【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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0001人間七七四年
2012/10/15(月) 00:12:08.25ID:RhmDVWTD戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0718人間七七四年
2014/11/06(木) 20:31:30.89ID:WRNm3a5p>康成はじっくり観察すると
>「素晴らしい。これは良く切れそうな刀だ」
>どうやらその刀は業物であったため、これを購入した。
>その後、家康が家中の名刀の切れ味を試すために試し切りを行った。
>康成も件の刀で試し切りに参加することになった。
>そして刀を購入した経緯を説明し、いよいよ試し切りを行うことになった。
>自らの眼で業物と判断しただけに、もしここで切れなければ恥をかくことになる。
>緊張の余り康成はしばし目を閉じた。
>「私の目利きの通りに切れてくれよ」
>と念じ、刀を下ろした。
>果たして試し切りは成功した。土壇まで切入り、斜めの様子でもない。
>康成の喜ぶ様子を見た家康は大いに笑い、その刀を「目眠刀」と名付けるよう命じた。
>康成が目を閉じた姿が眠っているように見えたためであろう。
>この刀は代々家宝とされた。
>なお、この刀は保昌五郎貞吉の作である。
0719人間七七四年
2014/11/06(木) 20:34:21.35ID:WRNm3a5p一般的に秀吉=明るいひょうきんもの、家康=堅物のイメージが定着しているが
実際には家康もひょうきんものだったと思う。
家康とその家臣団は笑いの絶えない集団だったのではないか?
0720人間七七四年
2014/11/06(木) 20:39:48.13ID:d+kKxIr5高良台に一旦引いた後、反撃に来た2万の龍造寺軍を、残った1万だけで
返り討ちにしてるのは流石だけどね
0721人間七七四年
2014/11/06(木) 21:16:44.51ID:WRNm3a5pもちろん道雪の戦の能力を疑問視する気は全くないさ
>>717も自分が優れているだけに
並みの武士にも自分と同じものを期待してしまったんだろうし
天才スポーツプレイヤーが指導者になった時に陥りがちなことと同じだね
0722人間七七四年
2014/11/06(木) 21:19:43.81ID:WRNm3a5p>家中の者はこれを聞き「なんとも図々しい奴だ。若僧になにができる。
>あのような者を高禄で抱えるとは殿も大人気ないことよ」とつぶやいた。
>〜中略〜
>その後の天正三年、丹波のほづつの城の城主、赤井悪右衛門(直正)との合戦の際、
>明智殿は夜中陣を巡視された所、この万兵衛と新参の武士が一緒の小屋で前後不覚に
>眠り込んでいるのを見かけた。そこで明智殿は忍び入り二人の刀、脇差を取って帰られた。
>二人は目を覚まして驚き合ったが、新参の武士が「夜が明ければこの評判は広まってしまうだろう、
>夜の明けぬうちに二人刺し違えて死のうではないか」と言った。
>万兵衛はこれを聞いて「死んだ所で何の価値もない、起きていて盗まれたなら大恥であろうが、
>眠っていたなら仕方がないことだ。わしは同意しかねる」と答えた。
>このため新参の武士も一人では死ぬこともできずにいた。
>ところが万兵衛は夜明けとともに、茜色の吹抜き指物を高い所に立て、
>その下で討ち死にを遂げた。これを見て敵も味方も、さても見事な振る舞いと感嘆したという。
>この件に関しては明智殿の失敗であったとの評判であった(この時の丹波攻略も失敗した)。
<武者物語より>
0723人間七七四年
2014/11/06(木) 21:25:17.78ID:WRNm3a5p彼等が刀を取られそうになって目を覚ますか否か、いざ取られてしまったときどういう対応をするかということを。
0724人間七七四年
2014/11/06(木) 23:19:04.52ID:BkhwNS7q>表向き発表し総勢八千余騎の軍勢で夜半に丹波の亀山を出発した。
>どんどん道を進んでいくと、まだ夜中のうちに大江山まで着いた。
>ここで光秀は明智左馬助(秀満)・斎藤内蔵助(利三)などに向かって
>「この密事をすべて軍兵にも言い聞かせよう。」と言うと、皆「それがよろしいでしょう。」と答える。
>光秀は諸軍勢に向かって「私はとあるわけがあって信長を討ち果たそうと思っている!
>皆の者、これから本能寺に討ち入り一気に攻め破れ!
>私がこの大望を遂げたならば皆にも大国を宛てがおう。進め者ども!」と呼びかけた。
>兵達はこれを聞いて、皆勇み進んで洛中へと攻め寄せた。
>折りしもそのとき信長は本能寺で終夜多数の美女を集めて酒を飲み、歌を謡わせるなどして何の用心もしないでいたが
>「飲みすぎた。」と言って帳の中に入り、珊瑚の枕を押しやって美しい婦人の玉臂にすがり寝始めたので
>当番の者達も皆、帯剣を解いて寝入った。
>こうして六月朔日、東の空が明けてゆく頃、光秀は大江山を越えて桂川に臨んでいた。
>村井長春軒が召し使っていた者が、桂川のほとりで小役人などをしていたが
>光秀の兵が西国には下らず洛中へ行こうとしているのを不審に思って、急いで使者を遣わした。
>「光秀の軍兵たちは西国へは向かわず、洛中目指して討ち入ろうとしております。
>おそらく光秀は謀反を起こしたものと思われます。ご用心ください。」と注進したけれども
>これを聞いた者は「何を言うか!今さら誰がわが主君信長公に向かって弓を引くというのか。
>中でも光秀は世に類ない厚恩を受けている。他の者ならともかく光秀に限ってそんなことするはずがない。」と
>まったく聞き入れなかった。これが信長の運の尽きであった。
(続く)
0725人間七七四年
2014/11/06(木) 23:21:07.45ID:BkhwNS7q>「惟任は西国に出陣するいでたちを信長公にお見せするためにここまで参りました。
>上様にもこのことをお伝えください。門も開いてください。」と言うので門番たちは「それは喜ばしいことです。」と
>門を八の字に開いた。すると光秀の軍勢が一度にドドっと駆け込んだ。
>当番の者たちは「上様はまだ御殿に籠もっていらっしゃるというのに狼藉に及ぶのはいったい何者か!」と
>制したけれども兵たちは鬨の声をどっと上げる。
>森乱丸は勘のいい者だったためすぐ外に出てきて明智の軍勢を確認すると
>「皆の者!切って出て手が動く限り戦い、敵を追い払え!」と下知した。
>当番の者たちは鬨の声に飛び起きて帯を急いで身に回したけれども、太刀を取りそびれた者もいた。
>同じところで寝ていた者たちは一本の帯を「自分の帯だ!」「いやこれは誰々のだ!」などと論じ合って
>太刀なども同じように自分のものだと言い争い、奪い合う者もいた。
>また太刀を抜いて出てみると、後から鞘だけを持って追いかけてきたりする者もいて
>慌てふためいているところへ明智勢がここぞとばかりに攻め入り、散々に斬り付け、突き伏せていった。
>寺にいた兵たちは全く歯が立たず、皆向かってくる敵に走りかかっていって討ち死にした。
>信長は白綾の単衣を着て、髪を茶筅に結い、槍を提げて廊下へと走り出ると「せがれめか!せがれめか!」と叫んだ。
>その後、敵が思いもよらず攻め入ってきたせいで抵抗のしようがない思いと自害を決めたのだろう
>信長は部屋の中へ入ろうとしたが、そこを光秀の郎党、天野源右衛門(当時は安田作兵衛)が槍でしたたかに突いた。
>信長は深手を負ってしまったので、自害も思うようにできないとみるや、そのまま燃え盛る炎の中へと飛び込んだ。
>だが並河金右衛門が続いて炎の中へ飛び込み、中から信長を引きずり出すとついにその首を討ったのである。
>天野源右衛門がのちに語った本能寺の変の一部始終である。
0726人間七七四年
2014/11/06(木) 23:24:39.64ID:BkhwNS7q0727人間七七四年
2014/11/06(木) 23:57:50.06ID:d+kKxIr50728人間七七四年
2014/11/07(金) 00:03:37.25ID:AA/Pkhpa信長の死体って見つかってないはずなのに・・・と思ったが、
別に刺した=討ち取ったではないからおかしくはないよな。
>>725の
>だが並河金右衛門が続いて炎の中へ飛び込み、中から信長を引きずり出すとついにその首を討ったのである。
はおかしいが。
0729人間七七四年
2014/11/07(金) 00:05:44.57ID:AA/Pkhpa>召して話を聞いた。その時、その者が勘兵衛のことだけでなく、国府台の戦いで
>名をあげたと口を滑らせたところ、
>「お前は永禄の年に生まれたと言ったが、国府台の戦いといえば、
>北条氏康は五十前後、氏政は二十六か七ほどの頃だったはず。お前はその頃、
>四歳か五歳だろう。どうして従軍できる?デタラメを申しおって、さっさと失せろ!」
>と、家康を激怒させてしまった。
>「あのような嘘吐きが家人にいては風紀が乱れる。きつく罰してやる」
>家康はそう言ったが、まもなく死去したのでその者が罰せられることはなかった。
0730人間七七四年
2014/11/07(金) 00:08:53.40ID:AA/Pkhpa若い頃の家康なら>>729のようなことがあっても笑って突っ込んだと思う。
0731人間七七四年
2014/11/07(金) 00:47:13.01ID:AA/Pkhpa>出没した300隻の朝鮮水軍と日本軍が激突した際、決戦前の軍議で藤堂高虎らが
>「まず偵察船を出して様子を探った上で、大船で攻撃すべし。」
>と主張したが、加藤嘉明は
>「いや、ここは中船であえて弱く見せて機を伺って攻勢に出るべきだ。」
>と提案したが、これが不採用になると
>「配下の乗った偵察船を連れ戻す。」
>という名目で味方の船団から離れ、そのまま一隻で敵に先制攻撃を仕掛けて、自ら敵船に飛び移る奮戦で
>多くの敵船を乗っ取った。軍勢の軍監だった奉行達からは
>「あの命知らずの働きを見よ。」
>と称えられ、抜け駆けの件でも咎めは受けなかったものの、後から戦いに参加した武将達からは
>大いに不満を抱かれたという。その後、奉行たちに手柄を報告する際にも高虎が、
>「儂の功績は皆の中でも随一である。」
>との言葉に嘉明は
>「貴殿は小舟を2、3隻捕えたまでの事。その点儂は大船を捕獲した。比較を絶しておる。」
>と反論。怒った高虎が刀を抜いても顔色一つ変えず、
>「周りの目を気にしてむやみに気張って見せるのは子供のする事ぞ。」
>と押しとどめ、
>「高虎とは器が違う。」
>と周囲に感嘆されたという。
「武将感状記」
0732人間七七四年
2014/11/07(金) 00:50:30.24ID:AA/Pkhpa意外だった。高虎ってそんなキャラじゃないと思ってたから。
実話だろうか?
