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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう

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0001人間七七四年2012/10/15(月) 00:12:08.25ID:RhmDVWTD
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話を上げたり、もっと話したい事を話そう。


戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/


鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0784人間七七四年2014/11/08(土) 14:37:54.40ID:q9TRtVai
>>783の話は正直
ファラオの呪い並みのこじつけだと思う
0785人間七七四年2014/11/08(土) 14:40:07.74ID:q9TRtVai
捕えられてすぐその真っ白い鷹が死んだのは
既出の意見だがアルビノで虚弱体質だったからだろうな
0786人間七七四年2014/11/08(土) 15:41:02.36ID:q9TRtVai
>山口玄蕃允正弘(宗永)の家臣・大石平左衛門良定は生涯武功が多く、傷を得ること数々で大きな傷も数箇所にある、そんな武人だった。

>彼は「高麗両度ノ役」にも従軍し、ひたすらに武勇に励んだのだが、主君である正弘が誉れ無きために、
>せっかくの武功もまったく無意味なものになってしまった。

>「やってられるか!!」
>帰朝の後、良定は病と称して故郷・近江国大石に退いてしまった。
>山口正弘は加賀大聖寺城主に取り立てられた際に再び良定を招こうとしたが、彼がこれに応ずることはなかった。

>良定は「高麗」で3人の童女を捕らえて連れ帰り、幾以、津留と名付けていた。残り一人の名は詳らかではない。
>彼女らはとても凡下の者のようには見えず、耳に穴が有ったという。

>3人のうち津留は、良定の甥で、真壁(赤穂)浅野家の家老となった大石内蔵助良勝の若党・与右衛門の妻となり、
>良勝の子・良秀の乳母となっている。
(大石家系図正纂)
0787人間七七四年2014/11/08(土) 15:44:07.41ID:q9TRtVai
↑の話、良禽は木を選ぶの実践例かな
0788人間七七四年2014/11/08(土) 19:44:07.03ID:KJkpXf/2
>三島村上水軍の棟梁のうち、因島の村上吉充は
>ほぼ同時代を生きた能島の村上武吉と来島の村上通康の高名の影に隠れて今一つ目立たない。
>そんな彼の人となりを、因島村上氏の一族の記録から見てみよう。


>北九州方面から上方へ来る荷船は赤間関で、防長・豊前から来る廻船は上関で、能島衆が通行を取り締まっていた。
>豊後・日向発で伊予方面に向かう荷船は来島衆の、備後方面へ向かう船は因島衆の担当である。
>しかし上関や周防大島の衆が豊後沖付近まで出張って荷船から帆別銭(通行料)を取ってしまうことがあり、
>それをされると因島衆の収入が減ってしまい、大きな悩みの種であった。

>また、因島付近を通行する未取締船にも、小早川家のお膝元である近所の三原港に逃げ込まれてしまい、
>仕方なく取立てを諦めることが何度もあった。
>因島の当主・村上吉充は腹に据えかねて、この窮状を小早川隆景に訴えた。

>「因島は三島の中でも小身なのに、このような仕打ちは我慢できません。
 >何卒よくお考えいただいて、違反がないよう御命令を出してください」

>「言いたいことはわかりました。ですが、海上のことは村上三家に一任していることですし、こちらからは何とも……。
 >それに、海の関を逃げられることもそちらの不手際ではありませんか。新蔵人(吉充)よ、そのような申し出は通りません」

>素気無く断られた吉充だが、一度では諦めなかった。
>今度は配下の若者たちを動員して一斉に奉行所に訴状を出させたのだ。
(続く)
0789人間七七四年2014/11/08(土) 19:45:58.73ID:KJkpXf/2
>しかし、これがまずかった。隆景の逆鱗に触れたのである。
>(隆景様御機嫌悪鋪、仰出され候は、)

>「三原へ逃げ込んできた船に、いちいち通行料免除をしなければいけないこちらも迷惑なのですよ。
 >しかしどこの国の船であろうと、助かりたい一心で飛び込んできた者を助けないのもまた不仁。
 >私に船を助けてはいけないと言うのであれば、その方もまた船を襲うことをやめるべきです。
 >大体、元就様から過分の恩地を頂いておきながら『小身なのに』とは何ですか。欲張るのはやめなさい。
 >海賊と言うものは所詮犬のようなもの。運送の荷船は鹿や猿だ。
 >犬が鹿や猿を取ったからと言って、『よしよし、よくやった』と褒めるのは猟師くらいのものだ。
 >元来犬の方が横暴なのに、鹿取る犬を誰が当然のようにもてはやそうか」

>と因島の驕りを久々に睨みつけたので、吉充は困惑してしまった。
>隆景腹心の乃美宗勝や磯兼左近大夫に取り成してもらい、何度も侘びを入れて許してもらったと言う。

>これより以前、足利義昭を毛利家が警固することになった時、因島の吉充に漕船及び警固船出動の命が下ったが、
>遅刻してしまったことがあり、その時も「隆景様御機嫌そこね、御しかり成され候」

>その後、引退もし損ねた吉充は乃美、末長、木谷ら小早川家重臣たちから代わる代わる説教責めにあったそうな。 
>毛利・小早川に最も近い村上水軍棟梁の、意外な素顔である。

                                           (三島海賊家軍日記)
0790人間七七四年2014/11/08(土) 19:49:03.14ID:KJkpXf/2
>>788-789を読んで改めて思った。
毛利家を実質仕切っていたのは
小早川隆景だったのだなと。
0791人間七七四年2014/11/08(土) 20:29:16.27ID:KJkpXf/2
>佐竹義宣が、伊達政宗、上杉景勝、島津忠恒らと共に徳川家家臣の屋敷での酒宴に参加した時のことである。
>義宣はこの時、普段から仲が悪かった政宗と景勝を和解させる為に

>「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」

>と何度も言い聞かせた。

>これに景勝は応じたが、政宗はといえば

>「俺も別に構わんぞ。だが、もし貴殿が幕府に背くような事あらば、俺が直ちに粉砕してやるわ!」

>と逆に景勝を挑発した。

>「・・・・・・てめぇ」

>善意を踏みにじられてしまった義宣は政宗のこの発言にブチギレてしまい、

>「上等だよ!だったら、もしお前が幕府に背いた時には、俺か景勝のいずれかか先陣になって
 >お前をぶっ潰してやんよ!」

>と応酬した。その後、政宗は自身の後継者である忠宗が忠恒に刀を贈った話をきっかけに

>「義宣の刀が見たい。」

>と言い出したが、義宣は

>「誰が見せるか。」

>と頑として応じなかった。

>「おいおい、お前は何をそこまで用心してんだよ?」

>と政宗に問われると

>「お前相手に、用心しない訳がないだろうが。」

>と返したという。仲介役がケンカの当事者になってしまったお話である。
>最後に、この三人の喧嘩をすぐ傍で見ていた忠恒の胸中は如何ばかりか・・・
0792人間七七四年2014/11/08(土) 20:30:30.27ID:KJkpXf/2

まさに「仲良く喧嘩しな」だなw
0793人間七七四年2014/11/08(土) 21:03:21.97ID:KJkpXf/2
>天正十五年(1587)肥後国人一揆勃発。
>三加和村田中城主、和仁親長は一揆側として反乱に加わったが、佐々成政の軍勢に攻められ落城。
>和仁親長は討ち死にする。

>この時、先に城より落ちていた和仁親長の夫人と娘、そして侍女たちは、和仁川の赤池淵のほとりにて
>田中場の落城を知り、前途に絶望しここにて自害すると決した。
>そして夫人は自分の娘、当時13歳であったという、を手にかけようとしたが、さすがにわが子を自らの手にかけることは
>忍びず、自分に付いてきた老僕に、この娘を淵に落として、溺死させるよう命じた。

>老僕はあまりのことに恐れ躊躇したが、夫人は何としてもと命じたため、致し方なく彼は、姫を岩の上から淵へと
>落とした。

>ところがこの姫は一端は沈んだものの、再び浮かび上がり岸へとたどり着いた。
>老僕は夫人に攻められ、再び姫を淵へと落とす。しかし姫は再び浮かび上がり、岩へとしがみついた。

>これを見て夫人は、自ら水の中に入り、姫の側へと行った。
>姫は泣き叫んだ

>「母上様!お許し下さい、どうかお許し下さい!」

>夫人は姫の頭を縦に持ち、そのまま水に沈めた
>「未練です。許してください。許してください。」

>姫は、水に沈んだ。

>これを見た侍女たちは、それぞれ着物の上から紐で足を縛り、次々に赤池淵に身を投げた。
>そして最期に夫人は、あの老僕に

>「そなたには今まで、一方ならぬ世話になりました。
>もし、生き延びることができたならどうか、私たちの菩提を、弔ってやってください。」

>そう言って、娘の沈んだ淵に身を投げた。
>その後、夫人の遺体は下流の菊池川の淵に流れ着いたという。


>それから、夏の夜になると、赤池淵に不意に楽の音する時があった。
>こんな時は、付近の人々は「和仁御前」のお帰りだとして、酒やお供えなどを、淵に投げ込んだのだという。
>そんな時は必ず、突然の雨が降ったのだそうだ。

>肥後に伝わる、和仁御前の伝承である。
0794人間七七四年2014/11/08(土) 21:06:14.31ID:KJkpXf/2
>>793の話を読んでの感想
痛ましい話だが、何で昔の女性の自害って入水が多いのだろう。
入水って相当苦しい自害方法のはずだが。
首吊りとかにしてやれなかったのだろうか。
0795人間七七四年2014/11/08(土) 21:53:11.92ID:KJkpXf/2
>文明15年、播磨に侵攻した山名政豊は、これを手中に収めたかと思われた。
>しかし同17年になると追い落とされていた赤松政則が復活し、蔭木城が陥落するなど山名方は次第に劣勢に立たされていった。

>そんな山名方を窮地に追い込んだのは吉川経基の活躍だった。
>「初代鬼吉川」「俎吉川」の異名を持つ稀代の猛将が、赤松方の援軍として参陣したのだ。
>赤松政則は、吉川家が梶原景時追討の功で得ていた播磨国福井荘、山名に脅かされていたこの荘園の代官職を戦費としてあてがうことでその援護を得ていたのである。

