戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0690人間七七四年
2012/12/07(金) 00:55:40.36ID:2tCtXm5X0691人間七七四年
2012/12/07(金) 01:05:52.34ID:kbzzmrWJうちは苗字名乗るときに島津の殿様(誰かは聞いてないw)から名前貰ったってくらいかな・・・
>次男が調子こいて家出しようとしたとき、父親は槍持って追いかけまわした。
このくだりは海音寺潮五郎の「かぶき大名」で、
水野勝成が父親の忠重に槍でもって殺されそうになったシーンを思い出したw
0692人間七七四年
2012/12/07(金) 08:04:41.84ID:CNOedMMaあーりがとー!
俺んとこは、実家が三好性で
婿入り先が鎌倉時代から続く城を守る、武家の一党なのに、
なにもそーゆー話を聞かないので羨ましいわ
神社の脇に漢文でなんかごにゅごにゅ書いてくる位だ
0693人間七七四年
2012/12/07(金) 22:10:10.72ID:8BBo+HZN見て、妄りにこれを評してした。その中には織田信長もいた。彼は元信の画を
見るために密かに衆人と共にやって来たのである。
元信はこれに気付いていたが、黙して顧みず脚を机の間に出して画を作り続けた。
客が帰って後、隣人が来て「太守が来たというのにどうして何の礼も無いのだ」
と尋ねると、元信は「彼は潜んでやって来たから、私は敬わなかった。それに私は
彼に何かを求めているわけではない。そういうことだよ」と答えた。
――『日本史伝文選(本朝画史)』
0694人間七七四年
2012/12/07(金) 22:46:14.99ID:EVzTm6u2権力に全くおもねらない
0695人間七七四年
2012/12/08(土) 10:04:23.82ID:Y0vRFKtcこれはその通りだな
こっそり来た人に挨拶したら信長に恥をかかせることになるだろうに
隣人は何を考えていたんだ
0696人間七七四年
2012/12/08(土) 11:49:39.21ID:ynrA/Zmy秀吉はなんかしでかしそうで怖い
0697人間七七四年
2012/12/08(土) 15:15:47.38ID:3t7cDR4o「角蔵流とはどんな流儀ですか」
と聞いてくる者があったから、
「鍋島喜雲の草履取りに角蔵という者がいて、
その者はたいへん力技に優れていたから、
剣術者の喜雲がそれに工夫を重ねて取手の角蔵流と名付けたものです。
これは組討ちやヤワラなどといった偉そうな流儀ではありません。
私が剣術を行うときに心掛けていることも、
それと同じくゲス流で、角蔵の取手のように、
とっさの役に立つものであることだから、
以前から私も角蔵流だと言っているのです。」
続いて、話題は恋の話となり、私は、
「究極の恋は心の中に秘める恋だと覚悟しています。
その人に逢って形に現す恋いでは恋の程度も知れている。
一生、心に秘めて、死んだ後の火葬の煙をその人が見て、
そこではじめてなにかを感じてもらえたならという心こそ、
恋の恋たるゆえんでしょう。歌に、
恋死なん後の煙にそれと知れ
つひにもらさぬ中の思ひは
というのがありますが、これこそが立派な恋だと思っています」
と言ったところ、そのなかの五人が、
「そのとおりですな」
と感心して同意してくださった。
それ以降、五人集まると、
「われらは煙仲間よ」
と笑い合った 【葉隠】
0698人間七七四年
2012/12/08(土) 16:16:10.30ID:QRCWIm9g0699人間七七四年
2012/12/08(土) 17:30:21.86ID:gVYu6ZUl0700人間七七四年
2012/12/08(土) 18:31:43.18ID:P09cG/B+奥深すぎてよくわからんわ
0701人間七七四年
2012/12/08(土) 18:40:13.73ID:qMHWH+Hsそれを伝えてしまっては、いろんな現実的なものが押し寄せる形而下的な物に転化するから、
恋の美しさ、純粋さを保つには秘めておくべきだ、という事なんだろ。
まあ葉隠のいう「恋』なんて、ほぼ衆道の恋のことだと考えていいんだがw
0702人間七七四年
2012/12/08(土) 18:42:51.60ID:/O4Wp2si衆道(特に主君に対する恋)こそが真の恋だとかはっきり言ってなかったっけ
0703人間七七四年
2012/12/08(土) 19:22:45.32ID:3t7cDR4o単品だとスレの時代範囲を越えてしまうけど参考までに、
