戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0723人間七七四年
2012/12/09(日) 21:23:14.71ID:FULY31Rh0724人間七七四年
2012/12/09(日) 22:17:03.58ID:UbfwYRJ/この伊藤豊後は、もともと九州日向、飫肥城の城主である伊藤修理の弟という。
天正十五年、秀吉の九州征伐の折、島津と組んで抗戦したが、やがて島津氏は降伏、伊藤修理は改易、伊藤豊後は流浪して岩倉に居を構え、豪族として住み着いた。
やがて時は流れ慶長五年、上杉が最上領を攻めた際、伊藤豊後は家来18人を率い、上杉方として参戦。
だが武運尽きたか、10月2日の八ツ沼の戦いで、伊藤豊後をはじめ家来一党みな討ち死にし、かろうじて山川儀助が伊藤豊後の嫡子・伊藤日向を擁護して、米沢に引き上げた。
直江兼続は伊藤豊後の戦功を賞し、伊藤日向に知行100石を給し、岩倉の地において会津との境の守備役に任じた。
九州から東北まで流れても武士として働き家を残した侍の、ちょっといい話として。
地元の史料に載っている、東北の僻地と九州を繋ぐ意外な縁。でも、文中の「伊藤」は「伊東」が正しいと思うんだ。
なお、文中の伊藤氏の子孫も地元に在住しており、その方の姓は「伊東」。
……九州の飫肥城ってったら伊東氏だし、子孫の方も伊東氏なんだから史料訂正してやれよ。
0725人間七七四年
2012/12/09(日) 22:17:43.30ID:mkdcHAvr報告、上納すればいいという単純な話ではないでしょ
0727人間七七四年
2012/12/09(日) 23:44:58.04ID:mkdcHAvr他国からの贈り物なんて、うちの国には融通効かせてくれ
の賄賂と考えて対処すべきものでしょ
0728人間七七四年
2012/12/09(日) 23:53:41.54ID:w8xpyTjrある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。
スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った
それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。
「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」
そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。
0729人間七七四年
2012/12/09(日) 23:58:52.36ID:PJ/srUfv0732人間七七四年
2012/12/10(月) 04:14:35.53ID:F0ft9ji40733人間七七四年
2012/12/10(月) 09:20:54.88ID:yiTP4QW90735人間七七四年
2012/12/10(月) 18:53:51.03ID:MgMcFtCU僕に命じて庭を掃除させ、その後に利休にも庭の掃除を命じた。
利休が庭を見ると掃除が行き届いておりどこにも手を下すべき所がなかった。
すると利休は林の中に入った。利休が試しに一本の木を揺らすと、落ち葉が
風に舞って地に点じ、庭は一段と風情のある味わいになった。
そして利休は紹鴎に「命を終えました」と告げ、庭を見た紹鴎は利休の奇才を
感じた。このために利休は紹鴎からことごとく秘訣を授けられ、ついには
茶博士の名を得ることとなった。
――『日本史伝文選(芸苑叢話)』
0736人間七七四年
2012/12/10(月) 21:12:46.09ID:zcsSTXjRhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1355133116/
0737人間七七四年
2012/12/10(月) 21:36:40.40ID:C3FsAhZV有名な話の気がしたから既出でないかみてみたが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1787.html
ちょっと似ている話しかなかったか
(高山右近、古田織部、利休の話)
0739人間七七四年
2012/12/11(火) 02:45:59.87ID:y5JZlojb諸大名が来て謁する度に酒宴を催して丁寧にもてなし、あるいは囲碁を打ち、
茶をたて、歌謡や能楽などそれぞれの好みに従って愉快を尽くしていたのである。
要するに皆人の心を引き付け、握るためである。これは心が広く度量が
大きかったのであって、いわゆる天からの授かり物なのか、そうではないのか。
私が思うに天授であろう。
――『近古史談』
0740人間七七四年
2012/12/11(火) 18:28:56.51ID:MDsAJeiJ茶道具名品展に行こうと思うんだけど
戦国板民的には何に注目してみれば良いかな?