>文明19年正月、追い詰められた山名政豊は強く願った。
>「わしも援軍が欲しい!絶対に欲しい!」と。

>政豊はまず、甥である細川政元を通じて将軍家を動かそうと考え、家臣・垣屋越中守と村上左京亮を京に派遣した。
>垣屋・村上の両名は「山名・赤松の戦いを私闘と見なして介入しないという将軍家の方針を改めること」「山名方に援軍を出すこと」を細川家臣・安富ら3人に対し連日連夜、切々と訴え続けた。
>が、細川政元の赤松方への肩入れもあって、色よい返事が返ってくることはなかった。

>そこで二人は、公正なことで知られる政所執事・伊勢貞宗邸に赴いて、貞宗に訴えてることを考えた。
>自分たちの言い分が将軍の耳に達するよう、貞宗の使者と、その口添えを得ようというのだ。

>「垣屋らが到着する前に貞宗を説得せよ。山名に同調させてはならぬ。」
>細川政元は、安富らを伊勢邸に急行させた。
>安富らは「赤松家の忠節ぶり、誰がそのことを知らざるや」と説いて貞宗の心をつかみ、政元の期待に応えたのである。

>さて、垣屋・村上がやってきた。
>貞宗は安富らを先に部屋に招き入れ、垣屋らを門の外に待たせておいて、安富らと酒宴をはじめてしまった。
>山名家の二人がようやく召されたのは、その酒宴もたけなわとなった頃である。
>その場はもはや訴訟なんぞできる状態ではなく、二人は大酒宴に酔っ払ってただ帰るほかなかった。
(続く)
0796人間七七四年2014/11/08(土) 21:54:40.90ID:KJkpXf/2
>「むぅ、正攻法では無理か・・・。ならばわしの華麗な策略で援軍を出させてやろう!」

>その頃、備中に勢力を張る細川家の家臣・庄春資の甥の朋輩で、山名家にも近しい山田という男がいた。
>山名政豊は彼に目を付けると、あろうことか細川政元の使者に仕立て上げて庄春資の屋敷に下し、密かに
>「京兆(政元)は山名への合力のため、備中の庄の軍勢を播州へ呼び寄せることにした。」と言わせたのだ。
>すると庄春資は、一族の庄伊豆守に山名政豊救援を厳命し、その軍勢を播州へ進発させたのである。
>「してやったり!」ほくそ笑む政豊であった。

>とはいえ、策が策である。
>某SLGじゃあるまいし、まさかこんなのが成功するとは思えない。
>案の定、庄春資と一緒にいた、とある武将に計略を見抜かれてしまった。

>「政元様は山田という男を知らず、顔も見たことが無いはずだ!彼の軍勢呼び寄せの密談、信用するに足らぬのではないか?」
>疑念を抱いた彼は政元に仔細を尋ねてみたところ、
>「かようなこと夢にも知らぬことである!それに山田いう者はいったい誰であるのか!!」
>はたして、推量どおりの言葉が返ってきたのである。
>彼の建白を受けた庄春資は、播州に向かっていた軍勢を撤兵させた。
(蔭涼軒日録)

援兵を得られなかった山名勢はますます劣勢となっていった。
そして長享2年、山名政豊は夜陰に紛れて書写坂本城を脱出、赤松政則の追撃で多数の死者を出しながら、辛うじて但馬に撤退することになる。
かくして7年に及ぶ政豊の播磨攻めは完全な失敗に帰したのである。
0797人間七七四年2014/11/08(土) 21:59:24.29ID:KJkpXf/2
そしてのちに山名豊国が家臣に追い出され
吉川経家が鳥取城主として迎え入れられるわけか

秀吉の餓え殺しにあって切腹に追い込まれるのだが
0798人間七七四年2014/11/09(日) 01:41:21.66ID:log4L8wV
何がやりたいんだ? スレ潰し?
0799人間七七四年2014/11/09(日) 17:06:38.27ID:KZcbFah4
>「箕輪城落城後の悲劇」

>永禄9年、上野の堅城である箕輪城はついに武田信玄によりついに落城し、城主である長野業盛は父業正の遺言通り降伏することなく自害した。
>この業盛の妻、藤鶴姫は元は上杉家の出であり、わずかな家臣と共に越後へと逃れようとした。
>しかし敵の追っ手がやってきたため家臣たちはその相手をして、姫を先に逃がした。
>1人で峠を越えようとした藤鶴姫、しかし女性の身では峠を越えるのは大変であり、お堂のところで少しだけ体を休めた。
>すると今来た道の方から「おーい!」と呼ぶ声が。
>「もう追っ手がそこまで…。もはやこれまで…。」と彼女はお堂の中で自害した。
>しかしその声の主は追っ手からどうにか逃れてきた家臣だった。

>哀れ藤鶴姫、彼女が自害したお堂近くを汚すと今でも祟りがあり、鼻血が止まらなくなるという。

(藤鶴姫墓所説明文を元に)
0800人間七七四年2014/11/09(日) 17:11:38.70ID:KZcbFah4
↑の話、何とも痛ましいと同時に、
本当は自害する必要が無かったのにというやるせなさを感じた。
思い出したのが、昔何浪もしていた浪人生が大学入試を受けた後
「出来が悪かった、これじゃまた今年もダメだろうな」と絶望し
合否が発表される前に自殺してしまったという話。
0801人間七七四年2014/11/09(日) 17:13:37.61ID:KZcbFah4
>キリシタン大名として有名な高山右近は領民にもキリシタンになるよう布教を熱心に行い、
>それに伴って領内の神社仏閣を破壊して仏教徒に迫害を加えるようになった。
>領内にあった普門寺にも高山右近の軍勢がやってきて危機的状況におちいった。その時、
>寺の中に安置されていた毘沙門天像の憤怒の形相がさらに怒った顔に変貌し、強烈なオーラを放った。
>すると、右近の軍勢の陣中に魔風が吹き荒れ、おそれおののいた兵士たちは蜘蛛の子を散らすかのように
>逃げ去っていった。こうして、普門寺は破壊の危機をまぬがれたのである。
0802人間七七四年2014/11/09(日) 18:27:29.97ID:KZcbFah4
↑の話、欧州がアフリカや中南米を植民していった上で
キリスト教が大きな武器として使われていたというのがよくわかる。
幸い日本は植民地化はされなかったが、部分的にはこういうことが進行していたんだな。
大友宗麟も似たようなことやってたはずだし。

秀吉が怒って伴天連追放をしたのは当然だ
0803人間七七四年2014/11/09(日) 18:33:14.40ID:KZcbFah4
>讃岐国高松藩主 生駒讃岐守高俊の家臣に、山口彦十郎という侍があった。

>山口は長年忠勤を励んだにもかかわらず、俸禄の加増も全くなく、後から取り立てられたものが自分を追い越して
>立身していくのに我慢がならず、その事の不満を広言し、ついに出仕を止めてしまった。

>生駒高俊はこれに激怒し、山口を捕らえ斬首を命じ、のみならず彼の女房子供まで殺した。
>斬首の場において、山口は激しく怒り叫んだ

>「お上のなさりように不平を申し上げたのは、この身に覚えのある罪過である。だから処罰の受けるのも
>仕方のない事だ。だが何の罪もない妻子まで殺すとはどういうことか!?
>そのうえに、侍に切腹させず、斬首にするとはいかなる処遇か。この屈辱、耐え難い!」

>そして斬首役の横井二郎右衛門を睨みつけ

>「斬り損なうな、見事に斬れよ!我が怨念に力があるなら、近いうちにそのしるしを見るであろう!」

>これに横井

>「うむ!承知!」

>と、山口の首を落とす。その首は2,3間転がると斬られた面を下に立ち横井の方を向き、彼の目をきっと
>睨みつけてから、静かに目を閉じた。
(続く)
0804人間七七四年2014/11/09(日) 18:34:44.00ID:KZcbFah4
>斬首をした横井は、自宅に帰った途端狂乱した。
>寝ても覚めても、山口が血眼で睨みつけている姿が見え、彼は大声で叫びつつ刀を抜いて、そこらじゅうを
>斬って回った。家族の者が何とか取り押さえ、刀を取り上げたが、
>「彦十郎よ!殿のご命令で仕方がなかったのだ!許してくれ!許してくれ!」
>そう手を合わせ足掻き続け、7日目に死んだ。

>その後も山口彦十郎の亡霊は高松城下に現れ続けた。生前と同じ肩衣姿の山口に行き会い、
>身がわなわなと震えそのまま病みついて死んでしまったものが14,5人にも及んだ。
>このような怪異に生駒家中の者たちは恐れおののき、山口の菩提を弔い供養を行った。
>すると城下で山口の姿を見ることはなくなったが、それでも怪異のことは続き、長屋が突然鳴動したり、
>城中の大木が風も吹かないのに折れ倒れるなど、不思議なことが数多く起こった。

>そして生駒高俊にいつしか邪悪の心が起こり、藩政が乱れ、ついに改易されたのも、この山口彦十郎の
>怨念のためであると、人々は噂し合ったとのことである。

(平仮名本・因果物語)
0805人間七七四年2014/11/09(日) 18:44:01.97ID:OgAXZBu+
大友家は家臣団にキリスト教の反対派も多くて、重臣格の武将は入信しないって取り決めがあったけど、
耳川で主だった武将が戦死した後、徐々にキリシタンの武将が増えていったらしいな
0806人間七七四年2014/11/09(日) 19:18:35.01ID:KZcbFah4
>>805
そうなんだ。むしろ逆だと思ってた。
大友宗麟が耳川の合戦の前にキリスト教信仰の立場から神社仏閣を破壊させていて
それで耳川で負けたものだから
キリスト教に対する反発がより強まったのだと思ってた。
0807人間七七四年2014/11/09(日) 19:25:14.14ID:KZcbFah4
>>803-804のお話
幽霊の類は自分は信じないが、罪の意識がそういうものを
幽霊の存在を信じていた当時の人に見せて心を病ませ、死にまで至らせたのだと思う。
小早川秀秋もそうだね。罪の意識及び「日本一の裏切り者」のバッシングが
彼に大谷良嗣の幽霊を見せ、精神疾患になり若死にしたのだと思う。
0808人間七七四年2014/11/09(日) 19:29:30.03ID:KZcbFah4
ちなみに自分は小早川秀秋にはむしろ同情する。
東軍の親戚浅野長政からは「叔母上高台院様は東軍につけと仰せだ」ともちかけられ
西軍三成からは秀頼が成人するまで関白になっていいからと持ちかけられ
弱冠18歳(19歳だっけ?)の青年には重すぎる状況におかれ
もうパニックになってたんだろうと思うから。
0809人間七七四年2014/11/09(日) 20:31:20.82ID:KZcbFah4
>上野国の白岩山にある長谷寺は、坂東三十三ヶ所霊場の十五番札所で、「白岩観音」と呼ばれ親しまれていた。
>古くから信仰があり、源義家や新田義貞などの武将の信仰もあつかった。