0733人間七七四年
2014/11/07(金) 01:26:19.26ID:AA/Pkhpa>『今度長宗我部元親から、阿波・讃岐を返上した上、実子を出し、大阪に人質として置いて私に対して
>奉公させたいと言って来ました。
>しかし、もはや人質など受け取れません。また、あなたがお望みだった伊予も返上に入っていませんので、
>是非にもおよびません。
>長宗我部からの人質は全て返し、伊予の国の一織はあなたに与えます。
>長宗我部が許しを請うて降服してきたら、彼には土佐一国のみをあてがうでしょう。
>謹言
>天正拾参
>六月十八日 >秀吉(花押)
>小早川左衛門佐殿
(小早川家文書)
0734人間七七四年
2014/11/07(金) 01:32:29.54ID:AA/Pkhpa戦う前から戦後処理を決めていた秀吉(絶対勝つ自信があったからだろうが)。
これがあの悪名高い大河『江』だと
この四国討伐に際して江にアドバイスを求め、それにしたがっているwww
0735人間七七四年
2014/11/07(金) 07:12:02.02ID:/RFmeOLM>すると並河金右衛門が自ら討ち取った信長の首と白綾衣袖を持ってやってきた。
>秀満はすぐにこれを人目に触れないよう隠させた。
>金右衛門は「左馬助殿はそれがしの功を隠されようとなさるのか!」と怒った。
>秀満は金右衛門を諭して言った。
>「前右府殿(信長)はかつて甲斐征伐において勝頼公の首を罵詈されたが、今になって人々はこれを誹誇している。
>もし今、殿に前右府殿の首を御見せすれば恨み骨髄に達しているゆえ、必ず陵辱されるであろう。
>そうなると殿の汚名が末代まで残ってしまう事は必定だ。天命とは実に畏るべきものである。
>そなたの功はわしが後日必ず証を立ててやるゆえ、今は黙ってわしの言う事を聞いてもらいたい。」
>そして涙を流しながら頼み込んだ。
>金右衛門もその志に感じて秀満に托す事を了承し、秀満は僧西誉に命じて信長の遺骸を葬らせた。
>光秀は信長の屍がなかなか見つからないので斎藤(内蔵助)利三を遣わして秀満にこう伝言をさせた。
>「その方は先陣となっておるのに未だ前右府殿の生死の明証を得ていないとはどういう事だ!
>もし生き延びて逃げられていたならば既に我等は為す術が無くなってしまう。」
>これを聞いて秀満は真実を利三に告げた。
>利三も感じ入って、焼け焦げた白綾の衣を取って信長の死の証としたのである。
>ところで織田信長を討ち取った並河金右衛門だが、明智軍が山崎の合戦で敗れるとその素性を隠して
>後に加藤清正に仕え、江戸時代になってからも長生きていたそうである。
0736人間七七四年
2014/11/07(金) 07:16:15.07ID:/RFmeOLMだから並河金右衛門は光秀を納得させるために捏造したということなのか。
ちなみに光秀の死体に関しても諸説あるのが面白い。
だから光秀=天海なんて伝説もあるわけで。
0737人間七七四年
2014/11/07(金) 07:17:57.63ID:/RFmeOLM>羽柴秀吉を助けようとした。
>この時、吉川元長は父の元春に
>「信長自身が出馬すれば、数も多く統率のとれた軍隊を相手にしなければなりません。
>いま羽柴秀吉や荒木村重らは功を争って協調できていないと聞いています。
>幸い、雨が降り月も暗い。ここは夜討ちを仕掛けましょう」と言った。
>元春も「お前の言う通りだ」と同意し、小早川隆景と相談した。
>ところが隆景は「そのような危うき戦は大事の前の小事である」と反対した。
>元長はそれでも食い下がったが、やはり隆景は耳を貸さないので悔しさに歯をくいしばり
>ながらも、とうとう諦めたという。
0738人間七七四年
2014/11/07(金) 07:55:43.87ID:/RFmeOLM作り話じゃないかと思うぐらいだ。
0739人間七七四年
2014/11/07(金) 07:57:26.34ID:/RFmeOLM>昌信が「いったい何があった」と尋ねると幼女は「山伏を見た」と言った。
>そこで昌信がその山伏を連れてきて祈祷させると、すぐに平癒したので
>その日は謝礼を渡して山伏を帰した。ところがその後も幼女は発病し、山伏が
>治療するということが続き、三度に及んだ。
>その後、実はあの山伏は犬神を使うらしいと聞いた昌信は山伏に料理を振る舞い、
>「これは快気の謝礼だ」と金子を渡した。そして昌信は山伏が喜んで金子に
>気をとられたところを一太刀で首を刎ねた。その日から幼女が発病することはなかった。
0740人間七七四年
2014/11/07(金) 08:00:49.53ID:/RFmeOLM昌信としては山伏の自作自演と見たのだろうな。
自分で娘を病気にさせ、その後治してみせて褒美をもらう。
いわばヤクザの手口と同じ。
0741人間七七四年
2014/11/07(金) 08:37:45.85ID:/RFmeOLM>秀吉への臣従のため上阪した。
>10月20日浦戸を出港し、程なく堺の港につく。そこで津田宗及の屋敷を宿舎とすると、
>ここに羽柴美濃守(秀長)と藤堂与右衛門(高虎)が来訪。秀長は「早々の上洛に、秀吉卿は
>御感に思召しておられます。」と伝え、大阪出仕の支度をするよう促した。
>藤堂高虎はこの堺から案内として元親に同道した。
>大阪に入ると町家で装束を整え登城。桜の門に入ると警固のものが50人、金棒を持って左右に
>並び、元親の共の者たちを
>「これより先、小姓一人、草履取り一人のみしか同道出来ぬ!」
>と押し留めた。これに共をしていた長宗我部家臣団は激昂。
>「こんな事は見たこともない!主の供をするのを一体誰が止めるというのか!?」と
>大声で叫んだ。この騒ぎを聞いた高虎は警固のものに
>「長宗我部の共の衆なら問題はない。入れてやるのだ。」と云えば、警固の者共は金棒を引いて
>彼らを門内に入れた。
>ここで羽柴秀長が迎えに罷り出て、元親と同道し奥の間に通らせた。ここで高虎は立ち戻り、
>「共の衆はここに居よ」と、彼らを侍所に連れて行った。
>元親は小袖20,馬代銀百枚、一文字の太刀一腰を進上し秀吉に御礼を申し上げる。
>秀吉は対面を許し、「長宗我部早々上洛、感じ入るぞ」との御意を伝え饗膳を下し、
>「美濃守(秀長)、施薬院(全宗)相伴せよ」と言って、自分は奥へと下がった。
>さてここで元親の前には、七五三の膳部、金銀の造花、京堺の魚鳥、そういった珍しいものが
>尽きることがないほど出されて来た。元親は四国の主であったが、このような膳部は見たこともなかった。
>正直ビビっていたがそれでも臆せぬ体でこれを賜り、酒を数回やりとりしていると
>秀吉卿が再び現れ「長宗我部の折角の上洛だというのに、肴も出していないではないか!」と、
>さらに元親の度肝を抜かせる事をいう。これを施薬院を通して聞かされた元親は、「この長曾我部、
>結構な膳部を頂きました、有難き幸せ。」と挨拶をし、秀吉は盃を取るとこれを元親に下し、
>元親は頂戴して酒を賜った。
>このあと元親に引き出物が出され、腰の物(二尺五寸備前兼光)、黄金百枚、梨地の鞍鐙をつけた鬼葦毛の馬、
>などが下される。そして秀吉は言う
>「長宗我部は酒も数盃となり、酔も出ただろうが珍しい肴があるのだ、もう一献参られよ。
>珍しい肴とはな、その方が上洛するというのを、家老たちがそれは無用だと止めただろう?だがその方一人の
>覚悟によって上洛をした、と、わしは聞いておる。
>この上はお前が人質に出した津野孫次郎(親忠・元親三男)を返してやる。これを肴に、さあ、
>もう一献参られよ。」
>元親「かたじけなし」と、それを飲み干した。
>元親は明日京に上り羽柴秀次に御礼申し上げる予定であったが、秀吉はそれも免除し、すぐに津野親忠と共に
>帰国することを許した。翌日、元親親子は堺を出港した。
(続く)
0742人間七七四年
2014/11/07(金) 08:39:52.06ID:/RFmeOLM>翌日、元親は城に家中の者たちを集めると今回の上洛の次第を語り、そして下賜されたもののうち、
>最初に太刀を見せた。
>「なんと!金で装飾されている!?」土佐者たちは早くも仰天した。
>次に黄金百枚を見せた。
>「これが判金という物ですか…。はなしには聞いたことがありますが、初めて見た。」
>としげしげと眺めていた。そして最期に葦毛の馬に鞍を置いて出すと土佐者たちの驚愕は頂点に達した
>「上方という国は一体どんな国なんだ!?こんな馬が存在するなんて!!」
>彼らにとって馬といえば、体高一寸ほどの土佐駒であった。上方から来た五寸の馬を見て、
>舌を震わせて驚いたのも、仕方のない事であろう。
>そして梨地の鞍鐙を見て
>「これ光ってる!どうして!?」
>などと騒いだ。全く田舎者にも程がある事である。
>ところで津野親忠は人質として長く上方に逗留していたので、御供衆まで上方めいた男になって帰ってきた。
>これに土佐の者たちは羨み。月代の剃り方から服装まで、土佐の者たちは一斉に真似をした。
>それまで土佐の者たちは着物を小袖といい、袖は短く綿をたくさん入れ、帯ははいはたと言う木綿帯をして、袴の
>裾も短く、その姿はモグラのようであった。
>月代は大きく剃りあげ、刀は三尺ほど、脇差は二尺ほどもある物を差し、顔には武勇を貼り付けていた。
>しかしながらそんなモグラ侍を上方侍に見比べると、そのあたりで暴れてるガキ大将すらそんな異風な者はいない。
>津野親忠の共の衆に皆習い、着物の脇をすき、袴や袖を長くすれば、男ぶりも良くなり、土佐者たちは
>その姿を鏡で見て大いに喜んだという。