九十九髪茄子は当然チェックするとして
http://www.seikado.or.jp/fl_01_2013_01a.jpg
http://www.seikado.or.jp/010100.html
0741人間七七四年
2012/12/11(火) 20:32:19.96ID:fJz8buMZ信長が持ってたり(コレは本能寺で焼けたらしい)家康が持ってたり
同じ模様の茶碗は現存3個だったり(全部国宝)
再現しようと後世の陶芸家が人生注ぎ込んでたりとなかなかドラマチック。
見た目の妖しさもたまらん。
0743人間七七四年
2012/12/11(火) 22:31:28.62ID:vP7HWZQu0744人間七七四年
2012/12/11(火) 22:54:02.66ID:Lmq2x0dX土からにょきにょき生えてきたような力強さと暖かさ、
そして何よりも天衣無縫な無垢の風情がある。
井戸の良さが分かったら君も三斎さまやゲヒ殿の仲間だ!
0745人間七七四年
2012/12/11(火) 23:21:45.63ID:Ye7Kc8JL0746人間七七四年
2012/12/11(火) 23:23:42.60ID:qIZco8yB0747人間七七四年
2012/12/11(火) 23:25:47.46ID:wMrRmq/a0748人間七七四年
2012/12/12(水) 05:12:31.68ID:dEDKJLct0749人間七七四年
2012/12/12(水) 06:30:14.24ID:2RxkZ+Lr0750人間七七四年
2012/12/12(水) 10:19:13.76ID:p8wEpweF0751人間七七四年
2012/12/12(水) 10:47:13.22ID:bSyhxQ0u0752人間七七四年
2012/12/12(水) 11:26:38.12ID:71tMdzYn0753人間七七四年
2012/12/12(水) 14:58:22.95ID:NFN2iKPF0754人間七七四年
2012/12/12(水) 16:54:27.71ID:IzHhLh63光秀には一切同情出来なくなった
0755人間七七四年
2012/12/12(水) 17:35:52.35ID:p8wEpweF伊達政宗「大切に」
松永弾正「扱いましょう」
0756人間七七四年
2012/12/12(水) 17:49:53.63ID:DWwV7Fb9皆が馳せ出て供奉しようとしたのだが、本多正信が制し止めた。
家康は素肌に鷹の羽を散らしたはな色の羽織を身につけ、鹿毛の馬に乗って城溝の辺りに
立った。城中より撃ち出される弾丸が雨のように降り注いだがいささかも怖れず、加賀越前の
丁場まで巡視して住吉の陣へ戻っていった。
この時のことであろうか、弾丸がしきりに降り注ぐので正信は「こんな所に長居されては
危険です。早くこの場を離れてください」と言うも、家康は聴く耳を持たない。
そこへ初鹿野信昌と横田尹松が進み出て「殿はもとより鉄砲の激しい所をお好みですから、
ここより船場の陣には大砲を仕かけてありますので、ちと御覧くだされ。いざ御供いたす」
と進言すると、家康は船場の方へ馬を進めた。
そこは蜂須賀家の持口で城より遠いので弾丸の来ることは稀であった。
「大将が巡視に出て弾丸が恐ろしいと引き返せば三軍の示しにならない。さすがかの両人は
甲州者だけあって軍陣の法に練熟しておる」と家康はいたく賞誉した。
――『徳川実紀(大坂覚書、感状記)』
一方、息子も似たようなことをやっていた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3141.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1681.html
0759人間七七四年
2012/12/12(水) 18:38:37.12ID:Iwm4yr/n0760人間七七四年
2012/12/12(水) 18:49:30.55ID:CFkShBtGこのスリルが病みつきになると
銃弾が降り注ぐ中で弁当まで食べる戦中毒になるのかw
ダメ。ゼッタイ。
0761人間七七四年
2012/12/12(水) 19:29:52.90ID:5C2y/gx8前この板で教えてもらったよ
0762人間七七四年
2012/12/12(水) 20:04:56.01ID:R9HsZojG0765人間七七四年
2012/12/12(水) 21:59:58.43ID:y3Mapzw0金剛峯寺「もう少しで危なかったぜ」
