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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう

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0001人間七七四年2012/10/15(月) 00:12:08.25ID:RhmDVWTD
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話を上げたり、もっと話したい事を話そう。


戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/


鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0617人間七七四年2014/11/02(日) 21:54:27.02ID:o5DlY+lP
>本能寺の変直前の、織田信長が徳川家康を安土に招いての饗宴の時の事である。

>この日、家康をもてなすため山海の珍味を残らず取り揃え、その上に能を
>梅若太夫に申し付けた。そして舞は幸若太夫に申し付けた。

>この幸若太夫の舞を徳川家康は殊の外喜んだ。これを見て信長は
>「ではもう一番舞わせよう」 と、すでに幸若が下がっていた楽屋へ使いを立てた。

>戻ってきた幸若は『和田酒盛り』を舞った。これは最初の舞より更に素晴らしい出来であると
>信長も絶賛し、彼に金子百両、帷子五十を遣わした。

>梅若にも同様の御音物が遣わされたのだが、梅若のその日の能は大変不出来で、
>2度に渡りど忘れをしてしまった。

>信長は後から腹が立ったのか、饗宴が終わってから梅若の泊まる宿に
>「お前のその頸を刎ねてやる!!(其頸を可被成御刎)」
>と、わざわざ使いを送ったそうである。
(川角太閤記)
0618人間七七四年2014/11/02(日) 21:59:38.00ID:o5DlY+lP
まず家康が舞をそんなに喜ぶというのが意外といえば意外。
家康はあまりそういった芸能鑑賞の趣味は無かったと思ったから。

それからこれは有名なことだが、信長の前で何かをするというのは命懸けだったんだなw
京風の料理を信長に作ってさしあげ、味が悪いという理由で打ち首になりかけた料理人といい
(京風は薄味、信長は濃い味付けが好み)
0619人間七七四年2014/11/03(月) 09:59:15.93ID:ZlMuGJ15
>慶長5年(1600)筑後の黒田如水の元に、小西行長の居城、宇土城を開城させた加藤清正が訪れ
>如水と軍評定を行い、薩摩に攻め込む軍略を話し合い、先ず清正を先に立て、肥後を通って
>薩摩との境、浅敷・水俣・湯ノ浦に軍を集結し、不日に薩摩に攻め入るべし、といった内容を
>確認し合った。

>この時黒田如水の軍勢は、彼が挙兵した頃にはおよそ9千。1万に足らないほどであったのだが、
>熊谷内蔵充、筧和泉守、福原右馬充、太田飛騨守、毛利民部大輔、毛利壱岐守など西軍の将の配下たちを
>望み次第に抱え、その他筑前、筑後の牢人たちが、我も我もと馳せ加わったため、今や事々しい
>大軍となっていた。その上加藤鍋島も幕下に属し、如水も「この上はどんな望みでも叶う」と
>面白く思っていた所、子息甲斐守(長政)より急な使者が届いた
>使者は如水の前で報告する

>『今度天下分け目の決戦、内府公(家康)勝利を得られ、石田治部少輔は一戦に打ち負け、
>敗北し伊吹山中の民家において生け捕り。大谷刑部少輔は戦場を去らず自害。小西・安国寺は
>どこどこにて生け捕り。すなわち大路を引き回され、三条河原にて獄門にかけられました。

>毛利輝元・金吾中納言(小早川秀秋)は甲州様の御計略を以って裏切りをなさったため、御国御安堵。
>さてまた美濃、神戸川、また関ヶ原では二度、甲州様はご自身でお手柄をなさいました。
>この事やいろいろな方面でのお働き、内府様へのご忠節、人に超えたものである故、内府様も
>甲州様の意向を聞かずに何事も決めないと、いかにも入念に語られました。

>この上は天下静謐になりましたので、九州での弓箭(合戦)はお止めください。』
(続く)
0620人間七七四年2014/11/03(月) 10:01:12.72ID:ZlMuGJ15
>これを聞いた如水はしたたかに腹を立てて怒鳴った

>「さてさて甲斐守、いくらまだ若いとは言いながら、なんと知恵のないことだろう!
>天下分け目の合戦とは、そのように急いでやるものではないぞ!
>何としてでも長引かせ、牢人に口過ぎをさせ、方々にて合戦があれば敵味方ともに、もし歳が行っていれば
>老年の慰みとなるよう、若者は、老いてからも人として生活できるよう、武功を立てさせるように
>させることこそ、人を引き回すものの役目である!

>それなのに、今の状況で天下が治まっては、我が軍に集まってきた牢人たちは餓え死にしてしまう!
>しかも集まってくる牢人は、一日一日増えているのだぞ!?
>全く以て、物を知らぬ日本一の大たわけは、甲斐守である!!
>どうしてそんな忠義立てをして、あれをくり分け、これに裏切りをさせ、それほど急いで家康に勝たせて、
>一体何の利益があるというのか!まったく残念大き事である。上方が治まってしまった上は、
>もはや是非に及ばず。」

>そう言うと不機嫌な表情のまま、中津川の城にすごすごと引き上げた。
>表向きはこの様であったが、その内意については計り難いものであった。
(古郷物語)
0621人間七七四年2014/11/03(月) 10:04:15.52ID:ZlMuGJ15
黒田官兵衛は優秀な戦略家・戦術家ではあった(秀吉が「わしの死後官兵衛が天下を取る」と
冗談で言ったほどだ)が、この時は先見の明が無かったのか
0622人間七七四年2014/11/03(月) 10:39:57.78ID:ZlMuGJ15
>牧野成里というややこしい経歴の武士がいる。
>その経歴の複雑さはhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5455.htmlここにも出ているが
>それがどんなものであったか書いてみよう

>成里の父、牧野某は尾張国毛呂崎城(現愛知県知多郡南知多町師崎)の城主であった石川筑後守と、
>囲碁の事で論争におよび、ついにこの石川に殺されてしまった。享年29歳であったという。

>この頃成里は未だ幼少であり、父の旧臣らによって育てられ成長し、元亀二年(1571)に至って父の敵を討とうとするが、
>石川筑後守はすでに年老い、家督を息子の隼人佑に譲って隠居していた。そして筑後守は成里が父の復讐を
>しようとしている、という話を聞き及び

>「壮年の隼人佑が家督を継いでいるというのに、老衰の私を狙うなどとは、まさしく勇気の無い行い様である!」
>と嘲り笑った。このことを今度は成里は伝え聞き、

>「筑後守は正しく父の仇であり、だからこそ今まで彼の命を狙っていたが、そういう事であるならこの上は
>隼人佑を討つべし!」として年月を送り、大野宮川の狩場においてついにこれを討ち果たした。
>この時隼人佑の家来たちが成里たちを追ってきたが、かねてから牧野成里の敵討ちのことを知っていた
>滝川一益が兵を出してこれを救け、伊勢長島城に迎え入れた。
(続く)
0623人間七七四年2014/11/03(月) 10:41:28.46ID:ZlMuGJ15
>そののち、滝川一益が没落すると織田信雄に仕え、また所縁があったために長谷川藤五郎秀一に属し、
>文禄元年(1573)朝鮮の役に長谷川家の一員として従い、長谷川秀一が陣中において没した時、
>豊臣秀吉が
>「長谷川秀一の軍勢を預かるべき者は誰が良いか?」
>と諸将に尋ねると、皆が牧野成里こそ然るべきと推薦したため、成里は秀吉の命令で長谷川家の軍配を預かり
>士卒を下知して各所で軍功を立てた。
>帰国の後豊臣秀次に仕えたが、秀次事件の後、石田三成に属した。

>慶長5年(1600)の関ヶ原の役において三成が敗亡すると、郎党十余人を従え包囲を突破して
>池田輝政のもとに逃げ込んだ。
>輝政は徳川家康にこのことを報告し、成里を扶持した。
>この時彼は剃髪し名を一楽斎と改め、輝政の領国播磨に暮らした。

>やがて寛永8年(1631)の徳川秀忠の上洛の時に、伏見において仰せを被り江戸に下向し、秀忠の御前に召されて
>還俗して再び名を傳蔵と改め、下野国梁田郡三千石の旗本と成った。

>牧野成里の、非常にややこしい履歴についてである。
(寛政重修諸家譜)
0624人間七七四年2014/11/03(月) 10:44:21.41ID:ZlMuGJ15
この牧野成里というものは知らなかったが、水野勝成並みに戦国の世を体現した武士だったんだな。
太平の世なら悪い話だが、戦国の世では賛否両論だろう
0625人間七七四年2014/11/03(月) 11:19:01.43ID:ZlMuGJ15
>柳生宗矩が剣術仕合について話しているのを傍らで聞いていた
>大久保彦左衛門は突然「但馬殿、仕合を致しましょう」と言い出した。
>宗矩も断る理由がないので仕合の日を約束した。

>当日、宗矩は庭に砂を蒔き、仕合の用意をして待っていた。

>そこに彦左衛門がやって来たのだが、彦左衛門は甲冑を身に付け、直槍を持った
>物々しい出で立ちで、宗矩の方へ行って小さい砥石を取り出し、槍の穂先を研ぐと
>「但馬殿、いざ参らん!」と言った。

>困惑した宗矩が「これは一体どういうことです。
>そのようなお姿では仕合はできません」と言うと彦左衛門はこう言った。

>「それがしはいつもこのようにして仕合を致しております。
>このように庭に砂を蒔いて所で、竹に皮袋をはめ、木の先に毛毬のようなものを
>括り付けて人と仕合を致したことはありませぬ。

>それがしはいつも山や田の中、畠の畷のような所で仕合を致して参った。
>しかし、このような庭で致しても一向に構いませぬ。さあ但馬殿、いざいざ参らん!」

>当然、宗矩は仕合?を断ったという。

――『名将言行録』
0626人間七七四年2014/11/03(月) 11:22:11.30ID:ZlMuGJ15
↑の話読むと改めて大久保彦左衛門の性格の悪さを感じる。
しかし見方を買えれば戦国武将と剣豪、今でいえば軍人と格闘家の
根本的な考えの違いを表しているともみれる
0627人間七七四年2014/11/03(月) 11:57:14.25ID:ZlMuGJ15
>鴫野の戦いの時、上杉景勝は敵の大軍を破って勝利した。
>この時、軍監を務めていた小栗忠政は、徳川家康の陣にやって来て、
>戦の次第を伝えると御次の間に退いた。

>そこで忠政は戦の時の話をし始めた。

>「今日の戦で敵を追い討ちする絶好の機会があったゆえ、
>景勝にすすめたのだが、もう日暮れだといって聞き入れなかった。

>しかし、残った敵も多かったゆえ諦めきれず、直江に兵を貸せ、
>わしが行くと言ったのだが、これも同じ様なことを言って断られたわい。
>さてさて、残念なことじゃ」

>…と言っているところに家康が入って来た。忠政の声がよほど
>大きかったのか、家康は話をすべて聞いていた。

>「やい、又一。お前の身分で景勝の指揮を非難するはいらざることぞ。
>このたわけ者め!」

>主に厳しく咎められて、流石の忠政も平伏して恐縮した。

――『徳川実紀』
0628人間七七四年2014/11/03(月) 12:00:20.45ID:ZlMuGJ15
↑の話から判断すると、家康って案外地位にこだわる保守的な人だったのかな?
相手の地位に関わらずいい意見ならどんどん耳を傾けた信長や秀吉と異なって
0629人間七七四年2014/11/03(月) 13:45:13.60ID:VWxejr8+
>黒田如水は関ヶ原の後、徳川家康へのお目見えのため上洛し京都狼谷に宿泊していたのだが、
>その宿舎には諸大名たちは言うに及ばず、越前中納言様、当時は三河守(結城秀康)からは、
>日々御使者が送られ、度々自身御見舞され、懇ろに饗すという、類少ない扱いであった。
>その他徳川家の御旗本衆、御近習、外様衆、更には牢人衆など、訪問者が門前市をなすありさまであった。

