戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0790人間七七四年
2012/12/15(土) 03:09:59.86ID:mRNRElBD鉄パイプの先に銃剣付けただけでショボい薙刀みたいな代物だな
0792人間七七四年
2012/12/15(土) 11:20:30.87ID:5v0Wtm+x鉄砲足軽の持つ2匁半筒=アルケブス(小型火縄銃)
徒歩や侍の持つ6匁目から10匁目の侍筒=マスケット
こんな感じだろう
0793人間七七四年
2012/12/15(土) 14:06:26.57ID:vPqhXWbg向こうの人からすれば同じ機構でも用途やサイズが違えば違う種類の銃って事なのかな
0795人間七七四年
2012/12/15(土) 16:06:56.21ID:6Fjeq5I5でも、日本式の類別だと、火縄銃が全体を表す言葉で、そこから細分化して鳥銃だの大鉄砲だのになるわけだろ?
訳文が悪いだけ、って気もするけどなー
0796人間七七四年
2012/12/15(土) 16:45:57.09ID:v3v4gbAu日本で量産できるようになった時点で
日本の気候や戦略にあったものに変化するわけだけど、
その一つ一つをちゃんと理解した南蛮人もそうは多くなかろう。
その一方で、銃の歴史そのものは南蛮人の方が長いので
彼らは彼らで多数の語を銃のタイプに当てはめていたわけで
まあ、ちかい語をあてる方が楽ちんw
それに本国の報告書に長々とした説明はできん、
というわけで多少誤解はあるかもしれないけど
もうこれでいいや、となったのではないだろうか?
0797人間七七四年
2012/12/15(土) 16:57:37.97ID:pi7O1z6D画像がひとっつも出てこない。どんなんだろか。
0798人間七七四年
2012/12/15(土) 18:44:56.64ID:XHek4QUf折などに飲みすぎると、必ず喧嘩を始めるものだから慎まなくてはならない。
軍陣や鷹野の時には下戸も一盃飲めば勇気が出てきてひとしお精の入る
ものだ。しかし、小盃で長々と飲むのは何か祝言の席のようで弱弱しい。
上戸が茶碗などで、すぱすぱと一息に飲む姿こそ見ていて心地がよい」
――『徳川実紀』
0799人間七七四年
2012/12/15(土) 18:50:59.22ID:MLXmjZsXギザギザハートの暴れん坊だった権現様だけに説得力がある
0800人間七七四年
2012/12/15(土) 18:52:23.44ID:O0pXVcS+0801人間七七四年
2012/12/15(土) 19:11:11.21ID:mRNRElBD0802人間七七四年
2012/12/15(土) 19:17:15.72ID:6eAZaUB+0805人間七七四年
2012/12/16(日) 11:52:44.29ID:WnokO+Fz0806人間七七四年
2012/12/16(日) 17:33:52.74ID:Ayo6ozKd0807人間七七四年
2012/12/17(月) 11:06:54.34ID:bP7jvpZP『百姓の苦しみは、一粒百行といい、その前年の秋より、種を取り、様々な準備をし、春にいたって
その種をおろし、夏に至ってこれを植え付け、耕耘の功果てて後、秋に至ってこれを刈り、扱き、搗いて、
ようやく米となるのである。
その米によって我々上に立つものは養われている。百姓の千労万苦、血の涙を流すほどのものである。
聖徳太子のお言葉に、この様なものがあるそうだ。
民の苦しみ流す汗は、みな血の涙である、と。
これ故に君子は、一飯を食する間にも、民百姓の艱苦を思うのだという。
だからこそ、地頭・代官たる者が、民を虐げ富を貪るというのは、天の憎しみ深い物なのだ。
次に職人は、諸々の大工・小工、家を造り人をして、雨露、霜雪を凌がせ、
船を造り橋をかけ、海川を渡して人の助けをなす。
武器に至っては、職人によって作られる物品は非常に多い。
これらは皆、工人の業功であり、それによって我々が得られる利益は莫大である。
また商人の功とは、ここに何か物品がない時、別の場所より買い取り、
別の場所に無い物品はこの方で買って、金銀・銅鉄・瓦石・諸物・衣服・飲食等、すべてのものが揃わないということが
無いようにし、我々に居ながらにしてそれらの物品を購入し使用する自由を与えてくれる。
これこそ商人の力である。
故に、我々武士は、農・工・商の3つのものを、最も慈しむべきなのである。』
(武野燭談)
0808人間七七四年
2012/12/17(月) 14:34:17.73ID:X8BtFzeD0809人間七七四年
2012/12/17(月) 14:50:41.40ID:mTxjSZHZ0810人間七七四年
2012/12/17(月) 16:56:08.18ID:+P7aYMBB0811人間七七四年
2012/12/17(月) 17:51:05.41ID:GLdB4Yh10812人間七七四年