>戦国の時代に入ってもそれは変わらず、天文元年(1532)に上杉憲政が伽藍を整えてからより発展した。

>しかしその後、戦国ちょっといい話・悪い話まとめにもある武田の先手、那和無理之助と箕輪の老将、安藤九郎左衛門の戦い(白岩の戦い)
>に巻き込まれ、その観音堂は焼失してしまった。
>そこで武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(1580)に観音堂を再建させた。




>時はめぐり、時代は昭和。

>浜川(現在の高崎市)に住む箕輪城主の長野氏の直系、52代目当主である長野正弘氏がまだ小学生の時、まちに待った遠足の行先が白岩観音であった。
>すると父親である弾正氏は、白岩観音が長野家を滅ぼした武田氏によって再建されたものであることを理由に、彼を遠足に参加させなかった。

>しかしそれは弾正氏の個人的考えではなく、浜川の長野氏一族は上記の理由により代々白岩観音への参拝を拒み続けてきたのだ。
>今でも彼らは白岩観音への参拝をしないという。

(「箕輪城と長野氏」などより)
0810人間七七四年2014/11/09(日) 20:35:28.65ID:KZcbFah4
↑の話、悪くとればいつまでも恨みを忘れない器の小さいということになるが、
自分はそういうの好きだな。
一族の伝統、しきたりを大切にするという
そういうのが無くなっていくのは寂しい
0811人間七七四年2014/11/09(日) 20:39:40.85ID:KZcbFah4
歴史が原因で会津若松と萩はいまだに感情的しこりがある人がいるようだが、
謝罪要求とか賠償請求とかそういうことにならない限り、
結構そういう話好きだな。
それだけ歴史が生き続けているというのを実感できて。

まあこれは自分が萩にも会津若松にも関係ない第三者だからいえる
無責任な考えかもしれんが
0812人間七七四年2014/11/09(日) 21:54:02.69ID:2gBG9vYI
>多聞院日記、天正13年(1585)7月5日記事より

>『今日の未の刻、大地震が起こった。どうやら火神が動いたようである。
>7月の地震は大兵乱の予兆だとされる。また、火神が動くのは中央に怪異が起こるとされ、
>天子が亡くなり臣下が滅び、天下人民の多くが死ぬ、とされる大物怪である。

>昔、木沢長政は信貴山に城を造り、久しく当国(大和)の闕所を知行していたが、
>天文11年(1542)3月17日、不意に滅んでしまった。
>その年は正月二十日巳の刻に大地震があった。

>それ以来、地震は度々あったがあれほどの大地震は無かったのに、今日の地震は
>あの時以来の、地上が滅びるかと思うほどの大地震であった。

>今、秀吉は天下に号令し、その権力は昔に聞いたこともないほどである。
>しかしそんな彼にも盛者必衰の時が至るのであろうか。沈思沈思。』


>巨大な被害をもたらした天正大地震(ちなみにこれで、あの帰雲城が山崩れにより埋没した)に際し、
>秀吉の政権の未来に暗雲を感じた、多聞院日記の記事である。
0813人間七七四年2014/11/09(日) 21:58:44.54ID:2gBG9vYI
↑のお話、秀吉に関しても(信長に対する)安国時恵瓊のような予言をした人がいたんだな。

しかしこの後秀吉のいた伏見城を直撃した大地震(謹慎中の清正が真っ先に駆けつけて許されたやつ)が
起ったかと思うと感慨深いものがある。
0814人間七七四年2014/11/09(日) 22:00:24.68ID:2gBG9vYI
>徳川家光が、食欲不振が高じてついに病に臥せったことがあった。
>この時幕閣たちは

>『誰か家光公の前で大食いをすれば、それに釣られて公も食がお進みになるのではないか?』

>と考えた。どうしてそう考えたのかわからないが、ともかく幕閣は大食いをする志願者を募った。

>これに応じた御番衆の一人は、「枝柿を100食べます!」と言った。
>御前に出して食べさせてみると、家光が見ているので畏まってしまい、柿を種ごと食べてしまった。
>家光も驚き、「種を取って食べるが良い」と言うとそれに従って種を取ったが、取った種をまた、
>実と一緒に食べてしまった。動顛していたのだろうか。ともかくそうやって柿を種ごと100個、
>食べつくした。

>次のものは「雉を一羽まるごと、焼き鳥にして食べます。」と言う。
>そこで雉の丸焼きを出すと、瞬く間に残らす食べた。
>家光はこの両名に褒美を下した。

>さて次に御坊主の一人が「私は砂糖を一斤(600グラム)食べます」と言ってきた。
>そこで砂糖一斤を出したが、この坊主は半分ほどで挫折してしまった。
>これには『いい加減な、出来もしないことをお上に申し上げた』とのことで、改易か遠島の処罰を受けた、
>という。

>家光の頃の、御前大食い試合の話である。
(異説まちまち)
0815人間七七四年2014/11/09(日) 22:37:34.58ID:2gBG9vYI
↑は家光の気まぐれ・意外な冷酷さも出ている話だな。
その程度で改易か遠島だなんて。

しかし食欲不振の人の前でそんな大食いしてみせたら
それこそ「それは余に対する嫌味か!」と処罰されてもおかしくないと思うのだが。
そうでなくてもかえって食べる気を無くすのが普通じゃないか?
0816人間七七四年2014/11/09(日) 22:39:55.31ID:2gBG9vYI
>北条氏政は1586年、三嶋大社への参拝の際に、同盟関係にあった徳川家康と面会の約束をした。
>黄瀬川を越えて、わざわざ北条領まで出向く形となった家康だったが、対面の際は氏政を上座に据えて

>「両家の領地の境にある城を破却して境界を無くそうと思います。また、そちらが東北地方に出陣する際には
 >私が先手を引き受けましょう。」

>と、北条方を喜ばせる事を述べた。宴席が始まると上機嫌になって深酔いした氏政は、家康の膝の上に寄り掛かって脇差を抜き取り、

>「若い頃から『東海一の弓取り』と呼ばれた家康殿の刀を取った。この氏政は大功を立てたぞ!」

>とはしゃいだという。しかし、そんな中氏政は家中の状況を観察されており、宴席の後家康は

>「北条の世も終わりだ。家臣の様子で察しが付く。」

>と述べたという。
0817人間七七四年2014/11/09(日) 22:45:51.65ID:2gBG9vYI
↑の話、家康の抜け目のなさが如何なく発揮されているな。
戦前にヤンキースが来日した時(沢村栄治が好投しベーブルースから三振を奪ったというあの伝説の試合があった時)
来るべき日本との戦争のために日本の街並みを観察していた選手もいたという話を思わせる。

それにしても飯にかける汁の量がわからず「この子の代で北条は終わりか」と氏康を嘆かせた件といい
氏政は主従ともダメだしされるなあw
0818人間七七四年2014/11/09(日) 23:40:49.67ID:2gBG9vYI
>戸次鑑連(立花道雪)の家臣はみな弓法の心得が深かったが、中でも
>四月一日(わたぬき)長蔵、佐藤十三郎、藤村小十郎がその上手とされた。
>ある時この三人がうち寄って、矢を当てた時のことについて語り合っていた。

>四月一日(わたぬき)長蔵が言うには、「私は26・7間(約50メートル)離れた鳩を、さし矢でもって
>『ひゃうふっ』と射殺したぞ!」

>次に佐藤十三郎が言うには「私は昨日、屋根にいた雀を、18間(約33メートル)離れた場所から
>ふくら矢をもって『ひゃうっは』と射殺したるぞ!」

>最期に藤村小十郎は「それがしも、桜馬場にて四寸角(の杭)を、18間離れた場所から剣先の鏃の矢でもって、
>矢七筋のうち六つを『ひし』と当てました。そのうち五つは角に当てましたぞ!」

>戸次鑑連はこの会話を物ごしに聞いていて、それぞれの矢音の表現がまるで違うことを面白く思い、広間に出ると、
>主君が出てきたことに三人はその座を下がって畏まった。
>鑑連は彼らにこんな話を始めた

>「お前たちが弓の上手であり、細密に命中させる技術を磨いていること、大変良いことである。今後もいよいよ
>稽古をして欲しい。ところで先ほどのお前たちの話の中で、矢音の表現が三人とも違っていたな。
>しかし、人の聞いている所でそのように間違った事を言っていては恥となる。平家物語などの表現を、
>きちんと使って言うべきである。お前たちは記憶力がよく一度聞いたことは忘れない者たちだ。
>このついでに習いなさい。
(続く)
0819人間七七四年2014/11/09(日) 23:42:08.16ID:2gBG9vYI
>矢音の事は、剣先の鏃の矢で物を射て命中したときは『ひゃうっは』と表現する。射抜いた場合も同様である。
>外れたときは『ひゃうする』という音を発したと言う。

>狩又の鏃の矢で物を射て当たった場合は『ひゃうふっ』という。射切った場合も同様である。
>外れた場合は『ひゃうすか』と言う。

>鏑矢にて物を射た時は『ひゃうふっ』と言う。外れた時は『ひすつと言わずして』と言う。

>矢頭にて当たった時は『ひゃうし』と射たと言い、外した時は『ひゃうすか』と言う。
>矢頭に挟み物をして射た時は『ひゃふはた』と射たと言う。外れた時は『ひすっ』と言う。

>四目の鏃にて物を射当てたのは『ひしと射て』と言う。外れは『ひすっと外して』と言う。

>匹目の鏃で物を射て当てた場合は『とき射て』と言う。笠懸の矢音、『へし』と射て、と言う。小的の矢音は
>『ふしと射て』と言う。三つ的も同様である。大的の矢音は『はたと射て』と言うのだ。

>この様な事も、専ら侍の知るべきことである。よくよく覚えておくように。」

>これに三人は、殿がこのように親しく座に来てお教えいただき、本当に忝い事だと大いに喜んだという。
(大友興廃記)