>翌年、元親が再び上洛した時は、みな上方風の服装をしていた。
>この時長宗我部家の諸侍はより合って先年のことを話し、大笑いしたという。
(土佐軍記)
0743人間七七四年
2014/11/07(金) 08:46:41.90ID:/RFmeOLMこの時代、中央と地方の差って今からは想像も出来ないほど大きかったんだな。
源平の頃ならいざ知らず、戦国時代でもまだこの様子だったとは。
それでも四国は特に遅れていた気がする。
距離的には四国よりも中央から遠くても九州はもっとマシだったんじゃないかな。
鉄砲・キリスト教の伝来も最初は九州だし古くから大陸の文化の入り口だったから。
一方、四国はガラパゴス状態だったのだと思う。
0744人間七七四年
2014/11/07(金) 17:57:11.53ID:V1rsPEpr>彼らを前に突然、このようなことを語った
>『私は道七居士(長尾為景)の八男であり、誠に末流であったのに、世間の転変により不思議な事に
>長尾の家督を継ぎ、惣領職と相なった。
>しかし、これは私の本意ではない。
>何故かといえば、春秋左氏伝を始めとして異国の歴代の事跡を考え、また本朝(日本)の書伝を見るにつけ、
>私のしたことは簒奪の汚名、廃立の慙徳、賢明な人たちからの異論、万世にわたって続く誅筆、こういったものから
>逃れることはできない。
>そもそも、今さら言うのも恥ずかしいことだが、我が父紋竹庵(為景)が一旦の恨み事で主君上杉房能を弑殺し、
>また管領上杉顕定を討ちまいらせ、逆威を振るっていたところ、天鑑は蒙昧ではない。ついに越中において
>命を落とされた。
>私もまた、越後の御屋形様である上杉定実公の命令とはいえ、兄の長尾晴景を討った事、千歳の悪名である。
>然れども、国家のために大義を行い、身の誹りを顧みることはない。ただ、これ故に一生妻子を置かず、
>これを以って世の人々に謝罪したい。
>この上は、弥持戎清浄の出家となるべし!』
>こうして輝虎は不識院心光謙信法印と号した。
>高野山無量尋院清胤法印を戒師となし、真言金胎両部の秘密の印明を受け、潅頂を遂げ、
>大覚寺門主義俊大僧正執奏にて、大阿闍梨号を賜り、弥戒律堅固であった。
0745人間七七四年
2014/11/07(金) 18:01:57.52ID:V1rsPEpr彼にも様々な葛藤があり、その結果があの強固なまでの信仰につながったのかと。
また関東遠征へのあの異常な執着もそういう中から生まれたものだったのかと。
0746人間七七四年
2014/11/07(金) 18:06:02.68ID:V1rsPEpr>天正頃のある正月、宗運のもとに守昌夫妻が訪問、年賀のあいさつをしていた。
>その時、猫が宗運の背後にあった刀かけを倒してしまった。
>いたずらな猫ちゃんである。
>その時鞘から抜け落ちた短刀は、偶然そこにあった茶臼に9cmも突き刺さり、
>「茶臼剣」と呼ばれ名を馳せたという。
>さて、茶臼に刺さった切れ味を目の当たりにした守昌は、ぜひこの茶臼剣を賜
>りたいと夫婦ともども懇願したが、それは宗運が主君である阿蘇大宮司から拝
>領した短刀であった。
>宗運は自分の目の黒いうちは手放すわけにはいかない、しかし自分が死んだら
>形見として必ず守昌に渡そう、と嫡子を証人に約束した。
>守昌は引き下がるしかなかった。
>しかし、奥さんがここで気を利かせてしまった。宗運の娘である立場を悪用し、
>宗運の寝室から茶臼剣を盗み出してしまったのである。
>守昌は宗運の怒りを恐れて敵対、婿と舅の合戦におよび、最後には守昌は城を
>捨てて落ち延びろこととなったのであった。
0747人間七七四年
2014/11/07(金) 18:47:33.85ID:V1rsPEpr恐ろしいな
「女心と猫の目」という言葉があるように
女と猫って何か結びつきがあるのかな
0748人間七七四年
2014/11/07(金) 18:50:46.47ID:V1rsPEpr>そしてこの時、氷見郡阿尾城主であった菊池伊豆入道(武勝)にも出仕するよう申し付けた。
>菊池入道は「私はもう隠居した身です。どうぞお許し下さい」と申し上げたが、たっての事だと言われ、罷り出ることになった。
>さて、出仕してみると成政は御機嫌で酒など飲んでおり、菊池入道を見つけると、”なますの盃”という秘蔵の盃を取り出し酒を注がせ入道を呼び
>「其方、この盃で一献指すがよい」
>と言う。菊池入道は喜び「忝き次第です。生前の大慶、これに過ぎることはありません。成政様が
>常々おっしゃっているように、この盃は常にはお出しすることのない物です。有難いことです。」
>と一盃飲み干し、盃をそこに置いて立ち下がろうとした。と、ここで成政
>「その盃をこちらにも指さないか。」
>返杯をせよ、というのである。しかし盃を交わすというのは同格かそれに近い者の間ですることである。これには菊池入道恐縮し
>「いかに成政様の仰せと言えどもそれは憚るべきことです。どうかお許し下さい。」などと必死にこれを
>断ろうとした。しかし成政は
>「其の方は常の人並みの者ではない。ただ、私に返杯するのだ。」
>これには菊池入道も「重ねて御辞退するのも、憚りのあることです。」
>この待遇に感激した菊池入道は、御前に自分が飲んだ盃を置くと
>「さてさて忝き次第。この度の返杯の仰せ付け、吾が家の威光となるものでございます。
>このためわたくし、御前を憚らず御肴を進上したいと思います。
>そう言うと指していた脇差を抜き
>「この脇差は鬼神大王と言いまして、上杉謙信が当国に討ち入られました時に私に下されたものです。
>上杉謙信は、7ヶ国の管領となりました。殿様もどうか、謙信に御あやかりください。」
>と、成政に進上した。ここまではいい話である
(続く)
0749人間七七四年
2014/11/07(金) 18:52:58.03ID:V1rsPEpr>「さてさて年寄りめ途方に暮れ、うつけたことを言い出したものよ!
>あの謙信などという者は、私の足元にも及ばない人物だ!それにあやかれとは、どういうことだ!?」
>そのように激しく叱りつけた。この時菊池入道は脇差を下げることもできず、だからと言って
>進上することも出来ない状況で申し上げたことには
>「御尤も千万でございます!上様(織田信長)がお亡くなりになり、今や御前(成政)が天下を得ること、
>疑いありません。この年寄り、うつけを申し上げてしまいました。
>しかしながらこの脇差を引けとは仰らないでください。お酌をしている小姓の方に、これを差し上げたいと思います。
>小姓殿、殿様は天下の主。あなたは殿様の御太刀かげにて、謙信にあやかり、7ヶ国取り給え。」
>そうして盃も脇差も小姓に渡した。
>「私も頼もしいことです。殿様太刀かげにて一国の主にもしていただけるでしょう。」
>これに成政、たちまち機嫌を直し
>「尤もである!あれらは謙信にあやかるのが良い!」そう笑った。
>さて、菊池入道がその座を立って帰宅するという時、傍輩にこんな事を言い残した
>「今日も面目を失ってしまったよ。是非もないことだ。これは私が老耄してしまったせいであり、
>今後はもう、公の場所には出ないようにするよ。とすればこの富山城も、今日が見納めか…。」
>菊池伊豆入道武勝が佐々成政から前田利家に寝返ったのは、それから間もなくのことであった。
(菊池文書)
0751人間七七四年
2014/11/07(金) 19:32:33.63ID:V1rsPEpr>「国勢の不振がきわまっております。十年を出でずして土崩の災があるでしょう。
>願わくばあらかじめ十万人の兵を養い、都城に二万、各道(八道)に一万人を配置して
>戸税を免除し武芸の鍛錬をすようにすべきです。
>また六朔(六か月)に分けて交代しながら、都城を守備するようにし
>変乱を聞けばあわせて十万人で守るように緩急に備えなければなりません。
>そうでなければ一朝に変乱が起こった場合市井の民を駆り集めて戦うようになり、大事を招くになるでしょう。」
>しかしこれに柳成竜が反対した。曰く
>「事変がないのに養兵するのは養禍である。」
>他の重臣たちも李珥の意見は過慮であると反対した為、この案は行われなかった。
>李珥はその場を去る時柳成竜に対し
>「俗儒はもとより時宜に通達しないものだが貴公もまたその言を言うか。」と言い
>この翌年亡くなった。
>この9年後文禄の役が起こり、朝鮮全土が大混乱に陥る。
>柳成竜は慨嘆して曰く
>「今に至ってみると李文成は真の聖人であった。
>もしその言を用いていればどうして国事がこのようになったろうか。」
―――
>当時の李朝では非常時には農閑期に訓練を施した農民などを兵として動員することになっており
>書類上では二十万近い兵がいることになっていたものの、当てになったのはかなり限られた数だったとか。
>やっときゃよかった幻の十万人養兵論の話。
0752人間七七四年
2014/11/07(金) 19:35:35.83ID:V1rsPEpr当時も韓国は日本の10〜20年後を行ってたのね。
まだ兵農分離も全く出来ていなかったと。>>751
0753人間七七四年
2014/11/07(金) 20:11:55.34ID:V1rsPEpr>非常に辟易していた。
>松前城は東南北の三方は山から遠く、城のまわりは底深き沼地。西は九州に続く青海原。
>まさに攻めるに難し、日本第一の城郭と語られていたのであるが、嘉明はこう思った
>「なんだこの城は!?海に近いが風が強い日には砂が天に舞上がり砂まみれになり、
>波は堤防を越え高波に船も転覆してしまう。
>だいたいこの城は波音がうるさい!うるさすぎる!!