『究極の恋の悟りは忍ぶ恋だろう。
恋死なん〜(略)という歌があるが、そのようなものだ。
生きているうちに、自分の恋を打ち明けるのは深い恋ではない。
恋いに焦がれて思い死にする恋が立派な恋だ。
たとえ思い人から、
「もしや、そうなのでは?」
と問われても、
「まったく思いもよらない話です」
と答え、忍びに忍んで口に出さず死ぬのが最高である。
恋というのは何と廻りくどいのだろう。
この前、ある場所でこれを話したら同意してくれる者が数人いて、
その者たちの間で煙仲間と名乗っている。
このことは、世の中を渡る上で全てのことの心得となるだろう。
主従のあいだなども、この心で奉公すればよい。
他人の目の届かないところの慎みこそが、
そのまま公の場所での慎みとなって現れるのだ。
誰知らず一人でいるときも、卑しい行いはせず、
他人には推測できない胸の奥ですらも、
卑しいことなど思わないように心掛けないならば、
どんなに外聞を飾ろうとも、いずれ公に胸の内の卑しさは知られるもの。
急ごしらえで消せるものではない』【葉隠】
とのことらしい
0704人間七七四年
2012/12/08(土) 19:25:46.54ID:Aw/fLFPQ0705人間七七四年
2012/12/08(土) 20:04:18.65ID:GbC7Nc8l細川三斎は武に優れ、また歌道を嗜み、父幽斎の風流に劣らず、茶道にも心を寄せて、
風流を愛する心優しい大将であった。(ホントにこう書いてある)
三斎は長崎表に異国船が入港すると聞くと、その地へ家来を派遣して珍しい品物を求めさせた。
ある年、興津弥五左衛門と言う侍に相役を一人つけて、異国船の珍品を買うため使いにやった。
この度は珍しい伽羅(香木)の大木が渡ってきたが、元木と末木の2つがあった。
丁度その折、仙台の伊達政宗からも、唐物を買うため役人が来ていたが、同じ伽羅の元木を競り合って
互いに値段をつけて争った。
興津の相役はこの状況を見て、このままでは値段がひどく高値になるから、同じ木のことだし
末木を買っていこう、と言い出した。だが興津は「立派な元木の方を殿は喜ばれるであろうから、
是非にもこれを買うのだ!」と言いはって口論となり、カッとなった興津は、ついに相役を
斬ってしまった。そして思った通りに元木の方を買い取って隈本に帰り、その経緯を述べて
切腹を願い出た。
三斎はこれを聞いて、自分への奉公のために相手を切ったのだから切腹を剃る必要は無いと言い、
相役の者の子供を呼び出して、決して興津を父の仇と恨んではならないとよく言い聞かせ、
自分の前で、その子と興津に盃を交わさせた。そのため、興津はその後も無事に務めに
励むことが出来た。
その後、三斎は他界した。やがて万治・寛文年間の頃、一周忌の折、興津弥五左衛門は山城の
船岡山の西麓で潔く殉死を遂げた。
大徳寺の清岩和尚は引導を渡し、手厚く葬ったとのことである。
そして興津が持ち帰った伽羅の木は類ない名香で、三斎は事に秘蔵せられ、
銘を初音と付けられた、と伝えられる。
(淇蝶庵翁艸)
0706人間七七四年
2012/12/08(土) 20:19:41.08ID:hhcMNr120707人間七七四年
2012/12/08(土) 21:55:40.75ID:QRCWIm9g…と、心優しい三斎様は思うのでした
0708人間七七四年
2012/12/08(土) 22:03:59.21ID:IZysI9lN王義之の写本の時のように元木を半分に出来なかったのか
↓
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
0709人間七七四年
2012/12/08(土) 22:04:06.47ID:ynrA/Zmy0710人間七七四年
2012/12/08(土) 22:04:05.90ID:gVYu6ZUlhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1365.html
三歳様は美術品関連だと割とまともなんだよなぁ
奥方様が絡むと瞬間沸騰しちゃうけど
0711人間七七四年
2012/12/08(土) 22:26:36.80ID:OLCesmLg0712人間七七四年
2012/12/08(土) 22:54:27.19ID:2PUqc9rqわざわざ>705がこう書かなきゃならないあたりに三斎様への信用の高さが窺える
0713人間七七四年
2012/12/08(土) 22:54:41.41ID:hfiJWi3Bそうそう、カッとなって人を斬るなんてよくあることだし?
忠義に厚い家臣のおかげで貴重な香木も手に入ったんだから
親を斬り殺されたくらいで騒いじゃいけないよなぁ
三斎様は心優しいなぁ
0714人間七七四年
2012/12/08(土) 22:56:10.32ID:qMHWH+Hs赤崎千夏とかいう次世代ナンバー1声優
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1354974478/
0715人間七七四年
2012/12/08(土) 22:56:44.66ID:qMHWH+Hs0716人間七七四年
2012/12/09(日) 00:01:14.27ID:nkpcJusa何故か相手が目の前で香木巡って口論はじめて激高して仲間切り殺しちゃった、と。
そりゃー競り勝ちにくいわなあ・・・。
0717人間七七四年
2012/12/09(日) 00:19:42.06ID:b4U4/JMy0718人間七七四年
2012/12/09(日) 14:52:27.05ID:wCSDCmbh忠興が香木を買い求めるらしいな、ひとつ邪魔してやれとか
そんな理由で家臣派遣してるだけなのかもしれないねw
0719人間七七四年
2012/12/09(日) 15:24:42.84ID:cUnb5seq江戸中期頃にこの辺の逸話を書き留めてくれていた先祖がいたらしく、
それをさらに大正ぐらいの人が日記に残してた。
・前にスレに出てた裸鎧の話で何人かが工場長に習って服を脱いだらしいw
うちの先祖が入っていたかは不明だけどそれなりの身分の人も混じっていたとか。
・工場長は家臣の顔と名をよく覚えていたらしい。
・家臣の手柄を褒めたときに何かあげる物がないときはとりあえず蒲生姓をというくらい蒲生さんがいっぱいだった。
・少し関係ないけど戊辰戦争後の会津藩士野ざらしの話も聞いた。
降伏後、少し埋葬を禁止していたら雪が降って土を掘れなくなってしまったそうだ。
それから先祖の同僚の話。
氏郷公が病に倒れるその少し前から臥せっていた者がいたそうだ。
あまり具合はよくなく、年も取っていたらしい。
しかし氏郷公の具合がよろしくないと聞いた途端、病を押して床を上げてしまったそうだ。
その後快方に向かってはいたが、氏郷公亡くなるの報の数日後、ぱったりと亡くなったらしい。
0720人間七七四年
2012/12/09(日) 19:36:22.64ID:DMf07Ddb徳川家康との会見を行った)
『水曜日の午前、使節は皇帝(家康)の秘書官である上野介殿(本多正純)に面会に行った。
羅紗、ガラス器、石鹸その他相応な贈り物をしたが、秘書官は大変に謝意を表し、受け取った後
しばらく手元に留めていた。
しかし、すぐに次のように言った
「私は贈り物を受納したが、これは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)での価値では相当の
ものである。ついては、あなた方に自分の方からこれらを贈り返すので、それらは再び、他の
役に立ててほしい。
私にはこれらを受け取れない。もし受け取れば、自分の職務を忠実かつ清廉に果たすことができなくなり、
あるべきよう自分の主人に仕え、自分の担当となる交渉事について主人に真実を報告できなくなるので、
いかなる外国からもこのような進物は受け取らない習慣になっているのだ。」
我々はそれでも、この贈り物を嘉納してもらおうと何度もやり取りしたが、受け取らせるのは無理で、
むしろ彼は大変立派な理由で、受け取りの拒否を釈明した。それは異教徒のものでも、神や教えを持たない
人のものでもなかった。実際、彼には神の教え以外何ら足りないものはなかった。
この事は、同種の職務で王に仕える人々の模範となることだった。
その後、財務長官の家に行った。彼はジョサブロ(後藤庄三郎)と言う名だったが、この国を動かす
人物である。手ずから甘いもので使節と共の人々をもてなし、大変親切に接遇した。
使節は彼にも、羅紗と他のものを贈り物とした。彼は何のためらいもなくこれを納めた。
人の話によると、彼は金銀で600万を持っているにもかかわらず、四分銀(イスパニアの1ペセタ)よりも
八分銀(メキシコの1ペソ。1ペセタの倍の価値)を望む人物だからだ。
善処のため大いに尽力する、と申し出た。これを以って我々は宿へ帰った。』
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
本多正純の廉潔、についての記録である。
0721人間七七四年
2012/12/09(日) 19:44:45.55ID:twLCN4Fg0723人間七七四年
2012/12/09(日) 21:23:14.71ID:FULY31Rh0724人間七七四年
2012/12/09(日) 22:17:03.58ID:UbfwYRJ/この伊藤豊後は、もともと九州日向、飫肥城の城主である伊藤修理の弟という。
天正十五年、秀吉の九州征伐の折、島津と組んで抗戦したが、やがて島津氏は降伏、伊藤修理は改易、伊藤豊後は流浪して岩倉に居を構え、豪族として住み着いた。
やがて時は流れ慶長五年、上杉が最上領を攻めた際、伊藤豊後は家来18人を率い、上杉方として参戦。
だが武運尽きたか、10月2日の八ツ沼の戦いで、伊藤豊後をはじめ家来一党みな討ち死にし、かろうじて山川儀助が伊藤豊後の嫡子・伊藤日向を擁護して、米沢に引き上げた。
直江兼続は伊藤豊後の戦功を賞し、伊藤日向に知行100石を給し、岩倉の地において会津との境の守備役に任じた。
九州から東北まで流れても武士として働き家を残した侍の、ちょっといい話として。
地元の史料に載っている、東北の僻地と九州を繋ぐ意外な縁。でも、文中の「伊藤」は「伊東」が正しいと思うんだ。
なお、文中の伊藤氏の子孫も地元に在住しており、その方の姓は「伊東」。
……九州の飫肥城ってったら伊東氏だし、子孫の方も伊東氏なんだから史料訂正してやれよ。
0725人間七七四年
2012/12/09(日) 22:17:43.30ID:mkdcHAvr報告、上納すればいいという単純な話ではないでしょ
0727人間七七四年
2012/12/09(日) 23:44:58.04ID:mkdcHAvr他国からの贈り物なんて、うちの国には融通効かせてくれ
の賄賂と考えて対処すべきものでしょ
0728人間七七四年
2012/12/09(日) 23:53:41.54ID:w8xpyTjrある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。
スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った
それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。
「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」
そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。
0729人間七七四年
2012/12/09(日) 23:58:52.36ID:PJ/srUfv0732人間七七四年
2012/12/10(月) 04:14:35.53ID:F0ft9ji40733人間七七四年
2012/12/10(月) 09:20:54.88ID:yiTP4QW90735人間七七四年
2012/12/10(月) 18:53:51.03ID:MgMcFtCU僕に命じて庭を掃除させ、その後に利休にも庭の掃除を命じた。
利休が庭を見ると掃除が行き届いておりどこにも手を下すべき所がなかった。
すると利休は林の中に入った。利休が試しに一本の木を揺らすと、落ち葉が
風に舞って地に点じ、庭は一段と風情のある味わいになった。
そして利休は紹鴎に「命を終えました」と告げ、庭を見た紹鴎は利休の奇才を
感じた。このために利休は紹鴎からことごとく秘訣を授けられ、ついには
茶博士の名を得ることとなった。
――『日本史伝文選(芸苑叢話)』
0736人間七七四年
2012/12/10(月) 21:12:46.09ID:zcsSTXjRhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1355133116/
0737人間七七四年
2012/12/10(月) 21:36:40.40ID:C3FsAhZV有名な話の気がしたから既出でないかみてみたが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1787.html
ちょっと似ている話しかなかったか
(高山右近、古田織部、利休の話)
0739人間七七四年
2012/12/11(火) 02:45:59.87ID:y5JZlojb諸大名が来て謁する度に酒宴を催して丁寧にもてなし、あるいは囲碁を打ち、
茶をたて、歌謡や能楽などそれぞれの好みに従って愉快を尽くしていたのである。
要するに皆人の心を引き付け、握るためである。これは心が広く度量が
大きかったのであって、いわゆる天からの授かり物なのか、そうではないのか。
私が思うに天授であろう。
――『近古史談』
0740人間七七四年
2012/12/11(火) 18:28:56.51ID:MDsAJeiJ茶道具名品展に行こうと思うんだけど
戦国板民的には何に注目してみれば良いかな?
九十九髪茄子は当然チェックするとして
http://www.seikado.or.jp/fl_01_2013_01a.jpg
http://www.seikado.or.jp/010100.html
0741人間七七四年
2012/12/11(火) 20:32:19.96ID:fJz8buMZ信長が持ってたり(コレは本能寺で焼けたらしい)家康が持ってたり
同じ模様の茶碗は現存3個だったり(全部国宝)
再現しようと後世の陶芸家が人生注ぎ込んでたりとなかなかドラマチック。
見た目の妖しさもたまらん。
0743人間七七四年
2012/12/11(火) 22:31:28.62ID:vP7HWZQu0744人間七七四年
2012/12/11(火) 22:54:02.66ID:Lmq2x0dX土からにょきにょき生えてきたような力強さと暖かさ、
そして何よりも天衣無縫な無垢の風情がある。
井戸の良さが分かったら君も三斎さまやゲヒ殿の仲間だ!
0745人間七七四年
2012/12/11(火) 23:21:45.63ID:Ye7Kc8JL0746人間七七四年
2012/12/11(火) 23:23:42.60ID:qIZco8yB0747人間七七四年
2012/12/11(火) 23:25:47.46ID:wMrRmq/a0748人間七七四年
2012/12/12(水) 05:12:31.68ID:dEDKJLct0749人間七七四年
2012/12/12(水) 06:30:14.24ID:2RxkZ+Lr0750人間七七四年
2012/12/12(水) 10:19:13.76ID:p8wEpweF0751人間七七四年
2012/12/12(水) 10:47:13.22ID:bSyhxQ0u0752人間七七四年
2012/12/12(水) 11:26:38.12ID:71tMdzYn0753人間七七四年
2012/12/12(水) 14:58:22.95ID:NFN2iKPF0754人間七七四年
2012/12/12(水) 16:54:27.71ID:IzHhLh63光秀には一切同情出来なくなった
0755人間七七四年
2012/12/12(水) 17:35:52.35ID:p8wEpweF伊達政宗「大切に」
松永弾正「扱いましょう」
0756人間七七四年
2012/12/12(水) 17:49:53.63ID:DWwV7Fb9皆が馳せ出て供奉しようとしたのだが、本多正信が制し止めた。
家康は素肌に鷹の羽を散らしたはな色の羽織を身につけ、鹿毛の馬に乗って城溝の辺りに
立った。城中より撃ち出される弾丸が雨のように降り注いだがいささかも怖れず、加賀越前の
丁場まで巡視して住吉の陣へ戻っていった。
この時のことであろうか、弾丸がしきりに降り注ぐので正信は「こんな所に長居されては
危険です。早くこの場を離れてください」と言うも、家康は聴く耳を持たない。
そこへ初鹿野信昌と横田尹松が進み出て「殿はもとより鉄砲の激しい所をお好みですから、
ここより船場の陣には大砲を仕かけてありますので、ちと御覧くだされ。いざ御供いたす」
と進言すると、家康は船場の方へ馬を進めた。
そこは蜂須賀家の持口で城より遠いので弾丸の来ることは稀であった。
「大将が巡視に出て弾丸が恐ろしいと引き返せば三軍の示しにならない。さすがかの両人は
甲州者だけあって軍陣の法に練熟しておる」と家康はいたく賞誉した。
――『徳川実紀(大坂覚書、感状記)』
一方、息子も似たようなことをやっていた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3141.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1681.html
0759人間七七四年
2012/12/12(水) 18:38:37.12ID:Iwm4yr/n0760人間七七四年
2012/12/12(水) 18:49:30.55ID:CFkShBtGこのスリルが病みつきになると
銃弾が降り注ぐ中で弁当まで食べる戦中毒になるのかw
ダメ。ゼッタイ。
0761人間七七四年
2012/12/12(水) 19:29:52.90ID:5C2y/gx8前この板で教えてもらったよ
0762人間七七四年
2012/12/12(水) 20:04:56.01ID:R9HsZojG0765人間七七四年
2012/12/12(水) 21:59:58.43ID:y3Mapzw0金剛峯寺「もう少しで危なかったぜ」
0766人間七七四年
2012/12/12(水) 23:40:35.55ID:v4yYEJ1c国宝といえば、あの金閣が、無事終戦を迎えたと思ったのに放火犯のせいで
灰になっちまったよな。
上杉と武田が好きな身としては、光秀の行動は敵討ち&天佑神助に他ならぬ。