2012/12/18(火) 21:31:28.72ID:JaAwW5wF「私は親父が七十歳のときに生まれた赤ん坊だった。
体も弱く病気がちだったから塩を扱う商人に養子として送られるところを、
多久図書殿が色々と口を利かせてくれて、
九歳のとき、光茂公の走り使いの役に使ってもらえるようになった。
光茂公は私に、不携という名前を付けてくださった。
されど、私は城では光茂公や綱茂公の個室にある、
コタツの上でハシャギ、悪戯遊びをするのがなにより楽しかったから、
その時期は光茂公、綱茂公は私をどうしようもない悪戯者だと思っていたとのことだ。
その後、十三歳のとき、元服するよう光茂公から仰せがあったので、
それから一年間自宅に引きこもって準備と覚悟をして、
翌年の五月に城へと出仕して御小姓役を勤めた。
そして時の進むうち、倉永利兵衛になにかと目を掛けてもらうようになり、
利兵衛から上役のほうに、
「あの者は和歌もたしなむので、
光茂様からも直々にお召しがあるほどです。」
と申し上げてくれたのだが、
かえってそれが上役の不評を買い、私は干されることとなった。
利兵衛が私を推薦するつもりであったことは勿論わかっている。
この件以降、江戸へのお供もしないで、
何もすることなく、ぶらぶら遊んでいたのだが、
いろいろと不安な気持ちも出てきたので、
父と親しくしていた、湛念和尚のところへ行きよく話すようになった。
そんななか、いっそのこと若いながら僧侶になろうかとも思っていた。
そんな私の様子を見ていた親戚の山本五郎左衛門が、
父が加増された知行地を私に分けてなんとか武士の道に戻らせようと、
中野一門皆で秘かに相談していたと聞いた。
それを知った私は、それは神仏に誓っても受け取らないと覚悟していたところ、
請役所へ呼び出されて鍋島本家から直々に扶持米を頂くこととなった。
本家から扶持を認められた以上は、
他人から見下されるような武士では無念である。
どうすれば武士としての気持ちよい奉公が出来るだろうかと、
日夜考えていたのがこの時期である。
そんなときに、ある歴戦の老武者から、
「名誉と利益を追うような者はサムライではない。
しかし、名誉と利益を追わない者もサムライではないのだ。
この道理を真剣に考えて行動しろ」
と教えられ、それを考え抜いて納得することが出来た【続く】
0813人間七七四年
2012/12/18(火) 21:54:52.45ID:JaAwW5wF主君にすらも諫言して自分の国になんらかの貢献をすることである。
下の方でグズグズしているだけでは役に立たない。
奉公すると決めたなら、ともかく主君に諫言を受け入れてもらえるように、
己をそのような位置にまで持ってゆくべきである。
まあ、それでもあまり早い出世は昔から波風立って好ましくないから、
五十歳から出世するよう、そのための工夫、修行に全力を注いだ。
血の涙とは言わないが、目から小便が出るくらいの苦労は我ながらしたつもりだ。
この時期の工夫が、私がよく話す、角蔵流の泥臭い努力だったと思う。
そんな時期に、殿が亡くなり、
以前からいた上役たちは臆病風を吹かしてしまい、
世間の評判を落とされたので、
そういう成り行きのなか、私も隠棲者となってしまった。
形の上では本意を遂げることは出来なかったが、
武士の心意気は最後まで失わなかったと自分では思っている。
人間が本気で決心すれば、望みは形は変われど叶うということだろう。
逆に奉公する者が罰を受けるのは、
自慢と奢りからくる天罰だと思えばよかろう。
こんな身の上話をする私を、誠に高慢者のように思うだろうが、
つかみきれないこの世の中で、
不思議な因縁にひかれ、私の山家を若武者たちが訪ねてきてくれるので、
なんの遠慮もなく、あるがままを話したのである【葉隠】
0814人間七七四年
2012/12/19(水) 01:36:30.28ID:8ELvZjMC0815人間七七四年
2012/12/19(水) 04:37:26.00ID:F6PdzPoTそれが本気の決心なんだろう
0816人間七七四年
2012/12/19(水) 05:41:15.93ID:lmqUdhCU全員無事で、神と陛下によく奉仕でき、かの(北関東から東北の)海岸線に至る全ての領主と
その家臣らを友にし、我々のキリスト教の信仰に惹かれるようにしてきた。
多くの、しかも大変良い港を、それも大変良い場所に、さらには(伊達)政宗のような
大領主の領地に発見した。
政宗は、領内に来たイスパニア船は常に良好な待遇と補給を受けうることになるので、必ず
その領地に向かうことになるだろうと言った。また自分の家臣がキリスト教徒になるように望む、
とも言った。
江戸に到着すると直ぐ、司令官は皇太子(徳川秀忠)の顧問官らに使いを送り、帰還を知らせると共に、
補給を受けたいものがあるので浦賀港に向かい、その後直ちに御手に接吻するため目通りをし、
発見したものの図をご覧に入れるため立ち戻りたいとの許可を求めた。