>こういった状況を心配したのが、久しい如水の友人である山名禅高(豊国)であった。
>彼は如水を尋ねるとこの様に忠告した

>「諸大名衆が色々と訪問する場所がある中、あえてここに参られるというのは、一体何の御用があるのか?
>人目を避けて夜から明け方まで御密談なされているという。
>牢人衆の事も、一体どんな理由があって、ここに大勢入れ込まれているのか?
>特に三河守殿に関しては、3日と開けず御使者を使わされ、ご自身による御見舞も度々のことだという。
>私がその場にたまたま居合わせた時に見たが、三河守殿はまるで親を崇めもてなすように
>心がけられていた。その様なこと、家康公にとってお気に召すはずがないではありませんか。

>ご存知のように内府公は単純な人ではない。いかにも親しい体の出入りの衆の内に、内府公の横目(監視役)も
>きっといるだろう。きっと内府公は、如水は面倒な相手であると思われていることでしょう。
>それでは立場はどんどん悪くなり、さらにもっと大事を引き起こすと考えます。

>現在、筑前守殿(黒田長政)の幸福は極まっていて、当代肩を並べる人も稀な程です。
>ご自身の様子、人からの評価、内府公からの信頼、今の日本において彼よりも幸福な人は2,3人も
>居ないでしょう。そうであるのに、貴老のそのほうな、現在の御作法では、筑前殿のためにも
>然るべからざるものでありましょう。
>ここは、同行させてきた家臣も大方国元に返され、病気療養として静かに在京されるべきでしょう。

>天下が治まったというのに、『未だ治まらず』と、徳川家の御旗本が警戒しているのは、大方
>貴老の事を念頭にしている事であると、世の中では申し散らしている。無論邪推ではあるが、
>天に口無しとも言い、猶以て警戒しなければいけないことです。

>真偽は知りません。ですが醍醐・山科・狼谷・六地蔵・宇治・その他京に近い在家に牢人であるとして、
>侍たちが方々に居住しているが、これは如水が隠し置いている人数であると、もっぱら噂されています。
>返す返すも大変なことだと思う。あなたはこれについて、その様に見られている事への御覚悟を
>持っているのか!?」

>このように繰り返し繰り返し意見した所、如水は言った
(続く)
0630人間七七四年2014/11/03(月) 13:46:50.30ID:VWxejr8+
>「禅高、よく聞いて欲しい。もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら、関ヶ原の折
>九州において数ヶ国討ち取り、島津だけが手に入っていないは国境まで押し詰めていた。
>あの時彼らを蹴散らすにしても味方に引き入れるにしても、さほど時間はかからなかったであろう。
>そうして九州を掌握した上で甲斐守(黒田長政・当時)を引き取り堂々と、家康に敵対するという
>我らの方針をはっきりさせて、当時中国地方、備前、播磨は空き国であったし、我々には
>2万余の人数があった。これを以って陸海を押し上がり、道中牢人や侍たちを吸収しつつ、
>内府との出会い次第に合戦を行えば、天下が私の掌中に入った、ということもありえただろう。

>だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために、討ち取った国を捨て、下鞘一つで上洛したのだ。
>特に筑前守は大国の主になったので、心安く養われ、後は後生に願いをかけているだけの状況である。
>そんな私に何の用心、何の気遣いがあるだろうか!?
>あなたの言ったような風聞には、このたわけ共はそんな事を言っていると聞き流し、真実とは
>考えないでいただきたい。少しでも私のことを知り、会話をしたことのある人間なら、
>その様に思うことはない!」

>そう、扇で畳を叩き、まったく取り付く島もない有り様で主張したので、禅高も呆れてしまい
>もう何も言わなかった。

>やがて禅高の言ったように、京大阪の牢人に対する取り締まりが厳しくなったが、徳川家の
>老中のうち黒田長政と特に親しいものより密かに連絡があったため、如水と親しい牢人たちは
>俄に取り散ったという。
(古郷物語)
0631人間七七四年2014/11/03(月) 13:51:04.19ID:VWxejr8+
天下分け目の戦いの動向についての予想は見事に外してしまった如水だったが
その後の保身は見事だったんだな

下手すりゃ切腹ものだったんだから
0632人間七七四年2014/11/03(月) 14:52:35.94ID:VWxejr8+
>ある日、南光坊天海が江戸城で語った。
>「最近『甲陽軍鑑』という本を読んだが、上杉謙信が武田陣に乗り込み、武田信玄は謙信の太刀を軍配で請けた
>と、書いてある。ありゃ、ウソじゃ。

>わしは、あのころ会津不動院に住しておったが、武田家に祈祷師として呼ばれる事があった。
>天文23年(1554)8月、わしが甲州へ檀那廻りに行くと、信玄公は信州で上杉と対陣との話。急いで川中島へ
>向かい、8月17日、信玄公と対面かなった。信玄公は機嫌良く会ってくれたが、

>「一両日に輝虎と合戦に及ぶであろう。ひとまず御坊は会津に帰り、来年ゆるゆると甲斐に来られよ。」
>と、さっさと追い出されてしもうた。

>わしも一度は帰路に着いたが、「出家の身が、大檀那の大事なる戦を聞き捨てにして去るとは、道理に合わぬ」
>と思い直し、夜通しかけて立ち戻り、翌18日の合戦を、近くの山に登って眼下に見届けた。
>両大将は御幣川に馬を乗り入れ、太刀にて一騎打ちに及んだが、敵味方入り乱れるうち、退いて行ったわ。

>その夜、わしは信玄公の陣小屋へ見舞いに行った。信玄公は手負い、壁に寄りかかっておったが、
>「御坊は帰られたと思っていたわ!」と喜んで迎えて下さった。
(続く)
0633人間七七四年2014/11/03(月) 14:55:27.71ID:VWxejr8+
>それを受けて、わしも
>「源平の合戦以来、大将の太刀打ちなど、聞いた事がありませぬ。古今に無きお手柄にございますぞ。」
>と褒めたが信玄公は、にわかに顔色を変え、

>「輝虎と太刀打ちしたのは、わしでは無い。知らぬ者は信玄と見ただろうがアレは、わしに似せた法師武者よ。
>わしでは無いので御坊、奥州に帰られても、左様な話は無用ぞ!」
>と怒られた。が、わしは近々と見たのじゃ。なかなか見間違えるハズも無し。」

>話を聞いていた横田尹松が尋ねた。
>「わしも謙信公の太刀にての斬り掛けに、信玄公は軍配で受けた、と聞きましたが・・・」

>「しゃっ!甚右衛門は生まれてもおらぬ時の話の、何を存ずるか!?わしは直に見たのじゃ、両大将の、
>騎馬にて川に乗り込んでの太刀打ちをな。わしが45歳の時の話じゃ、間違いない。」
(上杉将士書上より)
0634人間七七四年2014/11/03(月) 14:58:11.97ID:VWxejr8+
>>632-633の話、自分もあの信玄謙信の一騎打ちはフィクションだと思うが、
この天海の聞かせた話フィクションだと思う。
一体天海何歳まで生きたことになるんだよw
0635人間七七四年2014/11/03(月) 15:51:15.82ID:VWxejr8+
>天正10年(1582)、明智光秀は本能寺で主君織田信長を滅ぼすと、三宅式部を京都所司代とし、洛中洛外の
>地下人に金銀を下し、地子銭(固定資産税)の永代免除を発表した。
>これに京都の人々はみな有難く思って喜び合い、禁裏よりは久我宰相・土御門少将を勅使として、地子銭免除が
>叡聞に達し叡感を得られた旨を伝えられた。

>6月10日の未明、明智日向守光秀は参内し、久我宰相を通して金子五百両、白絹百疋、
>綿五百把を献上。そして奏上して曰く

>「私は奸心によって信長親子を害し、不慮に天下の政道を掌握しましたが、これは天の許さないところなのでしょう。
>それ故に今、朋輩であった羽柴筑前守秀吉が中国より馳上り、諸勢を尼崎に集結させていると報告を受けました。
>きっとここ両3日の内に、洛外において山河を動かすほどの戦いをし、私は討ち死にをするのだと思い定めております。

>今日は、今生のお暇乞いとして帝の龍顔を拝し、忝く思い奉ります。」

>これに久我宰相は天意を承って、答えた

>「戦の勝敗は、朝廷の関知できることではない。
>しかし地子銭免除は洛中洛外の永代の厚情であり、その積善は後世の子孫にまで及ぶだろう。」

>これを聞いた光秀は忝なさのあまり落涙して退出した。

>光秀はその他に仙院、女院、三公、九卿、百司、女官等まで尽くに金絹を献呈した。
>これこそ死後までの栄華であると、その頃言われたのだという。
(増補筒井家記)
0636人間七七四年2014/11/03(月) 15:55:15.54ID:VWxejr8+
>>635の話はいい話として紹介されているようだが、
この緊急時にやることではないと思うな。
さすがに秀吉があれだけ早く来ることは想定外だったとしても
謀反人の自分を主君の敵討ちとして多くのものが狙ってくるのはわかりきっていたはずだから、
もっと軍事に集中しろよ・・・
と自分も思うし、海音寺潮五郎も書いていた。
0637人間七七四年2014/11/03(月) 16:49:55.68ID:VWxejr8+
>大坂の陣にて、塙直之が蜂須賀至鎮に夜討を仕掛けた時、
>至鎮の家臣、稲田九郎兵衛は十五歳にして大功を立てたので
>徳川家康から感状を下された。

>この時に家康が近臣に向かって曰く、

>「子に名前をつける時はきちんと考えなければならないな。
>九郎兵衛はわずか十五だというのに、無闇に大人らしい名前を
>つけるから散々なことになる。

>何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
>評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ」

――『徳川実紀(天元実記)』
0638人間七七四年2014/11/03(月) 16:52:57.53ID:VWxejr8+
>>637の話、途中までは悪い話というか家康の言いたいことがわからなかった。
子供らしからぬ大功を立てたのにその子供らしからぬ名前に苦言を呈されるなんて
どういうことだ?と。
しかし最後の2行でどんでん返し、意味がわかった。
0639人間七七四年2014/11/03(月) 20:12:44.81ID:Unc3epob
>天正10年(1582)3月14日、信州浪合に駐屯していた織田信長のもとに、武田家滅亡の知らせと勝頼の首が届いた。
>信長は喜んで勝頼の首に向かい、

>「うぬが父、信玄入道以来の積悪によって、うぬは信玄の死から時を経ずして滅亡するハメになったのよ。
>しかし、かかる小せがれめに多くの将士を討たれしこと、くやしゅうてならぬわ。
>・・・よし、うぬら親子は上洛を望んでいたと聞く。望み通り、その首を都の大路にさらしてくれるぞ!」