0767人間七七四年
2012/12/13(木) 11:19:07.67ID:ybktTOB5園城寺の焼き討ち避難スキルは異常
なんであんなに繰り返し丁寧に焼かれたのに文物が残ってるんだよw
0768人間七七四年
2012/12/13(木) 13:01:19.67ID:Nve3RQsUもちろん嘘の伝承なんだけど
0769人間七七四年
2012/12/13(木) 18:22:11.73ID:yjCfw0+Oよく考えたら東大寺文書クラスの巨大資料があっておかしくないはずなんだよね
東大寺も南都焼討とか焼けてるのに残ってるが
日向で寺社を焼きつくした大友宗麟もそうとう日本史上の損失を出してると思うが
0770人間七七四年
2012/12/13(木) 18:29:18.58ID:M2ffKdI/0772人間七七四年
2012/12/13(木) 18:46:12.24ID:CYXWa7OJ0774人間七七四年
2012/12/13(木) 22:33:29.50ID:D5rAFJin07751/2
2012/12/14(金) 06:02:36.12ID:djwypYrW秘書であるコンセクドノ(上野介殿:本多正純)から私に、皇太子の手に接吻しに行く事ができると
知らせてきた。それで午後4時に赴いた。
あの日、私が見た城下住まいの武士や兵、並びに王城や建物などに関する偉大さを上手く言い表すのは
無理である。
最初の門から皇太子の部屋に至るまで、絶対に二万人以上はいた。それも外から来たのではなく、
俸給を貰って城中の様々な役についている家来である。
主として最初の石垣は極めて大きい石塊に加工を施した石で出来ていた。城壁に組み合わせて
積み上げられているだけで、石灰も他の漆喰も何も使われていない。
城壁は大変幅広く、大砲を撃てるように狭間がついている。僅かだが、狭間のいくつかには
砲を据えていた。この城壁の下には濠があり、川に洗われている。跳ね橋が付いていて、これは
かつて見たことがないほど巧みな技術でできた橋だった。
門扉は頑丈で、私を通す時に開かれたが、火縄銃隊とモスケット銃隊が二列で現れた。もし誤魔化されて
いなければ千人以上居たのではないかと思う。この隊長がそのように言ったのだ。
隊長は第二の門まで付き添ったが、そこでまた別種の堤のような作りの城壁を見た。最初の城壁から
次まで300歩の距離があった。こちらは長槍と短槍兵400人が居た。
第三の門へと導かれたが、それは小石でできた高さ4バーバラの城壁が付いていた。ここには火縄銃・
モスケット銃、のための半月堡、またマングイナタス(薙刀)隊用のそれのようなものが間隔を置いて並んでいた。
薙刀とは矛槍のようなもので、それを携えた、数にして300人の兵士が居た。
この人々は三つの門扉の間に居住し、家には非常に美しい庭と市中を見渡せる窓が付いていた。
第三の門扉を通り抜けると間もなく居城に入り、その側に200頭以上の馬を擁した厩がある。
よく世話が行き届き肥えているので、まるでイスパニアと同様に調教師が居るかのようである。
馬は非常に満足できる状況で一頭ずつ二本の鎖の端綱で繋がれ、足蹴りを人に食らわせないように
臀部を壁に、顔は馬小屋に入る方に向いている。
厩に相対して皇太子の武器庫がある。彼が使う胸当てで、金色仕上げのものや長槍、槍、火縄銃、刀など
豊富に納められ、10万の人間を武装させるのに充分な武器を備えている。
その前方には城の最初の広間が続く。そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのような
ものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、
金の花模様のビロードの縁で飾られている。形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
壁は木と板で仕上げられていて、狩猟に関することが金や銀、その他の色彩で色調を見事に整える。
天井も同様で、生地がわからないようにしてある。
我々外国人の目にはこの最初に広間以上のものは望めないと思ったのだが、次のものはもっと素晴らしかった。
第三の広間にいたっては他に抜きん出ており、先に進めば進むほど一層豪華で珍重になっていった。
これらの広間はいずれの間でも武士と貴族らが私を出迎えてくれた。自分の持ち場を超えないように
それぞれ制限付きの権限を各人が得ているのではないかと私は思った。誰かが私から離れると、
別の者が迎えたからだ。
07762/2
2012/12/14(金) 06:03:22.59ID:djwypYrW床の上に先に述べた敷物を敷いて座っていた。金の縁取りのある深紅のビロードの絨毯のような
四角の布とともに、キモノと呼ばれる二着の衣服で、緑と黄色に装っていた。