>もっと静かないい場所に引っ越そう!」
>とまあ、波の騒音に耐えかね、領内を巡り新城建築の候補地を探し始めた。
>高山という場所は松前城から近いが土地が歪んでいる。
>長山、高山、尾崎と見て回ったが、どうも一長一短だ。
0754人間七七四年
2014/11/07(金) 20:13:22.51ID:V1rsPEpr>これは勝山と呼ばれていた、
>広地にして水清く、八方に開けた場所である。
>南には5,6町隔てて石手川の流れ清く、また南方2,3里隔てたところには加藤家直轄領である
>施梨山、西に15,6町隔てた場所には江戸山。
>三津の浜までは山が続き、北は御幸寺の山遠く、東は道石手山、湯の山嶺数里続き、湯月の古城を
>去ること20町。
>素晴らしい地だと確信した。
>慶長8年(1603)嘉明はここに、五重の天守を始めとした大規模な築城を始めた。
>そして勝山の地名を改め、「松山」と名付けた。
>伊予の新たな首府・松山の威容が今まさに出現しようとしていた…
>が、この松山城完成を前に、加藤嘉明は寛永4年(1627)、会津40万石に転封となってしまったのである。
>とまあそんなこんなで、騒音公害から始まった、伊予松山築上の顛末である。
(伊予郡郷里俚諺集)
0755人間七七四年
2014/11/07(金) 20:17:34.22ID:V1rsPEpr加藤嘉明の気持ちはどうだったんだろう。
石高が倍増するのは嬉しい、しかしせっかくお気に入りの場所に作った松山城の
完成間近に遠地に転封
スケールの小さな家康の関東転封という感じだ
0756人間七七四年
2014/11/07(金) 21:43:48.39ID:h8/hcZeP>ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
>さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状
>『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
>沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!
>また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
>これもまた緊急に届けさせるように!
>恐々謹言
>筑前守 秀吉(花押)
>十二月十四日
>小西弥九郎(行長) 殿』
>戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
>その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。
(壱岐文書)
0757人間七七四年
2014/11/07(金) 21:46:22.27ID:h8/hcZeP>>756の話を読んで意外だった。
むしろこの時の反省から成長し達人になったのかな?
0758人間七七四年
2014/11/07(金) 21:47:48.94ID:h8/hcZeP>決戦に備えて三男の秀忠に中山道を西上する様に命じた。サポート役に大久保忠隣や牧野康成、榊原康政
>お目付け役として本多正信も帯同したこの部隊は進軍の途上、三成方の真田昌幸が籠る上田城を攻撃した。その際、
>窮地に陥った味方を救おうと、忠隣配下の杉浦文勝と康成配下の贄掃部が命令が無いまま兵を動かしたのだが、正信はこれを
>「いかに味方を救う為とはいえ、命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である。両名に厳しい処罰を与えるべきじゃ。」
>と主張した。結果として文勝は切腹し、これに反論した康成は秀忠軍から外された。武功派の忠隣らと、さしたる戦功もなく智謀で出世した
>正信とはもともと馬が合わず、この一件がきっかけで不仲が表面化したという。さらに戦後、正信が家康の後継者として二男の結城秀康を推薦したのに対し、
>忠隣が秀忠を推した事などもあり、両者の溝はより一層深まっていったという。
0759人間七七四年
2014/11/07(金) 22:24:23.56ID:h8/hcZeP正信が秀忠を推したのなら正信を重んじていたのだとスッキリするが。
まあ家康は特定の人物(派閥)を重んじるのでなく臨機応変だったということかな。
0760人間七七四年
2014/11/07(金) 22:29:16.45ID:h8/hcZeP>そして越前領主丹羽長重にその先陣を許した。長重は急ぎ帰国し、軍馬を揃え秀吉の下向を待つ。
>8月、秀吉は北伐と称し越前路に来臨。長重は北ノ庄城を発して近江路まで出てこれを迎え、北ノ庄城への
>渡御を乞う。秀吉はこれを許諾し、総軍は街道に残した上で、扈従ばかりの人数で北ノ庄城に入城し、秀重からの
>饗応を受けた。時に秀吉の、長重への懇意なことは、まるで父子のようであった。
>この時、丹羽家中では一部に、秀吉に対し密かに反逆せんとする企てが進んでいた。
>ところが秀吉はその事を以前から気き知っており、しかしそれをいささかも顔に出さず、この饗応に
>大いに喜んだ風で、丹羽家の重臣一同(無論反秀吉派も含む)を御前に召し出し、特別に銘々に盃を与える。
>そして一同にこう申し下した。
>「よいか、国主長重は年若い。お前たちは故越前守(丹羽長秀)の遺訓に違わず、忠義をなして長重を補佐するべし!
>万一、彼が幼主であるのを侮り、私意を以って悪事を進める賊臣があるようならば、直ちに首を刎ね、長重の領地は
>全て没収する!そうなれば長重は不肖の子であり、お前たちは不義不忠の賊臣である!
>固くこの旨を心せよ!」
>そう厳命すると長重の方を向いて
>「わしからの、そなたの家臣共への命令は今聞いたとおりだ。そなたは若年といっても、これをいささかも忘れてはならない。
>そなたの父長秀は、信長公天下創業第一の功臣であり、その英名は天下を恐服させたものだ。
>そなたもその父の資質を受け継いでいる風にみえる。謹んで臣下の善悪を究明し、国家の大事を怠るでないぞ!
>年頃に至れば朝廷に奏し高官に登用し、これから攻めとる佐々成政の領地を加増し北国一円の主とさせるであろう。
>そのつもりであるから、今回の佐々成政に対する先陣も許したのだ。この旨をよくよく理解せよ!」
>そう厳命した上で北の庄を発した。
>秀吉による、丹羽家中及び丹羽長重に対する牽制と懐柔である。
(丹羽歴代年譜)
0761人間七七四年
2014/11/07(金) 22:31:35.47ID:h8/hcZeP晩年だったら皆を処刑してしまっていただろう
0762人間七七四年
2014/11/07(金) 23:02:55.46ID:h8/hcZeP>当時忠興と松井康之は二本松にいた
>一、 浅野弾正と一緒に二本松に同陣していることは、奇特というか名誉なことです。
>上様(秀吉)の耳にもそのことは入っています。
>一、 奥州の一揆が蜂起したのは、ひとえに政宗が謀反を企てているからだと上様のお耳に入れ申しました。
>一、 政宗は羽忠(蒲生氏郷)を攻略するつもりのようだが、氏郷が油断しているように見えるので、
>(原文だと羽忠政宗武略之覚悟、羽忠油断無様に被思食候)
>上様は去年二八日中様(秀次)、家康様両名に折紙をよこし、
>そちらへ向かわせることにしました。このことは弾様(浅野長政)へも取次があったと思います。
>一、 政宗は去年4日黒川に陣替えして、会津と二本松の間を通行できないようにしてしまった。
>これはまぎれもなく謀反の意図があるということだ。氏郷が会津に無事帰城するまでは、
>政宗が何を言おうと、すべて裏表がある、と上様はおっしゃっていました。
>一、 霜台(浅野長政)から政宗へ、ご返事があったことは承っています。上様と全く同じ思し召しです。
>会津への通路を切り取った以上、政宗が何を言っても、申し開きは無理でしょう。
>一、 上様は三月一日奥州へ出馬することに決まりました。
>この年の1月22日秀長死去、2月28日利休は秀吉に切腹を命じられる
0763人間七七四年
2014/11/07(金) 23:05:55.81ID:h8/hcZePここまでやっていたとは。
この仕事と切腹に関連性はあるのだろうか?
