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戦国ちょっといい話35

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0001人間七七四年2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0621人間七七四年2012/11/29(木) 20:54:38.49ID:CYfM9YTg
前に出ているかもしれないが岩屋城に関するお話

高橋紹運の家臣に谷川大膳という者が居た。
岩屋落城前日に紹運の命を受け立花城に使いをし、
島津軍の厳重な包囲をかいくぐり岩屋に戻ったが
時遅く、城は落城し主君も切腹。
そんな事を知らない谷川大膳は門を叩くがどうも様子がおかしい。
そうこうしている間に島津の兵に囲まれ、島津忠長の陣へ連行された。

大膳は尋問を受けたが、悪びれる様子もなく姓名を名乗り
主君の命で立花城に使いした事を申し述べた。
その態度に感じ入った島津忠長は紹運の死と落城を告げ
「当家に仕える気は無いか?今まで受けていた俸禄と
おなじ分を進ぜよう」と誘った。
0622人間七七四年2012/11/29(木) 21:03:11.22ID:CYfM9YTg
続き

大膳はそれを聞くと
「忝い次第ですが、この期に及んでそんな望みはありません。
主君の最期に遅れ、お供が出来なかった事が残念でなりません。
そこでお願いしたい事があります。
立花城からの返書は私の首にかけてあります。
どうかこれだけは、私の首を落とした後立花城に返していただきたい。
もし叶わぬなら、首をはねた後、ご覧いただきたい。」と涙を浮かべ言った。

これを聞いた忠長は涙を流しつつ
「これぞ誠の武士である。紹運殿はいかに名将であった事かがよく分かる。
この者を殺してはならない、またその書状も見る必要はない
大切にしまって立花城へ帰られるがいい」と言って、縄を解き刀を返したばかりか
馬に乗らせ足軽数人までつけて送り返したという。
0623人間七七四年2012/11/29(木) 21:12:41.15ID:CYfM9YTg
続き

大膳は立花城に帰ると立花統虎に書状を返すと
切腹しようとしたので、統虎は驚いてこれを止め
「今そなたが死ぬ事は犬死に等しい。亡き父上(紹運)も喜ばれまい。
どうか、これからは余に仕え、余の馬前で死んでくれよ。」と言った。

その後は立花家に仕え統虎の兵学師範となったが
後に剃髪し、紹運はじめ戦死者を弔いながら一生を終えたそうである。

浅川聞書に伝わるお話ですが、死んだ人たちよりも生きながらえた方が
つらかったのかも知れませんね。
視点によっては良い話では無いかもしれません。
0624人間七七四年2012/11/29(木) 21:54:11.70ID:oQXW4n1B
生きるのも死ぬのもどっちもつらいだろ
優劣つける必要ない
0625人間七七四年2012/11/29(木) 21:58:28.03ID:5Za6BvO6
いい話だと思うよ
0626人間七七四年2012/11/29(木) 22:34:39.91ID:CG4P9gBD
>>624
そこに拘らなかったら侍じゃないと思う
0627人間七七四年2012/11/29(木) 22:47:30.88ID:oQXW4n1B
>>626
なるほど
では生きるか死ぬかどちらに理屈をつけるべきだろうか?
0628人間七七四年2012/11/29(木) 23:08:08.85ID:IJMIozKW
やっぱ島津忠長は情の深い名将だな
某SLGじゃ出てこないかモブ扱いだけどさ
0629人間七七四年2012/11/29(木) 23:33:50.19ID:CG4P9gBD
>>627
そんな難しいことわかんねえよ
ただ生きることに理屈はいらないけど、死ぬ時にに生きてて良かったって思うためには死ぬ理由はあった方がいいかもしれない
矛盾してるか
0630人間七七四年2012/11/30(金) 17:22:35.00ID:pUBJW8Va
宮本武蔵
「武士の兵法に関していろいろな論が世にあるけれど、
何を初心者の技とし、何を武士道の奥義と区別しているのだろうか。
あらゆる芸事には、これが極意である、
これこそが秘伝であるなどと言う奥義が伝わっているものだが、
いざ敵と斬り合うときには、
初心者の技で斬るとか、この場合は奥義を使うなどの区別はない。
我が流派では、初心者にはまず合理的に勝つための技術を教え、
論理で伝えられないところは、
その者の心のわだかまりや執着が薄れる頃合いを見計らって、
次第次第に深いところの理を体得してもらえるよう心がけている。
とは言っても、兵法とは突き詰めれば斬り合いの場での術を学ぶこと。
それ以上でも以下でもないのだから、もともと奥義なんてものはない。
例えば、山奥に行こうとして辿りつき、
そこからさらに奥を目指せばまた入口に出てくるようなもの。
それは兵法に限らず、なんの道でも、
深いところの技が効果を発揮する場もあれば、
初心者の技こそが効果を発揮する場面もあるということだ。
他流派にはこれは奥義だからまだオマエには教えられない。
と、言って奥義なる技を隠す流派もあるようだが、
そもそも斬り合いに勝つということにおいて、
何を隠すことがあり、何を顕すことがあると言うのだろうか。
以上の理由から、拙者宮本武蔵は誓紙や罰文などで、
弟子を型にはめ育てる方法を好まない。
兵法を学ぶ人のそれぞれ生まれもった気質才能を大事にし、
その本来の心へ直に至る道こそを教え、
それまでの人生で後天的に身につけた悪いところを捨てさせる。
そして自らの力で誠の武士の道に入るよう教えるのが我兵法の道である。

よくよく鍛練あるべし」【五輪書】
0631人間七七四年2012/12/01(土) 15:07:15.72ID:YpmGoFtH
ある人が千利休に茶道の極意を問うたところ「茶は適量を、炭は湯が沸くように、
花は野にあるが如く、夏は涼しく、冬は暖かく…これを除きて秘法無し」と答えた。

その人が呆然として「…そのようなことは知っています」と言うと、
利休は「あなたがもしこれを知っているのならば、そのように実行してください。
私は礼物を奉ってあなたの弟子になりましょう」と言った。

側にいた笑嶺和尚はこれを「三歳の童でもこれをよく知っている。
しかし八十歳の翁であってもこれを行うことはできない」と評した。

――『日本史伝文選(芸苑叢話)』
0632人間七七四年2012/12/01(土) 15:33:52.20ID:669Qsn1+
3歳の子は知らないだろって突っ込んじゃダメかね?
0633人間七七四年2012/12/01(土) 15:40:15.09ID:3tkmdVk/
仮にも利休七哲なんだから、知らないことはないだろ
0634人間七七四年2012/12/01(土) 16:01:22.48ID:TvxLqYCi
要は言うは易く行うは難し、って事だろうから、そこに突っ込むのは野暮ってもんではなかろうか
0635人間七七四年2012/12/01(土) 17:34:59.80ID:a30u93NX
茶は適量だけでもいろいろ考えられるしな。同じ口一杯でも公家さんと清正さんじゃ大きさ違うだろうし。鬼島津なら普通の温度でも津軽のヒゲさんとかには暑いだろうし冬なら逆だろうし
0636人間七七四年2012/12/01(土) 17:56:47.70ID:XRs2qPBY
>>635
この場合の適量は濃さの問題なんじゃ・・・
0637人間七七四年2012/12/01(土) 18:37:02.20ID:WvSaHiAo
おいら時々他人と暑い寒い感覚がズレるしなー。つまり「極意なんてねーよ」と思う
0638人間七七四年2012/12/01(土) 20:14:06.14ID:nwosr3HU
道具の拵えこそ戦場の心得なり
  後継者の立花忠茂の拵えた陣太刀を見た宗茂が、後に周囲に語った話
「大将は言うに及ばず、武士たるもの諸道具の拵えを派手にするのは悪しきことだ。
 以下に強い者でも、派手な拵えのせいで、遠矢で射抜かれ手負いになっては何の役にも立たぬものだ。
我ら立花の者は、世の常の刀に蟇肌という地味な拵えの立ちで日本はおろか朝鮮に至りて四十四度の
戦場で一度も事を仕損じたことはない」
 これに対して立花壱岐が言上した。
「鎧を着ていると刃渡り二尺三寸の太刀でも抜きにくいので、当節の陣太刀は短めに拵えるそうです」 
「昔、道雪公に仕えていた安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ」
 しかし壱岐の腑に落ちない顔に気づいた宗茂は続けた。
「太刀の抜き方にコツがあるのだ。一度に抜けぬ時は、中間を取って抜けば良いのだ。もし間に合わない
ようなら脇差を抜けば良い。また馬上にて太刀を抜くときは、柄を逆手に取って抜けば馬に当たる気遣いもない。
小脇差とて抜き打ちにするとしくじって馬を傷つけるので心せよ」

 戦国生き残りの武将、立花宗茂のちょっと役に立つ良い話    (浅川聞書より)
0639人間七七四年2012/12/01(土) 22:00:18.12ID:BgQ/w/CT
将校が派手な格好するとマズイという、宗茂公の発想に
第1次世界大戦でやっと辿り着く欧米
0640人間七七四年2012/12/01(土) 22:06:43.45ID:HHbnuqeE
リヒトホーフェン「まったくだ、パーソナルカラーを塗って戦場で目立とうなど許せぬな!」
0641人間七七四年2012/12/01(土) 22:35:32.34ID:6uF1uw1O
騎馬状態で刀を使用する場合ってけっこうあったんだな。
0642人間七七四年2012/12/01(土) 22:37:36.80ID:Ss79z7lE
>>641
そりゃそうだ。南北朝時代だと馬上剣戟全盛。
0643人間七七四年2012/12/01(土) 23:56:29.25ID:uPIsewsJ
寧ろ騎馬状態だと槍より太刀なんじゃなかったっけ?
0644人間七七四年2012/12/02(日) 00:29:37.31ID:WHuJOZkt
ランスがあるからなんともいえないけど、
そういえば騎馬民族ってだいたい湾曲した刀剣を振り回してるよな
0645人間七七四年2012/12/02(日) 01:04:29.70ID:jMM1blfz
馬上からの斬撃は馬と人の体重×走るスピードが加わるから凄い破壊力なんだそうな
0646人間七七四年2012/12/02(日) 01:14:41.69ID:wM6SK17W
>>644
スゥーっとなぞるように斬れないと持ち手も痛めるからな
0647人間七七四年2012/12/02(日) 10:36:59.25ID:hn2P8NqH
武具の飾りに金銀を使うと盗まれるからやめとけって
雑兵物語にもあったな
0648人間七七四年2012/12/02(日) 11:01:45.35ID:VPBbHfJr
>>644
明軍の騎馬隊は皆短めの剣だったらしい
やっぱり長いと馬を傷つけてしまうからだろうね
0649人間七七四年2012/12/02(日) 11:18:08.30ID:l7pidEiq
全員赤備えで目立てば問題なし
0650人間七七四年2012/12/02(日) 11:39:20.94ID:IrSTqUOT
でもそれだと個人の武功が分かりにくくなるんじゃあ
0651人間七七四年2012/12/02(日) 12:14:18.39ID:nA/QW6Fi
刀を抜くのに失敗して切られた人とかもいたんだろうなー
0652人間七七四年2012/12/02(日) 13:09:59.67ID:VPBbHfJr
>>651
始皇帝「抜けないときは正直ヤバかった。死ぬかと思った。」
0653人間七七四年2012/12/02(日) 13:14:33.31ID:aE/h0DSu
>>638
安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ

三尺一寸って94cmだよね。絶対に一瞬で切り伏せられないよね
某漫画のように斬撃の使い手か刀がビームサーベルだったか...
0654人間七七四年2012/12/02(日) 13:15:58.05ID:UVRtm4Nf
>>650
わかってやれないような将は赤備えを率いる資格なし
0655人間七七四年2012/12/02(日) 13:35:59.30ID:6y/Z1ilt
>>650
雑兵の首など打ち捨てよ。目指すは家康の首一つ
かかれぇ!!かかれぇ!!
0656人間七七四年2012/12/02(日) 14:19:06.13ID:nxs0sbJa
>>649
全員赤備えで遠間から撃たれまくって壊滅したので鎧を捨てて逃げましたby彦根藩士
0657人間七七四年2012/12/02(日) 14:27:08.34ID:HjRvNDpE
とにかく目立って敵に狙いを付けられやすい赤備えは
余程の精鋭部隊でないと務まりません
0658人間七七四年2012/12/02(日) 15:41:22.50ID:SgTb1Jl2
里村紹巴は奈良の住人であったが、

「人は三十歳までに名を起こせなければ立身できない。つくづくと
世の中の有様を見てみると、連歌師は易い道のようだ。職人も町人も
貴人の御座に連なるくらいだからな。もしそれが無理なら百万遍の長老より
推挙状をもらって関東へ下り、大岩寺で談義を説いて世を渡ろう」

と思い立って上洛し、里村昌休をたのんで連歌を稽古した。
しかし度々退屈しては袋をかたげて「関東へ下る」と言い出したが、
小川の連歌師たちに押し止められた。その内にしばしば人に知られ、

称名院殿(三条西公条)に源氏物語を聞き、三好殿(長慶)の仰せによって
宗養と両吟を仕った。辛労の功がつもり、冥加が有ったのであろうか。

やがて宗養が亡くなって紹巴は天下の上手と呼ばれるようになった。

――『日本史伝文選(戴恩記)』
0659人間七七四年2012/12/02(日) 20:31:54.11ID:ULkjyKm7
蟇肌っていうほど地味か?
0660人間七七四年2012/12/03(月) 21:09:09.62ID:jz2XSlVk
武蔵国入間郡の箕和田と云う所は鯉の産地であり、その地の町人たちは四百領の運上金を幕府に収めて
鯉を捕り、それを江戸に送って商売をしていた。

ある時、老中の知恵伊豆こと松平信綱に、箕和田の、鯉を獲っている者たちとは別の町人の一団が、
六百両の運上金を差し出しますので自分たちに鯉を捕る権利を与えてほしい、と申し出た。

幕府にとって今までよりも運上金が二百両多く収まることになるので、その一団の者たちは、必ず許可に
なるものと考えていた。ところが信綱は

「よく考えてみよ。今まで四百量だった運上金を、わざわざ二百両増やして六百両にしてくれという者があるか。
それは、今までよりも鯉の値段を二百両上げてくれ、というのと同じ事だ。

その二百両は結局、江戸の武家や町人に売る鯉の値段を吊り上げることによって生み出そうとするであろう。
それは江戸の住人に難儀を与えることになる。
逆に、今までの運上金四百領を、二百両にしてくれと申し出たのなら、許すことにしたであろうに。

幕府が二百両の運上金を多くもらったからといって、その分、江戸の住人が高値に苦しまなければならないというのでは
不義が生まれ、訴訟が増えるばかりである。」

そう言って、前々から四百両の運上金を収めている町人たちに、鯉を捕る権利をそのまま与えたという。
(名将言行録)
0661人間七七四年2012/12/03(月) 21:30:54.39ID:zk6K1qku
さすが知恵伊豆
0662人間七七四年2012/12/03(月) 22:00:39.98ID:HKzcnOmV
鯉なら高くても別に良いじゃないかとちょっと思ったけど食用か
0663人間七七四年2012/12/03(月) 23:11:01.18ID:32kcS1Ik
立花宗茂流一領具足
「足軽は、どうしても侍より早く崩れたがるものだ。そこで譜代の者どもの子を取り立て、
銘々に召し使い、一飯も食べさせ、他へ出仕しないよう育み召し置いておくことが肝要だ。
いざ人数が必要な時には、彼らに槍一本持たせて戦場に召し連れれば、彼らは知行など
なくとも恥を知る者なので足軽共の代わりになり、備えが崩れることがない」
                                
                                            (浅川聞書より)
0664人間七七四年2012/12/03(月) 23:40:27.87ID:gXfRvWke
タダより高いものは無いという教えである
0665人間七七四年2012/12/04(火) 00:01:30.01ID:+ri9Wriv
>>664
 ここは九州、修羅の国
 一宿一飯の恩義と言って欲しいのう。
0666人間七七四年2012/12/04(火) 00:47:44.59ID:BNaq4MbT
二代にわたっての助勢の恩義に、婚姻を結ぼう
ただし娘婿は殺す
0667人間七七四年2012/12/04(火) 02:56:30.83ID:MF0bttPT
九州には一生いきたくないな
0668人間七七四年2012/12/04(火) 10:00:55.51ID:C3/54/2s
戦国時代的には南、現代的には北以外は大した事ねーから!
0669人間七七四年2012/12/04(火) 10:15:40.37ID:BNaq4MbT
だから”北九州”は北部九州のことではないと何度も
0670人間七七四年2012/12/04(火) 21:00:00.45ID:4NbwRqVW
この流れで小ネタではあるが個人的に好きな話

前にも出ていたが、立花宗茂が興行見物に出かけた際に起こった喧嘩を
落ちついた態度で眺めるなど大器の片鱗を見せていたのが8際の頃。

9歳のある日、立花道雪の所に遊びに行くと食膳が出された。

その膳に鮎がのせてあり、宗茂(当時は千熊丸だが)は骨を取りつつ
鮎をおいしく食べていると何か目線を感じる。

ふっと正面の道雪を見ると

(# ゚Д゚)コラ

Σ(゚д゚lll)

(# ゚Д゚)武士なら骨ごと頭から食わんかぁ!

(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。

雷様直々のお叱り、そりゃ怖いよな。
宗茂らしからぬ、個人的にはちょっといい話。
0671人間七七四年2012/12/04(火) 21:09:31.33ID:VFuXTFJ0
宗茂は純心だな。
俺なら、「雷を切ろうとして半身不随になった馬鹿が」としか思わん。
0672人間七七四年2012/12/04(火) 21:18:01.51ID:yYYl/Xuv
>>669
北九州市ってそのへんに手榴弾が転がってて、
何の変哲もない倉庫から対戦車ロケット弾が見つかるんだよね?

>>670
>涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。

道雪も噛むなとまでは言ってないと思うがw
0673人間七七四年2012/12/04(火) 21:19:17.42ID:mUQkG000
まだ一桁の少年に硬い骨を苦いハラワタごと食えとか雷神様も中々無茶を…
0674人間七七四年2012/12/04(火) 21:41:11.61ID:+Kjv91hx
>>672
噛んだらもっとひどいことになる気がするが
0675人間七七四年2012/12/04(火) 22:56:35.03ID:r52V4Mxo
戦争経験者だったうちの爺様も、生前は焼き魚を頭から丸ごと骨までバリバリ食ってたな
やはり栄養になるらしいよ…真似するとひどい目にあうけどねw
0676人間七七四年2012/12/04(火) 23:17:00.72ID:FykM800i
焼き秋刀魚なら全部バリバリ食べれるだろ
おろし大根に醤油つけて一緒に食べるとウマー
0677人間七七四年2012/12/04(火) 23:47:45.25ID:0sXiHcq5
姉川の戦いで奥平信昌は二騎を斬ってその首を実検に備えた。徳川家康が感心して
「若年の小腕で寄功を奏したな」と言うと、信昌は「戦闘の道は剣法の巧拙にあります。
筋力の強弱にはよりません」と答えた。家康が重ねて「お前は誰に剣法を学んだのだ」
と問うと信昌は「奥山流を学びました」と答えた。

「ではお前の家臣の急加斎に学んだのだな。私も若い頃はその流派を学んだが、
近頃は軍務が忙しいので久しく怠ってしまった。こたび帰陣のうえは必ず彼を召して対面しよう」

急加斎は奥平貞久の四男で孫次郎公重と称し、上泉秀綱の門に入り神影流の剣法を学んで
奥義を極め、三河奥山明神の社に参籠して夢中に秘伝の太刀を授かりこれより奥山流を唱える。

かつて家康はしばしば岡崎に急加斎を召して演習したが、この後に信昌より召して
重ねて急加斎に学び、誓書を下して家臣に召し加えるとの御書を賜った。

また家康は三河で有馬時貞は新当流の剣法の達人と聞き、時貞を召してその奥義を伝授させた。
家康は時貞に青江の御刀を下して領地を与えたが、後に時貞が死んで嫡流が絶えると庶孫の秋重に
家を継がせ、紀伊家に附属させた。

――『徳川実紀(奥平譜、貞享書上)』
0678人間七七四年2012/12/05(水) 00:26:51.09ID:1p817mw8
奥平って、姉川のあとすぐに武田に付いちゃうんだよね
まあ仕方のないことなんだけど
0679人間七七四年2012/12/06(木) 00:08:05.84ID:+8ZHISA4
あれ、関ヶ原で小早川の目付に奥平ってのがいたような
0680人間七七四年2012/12/06(木) 01:35:49.57ID:s2KfBwvj
いるよ
なぜか部隊長にさせられて戦死しちゃったけど
いきなり自分のじゃない部隊の大将にさせられても誰も守ってくれないもの
そりゃ戦死するよなあ
0681人間七七四年2012/12/06(木) 08:45:09.89ID:JWker3cg
>>680
なんて不幸な
0682人間七七四年2012/12/06(木) 13:37:35.30ID:9PC/hN//
いや、奥平貞治は軍監なのに(むしろ軍監だからか)自ら率先して
小早川隊の前線に立っちゃったからね

正しく獅子奮迅の働きだった
でも悲しいかな貞治に子は居らず居その戦傷死するほどの働きに報いる
恩賞を受け取れる人は老いた母が1人だけ
0683人間七七四年2012/12/06(木) 14:39:10.03ID:OQszhWaW
確か生母に恩賞与えていたはず1000石だったかな?
老母一人ではかなりの贅沢が出来るな軍役もないだろうし
でも母親からしてみれば恩賞無くても生きて帰って欲しかっただろうな
0684人間七七四年2012/12/06(木) 15:30:22.99ID:jLcJ7819
正純さん失脚の遠因のばっちゃんとはまた別の人なのね〜
0685人間七七四年2012/12/06(木) 16:14:35.98ID:9OcRHLoP
小早川隊の先鋒の松野主馬が
「寝返り(・A・)イクナイ!」
って戦線離脱してしまったので、代わって奥平貞治が松野隊の指揮を
とることになったんだよね

徳川からの再三の催促の末にやっとこ小早川を動かしたという経緯上、
徳川からの軍艦という立場的に、こりゃ俺が死ななしゃ〜ないな、と
いう感じだったのではないかと

徳川の軍艦死なせて、ぬるい戦い方はできないからね、小早川も

あと、貞治って途中で、ラスボスに乞われて引き抜かれて黄母衣衆に
なってたことも
よっぽどの武者だったんでしょう。
0686人間七七四年2012/12/06(木) 16:17:55.80ID:9OcRHLoP
>>685
おっと、訂正
×軍艦
○軍監

失礼しやした
0687人間七七四年2012/12/06(木) 17:56:22.86ID:MO3aVlm3
>>685
改めて思うけど生き死にに関してこの時代の人は凄い考えだよな…

ソースはない上つまらないけど実家に伝わる話をひとつ。
名前は明かせないけどうちの先祖は蒲生氏郷に仕えていたらしい。
とある戦で武功がありそれで風呂に入れてもらっただとか手ずから何かを頂いたとかしたらしい。
先祖はえらく感動したそうでこれまで以上に勤め、一度は出奔しようとした息子を斬ろうとしたらしい。
その後その先祖本人は討死。
会津に移ってからのことだそうで葛西一揆の時だろうか。
その後色々あって農民になり一応は現在に続いている。
正月にでも詳しい話を聞きたいんだけど今は別の人の話題でどうも無理っぽい。
よくあるような話ですみません。
0688人間七七四年2012/12/06(木) 22:54:32.36ID:P8XbksjW
別にソースとかなくてもいいから、
その話をも少し具体的に聞きたい
0689人間七七四年2012/12/07(金) 00:44:44.31ID:aiyPmoBS
>>688
とりあえず自分が昔聞いた話

・次男が調子こいて家出しようとしたとき、父親は槍持って追いかけまわした。
同僚が若気の至りだろうからと諌めてくれてその次男坊は結局他の養子になったらしい。
これほどに恩をかけて頂いた主を見捨て出奔など言語道断、息子を斬り己も後を追うと言ったそう。
・家自体はたぶんそんな名のある感じじゃなくて下っ端もいいところ。
蒲生家に仕えだしたのは討死した先祖の代かそのひとつ前と思われる。
六角家家臣で滅亡後に仕えたのかもしれないけど自分の推測の域を出ないです。
・してもらったことというのがあまり分からない。
物をもらったのか加増されたのかお得意の風呂(はさすがにないと思うけど)なのか
詳しいことはは不明だけど先祖の身分からすると破格のことをされたらしい。
・帰農したのは蒲生騒動の頃?もしくはお家断絶の時か。
けど何人かは石田家に仕え、関ヶ原で討死した者もいるとかいないとか。
・農民として江戸時代を会津で生き抜いた。
戊辰戦争の時には家が元武士であることを聞いた何人かが会津の軍勢に入ったらしい。
一人は当時十代後半、母成峠か白河で戦死した?らしくその後の話はない。
箱館戦争まで参加したという人がいるけどその人のゆくえも分からない。
身分は百姓だし会津を離れることはなかった。
けど維新前後の事情であまり先祖のことを語らなかったので伝わってるのは結構曖昧。
0690人間七七四年2012/12/07(金) 00:55:40.36ID:2tCtXm5X
先祖の話が残ってるのは羨ましいな
0691人間七七四年2012/12/07(金) 01:05:52.34ID:kbzzmrWJ
戦国期から幕末期の話が残ってるってすごいな。
うちは苗字名乗るときに島津の殿様(誰かは聞いてないw)から名前貰ったってくらいかな・・・

>次男が調子こいて家出しようとしたとき、父親は槍持って追いかけまわした。

このくだりは海音寺潮五郎の「かぶき大名」で、
水野勝成が父親の忠重に槍でもって殺されそうになったシーンを思い出したw
0692人間七七四年2012/12/07(金) 08:04:41.84ID:CNOedMMa
>>689
あーりがとー!

俺んとこは、実家が三好性で
婿入り先が鎌倉時代から続く城を守る、武家の一党なのに、
なにもそーゆー話を聞かないので羨ましいわ
神社の脇に漢文でなんかごにゅごにゅ書いてくる位だ
0693人間七七四年2012/12/07(金) 22:10:10.72ID:8BBo+HZN
ある日、突然十人余りの武士が狩野元信を訪ねて元信が描いているところを
見て、妄りにこれを評してした。その中には織田信長もいた。彼は元信の画を
見るために密かに衆人と共にやって来たのである。

元信はこれに気付いていたが、黙して顧みず脚を机の間に出して画を作り続けた。
客が帰って後、隣人が来て「太守が来たというのにどうして何の礼も無いのだ」
と尋ねると、元信は「彼は潜んでやって来たから、私は敬わなかった。それに私は
彼に何かを求めているわけではない。そういうことだよ」と答えた。

――『日本史伝文選(本朝画史)』
0694人間七七四年2012/12/07(金) 22:46:14.99ID:EVzTm6u2
この時代の芸能人は気骨があるなぁ
権力に全くおもねらない
0695人間七七四年2012/12/08(土) 10:04:23.82ID:Y0vRFKtc
>彼は潜んでやって来たから、私は敬わなかった。

これはその通りだな
こっそり来た人に挨拶したら信長に恥をかかせることになるだろうに
隣人は何を考えていたんだ
0696人間七七四年2012/12/08(土) 11:49:39.21ID:ynrA/Zmy
こういう時のノブは安心感がある
秀吉はなんかしでかしそうで怖い
0697人間七七四年2012/12/08(土) 15:15:47.38ID:3t7cDR4o
藩の仲間と集まる機会があり色々と話したときのことだ。
「角蔵流とはどんな流儀ですか」
と聞いてくる者があったから、
「鍋島喜雲の草履取りに角蔵という者がいて、
その者はたいへん力技に優れていたから、
剣術者の喜雲がそれに工夫を重ねて取手の角蔵流と名付けたものです。
これは組討ちやヤワラなどといった偉そうな流儀ではありません。
私が剣術を行うときに心掛けていることも、
それと同じくゲス流で、角蔵の取手のように、
とっさの役に立つものであることだから、
以前から私も角蔵流だと言っているのです。」
続いて、話題は恋の話となり、私は、
「究極の恋は心の中に秘める恋だと覚悟しています。
その人に逢って形に現す恋いでは恋の程度も知れている。
一生、心に秘めて、死んだ後の火葬の煙をその人が見て、
そこではじめてなにかを感じてもらえたならという心こそ、
恋の恋たるゆえんでしょう。歌に、

恋死なん後の煙にそれと知れ
つひにもらさぬ中の思ひは

というのがありますが、これこそが立派な恋だと思っています」
と言ったところ、そのなかの五人が、
「そのとおりですな」
と感心して同意してくださった。
それ以降、五人集まると、
「われらは煙仲間よ」
と笑い合った 【葉隠】
0698人間七七四年2012/12/08(土) 16:16:10.30ID:QRCWIm9g
またそうやって煙に巻く…
0699人間七七四年2012/12/08(土) 17:30:21.86ID:gVYu6ZUl
恋に焦がれて鳴く蝉よりも…ということか
0700人間七七四年2012/12/08(土) 18:31:43.18ID:P09cG/B+
なぜ漏らさないことが真実の恋なんだろう?
奥深すぎてよくわからんわ
0701人間七七四年2012/12/08(土) 18:40:13.73ID:qMHWH+Hs
秘めている恋は形而上的なものだけど、
それを伝えてしまっては、いろんな現実的なものが押し寄せる形而下的な物に転化するから、
恋の美しさ、純粋さを保つには秘めておくべきだ、という事なんだろ。