その許可を得。(江戸藩邸の)件の政宗にも同様の使いを送った。彼は
「自分に会わぬまま先に行かないでほしい。月曜日に昼食を共に出来るよう自分の屋敷で待っている。
司令官に会わない1時間は1年にも思える」といってきた。
午後3時に我々が彼の屋敷に行くと、彼は司令官と、パードレ・フライ・ルイス・ソテロに
親愛の情あふれる接待をし、神父に見せる尊敬と敬意は言葉では言えないほどだった。
食べ物を手ずから運び、酌まで取り、司令官にも同様にした。
「自分たちは友で、永久にそう望み、武器に誓ってかくありたい。故にカタナを授与するので
自分には懐剣を」と述べ、その様にし、大変恭しく懐剣を受け取った。
十字架に接吻して剣を頭上に押し頂き、彼の流儀で他の儀式も行った。それは中々見物で、
イスパニア人にこれほど殿が好意を示すのを見て、家臣らはたいへん驚いていた。
政宗は極端なまでのことをし、普通なら彼の前には罷り出られないような身分の家臣まで饗応に
呼ばせた。そしてこの者に
「汝は我が家臣である。土下座せずには我が前には出られない輩であることは汝自身がよく知っている。
だが汝はキリシタンで、司令官の友である故に、今日我が食卓に共に着くが良い。殿の三つの印をつけよ」
と言った。これには他の者は驚愕してしまった。
キリシタンの家臣らはパードレの修道服に接吻し、我々の信仰のことを知るために修道院に参じたいと
言った。食事と会話の際に、我々のキリスト教について話が行われた。
彼(政宗)はキリストの漁する網の近くに居た!神よ、その智を照らし給え!この者が受洗した暁には、
キリスト者の保護者と成り殆どの者が改宗する源となるだろう。何故なら、この国のキリスト教は
大根から葉が生じていくように、今日まで逆さまな形で始まってきたからである。
キリスト教に入信したものは貧しい役人や漁夫、平民で、貧しい修道者に保護や支援を与えるどころか、
逆に自分たちが援助されることを望み、献金はわずか。
その上彼らの先祖はキリスト教徒ではないため、先祖のためにミサを挙げて貰う必要もなく、
ミサの依頼も全く無く、宣教師らは自活の手段を持たなかった。
祈りの刻に我々は自分の宿舎に戻ったが、この領主の良き素質を見て大変幸せだった。
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
スペイン人使節と伊達政宗との会食、およびキリシタンの事情についての記録である。
0817人間七七四年
2012/12/19(水) 19:17:02.57ID:7I0rTZeL0818人間七七四年
2012/12/19(水) 19:37:11.91ID:rIv0vERYイスラム教原理主義派を背景にした戦士は強いしさ
一向衆も強いけどよくよく教え読むと逃げても救われる教えだからな
0819人間七七四年
2012/12/19(水) 20:24:50.05ID:2NOO+mdG0820人間七七四年
2012/12/19(水) 22:21:23.86ID:lmqUdhCU翌天文四年正月18日、元就は和睦の御礼として、供廻り50人足らずで、宍戸氏の居城・甲立へと訪問した。
吉田と甲立の間は一里ばかり離れていたので、先ず御遣いのものが遣わされ、それに対応するため
宍戸家からも人数が甲立城下川端まで、御案内のために出された。
彼らは毛利家の使者が口上で、元就の御出参の事を申し上げると、それに相当の返答をし、
元就は直接に城に入った。
城では元源親子が揃って元就を待っており、一礼がすむと、種々様々な御馳走は浅からぬものであった。
食事が済むと、元就は城を立とうと思ったが、だんだんと元源と話をしている内に、
「この様に心安く対話ができるとは、一世ならぬ奇縁だと思います。今夜はこちらに留まらせて頂き、
終夜あなたの物語を聞きたく思います。」
と話すと、元源は大変機嫌を良くし、夜陰になっても様々に馳走して、その後寝所を同じくして
元就・元源は枕を並べて、終夜雑談をしようということになった。
そのはじめに、元就が言うには
「あたなのご嫡子、雅楽頭殿には、未だにご縁組も、結婚の約束をしたものも無いと聞いております。
そうであるなら、私の娘に、年齢も相応なものが居ります。これを宍戸家に差し上げたいと思っているのですが、
これを奥方とご相談為されて、ご了承頂けるのなら、私も本懐に思います。」
宍戸元源はこれを聞いて「さて!御年相応なご息女がいらっしゃるか!これは幸いなことです!」
と、早速奥方のところに行って報告し相談をし、その上で奥に元就を呼び込んで、
親同士相対した上でこの縁談を結んだ。
双方祝詞を仰せられ、喜び限りなかった。
その後、元就は語表にて朝食を召し上がり、心静かにお話などされ、そうして吉田へと帰った。
(吉田物語〉
毛利元就と宍戸元源、姻戚関係を結ぶ、という逸話である。
しかしこの手の逸話で、婚姻の許可を得るため、旦那や相手方の父親まで奥さんと相談する、という
話は始めて見た。中国地方はやっぱり女性の権威も強かったのでしょうかね?
0821人間七七四年
2012/12/20(木) 00:08:05.36ID:yEemqBjP…悪い話?
0823人間七七四年
2012/12/20(木) 01:13:25.36ID:9OF+tPRb16〜7cのイスラム系帝国で強兵ってイエニチェリやシク教徒傭兵みたいな
他の宗教の信者を使ったものが多いんだが。
0824人間七七四年
2012/12/20(木) 03:45:45.49ID:P+Mx/twC0825人間七七四年
2012/12/20(木) 08:39:21.11ID:mpeSImtt0827人間七七四年
2012/12/20(木) 10:04:42.98ID:puc7QdPA元就さんは礼儀ができてるのが当り前のレベル
0828人間七七四年
2012/12/20(木) 10:43:21.87ID:t2vv/StO秀吉が家康を落とした手口とそっくり。
0829人間七七四年
2012/12/20(木) 20:38:11.95ID:RoeqA+hv0830人間七七四年
2012/12/20(木) 23:55:28.55ID:C4w1xGjFいつでも知行の半分を分かち与えていた。
長久手の役で羽柴秀次が敗軍したところ、秀吉は怒って吉長を咎めた。
このために吉長は日蔭者になっていたのだが、福島正則が七百石で召抱えた。
そこで吉長はすぐに三百五十石を分けて久右衛門に与えた。
――『名将言行録』
0831人間七七四年
2012/12/20(木) 23:58:09.95ID:M59km+lBしかも宍戸の五龍城が堅城すぎて毛利側は負けまくり
0834人間七七四年
2012/12/21(金) 11:08:05.07ID:5JGushqd0835人間七七四年
2012/12/21(金) 11:08:05.28ID:1dAM2XsE0837人間七七四年
2012/12/21(金) 14:37:12.70ID:KpklqrfU牛島新五郎の妻は権藤七兵衛の妹であった。
その七兵衛が、江戸で遊廓通いをしていることが表沙汰となり、
上役たちの相談の結果処分を課されることとなった。
戦の世が終わり、風俗がだらしなくなってきた時期でもあり、
周囲の者たちへの見せしめのためを思い、
七兵衛の所属する一門から縁戚のはしばしまで厳しく咎めることとなった。
そういうわけで新五郎もすぐに国に呼び戻され蟄居となった。
新五郎のまわりの者たちは、
「新五郎殿は上役からの覚えもよいのだから、
すぐに七兵衛殿の妹と離縁するべきだ。
さすれば、新五郎殿までお咎めを受けないですむ。
たった四石の扶持で蟄居ではいずれ暮してゆけなくなりますぞ。」
とたびたび意見を述べにきたのだが、新五郎は、
「男女の情にひかれて離縁を拒んでいるのではない。
自分の身が立つからと理屈をつけて、
罪もない妻を去らせるのは義にはずれたことだろう。
飢え死にする覚悟を決めたので、
もはや私におかまいくださるな。」
と言い、ついに首を縦にふらなかった。
新五郎は三年の後、復帰を認められた 【葉隠】
0838837
2012/12/21(金) 17:55:06.25ID:KpklqrfU漢字間違い訂正
0839人間七七四年
2012/12/21(金) 21:59:25.08ID:85L79Sj0上野国利根郡に三千貫の地を領した。
後北条氏の滅亡後、徳川家康が戦死した者の首帳を見ると泰親の名前がなかった。
そこで家康は「きっと当地にいるはずだ」と井伊直政に命じて探させた。
その後、直政の調査によって泰親は先の松井田城の戦いで深手を負って既に
死に際の状態であることがわかった。直政の報告を受けて家康は「かねてより
泰親は忠実の者と聞いている。ぜひとも死ぬ前に目にしておきたい。
籃輿に乗せて連れて来るのだ」と命じた。
さて泰親が板扉に乗せられて御前に現れると家康は側近くに寄り、非常に
沈痛な面持ちで「この傷が治った時には不動山の城主とし、譜代の大名に準じよう。
それまで心のままに養生せよ」と言葉をかけた。また当分の費用として月俸百口を
下したものの、泰親は亡くなった。
そこで家康は泰親の子で当時六歳の助兵衛政親を直政に養わせ、成長した後に
父の跡を継がせたのだという。
――『徳川実紀(諸家譜)』
0840人間七七四年
2012/12/21(金) 22:27:39.82ID:mg3ksSrF0841人間七七四年
2012/12/21(金) 22:48:42.84ID:rc3mURLw0843人間七七四年
2012/12/22(土) 03:16:31.31ID:/5ZuVw+s0846人間七七四年
2012/12/22(土) 10:19:08.24ID:i3tuzY2E0847人間七七四年
2012/12/22(土) 11:51:53.05ID:kntVdV6w0848人間七七四年
2012/12/22(土) 12:18:17.88ID:yefrraZv0849人間七七四年
2012/12/22(土) 23:22:53.40ID:+5dY7iLnすまん、それ読んだことない。
読んだことのある葉隠題材のもので面白かったのは、
滝口康彦の「権平けんかのこと」
読後の爽快感が最高なのでオススメ!