0766人間七七四年
2012/12/12(水) 23:40:35.55ID:v4yYEJ1c国宝といえば、あの金閣が、無事終戦を迎えたと思ったのに放火犯のせいで
灰になっちまったよな。
上杉と武田が好きな身としては、光秀の行動は敵討ち&天佑神助に他ならぬ。
0767人間七七四年
2012/12/13(木) 11:19:07.67ID:ybktTOB5園城寺の焼き討ち避難スキルは異常
なんであんなに繰り返し丁寧に焼かれたのに文物が残ってるんだよw
0768人間七七四年
2012/12/13(木) 13:01:19.67ID:Nve3RQsUもちろん嘘の伝承なんだけど
0769人間七七四年
2012/12/13(木) 18:22:11.73ID:yjCfw0+Oよく考えたら東大寺文書クラスの巨大資料があっておかしくないはずなんだよね
東大寺も南都焼討とか焼けてるのに残ってるが
日向で寺社を焼きつくした大友宗麟もそうとう日本史上の損失を出してると思うが
0770人間七七四年
2012/12/13(木) 18:29:18.58ID:M2ffKdI/0772人間七七四年
2012/12/13(木) 18:46:12.24ID:CYXWa7OJ0774人間七七四年
2012/12/13(木) 22:33:29.50ID:D5rAFJin07751/2
2012/12/14(金) 06:02:36.12ID:djwypYrW秘書であるコンセクドノ(上野介殿:本多正純)から私に、皇太子の手に接吻しに行く事ができると
知らせてきた。それで午後4時に赴いた。
あの日、私が見た城下住まいの武士や兵、並びに王城や建物などに関する偉大さを上手く言い表すのは
無理である。
最初の門から皇太子の部屋に至るまで、絶対に二万人以上はいた。それも外から来たのではなく、
俸給を貰って城中の様々な役についている家来である。
主として最初の石垣は極めて大きい石塊に加工を施した石で出来ていた。城壁に組み合わせて
積み上げられているだけで、石灰も他の漆喰も何も使われていない。
城壁は大変幅広く、大砲を撃てるように狭間がついている。僅かだが、狭間のいくつかには
砲を据えていた。この城壁の下には濠があり、川に洗われている。跳ね橋が付いていて、これは
かつて見たことがないほど巧みな技術でできた橋だった。
門扉は頑丈で、私を通す時に開かれたが、火縄銃隊とモスケット銃隊が二列で現れた。もし誤魔化されて
いなければ千人以上居たのではないかと思う。この隊長がそのように言ったのだ。
隊長は第二の門まで付き添ったが、そこでまた別種の堤のような作りの城壁を見た。最初の城壁から
次まで300歩の距離があった。こちらは長槍と短槍兵400人が居た。
第三の門へと導かれたが、それは小石でできた高さ4バーバラの城壁が付いていた。ここには火縄銃・
モスケット銃、のための半月堡、またマングイナタス(薙刀)隊用のそれのようなものが間隔を置いて並んでいた。
薙刀とは矛槍のようなもので、それを携えた、数にして300人の兵士が居た。
この人々は三つの門扉の間に居住し、家には非常に美しい庭と市中を見渡せる窓が付いていた。
第三の門扉を通り抜けると間もなく居城に入り、その側に200頭以上の馬を擁した厩がある。
よく世話が行き届き肥えているので、まるでイスパニアと同様に調教師が居るかのようである。
馬は非常に満足できる状況で一頭ずつ二本の鎖の端綱で繋がれ、足蹴りを人に食らわせないように
臀部を壁に、顔は馬小屋に入る方に向いている。
厩に相対して皇太子の武器庫がある。彼が使う胸当てで、金色仕上げのものや長槍、槍、火縄銃、刀など
豊富に納められ、10万の人間を武装させるのに充分な武器を備えている。
その前方には城の最初の広間が続く。そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのような
ものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、
金の花模様のビロードの縁で飾られている。形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
壁は木と板で仕上げられていて、狩猟に関することが金や銀、その他の色彩で色調を見事に整える。
天井も同様で、生地がわからないようにしてある。
我々外国人の目にはこの最初に広間以上のものは望めないと思ったのだが、次のものはもっと素晴らしかった。