まあ葉隠のいう「恋』なんて、ほぼ衆道の恋のことだと考えていいんだがw
0702人間七七四年2012/12/08(土) 18:42:51.60ID:/O4Wp2si
ほとんど衆道のことというか、
衆道(特に主君に対する恋)こそが真の恋だとかはっきり言ってなかったっけ
0703人間七七四年2012/12/08(土) 19:22:45.32ID:3t7cDR4o
葉隠の中にもう一ヶ所>>697に関して記述があるんだけど、
単品だとスレの時代範囲を越えてしまうけど参考までに、

『究極の恋の悟りは忍ぶ恋だろう。
恋死なん〜(略)という歌があるが、そのようなものだ。
生きているうちに、自分の恋を打ち明けるのは深い恋ではない。
恋いに焦がれて思い死にする恋が立派な恋だ。
たとえ思い人から、
「もしや、そうなのでは?」
と問われても、
「まったく思いもよらない話です」
と答え、忍びに忍んで口に出さず死ぬのが最高である。
恋というのは何と廻りくどいのだろう。
この前、ある場所でこれを話したら同意してくれる者が数人いて、
その者たちの間で煙仲間と名乗っている。
このことは、世の中を渡る上で全てのことの心得となるだろう。
主従のあいだなども、この心で奉公すればよい。
他人の目の届かないところの慎みこそが、
そのまま公の場所での慎みとなって現れるのだ。
誰知らず一人でいるときも、卑しい行いはせず、
他人には推測できない胸の奥ですらも、
卑しいことなど思わないように心掛けないならば、
どんなに外聞を飾ろうとも、いずれ公に胸の内の卑しさは知られるもの。
急ごしらえで消せるものではない』【葉隠】

とのことらしい
0704人間七七四年2012/12/08(土) 19:25:46.54ID:Aw/fLFPQ
のちのツンデレである
0705人間七七四年2012/12/08(土) 20:04:18.65ID:GbC7Nc8l
名香初音由来

細川三斎は武に優れ、また歌道を嗜み、父幽斎の風流に劣らず、茶道にも心を寄せて、
風流を愛する心優しい大将であった。(ホントにこう書いてある)
三斎は長崎表に異国船が入港すると聞くと、その地へ家来を派遣して珍しい品物を求めさせた。

ある年、興津弥五左衛門と言う侍に相役を一人つけて、異国船の珍品を買うため使いにやった。
この度は珍しい伽羅(香木)の大木が渡ってきたが、元木と末木の2つがあった。
丁度その折、仙台の伊達政宗からも、唐物を買うため役人が来ていたが、同じ伽羅の元木を競り合って
互いに値段をつけて争った。

興津の相役はこの状況を見て、このままでは値段がひどく高値になるから、同じ木のことだし
末木を買っていこう、と言い出した。だが興津は「立派な元木の方を殿は喜ばれるであろうから、
是非にもこれを買うのだ!」と言いはって口論となり、カッとなった興津は、ついに相役を
斬ってしまった。そして思った通りに元木の方を買い取って隈本に帰り、その経緯を述べて
切腹を願い出た。

三斎はこれを聞いて、自分への奉公のために相手を切ったのだから切腹を剃る必要は無いと言い、
相役の者の子供を呼び出して、決して興津を父の仇と恨んではならないとよく言い聞かせ、
自分の前で、その子と興津に盃を交わさせた。そのため、興津はその後も無事に務めに
励むことが出来た。

その後、三斎は他界した。やがて万治・寛文年間の頃、一周忌の折、興津弥五左衛門は山城の
船岡山の西麓で潔く殉死を遂げた。
大徳寺の清岩和尚は引導を渡し、手厚く葬ったとのことである。
そして興津が持ち帰った伽羅の木は類ない名香で、三斎は事に秘蔵せられ、
銘を初音と付けられた、と伝えられる。
(淇蝶庵翁艸)
0706人間七七四年2012/12/08(土) 20:19:41.08ID:hhcMNr12
競り勝たないと歌仙入りしちゃうからなあ
0707人間七七四年2012/12/08(土) 21:55:40.75ID:QRCWIm9g
斬り殺した位で恨んぢゃダメだよね

…と、心優しい三斎様は思うのでした
0708人間七七四年2012/12/08(土) 22:03:59.21ID:IZysI9lN
また相手は仙台様かw
王義之の写本の時のように元木を半分に出来なかったのか
           ↓
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
0709人間七七四年2012/12/08(土) 22:04:06.47ID:ynrA/Zmy
政宗に競り負けて安物購入→…絶対死ぬ!
0710人間七七四年2012/12/08(土) 22:04:05.90ID:gVYu6ZUl
これの詳細バージョンか 愛役は横田清兵衛というらしいね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1365.html

三歳様は美術品関連だと割とまともなんだよなぁ
奥方様が絡むと瞬間沸騰しちゃうけど
0711人間七七四年2012/12/08(土) 22:26:36.80ID:OLCesmLg
心優しいって今と昔とでは意味が違うのか?w
0712人間七七四年2012/12/08(土) 22:54:27.19ID:2PUqc9rq
>(ホントにこう書いてある)
わざわざ>705がこう書かなきゃならないあたりに三斎様への信用の高さが窺える
0713人間七七四年2012/12/08(土) 22:54:41.41ID:hfiJWi3B
>>707
そうそう、カッとなって人を斬るなんてよくあることだし?
忠義に厚い家臣のおかげで貴重な香木も手に入ったんだから
親を斬り殺されたくらいで騒いじゃいけないよなぁ
三斎様は心優しいなぁ
0714人間七七四年2012/12/08(土) 22:56:10.32ID:qMHWH+Hs
ちーちゃんがこんなふうに言われる日が来るとはw

赤崎千夏とかいう次世代ナンバー1声優
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1354974478/
0715人間七七四年2012/12/08(土) 22:56:44.66ID:qMHWH+Hs
すまん誤爆
0716人間七七四年2012/12/09(日) 00:01:14.27ID:nkpcJusa
伊達さんちの役人からすると、香木競り合ってただけなのに
何故か相手が目の前で香木巡って口論はじめて激高して仲間切り殺しちゃった、と。
そりゃー競り勝ちにくいわなあ・・・。
0717人間七七四年2012/12/09(日) 00:19:42.06ID:b4U4/JMy
それ聞いた政宗が爆笑してる光景が何故か目に浮かぶ
0718人間七七四年2012/12/09(日) 14:52:27.05ID:wCSDCmbh
っていうか政宗、わざと忠興さんところに騒ぎの種を振りまくために
忠興が香木を買い求めるらしいな、ひとつ邪魔してやれとか
そんな理由で家臣派遣してるだけなのかもしれないねw
0719人間七七四年2012/12/09(日) 15:24:42.84ID:cUnb5seq
>>687です。ちょっと詳しい話を聞いてきた。
江戸中期頃にこの辺の逸話を書き留めてくれていた先祖がいたらしく、
それをさらに大正ぐらいの人が日記に残してた。

・前にスレに出てた裸鎧の話で何人かが工場長に習って服を脱いだらしいw
うちの先祖が入っていたかは不明だけどそれなりの身分の人も混じっていたとか。
・工場長は家臣の顔と名をよく覚えていたらしい。
・家臣の手柄を褒めたときに何かあげる物がないときはとりあえず蒲生姓をというくらい蒲生さんがいっぱいだった。
・少し関係ないけど戊辰戦争後の会津藩士野ざらしの話も聞いた。
降伏後、少し埋葬を禁止していたら雪が降って土を掘れなくなってしまったそうだ。

それから先祖の同僚の話。
氏郷公が病に倒れるその少し前から臥せっていた者がいたそうだ。
あまり具合はよくなく、年も取っていたらしい。
しかし氏郷公の具合がよろしくないと聞いた途端、病を押して床を上げてしまったそうだ。
その後快方に向かってはいたが、氏郷公亡くなるの報の数日後、ぱったりと亡くなったらしい。
0720人間七七四年2012/12/09(日) 19:36:22.64ID:DMf07Ddb
(1611年7月5日。この前日、セバスチャン・ビスカイノ一行は、駿府城において
徳川家康との会見を行った)

『水曜日の午前、使節は皇帝(家康)の秘書官である上野介殿(本多正純)に面会に行った。
羅紗、ガラス器、石鹸その他相応な贈り物をしたが、秘書官は大変に謝意を表し、受け取った後
しばらく手元に留めていた。

しかし、すぐに次のように言った

「私は贈り物を受納したが、これは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)での価値では相当の
ものである。ついては、あなた方に自分の方からこれらを贈り返すので、それらは再び、他の
役に立ててほしい。

私にはこれらを受け取れない。もし受け取れば、自分の職務を忠実かつ清廉に果たすことができなくなり、
あるべきよう自分の主人に仕え、自分の担当となる交渉事について主人に真実を報告できなくなるので、
いかなる外国からもこのような進物は受け取らない習慣になっているのだ。」

我々はそれでも、この贈り物を嘉納してもらおうと何度もやり取りしたが、受け取らせるのは無理で、
むしろ彼は大変立派な理由で、受け取りの拒否を釈明した。それは異教徒のものでも、神や教えを持たない
人のものでもなかった。実際、彼には神の教え以外何ら足りないものはなかった。
この事は、同種の職務で王に仕える人々の模範となることだった。

その後、財務長官の家に行った。彼はジョサブロ(後藤庄三郎)と言う名だったが、この国を動かす
人物である。手ずから甘いもので使節と共の人々をもてなし、大変親切に接遇した。

使節は彼にも、羅紗と他のものを贈り物とした。彼は何のためらいもなくこれを納めた。
人の話によると、彼は金銀で600万を持っているにもかかわらず、四分銀(イスパニアの1ペセタ)よりも
八分銀(メキシコの1ペソ。1ペセタの倍の価値)を望む人物だからだ。
善処のため大いに尽力する、と申し出た。これを以って我々は宿へ帰った。』
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

本多正純の廉潔、についての記録である。
0721人間七七四年2012/12/09(日) 19:44:45.55ID:twLCN4Fg
この辺も正純と三成は似ているなあ
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