0764人間七七四年
2014/11/07(金) 23:39:49.89ID:h8/hcZeP>近衛信尹は、武家との交流が盛んであった公家である。
>さて、いよいよ病が重くなったある日、信尹は愛する家族にあてて遺言をしたため、形見分け等を指示するが、
>その中に、交流のあった諸大名の名が見える。曰く、
>「左衛門大夫(福島正則)・政宗・島津(義弘)にも、似合いの品を、それぞれ遣わしてください」
>(原文:左衛門大夫・政宗・島津などへも、似合い候物ども遣り候べく候)(※前後略)
>書面上のことではあるが、信尹卿も、政宗は呼び捨てなのであった。
0765人間七七四年
2014/11/07(金) 23:43:22.80ID:h8/hcZeP公家が大名達に形見分けをしてんだな。
まあこれらの大名に公家としての権威を提供し
その見返りとして金(米)をもらっていたんだろうな。
0766人間七七四年
2014/11/08(土) 00:16:49.21ID:PmPgif3E>永正11年(1512)、今川氏親の遠州侵略に対し再び反抗を起こし、曳馬城(浜松)を奪還し、さらに池田・入野といった
>地域まで横領に成功した大河内貞綱に呼応。斯波家の領国である遠江を回復するため自身が出馬して
>これを助けんとした。
>が、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田伊勢守信安は、この遠征に利がないと強く諌めた。
>しかし義達はこれを聞かず出馬を強行。ここに斯波義達と織田信安の関係は不和となり、上四郡の兵は
>この遠征に参加しなかったため、義達の兵は甚だ少ないものとなった。それでも遠江へと進軍し、
>曳馬城に入った。
>余談だが織田信安は後に、一族である若き日の信長とも激しく対立することになる。
>同年6月。今川氏親は3万の兵で城攻めを行った。
(続く)
0767人間七七四年
2014/11/08(土) 00:18:34.90ID:PmPgif3E>状況ではなかった。が、氏親は大竹縄数百で繋げた船橋をかけ軍勢をやすやすと城の周囲に展開させ取り囲んだ。
>しかし曳馬城は非常に堅固な城で、それでも今川の攻撃に耐え続けた。
>そこで氏親は城が高台にあることに目をつけ、阿部金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせた。
>このため城には水がなくなり日々に弱り、8月19日、この日の攻撃で大河内貞綱と、その弟、巨海道綱、
>高橋正定、中山監物ら千人あまりが討ち死に、斯波義達は捕虜となり、曳馬城は落城した。
>付近の普済寺という禅寺に監禁された斯波義達であったが、今川氏親は「同じ足利一門の好である」として
>彼の命を助けた。そのかわり剃髪し出家させ(法名は”安心”であったという)、『今後二度と今川家に対して弓を引かぬ』
>との誓紙を書かせ、これをもって尾張へと送り返した。
>斯波家の権威を決定的に低下させ、尾張において織田氏に主導権をもたらす画期になったと言われる、
>斯波義達の曳馬城合戦の逸話である
(今川家譜)
(名古屋合戦記)
0768人間七七四年
2014/11/08(土) 00:21:44.69ID:PmPgif3Eを既にやっていたんだな
信玄が発明した方法だとばかり思っていたよ
0769人間七七四年
2014/11/08(土) 00:56:06.60ID:PmPgif3E>だがやはり兄弟を討たれたことに思うことはあったのだろう、信直を恨む様子が折々に見え、そんな吉兵衛に信直も警戒していた。
>さて、この中野修理は大男で怪力の持ち主だった。彼は唐竹の中に鉄棒を仕込んだ五寸回りの狩り杖をつねに持ち歩いており
>三戸城の石垣を組む時、三十人でも引けないような大きな石が落ちてくるのを
>その狩り杖で押さえたという逸話があった。
>ある冬の事、信直が三戸にて冬雪の上にて追鳥をして気晴らしをしていた。
>信直はかんじきを履いて雪の上を自由に歩いていたが、大男だった中野は雪を踏つぶし、歩くのも難儀しているようだった。
>その様子に信直は
>「御身はいつも鬼のようだが、こう雪が深くては我には駆けつけられないだろう?」
>この言葉に中野は言い返した。
>「さてさておかしな事をおっしゃる。御前を手取りにするのは、わが心のままですぞ」
>「ほほう、さればわれに追い付いてみよ!」
>駆け出す信直、中野は自慢の狩り杖を持ち直し、それを信直のかんじきに当てた。
>雪の中にこける信直。中野は
>「堪忍せぬぞ!」
>とトドメを――刺さなかった。理由は分からない(書いてない)
>こうしてこの場は何事もなく終わったが、信直はさらに中野を警戒するようになり、いつか討ってやろうと折を窺っていたが
>結局機会が来ることはなかったという。
0770人間七七四年
2014/11/08(土) 00:57:19.36ID:PmPgif3E日本にもあったんだなw
0771人間七七四年
2014/11/08(土) 10:20:23.45ID:YpBVCs5e>羽柴秀吉は7月に大阪に居城を築く。この頃参議に任官し、従四位の下に除し、その権威は添加に振動し、
>各地の諸侯は我先にと大阪に馳せ上り彼の謁見を受け、皆その麾下に属した。
>そんな中、丹羽長秀だけは越前に移って以来、秀吉に対し音信の使いも登らせず、この年の末になり
>冬となっても上洛することも無かった。
>これに秀吉は激怒し、使いを越前に派遣し長秀の態度を激しく責めた
>『今私は天下の覇権を握った!禁裏を守護し、勅許を受け天下の兵権も掌握した。
>そうであるのに長秀は、そんな私との約束に背き上洛してこない。一体どういう理由で私の側に来て
>私を輔けないのか!?速やかに上洛せよ!』
>この秀吉の言葉を聞き、丹羽長秀は更に激怒した
>「秀吉は私のことを何だと思っているのか!?私はこれに返答すべき言葉がある!
>汝(秀吉からの使者)は私の家臣を連れて、京に戻るが良い!!」
>そして家臣の中から村上次郎右衛門義明を選び、自身の言い分を伝え、秀吉の使いに付けて京へと向かわせた。
(続く)
0772人間七七四年
2014/11/08(土) 10:22:00.22ID:YpBVCs5e>しかし村上義明はいささかも恐れること無く秀吉の前に出ると、こう声を上げた。
>「長秀の言葉はこうです。当国(越前)に移って以来、国務は甚だ多忙であり、またこの北陸の地は雪深く、
>冬になれば道を通ることすら容易ではない。その上、天下は既に足下が安定して掌握している。
>それ故に私は、安心して在国して足を休めているのだ。
>今、あなたが天下の覇権を握るのに、私もおおいに助力した。
>それなのにどうしてこのように、私を甚だしく責めるのか!?そこをよく考えていただきたい!」
>これを秀吉の前で言い放った義明の勇壮に、祗候の諸大名たちは皆驚き、秀吉の反応を恐れた。
>が、この時秀吉は
>「…私の言い過ぎであった。汝(秀吉の派遣した使者)も長秀に陳謝せよ」
>と、義明に付けて再び越前へと送った。
>この秀吉の態度に長秀の怒りも解け、秀吉、長秀は以前のように懇意の間柄になったという。
>丹羽長秀が上洛しなかった事からきた騒動に関する記録である。
(丹羽歴代年譜)
0773人間七七四年
2014/11/08(土) 10:27:09.03ID:YpBVCs5eそれで秀吉の態度がころっと変わるとは・・・
もともと秀吉は長秀を許すつもりで、その切っ掛けが欲しかっただけだったのかな
0774人間七七四年
2014/11/08(土) 11:01:58.13ID:YpBVCs5e>6月29日
>『大乗院(尋憲)殿が安土より帰られた。三七殿(織田信孝)から御念の入った御礼を受けたそうだ。
>まずは大慶である。
>伊勢の御本所(織田信雄)と三七殿との所領に対する存念が一致せず、諸軍勢が未だに集結したままであるという。』
>7月6日
>『天下の状況、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田紀伊守(恒興)、堀久太郎(秀政)の、
>以上5人によって分捕りのようにされてしまった。
>信長の子供たちはいずれも取り立てられなかったという。浅ましい、浅ましい。』
>7日
>『天下の状況、本所(織田信雄)と三七(織田信孝)との所領に関する論争のため、両人共に三法師の
>名代を辞任し、信雄は伊勢を取り、信孝は美濃ばかり。上野殿(織田信包)へは伊賀一円だと言う
>柴田勝家は長浜一円二十万石、堀久太郎は城介殿(織田信忠)の子供たちの御守りを命ぜられ、
>そのためとして近江の中郡二十万石。丹羽五郎左衛門は高嶋郡と滋賀郡、池田紀伊守は十七所、大阪を取り、
>羽柴筑前(秀吉)へは山城国一円、丹波国一円(これは筑前の弟小七郎のもの)、西の丘、勝竜寺以下、
>河内にて東ノ山以上、それらが概ね、秀吉の意のままになったようである。
>それから下京六条に城を建設するという話だ。ここに三法師を入れ、その名代を置くことはなく、
>先の五人、柴田、羽柴、丹羽、池田、堀が常駐して意見申し上げ、盛りたてていくのだとか。
>筒井順慶は大和国一円、宇智郡を与えられたそうだ。
>これには羽柴秀吉が、筒井が所領できるよう熱心に運動したとのことである。
>しかしこれで、大和は今後も静謐が保たれるだろう。
>以上、このように相定まったが、かなりの問題が残されたままである。
>なにより信長の子息達は大勢いるというのに、何れも全く取り立てられていない。
>必ず何らかの狂いが出てくるだろう。』
>清須体制の成立前後の、情勢とその分析の記録である。
0775人間七七四年
2014/11/08(土) 11:03:55.56ID:YpBVCs5eそれにしても、知ってたけど、改めて思ったのは秀吉の一人勝ちすぎ
0776人間七七四年
2014/11/08(土) 11:38:10.45ID:YpBVCs5e>またある者は次なる乱を想定し準備を進める中、ある男が大坂城内の長宗我部盛親を訪ねて来た。
>「盛親様、お久しゅうございます。」
>「お前は!・・・攻め手に加わっていたか。どの手勢にいたのだ?」
>「今は、井伊掃部殿の配下におりまする。」
>「そうか。4日の朝、真田丸の戦いにも居たのか?」
>「居りました。本日は、あの時に討ち死にした者の遺品を引き取りに参りました。」
>「あの戦いで井伊家の者は何人死んだ?」
>「名のある者、17人が討ち死にを遂げました。」
>「そうか・・・皆の衆、この者の申したことは本当ですぞ!」
>盛親は周囲の者にそう言い放つと近習に、戦利品である17本の旗指物を運ばせて、男に渡した。
>指物の中に知人のものを見つけ、密かに涙する男を眺めつつ、盛親は言葉を続けた。
>「この者の祖父も父も、わが父や兄の用に立ち、その馬前で死んでくれた勇士であった。
>それに比べて、わしは・・・ハハ・・・・・・和議成ったばかりでの役目、大儀。杯を取らせる。」
>「かたじけなし。」
>盛親の杯を飲み干した男は、丁重に礼を返して大阪城を去った。(福留覚書)
>男の名は、福留半右衛門。
>『福留の荒切り』と呼ばれ、伊予攻めで戦死した福留飛騨の孫で、『蛇もハミもそち寄れ、隼人殿のお通りじゃ』
>と、その武勇を童歌にまで称えられ、戸次川の戦いにおいて長宗我部信親とともに死んだ福留隼人儀重の子である。
>関が原の戦いの後、牢人となった半右衛門は諸大名を転々としており、大坂の陣の時は井伊家に属し、
>戦後は尾張徳川家に仕えて生涯を終えた。
>半右衛門自身の生い立ち、戦場における同僚との他愛ない交流、一時期仕えた加藤嘉明家での気に食わぬ上司等、
>克明に記された『福留覚書』において大坂の陣、特に夏の陣のことは、淡々と足早に書かれている。
0777人間七七四年
2014/11/08(土) 11:40:15.46ID:YpBVCs5e戦国の泣ける話やね
でも、こういうケース他にも有ったんだろうなあ・・・
0778人間七七四年
2014/11/08(土) 12:15:25.36ID:YpBVCs5e>『覚
>一・羽柴筑前守(秀吉)、約定違反のこと
>一・清須において誓い、それぞれに印も押した置目について、秀吉は全く守っていない。
>政治の形が今までと全く変わったことに、庶人は不信を申し立てている。諸国の下々がそのように言っているのは
>当然のことである。政治が分明に、決まった通りに行われていればどうしてこんな事になるだろうか?