第三の広間にいたっては他に抜きん出ており、先に進めば進むほど一層豪華で珍重になっていった。
これらの広間はいずれの間でも武士と貴族らが私を出迎えてくれた。自分の持ち場を超えないように
それぞれ制限付きの権限を各人が得ているのではないかと私は思った。誰かが私から離れると、
別の者が迎えたからだ。
07762/2
2012/12/14(金) 06:03:22.59ID:djwypYrW床の上に先に述べた敷物を敷いて座っていた。金の縁取りのある深紅のビロードの絨毯のような
四角の布とともに、キモノと呼ばれる二着の衣服で、緑と黄色に装っていた。
そしてカタナという剣と短剣をその上にくくりつけていた。
頭は頭髪を色帯でまとめて乗せているだけだった。
35歳の、浅黒いが立派な顔立ちと体格の男性である。
私に付き従ってきたものには(前の広間に)居残るように秘書官が命じたので、私が席につくまで
入れたのは秘書官のみだった。座るのは皇太子のそれと同様床の上ではあったが、彼から
四歩くらいの近距離で、左側だった。すぐに帽子を被るようにと私に命じた。
皇太子は笑いながら通訳に向かって、私に会えてどれだけ嬉しいか、私を知ることは彼の心痛となる。
何故なら私が自分の難破で悲しんでいるに違いないと思うからだ。私のような高位の人間は、
自分の咎が原因ではない不幸な出来事で悲しむべきではない、と言って、私を励まし、この国で
私に為されることはことごとく恩恵である、とも言った。
私は謝意を表しそして出来る限りを尽くして答えた。航海やナオ(スペインの外洋船)に関する質問をして
半時ばかり私を引き止めた。最後に私は彼の父である皇帝(徳川家康)の所へいつか伺候する許可を求めた。
翌日は無理だったが、4日後に出発する許可を与えた。というのも、まず父親に知らせ、道中、宿泊と、
私という人間にふさわしい歓待を命じておきたかったからだといった。
以上を持って私は暇乞し、宿舎へと帰ったが、もう遅い時間であった。』
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)
1609年の江戸城と徳川秀忠に関する記録である。
0777人間七七四年
2012/12/14(金) 08:08:43.87ID:wDwyjJQi>そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのようなものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。
>もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、 金の花模様のビロードの縁で飾られている。
>形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
畳の説明が新鮮だw
0779人間七七四年
2012/12/14(金) 14:55:53.82ID:4jQEhxxK0780人間七七四年
2012/12/14(金) 17:04:12.73ID:qw3BQS3pこういう外国人の目線からの説明って独特で面白い
あとマスケット銃と火縄銃って違うものなんだな 同じだと思ってた
0781人間七七四年
2012/12/14(金) 17:25:54.69ID:2nZvKz8E日野亜相、京極忠高がこれに相伴した。
やがて本城に移り秀忠が本日の謝詞を述べる。この時家康は秘蔵の楢柴、
投頭巾扇付という名器を取り出し「好きな物を取られよ」と言い、秀忠は
投頭巾を請いうけて西城へ帰った。
その後、近臣らが「今日、御所は殊に御悦びでした」と家康に申し上げると、
家康は「汝等も将軍投頭巾の茶宴に巡り会うだろう」と、顔じゅうに笑みを
浮かべたという。父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。
――『徳川実紀(駿府政事録、創業記)』
0782人間七七四年
2012/12/14(金) 18:02:21.54ID:2nZvKz8Eすいません、ちょっと訂正します。
×父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。
○父子の睦まじい姿に見聞きする群臣は涙を流して感激した。
0783人間七七四年
2012/12/14(金) 19:11:16.06ID:YmFPR2w8当時は薙刀なんて実戦用の武器としては廃れていたと思ってたんだけど、
まだまだ使われていたのかな?