>そう言うが早いか床机から立ち上がり、勝頼の首を蹴飛ばした。

>見ていた近習の竹中重矩は、たまらず隣にいた後輩の細川忠興に話しかけた。

>(アレは、今回の御征討が始まって百日もせぬうちに大した苦もなく取った首ゆえ、あのような真似を
>されるのだろうか?普通は、大将首なら首実検をするものだが・・・)

>(うむ、そうだな。ならばその旨、信長様にご注進いたそう。)
>(やめておけ、あの御景色では聞き届けていただけまい。益なき事ぞ。)
>(それもそうか。)


>「・・・それから百日もせぬうちに、信長様は本能寺に果てた。ゆえに、大将首は丁重に実検せねばならんぞ。」
>細川忠興は、のちに家臣たちにそう言ってきかせた。
(綿考輯録)
0640人間七七四年2014/11/03(月) 20:16:14.41ID:Unc3epob
>>639のような祟りの話、平清盛が東大寺大仏殿を焼いた報いとして
恐ろしい熱病(かけた水が蒸発するような体温になったら即死だってw)にかかったというのと同じで
自分は信じない。
単なる偶然だろう。
0641人間七七四年2014/11/03(月) 20:19:07.02ID:Unc3epob
信長と対照的に家康が勝頼の首に対して
「さぞご無念であったろう」と丁重に扱ったという話も有名だが
それも自分は信じない。
江戸時代に神君家康として崇められる中で捏造された創作だと思う。
0642人間七七四年2014/11/03(月) 20:52:25.11ID:Unc3epob
>関ヶ原の後、黒田如水は筑前においては世捨て人のようであった。
>全く浮世を捨て切ったと言って、召し使っていた侍たちも筑前守(長政))に揃えて渡した。
>その時、無足者(知行を持たない家臣)のうち確かな者には知行をこれだけ、知行を与えるほどではない
>者には扶持・切米をどれだけ、知行を取っている者には相応に加増を取らせ、その者たちを
>安堵させるようにして、如水自身は知行も家臣もいらない、と言い渡した。

>ところで如水の弟に黒田養心という人が居た。養心は病弱で役に立つような人ではなかったので
>2千石で召し置かれていたのだが、この養心に1万石を取らせ、宗像郡のうち津屋崎という所、
>ここは城はないが要害だというのでこの場所に置き、如水もこの近所に小屋同然の家を作らせ、
>小姓など知行取り10人ほど、徒者少々にてそこに暮らしていた。
>それから博多においては、博多町屋敷の空き地に、表向きは町家に拵えた屋敷を造り、
>いかにも逼塞の体に、殊勝に見せていた。

>さてさて、そのころ如水は太宰府天神信仰の体にて、時折太宰府まで出かけていたが、そのあたりの山陰、
>いかにも閑静な山中に茶屋を造り、その近辺、あの藪の中、この森の陰と屋敷を造らせ、
>ここに屈強の侍60余騎を置いた。
>さらに牢人衆を町中に住まわせ、彼らを商売人に紛れさせた。

>また馬敷という深山からは材木が採れた。如水は、ここは涼しい山中であり、また中間どもに
>材木を採らせるためとしてこの山中に小屋を掛け、定番だのなんだのと名目を付けて侍どもを
>隠し置きいた。
(続く)
0643人間七七四年2014/11/03(月) 20:54:35.22ID:Unc3epob
>さらに博多の町外れに広い空き地があるのを見つけると、如水は長政に、鷹師どもをここに置くようにと
>指図した。これに長政は
>「その場所は城から1里ばかりも離れていて不自由な場所です。鷹師であればもっと近くに置きましょう」
>と反対したが、如水は
>「悪いようにはせぬ!とにかく私のいう通りにしろ!」

>こう頻りに言ってきたので致し方なくそこに鷹師を置くようにすると、それに紛らわして
>家来も馬も持っていないような小知行の者たちに
>「人も要らず、まして馬も無用である!家をあの地に、町家のようにして造れ!」
>そのように申し付けた。この下知に従い、指図通りに、この小知行の者たちを
>町人とも鷹師とも解らないような体で召し置き、牢人も少々紛らわせた。

>この他、ここの新田・あそこの山守などと名づけ、あるいは牢人のようにして人を置き、
>突然の合戦などで人が必要な時は、いつでも騎馬の侍200騎余りが確かな者たちを引き連れて
>集結するようにしていた。
>それなのに普段は人も持たず、逼塞一遍の体で居たのだ。全く恐ろしい覚悟である。

>ある者の言う、奮馬は死するまでと言うのは、この様なことを言うのだろう。
(古郷物語)
0644人間七七四年2014/11/03(月) 20:58:07.56ID:Unc3epob
>>642-643のように如水の隠遁は気合が入っていたが、
これも保身のためだろうな。
命を懸けた保身、何か矛盾する言葉だが、如水だけに納得してしまう。
三国志の竹林の七賢を思わせるものがある。
0645人間七七四年2014/11/03(月) 21:33:53.23ID:Unc3epob
>松平定綱と井伊直孝は故あって数年にわたって断交していた。

>ある時、直孝は麾下の士に「いま天下で異変があったとしたら、
>その時に私が会わなければならないのは松平越中守だけだ。

>近年、互いの心に隔たりがあって疎遠になっていることを
>残念に思う」と言ったのを、その士が定綱の家に来て告げた。

>これを聞いて定綱は喜び、和談のために使者を取り交わして
>早いうちに面会しようとしたのだが、病に罹ってしまい、
>直孝と会うことができずに死んでしまった。

――『名将言行録』
0646人間七七四年2014/11/03(月) 21:36:04.95ID:Unc3epob
↑は戦国(じゃなくもう太平の世か)の友情話。
松平定信が島原の乱というまさしく天下の異変を治めたわけだな
0647人間七七四年2014/11/03(月) 22:13:29.83ID:Unc3epob
>関ヶ原の後、立花宗茂は加藤清正によって肥後の高瀬という場所に保護され、謹慎していたが、
>翌年の春、宗茂は清正に

>「これまでの御芳志によって、心静かに休息させていただき、満足この上もありません。
>ですが私は現在、暇を持て余している遊人ですので、都に上り名所旧跡を見物したいと思っているのですが
>これをどうお考えでしょうか?」

>まあ、ニートしてますが引きこもってばかりいるのもアレなので外に出て京都観光でもしたい、という
>ような話である。これに清正は
>「尤もの仰せです。どうぞ御心に任せて下さい。この清正からも一つ馳走させてもらいます。」と、
>京までの旅行について懇切に取り計らい、宗茂を京都まで上らせた。

>宗茂は京都、南都(奈良)、泉州堺などを心静かに遊覧し、三歳の春を送った。
>3年も遊び歩いていたのかと思わないでもないが。まあともかくもそのあたりで「今度は江戸に行ってみたい」と思い、
>慶長8年の秋ごろ、江戸に行き高田の宝祥寺に忍んで滞在していたのだが、旧交のある大名小名が
>これを聞きつけ訪問してきたため、後々は忍ぶも何も無いような状態で、諸大名の馳走に会って
>彼方此方と忙しくしていた。

>そんな時、土井大炊頭(利勝)が取り持ちをして、この宗茂の江戸滞在のことが
>大御所(徳川家康)に伝えられた。このとき家康は

>「先年関ヶ原の時、宗茂が石田に与したのは心から出たことではない。後から聞いたところだが、
>宗茂は小早川秀包と共に、毛利輝元に色々と異見したのだが、輝元が聞く耳を持たなかったので
>致し方なく大津城の攻め手に加わったのだという。宗茂にとっては詮方無き次第であったのだ。

>大炊頭、その方より宗茂に、彼が輝元に異見した当時のこと等を聞き、その上で今後の身の上について
>相談をしてくるのように。」

>そうして訪問した土井利勝に、宗茂も徳川家から扶持されることに、いまさら異議はないと答え、
>直ぐに召し出され奥州棚倉において1万石を、堪忍分として与えられた。
>この時立花宗茂は 「この度1万石を仰せ付けられたことを、完全に満足とは思っていない。
>だが、関ヶ原の折、私が毛利輝元に諫言したということが上聞に達した。
>これこそ私の本懐であり、どんなものもこれに過ぎることはない。」
>そう言って喜ぶこと限りなかったという。
(立斎旧聞記)
0648人間七七四年2014/11/03(月) 22:17:29.36ID:Unc3epob
結局関ヶ原の戦いで毛利輝元は何がしたかったんだろう。
総大将になっておきながら戦うでもなく、かといって>>647のように責任は取らされて。
以前「毛利輝元が大坂城に立て籠もった」とかいうスレが有ったと思うが
そのくらい積極的な態度を取るか、逆に最初から西軍には組しなければよかったのに。
0649人間七七四年2014/11/04(火) 05:09:23.88ID:8sT7NmGJ
>慶長五年のウィリアム・アダムス以来、極東の日本にもイギリス人が訪れるようになった。
>当時のイギリスは、エリザベス一世の治世以来海洋国家として着実に踏み出しており、
>時の国王ジェームズ一世と徳川家康・秀忠の間には書簡のやりとりがあり、
>英国王室の武器庫であったロンドン塔には秀忠が贈呈した甲冑が保管されている。

>君主同士だけではなく、イギリス人商人たちも平戸に東インド会社商館を築き、
>活発に交流を始めていた。
>ところがアダムス没後、わずか3年後の1623年にはこの商館は強制閉鎖されてしまう。
>バダヴィアのイギリス人商人委員会からの一方的な命令であった。

>しかしなぜなのか?
>まず思ったよりも貿易が利益をあげないことがあげられる。
>そしてそれ以上に、リチャード・コックスら商館員の態度があまりにひどく、
>まさしく国の恥であったのだ。
>借金する、酒屋で暴れる、若い娘に絡む、通りで暴力をふるう。
>こうした連中の中には日本の奉行によって斬首された者もいた。
(続く)
0650人間七七四年2014/11/04(火) 05:11:44.60ID:8sT7NmGJ
>もっとも目に余ったのは性的な乱れであった。
>商館員は日本人女性を妻にし、しかもとっかえひっかえしたという。
>さらにはイギリス人やオランダ人同士で妻をまじえてワイルドなパーティをする始末。
>朝まで続くパーティでは大量に飲みまくり、本国ではありえないほどセクシーなダンサーを
>はべらせる酒池肉林ぶりである。

>こんなパラダイスを去る気は商館員にさらさらなく、なんのかんのと滞在を引き延ばしていた。
>だがついに強制連行するという脅迫を受け取り、彼らも重い腰をあげた。
>上洛していた秀忠のもとに代表者を派遣し、この国から去ることを告げたのである。
>ついでに莫大な借金返済も…ただし大名たちはこの申し出をやんわりと断ったという。

>盛大なお別れパーティを終え、バダヴィアまで戻ったコックスを待っていたのは、
>怠慢、浪費、そして遊興への叱責であった。即刻イギリスに戻り釈明せよと宣告されたコックスは、
>己の失われるであろう名声を思いすっかり意気消沈、心身ともに病み衰え海上で帰らぬ人となった。
0651人間七七四年2014/11/04(火) 05:16:21.44ID:8sT7NmGJ
今でも日本で、本国ではしないような悪さをする欧米人はいるが
日本人は彼等を毅然と厳罰に処したりしないし、欧米諸国も彼等を大して罰したりしない。
>>649-650は一見悪い話だが、当時の日本人・欧米人の気概を示す良い話でもあると思う。
0652人間七七四年2014/11/04(火) 05:47:20.65ID:8sT7NmGJ
>秀吉は信長の仇の明智を討ち、また柴田を滅ぼしたので、もはや天下に自分の敵はないと思っていた。
>そのためこの軍功の賞として征夷大将軍職が欲しいと願っていた。

>その頃、足利尊氏初代将軍から十四代後の将軍足利義昭はいまだ中国地方にいたので秀吉は使者を送り
>「私を養子にして下さり征夷大将軍職をお譲り頂ければ、あなた様を敬い奉り富と栄誉を回復させてあげましょう!」
>(吾を養子に被成下、征夷大将軍をゆづり給はらば、敬し奉り富貴栄花をひらかせ申さん)
>と義昭に訴えた。

>が義昭は天然の馬鹿(天性愚生)だったのでこの絶好のチャンスに
>「卑しい身分の分際でよくここに来れたな!」(卑姓の身として是推参なり)と怒ってそのまま使者を追い払ってしまった。
>秀吉はムカついたがどうしようもなかったので菊亭晴季に相談して、関白に就任し朝廷から豊臣姓を賜った。

>その後秀吉は毛利輝元の館に行ったときに義昭が輝元の庭の前に立っているのを見かけたのでこう言った。
>「今ちょっといいかな〜?かな〜?」(只今は如何如何に)

>義昭は手をついて腰を折り大いに秀吉を敬っている様子だったとさ。
(元禎筆記)
0653人間七七四年2014/11/04(火) 05:50:54.67ID:8sT7NmGJ
↑の話、義昭が天性のバカというのもあるが
身分にとらわれる人物というのも示していると思う。
心の中では秀吉のことをそうやって見下していた大名、結構いたんじゃないかな。
0654人間七七四年2014/11/04(火) 06:25:57.50ID:8sT7NmGJ
>慶長五年七月三〇日付真田昌幸宛石田三成文書の一節

>「会津征伐に向かった大名達は自分たちが挙兵したと聞いて、家康のもとを離れて帰国しているようですが、美濃・尾張で
>秀頼様にしっかり忠誠を誓っているか一人一人、調べる予定です」
>「今年の暮から、来年の春に関東の家康を討伐するために畿内から西の大名に動員をかけています。八月中には近江に
>集結させて、兵糧米を与えた上で各方面に派遣する予定です」
0655人間七七四年2014/11/04(火) 06:30:06.95ID:8sT7NmGJ
↑の話、昌幸が優れた戦略家というのを覆しかねないような・・・
この調子だと、彼が死に際に信繁に授けたという徳川を豊臣が倒す策
(京都を早く占領し、宇治川で徳川方を迎え撃つという)も・・・
0656人間七七四年2014/11/04(火) 07:41:18.26ID:EsO0H7vH
>天文年間。飛騨国大八賀郷を治める豪族に平野豊後守安室という者がいた。
>豊後守は領内の鍋山が大八賀川に臨む天嶮の要害であると同時に、
>信州街道と平湯街道を抑える要衝である事に目をつけると、
>そこに以前築かれた砦を改修して鍋山城を置き、姓も鍋山と改め、
>その勢力を確固たるものとした。

>だが永禄の頃になると、近隣の三木自綱はまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。
>抗し難しと考えた豊後守はこれに降り、自綱の弟・顕綱を養子として迎えた。
>ところがこの顕綱、生来貪欲な人物で、豊後守を毒殺すると、その一族を追放、
>みずから鍋山豊後守を襲名し鍋山城を乗っ取ってしまった。

>さらにこの顕綱、兄の自綱が飛騨国司・姉小路の名跡を継ぎ、
>帝から三位中将の位を賜ったのを見て、めらめらと嫉妬の炎を燃やし、
>いずれこれに取って代わろうと企んでいた。

>しかし、天正15(1583)年、ついに顕綱の野望は自綱の知るところとなり、
>自綱はこれに先んじて弟を成敗する事を決意した。
>さっそく家中でも屈指の剛の者である、長瀬甚平、土川新三郎を呼び
>計略を授けると、それにも劣らぬ腕利きの士卒十数名をつけて、
>鍋山城へと向かわせた。

>さて、鍋山城に到着した一行。甚平、新三郎は顕綱に目通りすると、
>ご機嫌伺いの口上を述べた後、あらためて平伏すると次のように言上した。

>「本日は松倉の中将様より格別の密書を持参いたしました。なにとぞ人払いを…」

>野心家の顕綱もまさか二人が刺客とは思いもせず、左右の近侍を別室に下がらせ、
>文箱を受け取ると、中の書簡をバラリと開いて目を通そうとした。

>ところが、この密書、字がまるで子供の落書きのように乱雑に書かれており
>読むに読めない。何度も巻物を巻き戻し、目を皿のようにしていると、
>突然、甚平がわっと躍りかかり、顕綱を組み伏せ、新三郎が刀を抜き放って
>大音声に叫んだ。

>「中将様の密書とは真っ赤な嘘。悪事千里を走るの言葉通り、豊後殿の
>御謀叛はすでに家中の知るところとなっておりますぞ。お覚悟めされいっ!」
>と言うが早いか、顕綱の首を一刀の下に刎ねた。
>騒ぎを聞いた近侍の者たちが駆けつけると、すでに座敷は血の海となっている。
>すぐに腕に覚えのもの数名が斬りかかったが、たちまち返り討ちにあい、
>あとのものはすっかりこれを見て戦意を失い、城中はたちまち大混乱になった。
(続く)
0657人間七七四年2014/11/04(火) 07:45:13.81ID:EsO0H7vH
>さて、甚平、新三郎の共の者たちは城門の外に待機していたが、
>城内の侍が一人、二人と逃げ出していくのを見て、謀が成就した事を知り、
>一気に鍋山城を制圧するべく、門の中に駆け込もうとした。
>ところが、逃げ出す者の中にしどけない姿ではあるものの
>あきらかに身分の高そうな妙齢の婦人の姿があった。
>「豊後守の奥方に違いない!逃がすな!」
>すぐさま何名かが彼女の跡を追い、奥方はたちまち七夕岩という所に追い込まれた。
>すると、奥方はすばやく腰の帯を解くと
>「もしお前に霊魂があるのなら、大蛇となって我が仇に報いよ!」
>と叫んで、これを谷底に投げ捨てた。そして、その直後、
>追ってに捕えられた奥方は、あわれ滅多切りにされ果ててしまった。
>こうして鍋山城はわずか十数名のものによってあえなく落城した。
>顕綱亡き後、自綱の次男・秀綱が鍋山の名跡を継ぎ、新たな城主となったが、
>直後、自綱の嫡男・信綱が羽柴秀吉に内通し、自綱に誅殺されるという変事が起こり、
>秀綱が新たな嫡子として松倉城に戻され、代わってその弟・季綱が鍋山城主となった。

>その頃、鍋山に牙がすべて真っ黒な大蛇があらわるようになり近在の人々を驚かせた。
>人々はこれは自綱を呪って奥方が投げた帯が変化したものに違いない、いや
>奥方の怨霊が帯に乗り移って大蛇の姿となったのだと口々に噂し、
>これを「お歯黒蛇」と呼んで恐れた。

>さて、顕綱暗殺から2年とたたないうちに羽柴秀吉の命を受けた金森長近の軍勢が飛騨に雪崩れ込んだ。
>鍋山城も落城し、城主・季綱は松倉城の兄・秀綱とともに信濃に逃れようとしたが、
>落ち武者狩りに遭い非業の死を遂げた(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1053.html)。
>姉小路の一族は、頼綱と美濃遠藤氏の人質となっていた末子の近綱のみが残ったが、
>大名としては滅亡し、二度と歴史の表舞台には姿を現さなかった。

>それから幾星霜、顕綱の子孫の平野清心という者が、松之木村の郷士となって
>田畑を耕し暮らしていた。ところがある晩、見知らぬ女が枕元に現れ、清心を
>呼び起こした。驚く清心に女ははらはらと涙を流し、
>「妾はもと、鍋山豊後守顕綱の妻女であった。すでに白骨となって久しいが、
>未だ七夕岩のあたりに埋もれたまま、誰一人として供養してくれるものがおらぬので、
>成仏できず毎日苦しんでおる。どうか、どうか、早くこの苦しみから救っておくれ」
>と告げ煙のように消えてしまった。はじめは夢だとおもっていた清心も
>三日三晩同じ夢を見続けたので、七夕岩に行ってそのあたりを掘ってみると、
>確かにぼろぼろに風化してはいたが人骨が幾片か見つかった。
>さっそく高山雲龍寺の脱山和尚という人を呼んで、顕綱婦人の回向を催し、
>そこに供養の石塔を立て、ねんごろに弔った。

>しかしさらに後、脱山和尚の元に顕綱夫妻の霊が現れ、
>「どうか、毎日読経の声が聞こえるような仏縁深い地に移して欲しい」
>とまた懇願したので、和尚は檀家の村人とともに供養塔を雲龍寺の境内へと移した。
>後に、この石搭をさらに他所に移そうとした事が何度かあったが、
>いずれのものも怪死したり、家門が没落したたため現在も
>顕綱夫婦の供養塔は雲龍寺の境内に残っている。
0658人間七七四年2014/11/04(火) 07:51:46.09ID:EsO0H7vH
飛騨のような小国・山ばかりの生産性も乏しい国で>>656-657のような話があるのは驚いた。
小国だからといって軽視してはいかんな。
蛇云々の所は事実ではないだろうが、日本各地で似たような話を聞くような
0659人間七七四年2014/11/04(火) 08:27:09.05ID:EsO0H7vH
>『さてさて、我々が野殿(備前津高郡野殿)まで進軍したところで、あなたからの書状を見ました。
>今日は沼(備前上道郡沼)まで進軍するつもりです。古左(古田佐助(織部))も一緒にいます。

>…このような事を申している時に、喝采すべきことがありました。
>只今、京より下ってきたものが申す所によると、上様(織田信長)、ならびに殿様(織田信忠)は、
>何れも御別議なく明智光秀の襲撃を切り抜けられ、膳所ヶ崎まで退避成されたそうです。

>その途中、福平左(福富平左衛門)は三度敵と戦い、比類なき働きをして、これにより何事も無く
>退去できたそうです。
>とにかく、先ず以て目出度きことです。我々も出来るだけ早く帰城します。

>なお、今後も追々書状にて申し送りますが、あなたについては御才覚専一にて、ご油断無きようしてください。
>恐々謹言

                >羽筑(羽柴筑前守秀吉)

 >六月五日
>中瀬兵(中瀬瀬兵衛)
        >御返報』

(梅林寺文書)
0660人間七七四年2014/11/04(火) 08:31:50.04ID:EsO0H7vH
秀吉は何故↑のようなすぐばれる嘘の手紙を送った?
書状が光秀側の手に渡ることを見込んで、光秀を油断させるため?
(光秀が「秀吉は現状を正しく認識していない」と思うように)
秀吉がそんな文字通り猿知恵を使うとも思えないが・・・わけがわからん
0661人間七七四年2014/11/04(火) 09:03:09.10ID:EsO0H7vH
>文禄2年、朝鮮での戦局が転換を向かえ、明軍の講和使節が名護屋にやってきた頃、
>在陣中の南部信直は留守居の八戸政栄宛てに手紙を出した。

>『十郎がこちらに下ってきたので、文を送ります。
>5月15日に唐の官人二人(謝用梓・徐一貫のこと)が名護屋に来ました。
>(秀吉は)早々に兵を高麗へ入れるべしと申してましたので、
>連れてきた者を集めておくようにと仰いましたが、赤キ国(全羅道)を占領せよと命ぜられたので、
>8月までの御在陣を仰せられました。
>そして近日、佐竹義宣・堀秀治・丹羽長重・織田信包など、五人を渡海させよと指示されました。
>なにはさておき、詳しくは十郎がお伝えします。』

>『高麗八州四ヵ国は日本に割譲されるとのことで、これは一国が九州ほどで、使者は多くの人々を引いてきて
>年貢を送ると詫び言があったそうです。唐の大王も貢物を送ってくるそうです。
>これ以上ない条件だと上も下も言っていますが、高麗四か国に
>日本の侍を置かなければ平和は無いだろうと太閤様はいろいろな御難題を仰られる。
>そういうわけで、北金の都より大将としてやってきた遊撃将軍(李如松のこと)が釜山海に居るので、
>太閤様が仰られた通りの事をこの人へと伝えたそうです。』

>『高麗に在陣している大名達はさんざんに疲れ果てて、何の役にも立たない様子です。
>だがその有り様を秀吉の御前で話しては、即刻処分されるので、皆怖がり恐れて、この有り様を申す人はいません。
>この状況をわかってほしい。』

>『日本では大身者であろうと小身者であろうと、御前で物を申す者はいません。
>日本国内では一切の争いも許されません。ですが、武具などは油断なく準備し、九郎(南部利直)に奉公してほしい。』

>『高麗の年貢は年々印子金1万2千ずつだそうです。印子金一つは100目(匁)で、これというほどのものではありません。
>弾正殿(小西行長)は釜山海に居ます。
>こちらで重ねて何かあったら、おいおい人を下して連絡します。以上

>(文禄二年)五月廿五日  信直
 >八戸殿』
0662人間七七四年2014/11/04(火) 09:07:30.57ID:EsO0H7vH
↑の手紙を読んで、晩年の秀吉はやはり耄碌していたのだと思わざるを得なかった。
彼自身がまさしく現場からの叩き上げで、しかもあの信長の元で散々難しい仕事を命じられてきて
現場で実際に戦う者たちの苦労は解りすぎているほど解っていたはずなのに・・・

まるで悪い意味で始皇帝みたいになってしまっている
0663人間七七四年2014/11/04(火) 10:12:22.23ID:EsO0H7vH
>天正11年(1583)3月、賤ヶ岳に向けて畿内がきな臭くなってきた頃の、羽柴秀吉より、当時毛利との講和作業に
>現地に赴いていた蜂須賀正勝、黒田孝高宛書状

>『去る9日付けの書状が今日届き、それを見た。

>一、お前たち(蜂須賀・黒田)からの報告は心得た。毛利から割譲された城々を受け取ったなら、
  >人数、兵糧をしっかりと入れ置き、お前たち両名は早々に帰ってくるように。

>一、西国の者たちへの挨拶は、書状でしておけばよいだろう。

>一、尾張表では喧嘩のようになっている。不思議な事も起こるものだ。(尾州表喧嘩之様成、不思議之儀出来候)
  >そんな状況なので伊勢表に軍勢を派遣した。私も今日、坂本まで移動する。

>一、お前たちは軍勢を一人も率いてくる必要はない。これは八郎(宇喜多秀家)の家中の者たちにも良く
  >申し聞かせておくように。
  >しかし鉄砲を撃ちあうような事態になれば、軍勢を出すように申すだろう。内々にその事は伝えておく。
  >なお、お前たちのことについては改めて入念に申し付けておく。早々に帰ってくるように。
  >油断があってはならない。恐々謹言。

                       >筑前守
                          >秀吉(花押)

  >三月十一日
    >蜂須賀彦右衛門(正勝)殿
    >黒田官兵衛(孝高)殿 』
(黒田文書)
0664人間七七四年2014/11/04(火) 18:18:06.12ID:z2adc2m8
↑の頃の秀吉は冴えていたんだな。実に的確な判断力と指示。
思えば秀吉が輝いていたのは賤ヶ岳の合戦までだったんだな。
小牧・長久手では家康にしてやられたという感じだし。
0665人間七七四年2014/11/04(火) 18:22:06.53ID:z2adc2m8
>ある時、坂崎直盛は近くで召し使っていた小童を罪があったとして処断した。
>その小童と知音のあった浮田左門は仇を討とうと決意し、童に手を下した者を
>殺害して坂崎家を出奔した。

>直盛の父・安心入道は左門が殺されるであろうことを哀れんで富田知信に文を送り、
>左門を匿ってくれないかと頼んだ。知信の妻は直盛の姉であった。
>知信の妻もこの事態を嘆き、結局知信は左門を匿った。直盛は知信を追及したが
>知信は「今は逐電して家にはいない」と白を切った。

>頭にきた直盛は直接安濃津城へと赴いて捜索したが、見つからなかったようで
>今度は伏見にいた知信と一戦交えようとさえした。さすがにそれは不味いと
>周囲に戒められた直盛は家康に訴えでたところ、家康は
>「天下のことは将軍に譲った。江戸にて上裁を仰ぐことだ」
>と答えた。そこで秀忠に訴えたところ「証拠がない」と突っぱねられたため
>直盛の憤怒は相当なものであったという。

>それから数年の歳月を経ても、直盛は執念深かった。
>直盛は突如として、知信が左門と繋がっている証拠を幕府に提出したのである。
>その頃、左門は知信と親しかった高橋元種のもとに潜伏先を移していた。
>実は左門と一緒に逃げていた侍が裏切り、坂崎家に帰参するために、
>知信の妻が左門に宛てた文を直盛に渡してしまったのである。

>狂喜した直盛は証拠をつきつけ、知信と元種は言葉に詰まり、ついに改易された。
>一方、左門も捕縛された。左門は土井利勝らの警固で輸送される途中、縄を解き、
>警固の刀を奪って暴れまわったが、土井の家臣・藤左衛門に組み伏せられ、
>最後には誅せられたという。
0666人間七七四年2014/11/04(火) 18:28:37.84ID:z2adc2m8
↑を読んで少し恐ろしくさえなった。坂崎直盛の執念深さに。
彼は何と言っても千姫に関する事件で有名だが、
この執念深さを考えると
千姫の件もさもありなんと思えてくる。
0667人間七七四年2014/11/04(火) 19:11:46.88ID:z2adc2m8
>秀吉の九州征伐軍に降伏した秋月種実・種長親子は、
>昨日までの盟友であった島津討伐のためその先鋒に立たされることになった。
>そして軍勢と共に秋月へと向かう途中、休憩中の秀吉が秋月種長を呼び寄せる。

>秀吉は「そちは俗謡の名手と聞くが、今この場で一曲歌ってみよ」と命じた。

>九州御動座記には『筑前一国豊前半国筑後半国の屋形』と書かれ、
>昨日までは北部九州第一の大名だった秋月種長に諸将の前で幇間の真似事をせよと命じたのである。

>もちろん断る事の出来ない種長は、その長身を屈め跪き恥も外聞もなく膝拍子を打ちながら唄いはじめた
 >一張の弓の勢い月心にあり
 >これぞ真如の槻弓の
 >薩摩もなどかおそれざる
>これを見た秀吉は「面白し面白し」と興じて喜んだと言う。
>また種長の父・種実も諸将の中に混じり息子の姿を見ることになる。この親子の心中穏やかではなかっただろう。
>時に種実43歳、種長21歳であった。
0668人間七七四年2014/11/04(火) 19:15:38.89ID:z2adc2m8
↑の頃の秀吉は既にヤキがまわり始めていたという感じだ。
>>664で「秀吉が輝いていたのは賤ヶ岳の合戦までだったんだな」と書いたが
その通りに九州征伐の頃は既に晩年の醜態の片りんを見せていたのだろう。
0669人間七七四年2014/11/04(火) 19:22:30.50ID:z2adc2m8
ちなみに自分の秀吉のそういった考えは海音寺潮五郎の考えを強く受けているのは否めない。
海音寺氏は、山崎合戦から賤ヶ岳までが秀吉の絶頂期、まことにほれぼれするものがある、
その後小牧長久手、九州征伐、小田原征伐は惰性によって行われたに過ぎず、
朝鮮出兵の頃は惰性期を過ぎて頽唐期に入っていたと評している。
0670人間七七四年2014/11/04(火) 20:02:40.49ID:z2adc2m8
>天正11年(1583)4月、柴田勝家と羽柴秀吉の賤ヶ岳の合戦が進行する中、
>備後国は鞆にあった足利義昭が、毛利輝元に対して発した書状


>『度々そちらに申し寄越したように、柴田勝家勢が既に北近江まで進出しました。
>上方で合戦が起こるのは至急の事だと認識するのが肝要です。
>私の方からは小林家孝、今村を上方に遣わしました。
>今、この事態に対しもし油断があれば、たちまち後悔する事になるでしょう。

>并びに、当家(足利将軍家)の再興はこの時にあります。別して、毛利家が軍勢を上方に出すことを頼み入ります。
>猶、この事については真木島昭光が詳しく話します。

>卯月(4月)六日                   義昭(花押)
     >毛利右馬頭(輝元)とのへ     』

>全く同文のものを吉川元春・元長親子にも送っている。
>どうもこれは、柴田勝家を助けるための行動であった模様である。義昭は自身の京都帰還を条件に、
>柴田勝家に毛利輝元、徳川家康などを結びつけようとしていたようなのだ。

>賤ヶ岳の合戦を前にした、足利義昭の策動の一端である。
(徳山毛利文書)
0671人間七七四年2014/11/04(火) 20:06:18.77ID:z2adc2m8
↑呼んでマジ驚いた。義昭といえば信長包囲網で余りにも有名だが、
秀吉包囲網まで画策していたとは・・・

ここまでくると義昭は包囲網自体のマニアだったんじゃないかと思ってしまう。
成功したことはないがwww
0672人間七七四年2014/11/04(火) 20:37:38.13ID:BpqYr5iP
>>671
当時貴重だった十八史略でも読んでいたのでは?
0673人間七七四年2014/11/04(火) 20:45:29.79ID:z2adc2m8
>>672
そうかも知れない
ただ義昭の場合、計画は壮大だがただその対象を包囲してる連中全部に書状を送ってるだけなんだよな。
彼等各々だってお互いに利害関係があるし、一枚岩になりっこないのに
「将軍(元将軍)の俺が命令する通りに全部上手く動く」と考えてるというか。

ある意味歴史ゲームみたいな感覚でやっていたんじゃないかwww
0674人間七七四年2014/11/04(火) 21:25:17.02ID:z2adc2m8
>長久手の戦いの後、佐々成政は越路の雪を踏み分けて
>はるばる浜松までやってきた。世にいう『さらさら越』である。
>成政が徳川家康と面会したところ、家康は成政を丁重にもてなした。

>「この度は信雄様をお援け頂き感謝にたえません。
>これからもどうか織田家興隆のためにお力添えをお願いいたします。」

>「よくぞ深冬風雪をかえりみずに参られましたな。私は秀吉と遺恨が
>あったわけではありませんが、信雄殿の窮状を見て忍びなく、
>また亡き織田殿との旧好を忘れられなかったので、およばずながら
>お援けした次第です。

>しかし、信雄殿は秀吉と和議を結んだそうですから、私の信義も
>詮なきこととなりました。ですが、成政殿が主のために義兵を起こす
>おつもりであれば私も援兵を送りましょう。」

>成政は家康の言葉に感謝した。その後、会話の中で成政は、
>家康を武田信玄、自らを上杉謙信に例えて、己の自負を語ったという。

>次に成政は織田信雄とも面会した。成政は信雄に上洛を勧めたが、
>信雄は秀吉と和議を結んだことを理由に勧めを拒否した。
>とうとう、どうしようもなくなった成政は後に秀吉に降伏した。

>家康は成政が訪ねてきた時、高力正長に「佐々は人傑である。
>あのような者とは知人になって、その様を見習うがよい。」と言い、
>成政を評価した。

>しかし、老臣の酒井忠次は成政の自負に不快感をあらわにし、
>「あのような者に御加勢は無用でありましょう。あの者は
>大剛の士なれば、その勇気に任せて失言するのも道理である。
>関わらないほうがよろしい。」と批判した。
0675人間七七四年2014/11/04(火) 21:31:07.75ID:z2adc2m8
↑を読んで思ったこと、家康って意外と人を見る目が無かったのかな。
それともあの難儀なアルプス超え(出発した半分以上が死んだらしい)をして会いに来てくれたことに
感激&気骨があると思って目が曇ってしまったのかな。

佐々成政ごときが自らを信玄や謙信に例えるという時点で
過大評価が甚だしいと思うのだが

結局酒井のほうが正しかった
0676人間七七四年2014/11/04(火) 22:40:01.61ID:4VDKY54/
>三河一向一揆の時、小豆坂の戦いの際に、徳川家康の家臣・大見藤六はその前夜まで
>家康の側にいて、明日の軍議を盗み聞きして一揆側に走った。

>これに気づいた家康は近臣たちに言った。
>「明日は大変なことになった。藤六はきっと我らの計略を賊徒に知らせたに違いない。
>お前たち、明日はよくよく戦に励むのだ! もし私が討死したならば、藤六の首を
>切って私に手向けよ。これぞ二世までの忠功である!」

>翌日、藤六と石川新七の二人が真先に攻め寄せてきた。これを水野忠重と水野太郎作正重が
>迎え撃ち、新七は忠重に討たれ、藤六には正重が「お前は逃がさぬ!」と立ち向かった。

>藤六は弓を引いて「小僧め、よらば一矢で射抜いてやるぞ!」とかまえたところ、
>流れ矢が腕に当たり、太刀を抜こうとしたところを槍で突かれてしまった。

>しかし札の堅さのため致命傷にはならず、藤六は刀を抜き放つがこれも致命傷には
>ならなかった。そして正重も抜刀し、切り合いになったが、ついに藤六は切り倒された。
>藤六は「小僧め…無念なり」と念仏を唱えだしたところを正重に首を切り落とされた。
>二人の死によって一揆勢は敗走した。

>さて、正重は討ち取った藤六の首を家康に捧げたところ、家康は大いに正重を誉めた。
>「おう、汝が藤六を討ったか! よくやった、汝が一代の忠功である!」
0677人間七七四年2014/11/04(火) 22:44:11.33ID:4VDKY54/
↑を読んで思ったこと。
家康の危機としては三方ヶ原の合戦や伊賀超えがよく語られるが、
ある意味三河の一向一揆が一番の危機だったのではないか。
何よりも世間一般では一枚岩、忠義の塊のように思われている三河武士から
こう多数の謀反ものが出たというのが衝撃的。
0678人間七七四年2014/11/04(火) 22:46:26.85ID:4VDKY54/
>ある時、徳川家康が茶道具の管理者を呼び出し、
>「茶杓を持ってまいれ」と命じた。家康は管理者が持ってきた茶杓のうち、

>瀬田正忠が創った茶杓6、7本を取り出すと、それらひとつひとつを
>折って「捨てておけ」と命じた。

>この不可解な行動は、ちょうどその頃、正忠が豊臣家の内意を受けて
>蒲生氏郷を殺したとの噂があったので、正忠をひどく憎んでの行動では
>ないかと人々の間で囁かれたという。

>家康、正忠を憎む、という話。しかし、本当のところは不明。
0679人間七七四年2014/11/04(火) 23:21:57.94ID:4VDKY54/
↑の話、家康は正忠を憎んだというより、用心深かったんだろうね。
面白いことに、その毒殺されたという説のある蒲生氏郷も
伊達政宗に茶会に招かれた時
毒殺を用心して茶会の後すぐに飲んだ茶を薬を使って吐き出したことがある
0680人間七七四年2014/11/04(火) 23:25:19.28ID:4VDKY54/
>関ヶ原の戦いの時、徳川の家臣・米津清右衛門正勝は敵の首を取って
>きて小栗又一忠政に向かい「やあやあ又一よ。俺はもう名を上げたぞ」
>と自慢した。

>実はこの二人かねてより仲が悪かった。又一は「貴様がしらみ首を
>取るならば、俺は兜首を取ってみせるわ!」と言い返して先陣へ馳せた。

>正勝はさっそく首を主の家康に見せたが「使番の仕事は先手の様子を
>早く本陣に伝えることであろう。首の一つや二つが一体何の役に立つと
>いうのか!」と叱られてしまった。

>さて、一方の又一は宣言通り兜首を取ってきて正勝に向かい
>「ほれ見ろ。お前にできることが俺にできないわけないだろ」と言うと、
>首をその辺の谷川に捨ててしまった。
0681人間七七四年2014/11/04(火) 23:29:32.55ID:4VDKY54/
↑は正直意味が解らない
家康も正勝も小栗が首を取ったことを信用しなかったということか?
それともこの天下分け目の最中に、そんなことで浮かれるな、という戒めか?
0682人間七七四年2014/11/05(水) 00:06:59.37ID:sS+dOqAO
>天正3年(1575)5月20日付、武田勝頼が長篠より出した、三浦員久(かずひさ)宛の返書

>『あなたの心配はありがたいが、全て我々の思い通りに行っているので安心してほしい。

>長篠城に取り詰めた所、織田信長と徳川家康が後詰に出張してきたので対陣したが、
>敵は戦術を失敗して一段と逼迫しているように見えたので、我々は無二に敵陣に乗りかかり、
>信長・家康の双方とも我々の意のままに討ち崩した。

>なお、そちらも城の用心を、念を入れて行うのが重要である。』


>翌21日、あの「長篠の戦い」が起こり、武田軍は壊乱する。


>武田勝頼がこの書状に事実を書いたのだとしたら、勝頼は織田徳川連合軍の「戦略的撤退」に
>引っかかったのではないか、と言われる書状である。
0683人間七七四年2014/11/05(水) 00:11:26.35ID:sS+dOqAO
↑の「我々は無二に敵陣に乗りかかり、信長・家康の双方とも我々の意のままに討ち崩した。 」
という部分がよくわからない。前哨戦みたいなものが有ったということか?
有ったとして、それは信長・家康のわざと負けて撤退し、相手の本体をおびき寄せる罠だったということか?
0684人間七七四年2014/11/05(水) 00:47:10.62ID:sS+dOqAO
>酒井忠次の娘は見目麗しいと評判であった。
>その娘を牧野康成が妻にしたがっているという話を聞いた忠次であったが
>「右馬允は元来大胆な男だから、機に乗じて謀叛の志を抱くやもしれぬ。
>そのような穏やかならぬ者に、最愛の娘をやることはできぬ!」
>とまったく娘を嫁に出す気はなかった。

>しかし、家康に「牧野が如き才幹ある者にお前の娘を嫁がせれば、
>後々になって家臣とした時に、少しは力になるかもしれんぞ?」
>と諭されると、忠次も心を決めて娘を嫁がせたという。
0685人間七七四年2014/11/05(水) 00:50:39.68ID:sS+dOqAO
佐々成正の件といい信康切腹の一因となった信長への報告(捏造の可能性も高いが)といい
家康と忠次はどうも相性が悪いイメージが有ったから>>684の話は意外だった
0686人間七七四年2014/11/05(水) 01:42:39.74ID:sS+dOqAO
>天文21年(1552)9月、武田信玄は小笠原軍の籠る信州中塔城を攻めた。
>この時、武田軍の南の口の大将は、小笠原長時を裏切り武田に寝返った三村十兵衛であった。

>さて、中塔城の東の尾根では、そこの郭を守る小笠原方の武将、二木善右衛門が、実に見事な黒い馬に乗っていた。
>これを見た攻め手の武田軍・飯富虎昌の手のものが声をかける
>「その馬は実に良い馬だな!わしに売ってはくれないか!?」
>これを聞いた善右衛門、相手が敵方にもかかわらず 「よし、売ろう。」と答えた。
>これを聞いて武田方のこの者
>「敵味方であっても商いはある!互いに一人ずつ出して、馬と代金の受け渡しをしよう!」
>すると善右衛門
>「いかにも売ろう!しかし拙者は金銀には望みがない。代わりの物をお前が取ってきてくれたなら、これを売ろう!」

>「代わりのもの?それは武具か?馬具か?太刀か?やはり籠城しているのだから兵糧か!?
>なんでもいい、望み次第に持ってこよう!」
>「そちが言うようなものではない!私がほしいのは…」と、善右衛門
>「武田晴信と三村入道(十兵衛)の首だ!!その二つをくれるのなら、この馬など安いものだ!」
>これを聞いた武田方の者たちは皆驚き呆れ、怒った
>「おい!それは我々への悪口であるぞ!」
>「少しも悪口なものか!前の諏訪峠の合戦は、本来は我々小笠原軍の勝ちであった!それなのに三村入道が裏切ったために負けた。
>この遺恨によって三村の首を馬の代物として取り、また晴信の首さえ取れば、馬がなくても楽々と
>在所に帰れるというものだ!であるから、この2つの首をくれれば、馬を売ろう。」

>武田軍はこの言葉に激怒し、二木善右衛門に向かって矢を射かけた。そこからここでの戦が始まった。
>信州中塔城、馬売り問答である
(二木家記)
0687人間七七四年2014/11/05(水) 01:46:40.75ID:sS+dOqAO
↑の話、最初のうちはちょっといい話かと思ったけど
「いかにも売ろう!しかし拙者は金銀には望みがない。代わりの物をお前が取ってきてくれたなら、これを売ろう!」
の所でオチがわかっちゃったw

こういう話結構あるね
0688人間七七四年2014/11/05(水) 07:15:19.21ID:QxUDeo7k
>大蔵氏嫡流で筑前西部(現在の福岡市西区・糸島市)を治めていた原田信種は秀吉の九州討伐軍に降伏した。

>信種は久留米の高良山にある秀吉本陣にて拝謁し許しを請うのであった。
>そのとき本領をありのまま申告するより少ない方が見逃してもらえると考え、その所領を過少に報告したのだった。
>しかし秀吉が下した判断は
>「小身にては家を立てること無用」
>とのことで所領没収の憂き目にあったのだった。
>そして秀吉の命で佐々成政の与力として熊本へ赴くのであった。
0689人間七七四年2014/11/05(水) 07:19:48.19ID:QxUDeo7k
↑を読んで思った。今時々起っている不祥事、当時からあったんだなあ。
もっともその佐々成政がじきに切腹に処せられるわけですが。
彼を信頼しておらず処刑したかった秀吉が
わざと彼を治めにくい肥後に配したとも言われるし
0690人間七七四年2014/11/05(水) 07:22:42.46ID:QxUDeo7k
>甲斐国、向嶽寺(現山梨県塩山市)において、代々の住持が書き継いできた『塩山向嶽禅庵小年代記』より、
>天文10年(1541)の、武田晴信(信玄)による、父・武田信虎追放についての記事


>『武田信虎は平生より悪逆無道であった。そのため国中の人民、牛馬、畜類どもに至るまで大いに愁い、
>悩んでいた。しかし駿河の太守である今川義元が信虎の娘を娶ったため、信虎は6月中旬に駿府に行ったので、
>晴信は万民の愁いを救おうとして、足軽を河内(甲斐南部、駿河との国境)境に出し父の帰り道を断って、
>自分が即位し国を保った。

>国中の人民はこれを知ると、尽く快楽の笑みを含んだ。』


>これによるとなんと武田信虎、人間どころか牛馬を始めとした甲斐の動物たちまで困り果てるほどの悪政を
>行なっていたらしいのだ。一体どれほどの悪逆無道だったのだろうか?w

>そんな、武田信虎追放に関する記録の一つである。
0691人間七七四年2014/11/05(水) 08:00:25.68ID:QxUDeo7k
↑は「打倒した前の統治者を悪く書く」の典型だろうな。
中国史なんかだと日常茶飯事に行われてきたこと。
殷の桀紂が物凄く酷く描かれているように
(実際に悪政は引いてはいただろうが、かなり誇張されてるはず。信虎も同様)
0692人間七七四年2014/11/05(水) 08:02:48.16ID:QxUDeo7k
>慶長の役で戦死した原田信種の嫡男嘉種は父の肥後熊本の所領を相続した。
>しかし嘉種は名門大蔵一族の嫡流を誇りとし、主君の加藤清正が相手でも素直に従わない困り者であったのだ。

>清正の娘がある大名に嫁ぐ事になった時、清正は嘉種の母が故事に明るいと聞き、
>乳母として娘に付き従っていくよう命じた。しかし嘉種母子はこの命令を断ってしまった。
>流石の清正は嘉種のこの行動に怒り、その後は嘉種を冷遇、ついには召し上げ追放してしまったのだった。

>流浪の身となった嘉種は旧知の唐津藩主寺沢氏の下に行くが寺沢家が改易、
>その後は流れに流れ最終的には会津藩保科正之に2千石で使えることになるのである。
0693人間七七四年2014/11/05(水) 08:07:06.23ID:QxUDeo7k
まあ珍しい例だが、春日局みたいに乳母が権力持つことだってあるのに。
そこまでいかなくても清正の命に従って関係を強化しておいたほうがいいのに。
プライドなんて捨てて。と>>692の話を読んで思いました。
0694人間七七四年2014/11/05(水) 08:49:47.09ID:QxUDeo7k
>1590年徳川家康の後継者に最も近いとされる三男竹千代が元服することになった
>この時元服にあたり諱を兄秀康に習い秀吉と家康の字をもらう事で秀家としてはどうかという案が出た
>しかしすでに秀家を名乗る者はいる宇喜多秀家である
>このためは銀子三百枚で秀家の名を譲ってもらってはどうかと言う案も出され
>石田三成が宇喜多秀家に交渉を試みた

>しかし秀家は憤慨し交渉は失敗
>しかも三成と秀家の仲も一時悪くなり三成は以後大谷吉継に秀家に対しての諸事を相談してから応るようになったという

>そして徳川秀家は実現せず家康三男竹千代は元服後父祖伝来の忠の字を継ぎ徳川秀忠となったとさ
0695人間七七四年2014/11/05(水) 08:54:31.03ID:QxUDeo7k
↑を読んで思ったこと。関係ない他家の人と同じ名を名乗るには
その既に名を使っている人の許可を取るのが必要だったのか?
それとも勝手に名乗ればいいものを、三成がわざわざ奔走したのか。

いずれにせよ三成は良かれと思って余計なことしてトラブルを作るタイプに思える
0696人間七七四年2014/11/05(水) 17:31:56.83ID:iZXyVGqG
>信玄の信長へのお手紙

>永禄12年 1569年

>「信玄事者、只今憑信長外又無味方候。此時聊も於信長御疎略者、信玄滅亡無疑候」
>(信玄には信長以外に味方いません。信長を粗略に扱えば、信玄が滅亡するのは確実です)

>駿河侵攻をきっかけとして、上杉・北条・徳川を同時に敵に回して窮した際、信玄が信長に上杉との和睦斡旋を求めた時の書状。

>元亀2年 1571年

>「縱扶桑国過半属手裏候共、以何宿意、信長ヘ可存疎意候哉」
>(たとえ日本の過半を支配するような事があっても、信長に敵意は持たないし粗略にもしない)

>甲越和与成立して信玄は危機を脱したが、結局は破綻し北条との甲相同盟が武田の方針となった時期の信長への手紙。
0697人間七七四年2014/11/05(水) 17:36:00.13ID:iZXyVGqG
信長が一方的に信玄に気を使った手紙を出してるようによく言われるが↑を見ると
信玄も信長に気を使った手紙出してるんだな。
もっとも後に信長包囲網の時は明らかに信長に敵意持って侵略を開始したわけだが。
敵味方なんてのは時間が立てば変わるし、外交は駆け引きといういい例だね。
0698人間七七四年2014/11/05(水) 17:37:51.97ID:iZXyVGqG
>徳川家を攻めようとした今川氏真は武田信玄に
>「このようにして徳川を攻めます」と伝えてきた。その計略の稚拙さに信玄は

>内心「馬鹿な奴だ」と思いながらも「心配なさるな」などと調子を合わせていた。
>その一方で徳川家には下條弾正をして氏真とのやりとりをつぶさに伝え、

>「何も心配することはありません。もし氏真が出馬したならば、一緒になって
>滅ぼしてやりましょう」と言った。この時、家康は「信玄は残酷な人物だな。
>しかし今川を倒すためならば是非も無い」と言ったという。

>氏真の逃亡後、徳川と武田の間に和議があり、誓紙の文に「川を両国の境界とする」
>と書き定められた。これは大井川のことであったが、信玄は家康を若輩者と侮って
>今川義元が扱ったごとく家康を扱ってやろうと思っていた。

>ある時、突然武田家が徳川側の里民の人質を取ったので
>徳川家が抗議すると、武田家は「誓紙の川切とは天竜川切という意味だ」と答えた。

>これを聞いた家康は「天竜川は我々にとって城溝のようなものではないか!
>何が天竜切だ。こんな嘘偽りばかりの輩に我らの行末を頼むわけにはいかん!」
>と激怒し、遂には武田家との隣好を絶つことになった。
0699人間七七四年2014/11/05(水) 18:13:38.27ID:iZXyVGqG
↑を読んで思った。この頃か完全に信玄のほうが狸オヤジ。
でも、こういうのをみて家康は老獪さを身につけていったんだな。
フィクションだが山岡や横山の『徳川家康』で信玄を人生の師匠の一人に挙げている。
0700人間七七四年2014/11/05(水) 18:15:29.15ID:iZXyVGqG
>稗貫広忠の末期
>陸奥国稗貫郡の領主稗貫広忠は、奥羽仕置によりその領地を没収され、その後の再興運動も実を結ばず、
>没落して稗貫郡矢沢村に潜居していた。
>ある時、近所の高松寺の法印と四方山話をするついでに、広忠は法印に語った。

>「実はこの頃、良い夢を見るのだ。ひょっとしたら本領に帰参できるかもしれない」
>「それはよかったですね、どんな夢をご覧になったので?」
>その問いに、広忠は歌を詠んだ。

>ただ頼め 真如の道ぞ ありがたき 立ち帰るべき 道ぞ来にける

>法印はその時は祝福した。だが広忠が帰った後、
>「広忠様は悪い夢を見ておられる。遠からずお亡くなりになるだろう」
>その言葉通り、その日からまもなく稗貫広忠は亡くなった。
>文禄3年3月2日の事だという。
0701人間七七四年2014/11/05(水) 18:18:36.32ID:iZXyVGqG
>>700の話、法印のやさしさなのか、それとも本当のこと言ったら斬られると思ったのか、
それによっていい話にも悪い話にもなる。
まあ改易されて潜居していた広忠を恐れる必要もないだろうから
前者かな?
0702人間七七四年2014/11/05(水) 20:28:10.22ID:iZXyVGqG
>立花道雪の死後、長年対立関係のあった高橋紹運と秋月種実との間に和平を望む機運が高まり、
>種実の娘と紹運の二男(統増)を婚姻させようとの動きが出てきていた。
>そしてその動きは秋月種実の盟友筑紫広門を驚愕させる。
>筑紫広門は道雪の死後のどさくさにまぎれ、高橋家の宝満城を攻略していたのだった。
>もし秋月と高橋・立花が結び筑紫に攻めてくれば当家の命運は尽きる・・・

>居城勝尾城に重臣を集め方策を練ったが、これと言った意見が出てこない。
>そんな中、一族の筑紫六左衛門より
>「当家が高橋家と婚姻をむすぶしかありません。姫を私にお預けください。
>姫とともに岩屋城に参り紹運公に姫と統増どのの縁組を直訴してまいります。
>紹運公は情け深きお方とのこと、こちらが真心を持って誠心誠意懇願すればあるいは・・・
>もし紹運公に承認いただけない時にはその場で姫を刺し、私も腹を切ります。」
>広門もこの六左衛門の気迫を見て賛成するのだった。
(続く)
0703人間七七四年2014/11/05(水) 20:31:02.24ID:iZXyVGqG
>岩屋城の高橋紹運、敵対している筑紫広門の娘が訪ねてきたとの知らせに訝りながらも目通りする。
>「筑紫上野介の娘かねでございます。不躾ながらお願いの儀があり参上いたしました。
>女子の口からお恥ずかしいことですが・・・・・」
>と言って目を伏せてうつむいてします。その後を六左衛門が続けた。
>統増とかね姫の婚姻による和平の提案、突然の押しかけ女房の提案に困惑する紹運。
>六左衛門は
>「ご当惑はごもっともと思います。しかし我が筑紫も滅亡の危機にあるのです。
>もしこの件どうしてもお許しいただけないようならば、庭先をお借りし切腹を致します。」

>六左衛門の熱意に押されたか紹運も婚姻を承諾、15歳の統増もとに17歳のかね姫が輿入れしたのである。
>その後の2人は九州征伐時に島津軍に夫婦そろって拉致られ薩摩祁答院での軟禁生活を夫婦で乗りきることになる。

>で、なぜ悪い話かと言えばその後広門が島津軍に宝満城の秘密を洩らしたため離縁することになったから。
0704人間七七四年2014/11/05(水) 20:35:20.95ID:iZXyVGqG
戦国の世、夫婦といえども心を許せないということもあるということか>>702-703
恐ろしや。
信長と濃姫にもそういう話があったな。
0705人間七七四年2014/11/05(水) 21:01:41.15ID:FXmkZyCc
立花家を継いだ忠茂はかね姫の子みたいだから
結局離縁しなかったか復縁したみたいだけどね
0706人間七七四年2014/11/05(水) 21:10:52.89ID:iZXyVGqG
>>705
え、そうだったの?
そんな大事な秘密漏らされて復縁したなんて・・・
0707人間七七四年2014/11/05(水) 21:16:09.11ID:iZXyVGqG
>元亀三年(1572)、いわゆる信長包囲網の中、武田信玄の西上が始まり窮地に陥った頃の織田信長が、
>上杉謙信に宛てた書状

>『先に使者を遣わして申し上げた所、すぐに御入眼され、さまざまな御懇慮を頂いたこと、少なからず
>我が本懐であります。そしてそちらから大鷹5羽を送っていただいたこと、私にこの様に御心をかけて頂いたのは、
>まさに前代未聞、当方に過ぎること至極な御扱いであり、これらの鷹は、別して今までにないほど寵愛いたします。
>(前代未聞過当至極候、別而寵愛無他候)

>右の内容を(謙信に)お取りなしして下さい。恐々謹言


                       >信長(花押)
>(元亀三年)十一月七日
   >直江大和守(景綱)殿


>追って申し入れます。仰せくださった御誓談の数々、かたじけない次第であります。
>特に、そちらの御養子に我が愚息を召しおきたいとのこと、これは私にとって面目の至りであります。
>(殊為御養子愚息可被召置旨、是面目之至候)

>これはいつ頃、そちらに送り出すべきでしょうか?今後我らに対しどうぞ御指南をしてやって下さい。
>これらの趣旨を(謙信に)ご披露頂ければ本望です。恐々謹言


                       >信長(花押)
>(元亀三年)十一月七日
   >直江大和守(景綱)殿

(上杉古文書)
0708人間七七四年2014/11/05(水) 21:22:01.02ID:iZXyVGqG
>>707に関して
上にある信玄に対する手紙(>>696)に比べて非常に下手に出た書き方。
この頃のほうが信玄に対する時よりも信長の勢力も強大になっているはずなのに。
どうも信長は謙信に対しては生理的に恐れを抱いていたような気がする。
俗人である信長にとって同じく俗人である信玄よりも
色々な意味でこの世の論理では理解できない人物である謙信は
得体のしれない不気味な存在だったのではないか?
0709人間七七四年2014/11/05(水) 22:14:58.26ID:cBMqs19D
>フロイスの秀吉評

>彼は美濃国の出で、貧しい百姓のせがれとして生まれた。
>若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。
>彼は今なお、その当時のことを秘密にしておくことができず、極貧の際には古い蓆(むしろ)以外に身を覆うものはなかったと
>述懐しているほどである。
>だが勇敢で策略に長けていた。

>ついでそうした卑しい仕事をやめて、戦士として奉公し始め、徐々に出世して美濃国主から注目され、戦争の際に挙用されるに至った。
>信長は美濃国を征服し終えると、秀吉が優れた兵士であり騎士であることを認め、その俸禄を増し、彼の政庁における評判も高まった。
>しかし彼は元来、下賎の生まれであったから、主だった武将たちと騎行する際には馬から下り、他の貴族たちは馬上に留まるを常とした。

>彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった。
>目がとび出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった。
>男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。

>彼は自らの権力が順調に増していくにつれ、それとは比べ物にならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。
>家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者はいないほどであった。
>彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事を自らの考えで決定し、誰一人、あえて彼の意に逆らうが如き事を一言として
>述べる者はいなかった。
(続く)
0710人間七七四年2014/11/05(水) 22:16:46.85ID:cBMqs19D
>彼はこの上もなく恩知らずであり、自分に対する人々のあらゆる奉仕に目をつぶり、このようなことで最大の功績者を追放したり、
>恥辱をもって報いるのが常であった。

>彼は尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって、彼を残酷で嫉妬深く不誠実な人物、欺瞞者、虚言者、
>横着者たらしめたのである。
>彼は日々、数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。

>彼は本心を明かさず、偽るのが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。

>齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行において極めて放縦に振る舞い、野望と肉欲が彼から正常な判断力を奪い取ったかに見えた。
>この極悪の欲情は彼においては止まることを知らず、その全身を支配していた。
>彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れていく種々の城に別の多数の娘たちを置いていた。
>彼がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的のひとつとしていたのは、見目麗しい乙女を探しだすことであった。
>彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者はなく、彼は国主や君侯、貴族、平民の娘たちを、なんら恥じることも恐れることもなく、
>その親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で、収奪した。
>彼は尊大な性格であったから、自らのこれらの悪癖が度を過ぎることについても、全く盲目であった。
>彼は自分の行為がいかに卑しく不正で卑劣であるかに全然気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し
>命令するままに振舞って自ら楽しんでいた。
0711人間七七四年2014/11/05(水) 22:22:40.58ID:cBMqs19D
>>709-710のフロイスの秀吉評はいい所と悪い所を混ぜて伝えているが
全般的に秀吉が宣教師追放をしたためか、悪意に満ちている感じがする。
そもそも
「彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事を自らの考えで決定し、
誰一人、あえて彼の意に逆らうが如き事を一言として述べる者はいなかった」
というのが大嘘じゃん。
秀吉は家臣の助言に耳を貸すほうだったぞ。晩年に耄碌するまでは。
0712人間七七四年2014/11/05(水) 23:10:02.69ID:cBMqs19D
>ある時、曾根内匠が内藤昌豊に武田家がいかにすごいかを語ったことがあった。

>「村上義清は信濃五郡の主で、当家は甲斐四郡とまことに小郡でした。しかも村上は
>当家より人数も多かった。にもかかわらず何度も戦に負けてついには国を捨てて越後に
>逃げていきました。

>諏訪頼茂、小笠原長時、木曾義昌、上杉憲政らと幾度も戦いましたがいつも当家の旗風に
>靡きました。北条氏康、上杉謙信とも何度も戦いましたが、当家の戦いぶりは凄まじく、
>今や関東で当家の太刀風に並ぶ者はいません。まさに日本無双というべきです」

>これを聞いていた昌豊は呆れてこう言った。

>「あなたは本当に幼いことを言う人だ。いま中国には毛利元就という大将がいる。
>その人物ははじめ七百貫より起こり、八ヶ国持ちの大内義隆、七ヶ国持ちの尼子晴久、
>五ヶ国の主である大友義鎮と何度も戦って打ち勝ったのだ。村上諏訪小笠原と戦って勝つ
>よりも遥かに勝っているではないか。

>しかし案ずることはない。世間では当家の武勇ほど毛利の武辺は話題になっていないぞ。

>国がどれだけ広くとも、どれだけ多くとも、戦の勝敗は志ひとつで決まるものだ。
>村上の五郡は大内の八ヶ国には及ばずとも、戦士の数は八ヶ国よりも多かった。

>当家の四郡は毛利の十三ヶ国に比べれば大海の一滴にすぎないが、死を惜しまぬ士は
>十三ヶ国よりも盛んだ。つまり、当家は毛利よりも上に立っているのだ」
0713人間七七四年2014/11/06(木) 18:27:07.62ID:WRNm3a5p
>>712を見て思った、高校野球に代表される精神論・根性論は日本の伝統なのだな
0714人間七七四年2014/11/06(木) 18:30:28.31ID:WRNm3a5p
>最上家臣・松根家に伝わる話。
>あるとき、松根家の者が山形城下を歩いていた。するととある家の周りに幽霊がいる。
>「うらめしやー…うらめしやー…」
>そこで松根がこう訪ねた。
>「おい、おめさ、何してんだか?」
>「いやあ、この家の奴に仇討ちしたいのだけどお札を貼ってあるからできなくてな、成仏できんのだ」
>「んだか(ピッ)」
>親切な松根は札を剥がしてやった。
>「かたじけない!」
>幽霊は早速家に飛び込むと、家の中からすさまじい悲鳴が聞こえてくる。
>しばらくすると幽霊は生首を持って出てきた。
>「これでわしは成仏できる。ところでこの生首を葬っておいてくれんか?」
>「んだか」
>松根は幽霊から生首を受け取ると竹林に丁寧に葬った。これ以来、松根家は生首を旗印に描くようになり「松根の生首」として有名になったという。
>幽霊にとってはちょっといいが、お札を剥がされた家の者にとってはかなり悪い話である。
0715人間七七四年2014/11/06(木) 18:32:22.13ID:WRNm3a5p
↑の話、幽霊はフィクションだろう。
というか『牡丹燈篭』がかなり元ネタとして入ってるんじゃないのか?
0716人間七七四年2014/11/06(木) 19:16:02.61ID:WRNm3a5p
>耳川の戦いの後、筑後の国人たちは大友を見限り竜造寺・秋月勢に寝返るものが続出した。
>そんな中、数少ない大友方に残っていた問註所統景より一族の問註所鑑景との戦いにさいし大友家に援軍要請が入る。

>筑後回復の機は今とばかり宗麟次男・三男の田原親家・親盛を大将副将に約7千の軍勢で筑後になだれ込んだ。
>が、初戦の猫尾城攻略から苦戦、黒木氏の猫尾城には竜造寺からの鉄砲隊が援軍として入場しており、城方の反撃悩まされていた。
>豊後勢は耳川で歴戦の武将の多くが戦死しており、若い武将ばかりなのも苦戦に拍車をかけていたのだった。

>城攻め1ヶ月で業を煮やした大友軍は立花道雪・高橋紹運に出陣を要請、形勢は一気に逆転する。
>両将は筑前より一直線に猫尾城へ進軍、立ちふさがる竜造寺・秋月連合軍を片っ端から蹴散らすのであった。
>竜造寺からの増援軍も激戦の末に破り(この激戦で道雪の弟戸次次右衛門など戦死)、即猫尾城攻略に取りかかる。
>そしてこの猫尾城もすぐに落城。城主黒木家永は13歳の娘に介錯され自害している。
>その後も山下・谷川・辺春・兼松・鷹尾などいくつもの城を攻略。
>そんな中、竜造寺もさらなる援軍を繰り出し柳川城で戦線は膠着するのだった。

>そんな柳川での対陣中、いきなり田原親家・親盛兄弟が撤退してしまう。その理由は
>「自分たちがどんだけ頑張っても手柄は道雪・紹運コンビのものになってしまうのでツマラナイ」
>と言うものであった。そのまま豊後まで引き上げる田原勢。
>さすがの道雪も
>「豊後もここまで落ちぶれたか・・・」
>と嘆くのであった。
0717人間七七四年2014/11/06(木) 19:18:46.31ID:WRNm3a5p
>>716を読んで素朴な感想。
武士だって商売でやっているようなもんなんだから・・・
道雪はそういう連中を引き留めるいい手は打てなかったものか?
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