>羽柴筑前とこの勝家の間は、、元々は疎遠でなかったはずなのに、この頃では人々も不和だといっている。
>天下の織田家御分国を静謐にするという評定は当然のものなのに、清洲会議以来の秀吉の裁許は、言葉にもならない
>有様である。諸人がこれを不審に思うのも尤もである。
>一・この勝家自身のことを言わせてもらえば、私は長浜を分配していただいた以外、米一粒、一銭足りとも私していない。
>申次の諸侍から、この事に対して私に嘆いてくるものが聊かあるが、そういった者たちにもその理由を申し使わして、
>道理のあるところをよくよく説明しているので、私の方では知行にも諸侍にも手心を加える事は一切無いのだ。
>一・若子様(三法師)の事だが、惟住五郎左(丹羽長秀)より、岐阜に申し上げるべきだとの意見により、各一同の
>兼ねてからの約束通りに、岐阜から安土への御動座をされるようにと、岐阜へも、五郎左へも返事をした。
>その墨付は双方に存在している。
>一・今度の上様(信長)のご不慮によって、天下は混乱し治め難き様相となった。未だ四方に敵があるのだから、
>内輪は対立を自重し、上様の行いを引き継ぎ四方に馳せ走る。上様がおられなくてもそのようにするのが
>本来で有るべきなのに、全くそのようになっていない。
(続く)
0779人間七七四年
2014/11/08(土) 12:17:26.60ID:YpBVCs5e>仰せつかった。ところが北条が、彼らは上様御在世中は上様の御意に従っていたというのに、状況が変わると
>その態度を一変させ織田の軍を攻め家康と対陣に及んだ。事ここに極まって、天が味方もしてくれたのだろう、
>徳川家の者共は皆で一致してこれに立ち向かい、即座に置い崩し討ち果たした。誠に上様の時より続く軍忠、
>これは上様へのお弔いにもなるもので、かつ天下の誉れ、これに過ぎるものはないではないか!
>しかるにそんな事を考えもせず、御分国の内に私的に新城(山崎城)を建設するなど、様々な我意を通している
>秀吉は一体、誰を敵としているのか!?
>政治を担当するものがそのような事をするのは許されないものである。私と彼との関係が悪いといっても、
>今は心をあわせて、上様のご苦労によって治められた織田家御分国をあい治め、御分国の政治を、たとえ
>上様には及ばなくても、相守るべきなのである。
>このままでは結局共食いをして双方果て、織田家の領国も他人の国になってしまうだろう。
>これは我々一同の本位ではないだけではなく、天道にも背いた行いであろう。
>しかし今、情勢はそのような方向に向かっていることが、無念至極なのである。
>柴修 勝家(花押)
>天正十年十月六日
>堀寿太郎殿』
>清洲会議の約束を守らず独自行動を拡大する秀吉に対する、柴田勝家の危機感が溢れる書状である。
(南行雑録)
0781人間七七四年
2014/11/08(土) 13:54:46.06ID:q9TRtVai>「急げ、急げ」
>ある時、二代将軍秀忠は駕籠を急がせていた。「大御台所さま、ご危篤」の報告に、一行は全力で駆ける。
>その時、駕籠の外で交わされる私語が、不安と絶望で塞がれつつある秀忠の耳に届いた。
>「何で、こんなに急ぐんだ?(何事ニテカ、斯クハ急ギ給ウ)」
>「ババァに会いてぇからよ(ババに会イタサニサ)」
>これを聴いた瞬間、秀忠は……何もしなかった。今は、こんな奴等に関わっている時間は無い。
>後日。
>「この者どもにございます」
>あの時の私語は誰か、と尋ねる秀忠。平伏する供のうち、私語の二人は即座に特定された。
>平伏する両名に近づく秀忠。
>と、左手を伸ばして一人の襟を掴んだかと思うや、軽々と持ち上げて、右手で抜いた脇差を一突きして、死体を一間ほど放り投げた。直ぐに、もう一人も同じ運命を辿った。
>人間一人を左片手で子猫のように持ち上げ、脇差の一撃で即死させ、二メートル近く投げ飛ばす。
>何のかのと言われても、流石は戦国乱世に生まれた漢の一人であった秀忠の少し意外な素顔。原哲夫先生の劇画で脳内再生できそう。
0782人間七七四年
2014/11/08(土) 13:57:45.70ID:q9TRtVai無骨さとかけ離れた存在だとおもっていたから。
まあ死体を二メートル近く片手で投げ飛ばしたというのは誇張だと思うがw
0783人間七七四年
2014/11/08(土) 14:00:22.42ID:q9TRtVai>ある日高橋紹運が戦評定のため戸次道雪の陣営に趣き、評議が終わって酒宴となったころ、どこからとも無く
>真っ白なる鷹が飛んできて、庭前の松の梢に止まった。
>近習の若侍たちはこれを見て「何としてもあれを捕えよう!」と立ち騒いだが、どうにも方法が見つからず
>手を出しかねていた。これを見ていた道雪は
>「誰か、鷹の事に心得のあるものはいないのか?」
>と尋ねると、早良善内という老人が立ち上がり、厨房の方に走っていくと鳥の肉を一片ばかり取って帰ってきた。
>そして庭上に降り立ち、肉を振って静かに鷹を呼ぶ。
>と、鷹は肉をめがけて飛び降りてきた。善内、これを巧みに捕らえ拳に据えて、そのまま道雪の御前に出て、
>「これは天晴、逸品の鷹でございます!そのうえ白鷹といえば、別して賞翫される特別なもの。
>これがただいま、庭の松に止まったというのは、目出度き瑞祥に違いありません!」
>そう、大声を響かせた。
>道雪はこれを大いに喜び、善内に褒美を与え、そのままその鷹の管理を任せた。
>ところが、である。この鷹はそれから2,3日過ぎて、何の病気も怪我もなかったというのに死んでしまった。
>後になって人々は、『あれは道雪の卒去の前兆であったのだ』と、噂し合ったそうである。
(伝習館文庫柳河藩政資料)
0785人間七七四年
2014/11/08(土) 14:40:07.74ID:q9TRtVai既出の意見だがアルビノで虚弱体質だったからだろうな
0786人間七七四年
2014/11/08(土) 15:41:02.36ID:q9TRtVai>彼は「高麗両度ノ役」にも従軍し、ひたすらに武勇に励んだのだが、主君である正弘が誉れ無きために、
>せっかくの武功もまったく無意味なものになってしまった。
>「やってられるか!!」
>帰朝の後、良定は病と称して故郷・近江国大石に退いてしまった。
>山口正弘は加賀大聖寺城主に取り立てられた際に再び良定を招こうとしたが、彼がこれに応ずることはなかった。
>良定は「高麗」で3人の童女を捕らえて連れ帰り、幾以、津留と名付けていた。残り一人の名は詳らかではない。
>彼女らはとても凡下の者のようには見えず、耳に穴が有ったという。
>3人のうち津留は、良定の甥で、真壁(赤穂)浅野家の家老となった大石内蔵助良勝の若党・与右衛門の妻となり、
>良勝の子・良秀の乳母となっている。
(大石家系図正纂)
0787人間七七四年
2014/11/08(土) 15:44:07.41ID:q9TRtVai0788人間七七四年
2014/11/08(土) 19:44:07.03ID:KJkpXf/2>ほぼ同時代を生きた能島の村上武吉と来島の村上通康の高名の影に隠れて今一つ目立たない。
>そんな彼の人となりを、因島村上氏の一族の記録から見てみよう。
>北九州方面から上方へ来る荷船は赤間関で、防長・豊前から来る廻船は上関で、能島衆が通行を取り締まっていた。
>豊後・日向発で伊予方面に向かう荷船は来島衆の、備後方面へ向かう船は因島衆の担当である。
>しかし上関や周防大島の衆が豊後沖付近まで出張って荷船から帆別銭(通行料)を取ってしまうことがあり、
>それをされると因島衆の収入が減ってしまい、大きな悩みの種であった。
>また、因島付近を通行する未取締船にも、小早川家のお膝元である近所の三原港に逃げ込まれてしまい、
>仕方なく取立てを諦めることが何度もあった。
>因島の当主・村上吉充は腹に据えかねて、この窮状を小早川隆景に訴えた。
>「因島は三島の中でも小身なのに、このような仕打ちは我慢できません。
>何卒よくお考えいただいて、違反がないよう御命令を出してください」
>「言いたいことはわかりました。ですが、海上のことは村上三家に一任していることですし、こちらからは何とも……。
>それに、海の関を逃げられることもそちらの不手際ではありませんか。新蔵人(吉充)よ、そのような申し出は通りません」
>素気無く断られた吉充だが、一度では諦めなかった。
>今度は配下の若者たちを動員して一斉に奉行所に訴状を出させたのだ。
(続く)
0789人間七七四年
2014/11/08(土) 19:45:58.73ID:KJkpXf/2>(隆景様御機嫌悪鋪、仰出され候は、)
>「三原へ逃げ込んできた船に、いちいち通行料免除をしなければいけないこちらも迷惑なのですよ。
>しかしどこの国の船であろうと、助かりたい一心で飛び込んできた者を助けないのもまた不仁。
>私に船を助けてはいけないと言うのであれば、その方もまた船を襲うことをやめるべきです。
>大体、元就様から過分の恩地を頂いておきながら『小身なのに』とは何ですか。欲張るのはやめなさい。
>海賊と言うものは所詮犬のようなもの。運送の荷船は鹿や猿だ。
>犬が鹿や猿を取ったからと言って、『よしよし、よくやった』と褒めるのは猟師くらいのものだ。
>元来犬の方が横暴なのに、鹿取る犬を誰が当然のようにもてはやそうか」
>と因島の驕りを久々に睨みつけたので、吉充は困惑してしまった。
>隆景腹心の乃美宗勝や磯兼左近大夫に取り成してもらい、何度も侘びを入れて許してもらったと言う。
>これより以前、足利義昭を毛利家が警固することになった時、因島の吉充に漕船及び警固船出動の命が下ったが、
>遅刻してしまったことがあり、その時も「隆景様御機嫌そこね、御しかり成され候」
>その後、引退もし損ねた吉充は乃美、末長、木谷ら小早川家重臣たちから代わる代わる説教責めにあったそうな。
>毛利・小早川に最も近い村上水軍棟梁の、意外な素顔である。
(三島海賊家軍日記)
0791人間七七四年
2014/11/08(土) 20:29:16.27ID:KJkpXf/2>義宣はこの時、普段から仲が悪かった政宗と景勝を和解させる為に
>「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」
>と何度も言い聞かせた。
>これに景勝は応じたが、政宗はといえば