0784人間七七四年
2012/12/14(金) 20:23:20.10ID:CZ8OZ3WJ0785人間七七四年
2012/12/14(金) 20:44:32.36ID:lfOcY0i30787人間七七四年
2012/12/14(金) 20:49:28.59ID:E80ktpGd0788人間七七四年
2012/12/14(金) 22:39:49.93ID:rhWyyrFaマスケットって小銃の総称だから、本来の意味では火縄銃をマッチロック式マスケットと呼ぶべき。
だから、ここで分けてる意味が全くわからん。
スペイン人の認識として、マッチロックとマスケットを分ける何かの境目があったんだろうか。
0789人間七七四年
2012/12/15(土) 01:39:20.07ID:5v0Wtm+x0790人間七七四年
2012/12/15(土) 03:09:59.86ID:mRNRElBD鉄パイプの先に銃剣付けただけでショボい薙刀みたいな代物だな
0792人間七七四年
2012/12/15(土) 11:20:30.87ID:5v0Wtm+x鉄砲足軽の持つ2匁半筒=アルケブス(小型火縄銃)
徒歩や侍の持つ6匁目から10匁目の侍筒=マスケット
こんな感じだろう
0793人間七七四年
2012/12/15(土) 14:06:26.57ID:vPqhXWbg向こうの人からすれば同じ機構でも用途やサイズが違えば違う種類の銃って事なのかな
0795人間七七四年
2012/12/15(土) 16:06:56.21ID:6Fjeq5I5でも、日本式の類別だと、火縄銃が全体を表す言葉で、そこから細分化して鳥銃だの大鉄砲だのになるわけだろ?
訳文が悪いだけ、って気もするけどなー
0796人間七七四年
2012/12/15(土) 16:45:57.09ID:v3v4gbAu日本で量産できるようになった時点で
日本の気候や戦略にあったものに変化するわけだけど、
その一つ一つをちゃんと理解した南蛮人もそうは多くなかろう。
その一方で、銃の歴史そのものは南蛮人の方が長いので
彼らは彼らで多数の語を銃のタイプに当てはめていたわけで
まあ、ちかい語をあてる方が楽ちんw
それに本国の報告書に長々とした説明はできん、
というわけで多少誤解はあるかもしれないけど
もうこれでいいや、となったのではないだろうか?
0797人間七七四年
2012/12/15(土) 16:57:37.97ID:pi7O1z6D画像がひとっつも出てこない。どんなんだろか。
0798人間七七四年
2012/12/15(土) 18:44:56.64ID:XHek4QUf折などに飲みすぎると、必ず喧嘩を始めるものだから慎まなくてはならない。
軍陣や鷹野の時には下戸も一盃飲めば勇気が出てきてひとしお精の入る
ものだ。しかし、小盃で長々と飲むのは何か祝言の席のようで弱弱しい。
上戸が茶碗などで、すぱすぱと一息に飲む姿こそ見ていて心地がよい」
――『徳川実紀』
0799人間七七四年
2012/12/15(土) 18:50:59.22ID:MLXmjZsXギザギザハートの暴れん坊だった権現様だけに説得力がある
0800人間七七四年
2012/12/15(土) 18:52:23.44ID:O0pXVcS+0801人間七七四年
2012/12/15(土) 19:11:11.21ID:mRNRElBD0802人間七七四年
2012/12/15(土) 19:17:15.72ID:6eAZaUB+0805人間七七四年
2012/12/16(日) 11:52:44.29ID:WnokO+Fz0806人間七七四年
2012/12/16(日) 17:33:52.74ID:Ayo6ozKd0807人間七七四年
2012/12/17(月) 11:06:54.34ID:bP7jvpZP『百姓の苦しみは、一粒百行といい、その前年の秋より、種を取り、様々な準備をし、春にいたって
その種をおろし、夏に至ってこれを植え付け、耕耘の功果てて後、秋に至ってこれを刈り、扱き、搗いて、
ようやく米となるのである。
その米によって我々上に立つものは養われている。百姓の千労万苦、血の涙を流すほどのものである。
聖徳太子のお言葉に、この様なものがあるそうだ。
民の苦しみ流す汗は、みな血の涙である、と。
これ故に君子は、一飯を食する間にも、民百姓の艱苦を思うのだという。
だからこそ、地頭・代官たる者が、民を虐げ富を貪るというのは、天の憎しみ深い物なのだ。
次に職人は、諸々の大工・小工、家を造り人をして、雨露、霜雪を凌がせ、
船を造り橋をかけ、海川を渡して人の助けをなす。
武器に至っては、職人によって作られる物品は非常に多い。
これらは皆、工人の業功であり、それによって我々が得られる利益は莫大である。
また商人の功とは、ここに何か物品がない時、別の場所より買い取り、
別の場所に無い物品はこの方で買って、金銀・銅鉄・瓦石・諸物・衣服・飲食等、すべてのものが揃わないということが
無いようにし、我々に居ながらにしてそれらの物品を購入し使用する自由を与えてくれる。
これこそ商人の力である。
故に、我々武士は、農・工・商の3つのものを、最も慈しむべきなのである。』
(武野燭談)
0808人間七七四年
2012/12/17(月) 14:34:17.73ID:X8BtFzeD0809人間七七四年
2012/12/17(月) 14:50:41.40ID:mTxjSZHZ0810人間七七四年
2012/12/17(月) 16:56:08.18ID:+P7aYMBB0811人間七七四年
2012/12/17(月) 17:51:05.41ID:GLdB4Yh10812人間七七四年
2012/12/18(火) 21:31:28.72ID:JaAwW5wF「私は親父が七十歳のときに生まれた赤ん坊だった。
体も弱く病気がちだったから塩を扱う商人に養子として送られるところを、
多久図書殿が色々と口を利かせてくれて、
九歳のとき、光茂公の走り使いの役に使ってもらえるようになった。
光茂公は私に、不携という名前を付けてくださった。
されど、私は城では光茂公や綱茂公の個室にある、
コタツの上でハシャギ、悪戯遊びをするのがなにより楽しかったから、
その時期は光茂公、綱茂公は私をどうしようもない悪戯者だと思っていたとのことだ。
その後、十三歳のとき、元服するよう光茂公から仰せがあったので、
それから一年間自宅に引きこもって準備と覚悟をして、
翌年の五月に城へと出仕して御小姓役を勤めた。
そして時の進むうち、倉永利兵衛になにかと目を掛けてもらうようになり、
利兵衛から上役のほうに、
「あの者は和歌もたしなむので、
光茂様からも直々にお召しがあるほどです。」
と申し上げてくれたのだが、
かえってそれが上役の不評を買い、私は干されることとなった。
利兵衛が私を推薦するつもりであったことは勿論わかっている。
この件以降、江戸へのお供もしないで、
何もすることなく、ぶらぶら遊んでいたのだが、
いろいろと不安な気持ちも出てきたので、
父と親しくしていた、湛念和尚のところへ行きよく話すようになった。
そんななか、いっそのこと若いながら僧侶になろうかとも思っていた。
そんな私の様子を見ていた親戚の山本五郎左衛門が、
父が加増された知行地を私に分けてなんとか武士の道に戻らせようと、
中野一門皆で秘かに相談していたと聞いた。
それを知った私は、それは神仏に誓っても受け取らないと覚悟していたところ、
請役所へ呼び出されて鍋島本家から直々に扶持米を頂くこととなった。
本家から扶持を認められた以上は、
他人から見下されるような武士では無念である。
どうすれば武士としての気持ちよい奉公が出来るだろうかと、
日夜考えていたのがこの時期である。
そんなときに、ある歴戦の老武者から、
「名誉と利益を追うような者はサムライではない。
しかし、名誉と利益を追わない者もサムライではないのだ。
この道理を真剣に考えて行動しろ」
と教えられ、それを考え抜いて納得することが出来た【続く】
0813人間七七四年
2012/12/18(火) 21:54:52.45ID:JaAwW5wF主君にすらも諫言して自分の国になんらかの貢献をすることである。
下の方でグズグズしているだけでは役に立たない。
奉公すると決めたなら、ともかく主君に諫言を受け入れてもらえるように、
己をそのような位置にまで持ってゆくべきである。
まあ、それでもあまり早い出世は昔から波風立って好ましくないから、
五十歳から出世するよう、そのための工夫、修行に全力を注いだ。
血の涙とは言わないが、目から小便が出るくらいの苦労は我ながらしたつもりだ。
この時期の工夫が、私がよく話す、角蔵流の泥臭い努力だったと思う。
そんな時期に、殿が亡くなり、
以前からいた上役たちは臆病風を吹かしてしまい、
世間の評判を落とされたので、
そういう成り行きのなか、私も隠棲者となってしまった。
形の上では本意を遂げることは出来なかったが、
武士の心意気は最後まで失わなかったと自分では思っている。
人間が本気で決心すれば、望みは形は変われど叶うということだろう。
逆に奉公する者が罰を受けるのは、
自慢と奢りからくる天罰だと思えばよかろう。
こんな身の上話をする私を、誠に高慢者のように思うだろうが、
つかみきれないこの世の中で、
不思議な因縁にひかれ、私の山家を若武者たちが訪ねてきてくれるので、
なんの遠慮もなく、あるがままを話したのである【葉隠】
0814人間七七四年
2012/12/19(水) 01:36:30.28ID:8ELvZjMC0815人間七七四年
2012/12/19(水) 04:37:26.00ID:F6PdzPoTそれが本気の決心なんだろう
0816人間七七四年
2012/12/19(水) 05:41:15.93ID:lmqUdhCU全員無事で、神と陛下によく奉仕でき、かの(北関東から東北の)海岸線に至る全ての領主と
その家臣らを友にし、我々のキリスト教の信仰に惹かれるようにしてきた。
多くの、しかも大変良い港を、それも大変良い場所に、さらには(伊達)政宗のような
大領主の領地に発見した。
政宗は、領内に来たイスパニア船は常に良好な待遇と補給を受けうることになるので、必ず
その領地に向かうことになるだろうと言った。また自分の家臣がキリスト教徒になるように望む、
とも言った。
江戸に到着すると直ぐ、司令官は皇太子(徳川秀忠)の顧問官らに使いを送り、帰還を知らせると共に、
補給を受けたいものがあるので浦賀港に向かい、その後直ちに御手に接吻するため目通りをし、
発見したものの図をご覧に入れるため立ち戻りたいとの許可を求めた。
その許可を得。(江戸藩邸の)件の政宗にも同様の使いを送った。彼は
「自分に会わぬまま先に行かないでほしい。月曜日に昼食を共に出来るよう自分の屋敷で待っている。
司令官に会わない1時間は1年にも思える」といってきた。
午後3時に我々が彼の屋敷に行くと、彼は司令官と、パードレ・フライ・ルイス・ソテロに
親愛の情あふれる接待をし、神父に見せる尊敬と敬意は言葉では言えないほどだった。
食べ物を手ずから運び、酌まで取り、司令官にも同様にした。
「自分たちは友で、永久にそう望み、武器に誓ってかくありたい。故にカタナを授与するので
自分には懐剣を」と述べ、その様にし、大変恭しく懐剣を受け取った。
十字架に接吻して剣を頭上に押し頂き、彼の流儀で他の儀式も行った。それは中々見物で、
イスパニア人にこれほど殿が好意を示すのを見て、家臣らはたいへん驚いていた。
政宗は極端なまでのことをし、普通なら彼の前には罷り出られないような身分の家臣まで饗応に
呼ばせた。そしてこの者に
「汝は我が家臣である。土下座せずには我が前には出られない輩であることは汝自身がよく知っている。
だが汝はキリシタンで、司令官の友である故に、今日我が食卓に共に着くが良い。殿の三つの印をつけよ」
と言った。これには他の者は驚愕してしまった。
キリシタンの家臣らはパードレの修道服に接吻し、我々の信仰のことを知るために修道院に参じたいと
言った。食事と会話の際に、我々のキリスト教について話が行われた。
彼(政宗)はキリストの漁する網の近くに居た!神よ、その智を照らし給え!この者が受洗した暁には、
キリスト者の保護者と成り殆どの者が改宗する源となるだろう。何故なら、この国のキリスト教は
大根から葉が生じていくように、今日まで逆さまな形で始まってきたからである。
キリスト教に入信したものは貧しい役人や漁夫、平民で、貧しい修道者に保護や支援を与えるどころか、
逆に自分たちが援助されることを望み、献金はわずか。
その上彼らの先祖はキリスト教徒ではないため、先祖のためにミサを挙げて貰う必要もなく、
ミサの依頼も全く無く、宣教師らは自活の手段を持たなかった。
祈りの刻に我々は自分の宿舎に戻ったが、この領主の良き素質を見て大変幸せだった。
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
スペイン人使節と伊達政宗との会食、およびキリシタンの事情についての記録である。
0817人間七七四年
2012/12/19(水) 19:17:02.57ID:7I0rTZeL0818人間七七四年
2012/12/19(水) 19:37:11.91ID:rIv0vERYイスラム教原理主義派を背景にした戦士は強いしさ
一向衆も強いけどよくよく教え読むと逃げても救われる教えだからな
0819人間七七四年
2012/12/19(水) 20:24:50.05ID:2NOO+mdG0820人間七七四年
2012/12/19(水) 22:21:23.86ID:lmqUdhCU翌天文四年正月18日、元就は和睦の御礼として、供廻り50人足らずで、宍戸氏の居城・甲立へと訪問した。
吉田と甲立の間は一里ばかり離れていたので、先ず御遣いのものが遣わされ、それに対応するため
宍戸家からも人数が甲立城下川端まで、御案内のために出された。
彼らは毛利家の使者が口上で、元就の御出参の事を申し上げると、それに相当の返答をし、
元就は直接に城に入った。
城では元源親子が揃って元就を待っており、一礼がすむと、種々様々な御馳走は浅からぬものであった。
食事が済むと、元就は城を立とうと思ったが、だんだんと元源と話をしている内に、
「この様に心安く対話ができるとは、一世ならぬ奇縁だと思います。今夜はこちらに留まらせて頂き、
終夜あなたの物語を聞きたく思います。」
と話すと、元源は大変機嫌を良くし、夜陰になっても様々に馳走して、その後寝所を同じくして
元就・元源は枕を並べて、終夜雑談をしようということになった。
そのはじめに、元就が言うには
「あたなのご嫡子、雅楽頭殿には、未だにご縁組も、結婚の約束をしたものも無いと聞いております。
そうであるなら、私の娘に、年齢も相応なものが居ります。これを宍戸家に差し上げたいと思っているのですが、
これを奥方とご相談為されて、ご了承頂けるのなら、私も本懐に思います。」
宍戸元源はこれを聞いて「さて!御年相応なご息女がいらっしゃるか!これは幸いなことです!」
と、早速奥方のところに行って報告し相談をし、その上で奥に元就を呼び込んで、
親同士相対した上でこの縁談を結んだ。
双方祝詞を仰せられ、喜び限りなかった。
その後、元就は語表にて朝食を召し上がり、心静かにお話などされ、そうして吉田へと帰った。
(吉田物語〉
毛利元就と宍戸元源、姻戚関係を結ぶ、という逸話である。
しかしこの手の逸話で、婚姻の許可を得るため、旦那や相手方の父親まで奥さんと相談する、という
話は始めて見た。中国地方はやっぱり女性の権威も強かったのでしょうかね?
0821人間七七四年
2012/12/20(木) 00:08:05.36ID:yEemqBjP…悪い話?
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