マンガの「シグルイ」はネカフェで10巻くらいまで読んだけど、
あれには爽快感なかったw
0850人間七七四年
2012/12/22(土) 23:23:58.75ID:1bAaG98aある時吉川元春様より、宍戸隆家へ年松彌六と申す者が御使として差し越された。
彼は甲立(五龍城)に登城し、元春からの口上を申し上げようとすると、その日は丁度
元就公の御忌日であり、宍戸隆家は書院の床に御位牌をかけられ、その御位牌の前に
座っておられた所に使者がやってきたため、そこで隆家はこの彌六を側に召し、直に
その口上を聞かれた上で、この様に言った
「今日は元就公の御忌日であるので、出家などを招いて焼香をするのだよ。
これについては、家来たちには焼香を免していないのだが、そなたは元春殿の名代として
こちらに来ているので、尊霊に御焼香されるように。」
彌六は恐縮し辞退したが、再三に仰せ付けられたため、お次の間に立って別の香炉に火を入れ
持参し、書院に戻ってこれに焼香した。
この時隆家が彌六に語ったことには
「その方などは歳若いので、元就公のご生前の、常の行状なども知らないであろう。
元就公は、先ず常には物静かで、落ち着かないような気色など少しも見えない人であった。
どれだけ諸方から急難が報告され、大敵が攻め寄せてきたという時でも、いつもと変わった
御気色もなく、却って、春は花、秋は紅葉と、その季節の風景によって連歌の会を開いたり、
歌などを詠まれる事も多かった。
私は最初、軽業などは苦手だと思っていたのだが、馬を乗り弓を射、太刀を遣い走り来る、
こういった飛び技まで優れた人であった。
そうであったから、家中に侍たちは言うに及ばず、新たに幕下に加わり初めて対面するものまで、
この人こそ主君であると頼んだのだ。
元就公は一言の約束が、たとえ年月を経ても、違えること有るまじと、好意を表すように
律儀第一にされ、夫々の者たちに対して礼儀深く、慮外な振る舞い、奢った行跡など露程もなかった。
土民に至るまで、無理非分の事が少しもなかったので、人々はことごとく公を慕い、
『どんな役儀であっても申し付けて下さい!元就様のために御奉公をしたいのです!』
と思い立っていた程の仕置を為されていた。
また、非常に細かく心遣いを為されていた方であった。
公は、夜ぐっすりと眠られるということはなかった。硯・料紙・灯を枕元に置かれ、
諸所や国境に置かれた侍たちに、その時その時に適した指示書の案文、その他要件の事など
思いつき次第に書き置かれ、翌朝家老たちが出仕すると、書付を元にいろいろな指示を
申し付けられたのだ。」
(吉田物語)
宍戸隆家の語る、毛利元就の姿である。
0851人間七七四年
2012/12/23(日) 00:20:00.20ID:tsA5WNC2隆元やTERUが自虐気味になるのも仕方がない。
0852人間七七四年
2012/12/23(日) 00:30:53.46ID:E8N7OZZb信用とか内政手腕は元就を凌いでいるじゃないか
0853人間七七四年
2012/12/23(日) 01:18:18.62ID:yU+K4tyY0854人間七七四年
2012/12/23(日) 03:36:30.71ID:mWfnJU9O毛利輝元は秀吉死後の混乱に備え、
大阪の毛利屋敷に2万の兵と鉄砲700を備えさせていたという
最終的にはこの毛利勢2万を利用する形で西軍が形成されるんだけど、
この辺りの周到さはTERUも乱世の人だなぁって思うわ
0855人間七七四年
2012/12/23(日) 03:51:06.29ID:Aj3PgZs/0856人間七七四年
2012/12/23(日) 08:53:20.13ID:qZHo839Dそれのネタって、いつもホラ吹き全開な内藤周竹さんあたりじゃなかったっけ?
三成襲撃事件などでも、広家が自領から兵を率いて急行してたりするから、
上方に極端な大兵力は置いてないんだけどね。
0857人間七七四年
2012/12/23(日) 12:06:50.54ID:mWfnJU9Oたしかに内藤小源太のやつだねー
三成の件の後に常駐させていた(数にフカシはあっても)可能性もあるし
個人的にはそういった戦力がないと西軍を結集するときに
諸大名を糾合するのに必要な物量がなかったんじゃあ…と考えてるんだけど、どうなんだろ
0858人間七七四年
2012/12/23(日) 12:14:02.54ID:qZHo839D一応、三成事件の前も伏見に1500程度はおいてたから
あわせて三千程度ならあるかもしれんが、それ以上の数は
毛利氏の動員力的に無理だと思う。
文禄、慶長の役でさえ、軍役を満たせてなかったし。
0859人間七七四年
2012/12/23(日) 12:31:28.97ID:c4lJcLo90860人間七七四年
2012/12/23(日) 19:57:00.10ID:KQqj50H3毛利元就はこの事を聞きつけると、先ず宍戸親子を始め、高松城主・熊谷伊豆守信直、同豊前守、
天野中務隆重、同民部少輔、香川又左衛門尉光景、同弟元忠、といった信頼の置ける同盟者に連絡し、
粉骨をなされるよう要求し、また、人質を出すことも要請した。
このように防衛体制を創り、また郡山城防御の手配も行う。
城の後をわざと手空きにし、森や林の茂みの中に兵を置いて、合図によって敵との戦闘を行うこと、
物頭の侍たちに徹底的に教えこんだ。
そのうち三猪山の、尾崎多治比方面には、茶垣を柵のように結ばせ、幕を張り旗を立て、この場所を
重点的に守ると、敵が見るように仰せ付けられた。ここにもまた物頭の侍たちに作戦意図をしっかりと
説明して差し置いた。
この時、郡山上に立て籠もったのは、女子供も含めて8千人であった。その中で兵として使えるのは、
わずかに2千4・5百ほどに過ぎなかった。
この籠城の期間、色々と不思議な事が起こった。
8月15日には、宮崎八幡のお供え物に、人の頭のように毛が生えたのを、児玉内蔵充が見つけ、奇妙に思って
轉新九郎を以って元就公に差し上げた。それによって、宮崎八幡を城内の祇園の社に遷宮させられた。
また祇園縄手の深田に、毎夜光るものがあった。これを見たものが不審に思いその場所を掘ってみると、
そこから太刀が一腰出てきた。これは『稲光』と名付けられ、毛利家の御宝蔵に入れられたとか。
また、この時は城下の百姓町人も、城内に妻子を連れて籠っていたのだが、尼子軍によって自分たちの家屋が
放火された時、それを嘆くようなこともなく、誰が教えたわけでもないのに
『尼子殿は雲客 引きずり下ろしてずんぎり』
と、言い合ったそうである。雲客とは、尼子が出雲からきたことと、雲にのってきた者というのをかけており、
雲にのってきた尼子軍を、その雲から引きずり下ろして、寸切にしてやる、という意味である。
この様な言葉が自然に出てきたのも、不思議な事である。
(吉田物語)
0861人間七七四年
2012/12/23(日) 21:23:48.57ID:Lidj1Xrz0862人間七七四年
2012/12/23(日) 21:54:14.40ID:GzLpUxzp家臣「皆気持ち悪がって誰も買いませんでした。」
元就「在庫どうしよう・・・」
0863人間七七四年
2012/12/23(日) 22:43:54.89ID:hD00KwHr0864人間七七四年
2012/12/23(日) 22:48:10.97ID:lsFBUtIo0865人間七七四年
2012/12/23(日) 23:25:17.56ID:n4aPgzw30866人間七七四年
2012/12/23(日) 23:57:08.25ID:x9+yeZTt今は馬一頭だけが残っていた。
時に馬の売買・仲介を業とする人が来て「馬を売り払い給へ」と言う。
それを聞いて宣充は「只今まで用に立ってくれた馬だ。この上、売り払う
なんて可哀想だ」と、馬を阿部野へ解き放った。
――『名将言行録』
0868人間七七四年
2012/12/25(火) 20:35:26.78ID:LgLro0gF吉田郡山城の北にあるなんば谷に、年をとったキツネが棲んでいた。
銀色の、それはそれは美しい毛並みのキツネであった。
猟師がそれを獲ろうとしても獲ることが出来ず、やがてその美しさは毛利元就の耳に入った。
殿様は非常に情け深いお方であったので、
「その様に美しい狐なら、なおさら殺してはならない」
と命ぜられ、その旨を記した高札を出した。
キツネはこれを見て感激し、やがて尼子が郡山城を囲んだ時、家来を連れて毛利に加勢した。
彼らは、馬糞でごちそうを作って敵方に送りつけたり、提灯で敵が襲撃してきたように見せるなど、
尼子への妨害作戦を行い、これに疲れた尼子はとうとう去っていった。
元就はキツネの働きに感謝し、郡山の森山を彼らへの褒美として与えた。
それからキツネは、侍に化けて山の見張りを続けたそうである。
(広島の昔話)
0869人間七七四年
2012/12/25(火) 20:36:39.84ID:KwEtYujG0870人間七七四年
2012/12/25(火) 23:23:36.39ID:VYE2lnak0871人間七七四年
2012/12/25(火) 23:42:37.55ID:Rmw3k7oJその子三右衛門吉晴は妻子を引き連れて一番に江戸へ馳せ参った。
この事を土井利勝より知らされた家康は、吉晴が住みなれた土地を離れて
速やかに馳せ参ったことを賞して上機嫌になり「旅装のままでいいから
出て来い」と命じたので、吉晴は革の立付を身に着け髪も乱れたまま参上した。
家康は前もって吉晴が酒好きと聞いていたので数杯を下した。酔いが進んで
心地好くなっている吉晴を見た家康は伊奈忠政を呼んで「三右衛門は
酒好きだから、良い場所を選んで酒を飲める領地をつかわせ」と命じた。
やがて吉晴は相州高座郡菖蒲澤村百石の地を賜り、今その辺りではこの領邑の
ことを酒手知行というのだとか。
――『徳川実紀(家譜)』
忠政は忠次の間違いかな。
0872人間七七四年
2012/12/26(水) 00:01:57.53ID:XRQZ7LvB0873人間七七四年
2012/12/26(水) 00:30:33.54ID:P1EoTL2m河内の光善寺に向かう途中、その佛照寺の近くを通るとそこの住職の教光の評判を耳にした。
佛照寺は蓮如の派閥とは異なる佛光寺派の大きな寺として当時有名であったが、佛照寺の
教光住職は和歌に好むあまり、肝心の念仏がおろそかになっていた。
ある日、蓮如は目垣の近くまでやってきて自作の三首の和歌を書いた紙をわざと落とした。
その紙を拾ったのは佛照寺の教光住職である。紙には以下の和歌が書かれていた。
ひとたびも 佛をたのむ心こそ まことの法(のり)に かなう道なれ
罪深く 如来をたのむ身になれば法(のり)の力に 西へこそ行く
法(のり)を聞く 道に心の定まれば 南無阿弥陀仏と唱えこそすれ
和歌に詳しいはずの教光住職であったが、この三首の和歌の意味が全然理解できなかった。
そこで教光住職は落とし主の本願寺蓮如に歌の意味を聞きに行った。蓮如はわざわざ聞きに
来てくれたことを喜び、丁寧に歌の意味を説明し、ついでに親鸞聖人の教えも説いた。
これがきっかけとなり、教光住職は本願寺蓮如の弟子となった。そして、佛照寺はこれ以後、
佛光寺派を離れて本願寺派へ鞍替えしてたのであった。
0876人間七七四年
2012/12/26(水) 16:15:59.27ID:m2IdOMct馬とかは草を全てを消化できるわけじゃなくてある程度消化された状況で排出しちゃう
つまり糞は通常の草よりも消化しやすい
植物を消化できない赤ん坊が離乳食として親の糞を食べる動物が居るくらいだからね
同様に植物を消化できない肉食動物にも食物繊維を取りやすい代物なのかもしれんな
0877人間七七四年
2012/12/26(水) 16:21:53.68ID:bQPO+qfHしつけされてないだけ。食糞でググれ。
0878人間七七四年
2012/12/26(水) 23:08:25.12ID:dldnZeIU桶狭間の戦いに討死し、実重もまた氏真に仕えて終始忠節を尽くした。
小牧長久手の戦いで諸人がいずれも高名をあげる中、助次郎一人は
何の高名もあげられなかったので、あまりの面目なさに涙を流していた。
しかし、そんな助次郎に徳川家康が「お前は古主氏真の行方を見届けた
信義厚き者だから、今日の戦で敵の首を取るよりも遥かに勝っているぞ。
嘆くことはない」と言葉をかけたので助次郎は思いもよらず誉れを得た。
――『徳川実紀(感状記)』
0880人間七七四年
2012/12/27(木) 00:11:46.24ID:UmIFNy520881人間七七四年
2012/12/29(土) 11:36:29.08ID:8e3YYawD石川地区の乳井という大字はまた違った歴史がある。
現在、乳井には乳井神社という神社があり、かつては乳井福王寺毘沙門堂という修験寺であった。
大鰐から平川右岸の山岳地帯に勢力を持ち「津軽の法師三大名」ともいわれたという。
別当は福王寺氏といい、戦国時代には堂衆を率いて勢力を拡大し、
福王寺玄蕃の代には猿賀神社の別当も兼ねる勢力にまで発展、
南部氏にも従わないことから玄蕃は「沙門大名」とも言われた。
もちろん、南部氏は邪魔な福王寺を放っておくはずもなく、
1565年、玄蕃は大光寺城代滝本重行の刺客により路上で暗殺されてしまう。
玄蕃の息子は乳井建清といい、父が暗殺された当時はまだ若年で、仇討ちすることも出来ず、
逆に滝本重行に福王寺に対する抑えの高畑城を築かれるなど、寺領を圧迫され、侵略を受けることとなる。