>「俺も別に構わんぞ。だが、もし貴殿が幕府に背くような事あらば、俺が直ちに粉砕してやるわ!」
>と逆に景勝を挑発した。
>「・・・・・・てめぇ」
>善意を踏みにじられてしまった義宣は政宗のこの発言にブチギレてしまい、
>「上等だよ!だったら、もしお前が幕府に背いた時には、俺か景勝のいずれかか先陣になって
>お前をぶっ潰してやんよ!」
>と応酬した。その後、政宗は自身の後継者である忠宗が忠恒に刀を贈った話をきっかけに
>「義宣の刀が見たい。」
>と言い出したが、義宣は
>「誰が見せるか。」
>と頑として応じなかった。
>「おいおい、お前は何をそこまで用心してんだよ?」
>と政宗に問われると
>「お前相手に、用心しない訳がないだろうが。」
>と返したという。仲介役がケンカの当事者になってしまったお話である。
>最後に、この三人の喧嘩をすぐ傍で見ていた忠恒の胸中は如何ばかりか・・・
0792人間七七四年
2014/11/08(土) 20:30:30.27ID:KJkpXf/2まさに「仲良く喧嘩しな」だなw
0793人間七七四年
2014/11/08(土) 21:03:21.97ID:KJkpXf/2>三加和村田中城主、和仁親長は一揆側として反乱に加わったが、佐々成政の軍勢に攻められ落城。
>和仁親長は討ち死にする。
>この時、先に城より落ちていた和仁親長の夫人と娘、そして侍女たちは、和仁川の赤池淵のほとりにて
>田中場の落城を知り、前途に絶望しここにて自害すると決した。
>そして夫人は自分の娘、当時13歳であったという、を手にかけようとしたが、さすがにわが子を自らの手にかけることは
>忍びず、自分に付いてきた老僕に、この娘を淵に落として、溺死させるよう命じた。
>老僕はあまりのことに恐れ躊躇したが、夫人は何としてもと命じたため、致し方なく彼は、姫を岩の上から淵へと
>落とした。
>ところがこの姫は一端は沈んだものの、再び浮かび上がり岸へとたどり着いた。
>老僕は夫人に攻められ、再び姫を淵へと落とす。しかし姫は再び浮かび上がり、岩へとしがみついた。
>これを見て夫人は、自ら水の中に入り、姫の側へと行った。
>姫は泣き叫んだ
>「母上様!お許し下さい、どうかお許し下さい!」
>夫人は姫の頭を縦に持ち、そのまま水に沈めた
>「未練です。許してください。許してください。」
>姫は、水に沈んだ。
>これを見た侍女たちは、それぞれ着物の上から紐で足を縛り、次々に赤池淵に身を投げた。
>そして最期に夫人は、あの老僕に
>「そなたには今まで、一方ならぬ世話になりました。
>もし、生き延びることができたならどうか、私たちの菩提を、弔ってやってください。」
>そう言って、娘の沈んだ淵に身を投げた。
>その後、夫人の遺体は下流の菊池川の淵に流れ着いたという。
>それから、夏の夜になると、赤池淵に不意に楽の音する時があった。
>こんな時は、付近の人々は「和仁御前」のお帰りだとして、酒やお供えなどを、淵に投げ込んだのだという。
>そんな時は必ず、突然の雨が降ったのだそうだ。
>肥後に伝わる、和仁御前の伝承である。
0794人間七七四年
2014/11/08(土) 21:06:14.31ID:KJkpXf/2痛ましい話だが、何で昔の女性の自害って入水が多いのだろう。
入水って相当苦しい自害方法のはずだが。
首吊りとかにしてやれなかったのだろうか。
0795人間七七四年
2014/11/08(土) 21:53:11.92ID:KJkpXf/2>しかし同17年になると追い落とされていた赤松政則が復活し、蔭木城が陥落するなど山名方は次第に劣勢に立たされていった。
>そんな山名方を窮地に追い込んだのは吉川経基の活躍だった。
>「初代鬼吉川」「俎吉川」の異名を持つ稀代の猛将が、赤松方の援軍として参陣したのだ。
>赤松政則は、吉川家が梶原景時追討の功で得ていた播磨国福井荘、山名に脅かされていたこの荘園の代官職を戦費としてあてがうことでその援護を得ていたのである。
>文明19年正月、追い詰められた山名政豊は強く願った。
>「わしも援軍が欲しい!絶対に欲しい!」と。
>政豊はまず、甥である細川政元を通じて将軍家を動かそうと考え、家臣・垣屋越中守と村上左京亮を京に派遣した。
>垣屋・村上の両名は「山名・赤松の戦いを私闘と見なして介入しないという将軍家の方針を改めること」「山名方に援軍を出すこと」を細川家臣・安富ら3人に対し連日連夜、切々と訴え続けた。
>が、細川政元の赤松方への肩入れもあって、色よい返事が返ってくることはなかった。
>そこで二人は、公正なことで知られる政所執事・伊勢貞宗邸に赴いて、貞宗に訴えてることを考えた。
>自分たちの言い分が将軍の耳に達するよう、貞宗の使者と、その口添えを得ようというのだ。
>「垣屋らが到着する前に貞宗を説得せよ。山名に同調させてはならぬ。」
>細川政元は、安富らを伊勢邸に急行させた。
>安富らは「赤松家の忠節ぶり、誰がそのことを知らざるや」と説いて貞宗の心をつかみ、政元の期待に応えたのである。
>さて、垣屋・村上がやってきた。
>貞宗は安富らを先に部屋に招き入れ、垣屋らを門の外に待たせておいて、安富らと酒宴をはじめてしまった。
>山名家の二人がようやく召されたのは、その酒宴もたけなわとなった頃である。
>その場はもはや訴訟なんぞできる状態ではなく、二人は大酒宴に酔っ払ってただ帰るほかなかった。
(続く)
0796人間七七四年
2014/11/08(土) 21:54:40.90ID:KJkpXf/2>その頃、備中に勢力を張る細川家の家臣・庄春資の甥の朋輩で、山名家にも近しい山田という男がいた。
>山名政豊は彼に目を付けると、あろうことか細川政元の使者に仕立て上げて庄春資の屋敷に下し、密かに
>「京兆(政元)は山名への合力のため、備中の庄の軍勢を播州へ呼び寄せることにした。」と言わせたのだ。
>すると庄春資は、一族の庄伊豆守に山名政豊救援を厳命し、その軍勢を播州へ進発させたのである。
>「してやったり!」ほくそ笑む政豊であった。
>とはいえ、策が策である。
>某SLGじゃあるまいし、まさかこんなのが成功するとは思えない。
>案の定、庄春資と一緒にいた、とある武将に計略を見抜かれてしまった。
>「政元様は山田という男を知らず、顔も見たことが無いはずだ!彼の軍勢呼び寄せの密談、信用するに足らぬのではないか?」
>疑念を抱いた彼は政元に仔細を尋ねてみたところ、
>「かようなこと夢にも知らぬことである!それに山田いう者はいったい誰であるのか!!」
>はたして、推量どおりの言葉が返ってきたのである。
>彼の建白を受けた庄春資は、播州に向かっていた軍勢を撤兵させた。
(蔭涼軒日録)
援兵を得られなかった山名勢はますます劣勢となっていった。
そして長享2年、山名政豊は夜陰に紛れて書写坂本城を脱出、赤松政則の追撃で多数の死者を出しながら、辛うじて但馬に撤退することになる。
かくして7年に及ぶ政豊の播磨攻めは完全な失敗に帰したのである。
0797人間七七四年
2014/11/08(土) 21:59:24.29ID:KJkpXf/2吉川経家が鳥取城主として迎え入れられるわけか
秀吉の餓え殺しにあって切腹に追い込まれるのだが
0798人間七七四年
2014/11/09(日) 01:41:21.66ID:log4L8wV0799人間七七四年
2014/11/09(日) 17:06:38.27ID:KZcbFah4>永禄9年、上野の堅城である箕輪城はついに武田信玄によりついに落城し、城主である長野業盛は父業正の遺言通り降伏することなく自害した。
>この業盛の妻、藤鶴姫は元は上杉家の出であり、わずかな家臣と共に越後へと逃れようとした。
>しかし敵の追っ手がやってきたため家臣たちはその相手をして、姫を先に逃がした。
>1人で峠を越えようとした藤鶴姫、しかし女性の身では峠を越えるのは大変であり、お堂のところで少しだけ体を休めた。
>すると今来た道の方から「おーい!」と呼ぶ声が。
>「もう追っ手がそこまで…。もはやこれまで…。」と彼女はお堂の中で自害した。
>しかしその声の主は追っ手からどうにか逃れてきた家臣だった。
>哀れ藤鶴姫、彼女が自害したお堂近くを汚すと今でも祟りがあり、鼻血が止まらなくなるという。
(藤鶴姫墓所説明文を元に)
0800人間七七四年
2014/11/09(日) 17:11:38.70ID:KZcbFah4本当は自害する必要が無かったのにというやるせなさを感じた。
思い出したのが、昔何浪もしていた浪人生が大学入試を受けた後
「出来が悪かった、これじゃまた今年もダメだろうな」と絶望し
合否が発表される前に自殺してしまったという話。
0801人間七七四年
2014/11/09(日) 17:13:37.61ID:KZcbFah4>それに伴って領内の神社仏閣を破壊して仏教徒に迫害を加えるようになった。
>領内にあった普門寺にも高山右近の軍勢がやってきて危機的状況におちいった。その時、
>寺の中に安置されていた毘沙門天像の憤怒の形相がさらに怒った顔に変貌し、強烈なオーラを放った。
>すると、右近の軍勢の陣中に魔風が吹き荒れ、おそれおののいた兵士たちは蜘蛛の子を散らすかのように
>逃げ去っていった。こうして、普門寺は破壊の危機をまぬがれたのである。
0802人間七七四年
2014/11/09(日) 18:27:29.97ID:KZcbFah4キリスト教が大きな武器として使われていたというのがよくわかる。
幸い日本は植民地化はされなかったが、部分的にはこういうことが進行していたんだな。
大友宗麟も似たようなことやってたはずだし。
秀吉が怒って伴天連追放をしたのは当然だ
0803人間七七四年
2014/11/09(日) 18:33:14.40ID:KZcbFah4>山口は長年忠勤を励んだにもかかわらず、俸禄の加増も全くなく、後から取り立てられたものが自分を追い越して
>立身していくのに我慢がならず、その事の不満を広言し、ついに出仕を止めてしまった。
>生駒高俊はこれに激怒し、山口を捕らえ斬首を命じ、のみならず彼の女房子供まで殺した。
>斬首の場において、山口は激しく怒り叫んだ
>「お上のなさりように不平を申し上げたのは、この身に覚えのある罪過である。だから処罰の受けるのも
>仕方のない事だ。だが何の罪もない妻子まで殺すとはどういうことか!?
>そのうえに、侍に切腹させず、斬首にするとはいかなる処遇か。この屈辱、耐え難い!」
>そして斬首役の横井二郎右衛門を睨みつけ
>「斬り損なうな、見事に斬れよ!我が怨念に力があるなら、近いうちにそのしるしを見るであろう!」
>これに横井
>「うむ!承知!」
>と、山口の首を落とす。その首は2,3間転がると斬られた面を下に立ち横井の方を向き、彼の目をきっと
>睨みつけてから、静かに目を閉じた。
(続く)
0804人間七七四年
2014/11/09(日) 18:34:44.00ID:KZcbFah4>寝ても覚めても、山口が血眼で睨みつけている姿が見え、彼は大声で叫びつつ刀を抜いて、そこらじゅうを
>斬って回った。家族の者が何とか取り押さえ、刀を取り上げたが、
>「彦十郎よ!殿のご命令で仕方がなかったのだ!許してくれ!許してくれ!」
>そう手を合わせ足掻き続け、7日目に死んだ。
>その後も山口彦十郎の亡霊は高松城下に現れ続けた。生前と同じ肩衣姿の山口に行き会い、
>身がわなわなと震えそのまま病みついて死んでしまったものが14,5人にも及んだ。
>このような怪異に生駒家中の者たちは恐れおののき、山口の菩提を弔い供養を行った。
>すると城下で山口の姿を見ることはなくなったが、それでも怪異のことは続き、長屋が突然鳴動したり、
>城中の大木が風も吹かないのに折れ倒れるなど、不思議なことが数多く起こった。
>そして生駒高俊にいつしか邪悪の心が起こり、藩政が乱れ、ついに改易されたのも、この山口彦十郎の
>怨念のためであると、人々は噂し合ったとのことである。
(平仮名本・因果物語)
0805人間七七四年
2014/11/09(日) 18:44:01.97ID:OgAXZBu+耳川で主だった武将が戦死した後、徐々にキリシタンの武将が増えていったらしいな
0806人間七七四年
2014/11/09(日) 19:18:35.01ID:KZcbFah4そうなんだ。むしろ逆だと思ってた。
大友宗麟が耳川の合戦の前にキリスト教信仰の立場から神社仏閣を破壊させていて
それで耳川で負けたものだから
キリスト教に対する反発がより強まったのだと思ってた。
0807人間七七四年
2014/11/09(日) 19:25:14.14ID:KZcbFah4幽霊の類は自分は信じないが、罪の意識がそういうものを
幽霊の存在を信じていた当時の人に見せて心を病ませ、死にまで至らせたのだと思う。
小早川秀秋もそうだね。罪の意識及び「日本一の裏切り者」のバッシングが
彼に大谷良嗣の幽霊を見せ、精神疾患になり若死にしたのだと思う。
0808人間七七四年
2014/11/09(日) 19:29:30.03ID:KZcbFah4東軍の親戚浅野長政からは「叔母上高台院様は東軍につけと仰せだ」ともちかけられ
西軍三成からは秀頼が成人するまで関白になっていいからと持ちかけられ
弱冠18歳(19歳だっけ?)の青年には重すぎる状況におかれ
もうパニックになってたんだろうと思うから。
0809人間七七四年
2014/11/09(日) 20:31:20.82ID:KZcbFah4>古くから信仰があり、源義家や新田義貞などの武将の信仰もあつかった。
>戦国の時代に入ってもそれは変わらず、天文元年(1532)に上杉憲政が伽藍を整えてからより発展した。
>しかしその後、戦国ちょっといい話・悪い話まとめにもある武田の先手、那和無理之助と箕輪の老将、安藤九郎左衛門の戦い(白岩の戦い)
>に巻き込まれ、その観音堂は焼失してしまった。
>そこで武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(1580)に観音堂を再建させた。
>時はめぐり、時代は昭和。
>浜川(現在の高崎市)に住む箕輪城主の長野氏の直系、52代目当主である長野正弘氏がまだ小学生の時、まちに待った遠足の行先が白岩観音であった。
>すると父親である弾正氏は、白岩観音が長野家を滅ぼした武田氏によって再建されたものであることを理由に、彼を遠足に参加させなかった。
>しかしそれは弾正氏の個人的考えではなく、浜川の長野氏一族は上記の理由により代々白岩観音への参拝を拒み続けてきたのだ。
>今でも彼らは白岩観音への参拝をしないという。
(「箕輪城と長野氏」などより)
0810人間七七四年
2014/11/09(日) 20:35:28.65ID:KZcbFah4自分はそういうの好きだな。
一族の伝統、しきたりを大切にするという
そういうのが無くなっていくのは寂しい
0811人間七七四年
2014/11/09(日) 20:39:40.85ID:KZcbFah4謝罪要求とか賠償請求とかそういうことにならない限り、
結構そういう話好きだな。
それだけ歴史が生き続けているというのを実感できて。
まあこれは自分が萩にも会津若松にも関係ない第三者だからいえる
無責任な考えかもしれんが
0812人間七七四年
2014/11/09(日) 21:54:02.69ID:2gBG9vYI>『今日の未の刻、大地震が起こった。どうやら火神が動いたようである。
>7月の地震は大兵乱の予兆だとされる。また、火神が動くのは中央に怪異が起こるとされ、
>天子が亡くなり臣下が滅び、天下人民の多くが死ぬ、とされる大物怪である。
>昔、木沢長政は信貴山に城を造り、久しく当国(大和)の闕所を知行していたが、
>天文11年(1542)3月17日、不意に滅んでしまった。
>その年は正月二十日巳の刻に大地震があった。
>それ以来、地震は度々あったがあれほどの大地震は無かったのに、今日の地震は
>あの時以来の、地上が滅びるかと思うほどの大地震であった。
>今、秀吉は天下に号令し、その権力は昔に聞いたこともないほどである。
>しかしそんな彼にも盛者必衰の時が至るのであろうか。沈思沈思。』
>巨大な被害をもたらした天正大地震(ちなみにこれで、あの帰雲城が山崩れにより埋没した)に際し、
>秀吉の政権の未来に暗雲を感じた、多聞院日記の記事である。
0813人間七七四年
2014/11/09(日) 21:58:44.54ID:2gBG9vYIしかしこの後秀吉のいた伏見城を直撃した大地震(謹慎中の清正が真っ先に駆けつけて許されたやつ)が
起ったかと思うと感慨深いものがある。
0814人間七七四年
2014/11/09(日) 22:00:24.68ID:2gBG9vYI>この時幕閣たちは
>『誰か家光公の前で大食いをすれば、それに釣られて公も食がお進みになるのではないか?』
>と考えた。どうしてそう考えたのかわからないが、ともかく幕閣は大食いをする志願者を募った。
>これに応じた御番衆の一人は、「枝柿を100食べます!」と言った。
>御前に出して食べさせてみると、家光が見ているので畏まってしまい、柿を種ごと食べてしまった。
>家光も驚き、「種を取って食べるが良い」と言うとそれに従って種を取ったが、取った種をまた、
>実と一緒に食べてしまった。動顛していたのだろうか。ともかくそうやって柿を種ごと100個、
>食べつくした。
>次のものは「雉を一羽まるごと、焼き鳥にして食べます。」と言う。
>そこで雉の丸焼きを出すと、瞬く間に残らす食べた。
>家光はこの両名に褒美を下した。
>さて次に御坊主の一人が「私は砂糖を一斤(600グラム)食べます」と言ってきた。
>そこで砂糖一斤を出したが、この坊主は半分ほどで挫折してしまった。
>これには『いい加減な、出来もしないことをお上に申し上げた』とのことで、改易か遠島の処罰を受けた、
>という。
>家光の頃の、御前大食い試合の話である。
(異説まちまち)
0815人間七七四年
2014/11/09(日) 22:37:34.58ID:2gBG9vYIその程度で改易か遠島だなんて。
しかし食欲不振の人の前でそんな大食いしてみせたら
それこそ「それは余に対する嫌味か!」と処罰されてもおかしくないと思うのだが。
そうでなくてもかえって食べる気を無くすのが普通じゃないか?
0816人間七七四年
2014/11/09(日) 22:39:55.31ID:2gBG9vYI>黄瀬川を越えて、わざわざ北条領まで出向く形となった家康だったが、対面の際は氏政を上座に据えて
>「両家の領地の境にある城を破却して境界を無くそうと思います。また、そちらが東北地方に出陣する際には
>私が先手を引き受けましょう。」
>と、北条方を喜ばせる事を述べた。宴席が始まると上機嫌になって深酔いした氏政は、家康の膝の上に寄り掛かって脇差を抜き取り、
>「若い頃から『東海一の弓取り』と呼ばれた家康殿の刀を取った。この氏政は大功を立てたぞ!」
>とはしゃいだという。しかし、そんな中氏政は家中の状況を観察されており、宴席の後家康は
>「北条の世も終わりだ。家臣の様子で察しが付く。」
>と述べたという。
0817人間七七四年
2014/11/09(日) 22:45:51.65ID:2gBG9vYI戦前にヤンキースが来日した時(沢村栄治が好投しベーブルースから三振を奪ったというあの伝説の試合があった時)
来るべき日本との戦争のために日本の街並みを観察していた選手もいたという話を思わせる。
それにしても飯にかける汁の量がわからず「この子の代で北条は終わりか」と氏康を嘆かせた件といい
氏政は主従ともダメだしされるなあw
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