そしてカタナという剣と短剣をその上にくくりつけていた。
頭は頭髪を色帯でまとめて乗せているだけだった。
35歳の、浅黒いが立派な顔立ちと体格の男性である。
私に付き従ってきたものには(前の広間に)居残るように秘書官が命じたので、私が席につくまで
入れたのは秘書官のみだった。座るのは皇太子のそれと同様床の上ではあったが、彼から
四歩くらいの近距離で、左側だった。すぐに帽子を被るようにと私に命じた。
皇太子は笑いながら通訳に向かって、私に会えてどれだけ嬉しいか、私を知ることは彼の心痛となる。
何故なら私が自分の難破で悲しんでいるに違いないと思うからだ。私のような高位の人間は、
自分の咎が原因ではない不幸な出来事で悲しむべきではない、と言って、私を励まし、この国で
私に為されることはことごとく恩恵である、とも言った。
私は謝意を表しそして出来る限りを尽くして答えた。航海やナオ(スペインの外洋船)に関する質問をして
半時ばかり私を引き止めた。最後に私は彼の父である皇帝(徳川家康)の所へいつか伺候する許可を求めた。
翌日は無理だったが、4日後に出発する許可を与えた。というのも、まず父親に知らせ、道中、宿泊と、
私という人間にふさわしい歓待を命じておきたかったからだといった。
以上を持って私は暇乞し、宿舎へと帰ったが、もう遅い時間であった。』
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)
1609年の江戸城と徳川秀忠に関する記録である。
0777人間七七四年
2012/12/14(金) 08:08:43.87ID:wDwyjJQi>そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのようなものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。
>もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、 金の花模様のビロードの縁で飾られている。
>形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
畳の説明が新鮮だw
0779人間七七四年
2012/12/14(金) 14:55:53.82ID:4jQEhxxK0780人間七七四年
2012/12/14(金) 17:04:12.73ID:qw3BQS3pこういう外国人の目線からの説明って独特で面白い
あとマスケット銃と火縄銃って違うものなんだな 同じだと思ってた
0781人間七七四年
2012/12/14(金) 17:25:54.69ID:2nZvKz8E日野亜相、京極忠高がこれに相伴した。
やがて本城に移り秀忠が本日の謝詞を述べる。この時家康は秘蔵の楢柴、
投頭巾扇付という名器を取り出し「好きな物を取られよ」と言い、秀忠は
投頭巾を請いうけて西城へ帰った。
その後、近臣らが「今日、御所は殊に御悦びでした」と家康に申し上げると、
家康は「汝等も将軍投頭巾の茶宴に巡り会うだろう」と、顔じゅうに笑みを
浮かべたという。父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。
――『徳川実紀(駿府政事録、創業記)』
0782人間七七四年
2012/12/14(金) 18:02:21.54ID:2nZvKz8Eすいません、ちょっと訂正します。
×父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。
○父子の睦まじい姿に見聞きする群臣は涙を流して感激した。
0783人間七七四年
2012/12/14(金) 19:11:16.06ID:YmFPR2w8当時は薙刀なんて実戦用の武器としては廃れていたと思ってたんだけど、
まだまだ使われていたのかな?
0784人間七七四年
2012/12/14(金) 20:23:20.10ID:CZ8OZ3WJ0785人間七七四年
2012/12/14(金) 20:44:32.36ID:lfOcY0i30787人間七七四年
2012/12/14(金) 20:49:28.59ID:E80ktpGd0788人間七七四年
2012/12/14(金) 22:39:49.93ID:rhWyyrFaマスケットって小銃の総称だから、本来の意味では火縄銃をマッチロック式マスケットと呼ぶべき。
だから、ここで分けてる意味が全くわからん。
スペイン人の認識として、マッチロックとマスケットを分ける何かの境目があったんだろうか。
0789人間七七四年
2012/12/15(土) 01:39:20.07ID:5v0Wtm+x■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています