。
老若男女の泣き叫ぶ声は天に響き、目も当てられぬ有様であった。
数代にわたって繁栄した九戸も、忽ちに一時の灰塵となって失せたのである。
(天正南部軍記)
九戸政実の乱、処分の?末である。
0090人間七七四年
2012/10/30(火) 10:09:18.07ID:11RoK+SS0091人間七七四年
2012/10/30(火) 10:31:23.51ID:WmDBGrPA0092人間七七四年
2012/10/30(火) 10:42:16.15ID:UPwYGmX+秋月が赦されたのが例外中の例外
楢柴パワーのおかげ
0093人間七七四年
2012/10/30(火) 11:22:11.60ID:kiwqNgSz0094人間七七四年
2012/10/30(火) 13:54:35.38ID:1CCIsB620095人間七七四年
2012/10/30(火) 13:58:45.76ID:rA8w7bE10096人間七七四年
2012/10/30(火) 21:10:12.13ID:1Mij6FVA歳の差婚なら
家康(1543年生)の最後の子を産んだ英勝院(1578年生)は35歳差。
子を産んでない側室で一番年が離れてるのは、英勝院の侍女上がりの養儼院(1597年生)で54歳差。
親子の差どころか孫と同年代の側室www
年齢的に側室になったのは、早くても数え歳13(1609年)としても家康が満66歳の時。
大坂冬の陣(家康、満71歳)に養儼院を連れてきてるwwから、家康はほぼ生涯現役だったんだろうな
0097人間七七四年
2012/10/31(水) 06:45:21.74ID:PdAsCncF道南十二館のうち大館の主で松前守護でもあった安東恒季は行状が悪く、訴えられて宗家檜山安東忠季の命による蠣崎光広の攻撃によって滅ぼされた。
その後は小館領主の相原季胤が松前守護の代理を務めることになった。
その頃海難事故が多発し、季胤は頭を悩ませていた。
ある時老占い師に「これは矢越岬の海神の怒りである、人身御供を捧げて怒りを鎮めるべし。」と言われた。
そんな怪しい神信じられぬと季胤は思ったが、恒季時代からの家臣である村上政儀に押し切られて実行することにしてしまう。
しかしそうは言っても誰を生贄にするか迷った。
領民から選ぶのも家臣の一族から選ぶのも気が引ける…。
しかし、そこで政儀は進言する。
「アイヌ人を人身御供にしちゃえばいいじゃん。」
こうしてアイヌ人の娘を20人ばかりさらってきて海に沈めてしまった。
これにアイヌ達は激怒。
大軍を率いて大館小館を囲んだ。
村上政儀は討死し、ついに落城。
季胤は二人の娘を連れて大沼へ逃れるが、逃げ切ること能わずと悟り、娘とともに入水して果てる。
この時乗っていた愛馬の鞍をとき、山へ逃れるよう言い聞かせた。
その馬は狂ったように啼き叫んだかと思うと、瞬く間に山へ駆け登った。
以来その山を駒ヶ岳と呼ぶようになった。また季胤が外した鞍を掛けた岩を鞍掛岩と呼ぶようになった。
その後も季胤の馬は生きていて、入水した7月3日になると馬の嘶きが聞こえるという。
0098人間七七四年
2012/10/31(水) 07:18:04.40ID:89foey0g0099人間七七四年
2012/10/31(水) 09:02:24.10ID:Hy/vmaIWそして十月、かつての天童家臣である延沢勢はじめ敵が押し寄せる中、いよいよ天童城もこれまでかと思われた。
そのとき家老の成生伯耆守の家臣たちが城に火を掛けた。
伯耆守は急ぎ城に入ると、出羽奥州探題の系図を持ち出したのであった。
天童城下は炎に包まれ、怒り狂った天童勢は義光本陣松木清水へ攻め込む。
義光はすぐに畳石まで陣を退いたため、深入りした天童勢は次々と志村光安らに討ち果たされた。
失意の天童城主頼久はわずかな供とともに奥州へ落ち延び、天童衆たちもまたあるいは討たれ、
またほうぼうの寺に逃げ込み、そこで僧たちに落城の経緯を語り書き記すよう頼んだという。
のちに頼久擁立と天童家復活の試みもあったが、最上の残党征伐によってこの望みも潰えることとなる。
さて燃えさかる城から系図を持ち出した家老の成生伯耆守は、そのまま義光のもとへとはせ参じた。
義光は系図を手に入れ大層喜んだ。伯耆はこの功に応じて天童城を得られると思っていたが…
「他の者ならいざしらず、おまえは天童代々の家老であるにも関わらず心変わりした。いかがなものか。
城はやると約束はしたが、焼け跡は愛宕堂にしようと思う。おまえは命は助けてやるからどこへなりとでもゆけ」
と、足軽を護衛につけて放逐してしまった。
同じく寝返った蔵増安房守も、天童と縁が深いため義光は軟禁しようと考えたが、
約束した小国城をその子に与え、身柄を子に管理させることとした。
(のだが、のちに許されたのか安房守は最上家臣になっている)
これは寝返った家老でも切腹させないいい話ととるべきか、はたまた約束を裏切った悪い話とみるか…。
(『天童落城並仏向寺縁起』)
0100人間七七四年
2012/10/31(水) 09:34:28.47ID:sn72QCxX0101人間七七四年
2012/10/31(水) 09:51:49.35ID:+TErNPel0102人間七七四年
2012/10/31(水) 09:59:23.90ID:wEJk1wDV0103人間七七四年
2012/10/31(水) 11:31:09.25ID:ejv01xH/偽者であっても「落城間近の城より家老によって持ち出された品」という
由来があるから問題ないんだろう
0104人間七七四年
2012/10/31(水) 17:26:27.20ID:xZ03Tsiv江戸の米蔵に納められる米の量があまりに多いので欠米が出来るようになった。
また諸国からの運搬も費用が莫大なので、勘定頭は徳川家康に「米蔵の数を減らせば
有益になることでしょう」と申し出た。
しかし家康は甚だ怒って「蔵の数が多ければ、欠米が多くて益にならないことくらい
存じておる。だがよく考えろ。もし事変があった時、国々の米は当地へ運搬できるのか。
もしくは洪水や旱魃の時ならば、米価は高騰して当地に寄り集まっている人民は
皆飢えに苦しむことになるぞ。
そのような時の為を思えばこそ、無用と知りながらも常々多く貯蔵しているのだ。
並々の勘定役ならばともかく、頭ともなって天下の会計をも掌る者が、そのように
浅はかな心得では務まらぬぞ!」といたく戒めたという。
――『徳川実紀(駿河土産)』
0107人間七七四年
2012/10/31(水) 20:27:32.70ID:s/DXDplQこの日、大雨洪水となり船は海上三里まで漕ぎ戻され、さらに頼宣の乗る船に雷が落ちた!
と、頼宣の御座の近くに火の玉が転がってきた。コレを見た頼宣はすぐさま毛氈を取ってこれに打ちかけ
「それ!手取りにせよ!」
と下知する。近習の者たちも常の男ではない者ばかりであったので「心得た!」と、この火の玉を抱え取ろうとするが、
しかし火の玉はここかしこと動きまわり、ついに取り逃がした。
ちなみに、船の下の間に詰め居た水夫たち5,6人はその時、雷の直撃により全員炭となり、骨も砕けて死んでいたそうである。
(武野燭談)
徳川頼宣の、豪胆なんだか呑気なんだかよくわからないお話。
0108人間七七四年
2012/10/31(水) 20:50:58.34ID:qvsXqcah船もただじゃ済まないだろ
0109人間七七四年
2012/10/31(水) 22:01:07.59ID:XPWxlZzvひこにゃんよりも具体的だ
0110人間七七四年
2012/10/31(水) 22:58:07.71ID:nnQL2ncF実際は嵐の中で立ってるのも難しい状態だったんだろうなー
0111人間七七四年
2012/11/01(木) 00:23:15.30ID:7nBBXTNU0112人間七七四年
2012/11/01(木) 10:27:19.84ID:Ayjtu7cO0113人間七七四年
2012/11/01(木) 13:49:40.28ID:ie5XhP570114人間七七四年
2012/11/01(木) 15:07:29.79ID:G6GR3wVv0115人間七七四年
2012/11/01(木) 15:25:15.31ID:V46KQ4t90116人間七七四年
2012/11/01(木) 16:41:33.45ID:97C/7Ksl0117人間七七四年
2012/11/01(木) 18:48:41.51ID:tLEBvDln各方面から招かれれば気安く受けて出向いては、
なんやかんやと熱心に話をしているそうだ。
ここ数年のあの方を見ていても、
世のため人のためになることを考えて暮らしているのがよくわかる。
このうえもない奉公好きとしか言い様がない。
だから、ひときわ目立っていたしお役にも立っていた。
しかし人間というものは耄碌するときには、
自分の得意であったことが剥き出しに出てくるもの。
これは奉公耄碌だろう。
たとえ人のためだとしてもこの耄碌は危険である。
老人はあまり世間に出歩かない方が重みもあり、
そのほうが言行も整っているように見えると思う 【葉隠】
0118人間七七四年
2012/11/01(木) 19:44:59.17ID:pFOZ5H7e0119人間七七四年
2012/11/01(木) 21:36:48.36ID:rtf0HjmB0120人間七七四年
2012/11/01(木) 23:38:03.08ID:x6KukIvM0121人間七七四年
2012/11/02(金) 01:06:41.38ID:gqjC5NTI本当にサヨ野郎は最低の差別ファシストばかりだな。
0122人間七七四年
2012/11/02(金) 03:32:33.10ID:94eY9sen利休のそうした頑なな性癖が秀吉との衝突を招き、切腹の一因になったともいわれている。
その利休の弟子にも又頑固で強情な人が居た。
彼の父は優れた武人であると同時に、優れた教養人でもあった。
その薫陶を受けた彼は、武の道だけではない、歌、画、舞、そして茶、
全てをこなす父にも負けない人物に成長したのだが、
「武士たるもの、常に出陣の覚悟をしてしかるべきである。
茶の湯はその余暇に楽しむ物だ。」と、あくまで武を第一と考えていた様である。
利休は茶の湯においては、身分を差を越えた交わりを求め、
刀掛を創り、武士には茶室での武装を固く禁じた。
しかし彼はこれを決して受け入れず、常に脇差を差したまま出入りした。
これには利休もほとほと閉口し、遂には特例として黙認したという。
利休門三人衆や利休七哲に数えられる細川三斎の逸話である。
0123人間七七四年
2012/11/02(金) 03:35:55.24ID:94eY9sen事実なのか、特例をいつまで続けていたか、等気になる話です。
0124人間七七四年
2012/11/02(金) 04:35:16.52ID:pwxqD/m1有名すぎるせいか知らないけどまとめになかったので。
ある時曾呂利新左衛門は秀吉から褒美をもらうことになった。
何が良いかと問われると「米を1粒欲しい。」と言う。
秀吉は「たったそれだけ?」と思ったが、「ただし」と続ける。
「1日目は1粒、2日目は2粒、3日目は4粒、4日目は8粒…と倍々にしていってください。」と言う。
「それでいつまで続ければいいんだ?」と聞くと「1か月で結構です。」と答える。
これに秀吉は「なんだ大したことないな。構わん、くれてやろう。」と認めた。
しかし実際に褒美をあげてみると、20日目くらいで秀吉は音を上げた。
これは数学で等比数列の和のことで、
新左衛門に与えられる米の数は2^x - 1 (xは日数)の計算式で表される。
20日目は2^20 - 1 = 1,048,575と100万粒を超える。
1俵が250万粒ほどなので、あとは米俵を倍々で与えることになり、こりゃたまらんということになったという。
昔数学の先生から聞いた話。
他に81日とか100畳に順番に置いていくパターンとかあり、そっちはもっととんでもない数になる。計算してみれ。
0125人間七七四年
2012/11/02(金) 05:32:15.23ID:vuuYzn3g0126人間七七四年
2012/11/02(金) 05:43:24.79ID:nXPt3N/K宇喜多直家「茶の席ってリラックスするためのものだろ」
0127人間七七四年
2012/11/02(金) 07:14:59.45ID:5+mcFQY30128人間七七四年
2012/11/02(金) 08:32:19.26ID:2zpl/52J0129人間七七四年
2012/11/02(金) 12:30:24.12ID:sIApixx3わかってたとしたら、嫌がらせとしか思えない
>>122
なんだかんだ言って許されていたんだろうな
0130人間七七四年
2012/11/02(金) 12:34:12.72ID:sIApixx3元都知事のことを言ってるんだとしたら、かわいそう
>>107
こんなことありえるのか
>>104
災害に備えることは政治家として必要な資質ですね
0132人間七七四年
2012/11/02(金) 21:28:40.68ID:CR3T1SYv最初は一粒、次はその倍っていうのは、インドの説話で将棋を王に教えた人が
その御礼に将棋のマスに麦を…っていうのがあるぐらいに昔からある話。
なので、わかっていたらもなにも…
0133人間七七四年
2012/11/02(金) 22:05:28.74ID:pwxqD/m1数字苦手な奴多すぎの悪い話だ。
0134人間七七四年
2012/11/02(金) 22:16:11.32ID:Ez04kKUklog(2^81)=81log2≒24
log(2500000)=7-0.6=6.4
よって10^(24-6.4)=17log4で4×10^17俵
100だったら
log(2^100)=30
10^(30-6.4)=4×10^23俵
すぐに出るしいちいち書くのも馬鹿らしい
0135人間七七四年
2012/11/02(金) 22:17:48.89ID:Ez04kKUk上の方は81だから(80で計算してしまった)
8×10^17俵
一応正確な計算では9.67×10^17俵と
5.07×10^23俵だからlog2=0.3で充分だな
0136人間七七四年
2012/11/02(金) 22:49:47.64ID:f/GrUYnw0138人間七七四年
2012/11/03(土) 00:20:38.37ID:+m4pujE20139人間七七四年
2012/11/03(土) 00:25:12.98ID:Xy+T4uLQ計算してもここにわざわざ書き込むとは限らんだろ
0140人間七七四年
2012/11/03(土) 00:44:04.95ID:0bGScpr4石田三成の勤勉・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-419.html
コレについて評論してたので投稿してみる
本多正信がある時、家司の忠義ということについて、息子正純にこんな事を言った
「忠に似た不忠、というものがある。
例えば石田三成という人について、彼は大風雨のあった夜に、御城廻りの破損のことを一々見て、
明けた卯の刻(午前5時頃)には秀吉公に報告を提出した。
普請奉行から正規の被災報告が上がってきたのは、大きく遅れて巳の刻(午前9時頃)であった。
これは普請奉行の面目を完全に潰し、また反発を生む。
三成のやったことは一見良いことに見える、しかしこういった類の行為は、実際にはその家のため、また
家中の組織のためにも決して良い行いではないのだ。」
(武野燭談)
家司として忠義を成そうと思えば、家全体に与える影響を考えろ、という本多正信のお話
0141人間七七四年
2012/11/03(土) 01:00:42.89ID:UuVLxj1n0142人間七七四年
2012/11/03(土) 01:08:01.63ID:Xy+T4uLQhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3139.html
それはそうと、>>141の元ネタのこの話だが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4162.html
ちょっと前に出てきた話でも権現様は同じ事を言ってるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6944.html
0143人間七七四年
2012/11/03(土) 08:05:44.19ID:UzjnuD4y「あいつが馬鹿みたいに働くから、まるで俺たちが働いてないように見えるじゃないか!」
と不良社員が糞真面目社員をイジメだすのがよくあるし、今も昔も変わらんなぁ
0145人間七七四年
2012/11/03(土) 08:49:11.24ID:l6rLnvt2奉行の報告も遅すぎるわけでもないし、
調査内容に手落ちがあった場合、そこだけを報告すればよかった
0146人間七七四年
2012/11/03(土) 09:05:55.53ID:XarWoEfn気をつけねばならん
0147人間七七四年
2012/11/03(土) 11:02:06.15ID:nrl01yBv下の名前だけだとなんだかややこしい
0149人間七七四年
2012/11/03(土) 13:40:18.44ID:rNEhluPKなりたく無い、ということ。
逸話を読んでいるだけなら面白いで済むが、近くに居たらブン殴っているレベル
0150人間七七四年
2012/11/03(土) 13:50:16.30ID:NFcVNCETそんなあなたに人国記
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg511.html
0151人間七七四年
2012/11/03(土) 14:28:45.11ID:wOSt/pQ5武野燭談で佐渡殿が悪い例として引き合いに出したのが元ネタだったのか。勉強になったわ。
0152人間七七四年
2012/11/03(土) 16:26:01.96ID:XzFbIiT5140で出て来る普請奉行は別に不良社員じゃないだろ。
役に対して過不足ない働きというか。
逆にお前は無能なくせに、やたら自己評価だけは高そうだなw
「俺の働きがなぜ評価されないんだ!不当評価だ!!」とか騒ぎそう
0153人間七七四年
2012/11/03(土) 16:46:35.98ID:bWgQyRhL0154人間七七四年
2012/11/03(土) 17:09:20.00ID:y5lH+/EDという言葉がぴったり当てはまる。
そういう意味では辻正信や牟田口に近いという評価もあながち間違いではない。
組織においてこういう者は廃棄すべきなんだが
専横を許したことが秀吉の限界であり、豊臣政権の崩壊は運命づけられていたのだ。
0155人間七七四年
2012/11/03(土) 17:57:03.29ID:l9wklTSQ助右衛門の娘はそれを聴きに出掛け、
そこから若党と駆け落ちした。
いくら探しても、行方がまるでわからなかった。
しばらくしてから肥後藩の家老に妾奉公してるらしいとわかり、
当家より何度か交渉に行ったがなかなか引き渡さない。
そこで、成富兵庫茂安を交渉人として、
加藤清正殿にお目にかかり、
兵庫「助右衛門の娘を渡してください」
清正「鍋島でその娘がなにをしたのか知らぬが、
当家を頼って逃げ込んで来た者だ。
武士として渡すわけにゆかぬ」
といっこうに承知なさらなかった。
兵庫はそこでかたちを改め、
兵庫「朝鮮では当家から御助勢をいたしたことがありました。
そのとき主計頭殿は、礼としてなにかあるときはなんでも協力しようと仰せになられました。
今がそのとき、助右衛門の娘をお渡しください。
それとも朝鮮での一言は無になさいますか」
と詰めよった。
清正「そこまで言われてはやむをえぬ。
身柄は渡すが、命だけは助けてやってくれ」
と折れられたので、仰せを伝えることを約束し、娘を受け取り帰った。
娘は帰国のあと自殺を命じられ、
助右衛門とその子息織部殿は家内不行き届きとして切腹ときまった。(1/2)
0156人間七七四年
2012/11/03(土) 18:22:51.89ID:l9wklTSQ助右衛門と織部は碁を打ちながら、
助右衛門「ごもっともな処断。承知いたします。
とりあえず碁の勝負がつくまで、
しばらくご観戦していてください」
と言って顔色ひとつ変えず碁を楽しみ打ち終わった。
そこへ騒ぎを聞きつけた助右衛門の家来十八人が、
「われらも死出の旅へお供いたします」
と駆けつけた。
使者は、その申し出を、
「それはいかがなものか」
とためらったが、助右衛門殿の子息織部殿は、
使者にかまわずさっと庭におり立ち、
織部「覚悟を決めた者どもでございます。
わたしが介錯いたします。」
と言うや、たちまち十八人の首を斬り落とし(超スゴ腕!)、
最後は父子ともども見事な切腹をとげてみせた。
邸内を流れていた川は20人の血で紅に染まったので、
それ以降、人々は血川と呼んだとのことだ。
助右衛門殿の末子二人は乳母たちが抱いて逃げた。
蒲原善右衛門と、蓮池の鍋島又兵衛がそのときの二人である。
織部殿の息子は後に鍋島源右衛門と名乗った。
この事件について直茂公は、
「気のきいた者が一人もいないから惨劇となる」
と、悲しまれたとのことだ。
それは、助右衛門の家をいったん預かりたいと申し出る者がなかったからだという【葉隠】
0157人間七七四年
2012/11/03(土) 19:20:57.81ID:bFvUsayrんーどこかで見た気がすると思ったら既出だね
鍋島助右衛門の娘の駆け落ち
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3175.html
0158人間七七四年
2012/11/03(土) 19:39:12.16ID:l9wklTSQあらら、やってしまいましたね、すみません
お詫びとなるかわかりませんが少し付け足すと、
この茂治助右衛門という人は、
逸話中に出てくる朝鮮での加藤清正隊への助太刀の際に、
兄茂正と獅子奮迅の活躍をして、
清正公に大変感謝された武士。
で、この話には異説もあって、
駆け落ちではなく、助太刀に感謝した清正公が、
茂治の娘を肥後藩の家老の嫁として迎える約束を朝鮮の地で茂治と交わし、
そして帰国後、鍋島が代替りして勝茂公が他国との縁組をご法度としたから大変。
清正公と茂治は武士の約束として婚姻を進めて、
そのイザコザからあとは同じような展開に・・・
まあどちらにせよ、いい話ではないけど
0159人間七七四年
2012/11/03(土) 19:47:16.66ID:drdtR/QP0160人間七七四年
2012/11/03(土) 19:57:06.70ID:6utdV7RL直接秀吉に報告するんじゃなくて
普請奉行に報告してあげれば丸く収まるのにね
能力があっても気遣いとか人間力が足りないとイカンよってことなんだろうね
0161人間七七四年
2012/11/03(土) 20:06:58.23ID:l9wklTSQ登場人物全員、国の法も武士の掟も大事にする好人物ばかりなのに、
結果は散々な本当に悪い話だな・・・・
直茂公の言うとおり「気がきかないから」につきるかも
ルールと人情が対立したときの問題はいつも難しい
0162人間七七四年
2012/11/03(土) 20:21:39.94ID:0bGScpr4幕府重臣である酒井忠世と土井利勝が江戸城より退出するときに、御台所の入り口で、
そこで働く下男たちが、料理で切り残した魚鳥の肉を紙に包み、蔦で結ってこれを手に
出てくる所と出くわした。
切れ端とはいえ、幕府の予算で購入した食材の一部を自分たちのために盗んでいるのである。
下男たちは老中たちの姿に驚き慌て、包を袖や懐に隠しながら逃げ惑った。
これに、酒井忠世と土井利勝の後に居た老臣が見咎めて言った
「公の私(公務の中に多少の私情の入ること)とは言いながら、憎き奴原の仕業かな!」
ところが忠世と利勝はこれを聞くと、口をそろえて
「そうではありません。江戸が未だ経済的には豊かではなく、それ故に彼らも少ない扶持で
召し使われています。そんな彼らに、ああいった恩恵でも無ければ、どうして妻子を養えるでしょうか?
それに、彼らがあれを自分達の当然の得分だと思っていたら、あんなふうに隠しませんよ。
これはね、今は未だ私たちの目指す仁政が行き届いていないという事なのです。
だからそんなに咎めちゃいけません。」
そう言った。
そして忠世と利勝は
「本当なら、魚鳥の切れ端くらい、隠さずに持たせてやりたいものです。」
とも言った。
その程度の事は問題にならないような豊かな世にしたい、ということであろう
(武野燭談)
酒井忠世と土井利勝、切れ端の包に政治の至らなさを知る。というお話
0163人間七七四年
2012/11/03(土) 21:09:56.53ID:sA2vHhfG佐渡守「それはめでたいことです。殿が天下一の大名となり、方々から貢物が届くようになったので、それを
盗む者も出たのです。」
いい方にも悪い方にも解釈できるんだな
0164人間七七四年
2012/11/03(土) 22:09:01.01ID:+0d2IRI4別にそういうわけでもないんだな
0165人間七七四年
2012/11/03(土) 22:09:22.86ID:/Xo4EPr50166人間七七四年
2012/11/03(土) 22:13:55.07ID:9vM6Q9bY0167人間七七四年
2012/11/03(土) 22:17:16.31ID:+0d2IRI4ここ悪い話スレだったw
0168人間七七四年
2012/11/04(日) 02:25:07.95ID:fYEdNMoY実際あったことだけど、無能な馬鹿社長に対しタダ働きする馬鹿がいた。
馬鹿社長はタダ働きしてくれるのが当然と思って他の社員にも平然と給与不払いをするようになった。
結局裁判起こして未払い分払わせてやったけどね。
タダ働きが美徳だとか思ってるんならとんでもない迷惑だよ。
0169人間七七四年
2012/11/04(日) 04:43:48.58ID:q608iAiU別にアンタの身の上話なんか誰も求めてないよ
0170人間七七四年
2012/11/04(日) 05:30:09.71ID:Fqbh/aF1なんつーかなんでこんな奴が英傑達に絡んでるの?的な。
なんか三成の話は感心させられる事も無ければ、破天荒ぶりでネタに出来るわけでもない。
ただただ、職場によくいるダメなタイプ思い出していらつかされるだけだ。
0171人間七七四年
2012/11/04(日) 08:19:03.23ID:T43Zh86V0172人間七七四年
2012/11/04(日) 08:24:01.45ID:Hv3r7jEj0173人間七七四年
2012/11/04(日) 08:35:43.51ID:HTOordGe0174人間七七四年
2012/11/04(日) 09:11:11.98ID:jovbKjM/0175人間七七四年
2012/11/04(日) 10:25:26.10ID:icRhLJ2S0177人間七七四年
2012/11/04(日) 10:38:48.38ID:F2Lf4tL/成立が18世紀はじめなら、それまでに創作された話である可能性も否定できないし
0178人間七七四年
2012/11/04(日) 11:58:38.82ID:T43Zh86V小説や大河に「史実と違うじゃん、作者は嘘が上手いなw」と突っ込む幼稚と一緒
0179人間七七四年
2012/11/04(日) 13:59:39.15ID:/Y7BiMA7無能な働き者じゃなくて有能な働き者の例だからな。
つか、無能が三成位の出自であれだけの状況を作れる訳無いだろw
0180人間七七四年
2012/11/04(日) 14:00:29.84ID:q+SR5cntその話も常山記談が出典元(そもそも二人は親友ってほどでも無かったし)だからねえ。
つーかそこまで人格がアレな人に大名との取次役任せるとか秀吉何考えてんねんって話だしなあ。
0181人間七七四年
2012/11/04(日) 14:21:27.98ID:YQilf/0r0182人間七七四年
2012/11/04(日) 14:29:23.71ID:H6dQnCFz確か書状で書いていたな。
0183人間七七四年
2012/11/04(日) 14:37:58.95ID:7S8hb/cQ堅物すぎたのが不運を招いたのか
0184人間七七四年
2012/11/04(日) 14:47:37.44ID:cgic6LnU0185人間七七四年
2012/11/04(日) 14:58:27.17ID:q+SR5cnt「かの人大いに気をつかふ」は元のTERUの書状読むと文脈的に
「大事な取引先の人間だから気を遣わなくてはいけない」って感じの意味だと思う。
0186人間七七四年
2012/11/04(日) 15:56:12.65ID:Tpt5+bpqで不和が生じるようなもんじゃね?実際三成は槍働きより兵站や検地の方
が優れてると思うし
0188人間七七四年
2012/11/04(日) 16:45:10.84ID:PIeEsjwDまあ本当にこんな佞臣じゃ誰も味方しないし関ヶ原の西軍実質総大将的な見方をされることすらないだろうしな
0190人間七七四年
2012/11/04(日) 16:49:36.93ID:icm06Elw逸話でどうこういうのも野暮だが、正しい意味で有能ならば、
担当奉行と軋轢を残すような処置はせんだろ。
ただの被害報告で緊急性はカケラも無いんだから。
0191人間七七四年
2012/11/04(日) 17:16:00.39ID:MHKIro6Fだから地方の不満は爆発寸前というか、そこここで爆発しちゃったし
0192人間七七四年
2012/11/04(日) 19:23:31.29ID:q+SR5cnt生じた軋轢みたいなもんで、三成のやり方云々は関係ないでしょ。
そもそも全ての国を三成が担当したわけでもないし。
>>189
賤ヶ岳以外何かあったっけ?>軍功
幸州山城攻めで負傷したりしてるし前線に立つことはあったんだろうけど。
0193人間七七四年
2012/11/04(日) 19:45:35.35ID:Fqbh/aF10194人間七七四年
2012/11/04(日) 19:58:03.69ID:H6dQnCFzとにかく完遂したのだから、物凄い実行力があったのは解る。
今で言えば一度始めたプロジェクトはどんな手を使ってもある程度の形にするような、
「仕事の出来る男」ってタイプだったのだろう。
0195人間七七四年
2012/11/04(日) 20:31:33.87ID:q608iAiU堺奉行として九州征伐での兵站を担当して成功、博多奉行で博多を復興、
小田原征伐で北部方面を担当、検地奉行として各地を検地
朝鮮での兵站や講和交渉など、佐竹島津などの取次、秀次事件の対処、
京都奉行、豊臣家蔵入地の管理
人間性は置いといて、この人の仕事面で優秀ではないと言い切るのは少し苦しいのでは
0196人間七七四年
2012/11/04(日) 22:11:19.25ID:T43Zh86V0197人間七七四年
2012/11/04(日) 22:29:04.20ID:vPe2MraC確実な成果が期待できる優秀な人間一人に依頼するだろな
その他大勢である百人からは憎悪されるかもしれんが
本来それは上司である秀吉がフォローアップすべきことだし
0198人間七七四年
2012/11/04(日) 23:30:14.57ID:C8Kf5hoS0199人間七七四年
2012/11/05(月) 00:36:11.48ID:8/D3M1Pg人が育たなくてそいつがいなくなるとその部署は荒地と化すそうだが、
三成もそんな成果主義の権化のような感じがする。
0200人間七七四年
2012/11/05(月) 07:18:15.86ID:dh2eVboB政権を取ったら土井利勝らの方が颯爽とした政務を執るという感じだな
0201人間七七四年
2012/11/05(月) 07:21:18.54ID:OUwdw2fR0202人間七七四年
2012/11/05(月) 07:27:40.30ID:dh2eVboB豊臣政権での三成の政務と徳川政権での土井利勝とかの政務を比べているわけで
0203人間七七四年
2012/11/05(月) 07:58:12.00ID:mek9p20d考えてみれば可哀想な人だ
0204人間七七四年
2012/11/05(月) 08:08:39.91ID:cKtsR/+q0206人間七七四年
2012/11/05(月) 09:35:38.79ID:Vc8tZybRそういうのが信用されるくらいには、有能だったって証でもある。
まあそれと同じくらい、人格的には評価されてなかったって証でもあるか
0207人間七七四年
2012/11/05(月) 11:43:30.46ID:QSo1zp0c0208人間七七四年
2012/11/05(月) 13:17:10.14ID:IlbtytCF0209人間七七四年
2012/11/05(月) 13:21:56.92ID:nfNVaC1Qすっかり忘れてた
0210人間七七四年
2012/11/05(月) 13:28:40.82ID:iL59pcZo0211人間七七四年
2012/11/05(月) 13:32:25.75ID:TMLjoXGt0212人間七七四年
2012/11/05(月) 13:46:51.81ID:UyUMibJ40213人間七七四年
2012/11/05(月) 17:01:19.41ID:mek9p20d0214人間七七四年
2012/11/05(月) 17:27:50.07ID:QSo1zp0c説教臭いというかなんというか。
それに比べてアメリカ人の作ったラストサムライは楽しめたな
0216人間七七四年
2012/11/05(月) 17:46:35.60ID:nfNVaC1Q0217人間七七四年
2012/11/05(月) 17:51:37.09ID:aGZWU93Iまあ良くできたアメリカ映画だよね。
0218人間七七四年
2012/11/05(月) 18:07:19.19ID:Rr+3rV0e0219人間七七四年
2012/11/05(月) 18:16:39.03ID:QSo1zp0cすまん、クレしんの戦国もの観てない
こないだレンタルした四十七士の生き残りの映画は期待しただけにガッカリしてた
知らないだけで面白いのもあるんだろう
0220人間七七四年
2012/11/05(月) 19:33:52.32ID:gMarZj1vしかし負けてしまった。
この時の町奉行は、あの本多作左衛門重次であった。
百姓たちは敗訴に納得せず、勝訴した側への作左衛門の依怙贔屓であるとして方々で悪口を吐き、
あまつさえ落書までしてこの裁判を誹謗した。
本多作左衛門はこれを聞いて、再びその裁判における公事人(裁判関係者)を呼び出し、
再吟味を行ったが、やはり同じ判決となった。
そこで作左衛門、今度は非公事を言い立てた百姓たちを、全員斬って捨てた。
それから暫くして酒井河内守重忠が、これとほぼ同じような訴訟の奉行となった。
非公事を言い立て敗訴した百姓たちが散々悪口を言っている、とのことを重忠は聞いて、
再び裁判関係者を全員呼び出した。
そこで忠重は全員に対して、その判決に至った理由を順を追って説明し、非公事を言い立てた
者達にも、その理を言い聞かせ、得心するように理由を説明した上で、悪口をした百姓も
そのままにさし赦した。
この両裁判のことを聞いた徳川家康は、本多、酒井を呼び出し両人がどうしてそのような
処分をしたのか理由を聞いた。
本多作左衛門は
「上を犯すものをそのまま差し置いていては、秩序の締りが無くなり悪事が募るものです。
ですので毅然としてそう申し付けました。」
と答えた。
酒井河内守重忠は
「この様な裁判で人を殺してしまえば、以後奉行人は必ず事あるごとに威を振るい、
驕りが出てしまうものです。」
と答えた。
まさしく両人取り取りの政道である。
(武野燭談)
0221人間七七四年
2012/11/05(月) 20:07:50.02ID:4R9zL7AU本多作左と酒井重忠のどちらが正しということはないんだろうな。
それにしても百姓が好きな事を言って、一度はその言い分を聞いてもらえるって社会は、なかなか良い社会だな。
0222人間七七四年
2012/11/05(月) 20:29:46.18ID:PiXUy448そこのフォローは秀長がやってたんじゃないのかなー、と。豊臣政権空中分解したのは結局のところ秀長が死んだ影響大なんじゃないかな?
0223人間七七四年
2012/11/05(月) 20:44:54.30ID:dh2eVboB0224人間七七四年
2012/11/05(月) 21:51:56.71ID:mek9p20d0225人間七七四年
2012/11/05(月) 22:03:40.58ID:sIbB3lqJイメージとしては武田信繁なんかもそんな感じ
ただ、秀長と信繁に関しては早めに?死んだからこそ余計に評価されてる気がする
両方共一人の人格者がいたらどうのこうのっていうような甘い状況じゃない気がするし
>>220
ものすごくざっくり見れば作左と兼続やってること一緒なんだな
やっぱそっちのタイプの人間だな
0226人間七七四年
2012/11/06(火) 02:54:25.87ID:PM8FwmD6老年期は大陸の独裁皇帝並みの自己肥大になったとしたら
同じ母集団から出て同じように階層が上昇したにもかかわらず
人格破綻を起こさなかった秀長や寧々って凄くね?
0227人間七七四年
2012/11/06(火) 04:40:04.06ID:TerQt6Ow0228人間七七四年
2012/11/06(火) 05:43:02.82ID:VmFqHNiw0229人間七七四年
2012/11/06(火) 05:46:33.77ID:OxuERoyM0230人間七七四年
2012/11/06(火) 09:21:30.98ID:ZT4NF8NB優秀な調停役だったと勝手にキャラ付けされてる様に見える
0231人間七七四年
2012/11/06(火) 12:31:05.30ID:Yi4Igwypそうか?俺はむしろ過小評価されてると感じているが。
実際秀長が生きてる時は秀吉もラスボス化しなかったわけだし、三成ら近江閥と浅野長政ら尾張閥との対立も表面化しなかったでしょう?
0233人間七七四年
2012/11/06(火) 15:10:14.44ID:NbK2TydX歴史に興味無い人には過小評価され
歴史好きの中には過大評価する奴もいるってだけ
俺は秀吉の偉業は秀長、クロカン、秀吉で3等分できると思うけど
0234人間七七四年
2012/11/06(火) 15:50:03.96ID:ZT4NF8NB秀吉どころか秀長とも比べられない格下だろ
0235人間七七四年
2012/11/06(火) 15:58:08.52ID:I+BY/ICP戦国の英雄や朝廷も一目置くキーマンに化けるのだ。
ついでに奥さんも超重要人物化して
一武家の夫婦愛や家族愛が全国の行く末を左右する物語のいっちょ上がり。
0236人間七七四年
2012/11/06(火) 15:59:07.53ID:3lzC74sQこの者たちが浅草へ連れ立って遊びに出かけた。
そこで小森栄順と大坪甚右衛門の二人が浅草観音ちかくの遊山茶屋で、
茶屋の男たちとまず口論になり、最後はさんざんに打ちのめされた。
このことがすぐに浅草界隈で噂となったので六右衛門は、
「仕返しをしよう」
と言い、与一右衛門と甚兵衛もそれに同調した。
しかし他の者たちが、
「主家にまで迷惑が及ぶだろう」
となだめ、なんとか屋敷へと引き帰った。
帰ってからも六右衛門は、
「いや、これは仕返しをせねばならぬ」
と主張を続けたのだが、皆になだめとめられた。
喧嘩の話は主家まで達し、栄順と甚右衛門は切腹を認められず、そのまま斬り捨てられた。
他の者たちはお叱りを受けた。
詳細は、追って聞くことにしたい。
この喧嘩について考えさせられるところがあったので、
ある老武者に聞いてみた。
老武者
「仕返しなんてものは、皆と相談して上手くいくものじゃない。
ひとりで出かけていき、自分ひとりが斬り殺されるまでだと覚悟を決めねばならぬ。
口先で仕返し仕返しと言う者の中には、覚悟なく発言する者もいるのだ。
つまり、口先で武士としての外聞を飾っているわけだ。
誠の剛の者は、なにも言わずにそっと抜け出し死に向かっていく者だ。
勘違いしている者が多いが、そもそも仕返しを成功させる必要などないのだ。
仕返しの場で斬り殺されるのが剛の者なのだ。
だが、相手をしとめることが出来るのはこういう者である」【葉隠】
0237人間七七四年
2012/11/06(火) 17:35:00.71ID:T54cWOMY北条征伐あたりでそろそろ周りに危険な勢力がなくなり
信長のかわりとして地位が確立されたことが原因だろ
秀長は優秀であっても過大評価されているように感じるわ
0238人間七七四年
2012/11/06(火) 17:38:50.82ID:m61e9G7E山本常朝の美学は好きだな。
ただ、戦国時代の武士ならもっと打算的な行動をする気もするな。
0239人間七七四年
2012/11/06(火) 19:32:06.47ID:29mKxpyf自らが実践で証明したなら別だが
0240人間七七四年
2012/11/06(火) 20:25:46.49ID:Fby3rjvQ02411/2
2012/11/06(火) 21:08:24.01ID:y9u1DvmKこの時徳川家康は酒井左衛門尉忠次、植村右衛門佐ばかりがお伴して、堺を見物し、
これを茶屋四郎次郎が案内として付いていた。
そんな堺の家康のもとに、本多平八郎忠勝は本能寺の変を聞きつけるや否や直ぐ様
駆けつけた。
そこでは家康は「この少人数で三河まで引き上げるのは不可能だ。ここで切腹する!」
と決意していた。
ここに忠勝進み出て
「仰るように、どの道も本道は皆、敵中であると考えるべきでしょうしかしながら
ここで殿が御自害なさる事ではござらぬ。間道を抜けてそこから山越しに伊賀路へと出れば、
別議なく帰国できます!」
しかし家康
「そうは言うが、我らは上方に不慣れな者ばかりである、どうやって敵の知らぬ間道を
通るというのか?」
「その段はそれがしにおまかせあれ!!!」
忠勝、朗らかにそう言うとどこかに走っていった。少しして帰ってきた。誰かを引きずって
「この辺りの村の庄官を捕らえてきました!!!」
突然の拉致にガタガタ震えている庄官に
「おい貴様!ここにおられる殿のご案内をいたせ!しかしもし騙すようなら…お前を即座にぶっ殺す!」
(悪しく導き奉らば、忽に打殺す)
信長や秀吉からも最高の武士として讃えられた男からのこの脅しである。庄官は半ば魂が抜けつつ清瀧まで
案内し、「子、この先は解りません〜」と泣きながら訴えた。
02422/2
2012/11/06(火) 21:09:17.49ID:y9u1DvmK「どこに?」と思ったらまた直ぐ戻ってきた。また誰かを引きずって
「この辺りの村の長を捕らえてきました!!!」
また誘拐である
「さあ我々を案内せよ!、もし(ry」
遂に木津川まで至った。と、川を渡る薪船を二艘発見!忠勝叫ぶ「おいそこの船!こっちに来い!!」
天下無双の勇士の呼びかけにこの二艘の船、当然ながら逃げ出した。
「ほほう、こちらに船を寄せない気か。そういう事なら考えがある。鉄砲ー!!!」
船に向かって射撃開始!「船を寄せねば鉄砲で撃ち沈める!」
船の者達当然ながら驚愕し、家康一行の前に船をつけると、家康は金銀を払い積荷の薪をすべて捨てさせ、
これに家康及び共の者達全員を乗せ対岸まで渡った。この時本多忠勝一人残り、対岸まで行った船が
帰ってくるのを待ってこれに乗り、向こう岸につくと同時に、かの名槍蜻蛉切の石突で、二艘の船艇を
突き破り、「これでよし!」と先に進んだ。
こうして井出の里にまで行き玉水において
「この辺りを案内できるものを捕らえてきました!!!」
何人目かの不幸な犠牲者のおかげで宇治田原まで着く。その先を尋ねると「み、水口越は難所であり、
敵がもし人数を置けばどうにも出来ません」と言うので、多羅尾谷まで進んだ。
ここで多羅尾の何某と言う者が家康の到来を大いに喜び、我が館に是非入ってくださいと言ってきた。
しかるに酒井ら、当然ながらこれを疑い、「我々は今敵中にいるのだ。人の心も計りがたい。
いかにするべきか…」と悩んでいた所、忠勝は
「堺を出てから今日までの間に、我らはもはや、腰兵糧の他何もありません。至極難儀の時であります。
ここで多羅尾にもし殿に対する逆心があるのなら、彼の家に入らなくても我々を逃すことはありません。
何故ならこの様に疲れきった我々では、思うように働くことが難しいからです。
ならば多羅尾の折角の馳走を受けて、かの家で腰を懸けて、人馬の息を休めるべきでしょう。
なあに、万一多羅尾の態度が思わしくないものであれば、私が奴を捕らえてどうとでもしてやりますよ!」
これに一同「尤もだ」と、特に最期の一節に納得しこの家に入ると、彼は無二の持て成しをし、
これにより家康一行、疲れから回復することが出来た。家康は多羅尾に礼として自らの刀を与えた。
ここより伊賀越をし、ここで服部半蔵支配の甲賀者たちが家康のもとに参上し身辺を守り、そのため
難なく伊勢浦に到着し、ここより船に乗って三河へと御帰陣された。
(武野燭談)
神君伊賀越え、本多忠勝大暴れの一席である
0243人間七七四年
2012/11/06(火) 22:20:24.39ID:bajq3D940244人間七七四年
2012/11/06(火) 22:45:49.82ID:lHGmkg1G色々と何かがアレだが一応誰も切ってないあたりが別件の四天王とは違う・・・よね?
0245人間七七四年
2012/11/06(火) 23:07:20.97ID:R1nwenVcあれ実話なんじゃないかな
0246人間七七四年
2012/11/06(火) 23:29:11.51ID:dAtxtflh0247人間七七四年
2012/11/07(水) 00:55:34.50ID:2cin/Vnm0249人間七七四年
2012/11/07(水) 03:05:36.69ID:qZT1KT+Fこれ、浅草の遊山茶屋って要は遊廓遊びに行ったんだよな
>>240
宗茂さんは遊廓遊びしにいかないだろうな
遊廓がこの世にあることも知らなそう
あくまでイメージだが
0250人間七七四年
2012/11/07(水) 06:53:22.06ID:XDwDyiyJ0251人間七七四年
2012/11/07(水) 10:41:01.27ID:UEmzXKb/どうしてこうなるんだろ
0252人間七七四年
2012/11/07(水) 12:15:07.80ID:DW3pQ4EZ0253人間七七四年
2012/11/07(水) 13:18:03.94ID:CVlBjGwt0254人間七七四年
2012/11/07(水) 13:19:49.46ID:2NZgsIy/0255人間七七四年
2012/11/07(水) 13:30:07.82ID:DW3pQ4EZ0256人間七七四年
2012/11/07(水) 13:41:49.35ID:/cqAsKIk0257人間七七四年
2012/11/07(水) 18:21:14.07ID:MXd1EikK0258人間七七四年
2012/11/07(水) 18:39:11.03ID:1MKNYYaI烏丸光広が江戸より帰るという時に留守の雑掌某は衆と謀って急に庭中の倉庫を
壊して光広が長年貯えてきた物を悉く家臣に分け与え、自分は一品も取らなかった。
ところが光広は帰ってきてもそのことを問わなかった。ある日、某は光広に
「公は長く江戸におられましたので突然狭い邸宅に帰られると憂鬱になられるのでは
と思いまして、倉を取り払って広くしておきました」と告げた。
光広はこれに「善し。中の物はどうした」と尋ね某は「悉く諸臣に分け与えました」
と言った。光広が続けて「もっとも善し。で、お前は何物を得たのか」と問うと、
某は「臣は一物をも受けませんでした」と言うので、光広はからからと笑って
「お前もまた迂な奴だな」と言った。
――『近古禅林叢談』
0259人間七七四年
2012/11/07(水) 18:44:16.53ID:Bu2CFIdU0260人間七七四年
2012/11/07(水) 19:49:51.43ID:O3O4Z4Xm他の逸話も含めて、なかなか興味深い人だな。
0261人間七七四年
2012/11/07(水) 20:03:14.61ID:n2lApPRX0262人間七七四年
2012/11/07(水) 20:38:26.56ID:ZKNX5nP70263人間七七四年
2012/11/07(水) 22:49:46.15ID:9b2203oE0267人間七七四年
2012/11/08(木) 20:07:02.36ID:j+XcMJcK忠勝:娘が美人と伝わる
おそらく、父親には似なかったんだろう
0268人間七七四年
2012/11/08(木) 20:15:09.33ID:yqc5oyur忠勝もそれなりにイケてたんだと思う
0269人間七七四年
2012/11/08(木) 20:41:15.51ID:6IH+EQ0J0270人間七七四年
2012/11/08(木) 21:41:51.76ID:++hr5nXk0271人間七七四年
2012/11/08(木) 22:09:28.05ID:yqc5oyur0272人間七七四年
2012/11/08(木) 22:22:32.73ID:Saa11suA北条方の土気城主酒井胤治は合戦の準備に手間取っていた。
というのも年の初めに急に合戦が始まったため、年始の行事と重なって大わらわになっていたのだ。
これに北条氏康は疑いを持ち始める。
「やる気がないのか?ひょっとして裏切る気なんじゃ…?」
この噂を耳にした胤治は頭にきた。
「今まで北条家に尽くしてきたのに疑われるとは!もういい、だったら里見につく!」
こうして胤治は里見方になってしまった。
一方上総にはもう一つ酒井家があった。
東金城主酒井敏房である。
彼は里見方として活動していたが、第二次国府台の合戦では北条有利とみて北条方に寝返っていた。
両酒井氏の交換トレード?な話
0273人間七七四年
2012/11/08(木) 23:31:56.09ID:nmbePeny0274人間七七四年
2012/11/08(木) 23:39:08.55ID:vjEutOzM敏房と胤治ははとこ同士なんだよね
0276人間七七四年
2012/11/08(木) 23:47:11.88ID:BIRB/1cl>本多忠勝。Honda Tadakatu. 「紙本著色本多忠勝像」関が原合戦後、描かせた肖像画。
>関が原合戦後、忠勝は争いの無い時代になり自分の活躍の場が無くなったことを嘆き、
>絵師にこの甲冑姿の自分の肖像を描く事を命じた、なお忠勝はこの肖像画を完成させるまでに
>7回〜8回やり直しさせたとも言われている。
>また、この肖像画を描くときに着用していた甲冑は現在も残っている。
0278人間七七四年
2012/11/08(木) 23:57:20.66ID:BIRB/1clhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6137.html
>正月も何も関係ありません!かつて大内家が崩壊するとき、日頼様(元就)は正月の儀式をとりやめられ
>弓矢を取ってご出陣成されました。
>逆に尼子経久は毛利に攻めいった時も正月の儀式をし、恐れながらこれにより我々は神風を得ました。
>こう見れば正月の儀式など、目出度いことではありません。
0279人間七七四年
2012/11/09(金) 00:00:47.22ID:Mh5PjjTAwikiに書いてなかったような…と思ったらば画像の解説のところね。気付かなかった。
書き直しさせたのか、てっきりまた伊勢越えみたいな「え?鬼武蔵?」的なエピでもあるのかとー
あー驚いた。
0281人間七七四年
2012/11/09(金) 00:14:18.67ID:NrUrR7Hv0282人間七七四年
2012/11/09(金) 00:24:34.61ID:qdavcUGo「総力特集 真田信之と幸村」
お兄ちゃんが先に来るのは珍しいから買ってしまった
ところで、それに載っていたんだが「加沢記」の
武田滅亡時、信幸が新府城から上州に家臣団と家族ひきつれて逃げた話って既出だっけ
(近代デジタルライブラリーの「加沢記」で確認済みだから雑誌の創作ではない)
0283人間七七四年
2012/11/09(金) 03:41:43.45ID:Mh5PjjTA>>278>>280
尼子さん…
>>282
逃げるときひもじくて杉の葉食べたらまずかった、というのだけだったかと。
0284人間七七四年
2012/11/10(土) 07:44:41.60ID:ghAmbUb8150年前の土方歳三の写真を見ると現代基準でも男前
そこから150〜200年前の美醜の基準だからあまり変わらないんじゃね?
0285人間七七四年
2012/11/10(土) 07:58:56.26ID:fnXDTGfa0286人間七七四年
2012/11/10(土) 08:25:59.60ID:ijuECs1c0287人間七七四年
2012/11/10(土) 08:28:26.34ID:ijuECs1c0288人間七七四年
2012/11/10(土) 08:37:27.48ID:dnrULhcI0290人間七七四年
2012/11/10(土) 08:39:23.35ID:YaJkWQ2/0291288
2012/11/10(土) 08:40:57.01ID:dnrULhcI0292人間七七四年
2012/11/10(土) 09:15:46.27ID:cHiPmm91どうぶつの森長可か、
どうぶつとなった戦国武将たちがふれあいを求めて
力ずくでコミュニケーションを図るゲームであるな。
殺伐プレイ推奨のGTAあるいはPK御免のMMORPGみたいな物と見た。
0293人間七七四年
2012/11/10(土) 10:03:15.73ID:rxRYLBIT江戸時代でも戦国時代の軍制を維持してたから年貢もかなり高かった。
減税等で不満の出ないように配慮してたけど対応しきれない面もあったんだろう・
0295人間七七四年
2012/11/10(土) 11:40:07.93ID:JcXIIyEn0296人間七七四年
2012/11/10(土) 12:10:14.25ID:Qt4BvyQ40297人間七七四年
2012/11/10(土) 13:51:50.97ID:FMmP8hn9ところでどこの誤爆?
0299人間七七四年
2012/11/10(土) 19:43:10.97ID:FB0+FVlN僧侶らを多数惨殺して、霊宝・金銀などを盗んでいくという事件があった。
これは江戸御城下から遠くない、王子村(現東京都北区王子町)の御鷹場往還の前でもあり、
特に厳重な捜査が行われたが、犯人に関する証言もなく、犯人逮捕に繋がる情報に対し
懸賞金を懸けて尋ねさせたが、やはり情報は上がって来なかった。
そのころ京都より、所司代の板倉周防守重宗が江戸へと上がってきていたので、幕閣たちから、
この悪党どもを探し出す手立てはないかと相談を受けた。
そこで重宗は以前からの捜査状況を一つ一つ聞いて、「なるほど、では私がひとつ、手立てを
致してみようと思います。」と、板を一枚取り寄せそこに
『懸賞金の額が少なく、申し出ることが難しいのです。この倍を掛けられるのなら、
仲間共の在家を指し申します。』
と、いかにも読みやすいように、平仮名で筆太に書き記し、あの懸賞金の制札の側に立て掛けた。
これをあの盗賊の一人が見て驚いた
「さては仲間の中の誰かがこの札を立てたのか!そうであるなら人に先を越されてはならない!」
その日の内に奉行所に出て仲間をすべて告発したため、一人残らず召し取られ、忽ち法によって
処罰された。
それから暫く後、酒井讃岐守忠勝の屋敷で物の紛失したことがあった。
色々調べた上でも判明せず、これも懸賞金を以って告発を待ったが、それも効果がなかった。
この時酒井家家臣のある者が気がついて
「先年、興楽寺の盗人御詮索の時、板倉周防守殿の考えられた手段によって盗賊を尽く
召し捕らえました。であれば今回もあの手段を使ってみてはいかがでしょうか?」
酒井忠勝はこれを聞くと
「よく心付いたものである。」
と、そのものを褒めた。ところが
「ただし周防守などは、どんな手段を使っても盗賊などを捜索することを職分としているが、
私は今、天下の大老職に居る。
そんな私が人を陥れて利を得るということは、職の盗と言うものである。
尋ねて知ることが出来ないからといって、とうして偽りによってそれを成せるだろうか?
よってその考えは、取り上げることは出来ない。」
そう言ったのだという。
(武野燭談)
板倉重宗の奇計についての逸話である
0300人間七七四年
2012/11/10(土) 21:44:41.44ID:MLRgDVZt多分このスレに書き込みたかったんだろう↓
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293102886/
最上義光「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
0301人間七七四年
2012/11/11(日) 13:33:40.62ID:bj8WhPIj義元の討死によって呆然として落ちて行ったところで井伊信濃守と出くわした。
「信濃殿、大将は討死された。本陣は崩れてしまったから見届けずともよい」
松井が声をかけると井伊はにっこりと笑って…
「兄の肥後守の申し付けで本陣へ見廻りに参るところでした。
味方が崩れたからとこのまま立ち帰るのはそれがしの本意ではありません。
兄に敗軍を見物して帰りましたとは申し難いのです」
「そうか…そうだな、いざ共に参ろうか」
松井は井伊の言葉に励まされて取って返し、両人とも討死した。
井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
これは五郎八郎の不孝である。
初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。
――『良将言行録』
0302人間七七四年
2012/11/11(日) 13:48:46.76ID:/GWsp2jW井伊直盛「娘に男子名をつけるな」
ところで桶狭間で死んだのって、井伊家当主の信濃守直盛じゃなかったっけ
0303人間七七四年
2012/11/11(日) 15:49:09.12ID:Z+QhB4y6娘である直虎の婚約者の井伊直親だよね?
0305人間七七四年
2012/11/11(日) 17:21:26.34ID:hdbPQjTf0306人間七七四年
2012/11/11(日) 17:30:42.93ID:kV/M+FxC0307人間七七四年
2012/11/11(日) 17:41:36.01ID:ut9h+xZE0308人間七七四年
2012/11/11(日) 18:02:19.30ID:AeeH5fip0309人間七七四年
2012/11/11(日) 18:30:39.10ID:kV/M+FxC0310人間七七四年
2012/11/11(日) 22:21:31.21ID:YcRj7Yl30311人間七七四年
2012/11/11(日) 22:49:23.25ID:6Mb3Sbrlそれはただの不用心かと、むしろそれを教訓に日本一の強国に成長したところを褒めるべき
そこんところ踏まえても武雄藩主茂義とか知名度低いよなあ
0312人間七七四年
2012/11/11(日) 22:55:40.74ID:4F/SxG4G0315人間七七四年
2012/11/12(月) 21:54:15.92ID:VYcOdj0h直茂公
「息子(勝茂公)は年齢のわりに逞しいし、力もある。
武士として見所があり、わたしも喜んでいる。
家来たちと相撲をとらせてみたが、
歳上の者にも勝ってみせたぞ」
と上機嫌で仰せになられた。
生運はこれを聞いて、
生運「私は老いぼれですが、それなら一番お相手いたそう」
と言い、勝茂様をお身体がお痛みになるほど投げ飛ばした。
そして、
「まだ骨格も考え定まってないうちから、自慢事などなさると、
いつか恥をかきますよ。
まだまだ見かけよりも全然弱いです」
と言い残して退出したとのことだ 【葉隠】
0316人間七七四年
2012/11/12(月) 22:22:00.19ID:85/3QSwu0317人間七七四年
2012/11/12(月) 22:24:19.19ID:HgDbQET70318人間七七四年
2012/11/12(月) 22:27:52.41ID:fWtNB/H00319人間七七四年
2012/11/12(月) 22:39:30.06ID:VRtijOy30320人間七七四年
2012/11/12(月) 22:41:02.43ID:SdiwlhJ4こういう家臣は大事だ
0321人間七七四年
2012/11/12(月) 22:56:50.97ID:VYcOdj0hオレはこの話が、下村生運が、
「直茂さま、それは貴方がよくありません」
とやらなくて正解だったと思う。
親子の間に善悪つけるよりはって意味で
0322人間七七四年
2012/11/12(月) 23:05:14.19ID:H8/TFiru0323人間七七四年
2012/11/12(月) 23:06:07.07ID:Kz1pjgFx0324人間七七四年
2012/11/12(月) 23:17:33.71ID:ksWIqIaj0325人間七七四年
2012/11/13(火) 00:38:25.02ID:jpcXJsCK0326人間七七四年
2012/11/13(火) 00:58:26.71ID:WwEpuaWj・理非(善悪)を糾す者は人罰に落ちるなり
これはアイツが悪い!その場合はソイツが悪い!
とやる奴はニュー速にいっぱいいるが、
アイツらそんな立派か?
口では上手く説明できない感情を憶える(笑)
0327人間七七四年
2012/11/13(火) 01:38:25.52ID:yUrCqml00328人間七七四年
2012/11/13(火) 01:54:19.89ID:HFDR/2WCそれに比べると鍋島家臣は慈悲の心があるわ
0329人間七七四年
2012/11/13(火) 03:18:59.54ID:N2q6IJwS島原の乱抜け駆けの後日談を思い出した。
0330人間七七四年
2012/11/13(火) 09:14:37.13ID:zBZp6/Juところで勝茂って逸話で怒られてばっかりいないか?
0331人間七七四年
2012/11/13(火) 09:32:23.95ID:GNTDovvs別に龍造寺が好きなわけでもないんだろうけど
0332人間七七四年
2012/11/13(火) 09:44:22.65ID:LnUTaeXc0334人間七七四年
2012/11/13(火) 12:01:16.78ID:dwcQzrdC0335人間七七四年
2012/11/13(火) 12:56:05.78ID:BIFa2zp4なんという為骨豊!
とののしられたんだろうか
0336人間七七四年
2012/11/13(火) 20:16:40.47ID:cRqPCY+g0337人間七七四年
2012/11/14(水) 03:27:02.07ID:KlA4uQ+g0338人間七七四年
2012/11/14(水) 20:52:44.03ID:KZrrNcPJ「人という物にはな、その職分に対し、必要なことと、不必要なことがあるものだ。
織田常真(信雄)は、茶の湯・歌学・乱舞・管弦の上手、その他華奢風流のことは、およそ天下に肩を並べることがない、
というほどの才能の持ち主であるが、肝心の国を治め家を整え、武道を磨くことに関しては、その父である
信長公が切り捨てられた、爪の先ほども持っていなかった。
対して徳川殿は、華奢風流なことは全くしないが、国を治め家を整える道をわきまえ、武道を専らにし、
軍士を取り扱わせることに関しては、まあ我が国は別にして、諸外国でも稀な人物である。
(武野燭談)
そんな秀吉の、織田信雄と徳川家康に関する評論。
我が国は別にしてって、軍士の取り扱いに関しては俺のほうが上だ、って底意なんでしょうねw
0340人間七七四年
2012/11/14(水) 22:12:41.58ID:/we7SijK0341人間七七四年
2012/11/14(水) 23:04:38.51ID:gIQ61QyW0342人間七七四年
2012/11/14(水) 23:14:01.10ID:D8KGBkE00343人間七七四年
2012/11/14(水) 23:28:32.05ID:ngiMIftZ暇潰しのためだけの趣味はしなさそう
見習いたいけど暇だとネットでどうでもいい情報見てしまう・・・
0344人間七七四年
2012/11/15(木) 00:08:55.23ID:g6F5c+if家康「この年まで、これほどわしの考えにあった文を読んだことはない」
0345人間七七四年
2012/11/15(木) 09:56:12.77ID:+cL6Oq9Nなお親宅は家康に初花肩衝を献上し、関東移封後も三河に留まったという興味深い人
どうやら徳川家や家臣が三河に残した菩提寺等の権益確保の意味もあったようで
0346人間七七四年
2012/11/15(木) 10:02:30.60ID:eKUiGN/E0347人間七七四年
2012/11/15(木) 10:10:27.87ID:dfWJvC5Sだから権現様は天下をとった、と結論づけるために
0348人間七七四年
2012/11/15(木) 12:44:25.50ID:CTJ+rpLg0349人間七七四年
2012/11/15(木) 14:22:41.12ID:+cL6Oq9N0350人間七七四年
2012/11/15(木) 17:16:39.75ID:sJhHeHwo机によりかかって書を読み、塵や埃が満ちて歳月を経ても掃除しないので
坐席には汚痕が生じた。常に筆硯を扇匣に納め、宮中の公宴があるごとに
これを携えて輿に乗っていたという。
また光広は甚だ洗浴を嫌った。無理やりこれを勧めるとあたかも嬰児のように
嫌がり、あるいは泣き出しさえしたという。
――『近古禅林叢談』
当代一流の文化人なのに…(´・ω・`)
0351人間七七四年
2012/11/15(木) 17:34:45.83ID:lXvY0Pro0352人間七七四年
2012/11/15(木) 17:35:13.12ID:CTJ+rpLg0353人間七七四年
2012/11/15(木) 21:14:24.42ID:oFcVa2HA0354人間七七四年
2012/11/15(木) 22:14:43.09ID:vyaPZ90y0355人間七七四年
2012/11/15(木) 22:47:41.19ID:oFcVa2HA俺のにおいが大好きなんだそうだ
0356人間七七四年
2012/11/15(木) 23:09:03.47ID:3ygoGafw0357人間七七四年
2012/11/16(金) 02:09:46.53ID:ur8xobUU鬱・アスペ等、発達障害やメンタルを病んでる人によく見られる症状の一つ
0358人間七七四年
2012/11/16(金) 05:50:38.38ID:P5y5DJjI0359人間七七四年
2012/11/16(金) 07:21:29.43ID:lfgeQGMY0360人間七七四年
2012/11/16(金) 17:05:17.68ID:zInIO4Sh天文六年の夏、小田原浦近くに釣舟が多く浮かんでいると聞いた北条氏綱は
小舟に乗って海士の働きを見物した。この珍事の御遊の時、氏綱が酒に興じていると、
一尾の鰹が舟に飛び込んで来た。
氏綱は心から喜んで「勝負にかつを!」と格別の祝辞を述べてその鰹を酒肴とした。
同年七月上旬、上杉朝定が武州へ発向したが氏綱はこれに討ち勝って武州を治めた。
このようなこともあって諸侍は戦場の門出の酒肴にはもっぱら鰹を用いたのである。
――『仮名世説(北条五代記)』
つまり北条の侍は門出のたびに「勝負にかつを!」とか言っていた可能性が…。
0361人間七七四年
2012/11/16(金) 17:26:13.86ID:pZ5KUHo50362人間七七四年
2012/11/16(金) 17:29:04.16ID:QKtyiHv1駄洒落の程度は変わらない気がする
0363人間七七四年
2012/11/16(金) 17:30:58.34ID:QKtyiHv10364人間七七四年
2012/11/16(金) 18:42:15.22ID:5jyCoJ8y0365人間七七四年
2012/11/16(金) 18:58:54.43ID:OBboKc7Mてのはごく最近の考えなのかしらね
まあ同じ人間だしそんなことはないか
0366人間七七四年
2012/11/16(金) 19:34:10.64ID:4iolDIe7現代でもキットカットとかカツ丼とか。
まぁ元より掛詞を嗜む民族やから。
0367人間七七四年
2012/11/16(金) 20:06:19.03ID:lfgeQGMY0368人間七七四年
2012/11/16(金) 20:43:30.29ID:G4g5YLGaそんな光秀が本能寺の変で天下を取った。
摂津衆の一人中川清秀は去就を決めかねていた。
光秀と戦うべきか味方すべきか。
というのも情報が錯綜し、本当に信長が討たれたのかよく分からなかったのだ。
そんなところへ秀吉が大返しで戻ってくる。
そして秀吉から受け取った書状には驚くべきことが書いてあった。
「信長公は生きておられる。」
「マジで!?」と思った清秀にさらに秀吉の書状は畳み掛ける。
「信長公配下の福富秀勝が比類なき活躍を見せて明智軍を撃退し、再興の機を窺っておられる。
某はただちに信長公にお味方し、光秀を討つつもりだ。そなたも我に協力致せ。」
もちろんこの情報は嘘で福富秀勝は討死しているのだが、
これに乗った清秀や池田恒興ら摂津衆は秀吉に付き、光秀は敗れ去ることになる。
自ら武略だと公言した武士の嘘によって滅びたというのは皮肉ではなかろうか。
0369人間七七四年
2012/11/16(金) 21:03:43.07ID:Mw4z+MRM縁起物つながりで隣国武蔵ではかつて神様(大国主命)がデートで待ちぼうけ食らった時に「まつのは嫌じゃ」と言ったのがきっかけで正月飾りが門松じゃなくて門竹になっているし。
きっと東国では駄洒落がマイブ〜ムだったんだよw
0370人間七七四年
2012/11/16(金) 21:06:03.17ID:ZgBj9tqX>>360が起源なのか、同じよーな事を思いつくオヤジがほかにもいたのか。
多分たくさんいたんだろうなぁと、親父の駄洒落好きを眺めながら思う。
0371人間七七四年
2012/11/16(金) 21:33:05.55ID:GCwhZs9g/⌒ ⌒\
/( ●) (●)\
/::::::⌒(__人__)⌒::::: \ 勝負にかつお!
| |r┬-| |
\ `ー'´ /
0372人間七七四年
2012/11/16(金) 21:48:04.37ID:b1s+1kor0373人間七七四年
2012/11/16(金) 22:56:28.99ID:rCjdr2xShttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1353070132/
【ソウル聯合ニュース】韓国農林水産食品部が参鶏湯(サムゲタン、鶏のスープ料理)の販路多様化に向けて活発な動きを見せている。(2012年7月24日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120724-00000043-yonh-kr
アメブロの記事数 有名人、かつキーワード 「サムゲタン」
http://search.ameba.jp/search.html?q=%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B2%E3%82%BF%E3%83%B3&row=100&profileRow=&target=blog&aid=&author=talent&start=0
2009年 1件 2010年 0件 2011年 2件 2012年 122件〜 ←7月から急増
0374人間七七四年
2012/11/16(金) 23:11:16.59ID:Mw4z+MRM0375人間七七四年
2012/11/17(土) 04:11:50.67ID:lBgMlPiN0377人間七七四年
2012/11/17(土) 06:02:33.04ID:VHL946FJ「打ち、勝ち、喜ぶ(ドヤァ」とか、いかついおっさんがやってたとか胸アツだなw
信長もやってたんだっけ?
0378人間七七四年
2012/11/17(土) 07:14:00.85ID:cRdfo5U3そういえば道灌が小机城落とす時に駄洒落で士気上げたって逸話もあったな
0379人間七七四年
2012/11/17(土) 07:28:06.53ID:lAqgGaMs0380人間七七四年
2012/11/17(土) 07:39:06.84ID:TrRLS7Sn織田信長「今日の戦、勝とう!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3814.html
0381人間七七四年
2012/11/17(土) 08:32:54.58ID:9HFL+wwt0382人間七七四年
2012/11/17(土) 11:42:09.51ID:FN+U41b2三人揃っていた秀吉が強いわけだ
0383人間七七四年
2012/11/17(土) 11:42:56.86ID:VEzNwv2Wんで、ないわーと無視しちゃう空気読めないやつは戦場の空気も読めなくて…
0384人間七七四年
2012/11/17(土) 12:11:28.85ID:rmrlWqhQ普通に使われてるテクニックだしね
駄洒落も一種の教養というか、
その場の状況に合わせた駄洒落や、縁起のいい駄洒落は大歓迎、みたいな感じじゃないかな
昔は験担ぎや迷信は現代より真剣に重視してただろうし
0385人間七七四年
2012/11/17(土) 14:11:19.04ID:9HFL+wwt0387人間七七四年
2012/11/17(土) 18:45:19.43ID:EBnG3Pg5くだらねー言葉遊びだろ駄洒落なんてと切って捨てるかは受け取る側によるんだろうな
0388人間七七四年
2012/11/17(土) 19:34:29.85ID:58Pjgq4O受け取り手が不自然な愛想笑い作るのがオッサンの駄洒落
0389人間七七四年
2012/11/17(土) 20:41:54.80ID:TrRLS7Sn天下の諸侯も、この君のためには一命をどうして惜しもうかと、争ってかしずいていた。
関ヶ原の合戦の際には一方の大将であり、福島正則以下の諸将、この君の下知に命をかけること
本望であると勇まれたとか。
この時、徳川家康は井伊直政、本多忠勝に仰せ付けられ、「忠吉を良く引き回すように」と命じた。
これによって、島津義弘が丸備えを立てて撤退する所を、井伊直政は先駆けして食い止め、手痛い働きがあったが、
忠吉も手負い、井伊直政も鉄砲によって腕を撃たれたので、布で腕を縛り首にかけて、忠吉を誘導して
本陣へと帰った。
まず忠吉が家康の御前に出ると
「忠吉は手負いをしたか。初陣の働き、見事なり!」
と、ご褒美に所に井伊直政がまかり出た。家康これを見て
「兵部(直政)は手負いをしたか!薬箱!薬箱!」
と、自分の薬箱を取り寄せ、自身の手で膏薬を傷口に付けられた。
おおよそ人の親として、子供ほど可愛いものは無いこと、上下ともに同じである。
であるのに愛する子の初陣に、薄手ではあったが傷を被った事を驚く様子もなく、兵部が手負いをしたことには
慰め問わせられた所に、『名将の御こころざしは凡人の及ばざる所である』と、当時の人々は感じ入ったとの
事である。
(武野燭談)
関ヶ原の傷
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6932.html
これの、当時の人たちの感想なども入ったバージョン。
しかし忠吉、イケメンで性格も良くて諸侯からモテモテだったとか。
長生きしたら秀忠の脅威になったかも知れませんねw
0391人間七七四年
2012/11/17(土) 21:56:04.07ID:gBKKcuS2同じ話でも感想が違うな
0392人間七七四年
2012/11/17(土) 22:07:05.78ID:fmNyxEsJ0393人間七七四年
2012/11/17(土) 22:14:54.01ID:ji8WLaz80394人間七七四年
2012/11/17(土) 22:28:41.94ID:ji8WLaz80395人間七七四年
2012/11/18(日) 00:19:40.31ID:Zt+952DC永禄12年(1569)、伊勢北畠氏討伐の軍を発した織田信長は、
北畠具教が籠る大河内城に向かって進軍中、北畠氏の支城・阿坂城に降伏を勧告した。
ところが城主・大宮入道はこれを激しい調子ではねつけたので、
これに腹を立てた信長はならば攻めよと、先手の軍勢を呼び返して阿坂城攻めを命じた。
この時の織田勢の先陣は木下藤吉郎秀吉であり、真っ先に進んで阿坂城に攻めかかったが、
城主大宮入道の子息・大宮大之丞は高名な強弓の上手であったため、
寄せ手は容赦なく矢を浴びる羽目になり、秀吉自身も左の太ももを射られてしまった。
ところが、秀吉は少しも怯まずに味方を励まし、ひたすらに攻め立てたので、
たちまち城方は疲れ果てる。
ここで大宮の家老・遠藤源五右衛門、同條助は敵が大勢なので臆病風に吹かれたか、
にわかに心変りして寄せ手に内通し、城内の鉄砲の火薬に水を入れ、使い物にならなくしてしまった。
こうなっては大宮もどうしようもなく、士卒の助命を条件に開城し落ち延びていった。
(伊勢国司記略)
この戦いで受けた傷が秀吉の生涯唯一の戦傷だったらしく、
これがなければ本多忠勝のような無傷に関する伝説ができてたかも知れない
ちなみに負傷した箇所は左肱説もある
03961/2
2012/11/18(日) 01:15:20.20ID:Zt+952DC信憑性の薄そうな話ですが続き
天正4年(1576)、伊勢北畠氏の養子となっていた織田信雄により、北畠一族が謀殺されると、
北畠氏の旧本拠地であった多気の霧山城には先に阿坂城で木下秀吉を射た大宮大之丞など北畠氏の残党が集まり、
城代北畠政成を中心に抵抗の姿勢を示した。
これに対して具教暗殺に参加した長野左京ら信雄配下の軍勢と、
さらに羽柴秀吉の三千余騎を加えた一万五千余騎が霧山城下に乱入してきた。
その時、真っ先に「羽柴秀吉!」と名乗って出てくる者があった。
城方の大宮大之丞は、前に阿坂城で秀吉を射落としたときは仕損じたので、
今度こそは秀吉と組んで勝負せんと進んで門を開き、弓矢を取って散々に射かけたので寄せ手は逃げ崩れた。
そして遂に大之丞は秀吉の胸板を射ぬき、秀吉は只一矢にて死んでしまった。
ところがそこに、「真の秀吉ここにあり!」
と叫ぶ者が現れ、大之丞はそれでも心得たりと矢を射かけたが、矢種が尽きたため
太刀を抜いて大勢を切り抜き、秀吉(二人目)をも討ち取ってしまった。
03972/2
2012/11/18(日) 01:19:49.24ID:Zt+952DC又も「秀吉!」と名乗る者(三人目)が現れたのである。
流石の大之丞も疲れ果て、当家の運はこれまでと城下の新長門守屋敷前で自害したのであった。
秀吉と名乗った者(三人目)はその後城方の村賀徳太郎に討ち取られたが、
織田方は次々と攻め寄せたので、北畠政成らは奮戦したが自害に追い込まれ霧山城は落城した。
(伊勢国司記略)
この霧山城合戦の話は藤堂藩の学者・斎藤拙堂の伊勢国司記略にある話だが、この話の出所は
「多気記」という霧山城跡の近くに住む郷士が持っていた旧記で、
史料集めをしていた拙堂の門人が借りてきたものだという。
流石に信憑性に問題があるのは認識していたのか、拙堂はこの話の最後に注記して、
「誠しからぬ事も色々混じっているが、旧伝の事もあるだろうし、
ここにしか載っていないこともあるので記録しておく」と述べている。
0398人間七七四年
2012/11/18(日) 02:02:32.39ID:WCHFMqI10399人間七七四年
2012/11/18(日) 09:33:39.69ID:QawyyZ2gこれは悪い話w
0400人間七七四年
2012/11/18(日) 12:42:51.61ID:Ox43ucax0401人間七七四年
2012/11/18(日) 13:40:10.81ID:3Tq+sXAx0402人間七七四年
2012/11/18(日) 14:03:21.14ID:gNBk86oC秀吉2「キーキー!」
秀吉3「ウキーッ!」
三成「わかりました殿下。では朝を四つに夕を三つに致しますね。」
0403人間七七四年
2012/11/18(日) 14:47:26.05ID:S1gjYMiv0404人間七七四年
2012/11/18(日) 16:13:21.53ID:NrU6NZCbその後、首に怪しい腫物ができた。
これがなかなか癒えず、ついには瘤が生じた。天野は怒って琴の糸を
使って瘤をきつく縛り、糸を竹縁につないで脚を張って瘤を引きぬいた。
ところが、幾ばくもなくまたもや瘤が生じた。いよいよ憤った天野は
刀を抜いて自ら首を刎ねてしまった。
また本能寺の変で半弓を使い信長に矢を当てた光秀の小臣川上某という者がいた。
その六日目に川上は喪心して死んだ。川上は「鶴が来て額を刺す…。
痛み甚し、痛み甚し…」と、うわごとを言っていたという。
ああ、これもすべて天網は漏らさずというように、天罰を蒙った者ということなのか。
――『近古史談』
0405人間七七四年
2012/11/18(日) 20:44:37.72ID:/k8ajLJeかたやわずか6日後、かたや15年後に割と出世もしていい目も見た後って
その天網ザルなんじゃないか?
0406人間七七四年
2012/11/18(日) 20:54:38.24ID:koAVmKDJ0407人間七七四年
2012/11/18(日) 21:47:42.82ID:I0cJ4jNX天正10年(1582年)、本能寺の変の後のこと。
信濃から美濃へと舞い戻った森長可は周辺の東濃の諸氏と日夜戦いを繰り広げていたが、
森家に喧嘩を売った家の中に明智光秀の嫁の実家である妻木家があった。
ある時、合戦で敗れた妻木家臣の茂塚六兵衛の一団は森家の追手から逃れるべく追沢の地に辿り着き、
ここでとある民家の老婆に金を与えて屋根裏に匿って貰う事になった。
それを追ってきたのが森家臣の豊前市之丞という男で、追沢の辺りで消息を絶った武将たちの事を
この老婆に聞いたが「知らぬ」の一点張りで取り付く島がない。
ならばと有力な情報提供の恩賞として市之丞は懸賞金を懸けて再び老婆に行方を聞いた所、
老婆は六兵衛の金より市之丞の金のほうが額が多かったので天井を指差して六兵衛らを匿っている事をあっさりと白状し、
即座に天井裏に攻め込んだ市之丞の軍勢に六兵衛一行は悉く討ち取られた。
この事件の後にやがて老婆が死ぬとこの家には住む人間が居なくなったが、他の人間が新たにこの家に住むと
重病に倒れたり何かしら血を見るような死に方をしたりと不吉な出来事が必ず起こった為、やがて誰も住まなくなった。
そんな家に事件後に生えた二股の竹にも「きっと六兵衛の怨念がこもっている」と恐れられたという。
現在はこの竹はもう無くなってしまったが六兵衛の無念を弔う小さな祠だけは伝承と共に現地に残っている。
0408人間七七四年
2012/11/18(日) 21:52:59.36ID:Cy5BlbLP0409人間七七四年
2012/11/18(日) 22:01:45.28ID:Uq8Io5lX天網恢恢疎にして漏らさず の意味知ってるかい?
信長さんを直に討った連中が悪になるかって話は微妙だけどね〜
0412人間七七四年
2012/11/18(日) 22:40:37.96ID:tI7MvZGo鬼武蔵の部下ってだけで
いい話だと思ったら実はおもいっきり悪い話だったこともあるし
>>404の安田作兵衛も鬼武蔵に召抱えられたからそんな最期になっったと考えれば辻褄が合う
0413人間七七四年
2012/11/19(月) 00:01:50.21ID:AswdiBZ1もうどこで老婆が切られるのかと…。
でも森家ってケチってイメージないな。あげる時は気前いいよね?(出所はともかく…。
0415人間七七四年
2012/11/19(月) 01:08:23.16ID:d7MKuFgN0416人間七七四年
2012/11/19(月) 12:45:14.65ID:mYCjmfy1そこで友人と一緒に楽しんでいた。
ある時、長く雨が降り続き洪水が田畑に溢れ亭の辺りに水が流れた。
これを聞きつけた助左衛門は「良い見物になる」と友人を連れて遊興にふけった。
雨はますます降り続き日々水が増していたので「洪水見物」と人は皆
助左衛門の亭にやって来て酒宴を催した。これを耳にした一鉄は驚愕した。
「兵糧は軍国の第一であるのに、それを掌る身分として作毛の豊凶に心を用いず、
田畑の冠水を楽しんで酒宴に及ぶとは言語道断。その罪は決して軽くない。
しかし、かの者はいつも正直だからこの一件のために見棄てるべきではないな。
それに不所存者に大切な役目を任せたのは私の過ちだった」
一鉄は自分を戒めて三日の間、酒肴を絶ち粗食ばかりを食して自らの過ちを
家臣に示した。また助左衛門には「助左衛門の一件は、その職分をわきまえなかったこと
不届きである」と五十日の閉門を申し付けた。これにはいずれの者も大いに畏服した。
――『良将言行録』
0417人間七七四年
2012/11/19(月) 13:14:55.03ID:u86furky/ / / / / /
ビュー ,.、 ,.、 / /
/ / ∠二二、ヽ / /
/ / / (( ´・ω・`)) ちょっと田んぼの様子見てくるお
/ ~~ :~~~〈 /
/ / ノ : _,,..ゝ /
/ / (,,..,)二i_,∠ / /
0418人間七七四年
2012/11/19(月) 13:16:27.36ID:u86furkyロ ◇ ロ ◇ ロ ◇ ロ
(( )) ◇ (( )) ◇ (( )) ◇ (( ))
ロ ◇ ロ ◇ ロ ◇ ロ
◇ ◇ ◇
Λ∞Λ Λ_Λ Λ_Λ
( ´∀`) ( ´∀`) (祭) (・∀・ )
/ ヽ у 〉 /`___У__」つY /) 〕〕 〕〕つ 洪水見物とは風流ですな
l゚ |ニニニ|゚ ゚ |_|__| ゚|_|| | |||
△(__)_) (__)_) (__)_)
0419人間七七四年
2012/11/19(月) 13:17:52.19ID:u86furky⊂(#・ω・) 兵糧は軍国の第一だろうになめとんのか!
/ ノ∪
し―-J |l| |
人ペシッ!!
__
\ \
0420人間七七四年
2012/11/19(月) 14:25:04.34ID:wY2zrM6X0421人間七七四年
2012/11/19(月) 18:04:38.02ID:VEoGKfyLカヲルの首に取り付けられたDSSチョーカーが発動し、カヲルは首に数発の弾丸を打ち込まれ死亡する。
覚醒状態を止めた第13号機は地上へ落下するが、フォースインパクトの進行は止まらず、マリが8号機でシンジの乗るエントリープラグを強制射出させたことでようやく終息した。
地上に落ちたエントリープラグの中で蹲っていたシンジをアスカが助け出し、そこにアヤナミレイ(仮称)も現れる。アスカは放心して反応しないシンジを連れて歩き出し、そしてレイも2人についていく。
(エンディングへ
0423人間七七四年
2012/11/19(月) 20:02:58.01ID:5duFWdRW0424人間七七四年
2012/11/20(火) 00:38:01.29ID:33GYdkfrそれに固執し断固として譲らない。
敗戦の原因となった者は、罰として真っ先に逃げる屈辱を受けなければならない。
犬のように忠実と言われるが、わりと文句を言ったり諌言したりすることもある。
個人の戦闘能力は非常に高いが、主君が敵にまわると無力化する。
0425人間七七四年
2012/11/20(火) 16:49:05.40ID:5PrsRqBQ「平氏を滅ぼしたものは平氏自身であり、源氏を滅ぼしたのも源氏自身だ。
いずれも度を過ぎた贅沢に流されてしまったから哀れむべき結果となってしまった。
これは奢侈が及ぼす害の例である。よくよく気をつけなくてはならない」
とは、ある時の家康の言葉である。
ある人が黄金の装飾を施した団扇を家康に献じたことがあった。団扇を見た家康は
ぎょっとして顔色を変え、侍臣に命じて大切に収めさせたきりその団扇を使わなかった。
――『学生の漢文(明徴録)』
0426人間七七四年
2012/11/20(火) 17:21:16.51ID:ZVMNtgdK0429人間七七四年
2012/11/20(火) 17:39:09.57ID:XMEbGXz60431人間七七四年
2012/11/20(火) 18:46:29.17ID:ttr/WKG70432人間七七四年
2012/11/20(火) 20:17:32.31ID:fEpD3TWQ徳川家康より軍功のあった諸将への加増が発表されたが、井伊直政、本多忠勝にも
加増により所替えを仰せ付けられ、御書付を与えられた。
しかし井伊・本多はその加増の少ないのを不足に思い、新領地を拝領しない旨を申して
折紙を返上し、そのまま退出してしまった。そしてその事に不満を言っているのを
永井右近太夫直勝が聞きかね、直政に直接に異見した
「貴殿は徳川家の功臣であり、家臣団の中でも1,2に数えられる身であるというのに、
そのように禄を貪られるのは心得かねることである。御加増の折紙を御拝領すべきである。」
直政はこれを聞くやいなや
「永井!其の方などが存ずるようなことではない!
さほど功もない、一度与力したにすぎない大名共には大国・大領を与えられているのに、
これでは我らが、三河以来粉骨をしてきた甲斐もないではないか!無念の奉公を、恨まずにいられようか!」
そう、未だ蟠りを持っているように申し立てた。
これに永井直勝重ねて異見する
「これは直政の言うこととも思えぬ。貴殿や私のような譜代の輩は、今度の合戦の報奨について、
どのように扱われても、どうして御恨み申し上げることが出来るだろうか?
そもそも今度お味方された諸大名は、徳川家意外の恩録によって一家を立てた人々である。
そんな彼らの加勢がなかったら、どうしてこの度の一戦、御旗本の人数だけで、例え鬼神の働きを
したとしても、勝利することが出来ただろうか?
言わば、国々の大名は世間の存在である。我々は御身内である。貴殿は特に御人数も多く預かられている。
そうであれば、昔を思い返せば御恩が浅いなどと申すことは出来ない。
貴殿は上様から付けられている御人数がなければ、例え樊カイを欺くほどの武勇があったとしても、
どれほどの働きが出来ただろうか?」
直政はこの言葉に大いに腹を立て
「右近などと比較されるような、この兵部だと思うのか!?」と言い放った。これを永井はあざ笑う
「愚かなり直政!この右近にも、お主ほどの人数を預けさせて頂ければ、どうして貴殿に劣るだろうか!
小身であるから、働きも思ったようには行かないのだ。貴殿がそれほど道理に暗かったとは知らなかった。
そんな貴殿と年来交友を重ねたことが口惜しい!今後は絶交いたす!」
そう言い捨て立ち去った。
その後、直政はつくづくと考え、永井の言ったことこそ道理だと思った。
そして自分の非を悔やみ、「功に誇るのは義士の成すべきことではない。私は愚かにして、
上より下された所領を受けないというのは、畏れ多いことである。」
そう、誤りを正すことに決心し、本多忠勝にもこの道理を言い聞かせ、両人で家康の御前に出て
「以前、不足を申し上げた所領を、拝領仕るべし!」と申し上げた。
これに家康も
「尤もなり。良き了見なり」と、お咎めもなく折紙を与えた。
ここより直政は直に永井の所に向かい、彼と対面して
「以前の過言、面目のないことだった。貴殿は真実の友である。たった今私は、あなたに降参する。
どうか以前と変わらぬ、交友を続けていただきたい。」そういって文殊の茶入を差し出し
「この茶入は、あなたもご存知のように我が家第一の秘蔵の品であり、命にも代えがたいもである。
だが、今度の貴殿の厚情への感謝を、言葉で表すことはできない。せめて私の心ばせとして、これを。」
これに永井は直政の心の丁重さに感じ入り
「さてさて、以前に変わらぬ交友は、こちらからもお願いする。
しかしこの文殊は天下の重器ではないか。このようなものを受け取る事は出来ない。」
そう再三辞退したが、直政の
「この兵部の、拠ん所無い心底を見せる印である!」
との言葉に遂に受け取り、それは今も、永井の家に伝わっているそうである。
(武野燭談)
永井直勝、井伊直政に異見す、というお話
0433人間七七四年
2012/11/20(火) 20:56:46.19ID:egQyUtaH0434人間七七四年
2012/11/20(火) 21:09:04.71ID:UpdhM8cs徳川家第一の重臣である直政に、臆せずにその非を直言する永井直勝もカッコよければ、
「功に誇りて、賞を貪るは、忠臣にあらず、義士にあらず、我れ過てり」
そうすぐに反省し「貴殿は眞實の友だ」と
命にも代え難い秘蔵の茶入を惜し気もなく渡す爽やかさを持つ直政もカッコいい
ちなみに茶道美談では最後はこう締めくくられている
「益友の一言(いちごん)は、萬鎰の黄金より貴し、井伊文林の宝器も物かは。」
0435人間七七四年
2012/11/20(火) 21:50:29.44ID:45EqPW6/0436人間七七四年
2012/11/20(火) 22:31:20.21ID:IEvQZ50K0437人間七七四年
2012/11/21(水) 05:59:52.34ID:WGnTcA71奥羽永慶軍記より「田村清顕卒去、原田宗時盗人を討つ事」
天正14年(1586年)、田村清顕はとうとう跡継ぎを得られないまま亡くなる。
「せめて後世の為に祈らん」と大般若経600巻を手づから書き写し、大元帥明王へ奉納したのちの逝去であったという。
ところが不思議なことに三七日(みなのか=21日法要)も終わらないうちから明王の社に妖怪変化が住み着いた、との噂が立ちはじめる。
「清顕公が無念に思うあまり化けて出たのだ」と領民はすっかりおびえ、日暮れ時には全く人通りもなくなってしまった。
また社近くの村に住むある女などは、世にも稀なる嫉妬深さで隣村の女が夫と不義密通をしていると邪推し、
夜な夜な社の神木へ釘を打って丑の刻参りをし始めた。
その奇行はやがて人目に触れ、「かの妖怪はもしやあの女かもしれん、正体は角の生えた蛇じゃぞ」と領民はさらに恐怖心を募らせていく。
さらにさらに恐ろしいことには、翌天正15年の正月早々にはその女が化け物に引き裂かれたかのような惨殺体で発見されたのである。
「公の御霊は悪鬼と成り果てたか」
領民はすっかり恐怖のどん底に陥ってしまった。
清顕の寡婦・於北御前はこの噂を恥じれども打つ手がなく、家老一門にいたるまで閉口してうつむく有様であった。
そのころ伊達家の勇将・原田宗時は政宗の秘命を帯びてひそかに三春へとやってきていた。
※訳者注、先代隆顕未亡人・小宰相と連絡して田村家中を伊達派へ促す目的かと推測。
連れてきた家来が不肖者で早くもへたばったので大元帥明王からほど近いところに宿を取ると、人々が清顕公の祟りを噂しているのが聞こえてきた。
0438人間七七四年
2012/11/21(水) 06:05:29.08ID:WGnTcA71「わしはさすがに渡辺綱ほどの武勇はないが、斬れるものなら斬ってやれないことはない。よし、今宵の丑の刻、社へ行って退治してくれよう」
と密かに決意して身体を横たえた。
その夜、へっぽこ家来を起こさぬようこっそり支度を終えた宗時は、意気軒昂社へ乗り込んだ。
辺りを見回しながら屋根に上ると、なるほどたしかに真っ白い何かが5、6人ほど高いびきをかいている。
「ん?」
ここで宗時は気付いた。夜中で見え辛いには見え辛いが、どうみても身の丈5、6尺を超えず人外とは思えない。
「こやつら流れ者の強盗ではないか!妖怪の真似をしくさって人々を脅かすとは許せん!…斬る!!」
怒り心頭、ズドンと屋根を踏み鳴らし「おのれら化け物を誅すべく原田左馬助が参ったぞ!早々起き上がれ!」と怒声を浴びせかけた。
強盗団の頭と部下たちは、よく寝入っていたところを急襲されたので太刀を抜く暇もなく立て続けに斬り捨てられてしまう。
宗時の方はなおも油断せず、手足の動く者がいれば入念に刺し殺した。
全てが済むと太刀を納め「このようなこと、誰に自慢できるわけでもなし」とこぼして帰って行った。
夜が明けて6つの死体を見た人々は、誰の仕業かと恐れおののいた。
しかしながら、異変がなくなったのが原田宗時の一宿したのちのことと気付くと「さてはかの御仁がなせり」と安堵したという。
領主がいないとこんなに風紀が乱れますよ、という悪い話。
0439人間七七四年
2012/11/21(水) 09:47:08.67ID:wxl4YkBJ0440人間七七四年
2012/11/21(水) 11:45:25.97ID:yuZ2AsFA忠勝「わしの手勢は500だが?」
0441人間七七四年
2012/11/21(水) 13:08:54.92ID:6pAeQzF3兵5,000で前線でバリバリやってた主力の細川隊ですら首200なのに。
おかしいですよ本多さん・・・
0443人間七七四年
2012/11/21(水) 20:10:28.02ID:hvSbJfUS0444人間七七四年
2012/11/21(水) 20:19:09.78ID:VwY/B77K支那の戦力ですら読めなかった無能集団だろ。
信用するほうがおかしいぞ。
0445人間七七四年
2012/11/21(水) 20:25:52.73ID:258mDYVm昨今の、薩摩の覚書などを元にした研究だとそういう話も出てるね。
少なくとも三成陣に関しては、島左近が負傷した後即座に崩れたとか。
あと西軍は東軍より相当数が少なく、東軍の半分程度だったんじゃないか、なんて話も。
0446人間七七四年
2012/11/21(水) 20:33:09.35ID:XT8aC3CY0447人間七七四年
2012/11/21(水) 20:47:20.26ID:i3NIztTKとても疲弊しているという手紙を黒田官兵衛に送っているんだよな。
その後に足の付け根に腫れものが出来て痙攣を起こしたり
原因不明の高熱が出て生死の境を彷徨う病に倒れたために
急遽、本多忠勝が外様を率いる東海道組に加わったので小姓など500という少数部隊だったという。
0448人間七七四年
2012/11/21(水) 21:22:47.96ID:hvSbJfUSそうそう。桐野作人氏の説ね。
個人的には「天下分け目の決戦」で割と五分の勝負が続いてた
って方がロマンがあって好きなだけに実像を知って割とショックだったわw
0449人間七七四年
2012/11/21(水) 21:42:06.34ID:IINPhY91そういう説はあるね。東軍が一気に前進して押しつぶしたってやつ。
激戦だったにしては東軍は翌日からすんなり行動を再開してるし、
夕方に戦いが終わったとすれば首実検が終わらんのじゃないかとか
あれこれ考えると、東軍があっさり勝ったと考える方が合理的ではある。
0451人間七七四年
2012/11/21(水) 22:51:07.72ID:79AnIxRV1503年、大内義輿が上洛する前の頃、安芸の厳島神社の祭礼にやってきた時の話。
お祭りと言えば酒である。
祭礼に来ていた参加者たちもどうも呑んだらしい、しかもベロベロになるまで…。
酔ったら気が大きくなるのは今も昔も変わらない。
彼らは酔った勢いで神社で行われている神事に対して悪口放逸をし始めた。
これに怒った厳島神主支配下の神領衆は暴れてた人々を十人ほど殺してその船を沈めた。
神社の勢力なのに過激な事である。
ところでこの殺された人たちの中に、
伊予の豪族であった多賀江(多賀谷とも)氏の郎党も含まれていた。
多賀江氏も宮島と同じく大内の傘下に居たため、神社の祭礼に参加していたのだろう。
それで祭礼に参加して殺されたのでは、カチコミに至るのは当然だろう。
…そして蒲刈島を出発した160〜170隻の船が厳島を襲った。
島に上陸して火を点けて回るなど暴れ放題。
まさしくヤクザの抗争である。
と、奇跡的なタイミングで風雨が強くなってきた。
さすがにこれは帰らねば、と、暴れた者の中の一人、
多賀江氏の勇士として知られた多賀江兵部小輔は神社に軽く拝礼して船に乗り、神社の鳥居の前まで漕ぎ出して…。
船が沈没し24人の郎党と一緒に海中に消えた。
※ ついでにその後来た多賀江氏の親戚である重見氏の船も沈んだ。
で、この時死んだ多賀江兵部達が悪霊となって厳島の住民を苦しめたので、
その霊を慰めるために念仏踊りを始めたという。
これが、現代にも伝わる宮島踊りである。
ttp://www.miyajima.or.jp/event/event_odori.html
と奇麗に纏めてみたけど、味方同士での抗争で死者まで出た上、
悪霊にまでなってしまったという悪い話。
0452人間七七四年
2012/11/21(水) 22:59:35.01ID:oz+uKh8u0453人間七七四年
2012/11/22(木) 00:23:18.91ID:KaHK7Kje0454人間七七四年
2012/11/22(木) 08:29:09.23ID:+Jo1HRuw0455人間七七四年
2012/11/22(木) 17:31:39.07ID:KwSY+G46ある時、一人の侍が正三を訪ねて来た。
「私は辻斬りが大好きなのです。世の中に辻斬りより面白いことなどありません」
「わしも辻斬りが大好きだ。それならば今夜ともに参ろうか。しかし、お前ごときに
辻斬りをするほどの勇があるとは思えないがなぁ。わしの若い時などは木竹を
切るように人を斬ったものだ。いまは年老いて長いこと人を斬っていないが今夜は
わしの腕前を見せてやる」
正三は侍と一緒に品川辺りにやって来た。辺りをうろうろしていると多くの町人や百姓、
女子供が通り過ぎていく。侍はこれを斬ろうとしたが、正三はその度に侍を引き止めた。
やがて多くの従者を引き連れた者が現れた。
「よし、あれを斬れ。さあ早く!」
しかし、侍はたいそう物怖じして躊躇してしまった。
「お前にできないなら、わしがやるぞ」
侍は慌てて、正三を切実に諌め袖を引いた。正三は大笑いして曰く、
「なんとまあ口ほどにもない臆病者だ。あれを斬ってこそ武士だ。女子供を幾人も
斬ったところで功名になるとでも思ったか!」と侍をいたく戒めた。それからは
侍も辻斬りを止めたのだとか。
――『近古禅林叢談』
0456人間七七四年
2012/11/22(木) 19:00:36.85ID:KoqGrZhw言われた方もノリノリで辻斬りに付き合うてのがそもそも現代人には理解出来ん
0457人間七七四年
2012/11/22(木) 19:14:12.23ID:y6OWRbHJ0458人間七七四年
2012/11/22(木) 19:32:39.13ID:fxSSvdtH0459人間七七四年
2012/11/22(木) 19:34:15.06ID:p6W5sKtG0460人間七七四年
2012/11/22(木) 21:29:00.35ID:Z9akXTdc「でも暴力団事務所には行かないんだね」と返すみたいだ
0461人間七七四年
2012/11/22(木) 21:38:35.21ID:M/0austq0462人間七七四年
2012/11/22(木) 21:58:22.94ID:uX19Ty5o0463人間七七四年
2012/11/22(木) 22:02:22.21ID:V6DmeAAv0464人間七七四年
2012/11/22(木) 22:14:33.87ID:y6OWRbHJ0465人間七七四年
2012/11/22(木) 22:25:50.55ID:60RMfyyQ>>463
某K○EIのゲームに出てくる足利義氏のことだろ。
武力低いくせに最高ランクの武器(村雨)を持ってるがゆえに、
それを狙った連中に斬られまくるんだよ。
0467人間七七四年
2012/11/22(木) 22:36:02.02ID:R4HQtNgt0468人間七七四年
2012/11/22(木) 22:45:44.31ID:jkNr+Exv0469人間七七四年
2012/11/22(木) 23:06:54.70ID:V6DmeAAv好き好んで呂布とか関羽とかにケンカ売るより絶対勝てそうな文官っぽいの狩って手柄にするほうが生き残れそうだもの
狩れそうもないなら畳で畳み掛けてから種子島で穴だらけにするなり工夫せにゃならんけど
0471人間七七四年
2012/11/23(金) 02:14:30.90ID:dFOR1EtY戦目付がしっかり見てる
0472人間七七四年
2012/11/23(金) 06:53:10.56ID:dl9dHUF/0473人間七七四年
2012/11/23(金) 09:47:50.09ID:Ol09G7q6薩摩国ではちぇすと・すてがまりが深刻化しており…
0474人間七七四年
2012/11/23(金) 10:37:57.13ID:ZTR2EY3J0475人間七七四年
2012/11/23(金) 16:01:33.05ID:PKSClC2sいや、そりゃ強敵倒すよりは評価低いだろうけど
一定の地位のやつ倒せばそれはそれで評価上がるでしょ
0477人間七七四年
2012/11/23(金) 17:22:39.10ID:nNaCNMWS0479人間七七四年
2012/11/23(金) 18:22:09.21ID:nvVEh4UF凄すぎるだろw
0480人間七七四年
2012/11/23(金) 19:58:25.93ID:Q0PWAsmz「お、あいつ、いい甲冑着てるがヒョロっとしてて腕っ節はなさそうだな。
さしずめ筆より重い物は持ったことがないってクチか?もらった!」
なんつってうっかり挑みかかったらこれが釣りで、実は百戦錬磨の返り討ち
職人でした〜、なんてこともないとは限らんからな
0481人間七七四年
2012/11/23(金) 20:08:30.95ID:38qBCV/1戦国時代後期、ルソン(ルソン島、現フィリピン)に日本人町があったという事は割と有名であるが
その開設の経緯というのは決して穏やかなものではなかった。
天正18年(1591年)9月、豊臣秀吉は原田孫七郎を使者にしてルソンのスペイン総督府に対して入貢を要求した。
スペインからすれば何とも屈辱的な出来事であったが当時のスペインはアマルダの海戦で無敵艦隊が敗れるなど
既に衰退期に入り始めていたため、報復などの行動は取らずこれをスルーした。
しかし、翌年に秀吉が朝鮮出兵を実行に移したことで秀吉のルソン侵攻も無いとは言い切れない情勢になると、
スペイン総督府は現地にいる日本人たちが有事の際に日本側に付くことを警戒して、
当時ルソンに住んでいた日本人をマニラのディオラ地区にまとめて強制移住させた。
これがマニラの日本人町の始まりであったと言われている。
0482人間七七四年
2012/11/23(金) 20:13:30.58ID:a2c6DmNE0483人間七七四年
2012/11/23(金) 20:19:19.58ID:LnXJOezq直線で行くのは遠そうだよなー
0484人間七七四年
2012/11/23(金) 20:21:51.57ID:YGa+HmrI0486人間七七四年
2012/11/23(金) 21:45:06.68ID:fY8xBBsI八つ当たりで全然関係ない他のスペイン人の家を刀振り回して襲撃する
とか普通にやる蛮族どもなので隔離は妥当
0487人間七七四年
2012/11/23(金) 22:18:50.69ID:X2nhYk3I小田原攻略に失敗し退いた景虎に対し、成田長泰が反旗を翻した。
ところがこの時厩橋城には、成田長泰の次男の小児と、成田家家老・豊島美作守の二名が、
景虎への人質として置かれたままであった。
景虎が厩橋に帰城する前日、城の夜番を勤めているかせ者(名字を持つ下級の侍)が一人やってきて、
豊島を物陰に呼び出して囁いた
「豊島殿、あなたは成田長泰の御別心のために、明日には切腹させられるともっぱらの噂です。
そういうことですが、私はあなたの御命をお助けしてもいい。
あなたは忍に帰れば、五千貫程の大名だと聞いています。
…私に三十貫の所領を与える気はありますか?」
この言葉に豊島は大いに驚き
「それは何よりも易き事なり!」
と、この夜番の者と深く語らい、三十貫の所領を与える書状を書き与え、「ひとえに頼む」と
協力を依頼した。
夜番の者大いに喜び、馳せめぐって川船などを置き様々な準備をし、帰ってくると
豊島を夫男に変装させ、熊手などを背負わせて、城から出そうとした。
この時豊島は
「成田の御子息もどうにかして一緒に落ち延びさせたい。」
と言ったが、夜番の男は
「美作守殿一人を落とすのさえ大変なことです!その上御子息のことは、父である屋形(成田長泰)
ですら捨てて反旗を翻したのです。そうである以上是非に及ばず。御子息はここに残して、我々は
退きましょう。」
そう言われたため、成田の次男が寝入った隙に、豊島は夜番の者に付いて番所を忍び出て、
船に乗り早々に忍へ帰った。
成田の次男は豊島がいなくなったことに気が付き、後を追って外に出て探したものの見つからず、
そうしている内に追手が迫ったため川に飛び入り、そのまま空しく亡くなられたという。
さて、豊島美作守は忍へ帰ると自分の家にも入らず、先ず息子の左馬助を呼び出し、城に使いを
立てさせた。その言上はこうである
『私は数度の忠孝を立て、更に一度の不忠もありませんでした!それなのに何故、私を捨て殺しに
為されようとしたのか!?甚だ以て口惜しい!
この上は小田原へ参り、氏康殿に奉公仕ります!御暇を申し上げる!』
そうしてまさに打立とうとしている所を、成田長泰の息子の五郎が城から駆けてきて豊島を呼び止め
「誠に代々の家老である事と言い忠節といい、お主の言うことは全て、道理至極である」
と謝罪したので、仕方なく豊島も忍に帰り、元にように家老に復帰した。
そしてあの夜番も取り立て、約束通り三十貫の所領を与えた。
しかし、この時の恨みにより、後に豊島美作守は成田長泰の子息・氏長と一味して、長泰を
追放したのだという。
(關侍傳記)
成田長泰に見捨てられた家老、についての逸話である。
0488人間七七四年
2012/11/23(金) 23:17:17.02ID:LnXJOezq慌てて逃げ戸惑っているうちに堀に落ちて死んだ次男が憐れだなー
0489人間七七四年
2012/11/24(土) 07:46:09.28ID:Nv1NUoo1戦国の立身出世は無法地帯だ
0490人間七七四年
2012/11/24(土) 08:15:52.70ID:fOzuw8R10491人間七七四年
2012/11/24(土) 09:03:26.74ID:n6A74ZEw0492人間七七四年
2012/11/24(土) 09:21:23.34ID:2Sp792xX0493人間七七四年
2012/11/24(土) 09:37:47.42ID:u6/4nlA+しっておるのか半兵衛!
0494人間七七四年
2012/11/24(土) 10:01:50.61ID:iTkx5WcK0495人間七七四年
2012/11/24(土) 10:02:21.20ID:iTkx5WcK0496人間七七四年
2012/11/25(日) 03:07:57.31ID:JRdbPDlrttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3382.html
0498人間七七四年
2012/11/26(月) 18:41:29.94ID:VSIyx/om見ても覚えず、学問・講習の筋を習っても、忘れ果てては何の役に立つだろうか?
人と近付きになっても、一度ばかりではその名前も顔も覚えられない、という例は多い。
記憶力が強いというのは、人の羨むことである。
青山伯耆守忠俊は記憶力に非常に優れ、旗本・小身の輩まで、一度その名を聞きその顔を見れば
能く覚えて、再び会った時には、必ずその名を呼んで挨拶をした。
その様であったので青山も自分の物覚えの良さを自慢していたが、ある会合において、
一座のものから青山に
「真似ようとしても出来ないことだ。有り体に言って中々及ばないことです。」
と声をかけられると、青山これに対し
「だいたい物覚えなどというものは、努力次第でどうにか成る事ですよ。」
と言い出した。これを聞いて同席・末座の人々、口をそろえて
「稽古によって出来る事なら、是非習いたい!」と、その答えを所望すると、青山は笑いながら
「意地がキレイか、意地が汚いかという事です。」
という。一座の人々困惑し、「そう言われても、全く理解できない。」と言えば青山
「されば、である。あなた達も、御三家・国持大名などの顔名前はきっと覚えているでしょう?
しかし小身の者たちに対しては侮っているから、その名も知りません。
私は末々まで、人であることに替わりはないと、平等に考えているので、能く覚えるのです。」
この言葉に一座のもの、皆感じ入った様子であった。
と、この場の遙か末座に、未だ無官の、若き日の知恵伊豆、松平伊豆守信綱があった。
彼は一人、青山の答えに感心した様子も見せずに嘯いていた。
青山はこの信綱の様子をいち早く見て取り、彼の方を見て声をかけた
「どうした!そこに居る小癪仁はどう思うのか!?」
これに信綱、冷然と
「…私の考えとは違う了見です。感じ入る所までは行きませんね。」と言う。
青山「では、お主の考えを聞きたい!」と、信綱の話を聞く姿勢を見せる。
すると信綱、少し進み出て
「太陽・月の事はきっと知っておられるでしょう。では、その他の星の名、星座の名など、
それをすべて覚えていらっしゃいますか?」
青山はこれを聞くと「どうやってすべての星の名を究め知ることが出来るだろうか?
天文の家であっても、細かな星は粟三斗分の数ほどもあると言っているが、それでも尚
具体的な数はわからないのだ。そうであるものを、どうしてその名を知ることが出来るだろうか?
この答えに信綱
「さて、あなたもそうお考えになりますね。
例えば、私のような愚かなものであっても、御三家は勿論、国取り大名も数が少ないので、
日月・五星・二十八宿と同じように、覚えるのが楽です。
しかし小身の衆は天の星の数よりも多いほどですので、どうして覚えられるでしょうか?
伯耆守殿のように、生まれつき記憶力の良い人には、そういったものも覚えられるのでしょう。
あなたがどう申されても、自分の意地の清濁とは関係ないことです。」
これには流石の青山伯耆守忠俊も閉口してしまったそうである。
ちなみに、物覚えには少しはコツがあるらしいよ!(物を覚ゆるは少しは傅も有る事とか)
(武野燭談)
青山忠俊と知恵伊豆の、記憶力についてのお話。
0499人間七七四年
2012/11/26(月) 20:55:34.56ID:luN+5ubm0500人間七七四年
2012/11/26(月) 21:16:46.67ID:A9QZagF9江戸時代にこんな奴いる訳ないだろうが
0501人間七七四年
2012/11/26(月) 21:21:01.19ID:VSIyx/omちなみに原文
『我等は末々までも人に替りなき處を考へて、平等に存ずる故に能く覚え候』
武野燭談は宝永6年(1709)成立
0502人間七七四年
2012/11/26(月) 21:25:32.97ID:T7w6fXkLの53p見たらそのまんま書いてある
0503人間七七四年
2012/11/26(月) 21:33:57.24ID:Z47zLL3B表現としてはそうおかしくないんでないの
0504人間七七四年
2012/11/26(月) 21:54:09.00ID:luN+5ubm0505人間七七四年
2012/11/26(月) 21:59:08.26ID:MtgoaPV4口で焼き味噌垂れる前と後に権現様と言え!
こうですか?
0506人間七七四年
2012/11/26(月) 22:34:59.64ID:fv8Yc8Y/0507人間七七四年
2012/11/26(月) 23:33:23.45ID:/sxQ+pTx0508人間七七四年
2012/11/27(火) 00:54:18.38ID:/cGhAlBG人類平等という思想と社会秩序のための階級格差は別なのだ
05091/2
2012/11/27(火) 20:02:32.43ID:/gAGb3HT成田長泰は71歳の老年と成り、子息氏長が成人したというのに、彼に家督を譲らず、常々色を好み酒に長じ、
城外に別荘を建てて、小筑という女を上方から呼び寄せ寵愛した。
家老や一門の者達、これを諌めたものの聞き入れようとしなかった。まさに老醜である。
このような状況の中
成田長泰に見捨てられた家老
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7055.html
↑これで危うく見殺しにされかけた豊島美作守は長泰への恨みを忘れておらず、氏長、及びその母に
申し上げることには
「長泰様は老体の御身でありながらあのような無行儀の作法、御一門も他家も、嘲り疎み果てております。
この時に、私は皆々と相談し、大殿を無理に隠居させられるように才覚いたし、若殿を世に立てたいと
考えているのです!」
これに母親も氏長も同意し、豊島の計画に参画した。
そんな陰謀が起こっているとは知らず、成田長泰は梅阿弥という同朋衆一人を共とし、妾の小筑の元へ
出て酒宴していた所、成田一門家中、豊島に賛同し、重臣である小田伊賀守を始め、豊島左馬助、
別府兄弟といった人々は忍城に集結し、成田長泰を城に入れないために門などを皆閉じた。
恐るべき嫌われっぷりである。
帰ってきた成田長泰が見たものは、完全に閉じられ自分を拒絶する忍城であった。
が、この成田長泰は只者ではなかった。
彼は水落の桶が城内に繋がっていることを知っており、特殊部隊のごとくそこに潜りこんだ。
長泰に続いて梅阿弥も桶を潜った。
「大殿が桶をくぐられた!」
05102/2
2012/11/27(火) 20:03:08.44ID:/gAGb3HT槍を構え待ち構えた。と、潜ってくる長泰の姿が!十兵衛は一気にこれを突いた!
が!成田長泰は塚原卜伝の第一の弟子であった。彼は兵法の達者であり、桶の口から突かれた槍の刃を、
口で噛み止め受け止めたのだ!
奇妙な手応えに十兵衛、槍を引きぬく。すると
『ズザザザザザザザザ!!! スポッ!』
槍の穂先を咥えて成田長泰が、桶口から引っ張りだされた!槍で大殿を釣ってしまったのだ!
藁で穴の中の土蜘蛛釣り上げたような、あの感じである。まあこっちは釣りたくて釣ったわけではないが。
三友十兵衛はこれに当然ながら驚愕し、さらにその後から梅阿弥も出てくるとその場から逃げ出してしまった。
しかしそれを誰が攻められるだろうか?
成田長泰は、あまりのことに硬直したその場の者達を蹴散らし本丸に入り、息子長氏を発見すると
たちまちに捕らえたちどころに殺そうとする!城内の者達はこの猛獣か悪鬼のような老人(71歳)に
どう対処していいか解らず右往左往し、捕縛された氏長も死ぬ覚悟を決めた。
と、ここで長泰、何故か述懐を始めた
「しかし、氏長がこのように歳たくるまで、家督を渡さないことについて腹立するのは仕方のない事だ。
されども私は、かつて城攻めに失敗した盃尾を攻め落として後に隠居すると心に決めていたのだ。
それがあれこれと引き伸ばしに成り、このような親子の不和になったこと、口惜しき次第である…」
などと嘆きながらやっぱり氏長を殺そうとした、その時!
「まてまてまてー!!!!!」
現れたのは成田家の菩提寺・立圓寺の長老!彼はこの親子の紛争への扱いを入れに来たのである。
長老は先ず(実に賢明なことに)長泰を無理やり引き立て、立圓寺に入れた。そのお供に何故か
今回の陰謀の主犯・豊島美作守まで付き合わされた。お供の者達が「氏長様が御父君に向かって
このような例の少ない反逆を為されるなど、天道に背く行為です!」とさめざめと泣いている中、
長泰は豊島美作守に対し「美作守、お前は嘘泣きしなくていいぞ。この逆心、お前の仕業であろう!」
と言ったとか。
そうしている内に氏長が、やっぱりあんな邪悪な父親は討ち滅ぼさねばならないと軍勢を立圓寺に向けたが、
この時は立圓寺の僧侶たちが皆鉄砲・槍・刀で武装し迎撃の体制をとったため攻めこむことが出来ず、
親子の紛争は降着。ここに小田原の北条氏が介入する動きを見せたことで、成田長泰もここでようやく、
このままでは北条に成田家は併呑されると危機感を覚え、氏長に家督を譲り自らは出家した。
(關侍傳記)
成田家の親子不和、についての逸話である。
0511人間七七四年
2012/11/27(火) 20:18:29.37ID:eahOQBlN0512人間七七四年
2012/11/27(火) 21:19:03.07ID:LWIGGGqm0513人間七七四年
2012/11/27(火) 21:20:17.46ID:7A9ljxOf0514人間七七四年
2012/11/27(火) 21:45:36.79ID:cXcv4PNSニッカリと笑いかけてきた。
この男はこんな夜中に若い女がいる訳が無い、これは物の怪の類に違いないと思い
一刀で女の首を刎ねた。
翌日、同じ場所を通ったが女の死体はみあたらず、そこには首の無い地蔵があったという。
この男の刀は備中青江貞次作のもので以後は「ニッカリ青江」と呼ばれたという。(常山紀談)
0515人間七七四年
2012/11/27(火) 21:47:09.43ID:CgL4870Aこっちには異説が
0516人間七七四年
2012/11/27(火) 21:55:55.27ID:cXcv4PNSニッカリ青江の話はいくつかパターンがあるが
今、丸亀市立資料館にあるニッカリ青江は脇差なんだぜ
http://www.city.marugame.lg.jp/institution/culture/01.html
0518人間七七四年
2012/11/28(水) 08:32:18.16ID:XcCkf9pN結局、北条が動きを見せたことで隠居したのか
道徳心がとか武士の道がとかそんなのカンケーねぇ!って話だなw
しかも坊主が出てきても話がややこしくなってるだけだし神も仏もねー
0519人間七七四年
2012/11/28(水) 11:30:28.26ID:A7PgpirE0520人間七七四年
2012/11/28(水) 18:55:08.62ID:sbemlcRK0521人間七七四年
2012/11/28(水) 19:30:19.40ID:vZJ3EBrF夜、神埼の長者林を通りかかると、
突然に大男が立ちふさがり、
「裸になり、持っている物すべて置いていけ」
と言うと同時に、大力で相田が刀を抜けぬよう両手首を抑えた。
相田は、
「裸になるから、どうか命だけは助けてほしい」
と力なく言うと、大男は両手を放した。
すると相田はまず大小を大男に渡し、
つぎに衣服をいそいで脱ぎ渡し、
おそるおそる立ち去る様子を見せながら、
すれ違いざまに、大男が取り上げた刀の柄を握り、
立ち去る方向に抜き、そこから反転し袈裟がけに斬り殺した。
相田はそれから神埼へ行き、事の次第を届け出た。
何のお咎めもなく済むかと思われたが、
しばらくしたある日、鍋島紀伊守様が佐賀城へお越しになり、
「わたしは足を一本折ってしまいました」
と、いきなり勝茂様に申し上げた。
普通に歩行しているが、なぜそんなことを言うのかと勝茂様が尋ねると、
「普段から可愛いがっていた、
数人分の大力を持ちよく働く駕籠かきがいたのですが、
それを中野内匠のところの者に斬り殺されたのです。
ですからすぐにその者に切腹をお命じください。」
と訴えた。
勝茂様は事情を紀伊守様に説明したのだが、
最後はやむなく、相田に切腹を命じることになり、
これは何とも残念なことであった。
切腹の当日、中野一門が総出で相田の見舞いに訪れた。
相田はそれを殊更喜んで、
「わざわざのお見舞い、誠にかたじけなく思います。
お礼に、日頃練習していた仕舞をお目にかけましょう」
と、子供たちを呼び拍子をとらせ、
ゆうゆうと仕舞を舞い終わると、
甥の相田権兵衛が介錯をつとめ最後を遂げた【葉隠】
0522人間七七四年
2012/11/28(水) 19:34:29.08ID:zt5JlkmR0523人間七七四年
2012/11/28(水) 19:37:58.99ID:aCLMo1m90524人間七七四年
2012/11/28(水) 19:41:46.70ID:wAyX7EF70525人間七七四年
2012/11/28(水) 20:33:19.68ID:hxqGvG8Vその因縁は彼らの子弟にも、不思議に受け継がれていた。
長宗我部元親の後を継いだ盛親が、関ヶ原で西軍に付き、改易され京で寺小屋の師範をしていたこと、
これは有名である。
一方、仙石秀久は東軍に付き、彼の仙谷家は近世大名として生き延びた。
ところが、である
秀久の跡継ぎである仙石秀範は関ヶ原において、父とは違い西軍についた。
そのため戦後、秀久より廃嫡・追放処分を受けた。
こうして仙石秀範は京に牢人し、奇しくも彼も、寺小屋の師範となった。
そして大阪の陣が起こる。仙石秀範も、長宗我部盛親と同じように豊臣方として大阪城に入城した。
この時秀範は豊臣秀頼より、大名格として三万石ほどの所領を与えられたという。
しかし夏の陣で豊臣家が崩壊すると彼は行方不明となる。討ち死にしたとも、丹波に逃亡したのだとも伝わる。
そして、秀範の息子である長太郎、この時十歳は伯耆で捕らえられ、閏6月22日、乳母の子とともに
六条河原で斬首、晒し首とされた。
関が原後、不思議にも長宗我部盛親とほぼ同じような人生を送った、仙石秀久の息子についての話である。
0526人間七七四年
2012/11/28(水) 20:37:49.50ID:mC8QOvN40527人間七七四年
2012/11/28(水) 21:00:15.73ID:7gcmoWU50529人間七七四年
2012/11/28(水) 21:12:46.68ID:hxqGvG8Vうわ、なんで耳川なんて書いたんだろw;
>>525
1行目
? 耳川の戦い
◯ 戸次川の戦い
申し訳ない
0530人間七七四年
2012/11/28(水) 21:13:25.17ID:eYxSm6Lj0531人間七七四年
2012/11/28(水) 21:44:32.63ID:sbemlcRKそれとも柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦いだったかな?
0534人間七七四年
2012/11/28(水) 23:41:47.33ID:xvXPbHwF詫びとしてちょっとすてがまり要員として井伊勢に吶喊してくる
0535人間七七四年
2012/11/28(水) 23:46:25.07ID:HGwaImoa0536人間七七四年
2012/11/29(木) 00:12:54.99ID:GxJjnsEb柏木源藤さんか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6524.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6519.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-858.html
0537人間七七四年
2012/11/29(木) 08:24:34.16ID:ad3LN7d1クマーを釣ったのが田手畷
センゴクと信親と十河さん釣ったのが戸次川
0539人間七七四年
2012/11/29(木) 09:44:27.85ID:CG4P9gBD0540人間七七四年
2012/11/29(木) 09:59:31.59ID:/mCku+bg島原の戦いは沖田畷
0541人間七七四年
2012/11/29(木) 11:08:37.38ID:zK9ZsB660542人間七七四年
2012/11/29(木) 11:34:54.86ID:5nEj0bsG津軽信建の嫡男である熊千代はこの年のある日に祖父為信の元へ遊びに行った。
その折にどうしたことか、囲炉裏の中へ真っ逆さまに落ちてしまい、顔から頭にかけて、月代まで焼けただれてしまったといわれる。
熊千代ののやけどは為信によって秘密にされていた。しかし、噂が信建の耳に入ってしまう。信建は烈火のごとく怒った。
「熊千代をすぐさま黒石から堀越へ連れて来い」と、家臣に命じた。
この使者に選ばれたのが、天藤家の衛門四郎、小太郎、佐衛門四郎、甚右衛門の四兄弟(津軽家譜草案)であった。
天藤兄弟はさっそく黒石館に駆けつけ、為信に目通りした。信建の意志を伝えたが、為信は拒絶した。
やけどの熊千代を見れば信建が何をしでかすか分からないからである。
しかたなく四人は堀越城へ帰還、その旨を信建に報告した。しかし、逆上している信建は、
「必ず連れてもどれ」と重ねて厳命。兄弟は再び黒石を訪れたが、為信は依然として連れ帰ることを許さなかった。
兄弟は板ばさみとなり、しばらくは黒石館で粘ったものの、ついにはあきらめて堀越へ帰ることにした。
ところがその途中、ちょうど天藤家の前にさしかかった時、四人は信じられないものを見た。
家族が皆殺しに遭い、その遺体を縁者、知人らが葬ろうとしていたのである。
仰天して訳を聞くと、四人の帰りが遅いので、激怒した信建が斬り殺させたのだという。
兄弟は呆然し、怒った。
0543人間七七四年
2012/11/29(木) 11:36:14.04ID:5nEj0bsG我々の家来としての命運もここに尽きた。家族を皆殺しにするほどの主君だから、我々も極刑に処されるだろう。
しばり首になるよりは、場内へ斬りこみ、命を懸けて諌言しよう。 それから腹を切っても遅くは無い。むしろ家族への供養になる。」
四人は堀越城に着くと、喚声をあげて無二、無三に斬り込んだ。黄昏時だったという。
不意をつかれた城内の武士はたちまち斬られて、四人は信建の居間の近くまで迫った。
しかし、ここで「三代相伝の主君へうらみをなし奉らんことは、臣たる者の道にあらず。」と剣先が鈍った。
そこで、この上は、日ごろ奸臣と苦々しく思っていた奴ばらを討って取り、最後の思い出とするべく城内を発った。
一方の津軽信建は居間にいた。騒ぎを聞いて仰天し、乱入者どもが近づくにつれて、色青ざめ、立ち尽くすばかりであった。
とうとう、女中のすすめに従い、長持の中にかくれ、女どもにかつがれて居間を脱出、四兄弟が城を出るまで離れたところに隠れていた、とされる。(永禄日記)
さて、城外へ出てきた天藤兄弟は白取瀬兵衛を襲うも、下人どもがかけつけたため、撤退。
次に森岡信元を暗殺した梶仁右衛門方を襲撃し、仁右衛門の母を惨殺。夜明けの頃だったという。
この後も四人は散々に暴れ回り、奈良岡万助が討たれ、他にも怪我人が十数人いたという。
徹夜で暴れた天藤兄弟は疲れ、近くの空き家に入り休憩した。
この頃には騒動を聞いた津軽家中の諸士が天藤兄弟の立てこもる空き家を包囲。
双方とも激しい攻防戦をするも、多勢に無勢。
東海幸義が向かいの家の屋根にこっそり登り、雁股の大矢を放ち、矢は衛門四郎の首を貫き、二本目の矢は小太郎の胸板を射通し、二人は討たれた。
これを見た左衛門四郎と甚右衛門は立ち腹を切り、最期を遂げた。
家臣が首を持ち帰り、ことの次第を言上すると、信建は怒りにまかせて首を獄門にかけたという。
津軽の官製史書『津軽一統志』もさすがに哀れと思ってか、一件っを記したあと、「天藤が横死せし、不運のほどこそ浅ましけれ」と結んでいる。
以上、「続・つがるの夜明け」から
ちなみに熊千代のやけど跡は治らず、醜いままであったのも一因となり、津軽氏を継承せずに為信三男で関ヶ原合戦時に家康本陣にいた津軽信枚が二代目を継承することとなった。
0544人間七七四年
2012/11/29(木) 14:19:17.31ID:ebhULvH2信建が豊臣に近かったことと為信よりも先に亡くなったことで、この系統は没落するんだよな
0545人間七七四年
2012/11/29(木) 18:05:53.89ID:iGTjITmr奮戦して敵に目に物見せてやろうと、五郎入道正宗がうった乱刃の
抜けば玉散るばかりの太刀三尺二寸を軽々と掲げ、多勢の中に打って出た。
隆豊は活人剣、殺人刀、向上極意の妙剣、十字手裏剣、沓ばう身などの
兵法の術を尽くして斬り廻ったので、もはや手先に向かう兵もいなくなった。
隆豊は「もう相手になる敵もいないか。雑兵なぞを太刀汚しに殺しても仕方ないな」
と立ち帰り、仏前で鎧を脱ぎ短冊を一枚取り出して
「見よや立つけぶりも雲もなか空にさそひし風のあとも残らず」と辞世を残す。
黄門定家卿の末流とはいえこのような時に歌を詠むとは思いもよらなかったが、
歌道に入魂したのでこのように口ずさんだ。優美な心である。
かくて隆豊は腹を十文字に切り、返す太刀で胸もとを突き立て夕の露と消える。
その死を惜しまない人はいなかった。
――『室町殿物語』
0546人間七七四年
2012/11/29(木) 18:31:49.44ID:MIYs+5wb0547人間七七四年
2012/11/29(木) 18:59:30.64ID:CG4P9gBD0548人間七七四年
2012/11/29(木) 19:22:44.14ID:oQXW4n1B一条さんとこと同じ
0549人間七七四年
2012/11/29(木) 19:34:57.38ID:oQXW4n1B中国にはそのタイプの英雄が多いな。
まあ、広大な大陸だから逃走しながら闘争する戦術使いやすいのだろうな
0550人間七七四年
2012/11/29(木) 19:42:51.96ID:ynFq+kSp0552人間七七四年
2012/11/29(木) 21:42:50.99ID:bwSx+5J3永禄十二年(1569)、武田信玄と北条氏康が三増峠で合戦に及んだ。
結局戦いは信玄方が勝ったが、武田方の殿として残った三島一族は北条方の追い討ちにあい、味方から引き離されてしまった。
三島勢は追撃を振り払い、なんとか鳶尾山のあたりまで落ち延びた。
「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」
落ち武者たちはお互いに励ましあって夜の山道を進みつづけたが、突然一人が叫びだした。
「う、海じゃ!」
指さすあたりを眺めると、確かに海のようだ。見渡す限り一面に白い波がきらめいていた。
当然、甲斐に海はない。
「で、では、われらは道を間違え小田原の海に出てしまったと言うのか」
落ち武者たちは呆然として顔をみあわせた。
故郷の山が近いと、心がゆるんだあとだけに、もはや一歩も踏み出す気力は無かった。
「もはやこれまで、敵の手に掛かって死ぬよりは……」
と、一人が腹に刀を突き立てると、もう止めるものもなく、次々とそのあとを追って死んで行った。
……しかし、落ち武者たちが見たのは海ではなかったのである。
月の光をうけて、一面にしろじろと揺れている蕎麦の花を、海と間違えたのだった。
わずかに生き残った落ち武者の一人からこのことを聞いた村人たちは、あまりの痛ましさに言葉もなく、それから蕎麦づくりをやめたのだという。
今でも厚木の市島では、蕎麦はつくらない。
『乱世に生きる 日本の民話8』より
本棚をあさってたら面白そうな本を見つけたので一部を編集して抜粋してみた。
蕎麦の花を海(川)と間違えた、って話は上杉謙信が川中島から撤退する時にもあった話だけど、これは逸話のテンプレなのかしら
0553人間七七四年
2012/11/29(木) 22:08:21.68ID:1uUTXw8I>「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」
いやいやいや、まだまだ全然遠いから、
険しい丹沢つっきって直線でも国境まで20km以上あるから(´・ω・`)
0554人間七七四年
2012/11/29(木) 22:28:36.25ID:Why8UaWw0555人間七七四年
2012/11/30(金) 01:14:07.14ID:Ba2DCcCh0556人間七七四年
2012/11/30(金) 06:30:43.10ID:szDOamf6史料的に、とうもろこしが伝来するのはこの10年後だけど
0557人間七七四年
2012/11/30(金) 09:09:24.71ID:pJDwcquZどんだけ遠くから見てるんだ
0558人間七七四年
2012/11/30(金) 11:05:56.64ID:2tcsPcxhこういう錯覚を起こしても不思議ではないな
0559人間七七四年
2012/11/30(金) 12:18:44.93ID:y8PtCFIH極限状態下で今までの苦労が無駄と判明したら心折れるわ
厚木に出たなら実際に道間違えたっぽいし
0560人間七七四年
2012/11/30(金) 13:51:07.33ID:k53uNVz4城が燃えていると勘違いして自害した白虎隊士も近い感じかね
0562人間七七四年
2012/11/30(金) 15:44:41.78ID:8UXR3/YH0563人間七七四年
2012/11/30(金) 15:50:43.87ID:gG4Vpwu30564人間七七四年
2012/11/30(金) 17:17:15.99ID:IYlXkk4M『日本の皇帝で、「コンバコンドノ(関白殿)」と称する者は、薪売りの卑しい身分から今の身分へと
暴力を以ってのし上がってきたもので、現在はその身分に尊大に安んじています。
彼は反乱の恐れのあるところには、身分は低いが彼の信頼するものを統治責任者として送り込み、それまでの
血統と相続故に支配していた者達を殺害、あるいは幽閉します。
また彼が領地、あるいは何らかの地位に誰かを据える際には、その者の子、あるいは兄弟、又は他の人質を
自分の元に取ります。
このようにしてすべての基礎を固め服従させたので、今は国内で何もすることが無くなり、それぞれ兵力五万を擁する
軍隊を3隊作り上げました。各軍は兵糧、武器、弾薬を多量に備えた艦船多数で武装しています。
彼は朝鮮遠征を公にしましたが、朝鮮というのは中国に隣接した屈強で過酷な地であり、遠征しても必ずや
敗北に終わるほど獲得の難しい土地であります。ですから、彼は彼はマニラを攻撃するためわざと朝鮮の名を出し
噂を広めたのだと明らかに推測できます。
何故なら、彼は当地の情報を収集するために放ったスパイ(私がこの手紙を書く3年前に、3〜40人の日本人が
キリスト教の巡礼衣でやって来ました。信心行のため当地の教会を訪問するという名目で、首からロザリオをかけ
たくさんの苦行をしていましたが、マニラ市に隣接する、周囲1.5レグアに及ぶ地帯全体を、海や河口を通って
くまなく歩きまわり、全て偵察して帰っていったのです)の他に、ガスパール(原田孫七郎)とか言う日本人キリシタンが
極めて特異で、またしばしば目立ちました。この男は当地の事情について非常に多くの情報を得、偵察していったのです。
帰国したこの男を、主人であるコンバコンドノは大いに褒め、多くの褒美を取らせ、自分の甥に領国を放棄させた上、
手元の300万金のうち200万金を与えました。
あの男は自らこの遠征にやってくるはずです。戦に勝とうが死のうが、ここに留まるためです。その狙いは
毎年当地から陛下に送られる、多額の金です。
コンバコンドノはそれを聞き及び、当地の征服を企て、その実行を望んでいる、ということなのです。』
フィリピン総督からの、豊臣秀吉の脅威についての報告である。
0565人間七七四年
2012/11/30(金) 17:22:30.98ID:eTJKxE2aそりゃスペインの守備隊なんてカスみたいな人数しかいないだろうけど…
0566人間七七四年
2012/11/30(金) 17:50:00.55ID:PJUFqn7+明から大軍がやってくるわけでもないし、スペイン人追い払うだけならなんとでもなるでそ。
もちろん、その後きちんと統治できるとは、とても思えないけど。
0567人間七七四年
2012/11/30(金) 18:13:57.18ID:wGHN8sOI鷹狩りに出かけ、一日中遊んで暮らした。同じ時、十河一存の子・孫六郎修理大夫の
次男・七郎兵衛が五十人ばかりで勝尾寺より帰るところだった。
一行が草の深い所の傍を通ると駒形の鷹犬が草原を嗅ぎ回っているところだった。
犬は人々をきっと見て見知らぬ奴だと大いに吠え掛かり、飛びついて噛み付こうとしたので、
小姓が素早い手利きで打刀を引き抜き、犬の細首をずんと切り伏せた。
その後、犬引きが犬の死骸を見つけて仰天し駒形に報せると駒形は「なんたる狼藉だ!
畜生をかように切って棄てるとは、あの野郎め逃がさんぞ!!」と、只一人三町ばかりを
走って一行を追いかけた。追いついた駒形は一行五、六十人の中へ押し入り、
「只今鷹犬を殺しなさったのはどなたですか」と言ったが、侍たちは「いやぁ知らないな」
とばかり言うので駒形は機転を利かせて「犬は畜生ですから別に死んでもよいのです。
ただ、もし噛まれた方がいて痛がっておられるのではと思いここへ参ったのです」と言った。
例の小姓は「ああ、そういうことか」と思って「それがしと主人へ噛みつこうとしたので、
ただ一打ちに致した。あんな癖の悪い犬を飼うなんておかしいですよ」と厳しく言った。
「さてはコイツか…」と感づいた駒形は「おのれも共に畜生道へ行きやがれ!」と言うままに
小姓の細首を宙に落とした。一行は大騒ぎになって傍にいた若侍が刀を抜いて向かったところを
駒形はその右腕を切り落とし、そのまま多勢を切って廻ると近寄る者もいなくなった。
そこへ駆けつけた駒形の侍や勢子三十人ばかりが切り掛かったので、勢子どもも多く切られた。
しかし、かなわないと思ったのだろう、五十余りの侍たちは主を捨てて逃げ出し、遅れた
七、八人が切られてしまった。後に隣郷にも聞こえて「駒形が手柄、修理の孫六郎後を取りける」
と噂になったので暫く世間へ出てこなかった。
――『室町殿物語』
駒形さんは愛犬家なんだなぁ(棒読み)
0568人間七七四年
2012/11/30(金) 18:27:38.41ID:Z1IEIH2n0569人間七七四年
2012/11/30(金) 19:32:14.01ID:Ba2DCcCh0570人間七七四年
2012/11/30(金) 19:44:08.71ID:QGq5E4hF0571人間七七四年
2012/11/30(金) 20:53:09.48ID:8UXR3/YH0573人間七七四年
2012/11/30(金) 21:26:48.41ID:jAQ+L2/w「大阪の大野修理より伊勢神宮の御師(祈祷師)たちに、内々に関東方を調伏するための祈祷が依頼され、
禰宜たちが大勢申し合わせ、大野から多くの金子を受け取り、人形を作り将軍家御父様(家康)などを
呪詛し奉りました!」
「そうか、それはけしからぬことであるな。」
と、勝重は答えたものの、訴えを聞き流し取り調べようともしなかった。
訴人はそれを不満に思い
「これは以ての外の罪であり、早々にお仕置きなさるべき事でありましょう!
もしこれを放置していることが大御所様のお耳に入れば、伊賀守様の罪にも相成りますぞ!」
と言い募った。
これに京都所司代の中にも、訴人に言うことに同調するものが出てきた。
そのため重勝は家康に、この措置についてお伺いを立てた。
家康はこれを聞くと呆れ
「そもそも禰宜・山伏のたぐいが、金子をもらって人に頼まれその様なことをするのは、珍しくもない話だ。
それゆえ、仮に我々が豊臣家より更に多くの金品を渡していれば、その者たちは喜んで、逆に秀頼を呪詛したであろう。
そんな連中の手際で動くような運で、天下の権が握れるものか!
そんな者達の命など奪うまでもない。示しがつかぬというのなら、厳しく叱りつけ追い払えば良い。」
勝重は我が意を得たりと頷き、呪詛をした禰宜たちに伊勢からの追放を命じた。
命が助かったことに彼らは大いに喜び
「誠に寛大なるお仕置きです!徳川家は万代にわたって栄えるでしょう!」
と、口々に言ったという。
(明良洪範)
なるほど、家康の言った通りの者たちであった。
0576人間七七四年
2012/11/30(金) 22:27:18.93ID:IfA6klnT同じ逸話の別バージョン
伊勢大神宮の御師と家康 出典は老談一言記
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4115.html
あとこれも。ソース不記載だけど、ググったら駿河土産が出典らしい
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3740.html
駿河土産の逸話では、追放されずに御咎めなしになってる
管轄から考えると、伊勢の案件だから山田奉行が処理している
駿河土産が出典のバージョンが一番史実に近いのかな
0577人間七七四年
2012/12/01(土) 14:37:03.30ID:Ss79z7lE『今より前には、嘗ては互いに通信したことなしと雖も、礼儀を尽くしてこの書簡をしたためる。
我が偉大なる主君関白は、来年戦争を行わんため中国に向かわんとしている。もし同国が、他の諸国とともに
降伏し貢物を送らざる時は、仮に遠しと雖も、戦士を派遣してその国を占領せいむべし。
これ故に、付近の諸国はみな降伏して命令に服従している。
貴殿の富める国に対しても、また戦争を行おうと考えていたが、原田(孫七郎)が関白の顧問会議の一員である
何某に告げ、同人が関白に告げた所によれば、もし日本国およびその宮廷において決定したるところを通知せば、
必ず貢物を贈るべきが故に、戦を行う必要なしとの事であった。
右の意見に従いて、この書簡を贈る。
私は当国の大官の一人であり、我々が速やかに相まみえられるよう、この書簡の如くいたせば、
貴国は安全に眠れることを得るであろう。
恐れること無く、躊躇すること無く、私が派遣する人物、すなわち私の通事に一切の秘密を語れ。
適当なる、敬意を表す。
天正十九年九月十一日。シャウリュウキュウ発(地名らしい。不明)。執事』
(異国往復書簡集)
この「ティアン・キット侍従」なる人物、浅野長吉、すなわち浅野長政であったらしい。
長吉→チョーキツ→ティアン・キット、となった模様。
大陸出兵と同時期に進められていた、豊臣政権によるスペイン勢力への圧力の一端である。
0578人間七七四年
2012/12/01(土) 14:50:54.49ID:63HARdOs0579人間七七四年
2012/12/01(土) 15:29:29.94ID:3tkmdVk/0582人間七七四年
2012/12/01(土) 15:52:14.30ID:967gJXn3天正十七年(1589)二月二十五日の、聚楽第落書事では秀吉は、警備責任者17人、容疑者・関係者60数人を処刑している
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5904.html
一方、家康は京都で『御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼』という落書が出た時、板倉勝重に
「落書きは禁止するな。はしたないことだが私が見て参考になることもあるだろうからそのままにしろ」
と命じている。
0583人間七七四年
2012/12/01(土) 18:01:06.58ID:669Qsn1+0584人間七七四年
2012/12/01(土) 18:21:19.91ID:XRs2qPBY0585人間七七四年
2012/12/01(土) 19:30:47.01ID:ODu+rC7g佐久間は怠け者だと罵倒されたし安藤は大昔の謀反容疑が理由だったからな
要するにおまえは気に入らないから追放すると言うことだからな
天才だから人の気持ちがわからなかったんだね現代でもそういう上司がいるが
0586人間七七四年
2012/12/01(土) 19:33:55.00ID:dlP8Q0d40587人間七七四年
2012/12/01(土) 19:34:50.19ID:Ss79z7lE信長の実際の性格→俗説の家康の性格
秀吉の実際の性格→俗説の信長の性格
家康の実際の性格→俗説の秀吉の性格
こんなイメージ
0589人間七七四年
2012/12/01(土) 19:39:54.21ID:5YiYLZ5M0590人間七七四年
2012/12/01(土) 20:53:22.27ID:ekfVfwoM昔の謀反で追放といえば林佐渡守の方が有名だろ(´・ω・`)
信長の性格の過酷さをあらわすエピというと
塙直政討ち死に後の遺族への扱いだな
明智の謀反にも絶対に影響してるわ
0591人間七七四年
2012/12/02(日) 13:06:03.36ID:3doiYio0佐久間折檻状はまず石山本願寺攻略の遅滞と炎上への怒りが最初にあって
なまじ自分で書いたもんだから途中から筆と勢いが乗っかって書き過ぎちゃった、
て気配が半端ない
一晩寝かせて祐筆に清書させたら内容変わってたんじゃないか、あれ
0593人間七七四年
2012/12/02(日) 14:30:32.51ID:DhGJv2v5ある時、将軍自ら美麗な印籠を求め、忠俊に「どうだ?中々見事なものだろう?」と、自慢げに見せた。
これを手にとった青山忠俊、
「上様にはなんとなさる!!!」
激怒
「御祖父様(家康)は一生のうち、かような印籠を持たれたことはありませぬ!全て長門の黒塗りでありましたぞ!
そもそも印籠などというものは、薬が入れば用が足りるもの。上様のご治世未だ間もない折柄、かような華美なものを
ご自身が好まれれば、皆がこれに習いまする!!」
と、この印籠を庭石に向かって投げつけた!
それでも未だ怒りが収まらなかったか、そのまま庭に出てこれを足蹴にし踏み砕いた!
全て家光の目の前、他の家臣たちもいる前での出来事である。
当然ながら家光はこれに激怒し、即座に所領召し上げを命じたが、忠俊は「こんな事もあろうとは、かねてより覚悟!」
と、嫡男の宗俊を伴い、相模藤沢に蟄居した。
これに対し家光は
「罪をなしたのは忠俊であって、子息には何ら罪はない。従前通り出仕するよう」と、
宗俊に戻ってくるよう伝えたのだが、
「父が勘気を受けたのに、子供だけがどうして栄えられましょうか!」
そう言って出仕しようとはしなかった。
後に家光は大いに後悔し、忠俊に対して再三出仕するように命じたのだが、ついに出仕することはなく、
蟄居のまま一生を終えた。
青山忠俊、将軍の面目を丸つぶしにしてまでの諫言であった。
(駿江雑説弁)
0594人間七七四年
2012/12/02(日) 14:45:40.20ID:u6VZGYqj0596人間七七四年
2012/12/02(日) 15:51:44.29ID:W5qoZGjU0598人間七七四年
2012/12/02(日) 19:03:32.14ID:wM6SK17W慶長13年(1608年)2月、森忠政が統治する美作でのこと。
津山城普請奉行の一人である薗四郎右衛門が今村与一右衛門の屋敷の前を通りかかったところ、
かねてより遺恨のある足軽数人に襲撃を受けるという事件が起きた。
しかしながらこの四郎右衛門も只の奉行ではない。殺されるどころか敵相手に大立ち回りを演じてついには足軽たちを撃退したのである。
主君の森忠政はこれを聞いて四郎右衛門の首尾よきを賞して50石を加増した後、足軽たちを一人残らず処刑した。
(森家先代実録)
0599人間七七四年
2012/12/02(日) 19:09:38.62ID:NAmIn8cp0600人間七七四年
2012/12/02(日) 19:12:34.52ID:dkwSjn/Q0601人間七七四年
2012/12/02(日) 19:16:03.93ID:p39R6qdU0602人間七七四年
2012/12/02(日) 19:20:32.42ID:YUwcE7Qz0603人間七七四年
2012/12/02(日) 19:23:40.81ID:6xDbdqAk0604人間七七四年
2012/12/02(日) 19:47:04.12ID:VPBbHfJr0605人間七七四年
2012/12/02(日) 19:55:14.52ID:ejwx7XgR0606人間七七四年
2012/12/02(日) 20:54:28.56ID:/LHDYjR+今川氏真みたいに、讒言を受けて家臣を誅殺したものの後で罪を撤回し、
讒言した者を罰するけど命は助ける、みたいなことをやってると遺恨が
深まる一方になる
0607人間七七四年
2012/12/02(日) 21:03:12.35ID:71bXYi1H0608人間七七四年
2012/12/02(日) 21:16:18.37ID:nxs0sbJaよっぽどひどい恨みを買ったんだろうけど、何やらかしたんだ?
0609人間七七四年
2012/12/02(日) 21:32:16.43ID:p6ggS3XC・・・ていう幻聴が聞こえたorz
0610人間七七四年
2012/12/02(日) 21:36:55.60ID:WHuJOZktって声が聞こえたような…
0612人間七七四年
2012/12/03(月) 02:06:10.41ID:6mzFXQpn0613人間七七四年
2012/12/03(月) 06:42:39.38ID:B4nuTJbp0614人間七七四年
2012/12/03(月) 10:39:53.93ID:WuGekULZ0616人間七七四年
2012/12/03(月) 12:37:58.85ID:iWZv2K9t0617人間七七四年
2012/12/03(月) 12:41:42.75ID:+CZVJZi60618人間七七四年
2012/12/03(月) 18:02:06.58ID:tVKt69Nz駿河にて塙団右衛門は名高き大剛士と聞いたお万は、
「お子たちに太刀を参らすのは当たり前のことです。
大将の宝とはまさに士であって、それ以上の物はありません」
と、鏡台金として毎年賜る五百両のうち二百両を団右衛門が
流落していた時に与えていた。
「有事の時には剛の者を一人でも愛しき子に参らせたい」
と言っていたのだとか。
大槻磐渓曰く
「化粧に務めてその美を飾るのは婦人の常態である。
その化粧料を捨てて国家のために猛士を養うなど思いもよらぬことだ。
ああ、この母にしてこの子あり。南龍公が勇武絶倫であることは
怪しむに足りないことである」
――『近古史談(常山紀談)』
でも結局団右衛門は…。
0619人間七七四年
2012/12/03(月) 19:06:57.08ID:iMgPW1C60620人間七七四年
2012/12/03(月) 21:10:34.29ID:3KzWe+JKそういう伝手があれば大坂の陣でちょっと活躍すれば取り立ててもらえたのに
0621人間七七四年
2012/12/04(火) 00:07:45.67ID:P2+cHhb7名誉欲だけが人一倍あったんじゃね?
大阪方で暴れまくって死んだおかげで名前が400年後まで残って大正解だな。
0622人間七七四年
2012/12/04(火) 00:24:08.06ID:aonzPXzXhttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1354532641/
お前らの子供の名前は当然、忠興、政宗、家久、鬼武蔵のどれかだよな?
0623人間七七四年
2012/12/04(火) 00:54:32.67ID:+g/9nTeHあと多分政宗ってつけている人は割といると思う…
0626人間七七四年
2012/12/04(火) 01:44:05.08ID:BTuNTrTu0628人間七七四年
2012/12/04(火) 02:31:29.12ID:zdXS89/+おそらく名前負けと人は言うさい
0629人間七七四年
2012/12/04(火) 02:34:53.48ID:CqSua+tS0630人間七七四年
2012/12/04(火) 10:13:38.56ID:PkRKXyoH0632人間七七四年
2012/12/04(火) 16:35:15.94ID:zdXS89/+0633人間七七四年
2012/12/04(火) 17:10:37.33ID:pZhWRVCfつか、子供らしく「奇妙」でいいだろ
茶筅、次、人、お拾、とかもご用意しておきました。
0634人間七七四年
2012/12/04(火) 17:13:31.31ID:+wjTY34W0635人間七七四年
2012/12/04(火) 17:16:19.26ID:pZhWRVCf0637人間七七四年
2012/12/04(火) 17:29:28.97ID:XMiSo4Mt0638人間七七四年
2012/12/04(火) 17:31:17.25ID:3cNd9Dyv0639人間七七四年
2012/12/04(火) 18:52:02.90ID:mUQkG000本多佐渡守と同姓同名の奴を見たことがあるし
0641人間七七四年
2012/12/04(火) 19:36:25.54ID:Y5gPfHjsまさに肥前の熊って感じの恰幅の良い女の子だった
0642人間七七四年
2012/12/04(火) 20:32:44.12ID:lj5ANi5x(この前々日、スペイン領メキシコより来航したビスカイノ一行は、江戸にて将軍秀忠との会見を
成功裏に終わらせていた)
『翌日、栄光ある聖ヨハネの金曜日、我々の使節は随行の兵に隊列を組ませ、聖フランシスコ修道院まで
ミサを拝聴に行き、この町(江戸)で成功を収めたことを神に感謝するように命じた。
つまり、陛下(フェリペ2世)に奉仕でき、日本の皇太子(秀忠)や他の人々には喜んでもらえた以外に、
死者もなく、この町にこの時期よく起きたような流血や不愉快なことは何ら起きなかったからだ。
日本人自身がこれに気が付き、使節に対し、非常に幸運な事だといった。
修道院に向かって歩んでいると、途中に政宗という武士が待ち受けていた。
政宗は奥州国の領主であり、二千人以上の兵と騎馬の人を沢山引き連れていた。
強大な領主であり、望めばいつでも八万人以上の兵員を戦闘に動員することが出来た。
彼は使節を認めると直ちに馬から降り、「私のために、使節に随行している兵に礼砲を撃たせてほしい」と、
部下に言伝で伝えさせた。彼はそれを見たかったのだ。
かくして、直ちに我等の兵が二発撃ったので、その爆音は驚き耳を覆うほどであった。
たまたま近くにあった馬は火薬の音で大混乱に陥り、主人を地面に振り落として逃げようとし、
また食料や野菜を積んでいた馬は地面に転がった。
この事態はこの紳士(政宗)を大喜びさせ、彼は死ぬほど笑った。
一段落つくと彼は使節に近づき、地面今で届きそうなお辞儀をして礼を述べた。
『自分の家来と国をその様に具す』と言い、丁重に挨拶をして前進を始め、通り過ぎた。
このような礼節の丁重さでは彼ら(日本人)は世界中のどこの国にも勝り、特に高貴な人々にあってはそうである。』
政宗、外国使節と出くわして江戸でひと騒ぎ起こしたらしい、という記録であるw
0643人間七七四年
2012/12/04(火) 21:05:33.89ID:mUQkG0000644人間七七四年
2012/12/04(火) 21:18:11.09ID:O2Ntq34+0645人間七七四年
2012/12/04(火) 21:20:33.62ID:yYYl/Xuv0646人間七七四年
2012/12/04(火) 21:53:25.17ID:/KICZSw/0647人間七七四年
2012/12/04(火) 21:57:15.97ID:3cNd9Dyv江戸の街中で空砲とはいえ鉄砲撃たせたのか。
0648人間七七四年
2012/12/04(火) 22:13:38.33ID:3pzAUFFQ0650人間七七四年
2012/12/04(火) 23:21:34.38ID:FykM800i0651人間七七四年
2012/12/04(火) 23:31:34.37ID:Q/bj9MAf0652人間七七四年
2012/12/04(火) 23:53:29.23ID:FiynpENi・・・あれ?そんなに動かせたっけ?
0653人間七七四年
2012/12/05(水) 01:17:42.66ID:EIqB+a1o0658人間七七四年
2012/12/05(水) 03:31:59.13ID:7oZ/i2bJ俺らも笑ったwww
0659人間七七四年
2012/12/05(水) 18:35:32.10ID:IGvxYZE00660人間七七四年
2012/12/05(水) 19:51:46.31ID:m2gTiIkH0661人間七七四年
2012/12/05(水) 20:18:47.06ID:9P1FqeYG「日本人の礼儀正しさパネェ」で締めくくる書き手の感性もスゴイな
0662人間七七四年
2012/12/05(水) 21:18:38.00ID:Qr7e9wQ/0663人間七七四年
2012/12/05(水) 21:39:39.49ID:/0Npa9i80664人間七七四年
2012/12/05(水) 23:45:34.05ID:+E8g/w+O一つになって万里小路へ一文字に押しかけ洪水が入り込んだ。洛中はさながら
河原のようになり、訴えがあったので検断人・伊澤新右衛門の同心・岡部忠兵衛が
奉行として普請を務めた。
人々は土俵を築き立てて井関を組み、雲霞の如く南北に馳せ群がって働いていたところ、
ある四十歳ほどの男が精根尽きて、堤の下の柳の陰で東を見渡して伏していた。
これを見つけた岡部は杖で男の背中をひどく突いて「こんなにも皆が隙なく相働き、
休む間もない普請だというのに伏せておるとは物臭き曲者め。とっとと立ち上がれ!」
と、男を睨んだ。
すると男は「今朝より人一倍働きましたので精根尽きて休んでおります。
それを泥杖で突っかかる方こそ曲者じゃ」と言い返した。それを聞いて岡部が
「何という狼藉を言うのだ!」と重ねて杖で打ったが、二打目に男は
腰の一尺と五、六寸の打刀を引き抜き、弓手の脇腹を彼方へ通れと突き刺したので
岡部は二言と言わずに死んでしまった。そして男もまた大肌を脱いで土俵の上に腰掛け、
腹を十文字に切った。
この一件が松永の耳に入り、松永は「日本一の不覚者め。物頭だからと下を侮る者が
必ずこのような怪我をするのは度々の習いだ。同心は自身のせいで、使用人は運が
尽きたためにまったくの犬死をしてしまった」と散々に立腹して伊澤を呼び
「重ねて起こりうることなれば、同心たちによくよく言い付けよ。彼らの恥は松永の恥だ」
と、怒った。
――『室町殿物語』
松永は平蜘蛛の人かな?
0668人間七七四年
2012/12/06(木) 20:43:26.97ID:2PduHpomであったので秀次の気に応じ段々と大身になっていった。ところが後には
秀次謀叛の一味となって諸々の悪逆をなし、ついには秀吉を殺害しようと
伏見城へ潜入した。
しかし叶い難く空しく帰ろうという時に残念だからと、証拠に秀吉の
秘蔵していた水指の蓋を盗み取り持ち帰った。そのような人だったので、
毎夜秀次の寝所で密談しているのを人に怪しまれることを恐れ、女乗物で
城中に出入りした。
これらのことが露見したために秀次は生害、常陸介とその子志摩はともに
京都寺町正行寺で切腹した。
――『良将言行録』
0669人間七七四年
2012/12/06(木) 21:35:51.97ID:zpDC8OmD俺も思った。身なりの悪そうな奴をなめてかかったのかと思ったら
服着て帯刀してる人間を杖でぶん殴って罵倒したんだな
ブラック企業の上司みたいな奴だな
0670人間七七四年
2012/12/06(木) 21:48:28.74ID:FWiPdoP8時代劇では身分が分かりやすいように刀差してるのは武士だけになってるけど。
0671人間七七四年
2012/12/06(木) 22:01:51.73ID:HkcDNvVH身分より梅雨時に土木作業で疲れてぶっ倒れてる状況から
0672人間七七四年
2012/12/07(金) 15:22:15.25ID:QHW+2xZx芸事などなにをやってもうまかった。
なかでも博打にかけては西目第一と評判であった。
一度他国へ行き博打をやったので問題になったが、
その器量を惜しまれ側役として使われ続けていた。
しかしその後、往来札を手に入れ長崎へ行き、
博打で大量の金銀を手にし屋敷を買い、
しょっちゅう丸山の遊廓へ遊びに行くということをやった。
これが城中まで聞こえるようになったので、
城から捕手が派遣され源左衛門は裁きにかけられ切腹ときまった。
そして切腹当日、源左衛門は介錯人に向かい、
「この源左衛門自身で十分に腹を切るから、
私が、首を打ってくれと合図するまでなにもしなくてよい。
もし合図せぬうちから斬ったりしたら、
そなたの七代先までも呪い殺してくれようぞ」
と言って睨みつけた。介錯人は、
「安心してくれ。その方の満足行くまで待つ」
と答えた。
さて源左衛門は、腹を木綿でしっかりと巻きつけると、
そのまま腹を十文字にかいた。
腸が切り口から出てきたとき顔色が少し青ざめたが、
しばらく目を閉じ、手鏡を取出し自分の顔色をながめた後、
検使に、紙と硯を持ってきてくれと頼んだ。
このとき介錯人が、
「・・・もう、よかろう?」
と声をかけたが、源左衛門は目を見開き、
「いや、まだ終われぬ」
と言って、受けとった紙に、
腰抜けと 言うた伯父め くそくらへ
死んだる跡で 思ひしるべし
と書き付け、自分の家来に、
「辞世だ。これを伯父に見せてやれ」
と言い渡し、介錯人に合図し、首を打たせたとのことだ 【葉隠】
0673人間七七四年
2012/12/07(金) 18:01:56.53ID:B/BGYKq5微妙な手際の悪さまで真似せず辞世は腹切るより先に書けw
0674人間七七四年
2012/12/07(金) 18:09:19.89ID:yLM/ghgwと思いつつ読み直したら硯も要求してた
しかしこれ外聞が悪いって理由で切腹なのかしら
0676人間七七四年
2012/12/07(金) 20:27:35.74ID:eKuJ8wS20677人間七七四年
2012/12/07(金) 20:28:24.15ID:eKuJ8wS20678人間七七四年
2012/12/07(金) 20:38:12.26ID:JUiaU8f2ヨナンズア(米沢)の町に到着するには、この日と金曜日の両日かかった。
カングイカス(景勝)殿が同地の領主である。しかし皇帝(徳川家康)が帝国の支配権を求めて戦争をしていた
その時に、その友好陣営にいなかったので、皇帝は彼を幽閉し、二百万石以上を取り上げ、子供らを江戸で人質に取った。
この町に到着する前に、領内入国の許可を求めて皇太子(秀忠)に書簡と到着の知らせを通訳とともに送った。
直ちに彼は必要な物と宿の用意を命じ、あたかも自分の家に入るように入国して良い、と言ってきた。
そして我々は、到着後の訪問とその御手への接吻を許されるよう求めた。
それに対し景勝殿の返答は
『都合の良い時にそうしよう。しかしし現在、少々不調である。もっと有り体に言えば
皇帝が自分から領地を取り上げたので気鬱の病にかかっている』
と言ってきた。これを知って司令官は彼に面会しないことにした。
何故なら先程も私が述べたように、諸侯への面会は物入りで、しかも何か贈り物をするからには
相当のものでなければならないのだ。
そういう訳で(景勝をスルーし)旅を続ける許可を求め、彼はそれを許可し、自分の領地内では何処にても
必要な物はなんなりと無償で用意せよ、と家来に命じた。
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
関ヶ原後、景勝が鬱だったらしい事と、それをこれ幸いと対面スルーに利用したスペイン使節の記録である。
0679人間七七四年
2012/12/07(金) 21:43:50.14ID:kbzzmrWJ0680人間七七四年
2012/12/08(土) 01:35:54.53ID:qMHWH+Hs世界にその名が知られるのは当然だ。
都は大変広々とした平野にあるが、この地に住む人間が大勢なのでその必要がある。80万を越すとの証言もある。
人口については様々な説を聞き、40万というものもあったが、少なくとも30万は居る。とにかく絶対確かなことは、
世界で知られている都市でこれより大きい所はないということだ。
端から端まで10レグアを城壁が取り囲んでおり、朝の7時から夕べの祈りの時間(午後6時)まで、正午に1時間
休憩しただけで歩き続けたが、それでも最初の家群の域から出られなかった。
この町には、日本の王である内裏(天皇)が住んでいる。彼は別名『ボイ』(不明)と呼ばれる。
この王は日本の初めの始まりから直径継承されてきた。日本では王や領主は人目に触れず、ひとと交わらないのが
威厳と考えられているので、常にここに閉じこもって来た。
法的には日本諸国の統治権は彼に帰すが、少し前、太閤様(秀吉)がこの王国に立ち、全ての殿と領主を
武力で彼に服従させたので、この生まれながらの王である内裏は名目のみ残している。
彼は皇帝(徳川家康)自身やこの国の大身の者に権威や官爵の授与を行う。その為の日(除目の日)が
決まっており、当日には全ての者が彼に目通りを求め、各自爵位を示す記章をつけて馳せ参じる。
また「ボンソ」(坊主)と呼ばれる偶像の司祭らにも位階や称号を授与する。ボンソにとって彼は教主であり
最高の司祭なのだ。
皇帝のみが最初の除目の時を除いてこの認証式に来るのを免れる。この(最初の除目の)時ばかりはやむを得ない。
外目に触れる行為や儀式では、皇帝は常にこの内裏に非常に敬意を表し、上席を与える。
この事は良いが、後は彼に許されるのはわずかでしか無い。ほとんど生計の術を持たないのだ。
都のこの町で、内裏が住む宮殿は贅を極め、皇太子(秀忠)や皇帝の城に比肩しうるという。
最も私はこれを見たことがない。というのは、今述べたその日でないと誰の目にも触れさせず、王宮からも出てこない。
この町の奉行所も、王宮の門より内側には統治の手段も権限も何もないからだ。
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)
江戸初期の、京都と天皇についてのスペイン人による記録である。
0681人間七七四年
2012/12/08(土) 01:50:53.29ID:+Vk4vNwxうん、ぱっと見どころかしげしげと見てもさっぱりだw
0682人間七七四年
2012/12/08(土) 02:44:00.46ID:n1yEdEyf0683人間七七四年
2012/12/08(土) 03:42:25.47ID:uEUz6gsd0684人間七七四年
2012/12/08(土) 06:37:16.58ID:2xUxGqyy後のググレカスである
0686人間七七四年
2012/12/08(土) 09:19:15.71ID:gj2beKTx0687人間七七四年
2012/12/08(土) 10:01:36.24ID:ExodO2E60688人間七七四年
2012/12/08(土) 11:26:00.38ID:tZoqLLYXこういった権力の二重構造に関しては元々造詣深いんじゃなかろうか
0690人間七七四年
2012/12/09(日) 01:29:53.67ID:AVZPFXC+サッカーとS○Xと闘牛に宗教に関心を寄せるのがスペイン人
似てるようでちと違う
0691人間七七四年
2012/12/09(日) 02:33:17.66ID:b4U4/JMy(゚ー゚*) (゚∀゚*) (゚ー゚∪
ノヽ~ノヽ ノヽ~ノヽ ノヽ~ノ゛ヽ,
ん † ) ん † ) ん † )
丿 八 ゝ 丿 八 ゝ 丿 八 ゝ
U〜U U〜U U〜U
0692人間七七四年
2012/12/09(日) 10:51:41.07ID:FULY31Rh0693人間七七四年
2012/12/09(日) 20:52:47.03ID:lonx9/Um0694人間七七四年
2012/12/09(日) 23:27:30.44ID:++36dTkK0695人間七七四年
2012/12/09(日) 23:29:24.96ID:JNn1KvZV身の安全は保障すると約束して行長の息子を預かった輝元であったが、もっと安全な所へ移す、
と嘘を言って小西行長の息子を連れ出して処刑し、その首を家康の元へ送ってしまった。
差し出された首を見た家康は「行長の息子には何の罪もないから命まで奪うつもりはなかったのに
なぜ勝手に処刑したのか」と激怒した
輝元の使者は「これは処刑したのではなく、観念した行長の息子が勝手に切腹したのです」と
言い訳してようやく家康に納得してもらったが、後になって嘘がばれたので批判の的となった
(イエズス会年報集)
0696人間七七四年
2012/12/09(日) 23:42:25.03ID:j+MiCoAF負け組のしかも首魁で匿えってのは無理があるし、
かといって差し出したら卑怯な振る舞いと言われるだろうし…。
自業自得だが詰んでるな。
結果的には、輝元の能力的にも悪くない対応のように思う。
0697人間七七四年
2012/12/09(日) 23:43:39.50ID:Sjj0jjjW0698人間七七四年
2012/12/10(月) 00:31:34.84ID:jMQkfFyF0699人間七七四年
2012/12/10(月) 01:24:29.74ID:BZUKfJ7Z0700人間七七四年
2012/12/10(月) 07:56:42.94ID:OII7mYAN0701人間七七四年
2012/12/10(月) 11:22:10.71ID:oFcJsWTt名前が伝わっていないのは元服前だったからだろうか
0702人間七七四年
2012/12/10(月) 11:52:15.79ID:TctNXsqN秀頼の息子の国松も8歳で処刑されてるし
0703人間七七四年
2012/12/10(月) 12:52:07.85ID:oFcJsWTt京都所司代を通じて助命嘆願した結果、許されたそうだ
そうなると、小西行長の息子も生きたまま差し出されていれば助命された可能性はあった
0704人間七七四年
2012/12/10(月) 12:59:38.64ID:x6hnXt3j主犯は5大老と5奉行だった毛利、宇喜多、石田ぐらいで
小西は石田と親しくて関ヶ原で主力のひとつだったから罪を問われた感じだが、
でも斬首はちと重すぎるような。
0705人間七七四年
2012/12/10(月) 13:05:21.54ID:RVidLukH小西行長の子供なんてわざわざ殺す程の存在じゃない。
0706人間七七四年
2012/12/10(月) 13:28:25.74ID:zzZWxi3A小西行長と豊臣秀頼の格は言うまでも無い
0707人間七七四年
2012/12/10(月) 13:55:56.57ID:WR8vgCU3本州の端っこ同士なのにこの差はなんなのだろうか
0708人間七七四年
2012/12/10(月) 14:57:27.39ID:/JzyJ5vkTERUだし
0709人間七七四年
2012/12/10(月) 16:07:56.04ID:FrV9HigX0710人間七七四年
2012/12/10(月) 17:13:24.85ID:DH1GjqF/0711人間七七四年
2012/12/10(月) 17:52:18.61ID:VNKcRzxX0712人間七七四年
2012/12/10(月) 19:15:24.22ID:thJISNUt西軍の首魁で一番幕府から睨まれてる立場で匿うのは難しいからな。
それでなくても家の取り潰しが見えてる状況で津軽などとは違うし。
差し出した小西息子がテルの更なる策謀を証言しました、
とか徳川側に主張される可能性もある訳だし、
死人に口無しは口実与えない観点からは考えられない訳じゃない。
…まぁ単純に先走っただけだと思うけど、テルだし。
0713人間七七四年
2012/12/10(月) 20:20:54.21ID:VNKcRzxX筋目を通して匿うってんならそれはそれで良かった。
「ああ、アイツはそういう思考なんだ」ってことでコントロールする方法が分かる。
逆に行動原理の読めない対応は外交において最悪。何しでかすか分からん以上は厳しく押さえつけるしかない。
関ヶ原以前からそうだったから今更どうなるもんでもないけど、大減封を食らった原因はそこなんだろう。
0714人間七七四年
2012/12/10(月) 20:30:38.25ID:GYalCcg6近衛信尹の日記には修正部分が多いが、その中の透けて解読できる部分、天正19年3月の部分に
「毛利輝元は片目である、伊達政宗も片目である、殿下は(以前)小者だか今は殿上人で彼も小者である」
と記されている
この殿下は秀吉に相違なく、ここでは輝元と秀吉が片目だったとしている
信尹の日記は他にも欠損部分が多く、例えば関ヶ原合戦前後は丸々無くなっている
日記も正直に書きすぎると抹消されてしまうのである
0715人間七七四年
2012/12/10(月) 20:31:27.78ID:GYalCcg6訂正
「毛利輝元は片目である、伊達政宗も片目である、殿下は(以前)小者だか今は勿論殿上人で彼も片目である」
0716人間七七四年
2012/12/10(月) 20:39:17.71ID:cHrP/gax武田信玄は駿河方面を警戒していた北條の隙をつき、小田原衆の思いもよらない方角から笛吹峠を超えて、
武蔵国江戸の葛西に懸り、人数を二手に分けて小田原へと寄せた。
一手は八王子口より町田に懸り、つく井・滝山を攻める体にて道筋で略奪をした。
一手は江戸城を攻める体にて、江戸・品川・縄島あたりを焼いて民家を略奪した。
ここに奇妙なことがあった。
信玄の侍に竹森、花村という者があったが、この二人は品川の観音堂を焼き、本尊を取り財貨を略奪した。
ところが甲州に帰った後、かの観音の仏罰が当たり、彼らは突然錯乱した。
このため彼らは観音を他所に移したが、それでもまた錯乱を起こした。
これを持て余した彼らは、往来の乞食聖に、観音を品川に返してくれるよう頼み込んだ。
この観音はこのご3年いろいろな不思議を現し、品川に自ら帰るという宣託を下され、実際に品川に帰られた。
誠に末世の不思議である。
しかし品川に帰られたものの、御堂も焼けどこにも据える場所がなく、乱世の事でもあったので、
新たに建立する者もなく、路の傍らに乞食法師らが仮の草堂を作ってそこに安置した。
今も品川の森の側に辻堂が見えるが、それこそこの観音である。
(關侍傳記)
0717人間七七四年
2012/12/10(月) 20:49:09.14ID:thJISNUtその仮説は結果を知って言える事であって、
当時の情報に制限がある中で、
筋目を通せば大丈夫、と判断しろってのは厳しすぎるだろw
所詮仮説に過ぎず、実際大丈夫でなかった可能性も否定できないとなればなおさらやね。
0718人間七七四年
2012/12/10(月) 21:12:23.26ID:HOQQS3kyhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1355133116/
0720人間七七四年
2012/12/10(月) 22:12:43.72ID:lNZYo2C4「権左衛門よくまいった。まだ組討ち始めをしておらぬ。
その方、ワシの打たれ方をつとめてくれ。」
と山城守殿が申されると、権左衛門は、
「打たれ方のみならばお断りします。
私にも打ち方をやらせてくださるならお相手いたしましょう」
と言った。
「それでよい」
と山城守殿も約束を交わして組討ちを始めた。
さて、大剛で有名な山城守殿は権左衛門を力いっぱい組み伏せ、
それを終えるとさっさと席に戻ろうとされた。
権左衛門が、
「侍同士の約束をお破りになられますか」
と言ってひきとめると、山城守殿は仕方なく、
「立場というものがある。簡単にすませてくれ」
と言って受け方となられたところを、
権左衛門は力まかせに組み伏せて痛めつけた。
力で勝る山城守殿は、それを跳ね返そうとなさったが、
権左衛門は脇差を引き抜いてそれを首筋に当て、
「戦場で鎧武者を相手にする時はこのようにいたします」
と言って、びくとも動かせなかったとのことだ 【葉隠】
0721人間七七四年
2012/12/10(月) 23:32:19.25ID:g2Ubxt+2この主従は年始のたびに何をしとるんじゃ
0723人間七七四年
2012/12/11(火) 01:45:30.97ID:GjqladoG将軍からの偏諱だからかぶるのは当たり前だが
0730人間七七四年
2012/12/11(火) 17:27:36.29ID:r5+UWTJFそれを解ってたハズなのに途中から誰も期待してない頑固さを貫くあたり
野田首相に似ている。
0731人間七七四年
2012/12/11(火) 18:03:57.46ID:hyrqZ8PA西軍があまりに弱すぎて計算が狂っちゃったってだけでしょ。
0732人間七七四年
2012/12/11(火) 18:20:19.99ID:MDsAJeiJ0733人間七七四年
2012/12/11(火) 19:11:02.06ID:wxaMRhDt0736人間七七四年
2012/12/11(火) 19:39:16.54ID:PpQD1IgIそういう状況だったら家康も秀忠と合流するだろうし
0737人間七七四年
2012/12/11(火) 21:06:57.64ID:OI4os2Ea誰も期待してない頑固さを貫ているのは
石田の方じゃね
家康討伐なんて誰も望んでなかったわけだし
>>734
吉川と小早川のせいで負けた戦なんて関ヶ原以外であったか?
普通に敵勢力を攻めて勝利しているし
むしろ石田たち首脳陣のちんたらした対応の方が弱さの原因じゃね
0738人間七七四年
2012/12/11(火) 21:42:28.69ID:wMrRmq/aもはや毛利一門というより豊臣一門なのが関が原当時の小早川だしなあ
毛利・吉川・安国寺と別に考えるべきだと思うぞ
0740人間七七四年
2012/12/12(水) 05:29:13.12ID:/eJrE2dz信玄は大宮通に討って出てあつばらを過ぎて加島へ進出し、悉く放火して富士川を渡り、岩淵の宿を焼いて
蒲原へ押し寄せた。
蒲原には北條新三郎が籠っていたが、当時駿河方面の北條方は、信玄の小田原侵入の煽りを受けて
小田原に集まっており、蒲原に残るものは少数であった。
このため甲州勢は、『きっと聞落(軍勢が迫るのを聞いただけで自落する)』と侮っていた。
しかし北條新三郎は少しも怯まず、信玄が城を取り巻き、徐々に攻め寄せると、新三郎は弟の少将をここに留め、
自身は狩野新八郎と共に出撃し、甲州勢を悉く追い立て、信玄の近臣・小幡弾正を初めとして悉く討ち取った。
ところが、である。蒲原城内に武田に内通したものがあり、これが甲州勢を城内に引き入れてしまった。
出撃していた北條新三郎・狩野新八郎・新三郎弟少将・渡邊以下三百余人、城に引き返し一人も残らず斬死した。
この新三郎という人は、北條一門でも優れた勇者であり、氏康に特に評価され、人も多い中に、この地域の拠点である
蒲原城を任されたほどの人であった。
ところがこの不慮の討ち死にに、最期に大きな怨念を持ち、霊鬼となってこの蒲原の山に留まった。
樵夫・刈草の童は、これを見て恐れること限りないほどであった。
天正の頃、この山に居住する僧があったが、新三郎の霊はこの僧の元に訪れ物語などをしていた。
ある時僧が、「あなたは何者ですか?」と問えば、「私は北條新三郎の亡魂である」と言って、たちまち煙のように
消えてしまった。
今でも蒲原の住人は、この新三郎の霊に遭う事があるのだという。
(關侍傳記)
0741人間七七四年
2012/12/12(水) 08:52:21.29ID:gQv2B+4w関ヶ原の西軍自体が一日持たずに蹂躙されてるから
広家のせいにしてよいのかさえ疑問。
軍記物と違って兵数に大差があったんじゃなかろうか。
0743人間七七四年
2012/12/12(水) 09:28:04.31ID:DJa15wa9秀吉が死んで戦国の世に逆戻りするところをうまく回避できたのはぶっちゃけ輝元のおかげだったりする。
0745人間七七四年
2012/12/12(水) 15:21:51.00ID:j+rWurv3長男は夭折して、残った次男三男はここで討死に
幻庵じいさまの息子はこれで全員死んじゃった事になる
せめて兄と弟は別の城に置いてやれよ、って気がする
0746人間七七四年
2012/12/12(水) 18:18:09.79ID:qa/7RCob同じ死ぬなら兄弟共に一箇所で斬死にを、て考えなのかな。
兄弟がそう願ったのか上の配置なのかは分からんが。
0747人間七七四年
2012/12/12(水) 18:22:55.85ID:zdNSsK1S0748人間七七四年
2012/12/12(水) 18:26:29.60ID:p8wEpweF0749人間七七四年
2012/12/12(水) 20:14:11.62ID:R9HsZojG0750人間七七四年
2012/12/12(水) 22:13:28.08ID:3HxTAQSD鍋島屋敷内で石井杢之助と大小の刀を賭けて博打をした。
このことが上役まで知れて、両者は切腹、
居間番だった松野喜兵衛は死罪と決まった。
甚左衛門は国に召し返された後、牢屋へと入れられた。
甚左衛門は御家老たちによるお調べに、
「私は自分の行った悪事で牢屋に入り、
やがて処罰が決定されるのを待つだけです。
思い残すことはなにもありません。
しかし一つだけ無念なことがあり昼夜口惜しい思いをしています。
それは何かというと、牢屋の樋の下を鎖で縛ってあることです。
武士でもこのような身におちると、
樋の下をもぐって逃げ出すかもしれないと思われたこと、
これだけが残念で仕方ありません。」
と申し上げた。
しばらくして甚左衛門の処罰も近くなり身柄が寺へ移された。
そこへ藤井嘉平次が酒と小芋を持って見舞いに訪れ、
甚左衛門と酒を酌み交わし、小芋を二人で食べた。
小芋を食べながら甚左衛門が呟く。
「これは喉から出るかな(介錯されると)」
嘉平次が、
「出るわけがない」
と言うと、甚左衛門は、
「いや、胸が詰まって喉を通らぬのだ。
斬られたとき芋が見えたら見苦しいだろう」
と言い、食べるのを止めた。
そして嘉平次に向かい、
「オレはひとかどの口を利いた武士だが、
いま思い返してみると、やはり腰抜けだ。
死場で死にきれず這い回る姿を見せてしまえば、
普段の振る舞いに対して恥ずかしいから、
正直なところ、早く処刑してほしい。
剛の者は死場でも普段と変わらないと言うが、
オレは昨日まで死ぬことなどなんとも思わなかったが、
寺に移されてからなんとなく変わるものがあり、・・・無念である」
と言った。介錯は大塚貞助。
死にぎわは極めて見事だった、と嘉平次の話だ 【葉隠】
0751人間七七四年
2012/12/13(木) 05:16:00.91ID:SpqHlJrPまあ、出世競争の面があるのかもしれない
失点したやつは確実に潰しておくと
0752人間七七四年
2012/12/13(木) 05:37:36.86ID:N0woZZw4居間番には切腹を認めないのが武家の倫理感だな
やらかした者より、見てみぬふりした者のほうが罪が重いという。。。
0753人間七七四年
2012/12/13(木) 06:02:06.13ID:00k5tS9n江戸中期辺りに武士を美化し始めた頃に作られた創作の気がしないでもない
0754人間七七四年
2012/12/13(木) 18:55:31.44ID:STVFrRk4宗文が「こちらは鈴木正三老人なり」と紹介すると、侍は「おのれは薩摩の老職、
諏訪杢右衛門なり」と名乗った。
すると正三は一言も返さずに突然「伊勢神楽を舞って見せよう」と肌を脱ぎ、
「ひらりひらり」と謡いながら両手両足で踏みたたき、その様子はさながら物狂い
のようであった。すべては杢右衛門が自ら老職と名乗った驕傲をくだくためである。
杢右衛門は初めは茫然としていたが、やがてその心を悟って深く崇信の心を抱き、
これより正三の門人となって教えを受けたのだという。
――『近古禅林叢談』
0755人間七七四年
2012/12/13(木) 19:16:50.67ID:8ZDiG6dc1580年3月17日、長年あらそっていた本願寺と信長との間で和睦が成立すると、大勢の門徒たちは帰村した。
5月28日、その門徒たちが勝久寺に集まって法義談合を行っていると不意に信長軍が襲撃してきた。
信長軍は堂舎を焼き払い、多数の門徒たちを捕えて殺害した。そのため、辺り一面が血の海となり、
それ以後、寺の前のその場所を流れの馬場と呼ぶようになった。
0758人間七七四年
2012/12/14(金) 09:31:39.14ID:w+rX1iE90763上
2012/12/14(金) 21:20:33.32ID:+r/iV0Ox山城殿の家来、蒲原喜兵衛の娘であった。
小右衛門は三石という小身、芦原で細々と暮らしていた。
小右衛門の隣には、徳永三左衛門が住んでいた。
三左衛門も同じく十太夫の家来だったが家老をつとめ裕福であった。
八月十五日に小右衛門の妻の実家の町で祭りがあるので、
小右衛門夫婦はそろって実家の神社へと参拝に行こうと話しあった。
そういえば妻の実家から借りた蚊帳を三左衛門へ質として預けている。
祭りのお客が来ることもあるかと思い、
三左衛門のところへ行き、ニ、三日だけ蚊帳を借してほしいと頼んだが、
これを承知しない。それどころか悪口を言い、
「借金があるのに返済せずに、
質に預けた物を返せとは無理無体だ。
今後そたならは当家出入禁止とさせてもらう。
もし姿を見かけたら打ち捨てても構わぬと証文を書け」
と言った。
小右衛門は、ここまで言われてはもはや是非善悪もない。
討ち入って武士の面目を立てるまでだと覚悟を決め、
その場は三左衛門の言うとおりに証文を書いて帰った。
祭りの参拝も中止にして、八月ニ十七日までに身の回りを片付けた。
ニ十八日には新米で餅をついて、夜になると子供二人の枕へそれを並べておいた。
そして妻に知らせず、独り三左衛門の家へと向かった【続く】
0764下
2012/12/14(金) 21:23:21.89ID:+r/iV0Ox三左衛門は、内から戸締りして、なんの返答もしない。
このとき、三左衛門は弟の与左衛門のもとへ、娘のお七を走らせ急を知らせていた。
与左衛門は駆け付け、小右衛門の後ろから斬りかかり、
頭に傷を負わせたが、小右衛門はひるまず向き直り斬り合った。
与左衛門はしだいに小右衛門の気迫に追い詰められたが、
なんとか小右衛門を斬り殺し、近所の新助という者の肩をかり帰っていった。
小右衛門の妻は、夫が討ち入ったことを知ると、
鎌をつかんで三左衛門の家へと駆け向かったが、
途中で小右衛門の死骸を見付け、
「無念」
と歯噛みをした。
そして小右衛門の脇差を手に取り、三左衛門の家に声をかけたが、
三左衛門は出合おうとせず、家の中から長刀で斬り払ってきた。
小右衛門の妻はその長刀の柄にしがみつき引くと窓が崩れた。
そこから妻は内へと斬り込んで、三左衛門にかなりの手傷を負わせたが、
加勢してきた三左衛門の下男どもに斬り殺された。
与左衛門は九月一日に斬り合い傷がもとで死亡。
三左衛門は同四日切腹となった 【葉隠】
0765人間七七四年
2012/12/15(土) 06:53:43.43ID:NaDdx/zv0766人間七七四年
2012/12/15(土) 07:15:44.09ID:FQXJtEvs慶長五年(1600)十二月、関ヶ原合戦ののち次子・信繁と共に九度山に移った真田昌幸は同十六年(1611)に六十五歳で病死するまで、同地で悶々とした日々を送ることとなる。
配流から三年後、慶長八年(1603)に比定される昌幸の書状がある。
…なおなお銀子二匁目を送りいただき、忝なく思います。
度々お手紙を頂き、恐悦の至りであります。
おっしゃるように、それ以来は便りもありません。
こちらは別段変わった事もございませんのでご安心下さい。
内府様(家康)が当夏中に関東へ下向なされる、との噂を聞き及んでおりますから、拙者の事を本佐州(本多正信)がおそらくご披露に及ばれるでしょう。
もし下山できる事があれば、久々にお目にかかってお話したく存じます。恐惶謹言。
卯之三月十五日 安房
信綱寺座下 昌幸(花押)
(『先公実録』)
これは、昌幸が長篠合戦で討死を遂げた兄・真田信綱の菩提を弔う為に建立した信綱寺の住職に宛てた手紙であり、現在も同寺に伝わっている。
さて、配流後昌幸は長男・信之や家康と親しかった浅野長政らに働きかけて、家康に赦免してくれるようにと嘆願を繰り返していたらしい。
事実、この書状には自身の赦免が家康のブレーンである本多正信から家康に披露されるであろう、との旨が記されており、また昌幸もかなり楽観的な意見を述べているから、一定以上の成果をあげたようだが、結果は周知の通りであった。
更にこの書状の八年後、慶長十六年(1611)、昌幸の最晩年に比定され、家臣小山田氏の娘、小宰相に宛てた書状には
「われら、しよくぢのあじも、しかじかおほえ候わず」などと記しており、食欲も衰えてきたのであろう。
その後、「心地はよく候あひだ、御心やすく候へく候」と続き、安心するように述べている。
しかし小康状態も長くは続かず、同年六月四日、かつて信玄に「我が両目の如し」、秀吉に「表裏比興の者」と評された男の眼光は既に無く、遠く故郷に戻る事を夢見ながら没した。
0767人間七七四年
2012/12/15(土) 16:14:39.84ID:O0pXVcS+でも真田親子の蟄居がなければ真田幸村の活躍も無かったんだよなあ。
0768人間七七四年
2012/12/15(土) 17:25:09.03ID:6eAZaUB+だが晩年の昌幸の事を考えれば赦免してやっても良かったと思うがな
0769人間七七四年
2012/12/15(土) 17:29:10.38ID:PTjSIrKc東軍が100%勝つなんてわかるのは後世の人間だけ
0770人間七七四年
2012/12/15(土) 19:08:31.26ID:mRNRElBD0771人間七七四年
2012/12/15(土) 19:25:13.57ID:JdZhUVQv0772人間七七四年
2012/12/15(土) 19:30:01.28ID:tCJu2Vox0773人間七七四年
2012/12/15(土) 19:55:50.73ID:MLXmjZsX葉隠理論は正しい
0774人間七七四年
2012/12/15(土) 23:02:28.16ID:Rqf1vsgO0775人間七七四年
2012/12/15(土) 23:13:33.51ID:KMS9TfBIうちの祖先は正純さんが飛ばされた後の宇都宮に赴任する途中、
見沼用水の辺りで農民になったらしい
でもなんか眉唾っぽいわなwww
0776人間七七四年
2012/12/15(土) 23:46:43.55ID:w3hZYWjJ我が家の先祖がお寺に家系図とその由来を納めていたようで・・
『領地も名前も失った武士』
池田九右衛門は摂津池田氏の一族であった。
しかし知っての通り摂津池田氏は戦国の荒波に飲まれ没落してしまう。
一族であった九右衛門も先祖代々の土地を失い、流浪の日々を送ることになる。
流れに流れ九右衛門がたどり着いたのは備前岡山の地。
ここで九右衛門は帰農することを選び平穏な日々を送ることとなるのだが、
何年か経ったのちに重大な案件が起こる。
それは新たに岡山の地を領すことになった大名家が原因であった。
やって来たのは九右衛門と同じ苗字をもつ池田氏だったからである。
さすがに殿様と同じ名は恐れ多いと思ったのか、
それとも池田氏サイドから命令が出たのかは定かではないが
九右衛門は改姓を余儀なくされる。
先祖代々守り抜いた土地に加え名前まで失ってしまったのだ。
しかし九右衛門の精一杯の意地か新たな領主に対するささやかな抵抗か、
久右衛門は新たに「池本」と名乗ったのである。
まるで池田の本流は我らであるとでも言わんばかりに。
0777人間七七四年
2012/12/15(土) 23:53:12.10ID:Z7yXSjk/摂津池田氏!凄いな。なんか感動するわ。
一時期は三好長慶の一門扱いで、畿内で相当の威勢を張っていたんだよなあ。
信長の例の金ヶ崎の退き口も、殿軍を主導したのは秀吉ではなく池田勝正だったらしいのに。
0778人間七七四年
2012/12/16(日) 00:31:11.40ID:l5GMZZkq0779人間七七四年
2012/12/16(日) 01:05:37.85ID:EQyYH/KO0780人間七七四年
2012/12/16(日) 09:58:48.94ID:oARWiNWo都には王や領主が皆屋敷を構えており、多数の兵で守り固める大変大きな城がある。
皇帝(徳川家康)の娘婿(松平貞勝)がその城の総督である。
大阪には太閤様の息子(豊臣秀頼)がいるが、こちらは皇太子(徳川秀忠)の女婿である。
彼は日本中で最良の城の一つに閉じ込められ、誰も彼との会話を許されない。
彼が何を簒奪されても誰も話せないよう、皇帝に戦を挑む気にならないようにである。
それで婦人たちが彼に仕え、夜会や劇を催し続けている。
あんなに武勇優れたものの子息が軟弱にしているのを見るのは残念なことである。
彼はたいそう肥満しており、30歳にもなっていないのに、もう身体が自由にならない。
(中略)
この国では皇帝や領主まで、何ら確実なこと、あるいは確定したことはない。
なぜなら他の者が各々の名目を手に入れるのは暴力により、力を他より持つものが多くを手に入れるのだ。
皇帝が死ねば、太閤の子息、あるいは他の権力を羨望する者が大変大きな戦争を起こすだろう。
武士は平和が来れば餓死するから、戦争しか望まない。
人々は武器を愛好する人間で、男の子は乳離れする前から帯刀させる程だ。
利害が絡むことでは、親であろうと子供にすら信義を守らない。』
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
スペイン人による秀頼についての記録、及び日本人に関する考察である。
0783人間七七四年
2012/12/16(日) 12:05:57.93ID:WnokO+Fz0784人間七七四年
2012/12/16(日) 13:12:32.22ID:dEcJ7a5n大抵の小説そのシーンは、すらっとしたイケメンだしなw
0785人間七七四年
2012/12/16(日) 13:16:22.53ID:aco87qBs豪奢なのもあるだろうけど侍の飯は軍人の食生活だからカロリー高目を心がけるだろうし、
その上で他の武士が日常こなしてる運動を制限されてたら太るだろうなぁ。
鷹狩りとか家康が絶対許さなそうだし
0786人間七七四年
2012/12/16(日) 15:19:52.64ID:MWWL6TV5実像はそれと正反対といってもいいのでは…
秀頼が秀吉と違い背が高くて肥満体だった事については、実は結構多くの出典があるんだよな
「世に無き御太り」『長沢聞書』
「秀頼公勢(背)高ク顔ニクニクシク荒テ。力は不(普)通之人ノ拾人許有ケルガ。太ク逞シキ御馬ニ召レシカバ。」『豊内記』
0787人間七七四年
2012/12/16(日) 15:22:06.39ID:JWRqHtvi0788人間七七四年
2012/12/16(日) 15:28:02.21ID:MWWL6TV5それは、大切に奥に隠して育てられた秀頼を見た事無い上方の町人が
淀の方が生んだ「関白様の御曹司」ということで勝手に想像して作った歌らしい
0790人間七七四年
2012/12/16(日) 15:48:38.78ID:MWWL6TV5大坂の陣で大坂方である後藤又兵衛の近習として参戦している
0791人間七七四年
2012/12/16(日) 15:53:08.63ID:qUwy2ZqEて伝説があるが、案外本当だったのかもしれん
どうせ落人伝説つくるなら、もっと貴公子っぽくするだろうし
0792人間七七四年
2012/12/16(日) 15:57:43.66ID:rysdjfOs生々しい話のほうが真実味があるかもね
0793人間七七四年
2012/12/16(日) 16:05:51.31ID:9/T3kXL70794人間七七四年
2012/12/16(日) 18:46:29.47ID:xZJpsoOW0795人間七七四年
2012/12/16(日) 19:44:34.29ID:/EVut8fi蒲生氏郷の軍によって九戸城が包囲され、いよいよ落城となると、城内は逃げまどう人々で
大混乱におちいった。
城主九戸の奥方も急いで逃げ出そうとしたが、履物が見当たらない。とにかく城主の妻であるから
裸足で歩くことには慣れていなかった。そこで、そばをうろついている者を捕えて履物を奪った。
0796人間七七四年
2012/12/16(日) 20:46:33.26ID:1lv3g2guえ?
0798人間七七四年
2012/12/17(月) 00:15:38.50ID:nlXYvHQN0799人間七七四年
2012/12/17(月) 00:20:00.55ID:FKRQZc1P大久保忠世が杉浦久勝とコントをしていた時のこと。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3049.html
この時、光明山の住僧高継の案内で徳川家康が寺中に立ち寄ったところ、
高継は家康に勝栗を献じた。
家康は勝栗をひとつ食して機嫌良く「光明山で勝栗を食ったぞ!
これぞ、まさにこうみょう勝栗なり! 行末目出度き吉兆だ!」と言った。
これより後々までこうみょう勝栗といって、かの寺より奉る御佳例になったという。
――『徳川実紀(光明山書上など)』
光明だけに功名ってか。
0800人間七七四年
2012/12/17(月) 00:35:37.28ID:mTxjSZHZシャレが寒すぎるくらい寒いから、なのか?
0801人間七七四年
2012/12/17(月) 00:37:19.47ID:mTxjSZHZ0802人間七七四年
2012/12/17(月) 00:38:07.39ID:mTxjSZHZ0803人間七七四年
2012/12/17(月) 01:38:16.58ID:WviuVYra>>795の九戸城の話は戦国の合戦事典の本で紹介されていたものだが、その続きは
書かれていなかった。他の史料の天正南部軍記によれば九戸政実の妻は息子の亀千代とともに
城の外へ出たが、蒲生勢に捕えられて母子ともども斬首されてしまったらしい。
0804人間七七四年
2012/12/17(月) 10:05:37.76ID:bP7jvpZP然れどもその一身修まらざるにより、名を恥ずかしめ、それに縁座する大名もまた、名家数代の武臣であったが、
多くがこれに連座し改易された。
この事について、『荒き御政務である』との批判があった。
土井大炊頭利勝はこれを聞くと
「なんと愚かなことを申すのだろう。
私のような者でも今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めているが、もし子孫に君命に背くものが出れば、
他のものよりもきつく罪に問われる事を望む。
それに時期が来れば大久保・本多らも、存命の子孫があればそれが、宜しく召し使われるだろう。
それこそ仁政というものである。
今は、天下創業の御政務の時期である。まず譜代こそ厳しく戒め置かれなければならない。
にもかかわらず天下を動揺させるような行為をすれば、しかも譜代のものであれば別してその罪は深い。
これはお上の御威光を傷つけるものであるからである。
そんな事は、泉下の大久保七郎右衛門忠世、本多佐渡守正信も強く憎んだと想像できる。
仮に彼らが存命なら、子を勘当していただろう。」
その様に申されたという。
(武野燭談)
大久保忠隣・本多正純改易への批判に対する、土井利勝の意見である
0805人間七七四年
2012/12/18(火) 01:04:07.34ID:HmoTXQtY暇を遣わし、自身は伊勢で暮らして吉村又右衛門と大筆に宿札を掛け置いた。
生活の中で夫婦や娘は段々と困窮して食事もままならず、妻は衣服に困り、
娘は泣き伏して飢えに及んだ。
ある時、古い朋輩の大崎長行が訪ねて来て、紀州家に召しだされたので
又右衛門の添え状が欲しいという。宣充は添え状を用意すると、
「路銀はあるのか」と尋ね、長行は無いと答えた。
すると宣充は具足櫃から金三百両を出して五十両を分け与え、さらに
沓籠から銭を出して一貫文を渡した。長行は大いに喜んで武具等を
調えて奉公に出て行った。
その後、宣充の女房は怒って「あんなに金銭があったというのに妻子の飢えを
見て見ぬふりをしたのですか」と暇を乞うた。
これに宣充は「武士は売買の道を知らない。この金が尽きた時は今のような
生活になるだけだ。つまりは少し遅いか早いかでしかない。それならば我が
武勇の名を落とすまいと万が一の用を心掛けているのだ。それがお前には
わからぬか」と、言って妻と離別したという。
――『名将言行録』
0806人間七七四年
2012/12/18(火) 06:45:34.06ID:7grfk2Zi「今川義元は、臨済寺の雪斎和尚(太原雪斎)と相談して領内の統治などを行なっていた。
この頃は本当に国もよく治まっていた。
しかし雪斎は累代の家老というわけではなかったので、彼が遷化されたあとは、その政治を受け継ぐものが無く、
それ以前の状況に戻ってしまった。
それでも義元が生きているうちは、今川家の武備が衰えることはなかったが、義元が討死にした後は
諸人に今川家に対する疑念が起こり、また氏真の代になってからは風流婆娑羅のみにて日を送り、
終に家国を失ってしまった。
諸人に疑念を持たせた、というのは、主将の依怙から起こったものだった。」
(武野燭談)
家康の語る、今川家のこと、である
0808人間七七四年
2012/12/18(火) 20:39:50.61ID:NRw1bfoAところが、重臣の松永久秀の陰謀により、22歳の若さで毒殺されてしまった。
息子を失った三好長慶は悲しみで嘆くあまり、背中が丸くなってしまうほどであった。
亡くなった三好義興は芥川の霊松寺に葬られた。
長慶は瀬戸内海の屋島から鉄のように硬い石を取り寄せて義興の墓にした。その墓は
叩くとカンカンという金属音が鳴り響くので、人々はその墓石をカンカン石と呼び、
今でも三好長慶がカンカンに怒っているのだと噂しあった。
0809人間七七四年
2012/12/18(火) 20:45:32.00ID:lyCvzWs30810人間七七四年
2012/12/18(火) 20:50:13.30ID:EMnqOhHK0811人間七七四年
2012/12/18(火) 22:13:41.89ID:MFrnsNcW固いし鉄分多いから確かに、金属的な音はする
0812人間七七四年
2012/12/18(火) 22:19:40.29ID:RpdeJRVA0813人間七七四年
2012/12/19(水) 00:13:31.71ID:x7B2mBNB実際楽器にしたりするし
0814人間七七四年
2012/12/19(水) 02:21:18.55ID:HIPuai2Z0815人間七七四年
2012/12/19(水) 03:01:48.67ID:4DTDAUTF石見本同士を叩き合って石の良し悪しを客に教えてたりはしてた
>>814
ちょっと趣旨がずれるけど、鼠小僧でぐぐって墓石にまつわるエピソードを読んでみると良いかも
昔からの墓地の、古い墓の蓮華が欠けているのも博打好きの仕業であることが多い
0816人間七七四年
2012/12/19(水) 04:39:07.07ID:F6PdzPoTこれ長慶さんが息子の墓を叩いたわけじゃないでしょ?
0818人間七七四年
2012/12/19(水) 14:45:06.68ID:0YsdnxQ6墓石を削れば薬になる、て信じられてたのでは
0819人間七七四年
2012/12/19(水) 14:57:01.73ID:Ane5dlL0実際に皆が叩いてたわけじゃないと思うよ。
0820人間七七四年
2012/12/19(水) 16:01:13.71ID:52/mes1M0821人間七七四年
2012/12/19(水) 16:10:35.02ID:iU+P6x/10823人間七七四年
2012/12/20(木) 21:49:24.44ID:t10VLyXq夏冬の区別があり、多くの、そして良質の銀や他の金属も産する。
15の王国にわかれ、うち一人を他の王が認めれば皇帝なのだが、現在彼らを統率する者が居ないので、
誰も皇帝ではない。また4人の王が既にキリスト教徒になった。
全てに豊かであり、雌牛、鹿、家畜化した、あるいは野生の豚、野兎、雉が、野や山を埋め尽くしている。
畑は一枚6マラベディーの値である。他の家畜の雌鶏がたくさんいるし、小麦、大麦、米、他にも種子類がふんだんに採れる。
また果物類、多様で良質な梨類、桃、すもも、栗、胡桃、どんぐり、瓜、それに黒い小粒のブドウも山野に満ちている。
だから必要とあればこのブドウからミサ用のワインが出来、それを以ってミサを捧げられるだろう。
このワインはよく飲まれている。当地原産の良質なワインもたくさんあって、いずれも安い。
半リブラ(1リブラは約460グラム〉くらいの大きさのパン15個で1レアル、しかも白くて良質である。
骨なしの雌牛の牛肉2.7リブラが1レアルで買えるし、雌牛1頭では5から6レアル、それでも高いくらいだ。
魚も豊富でとても安い。
土地の人々とは極めて友好的な関係にあり、特に王とその父親とはうまくいっている。
住民は非常に清潔で衣服もこざっぱりしている。それに大変好戦的かつ勇敢で、あらゆる武器で武装し、
良い鉄砲、槍、刀(一撃で人を切り倒せる武器である)、弓、矢、胸当て、背当てを持っている。
キリスト教徒の武士は大変清潔で美しい家を持ち、イスパニア人のように武器を携行する。
馬も小さいながら、何頭も所有している。
宣教できる人間さえおれば、瞬く間に全員がキリスト教徒になるであろう。
既に洗礼を受けたものは、典礼もないのに、見たところ立派なキリスト教徒である。』
以上、平戸に上陸したアウグスチノ会員フランシスコ・マンリケが現した『日本』の姿である。
ちなみに友好的な関係にある王とは、平戸の松浦隆信のことらしい。
(フランシスコ・マンリケ1588年3月1日付書簡)
だいぶ「どこの国の話?」と言いたくなる、日本についての報告であるw
0824人間七七四年
2012/12/21(金) 01:01:27.50ID:pXRohuVd0825人間七七四年
2012/12/21(金) 01:07:21.99ID:zkMr7BhPこのころはまだ、欧州より東アジアの方が富んでいたということだね
このあと、植民地からの収奪で飛躍した欧州と差がついてしまうが。
0826人間七七四年
2012/12/21(金) 01:24:22.05ID:VWOvGnvE0827人間七七四年
2012/12/21(金) 10:49:39.15ID:Q8qrY0HHを引き出したいわけで
だから「ここは有望ですよ!」ってことをMAXアピール。人についても土地につい
ても、報告書では盛りまくったんじゃないかと
どうせ本国で報告書読む人には現地の実情なんて見えないわけだしw
0828人間七七四年
2012/12/21(金) 13:30:38.60ID:OlFrgKA/0829人間七七四年
2012/12/21(金) 13:39:23.52ID:llrH0Ssp明らかに盛ってるわなw
0830人間七七四年
2012/12/21(金) 16:21:46.61ID:EscrAhuTいわゆる小氷期まっただなかだし
0831人間七七四年
2012/12/21(金) 16:32:46.87ID:pWcyw8760832人間七七四年
2012/12/21(金) 17:02:32.28ID:9CyN3gnXちなみに一反=一石を適用するならば、日本の場合は1ha(10反)だと1.5tの米が収穫できる
重さだけで考えると二倍以上〜五倍は違うからな・・・
0833人間七七四年
2012/12/21(金) 17:11:43.58ID:71al5+CE0834人間七七四年
2012/12/21(金) 19:48:59.19ID:ITDBxvqF0835人間七七四年
2012/12/21(金) 20:00:19.71ID:XjnCzKtJ0836人間七七四年
2012/12/21(金) 20:03:35.67ID:RGQDRi8U0837人間七七四年
2012/12/21(金) 20:26:01.53ID:9CyN3gnX貧者のパンは伊達じゃない!
0838人間七七四年
2012/12/21(金) 20:51:44.99ID:rc3mURLwまぁ、同時に梅毒まで撒き散らしちゃったのはご愛嬌ってかwww
0839人間七七四年
2012/12/21(金) 21:40:59.84ID:cVnLvN3Q大内に付くことを決心。大内義隆のもとに嫡男隆元を人質として送り、甘ことの手切れの準備は整った。
そこで元就は、出雲の月山富田城に人質として毛利家より出していた、光永中務少、赤川十郎左衛門と
密かに連絡を取り、尼子と手切れになること、よって隠密に尼子領より脱出するようにと伝えた。
これによって両人は相談し、夜中に忍んで脱出をはかったが、どこからか情報が漏れたのであろうか、
富田城の者たちが聞きつけ、脱出する両名を大勢で追いかけ、大楽というばしょにおいて、光永中務少は
共の者たち15人と、一所にて討ち死にしてしまった。
しかしその間に赤川十郎左衛門は切り抜け、無事吉田に帰還した。
(吉田物語)
この時代の、人質というものの過酷さが現れた逸話であろう。
0841人間七七四年
2012/12/21(金) 21:46:18.17ID:KhGRsx690842人間七七四年
2012/12/21(金) 22:18:08.99ID:rc3mURLw一極集中はいかんってことよね〜
0845人間七七四年
2012/12/22(土) 00:47:24.68ID:Mv/KCpkiでもこれが無かったらJFKが大統領になる事もなかったか
0847人間七七四年
2012/12/22(土) 03:18:53.73ID:20g7S1XL赤川って聞き覚えあると思ったら、
隆元暗殺(疑惑)の赤川元保の兄か。
ここで生き残った事で、息子が赤川元保の家を継ぐのか。
なんというか浮き沈みの激しい人生やな。
0848人間七七四年
2012/12/22(土) 09:00:15.03ID:xpq9YhU6まぁ、言い過ぎだけどさwww
0850人間七七四年
2012/12/22(土) 10:11:20.32ID:0+mhat6C0851人間七七四年
2012/12/22(土) 10:17:30.42ID:yLbUWFHf0852人間七七四年
2012/12/22(土) 12:29:47.57ID:8PLO+WhI老人の中には戦時中これしか食べてなくて大嫌いになった人も多いな。
0854人間七七四年
2012/12/22(土) 17:18:33.80ID:Mv/KCpki0855人間七七四年
2012/12/22(土) 20:48:57.32ID:EwOjHy7l{{ ,. ------- .,γニニニヽ
у´: : --: : : : : : : :`ヾ {:_:_:_:ミト
,. ´ ̄` : : : : : : : : : : : : : : : : \: : : :ノ
/: : / : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ヾ¨´ ̄`ヾ
γ7: : : : : : : : : : : : : : : : : : : :|: : :|: : : : :゚。: : 、: : ミ
{z:′: : : : : : :|: : : : : : : : ∧ /\:j|: : : : : :゚.: : :У´
∨: : : : : : : :..|: : : : : :|:`/ー}ヲ ヽ:.|: : : : ゚ :」
/: : : : : : |: ,,!-/: : :{:|: ′ ≫==ミ.|!:| :/: :..i: :|
. ∧: : |: : :..:|/{ リv: ハ:./ __)心 }/:/: : : |: :| 〃 ├─ ー ./ ┃
/ }:{ : : |: : |W |/ l' 弋zツ从{: : : : |: :| ┃ 十 |  ̄フ __ / ┃
\トi: :.|: :/ _____ :i:i: }イ..:.: :|: :| レ よ ⊂フ ̄ /~し /_/し 。
|: ∨リヽ ィ'¨¨¨` 、 / }|: :..:|: ハ
|: : }: : : (\:i:i: /) / |: : /: : }ゝ
|八}: : : : : :ヽ ー‐′ /:.:.} :/:}ヾ/
⊂ニ''' 、 个:...ハ ィ:.:∧∧/
/ ヽ \ .=| |ニ¨¨¨¨¨´ {∨
′ 冫‐‐、! |ニヽ 〉≧r 、
i { ⌒ .} }ニニム /二=| |/ヽ
_|≦三ミ :, ⌒ {_ /ニニニ}ー―/二二| | }
}ニニニニ二∧'⌒´ }\ニニ}ニニ/ニニニニ| | ′
}ア⌒ヾニr=ミ } \ }ニ/ニニ=- ´| | /
|: : : : : /:{/ / `ヽ、 | |イ
|: :\ ィ: : \ /\ (X)} | |彡
0856人間七七四年
2012/12/22(土) 20:49:26.85ID:EwOjHy7l0857人間七七四年
2012/12/22(土) 20:52:38.26ID:fizCT++q関が原で便乗裏切りしたあげく所領没収された
影の薄い悲惨な赤座さんについて話せということか
0858人間七七四年
2012/12/22(土) 20:59:44.82ID:FDVrbrAB0859人間七七四年
2012/12/22(土) 21:07:18.93ID:kZ8VV+lG毛利家中から裏切り者呼ばわりされた吉川さん(読みは違うが)
…、一人足りない
0860人間七七四年
2012/12/22(土) 21:11:43.76ID:8YzjGYxRちなみに幕末に子孫が、水戸天狗党鎮圧行ってる。
0861人間七七四年
2012/12/22(土) 21:18:02.54ID:fizCT++q山田風太郎の天狗党をモデルとした小説で
自分が降伏をすすめたために無残に殺されてしまった、と精神を病んで死んだ
って書かれてて本気にしてた
0862人間七七四年
2012/12/22(土) 21:28:17.01ID:P/u3oaBx直保の息子も裏切りのイメージを嫌ったとか?
0864人間七七四年
2012/12/22(土) 21:47:26.67ID:1bAaG98aつまりあの越前の狂犬とも同僚だったということだ。
0865人間七七四年
2012/12/22(土) 23:43:55.59ID:egkfmNX5弥吉は軍令に背いて勝頼の本陣へ打ち入り高名をあげた。
しかし、それは徳川家康を激怒させることとなり、弥吉は恐れて
本多忠勝の家に逃げ入って許しを祈ったが、許されず終いには
切腹を仰せ付けられた。
家康は何事にも心が広く情け深い人だったが、軍令に背く者に
対して厳しいことはこの類であった。
――『徳川実紀(柏崎物語)』
0868話の流れ上あえてこちらに
2012/12/23(日) 12:04:52.07ID:f+nHlxNe敵陣である西軍の彼方より散発的に銃弾が飛来するようになった。
この時にはまだ開戦には至っていない。
前衛三番隊に陣取っていた黒田隊に居た大道寺孫九郎が進み出て敵間を伺っていたが
如何にせんとも視界が完全に閉ざされている。
黒具足の武者が横合いから進み出、手綱をゆらりと打ち掛け心静かに敵方を見据えていた。
すると徐に振り返り独り言を呟いた。
「只今に戦は始まるべし」
これを聞いた孫九郎はその武者にそれは如何に、と問いかけた。
「敵間が近くなる程足軽はうろたえ、弾丸を筒の中へよく入れ得ぬ故に弾に力が無く
味方の足下へころころ落ちるものである。機は熟した」
と言って馳せ帰った。
後に聞けば、この黒具足の武者は井伊直政であった。
『名将言行録』
味方の展開状況と敵の状況視察のため
あえて目立たない黒具足を着て自ら物見に出ていた直政は急ぎ自陣へ戻り
家老の木俣守勝に戦機の切迫を告げ指示を出した。
機敏にいつもの朱具足に身を包み、今度は開戦の備えに駆け出したという。
0869人間七七四年
2012/12/24(月) 06:15:52.29ID:Tw8CTV1P視覚ではなく聴覚で足軽が時折放つ銃弾の落ちる音で戦機を計っていたということか
この後の抜駆けは…
口火を切る潮時の判断一つで勝敗が大きく左右する事実
徳川が天下を取る上での面目を大いに立てることになったし
市松と才蔵が更に奮発する足掛かりまで固めた
目付の対象であった市松の性格を考慮した上での全てが計算づくであったと考えると
家康も褒める事はあっても咎める事はないだろう
0870人間七七四年
2012/12/24(月) 07:04:00.27ID:dhTYqbHr直政の召替具足が黒?
メインがダメになったら赤備えで一人だけ黒に・・・と思ってググって見たら召替具足も赤だったでござる
0871人間七七四年
2012/12/24(月) 08:26:22.03ID:hhZVrk98二毛作、三毛作とやってたしヨーロッパ人から見れば
食料豊富に見えたのかも。あと向こうはギルド(日本でいう座)の力が強かったから。
安土城の楽市楽座を見た宣教師が安土の城下町は
楽園のようだと書いてたとか書いてなかったとか。
0872人間七七四年
2012/12/24(月) 12:06:43.44ID:P/+P0KzR0873人間七七四年
2012/12/24(月) 12:11:31.33ID:U9TsOr9h大谷好きからは忌み嫌われて悪名高くなる一方だしで散々だよね
0874人間七七四年
2012/12/24(月) 12:57:50.34ID:3ga+/rTp0875人間七七四年
2012/12/24(月) 13:50:20.56ID:Tw8CTV1P0876人間七七四年
2012/12/24(月) 17:59:47.06ID:FOSIncts0877人間七七四年
2012/12/24(月) 19:08:05.95ID:L6D772zb0879人間七七四年
2012/12/24(月) 20:06:44.17ID:F79U+TuQ9月4日、尼子晴久が着陣した夜、毛利元就は家臣たちとの物語の中に、
「敵兵の首を一時も早く実検したいものだ」
と言われた。これを児玉與八郎が聞いて、
『容易いことである。明日討ち取り、お目にかけよう』
と考え、破れた笠を付けて網を持ち夜中に城を出て、敵陣の前に多治比川と言う小川があったのだが、
ここに一人でいって魚を獲っていた。
そうしているうちに、敵よりこの川に小便をしに出てきて、各々用を済ませて陣屋に帰っていったが、
2名ほど残って未だ小便をしていた。
それを見た與八郎、今だ!と蓑の下から脇差を抜き、一刀で首を討ち落とし、これを掴んで逃げ出した。
敵陣はこれを見て、大勢が追いかけてきたが、與八郎はその頃若さの盛でもあり、難なく城に駆け込み
「御感に預かるべし!」
と申し上げた。
元就はこれを聞くと、しかし
「大敵を引き受けての籠城というこんな時に、若気とは言いながら、なんと要らぬことをするのだ!」
と、大いに怒り、與八郎は勘気を蒙ったとのことである。
(吉田物語)
児玉興八郎、良かれと思ったのに怒られたというお話である。
0880人間七七四年
2012/12/24(月) 20:09:50.04ID:3i1w+TmF0881人間七七四年
2012/12/24(月) 20:21:50.19ID:nyrf6heK0882人間七七四年
2012/12/24(月) 21:13:25.43ID:a/gBLp+f0883人間七七四年
2012/12/24(月) 21:18:14.66ID:zyxXrSJi0884人間七七四年
2012/12/24(月) 21:44:20.04ID:PGi18RRf0886人間七七四年
2012/12/24(月) 22:29:52.66ID:6Fzkypgi0888人間七七四年
2012/12/24(月) 23:49:29.11ID:UoAYNgIuところが傍輩の嫉妬によって讒言され、道三はこれを信じて角弥の出仕を止めてしまった。
角弥は迷惑して「それがしの誤りは何でありましょう。承りたい」と人を介して尋ねるが、
道三の返事はなかった。角弥は「もはや主君との縁は尽きたのだ」と悟り別の縁を求めた。
その後、角弥は摂政殿に奉公することになった。彼は器量・骨柄・心様ともに人よりも
優れていたので、摂政殿は角弥を最も重用した。かくして角弥は二年の間御所にあった。
道三はそのことを聞きつけ、摂政殿に使者を送り「角弥を賜りたい」と申し上げた。しかし、
摂政殿は「呼び返す程欲しき者をどうして追い出したのだろう。叶えられないことだ」と断った。
道三は諦めずに千度百度頼んだが、摂政殿は「この者だけは出すことはない」と断固拒否した。
大いに立腹した道三は「それならば討手を上らせる」と決意し、山本伝左衛門と須田忠兵衛
という二人の大剛の者を京都に派遣した。二人は中々角弥を見つけられなかったが、
ある御節会の時、禁中に渡る摂政殿に角弥も供奉していた。この時、二人は角弥を見つけ、
角弥も見合わせてお互いに「あっ」と思ったが、摂政殿の警固は厳重で両人は手を出せず、
その日は空しく諦めた。それからの二人は角弥を討つ機会を毎日窺った。
一方の角弥は「あれは討手に違いない。殿下にこのことを申し上げたほうが善いのではないか」
と思い、ある時摂政殿の様子を窺ってその旨を申し上げた。摂政殿は直ちに奉行所へ
「かかる者が京都にいる。厳重に捜査して洛中より追い払え」と命じ、長高と貞親が洛中に
「この者を一時でも抱えた輩は処罰する」と触れを出した。この状況に両人は是非もなく帰国し
道三に報告すると、道三もどうしようもなく、そのまま角弥殺害を諦めてしまった。
――『室町殿物語』
0890人間七七四年
2012/12/25(火) 13:57:31.25ID:/io3l8860891人間七七四年
2012/12/25(火) 14:10:21.46ID:Sx2pncVL家康「しかしだな、結果的に味方は大損害を…」
直政「じゃあ、自ら敵に突っ込んでいくような男はお嫌い?」
家康「そ、そのようなことはないぞ///」
0892人間七七四年
2012/12/25(火) 14:17:00.22ID:a5ZDCWX4何でって聞かれるほどの手間は掛けてないし
0893人間七七四年
2012/12/25(火) 15:58:03.21ID:YlWUj1pp総指揮官としてはアレだけど、現場指揮官としてはすこぶる優秀な人だし
0895人間七七四年
2012/12/25(火) 22:01:55.73ID:0wz/8eSZ0896人間七七四年
2012/12/26(水) 00:27:24.19ID:f6/0IznDクリスマスだったからっていちゃついてるんじゃねーぞw
あ、もう26日か
権現様お誕生日おめでとうございます
0897人間七七四年
2012/12/26(水) 02:42:04.09ID:hvn5iwYX大失態があったとはいえ、助けたくなる何かがあったんだろうな
0898人間七七四年
2012/12/26(水) 07:18:06.93ID:vEVuEvQh忠吉サンとか「だから(義)息子の前でイチャつくなよな…(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」
帯刀サンとか「|ω・`)……………。゚・(ノД`)人(´Д`)人(Д` )・゚。」
健全三河武士「∩(´・ω・`)つ―*'``*:.。. .。.:*・゜゚・* もうどうにでもな〜れ」
08991/2
2012/12/26(水) 21:06:18.43ID:1lrPS9Ok天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄の仲が険悪となると、秀吉と通じたとして
信雄が三老臣(岡田重善・津川義冬・浅井多宮丸)を誅殺するのではないかという
風聞が流れていた。
3月3日、上巳の祝いのために鷹狩で獲った雁を与えると
三老臣へ使いがあったので、皆出仕した。
各々が饗膳の席に着いたころ、信雄は南蛮張の大筒を出して、
これは父祖より譲られたものであると言ったので、岡田・津川は謹んでそれを拝見した。
信雄はさらに岡田に対し、その大筒を持ってみよと言い、
岡田が畏まって大筒を取り手に持った所、土方雄久が飛び掛って抱きつき、
片手に短刀を持ち岡田を突いた。岡田は突かれながらも土方を引っ立て脇差を抜いた。
信雄は大左文字の刀を抜き、岡田を斬ってくれようと、
「雄久放せ!」と命じたが、
土方は、
「大事の役目なので放すわけにはいきませぬ、早く某もろとも斬りなされ!」と答えた。
0900人間七七四年
2012/12/26(水) 21:12:51.10ID:LSyBy1dk豊臣方の大野治房の軍勢が紀伊国に向かう途中、和泉国貝塚で、願泉寺卜半斎という物の出迎えを受けた。
卜半斎は軍勢に馳走を振舞い、貝塚の町や近在から集めた麦飯を集め、半切(樽状の桶)に入れて運び、
また酒も大いに振舞った。
大野治房軍の兵士たちはそれまで夜通しの行軍をしてきたこともあり、疲れ空腹であったので、彼らは
この振舞いを喜び受けると、たちまち酔っ払ってその場で寝てしまった。
さらに岸和田方面の抑えに出ていた、宮田七平の兵たちまで集まってきての酒盛りになった。
このため、この軍の行軍は甚だしく遅れ、戦場に間に合わず、これによって和泉樫井の戦いで
豊臣方は大敗を喫した。
実はこれらは全て、願泉寺卜半斎が豊臣軍の足を止めるための策略であり、彼らはそれに
まんまと引っかかったのである。
(大阪合戦口伝書書入)
09022/2
2012/12/26(水) 21:14:31.99ID:1lrPS9Okすると信雄はすぐさま岡田を斬り、止めを刺した。
この有様を見た津川、
「そ、某をも誅されるおつもりか?」
信雄答えて、
「汝もどうして赦せようか?」
津川はこれに対して、
「なんと薄情な! 某の心底がお分かりにならないのか!?」
と言ったが、その時かねて討手と決められていた飯田半兵衛らが襲い掛って一太刀斬りつけ、
そこに信雄また続いて津川を仕留めた。
残りの一人、浅井多宮丸は未だ17歳にもならぬ若者だったので、
森勘解由が承って難なく斬り伏せた。
こうして三老臣を誅殺したので、残党を掃討するため岡田の星崎、津川の松ヶ島、浅井の刈安賀と、
三人の居城へそれぞれ討手を差し向けたのであった。
(伊勢国司記略)
0903人間七七四年
2012/12/26(水) 22:26:21.74ID:3tvf34An仮に翻意があればさっさと刀抜いてそうなものだが
0904人間七七四年
2012/12/26(水) 23:13:09.40ID:Jb6y8Dqs0905人間七七四年
2012/12/27(木) 01:34:46.48ID:uwGaSoc40906人間七七四年
2012/12/27(木) 01:38:58.51ID:+pVjqYKa0907人間七七四年
2012/12/27(木) 05:52:58.78ID:7TE8nu7A0908人間七七四年
2012/12/27(木) 10:35:43.04ID:MdLaw1F30909人間七七四年
2012/12/27(木) 11:02:50.04ID:bu3fi/5y0910人間七七四年
2012/12/27(木) 12:47:09.31ID:7VcFyRgh0911人間七七四年
2012/12/27(木) 13:32:55.98ID:LruDLFiG問題は口先だけで実行しない鳩山小沢の類で
0912人間七七四年
2012/12/27(木) 15:13:02.10ID:6jii2X/e叔父のカエサルも30代だよな
0913人間七七四年
2012/12/27(木) 21:35:37.30ID:hlwGoHLy俺の中で大野治房は脳筋っぽいイメージだな
一度戦いになるとめちゃ強いけど頭が弱いせいで知略に長けた相手によくやられる印象
0914人間七七四年
2012/12/27(木) 23:44:48.15ID:BFGZEA3B「相国寺の仁如和尚の御門弟に俗男の儒学を志して詩作を自慢する者がいた。
彼は入道して和尚に道号を求めたのだが、和尚は彼の心中をご存知だったのだろう、
『ただその方の思うように付けよ』と言ったところ宋の詩人、蘇東坡と黄山谷から
一字ずつ取って坡谷庵(はこくあん)と付けた。
しかし『はこ』は糞のことだから、人々に『汚い庵号だなあ』と笑われたのだ。
笑われていると知った彼はそれならばと庵を取って斎の字を付けてしまったもの
だから、ますます酷い呼び名になって人に笑われたそうだ。
とまあ、そんな話を由己法橋が語られていたのだ。大笑い、大笑い」
――『仮名世説』
0915人間七七四年
2012/12/28(金) 00:00:24.15ID:n9mqw1bW0916人間七七四年
2012/12/28(金) 05:50:36.57ID:yhLVZSVlそうすると17歳は満年齢だと15歳ぐらいだよね
歴史小説家は当時は成長早くていまの15歳と比べられないといってるけどどんなもんだろ
0917人間七七四年
2012/12/28(金) 12:20:07.91ID:/VWf/rLzこの時陶軍からの捕虜のうち、重見因幡守(通種)と言う者があった。
彼は伊予河野氏の一門・十八家の内にある者で、河野対馬守(法名・天徳寺)の近親であった。
しかし天徳寺殿が、嫡子弾正忠と父子不和となり、ついに合戦となった。
因幡守は父子の礼儀を重んじ、天徳寺殿の見方となり、遂には伊予を浪人し、大内義隆を頼って
周防へ亡命をした。
大内義隆はこれを許容し、陶尾張守(晴賢)に預けられ、安芸西条の桑原という場所に小知を与え、
浪人分として大内家に属した。そして今回陶晴賢と共に厳島に渡海した。
その様であったので、捕虜になった重見因幡守は毛利方に対し、「御検使を下されればそこで
切腹をしたい」との申し出をした。
これを聞いた毛利元就は、内々に彼を召抱えたいと考えていたので、
『一命を助けるので、御奉公申し上げるように』
と、児玉内蔵丞、兼重左衛門から申し渡された。
因幡守は承り、しかし、
「ありがたき御意、身に余り、忝く思っています。
ですが、切腹のことはもう決心しているのです。どうかそこを解っていただきたい。」
そう申し上げた。
これを聞いた元就は再び彼に伝えた
『もし自分の家臣になることを受け入れないというのなら、西条に居るそなたの倅達を召し捕らえ、
その方の面前で殺してやるぞ!それを憐れだと思うのなら、私の意に従い、切腹のことは
思い留まるように。』
因幡守はこれを承り
「重ね重ねの有難きお言葉、生々世々忘れがたき幸せです。
ですが私は、生国は伊予、河野一族の者であります。
さる仔細があって伊予を立ち退き、大内義隆を頼み山口に罷り越したいとしていた所を、
これを御許容下され、当国西条において小知を頂き、陶氏に預け置かれました。
そして入道(陶晴賢)は私に対して別して懇切でありました。ですからその報謝として、
この度厳島へお伴し、同じ場所で如何にも罷り成るべしと考えていたのですが、多勢に隔てられ、
あまつさえ生け捕りになってしまい、この様な有様で、もうどうしようもありません。
もし今、御厚恩をいただけるのなら早々に切腹を仰せつけて下さい。
子供については、どのように仰せ付けられても構いません。
その様なことは、常日頃から覚悟させております。」
これを再び児玉・兼重から報告された元就は、
『さてさて、惜しく思うが、この上は望みに任せて切腹を申し付けよう。
子供については取り立て、召し使いたい。』
との旨を伝えた。
これを聞いた重見因幡守は
「有難く存じ候」
と御礼申し上げ、厳島のありの浦にて切腹した。
彼の二人の子供は召しだされ、別して良く召し使われた。
兄は木原兵部、弟は木原二郎兵衛と申して、戦場での御奉公数度に及び、
そのためより一層重用されたという。
(吉田物語)
毛利元就、重見因幡守の決意を覆せず、という逸話である
0919人間七七四年
2012/12/28(金) 15:20:08.29ID:RK4YLfHe0920人間七七四年
2012/12/28(金) 21:54:08.75ID:D2nU7MF50921人間七七四年
2012/12/28(金) 23:19:42.96ID:sPgezdbT自らを周武王になぞらえ、織田信長を殷紂に比した。これは謀叛の宿志である。
羽柴筑前守は信長の手の者の様にて、その上度量が広く小事にこだわらない
気質なので人に対する言葉はいつもずけずけとしていた。それに比べて光秀は
外様の様に、その上つつしみ深く、まじめで温厚な人だったので言葉はいつも
うやうやしかった。
ある時、筑前守が「わぬしは周山に夜普請をして謀叛を企てていると人は皆言う。
実際のところはどうなんですか?」と尋ねた。これに光秀は「でたらめを言うものだ」
と笑ったのでその話題は打ち切られたのだという。
――『老人雑話』
0923人間七七四年
2012/12/29(土) 03:43:14.70ID:tZsoP29G0926人間七七四年
2012/12/29(土) 19:43:45.36ID:fYL989m60927人間七七四年
2012/12/29(土) 20:24:21.01ID:vSVJvJim0928人間七七四年
2012/12/29(土) 21:05:26.53ID:K1iLnD6M0931人間七七四年
2012/12/30(日) 00:37:49.57ID:eTQ1sVGQ0932人間七七四年
2012/12/30(日) 01:15:16.68ID:E04ZgmIHどうしますか?
0934人間七七四年
2012/12/30(日) 09:32:19.00ID:Q0BFbw83亀だけど釣られる。
成長という言葉の意味が、いっぱしに大人の仲間入りできるか否かという事なら、その通りだと思うが。
現代人の15歳、そりゃ平均身長は高くなってるだろうよ。100メートル走の日本記録だって伸びてるさ。
しかし中流階級の平均値となると、当時の満15歳と戦って勝てる現代っ子は、野生児か格闘技選手じゃねーの。
知力にしても、元服前の小童でも人体の急所とか自害の手順ぐらいは常識だからな。日常で謀殺の
危険にさらされるケースもあるだろうし。
現代のヌルさが戦国と比べ物になるわけない。
0935人間七七四年
2012/12/30(日) 09:58:44.75ID:5PXD0suK当時は武士(1割に満たない特別な環境の人物)で考えるふしぎ
0936人間七七四年
2012/12/30(日) 10:20:26.40ID:gA08ZAGa子供が15歳で一人前の大人になるように教育されてる戦国時代と
20歳で一人前の大人になるように教育されてる現代を比べる事がナンセンスじゃないの
0937人間七七四年
2012/12/30(日) 10:28:52.64ID:71xstaYYいっしょにしてる時点でなんだかなぁ
0938人間七七四年
2012/12/30(日) 10:34:40.09ID:Q9CrYugm現在の大学新卒と高卒四年目の社会人を比べても
考え方目つき顔つきまったく違うように過去現在の15歳もちがうだろう。
ましてや農民でも気を抜けば死んじゃう当時の状況を考えれば、的な話だろ
0939あ
2012/12/30(日) 11:07:35.22ID:SxEis8evhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1356831130/
0940人間七七四年
2012/12/30(日) 16:48:41.04ID:jGus6LDt0941人間七七四年
2012/12/30(日) 16:52:13.74ID:7xxOFoqG初潮年齢が下がってきているとか
0942人間七七四年
2012/12/30(日) 17:43:40.48ID:5cduvKbbどういった経緯でそういったレポートを出したかは忘れたが、まあ身近な例からもそんなとこだろうな
0943人間七七四年
2012/12/30(日) 17:56:10.58ID:XZQzdEQK0944人間七七四年
2012/12/30(日) 17:58:24.40ID:6swtotlv太閤を討つも降参して坊主になり大津へやって来た。この時、太閤は
大津城にいて陸奥守の礼を受ける。
さて陸奥入道は、大津の城中で武道の談話があった時に浅野弾正殿を
散々に叱った。「武道の事はお前などが知ることではない」とのことで、
聞いた人は皆「後々不味いことになるだろう」と言った。
太閤は肥後半国を陸奥守に与えた。入部の後に一揆があって状況は
悪くなり遂に陸奥守は身を滅ぼした。弾正殿の妨げもあったという。
陸奥守の入道号は道閑、尾崎の寺にて自滅。尾崎に石塔があるという。
――『老人雑話』
0945人間七七四年
2012/12/30(日) 18:30:24.49ID:jGus6LDt0946人間七七四年
2012/12/30(日) 19:58:17.71ID:gA08ZAGa0947人間七七四年
2012/12/30(日) 20:16:11.34ID:d2XjDVlS0948人間七七四年
2012/12/30(日) 20:51:26.49ID:OgB2jqau0949人間七七四年
2012/12/30(日) 22:30:46.02ID:z5Xbx46G0950人間七七四年
2012/12/30(日) 22:39:28.80ID:LlHyKvV70951人間七七四年
2012/12/31(月) 00:57:32.14ID:nQWz7N9pつまんない事書いた挙句、屁理屈こねるとこうなる。
0952人間七七四年
2012/12/31(月) 08:53:24.82ID:XmcM5dOLまあ皆お茶でも飲んで落ち着かれよ( ´・ω・`)っ【毒】
0953人間七七四年
2012/12/31(月) 08:53:40.44ID:i/jmB30T権勢をかさに着たこの種の横柄な公私混同は豊臣の家風なのかね?
昔懐かしい某大河ドラマだと豊臣の天下が終わった途端
恨みを我慢してた伊達さんから出入り禁止食らってたじゃん
0954人間七七四年
2012/12/31(月) 09:10:08.90ID:FQuRrf3p0955人間七七四年
2012/12/31(月) 09:14:22.76ID:yEczM5Nn0956人間七七四年
2012/12/31(月) 15:15:03.10ID:GPkwHloS挙げ句宇都宮の件に加えて佐々まで・・・
0957人間七七四年
2012/12/31(月) 16:33:27.76ID:di0KPi6D0958人間七七四年
2012/12/31(月) 16:43:39.54ID:xzIqKjG7立ち位置的に恨まれやすい立ち位置だったという気もする
0959人間七七四年
2012/12/31(月) 16:51:10.22ID:hcZfLqjy0960人間七七四年
2012/12/31(月) 17:03:09.32ID:di0KPi6D「とりあえず奴のせいにしておけば丸く収まる」的ポジションだったのかねぇ・・・
0961人間七七四年
2012/12/31(月) 17:25:51.52ID:c0om2kDiそれだけ豊臣という権力が急進且つ不安定だった、というのもあったとは思う。
制圧する手段に信服させる段取りが追いついてなかったというか。
0962人間七七四年
2012/12/31(月) 17:29:20.71ID:rsk1zaCt0963人間七七四年
2012/12/31(月) 17:57:39.65ID:pay35FP+だが赤穂浅野テメェーはダメだ、知れば知るほど殿様は擁護できなくなる
0964人間七七四年
2012/12/31(月) 19:11:14.54ID:SeZsMtLu0965人間七七四年
2012/12/31(月) 19:19:01.75ID:bsCCajT90966人間七七四年
2012/12/31(月) 19:22:16.19ID:ForaGXAdうちの方リアルに猿ときどき出るから普通に電柱に登る子猿想像しちまって「?」てなったw
0967人間七七四年
2012/12/31(月) 19:23:13.97ID:Df2MEhDu木沢や山田はほとんど出てこないし、
浅井は浅井でだいたい出てくるし、
弾正を使うとだとこのスレでは爆死と決まってるから長政でおk
0968人間七七四年
2012/12/31(月) 19:32:48.82ID:SeZsMtLu真田「…」
保科「…」
決めつけイクナイ
0969人間七七四年
2012/12/31(月) 19:41:30.56ID:Df2MEhDu受け弾正、攻め弾正、槍弾正で弾正単独では出てこない
0971人間七七四年
2012/12/31(月) 20:18:56.25ID:aJFP4uiP0972人間七七四年
2012/12/31(月) 20:29:50.26ID:nQWz7N9p人生の大半が長吉だったんだし
0973人間七七四年
2012/12/31(月) 20:46:29.18ID:bsCCajT90975人間七七四年
2012/12/31(月) 22:04:41.78ID:aJFP4uiP0976人間七七四年
2012/12/31(月) 22:05:52.29ID:bsCCajT9恩賞を出す立場のラスボスは長い付き合いおまけに親戚だから
浅野さんがどんな人間かよーく知ってたんだろう
0979人間七七四年
2012/12/31(月) 23:54:14.75ID:Rl+4GUZd0980人間七七四年
2013/01/01(火) 00:23:59.61ID:N569VcYa攻め弾正
槍弾正
新年早々卑猥すぎますぞ、お館様
0981人間七七四年
2013/01/01(火) 00:25:50.78ID:o9FxWBXx責め弾正
ヤリ弾正
0982人間七七四年
2013/01/01(火) 00:26:06.06ID:/1QRb4qP0983人間七七四年
2013/01/01(火) 00:29:05.12ID:/1QRb4qP>またの機会にどうぞ。。。
出来んかった。どなたか頼みます…
↓スレタイ
戦国ちょっと悪い話35
↓テンプレ
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350987604/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0984人間七七四年
2013/01/01(火) 00:38:44.48ID:eGqTxKD/http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/
0987人間七七四年
2013/01/01(火) 11:59:03.64ID:2/ycnmwHが、その後に資親には実子・資久が産まれた。
永正11年(1514)、資親はその臨終の刻に、宿老である大田原胤清・資清親子に対し、実子・資久を家督とするよう
遺言して死去した。
これにより大田原親子は、金丸・大関・芦野・伊王野氏といった有力家臣と共に、資久の邪魔となる資永を滅ぼすため
挙兵し、総勢300騎で蛭田ヶ原(現・栃木県湯津上村)に陣を敷いた。
しかし資永は屈せず、わすか50騎ながら箒川を挟んで決戦を挑むが、勝敗は決することがなかった。
夜になり、資永は福原城で討ち死にを覚悟した。しかし最後の手段と、大雨を幸いに家臣を、那須資久の居城
山田城に密かに派遣し、資久の身柄を捕らえ、福原城へと拉致した。
8月3日、資永は捕らえた資久の首を刎ね、自ら城に火を放ち自害して果てた。
ここに那須惣領家(上那須家)は滅亡したのである。
(那須記)
以上、那須記より、那須惣領家滅亡の顛末である。
0988人間七七四年
2013/01/01(火) 13:57:04.96ID:z66QIb7/汚いな大田原さすが汚い
0989人間七七四年
2013/01/01(火) 14:22:15.88ID:P1aVy5M60990人間七七四年
2013/01/01(火) 17:20:07.37ID:02MPR2uP0991人間七七四年
2013/01/01(火) 21:52:03.07ID:MfQ0Cr8w0992人間七七四年
2013/01/02(水) 14:27:35.11ID:dBz426PX御斎(食事)など与え、その後諸方の様子などを尋ねた。その話の中で、元就はこの様なことを語った
「先年、尼子方の、石見・山吹城を攻めた時、その守将である本城越中守(常光)の働きを見たが所、
聞き及んでいたよりもはるかに、武辺の達人であると知った。彼は中国西国の間においては類なき
武士である。
あの時私は、彼を攻め潰そうと思っていたが、あのような者を攻め潰すのは武士の本意では無いと考え、
山吹から引き下がったのだ。」
これを聞かされた僧は、それから間もなく本城越中守の所に行き、この話をした。
本城は「名将からのお褒めの言葉であり、眼前に対峙している敵ではあるが、誠に本懐に思う。」
と大いに喜んだ。
勿論元就の策略である
この話の伝わったことを確認した元就は、吉川元春に本城越中守への寝返り工作を行うことを命ずる。
元春は山口の宝泉寺を通じて、本城家家老・服部若狭守、椿井戸三郎兵衛に対し、毛利方に
味方するなら石見銀山及び出雲原手郡を加増するとの、毛利元就・隆元親子の言葉を伝えた。
そして
『元就公は越中守様を、敵とは申しながら武勇他に優れた人物であり、語り合いたいものだと
すっと申されていました。』
との、元就の思いも語った。
本城はこれを聞き、「御意の趣うけたまわり、忝く存じ奉ります。」と、毛利方に
与することを誓い、嫡男本城太郎左衛門を月山富田城から落とさせ、元就のもとに人質に出した。
これらが整ったのが永禄5年の夏ごろだとされる。
この本城寝返りにより、毛利元就は遂に全面的な尼子攻めにとりかかる。
尼子氏を滅亡させた、第二次月山富田城の戦いが始まるのである。
ちなみに寝返った本城常光はそれから間もなく、毛利元就から
『武威に誇り高慢つかまつり、人を人とも存ぜず、忠賞に行われ候衆中の領地押し込み、
入部の者共を追い立て、狼藉大方ならず候に付き、往々御弓矢の妨げに罷り無るべし』
として、一族郎党共に、吉川元春の軍により誅殺された。
本城越中守寝返りの顛末である。
(吉田物語)
0993人間七七四年
2013/01/02(水) 15:14:29.51ID:5obb+yb2仕方なく本当に内通したら、結局裏切り扱いで死亡、てこと?
褒められた時点でゲームオーバーな気が
0994人間七七四年
2013/01/02(水) 15:31:28.14ID:tg9JKZccまたいつ裏切るか不安だったのだろう
0995人間七七四年
2013/01/02(水) 20:08:21.00ID:GW7PaUnw国人連中が強い方に靡くのを道義的に批判する資格はなかったり。
0996人間七七四年
2013/01/02(水) 20:29:55.91ID:t/S79N880997人間七七四年
2013/01/02(水) 20:33:08.40ID:CvfZfpp/小早川+αのαの方に通じるものがある気がしないこともない
まぁしかし単純に強い奴が裏切ると怖いよね
本格的に尼子攻め開始って時にわざわざ本城の処断をしてる辺りとかそういう意図を感じる
0999人間七七四年
2013/01/02(水) 22:22:04.13ID:LSuGyVaP1000人間七七四年
2013/01/02(水) 22:26:45.88ID:9QxKLYc410011001
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_/ ,、r'" _」
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゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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