しかし矢音だけでこんなに種類があるのですね。こんなの覚えなきゃいけないというのも、
お侍も大変だw
0820人間七七四年2014/11/09(日) 23:47:35.05ID:2gBG9vYI
>>818-819を読んで思った。
音なんて人それぞれ同じ音を聞いても違うように聞こえるんだし、
必ず同じ音がするというものでもあるまい。
音を決めて暗記するのでなく、自分の耳で聞こえたように表現すればいいと思うのだが。
戸次鑑連が形式主義の人だったのかな。
それともそれが普通だったのかな。
0821人間七七四年2014/11/10(月) 01:17:32.26ID:cK8J3ggB
>天正13年(1585)3月、雑賀は羽柴秀吉の武威に屈したが、北雑賀は太田郷の郷民達は抵抗を続け、またそこに
>反秀吉の武士たちも集まり、羽柴軍の輜重部隊を襲うなどゲリラ活動を続けた。
>これに怒った秀吉は、彼らを滅ぼさんと決意したが、太田は要害の地であり、また郷民たちは弓鉄砲の術に
>長けているものが多く、自分たちの士卒が彼ら一揆によって損耗することを恐れた。
>そこで秀吉が考えたのは、彼のお得意、水攻めである。
>「水攻めで尽く溺死させるのだ!」

>秀吉は太田郷の家屋よりも五尺ほど高い堤防の建設を計画し、諸将に命じ、数万の人夫を所々より集め、
>太田郷を囲んで周囲十八町(約2キロ)、高さ6間(約10メートル)の堤防を築かせた。
>堤防は地際で18間(約20メートル)、天井の馬踏は5間(約8メートル)であったという。

>秀吉は毎日、この工事を巡検した。明石与四郎則實が担当した場所は工事の進捗が大変早く、そのことに感じいった
>秀吉は即座に、明石に1万石を加増した。
>一方近江は甲賀より集めた人夫が、工事規則に違反し大変怠惰だったのを見つけると、その人夫を使っていた
>主人だけでなく、主人の親族まで流刑とした。
>秀吉の賞罰はこのように尽く迅速なものだったので、人々はみな戦慄し、見な奮起して工事を進めた。

>この時増田長盛は秀吉の命を受けて、須磨・明石・兵庫・西宮・尼崎・界津などの船を集め、糧米を紀ノ湊へ運送し、
>毎日米千俵、大豆百俵を以って堤を築く人夫に与えた。
(続く)
0822人間七七四年2014/11/10(月) 01:18:55.32ID:cK8J3ggB
>さて、この堤防工事がほぼ終わろう、という時である。突然の豪雨に紀伊川が溢れ、建設中の堤防のうち
>150間ほどが流されてしまった。
>これでは水を貯めるどころではない。しかし秀吉はあきらめなかった。

>「前謀を改める時は、味方は術を失うに似たり」

>秀吉は再び号令を発した。津々浦々に船を遣わし、俵6・70万をかき集めた。
>それら尽くに土を詰め、堤防の流された場所に投げ入れる。これを何日も続けた結果、堤防はついに完成した。

>太田郷の家屋には浸り、また羽柴軍は盲船(船上の総矢倉の周囲を厚い盾板で囲った軍船)によって
>攻撃を仕掛けたため、大田郷はついに降伏を申し出た。
>秀吉は郷の棟梁50人を捕えて磔とし、残党は許した。
>しかし船によって太田郷から逃亡した郷士は、松木刑部、同雅楽助など3000人余りに及んだという。

>秀吉による、雑賀大田郷水攻めの逸話である。
(武徳編年集成)
0823人間七七四年2014/11/10(月) 01:27:37.72ID:cK8J3ggB
>>821-822は秀吉の集大成といった感じだな。
毎日堤防工事を巡検して、工事が早く進んでいた箇所の担当に即座に褒美を与えるところは
信長に仕え始めた頃に石垣修理を迅速に行ったことを思わせるし、
水攻めはもちろん備中高松城のそれ。
0824人間七七四年2014/11/10(月) 17:28:00.96ID:i4tWbX+A
>天正13年(1585)正月7日、越前大野城主であった金森長近は、羽柴秀吉に
>『飛騨の国、攻め取り次第に与える』
>との墨付きを得、越前より飛騨に攻めいった。

>ところが飛騨の国人たちはこの侵攻に対し同盟を結び強固に抵抗したため、長近は入国することが出来ず、
>二度にわたって合戦に打ち負ける有様であった。
>この時、とある長瀧寺社僧が

>『金森と 銘は打てども 爪切りの 断つに断たれぬ飛騨の細布』

>『金森は 袴のまち(両足を分ける部分)にさも似たり 腰が立たねばヒダも取られず』

>と詠んで、長近を嘲笑した。

>このような状況の中、美濃郡上郡の遠藤慶隆は、長近の嫡男可重の舅であった関係から、長近に対して、
>舎弟慶直、同胤元、胤安、その他家来多数を加勢の軍として出し、白川において合戦となった。
>しかしこの加勢の軍も、慶直家来鷲見弥五右衛門、遠藤彦次郎などが討ち死にし、一門の胤安も負傷し、
>飛騨勢の破竹の勢いに、金森はまたもや敗北したのである。
(濃北一覧)
0825人間七七四年2014/11/10(月) 17:30:35.58ID:i4tWbX+A
↑の話を読んで感じたこと。
飛騨なんて生産力も低く小国のイメージしかないが
険しい山がちの地形で攻めるのは難しかったんだな。
ある意味スケールの小さな蜀という感じがするよ。
0826人間七七四年2014/11/10(月) 17:32:50.85ID:i4tWbX+A
>天正12年(1584)、4月9日の長久手の戦いで、池田恒興、森長可らを討ち死にさせてしまった羽柴秀吉軍、
>その後家康・信雄連合軍との対峙が続いたが、四月晦日、秀吉は浅野長政を呼んでこう宣言した

>「明日、寅の刻(午前3時頃)より家康たちのいる小牧山城に対して決戦を仕掛ける!」

>これに秀吉軍の諸将は、翌日の総攻撃に向けて各自準備をしていたが、開けて5月1日、秀吉の発した
>命令は驚くべきものであった

>「堀久太郎は楽田に留まり、加藤光泰は犬山城を守れ!そして我々は、大垣城に撤退する!」

>前日とは全く逆の内容である。だが秀吉はかまわず撤退の部隊配置も尽く細かく指定し、出陣予定だった寅の刻、
>大垣に向かって出発した。

>秀吉らが宇留目の船橋にかかった頃、殿を任された細川忠興、木村重茲、神子田正治らは「もし敵が追尾してくれば、
>一戦して先日の無念を晴らそう!」と勇み、陣払いをしてその場を焼き払い、その煙の下から引き退いた。

>徳川軍は小牧山よりこれを見て、「追い打ちをしよう!」と勇み出陣しようとした。が、この時徳川家康はこの状況を見て

>「敵は大軍である。大軍の動きは推測しがたい。当然、我々を討つための仕掛けもあると考えるべきだ。
>一人もあの敵を追ってはならない!」

>と厳命した。しかしその命令より前に、斥候として出陣していた14,5騎がこの撤退する秀吉軍を追いかけ
>首10級ほども討ち取った。これに細川忠興の手より弓削将監、園部某などが取って返し猛烈な反撃を加え、
>この斥候の騎兵のうち二人が討ち取られて引き返した。これ以外に、撤退する秀吉軍に攻めかかろうとする
>敵はなかった。

>やがて秀吉が大垣に引き上げたことが確認されると、北畠殿(信雄)もその日小牧山から出て、伊勢河内に帰陣した。

>秀吉の、小牧長久手戦線からの撤退の模様である。
(続武家評林)
0827人間七七四年2014/11/10(月) 18:08:46.75ID:i4tWbX+A
↑の話。まさしく文字通り狐と狸の化かし合いだな。
信雄は蚊帳の外w
0828人間七七四年2014/11/10(月) 18:11:22.19ID:i4tWbX+A
>小田原の役の時の話。

>小田原城を目指すべく、碓氷峠を越えて上州入りした前田利家率いる北国衆は松井田城を攻めるとともに、
>一部の軍勢をその近くの支城に向けた。

>その1つである幽崖城(西牧城)に対しては、依田康国が攻撃を加えた。

>城主である武将多目周防守長定は奮戦するも多勢に無勢、とうとう城を捨てて落ち延びた。

>しかし追撃は激しく、長定は近くの山まで逃げるしかなかった。

>すると山頂付近に切り立った岩壁(地元では「メンバ岩」と呼ぶ)があり、そこからは藤つるが伸びている。

>長定と家来たちはこれ幸いと、この藤つるを伝って岩壁の上まで登ると、追手が来れないように藤つるを全て断ち切った。

>しかし翌朝目覚めてから彼らは気づいた。

>降りられない・・・。

>降りる手立てとなる藤つるは前日に全部切ってしまったのだ。

>あわれ長定主従、そこで覚悟を決め、小田原の方角を向いて自害したという。

>そんな物語があることから、この山は物語山と呼ばれてるのだそうな。

(下仁田町史)
0829人間七七四年2014/11/10(月) 18:13:46.85ID:i4tWbX+A
↑可哀想だけど笑ってしまった。
後先を考える余裕が無かったんだろうな
0830人間七七四年2014/11/10(月) 18:45:01.99ID:i4tWbX+A
>鬼の住まう国

>京を擁する山城国の隣に位置しながら、山がちな地形もありどうにも影の薄い丹波。
>戦国時代に至っても強力な戦国大名が登場せず、各地に割拠する国人達が
>好き勝手やっていた印象しかない方も多いのではないだろうか。
>しかし丹波にも誇るべき点がある。山岳地帯で鍛えられた屈強な兵たちの存在だ。

>そして、そんな丹波兵を率いる数多の国人領主の中でも
>特に勇猛だった4人の武将である赤井直正・荒木氏綱・波多野宗高・籾井教業。
>彼らはいつしか「鬼」の名を冠するようになり、それぞれ
>赤井直正は「赤鬼」
>荒木氏綱は「荒木鬼」
>波多野宗高は「丹波鬼」
>籾井教業は「青鬼」
>という異名を持っている。
>戦国時代、「鬼○○」とか「○○鬼」と称された武将は数多いが、
>一国から4人も輩出というのは余り例がない。
>しかもそういった渾名を残す武将の多くが統一政権を樹立した
>織田・豊臣に縁ある者達であることを鑑みると、
>後世大名になれなかった丹波国人からこんなにも「鬼」が出た事は
>凄まじいかもしれない。
(続く)
0831人間七七四年2014/11/10(月) 18:46:26.39ID:i4tWbX+A
>これらの「鬼」達は、細川・三好・織田といった中央政権にも容赦なく牙を剥いている。
>中でも「赤鬼」こと赤井直正は三好家の出世頭・内藤宗勝(ギリワンの弟)を敗死させたり
>信長配下の明智光秀を何度も撃退するなど、丹波に手を出す侵略者をことごとくぶちのめした。
>また、彼の配下には2名、「鬼」の名を取った兵士がいたという記録もある。
>「荒木鬼」は明智光秀に出仕を請われているし、
>「丹波鬼」の子孫からは明治期の司法大臣が出ている等
>他の「鬼」達のエピソードにも事欠かない。(まあ青鬼は後世の創作説が有力だけど…)

>東部に青鬼、中部に赤鬼・荒木鬼、西部には丹波鬼。
>そして彼らに仕える数多の「鬼」と呼ばれる兵士たち。
>このように丹波の武将がやたらと鬼呼ばわりされるのには理由があり、
>「山」というある種の異界に接する地域には
>異界からの来訪者である鬼の伝承が昔から多いという傾向があるらしい(学術的に)。

>そこかしこの地域を「鬼」が治める修羅の国…それが、権力者をも手こずらせた丹波国の真の姿である。
0832人間七七四年2014/11/10(月) 19:45:56.37ID:i4tWbX+A
>>830-831を読んで面白い事に気付いた。
酒呑童子の大江山も丹後だよね。
丹後は昔から鬼と深い関係がある国なんだろうな。
0833人間七七四年2014/11/10(月) 19:54:54.29ID:wHHvemrq
>>832
天の日矛以来では?
0834人間七七四年2014/11/10(月) 20:37:18.33ID:VtBFhyk6
>>833
ぐぐってみたら『日本書紀』に
崇神天皇の時代、“額に角を生やした人”が舟にのって流れ着いた
そしてその場所を角鹿と呼ぶようになり
それが敦賀になったという話が出てきた。
たしかにそれがルーツかもしれない。
興味深い意見ありがとう。
0835人間七七四年2014/11/10(月) 20:41:46.85ID:VtBFhyk6
>明応2年(1493)4月22日、右京兆・細川政元によるクーデター、いわゆる『明応の政変』が起こる。
>京では足利義材派の畠山政長、葉室光忠などの屋敷が次々と破壊された。

>さてその時、河内に出陣していた将軍足利義材の後室など、将軍家の女性たちは多くが、
>義材の姉が尼として入っている通玄寺に避難していたが、クーデター派はこの尼寺にすぎない
>通玄寺も襲撃に及んだ。

>と、ここで襲撃部隊は残忍な仕打ちをした。
>彼らはここに避難していた将軍後室、その女官たち、さらには義材姉をはじめとした寺の尼達まで
>衣服を全て剥ぎ取って京の町中に放り出した。

>赤裸にされたこの高貴な女性たちは、致し方なく、ある者は筵を身にまとい、ある者は経典を体に巻き付け、
>泣き叫びながらあちこちに逃げ惑い、路頭をさまよった。

>『北野社家日記』には「前代未聞の事件であり、筆にするのもはばかられる」と、
>この事件を憤りを持って記録している。

>明応の政変で高貴な女性たちに降りかかった悲劇についての記録である。
0836人間七七四年2014/11/10(月) 20:45:12.68ID:VtBFhyk6
↑の話を読んで、どの時代にも変態的残忍さを持った奴はいたんだな、と思った。
当時の高貴な女性にとって全裸で町中に放り出されるなんて
ある意味殺されるより辛いだろう。
おそらく自害した女性もいたに違いない。
08378332014/11/10(月) 21:07:30.37ID:AW2v22Tx
>>834
ちなみに丹後ではなく丹波ですね
ツッコミスマソ
0838人間七七四年2014/11/10(月) 21:25:19.94ID:VtBFhyk6
>>837
wiki情報だと丹後となっていますよ
尤も
>なお、酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この丹後の大江山であったという説のほかに、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、山陰道に面した大枝山(おおえやま)という説もある
とも書いてありますけど

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%B1%B1
0839人間七七四年2014/11/10(月) 21:27:49.30ID:VtBFhyk6
>毛利配下の備中高松城を羽柴秀吉率いる織田の軍勢に囲まれ、小早川隆景から救援を求められた吉川元春は、家臣たちが

>「隆景様は殿にばかり危険な戦いを任せ、自分は出ようともせぬ。この度の戦は隆景一人に任せればよいのだ。」

>と隆景に対する不満を述べた際、

>「もっともな言い分だが、隆景では秀吉には勝てぬし、兄弟である以上、毛利家の為に見捨てるわけにはいかない。
>皆が行かぬのであれば、自分一人で駆け付け、隆景と命運を共にするまでだ。」

>と弟をかばって諸将を説得して出陣した。ところが、この戦いの陣中では作戦を巡って隆景と意見が合わず、

>「秀吉は尼子とは違い、油断のならぬ相手です。兄上の様に勇ましさだけで勝てる相手ではありませんぞ。」

>と諌める隆景に対し、

>「武道の道を心得ていないのは隆景の方だ!」

>とやりあうこともあったという。
08408332014/11/10(月) 21:31:29.07ID:exiBGxea
>>838
>>830の鬼達の国が丹波って事です
0841人間七七四年2014/11/10(月) 21:32:23.45ID:VtBFhyk6
>>839の話
自分もここは元春が正しいと思う。
実際に戦場に出て戦うのは元春の領分では?

極端な話、元春=張良、隆景=蕭何の役割分担で上手くいくと思うから。
0842人間七七四年2014/11/10(月) 22:12:17.61ID:VtBFhyk6
>>840
ああ、自分誤読してました
ご指摘ありがとうございます
0843人間七七四年2014/11/10(月) 22:15:07.23ID:VtBFhyk6
>天正5年(1577)、松永久秀が信貴山城に滅びると、織田信長はこの信貴山攻めを行った
>佐久間信盛を呼び

>「これまでの功績と合わせ、播磨一国を与える」

>と伝えた。この頃佐久間信盛は、畿内を始め尾張、西三河などに多くの所領と配下与力を持ち、
>これにさらに播磨一国まで加われば、織田宗家に優に対抗できるほどの勢力となる。
>当時の佐久間信盛への信長の信頼がどれほどのものか、よく分かる話であろう。

>が、信盛はそれを断った

>「所領は要りません。それよりも…」

>信長所秘蔵の茶道具の一つ、古作の播知釜を望んだのだ。

>「それは…」

>と信長も躊躇したが、信盛の功績に鑑み、ついにこれを与えた。


>後、佐久間信盛はご存知のよう追放される。そしてこの播知釜は、信守の遺品として、息子信栄に伝えられた。
>信栄は高名な茶人と成ったが、この父の形見の播知釜で、よく茶を立てたとのことである。

>滝川一益が上野に変えて名器を望んだのは、この先例があったためかもしれません。
>佐久間信盛と「播知釜」のお話。
0844人間七七四年2014/11/10(月) 22:18:25.18ID:VtBFhyk6
>>843の話、信貴山と名茶器って呪いがついているのでは?あるいは
松永久秀の呪いで信盛はああいう悲惨な末路を迎えたのでは?と思ったのは
自分だけではあるまい。
0845人間七七四年2014/11/10(月) 23:05:25.84ID:xzh6ixkL
>「新宮党粛清」

>尼子氏はもともと出雲に土着していた国人ではなく近江京極氏の一族で、
>京極高秀の子高久が犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)を領して以来、尼子氏を名乗るようになった。

>明徳三年(1392)、高久の子・刑部少輔持久は出雲守護代に任じられて月山富田城(島根県安来市)に入り、ここに出雲尼子氏が起こる。

>その後持久の孫・経久が紆余曲折を経ながらも勢力を拡大し、尼子氏は山陰の一大勢力となっていった。

>さて、経久の二男国久とその子誠久・豊久・敬久らは、月山富田城の北麓新宮谷に居館を構えたことから新宮党と呼ばれていた、
>尼子氏の勢力拡大は彼ら新宮党の活躍に負うところが多く、特に軍事面では尼子氏の中核をなしていたと言っても過言ではない。

>ちなみに経久の嫡男政久が永正十五年(1518)に戦死していたため、経久は天文六年(1537)に孫の晴久に家督を譲っており、
>晴久の叔父である国久は大きな発言力を持っていた。

>しかし天文二十三年の今日十一月一日、晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、ことごとく殺害してしまった。
>その際、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となる。

>尼子氏の軍事的柱石であった新宮党が、なぜこのような形で粛清されたのか原因はいろいろ考えられるが、
>一説には毛利元就がいずれ対決する運命にある尼子氏の弱体化を図り、
>偽書を用いて新宮党に謀叛の企みありとの風説を流し、晴久を疑心暗鬼に陥れたと言われている。
(続く)
0846人間七七四年2014/11/10(月) 23:07:21.73ID:xzh6ixkL
>当時晴久と叔父国久の間には微妙な空気が流れており、元就はそれを上手く煽ったわけである。
>事実、新宮党には少々度を超えた言動もあったようで、加えて国政にも口出しをしてくる国久に対し、
>当主晴久が次第に面白いからぬ感情を抱くようになっていたのかもしれない。

>ともあれ新宮党はここに滅び、尼子氏の屋台骨は大きく傾いた。

>見事に計略を成功させた元就は翌年安芸厳島に陶晴賢を破って勢いに乗り、大内氏をも滅して後顧の憂いを絶つと、
>次なる侵略の矛先を石見へと向けた。

>尼子氏は晴久が永禄三年(1560)十二月に急死したため義久が跡を嗣ぐが、もはや往年の勢いはなくジリジリと毛利軍の侵略を許し、
>ついに同九年十一月に元就に降伏開城するという結末を迎えることになる。

>なお、尼子氏の重臣山中鹿介は主家再興を目指し、後に京都に隠棲していた勝久を当主として担ぎ出すことはよく知られているが、
>夢を果たすことなく播磨上月城で自刃した尼子勝久こそ、この事件の際にたった一人生き残った孫四郎その人である。
0847人間七七四年2014/11/10(月) 23:11:23.28ID:xzh6ixkL
>>845-846の話、自分は絶対毛利元就の謀略が有ったと思う。
つまり元就のちょっと悪い話。
彼ほど実際には梟雄でありながらそういうイメージ(斉藤道三とか松永久秀みたいな)を
持たれていない戦国武将はいないと思う。
08488332014/11/10(月) 23:20:14.04ID:hiyp+1Tf
>>842
丹波は海のない国ですから天の日矛も上陸したのは丹後かも知れませんね
0849人間七七四年2014/11/10(月) 23:51:47.13ID:xzh6ixkL
>>834にあるように敦賀じゃないんですかね
敦賀だったら丹後でも丹波でもなく若狭になりますね
0850人間七七四年2014/11/10(月) 23:54:44.88ID:xzh6ixkL
>服部小平太の墓?の悪い話

>静岡県浜松市細江町姫街道長坂付近に服部小平太の墓がある。
>服部小平太といえば桶狭間の戦いで毛利新介と共に今川義元を討ち取った彼である。
>後に徳川に仕えた小平太は勲功として刑部城周辺の地を治めることになったのだが、天正十五年(一五八七)六月十八日に小平太は神ヶ谷の陣から馬で見回りをしていたところを何者かに殺されたという。
>このあたりは今川恩顧の者が少なくなかったことから服部小平太を恨んでいた人物が殺したのでは?と地元では言われているらしい。
>以上が桶狭間で戦功を上げた服部小平太が何者かに殺されたという悪い話…

>だが待って欲しい。服部小平太は秀次事件に連座し上杉景勝に預けられた後に切腹を言い渡され亡くなっているはずでは?

>どうやらここで殺された服部小平太と言われてる人物は服部中保次という服部小平太こと服部一忠とは別人の人物らしいのだ。
>「寛政重修諸家譜」の服部中保次の説明で桶狭間で義元の本陣に対し戦功を上げたと書かれていたため服部一忠と混合されたと考えられている。
>以上が服部小平太の墓と伝えられていたものが実は別人の墓だったという悪い話である。
0851人間七七四年2014/11/10(月) 23:57:31.24ID:xzh6ixkL
>>850の話を読んで驚いた、というより自分の無知さを恥じた。
服部小平太なんて桶狭間で名前が出てくるだけの人だと思っていたが
その後領主に出世しいたとは
0852人間七七四年2014/11/11(火) 00:28:51.59ID:QFiOmZnr
>竜造寺本家の当主である胤栄が病死した際、竜造寺から攻められ筑後に亡命していた
>少弐冬尚が、復権の好機とみて肥前に侵入してきた。これを受け、家中の話し合いにより胤栄の跡を
>継いでいた竜造寺隆信は、重臣を集め

>「我が代で国が乱れるのは許せぬ。すぐに出兵しよう。そして少弐家を討ったら東を得よう。次に有馬家を
>討てば西は治まる。それが成功したら、今度は隣国に出陣し菊池家や島津家をも従えて、中国、四国にも乗り出すのだ。」

>と宣言した。所が家臣から

>「まだ国内も治まっていないのに、諸方へ手を出しても敗れるだけです。」

>と諌められ、隆信もこの意見に激怒して軍議の場から退出してしまった。この一件で、重臣からは

>「あれでは国を治めることは出来ない。」

>と嘆かれてしまったという。しかもこの後、かねてより隆信の本家相続を快く思っていなかった土橋栄益に
>謀反を起こされてしまったという。 夢を語るには早すぎた隆信の悪い話。
0853人間七七四年2014/11/11(火) 00:32:49.01ID:QFiOmZnr
>>852の話、龍造寺隆信大風呂敷広げすぎ、取らぬ狸の皮算用しすぎ、おまけに唯我独尊。
のちに太りすぎで馬にも乗れず、家来にも見捨てられ泥田の中を転げまわっているところを
討ち取られてしまったというだけのことはある
0854人間七七四年2014/11/11(火) 00:35:37.71ID:QFiOmZnr
同じ戦場で討ち取られたにしても今川義元は
服部小平太の足を斬り毛利新介の指を食いちぎって抵抗し、
公家化した軟弱な武将のイメージを多少なりとも払拭したのに。
0855人間七七四年2014/11/11(火) 01:22:14.94ID:QFiOmZnr
>石見銀山の支配権を巡り、毛利氏と尼子氏が激しく争っていた永禄2年(1559)2月、毛利元就は次男・吉川元春に、
>尼子に味方する小笠原長雄の居城・温湯城の攻略を命じた。

>しかし、信濃守護家の流れを汲むという長雄の篭る要害は、元春の猛攻をも弾き返し、長男隆元・三男隆景そして
>元就自身までもが温湯に出陣、毛利家総出で攻城に当たる事態に陥った。

>「父上、申し訳ございませぬ・・・!」
>「よい、元春。このまま、お前も攻め手に加われ。かくなる上は土竜攻めじゃ。金掘り衆をもって山腹を掘り進め、
>城の本丸まで抜け穴を作り、一気に内側より奇襲をかけよ!」

>元就号令のもと、石見銀山の鉱夫が集められ、連日に渡り坑道が掘り進められた、ある日のこと。

>「おい、こっちに空洞があるぞ!」
>「本当か!?よし、好都合じゃ。そっちを掘れ、掘れ!!」
(続く)
0856人間七七四年2014/11/11(火) 01:24:16.03ID:QFiOmZnr
>工事がはかどる、とばかりに喜んだ鉱夫たちが空洞を掘り広げたその先には、

>人がいた。

>なんと城方でも同じ事を企て、坑道を掘っていたのだ。
>「や、やぁ」「お、おぅ」予期せぬトンネル開通を祝い、感動のうちに両者は固い握手を交わし、
>・・・となるハズもなく、文字通り日の当たらぬ場所で泥仕合が始まった。

>結局毛利軍は城方に撃退され、土竜攻めに失敗。あきらめた元就は普通に兵糧攻めを行うことを決意、
>半年近く経った7月下旬、城主・長雄の降伏により、毛利氏が1万2千余の軍勢を動員した城攻めは
>ごく平凡な結末を見たという、珍しく元就の策が見事な空振りに終わった話。(毛利元就記より)


>この土竜攻めの際、毛利軍は5ヶ所を基点に坑道を掘り進めたが、そのうち3ヶ所で城方との遭遇戦が
>発生したそうな。どんだけ穴掘ったんだ。
>というわけで邑智郡川本町にお住まいの方、謀神の遺産による突然の落盤にご注意ください。
0857人間七七四年2014/11/11(火) 01:28:23.03ID:QFiOmZnr
>>855-856の話を読んで笑った。まるで漫画。
でもよくよく考えると城内から坑道を掘ってどうするつもりだったんだ。
敵陣の背後に出て奇襲を仕掛ける?

武田の専売特許と思っていた坑道を掘っての城攻めは実は色々なところで使われていたんだな
0858人間七七四年2014/11/11(火) 02:04:09.50ID:QFiOmZnr
>『天正6年(1578)10月、荒木摂津守(村重)反逆のこと、方々より注進があった。
>信長はこれを聞き及び、
>『これはきっと、村重が何者かに騙されているのだ。そうであれば宥めることが出来るはずだ!』
>そう考え、松井友閑、惟任(明智光秀)、万見仙千代を10月下旬に遣わした。

>村重は家老に対し、彼らと対面し、近いうちに信長のもとに出仕すると言うつもりだ、と伝えた。
>しかしこれを聞いた家老は、すかさず諫言に及んだ

>「この度の事は、もはやその科を逃れることは出来ません!このまま出仕を止められるべきです!」

>村重も内々にそう考えていたので、家老の意見に同調し、使いの三人に対面すると、そう言い切って、
>信長への敵対の姿勢をはっきりと打ち出した。
(続く)
0859人間七七四年2014/11/11(火) 02:06:14.65ID:QFiOmZnr
>そもそも荒木村重は、信長の厚恩により出頭した者であって、特に摂津一国を与えられ、反逆など
>有り様はずもなかったのだが、彼に対して、信長の寵愛する小姓、長谷川藤五郎(秀一)がしきりに慮外を企てた。

>ある時のこと、信長が三河岡崎城を訪問した時、それに従っていた荒木村重が門の所立っていたところ、
>長谷川は2階から、村重に向かって尿をしかけた。

>これに気がついた人が、村重にそのことを伝えたが、村重は「苦しからず」と言ってその場を立ち去ろうとしなかった。

>こんな事があったために、謀反に及んだのだ、と言われている。』

>つまり、当時信長の寵童であった長谷川の嫌がらせに当初は耐えたものの、これが原因で、そんな長谷川を
>重用している信長に対し逆心を抱いたのだ、ということである。

>『当代記』より、荒木村重謀反の理由についての記載である。
0860人間七七四年2014/11/11(火) 02:12:13.12ID:QFiOmZnr
>>858-859の話、意外だった。
荒木村重はいわゆる「信長コワイ病」に感染して謀反を起こしたと思っていた。

もし彼がここで長谷川を斬り捨てたら若き日の前田利家
(信長お気に入りの茶坊主を斬り捨て、しばらく出仕停止処分を受けた)
程度の処分では済まされなかったのかな
0861人間七七四年2014/11/11(火) 18:39:14.40ID:JB8j+tHT
>天文15年(1546)10月のこと、京の内裏に、数千人の土一揆が、天皇に直訴するために押し寄せた事があった!
>噂ではこれは、幕府の奉公衆や奉行衆のうち、一揆の相談を受けた2,3人のものが、そうしろろ支持したのだ、
>とも言われた。

>ともかくも一揆側の直訴内容はこうだ

>『幕府が徳政令発布を認めないので、我々は迷惑をしております。どうか朝廷から幕府へ、徳政令を行うように
>仰っていただきたい。』

>この突然の直訴に慌てた朝廷では、後奈良天皇の御前で緊急会議が行われた。
>天皇は内裏に土一揆が乱入することを心配し、「幕府に徳政令を促そうと思うが、どうか?」と発言。
>これに勧修寺尹豊などは賛同の意を表した。

>しかしこの時、広橋兼秀らが猛然とこれに反対した。
>兼秀はいう

>「これは間違いなく、後代に悪しき先例を残します!また世上の嘲りをご推察してください!
>たとえ一揆が乱入しても、我々が力づくで追い払います!」

>このような意見に結局後奈良帝も、直訴を受け入れないことに決定した。
>そこで、この時朝廷は、直訴を受けない理由を、土一揆にどう説明したか?その内容はなんと

>『正当な訴訟なら白昼に持って来るべきなのに、このように「夜中の強訴」をするとは狼藉千万である。
>よって聞き入れるわけにはいかない。』

>そもそも内容以前に手続きルール違反だからダメだわ。ということである。これに土一揆は…

>『それは尤もである』

>と、納得し、帰っていったそうである。


>幕府に対してすら傲慢なのに、変なところで素直な土一揆であった。
(兼秀公記)
0862人間七七四年2014/11/11(火) 18:42:26.74ID:JB8j+tHT
↑の話、朝廷と土一揆のやりとりが
お役所的で笑った。
さすがの土一揆も朝廷には敬意を持っていたのかな
0863人間七七四年2014/11/11(火) 18:44:49.72ID:JB8j+tHT
 >徳川二代将軍の秀忠は江戸の鉄砲町で刀鍛冶をしている繁慶という男の腕が良いという評判を聞き、
>彼の作刀を取り寄せた。その出来があまりにも見事なので秀忠は本阿弥家の者に見せてみた。
>本阿弥光悦を輩出した本阿弥家は戦国から江戸時代にかけて刀剣鑑定の家業で有名な一族である。
>その本阿弥家の男は刀を一見してすぐさま「これは相州正宗のものでございます」と言った。
>正宗は鎌倉時代に活躍した刀工の名前である。
>「外れたわ。これは繁慶という男が最近作った刀だ」と言って秀忠は笑った。本阿弥は驚いて
>刀に彫られた銘を確かめると、「恥ずかしいことです。しかしながら、今の世にこれほどの刀を打つ者が
>いようとは思いませんでしたな」と絶賛した。当の本人の繁慶はこの話を聞いても喜ばず、
>「俺の刀が正宗ごときの凡工の作と間違えられるとは」と不機嫌になった。

>明治時代になり、大久保一翁という男が繁慶の刀を本阿弥長識に見せると
>これもまた、見ただけでこの刀は正宗だと自信たっぷりに答えた。一翁に間違いを指摘されると
>本阿弥長識は「正宗を模造して作ったのだから繁慶正宗と称するべきです」と開き直った。

>刀剣鑑定のプロの一族が鑑定ミスを繰り返してしまったちょっとかっこ悪い話
0864人間七七四年2014/11/11(火) 19:19:53.52ID:JB8j+tHT
↑素直に間違いを認めた先祖に比べて子孫は往生際が悪いな
0865人間七七四年2014/11/11(火) 19:22:41.82ID:JB8j+tHT
>荒木村重の織田信長への謀反が起こる。
>その謀反に味方したものの中に高野聖があり、それが高野山に逃げ込んだ。
>信長はその者たちを差し出せと使者を送ったが、高野山では僧徒がこの使者の態度に怒り、これを殺してしまった。
>この事態に延長は激怒、『諸国の高野聖を捕えて殺せ!』との命令を発した。

>そこで伊勢でも数百人の高野聖やその関係者が捕らえられ、松ヶ島で処刑される事となった。
>この処刑を、織田信雄・信孝兄弟が検分した。

>処刑は次々と行われ、最後に15歳くらいの少年が引き出された。
>この少年が顔を上げる。…と、

>「…!!まて!その処刑、待て!!」

>織田信雄が突然これを止めた。少年はその容貌、非常に美しく、信雄は彼を見初めてしまったのだ。

>「この者は、私の名において助命いたす!」

>信雄はそう宣言し、少年の身柄を引き取った。

>この様子を見ていた織田信孝は、白子杢右衛門尉というものを呼び出すと、いきなり呟いた

>「尻ゆえにこそ命たすかれ」

>これに白子はすぐさま

>「蜘蛛(ささがに)の 糸あはれにも引き出して」

>と、上の句を付けたという。信雄への強い皮肉である。
>信雄はこの少年に「道也」と名をつけ寵愛し、彼は信雄のもとで大いに「出頭」したという。

>この軍記を書いた作者は、当時の世相をこの様に書いている
>『今、諸家では男色に溺れ、佞者を愛し、そういう者に大きな知行を与えて国を乱すものが多数いる。』

>傾国の美女ならぬ、傾国の美少年が数多いた時代の記録である
(勢州戦記)
0866人間七七四年2014/11/11(火) 19:26:35.56ID:JB8j+tHT
↑の話
傾国の美少年が当時珍しくなかったことは知っていたが
驚いたのは「尻ゆえにこそ命たすかれ」という文句
当時から男色のことを「尻」と表現していたのは知らなかった。
この板に武田信玄のことを「尻大名」としているタイトルのスレがあるが
まんざらふざけたスレタイでもないのか。
0867人間七七四年2014/11/11(火) 20:11:13.31ID:JB8j+tHT
>かつて応永の乱の主役たる大内義弘が築いた山口の築山館。
>その庭園には「月見の松」なる名木があり、
>その月影に映える枝ぶりは代々の当主の心を大いに和ませるものであった。

>さて、天文十五年。大内義隆公の御世のことである。
>この築山館にて松の枝に掛かる秋月を肴に義隆公が月見の宴を開いていたところ、
>館の塀の上に怪しげな影の一つ、蠢くものがあった。
>義隆公は大いに怪しみ、急ぎ宿直の者を呼びつけてこれを撃つように命じる。
>命ぜられた武士、松原隆則は弓矢を取り出してひょうと射放つと、矢は狙いあまたず影を射抜き、
>射抜かれた影はどうと庭へと崩れ落ちた。
>この時射殺された影を改めて見ると、それはまごう事なき天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、
>これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したという。

>だが、常日頃になき妖怪の出没は、周防の人々によからぬ事が起きる予兆を強く感じさせた。
>そして果たして五年後の天文二十年、陶晴賢の謀叛により大内義隆公は太寧寺に自刃に追い込まれ、
>件の松原隆則も主君を守って遭えなく討ち死にを遂げてしまうのである。

>大内家の衰運が妖怪を呼び込んだか、
>はたまた妖怪の呪詛が大内家を衰亡に導いたか、
>どっちにしてもいい話じゃなさそうなお話
0868人間七七四年2014/11/11(火) 20:13:24.17ID:JB8j+tHT
↑みたいな妖怪、時代は違うが源頼政の鵺退治とか
実話じゃないだろうけど、当時の人々にとっては「実話」だったんだろうな
0869人間七七四年2014/11/11(火) 20:44:09.99ID:JB8j+tHT
>織田信長を語る上で、外せないのが桶狭間合戦。
>合戦前後を含めたエピソードは真偽不明のものまで混在して事かかないが、その中の一つ。

>敦盛舞って湯漬け食って飛び出した信長は、熱田神宮に参拝しつつ味方を待つ。
>が、相手は大軍で兵士達の意気は上がらない。
>そこで信長、十数枚の銭を取り出して、
>「天意をうかがおう。ばらまいて表の面が多く出れば勝ちだ」
>と、放り投げた。
>皆が注視する中、音を立てて落ちた銭は……なんと、一枚残らず表!
>これを見た織田兵は勇気百倍、勇んで戦いに望んだという――
>……実はこの銭、両面を打ち付けて全部表が出るように細工したもの。
>味方を奮い立たせる信長の、知恵であった。

>が。
>実はこの話、中国・宋代の名将・狄青の逸話とそっくり。
>信長公記のような信憑性ある史料には欠片も乗っていないことから、中国の故事を下敷きにした創作なのはまず確実。
>信長が故智に倣った可能性はまぁゼロではないだろうが……。
>銭絡みだけにマネーしたのか、というオチの悪い話w
0870人間七七四年2014/11/11(火) 20:47:49.51ID:JB8j+tHT
↑の話みたいに、戦国の逸話には中国の古典からの流用が結構あるんだろうな
毛利元就の三本の矢の教えもそうだし
三方ヶ原で負けた後家康が城門を開けっ放しにしたため
何か策があると警戒した武田が引き返したというのは
三国志の空城の計の流用と思う
0871人間七七四年2014/11/11(火) 21:59:56.15ID:nvNa7Brn
> 天正三年のことである。
> 阿波を実質的に支配する三好長治は父義賢に似ても似つかぬ暗愚の君主であり、若年にして政務を蔑ろにし、
>酒色に耽る生活を送っていた。
> 己に諫言するものに対しては極めて暴慢であり、この前年には重臣篠原長房父子をその一族篠原自遁の讒言を容れて
>上桜城に攻め滅ぼし、この三年にはやはり諫言を行った讃岐の香川、香西両氏を憎み、その上司である実弟十河存保を
>無視する形で兵を遣わして攻めさせている。

> そんな不安定化の進む情勢を理解していたのかいなかったのか、長治には長らく抱く一つの夢があった。
> それは三好氏の支配する領国全ての家臣、民草に、三好氏代々が信仰する法華宗への改宗させると言うものだ。
> 当時の阿波は真言宗の強い土地で、主に畿内に勢力を持つ法華宗はほとんど信仰されていなかった。長治の父義賢はその晩年、
>法華宗への帰依を深めて堺に妙国寺を建立したりもしている。法華宗の勢力を強めることは、親孝行になると思ったのかもしれない。
> ……父やその兄弟が健在の時代の宗教政策は全宗教保護路線だったのだが気にしちゃいねえあたりが暗愚の暗愚たる所以だろう。

>「阿波一国の衆、生まれ子まで日蓮宗になし、法華経をいただかせ、他宗の寺にでいりのことゆるされず」(三好別記)
(続く)
0872人間七七四年2014/11/11(火) 22:01:59.76ID:nvNa7Brn
>かくしてこの年、阿波国中の寺院、領民に対して法華宗への改宗が三好長治の命によって発布された。
> ……えっ、淡路と讃岐? 諫言を蔑ろにされてる存保とか安宅信康がそれを呑むと思う?
> ともあれこの命令は軍事力に裏打ちされた強制力を持つもので、特に勢力の強い真言宗が狙い撃ちにされた。
> 多くの檀家が強制改宗に追い込まれ、人の出入りを禁じられた真言宗諸寺はたちまち消滅の危機に晒されたのだと言う。
> 無論、真言宗ほか他宗派は猛反発。大滝山の持明院、大滝寺などは即座に長治に法華宗との宗論を要求、山伏三千人を繰り出し
>強訴に及んだ。容れられなければ一戦も辞さない構えである。
> 流石の長治もこれを無視することは出来ず、宗論の要求を受け入れた上で妙国寺の開基、日bや経王寺の僧侶らを数多阿波へと招く。
> 一方で要求が認められた真言宗側も高野山から円正を招き、いざ両勢力は勝瑞で宗論に挑む!

> ……さて、その肝心の勝敗たるや、これがわからないのが実情である。
> 軍記物である『三好別記』等ではこれを真言宗の勝利とする。
> 一方で当時の文献で唯一勝瑞宗論に触れた文献である『己行記』によれば、法華宗の勝利とする。
> ただし『己行記』は宗論の当事者である日bの著作によるものであるため、客観的な記述とは言いがたい。
> ちなみにこの日b、後に安土宗論で浄土宗に負けちゃう人だったりもする。

> この後、長治の支配が民心の離反から急速に崩壊し、天正五年には細川真之に滅ぼされる事を思えば法華宗が勝ったのかも知れない。
> この後、法華宗の阿波進出がさして進まずなお真言宗が強勢であったことを思えば、真言宗が勝ったのかも知れない。

> いずれにしてもこの勝瑞宗論、法華騒動の発生を見れば長治が改宗への他宗の強い抵抗を予想できていなかったのだろう。

> 備前松田氏といい土気酒井氏といい法華宗はこの手の話が多い気がする。
0873人間七七四年2014/11/11(火) 22:04:59.21ID:nvNa7Brn
>>871-872の話を読んで思ったこと
暗君の宗教狂いは始末に悪い
0874人間七七四年2014/11/11(火) 22:43:27.26ID:nvNa7Brn
>天正13年7月2日、大阪の羽柴秀吉より伊達政宗の家臣遠藤山城守(基信)にあてた書状より、
>本能寺前後の記述を見てみよう。

>『(前略)

>一・先年明智が謀反を企て、夜討ちによって、今日の信長御親子は御腹を召された。
  >不慮のことであり是非もない次第であった。

  >その頃私は西国で戦働きをしており、備中において次々と城を攻め崩し、高松の城を取り巻いていたが、
  >三方に沼を抱えたこの城は、力攻めでは落とせないとこの秀吉は見てとり、水攻めにすべきと考え
  >堤を築き、備中の川は申すに及ばず、備前の川まで流れを変えさせ水を流し、このため高松城は
  >大変困難な状況になった。

  >ここで後ろ巻き(高松城の救援軍)として毛利輝元、小早川隆景、吉川元春が5万ほどの軍勢で
  >罷りでて来たが、我々と四・五町(約500メートル)ほどの間隔を開けて対陣したものの、城の救援は
  >極めて難しく、城に近づくことも出来ず、城内の困難さはさらに増して行った。

  >この時(6月)4日の巳の刻(午前10時頃)、京都において信長が御腹を召したという注進があった。

  >私は6日には高松の城を攻めこれを落城させ、城主は勿論、城内の者たちの首をことごとく刎ねた。
  >そして翌7日には毛利・小早川の陣に総攻撃を仕掛けここで討ち果てる覚悟をしていたところ、
  >毛利の方から色々と和平を求めてきて、毛利の分国のうち五ヶ国、その上人質も出すと言ってきたので
  >仕方なくこれを許してやり、これによって9日には播州姫路まで帰ったのだ。

>一・10日に人馬を途切れること無く上方に上らせ、13日に山城国山崎表において一戦し敵を切り崩し、
  >明智日向守(光秀)は「言うに及ばず、その他五千ばかりを討ち取った。
  >その上で織田家領国の不届き者はことごとく成敗するよう申し付け、御分国の混乱を納めた。

>一・そして知行割をし、信長の御子達には勿論、宿老たちに至るまでこれを分け与えた。
  >ところが播州姫路にあるこの秀吉が、五畿内の事について意見を申し上げた所、三七殿(織田信孝)、
  >柴田修理(勝家)が謀反を企てた。
  >私はなんとか平和裏に収めようとしたが、ついにこの秀吉も我慢の限界に達し、近江と越前の境である
  >柳瀬に置いて合戦することになったのである。

>(後略)』
(斎藤報恩博物館所蔵文書)
0875人間七七四年2014/11/11(火) 22:47:57.32ID:nvNa7Brn
↑の書状、自分に都合のいいようにばかり解釈しているのはまだしも、
明らかな嘘も書いているな。
高松城内の者たちの首をことごとく刎ねたなんてw

なんのためにこんな嘘を書いたんだ?
0876人間七七四年2014/11/11(火) 22:50:39.60ID:nvNa7Brn
>四国八十八カ所、第七十番本山寺。
>弘法大師が平城天皇の勅願により大同2年(807年)、一夜にして建立したと伝わる。
>本尊は馬頭観音、脇仏は薬師如来と阿弥陀如来。
>この寺に、讃岐が長宗我部に蹂躙されていた頃の言い伝えがある。

>長宗我部元親が土佐を掌握し、四国平定へ本格的に乗り出した頃のことである。
>讃岐本山の本山寺は、二十余りの妨を持つほどの隆盛を極めていた。
>そのため讃岐に攻め入った元親は、この寺を本陣にしようと軍を率いて境内に押し入ろうとした。
>当時の住職はこれに怒り、「境内には一歩も入れさせぬ」と門前に立ちはだかり、
>軍勢を押しとどめようとしたが、哀れ斬り捨てられてしまった。
>そのとき内陣厨子の扉が開き、阿弥陀如来の右肘から血が溢れ流れたので、
>長宗我部の兵たちは驚き恐れ、一目散に退散したのだという。
>この如来像は以来「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、現在も右手にその傷が残っているという。
>一説には、本堂で斬られかけた住職の身代わりとなってこの如来像が斬られたので、
>恐れた長宗我部軍が驚き逃げたのだとも伝わる。

>またこの時、腹いせに長宗我部の軍勢が寺に火をかけようとしたのだが、
>にわかに蜂の大群が押し寄せてきて、軍勢は一目散に逃げ去ったので
>他の寺が多く長宗我部の軍勢によって焼かれたにもかかわらず、本山寺は無事であったのだという。

>この後秀吉によって土佐一国に押し込められ、九州攻めで嫡子を失い、
>また関ヶ原にて西軍に与したために改易をくらうなど凋落の一途を辿った長宗我部を、
>阿波・讃岐・伊予の者達や焼かれた数多の寺社関係者などは
>「神仏を蔑ろにした当然の報いである」と噂したそうな。

>ヒャッハーしようと思ったら仏罰をくらってしまった、長宗我部元親の悪い話。
0877人間七七四年2014/11/11(火) 23:42:30.21ID:nvNa7Brn
↑の話、まるで東大寺大仏殿を焼き討ちにしたため仏罰で平清盛が
酷い熱病にかかって死んだというエピソードみたい。
因果関係づけたくなるんだろうね。
でも、「信長の悲惨な死は延暦寺を焼き討ちにした仏罰だ」とかは
ほとんど言われないのは何故だろう。
0878人間七七四年2014/11/11(火) 23:46:04.28ID:nvNa7Brn
>細川忠興が豊前四十万石を治めていた時のこと。早朝、豊前小倉城を訪れる老人があった。

>「はい、ごめんなさいよ。忠興殿は居るかな?」
>「なんだ爺さん、ウチの殿様になれなれしい・・・・・・げぇっ!黒田のご隠居!!」

>「いかにも。忠興殿に、『如水が来た』と取り次いでもらえんかね。」

>天下にその知謀を知られた大物の、突然の来訪に細川家中は肝を潰し、城中は大騒ぎになった。
>直接もてなす立場であり、数寄者として自他ともに認める忠興は、なおさらである。

>「こんな朝早くのお越しだ、朝飯も食っておるまい。そのつもりで、手を尽くして料理いたせ。ぬかるなよ!」
>「ははっ!!」


>「お待たせしました、如水殿。して、本日の御用向きは?」
>「なぁに、用とは他でもない。お前さん、ウチの息子と絶交しておいでじゃな?」
>「・・・ええ、まぁ。」
>「何とか仲直りして、前のように付き合ってもらえんかの〜?」

>「いかに如水殿の仰せでも、そればかりは聞けませぬな。」
>「むぅ。では、お前さん方の子の代には仲良くやってもらう、というのはどうかな?」
>「うーん・・・いや、我らが死んだ後の子孫の事まで、約束は成りませぬ。」

>「ならぬか、ならぬか!じゃあ帰るわ、邪魔したね。」
>そう言い捨てた如水は、せっかくの料理にも手を付けず、さっさと帰ってしまったそうな。
(旦夕覚書)
0879人間七七四年2014/11/11(火) 23:47:54.23ID:nvNa7Brn
↑の話。
これだけを読むと忠興も如水も凡人にしか見えない。特にあの後者が。
これぞちょっと悪い話。
0880人間七七四年2014/11/12(水) 00:21:06.05ID:qcTntTUe
>年貢を関ヶ原合戦用に使い果たした後で安芸を福島にもってかれた毛利家。
>福島は「ルール通り、年貢戻せよ、敗軍」と威圧的な交渉。
>とはいえ、毛利家はTERUが「経営無理ポ」とすでに泣きが入っている状態。
>この時、意外な展開が。

>毛利家の交渉担当者は酒を飲んでる市松のところで返済猶予を要請。
>市松「おし、この大杯を飲み干したら返済を待ってやる」
>死ぬ気で飲みまくって毛利家の財政破綻を阻止したこの担当は

>酒の飲みすぎで体を壊して死んだそうな。
0881人間七七四年2014/11/12(水) 00:26:24.32ID:qcTntTUe
↑の話、最初は福島正則に命じられた大杯を飲み干して死んだのだと思って感動した。
文字通り命を捨てて毛利家を救ったのだと。

しかしよく読んでみると、その担当は別にその時に死んだのではなく
普段から酒飲みでそれが原因で死んだということなんだな。
0882人間七七四年2014/11/12(水) 00:28:32.53ID:qcTntTUe
>天正11年(1483)、秀吉の弟、羽柴美濃守秀長と羽柴孫七郎秀次は、伊勢の峰の城攻めをしたが、
>城主・滝川義太夫がこれを良く防いで戦った。
>織田信雄の家臣・津川玄蕃も同じくこの城を攻め、軍勢を集結させ城の堀際へと寄せてきた。
>この時城中から長い柄杓を使って糞尿を汲み、これを寄せ手に向かってかけ散らした。

>それから織田上野介信包(信長弟)もこの城に攻めに来たが、この時信包の部隊が城のすぐ近くまで近づき、
>こう大声を挙げた

>「我らに俳諧の発句あり!城内の人々、歌の心あらばこの脇をつけよ!」

>これに城内の誰とも知らぬものが大音で返答した

>「お前たちはどうせ、前々から発句を作っておいて、今我々に脇を乞うているのだろう!
>それがし、只今とっさに作った狂歌がある!お前たち、これに返歌せよ!」

>そして一句

>『上野の やき砥は鑓に合わねども 羽柴をしなす峰の城かな』
>(上野介程度の敵では我々の手に合わないが仕方がない戦ってやろう。ここは羽柴軍の連中の命を奪う峰の城だ!)

>これに信包の家臣たちは返答につまり、ただ城に向かって鉄砲を撃ちかけることしか出来なかった。
(北畠物語)
0883人間七七四年2014/11/12(水) 01:04:29.60ID:qcTntTUe
>>882の話。前哨戦は発句対決になったわけね。
戦いの前になんとも風情な。
まさに文武両道
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