その後間もなく南部家中は南部晴政の後継問題で統制が効かなくなり、
それに乗じて大浦為信が1571年に謀反、石川城と和徳城を一日で落とすが、
建清の居館と石川城は目と鼻の先であり、騒ぎを聞いた建清はこれに乗じて高畑城を急襲、奪取することに成功する。
建清は高畑城主となり、すぐさま為信に臣従した。
1574年8月と1575年1月に先陣として大光寺城を攻め、1575年に滝本重行を津軽から追い出すことに成功する。
1578年、大浦氏が浪岡北畠氏を滅亡させた結果、大浦為信と安東氏の仲は悪くなり、
1579年には安東愛季が比山六郎・七郎を総大将に津軽へ軍を出した。
この軍に滝本重行と北畠顕則が合流し、建清の元居館である乳井茶臼館や乳井城が落とされた。
この時に建清は大浦城におり、比山軍が乳井茶臼館に立てこもると大浦為信自身が軍を率いて出陣、建清はそれに従軍した。
両軍は六羽川付近で合戦し、大浦軍は次第に追い込まれ、田中太郎五郎が大浦為信の身代わりとなるなどの損害を出すが、
大浦為信を討ち取ったと勘違いした比山軍が油断した隙に比山六郎が討死した。
比山軍は大将を失い総崩れ、滝本重行も敗走する結果となった。
父を暗殺した仇敵を戦で二度破った乳井建清は、その仇敵の居城であった大光寺城主となり、
福王寺玄蕃暗殺以来の滝本氏との因縁に白黒つけたのであった。
>>358あたりで出てきた乳井氏の戦国時代でした。
0882人間七七四年
2012/12/29(土) 17:41:14.94ID:2edVXPOQ籠る堀川の城を攻めた。先陣は松平信一、榊原康政が務める。
康政は配下に向かい「私は若年でありながらこのような寵任を蒙り一隊の
主将となった。その上、御諱の字さえ賜り御恩の深高なること山海にも
比し難い。明日の戦はかならず一番乗りを遂げて盛意に報いるぞ!」
と宣言した。
その日、康政は早朝より紺地に無の字の指物をさし、笹切という鎌槍を
掲げて一番に城へ攻め入り、散々戦って二ヶ所の深手を負った。
そこで家人らが康政を肩に負ってなおも進み、遂に城を乗っ取った。
その後、康政の傷を見た徳川家康は「この深手ではもう助からない」と思い、
康政に「後事に思うことあらば、つつまず申せ」と言った。康政は畏まって
「この度、配下の伊奈、中島の両人の忠戦は衆人よりも勝れておりました。
ですから両人に御恩賞をお与えください。この外に思い残すことはありません」
と申した。家康はすぐに二人を召し出して感状を授けた。
ところが後に康政は思いもよらず回復を遂げたので、家康は大層喜んで
様々な慰労の言葉をかけたのだという。
――『徳川実紀(武徳編年集成、家譜)』
0883人間七七四年
2012/12/29(土) 18:39:37.75ID:vbEgc1jm0884人間七七四年
2012/12/29(土) 18:59:11.40ID:nGqfpWiH0885人間七七四年
2012/12/29(土) 22:42:14.80ID:zgeUB0kr(…何やら臭うな)
御茶部屋の辺りに来たところで、久太夫は妙な匂いに気付いた。
(そうだ、これはまさしく煙草の匂い。法度を犯して煙草を吸っておる不届き者め、何奴か)
殿中においては火気の扱いについて細心の注意を払うことが大原則。煙草一つ吸うにしても所定の場においてのみと定められていた。
立ち止まって御茶部屋の様子を窺う。見ると少しばかり開いていた障子がすっと閉まった。どうやら吸っていた茶坊主がこちらを察したらしい。
しかし、少し気付くのが遅かった。仄かな紫煙が久太夫の鼻先をくすぐっていく。
「これは煙草ですな」
久太夫、先を進んでいる正盛に聞こえるように呟いた。正盛の歩みが止まる。
「煙草がいかが致したか」
「かような場所にて煙草の匂いがするとは解せぬことでありましょう」
正盛は少し鼻を動かしたようであったが、振り向きもせずにまた歩み出した。久太夫はそれに不満を持ち、追いつきながら語調を強めた。
「ご法度の煙草を何者か隠れて吸っておりますぞ」
「喜多見殿」
正盛が立ち止まり、久太夫に横顔を見せた。
「貴殿は目付役」
「…? いかにも左様にございますが」
「いつから鼻目付を仰せつかったかな」
それだけ言うと正盛、そのまま立ち去っていった。
0886人間七七四年
2012/12/29(土) 23:03:00.33ID:9Lcwdn0n0887人間七七四年
2012/12/29(土) 23:05:16.74ID:6yE1bUAG喫煙は喫煙で見つける担当者が決まってるのか?
0888人間七七四年
2012/12/29(土) 23:12:48.51ID:me4PcMjEそれ以外の五感→○目付
っていう洒落かな
違ったらごめん
0889人間七七四年
2012/12/30(日) 00:46:30.17ID:urpmWWbs■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています