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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう

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0001人間七七四年2012/10/15(月) 00:12:08.25ID:RhmDVWTD
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話を上げたり、もっと話したい事を話そう。


戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/


鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0670人間七七四年2014/11/04(火) 20:02:40.49ID:z2adc2m8
>天正11年(1583)4月、柴田勝家と羽柴秀吉の賤ヶ岳の合戦が進行する中、
>備後国は鞆にあった足利義昭が、毛利輝元に対して発した書状


>『度々そちらに申し寄越したように、柴田勝家勢が既に北近江まで進出しました。
>上方で合戦が起こるのは至急の事だと認識するのが肝要です。
>私の方からは小林家孝、今村を上方に遣わしました。
>今、この事態に対しもし油断があれば、たちまち後悔する事になるでしょう。

>并びに、当家(足利将軍家)の再興はこの時にあります。別して、毛利家が軍勢を上方に出すことを頼み入ります。
>猶、この事については真木島昭光が詳しく話します。

>卯月(4月)六日                   義昭(花押)
     >毛利右馬頭(輝元)とのへ     』

>全く同文のものを吉川元春・元長親子にも送っている。
>どうもこれは、柴田勝家を助けるための行動であった模様である。義昭は自身の京都帰還を条件に、
>柴田勝家に毛利輝元、徳川家康などを結びつけようとしていたようなのだ。

>賤ヶ岳の合戦を前にした、足利義昭の策動の一端である。
(徳山毛利文書)
0671人間七七四年2014/11/04(火) 20:06:18.77ID:z2adc2m8
↑呼んでマジ驚いた。義昭といえば信長包囲網で余りにも有名だが、
秀吉包囲網まで画策していたとは・・・

ここまでくると義昭は包囲網自体のマニアだったんじゃないかと思ってしまう。
成功したことはないがwww
0672人間七七四年2014/11/04(火) 20:37:38.13ID:BpqYr5iP
>>671
当時貴重だった十八史略でも読んでいたのでは?
0673人間七七四年2014/11/04(火) 20:45:29.79ID:z2adc2m8
>>672
そうかも知れない
ただ義昭の場合、計画は壮大だがただその対象を包囲してる連中全部に書状を送ってるだけなんだよな。
彼等各々だってお互いに利害関係があるし、一枚岩になりっこないのに
「将軍(元将軍)の俺が命令する通りに全部上手く動く」と考えてるというか。

ある意味歴史ゲームみたいな感覚でやっていたんじゃないかwww
0674人間七七四年2014/11/04(火) 21:25:17.02ID:z2adc2m8
>長久手の戦いの後、佐々成政は越路の雪を踏み分けて
>はるばる浜松までやってきた。世にいう『さらさら越』である。
>成政が徳川家康と面会したところ、家康は成政を丁重にもてなした。

>「この度は信雄様をお援け頂き感謝にたえません。
>これからもどうか織田家興隆のためにお力添えをお願いいたします。」

>「よくぞ深冬風雪をかえりみずに参られましたな。私は秀吉と遺恨が
>あったわけではありませんが、信雄殿の窮状を見て忍びなく、
>また亡き織田殿との旧好を忘れられなかったので、およばずながら
>お援けした次第です。

>しかし、信雄殿は秀吉と和議を結んだそうですから、私の信義も
>詮なきこととなりました。ですが、成政殿が主のために義兵を起こす
>おつもりであれば私も援兵を送りましょう。」

>成政は家康の言葉に感謝した。その後、会話の中で成政は、
>家康を武田信玄、自らを上杉謙信に例えて、己の自負を語ったという。

>次に成政は織田信雄とも面会した。成政は信雄に上洛を勧めたが、
>信雄は秀吉と和議を結んだことを理由に勧めを拒否した。
>とうとう、どうしようもなくなった成政は後に秀吉に降伏した。

>家康は成政が訪ねてきた時、高力正長に「佐々は人傑である。
>あのような者とは知人になって、その様を見習うがよい。」と言い、
>成政を評価した。

>しかし、老臣の酒井忠次は成政の自負に不快感をあらわにし、
>「あのような者に御加勢は無用でありましょう。あの者は
>大剛の士なれば、その勇気に任せて失言するのも道理である。
>関わらないほうがよろしい。」と批判した。
0675人間七七四年2014/11/04(火) 21:31:07.75ID:z2adc2m8
↑を読んで思ったこと、家康って意外と人を見る目が無かったのかな。
それともあの難儀なアルプス超え(出発した半分以上が死んだらしい)をして会いに来てくれたことに
感激&気骨があると思って目が曇ってしまったのかな。

佐々成政ごときが自らを信玄や謙信に例えるという時点で
過大評価が甚だしいと思うのだが

結局酒井のほうが正しかった
0676人間七七四年2014/11/04(火) 22:40:01.61ID:4VDKY54/
>三河一向一揆の時、小豆坂の戦いの際に、徳川家康の家臣・大見藤六はその前夜まで
>家康の側にいて、明日の軍議を盗み聞きして一揆側に走った。

>これに気づいた家康は近臣たちに言った。
>「明日は大変なことになった。藤六はきっと我らの計略を賊徒に知らせたに違いない。
>お前たち、明日はよくよく戦に励むのだ! もし私が討死したならば、藤六の首を
>切って私に手向けよ。これぞ二世までの忠功である!」

>翌日、藤六と石川新七の二人が真先に攻め寄せてきた。これを水野忠重と水野太郎作正重が
>迎え撃ち、新七は忠重に討たれ、藤六には正重が「お前は逃がさぬ!」と立ち向かった。

>藤六は弓を引いて「小僧め、よらば一矢で射抜いてやるぞ!」とかまえたところ、
>流れ矢が腕に当たり、太刀を抜こうとしたところを槍で突かれてしまった。

>しかし札の堅さのため致命傷にはならず、藤六は刀を抜き放つがこれも致命傷には
>ならなかった。そして正重も抜刀し、切り合いになったが、ついに藤六は切り倒された。
>藤六は「小僧め…無念なり」と念仏を唱えだしたところを正重に首を切り落とされた。
>二人の死によって一揆勢は敗走した。

>さて、正重は討ち取った藤六の首を家康に捧げたところ、家康は大いに正重を誉めた。
>「おう、汝が藤六を討ったか! よくやった、汝が一代の忠功である!」
0677人間七七四年2014/11/04(火) 22:44:11.33ID:4VDKY54/
↑を読んで思ったこと。
家康の危機としては三方ヶ原の合戦や伊賀超えがよく語られるが、
ある意味三河の一向一揆が一番の危機だったのではないか。
何よりも世間一般では一枚岩、忠義の塊のように思われている三河武士から
こう多数の謀反ものが出たというのが衝撃的。
0678人間七七四年2014/11/04(火) 22:46:26.85ID:4VDKY54/
>ある時、徳川家康が茶道具の管理者を呼び出し、
>「茶杓を持ってまいれ」と命じた。家康は管理者が持ってきた茶杓のうち、

>瀬田正忠が創った茶杓6、7本を取り出すと、それらひとつひとつを
>折って「捨てておけ」と命じた。

>この不可解な行動は、ちょうどその頃、正忠が豊臣家の内意を受けて
>蒲生氏郷を殺したとの噂があったので、正忠をひどく憎んでの行動では
>ないかと人々の間で囁かれたという。

>家康、正忠を憎む、という話。しかし、本当のところは不明。
0679人間七七四年2014/11/04(火) 23:21:57.94ID:4VDKY54/
↑の話、家康は正忠を憎んだというより、用心深かったんだろうね。
面白いことに、その毒殺されたという説のある蒲生氏郷も
伊達政宗に茶会に招かれた時
毒殺を用心して茶会の後すぐに飲んだ茶を薬を使って吐き出したことがある
0680人間七七四年2014/11/04(火) 23:25:19.28ID:4VDKY54/
>関ヶ原の戦いの時、徳川の家臣・米津清右衛門正勝は敵の首を取って
>きて小栗又一忠政に向かい「やあやあ又一よ。俺はもう名を上げたぞ」
>と自慢した。

>実はこの二人かねてより仲が悪かった。又一は「貴様がしらみ首を
>取るならば、俺は兜首を取ってみせるわ!」と言い返して先陣へ馳せた。

>正勝はさっそく首を主の家康に見せたが「使番の仕事は先手の様子を
>早く本陣に伝えることであろう。首の一つや二つが一体何の役に立つと
>いうのか!」と叱られてしまった。

>さて、一方の又一は宣言通り兜首を取ってきて正勝に向かい
>「ほれ見ろ。お前にできることが俺にできないわけないだろ」と言うと、
>首をその辺の谷川に捨ててしまった。
0681人間七七四年2014/11/04(火) 23:29:32.55ID:4VDKY54/
↑は正直意味が解らない
家康も正勝も小栗が首を取ったことを信用しなかったということか?
それともこの天下分け目の最中に、そんなことで浮かれるな、という戒めか?
0682人間七七四年2014/11/05(水) 00:06:59.37ID:sS+dOqAO
>天正3年(1575)5月20日付、武田勝頼が長篠より出した、三浦員久(かずひさ)宛の返書

>『あなたの心配はありがたいが、全て我々の思い通りに行っているので安心してほしい。

>長篠城に取り詰めた所、織田信長と徳川家康が後詰に出張してきたので対陣したが、
>敵は戦術を失敗して一段と逼迫しているように見えたので、我々は無二に敵陣に乗りかかり、
>信長・家康の双方とも我々の意のままに討ち崩した。

>なお、そちらも城の用心を、念を入れて行うのが重要である。』


>翌21日、あの「長篠の戦い」が起こり、武田軍は壊乱する。


>武田勝頼がこの書状に事実を書いたのだとしたら、勝頼は織田徳川連合軍の「戦略的撤退」に
>引っかかったのではないか、と言われる書状である。
0683人間七七四年2014/11/05(水) 00:11:26.35ID:sS+dOqAO
↑の「我々は無二に敵陣に乗りかかり、信長・家康の双方とも我々の意のままに討ち崩した。 」
という部分がよくわからない。前哨戦みたいなものが有ったということか?
有ったとして、それは信長・家康のわざと負けて撤退し、相手の本体をおびき寄せる罠だったということか?
0684人間七七四年2014/11/05(水) 00:47:10.62ID:sS+dOqAO
>酒井忠次の娘は見目麗しいと評判であった。
>その娘を牧野康成が妻にしたがっているという話を聞いた忠次であったが
>「右馬允は元来大胆な男だから、機に乗じて謀叛の志を抱くやもしれぬ。
>そのような穏やかならぬ者に、最愛の娘をやることはできぬ!」
>とまったく娘を嫁に出す気はなかった。

>しかし、家康に「牧野が如き才幹ある者にお前の娘を嫁がせれば、
>後々になって家臣とした時に、少しは力になるかもしれんぞ?」
>と諭されると、忠次も心を決めて娘を嫁がせたという。
0685人間七七四年2014/11/05(水) 00:50:39.68ID:sS+dOqAO
佐々成正の件といい信康切腹の一因となった信長への報告(捏造の可能性も高いが)といい
家康と忠次はどうも相性が悪いイメージが有ったから>>684の話は意外だった
0686人間七七四年2014/11/05(水) 01:42:39.74ID:sS+dOqAO
>天文21年(1552)9月、武田信玄は小笠原軍の籠る信州中塔城を攻めた。
>この時、武田軍の南の口の大将は、小笠原長時を裏切り武田に寝返った三村十兵衛であった。

>さて、中塔城の東の尾根では、そこの郭を守る小笠原方の武将、二木善右衛門が、実に見事な黒い馬に乗っていた。
>これを見た攻め手の武田軍・飯富虎昌の手のものが声をかける
>「その馬は実に良い馬だな!わしに売ってはくれないか!?」
>これを聞いた善右衛門、相手が敵方にもかかわらず 「よし、売ろう。」と答えた。
>これを聞いて武田方のこの者
>「敵味方であっても商いはある!互いに一人ずつ出して、馬と代金の受け渡しをしよう!」
>すると善右衛門
>「いかにも売ろう!しかし拙者は金銀には望みがない。代わりの物をお前が取ってきてくれたなら、これを売ろう!」

>「代わりのもの?それは武具か?馬具か?太刀か?やはり籠城しているのだから兵糧か!?
>なんでもいい、望み次第に持ってこよう!」
>「そちが言うようなものではない!私がほしいのは…」と、善右衛門
>「武田晴信と三村入道(十兵衛)の首だ!!その二つをくれるのなら、この馬など安いものだ!」
>これを聞いた武田方の者たちは皆驚き呆れ、怒った
>「おい!それは我々への悪口であるぞ!」
>「少しも悪口なものか!前の諏訪峠の合戦は、本来は我々小笠原軍の勝ちであった!それなのに三村入道が裏切ったために負けた。
>この遺恨によって三村の首を馬の代物として取り、また晴信の首さえ取れば、馬がなくても楽々と
>在所に帰れるというものだ!であるから、この2つの首をくれれば、馬を売ろう。」

>武田軍はこの言葉に激怒し、二木善右衛門に向かって矢を射かけた。そこからここでの戦が始まった。
>信州中塔城、馬売り問答である
(二木家記)
0687人間七七四年2014/11/05(水) 01:46:40.75ID:sS+dOqAO
↑の話、最初のうちはちょっといい話かと思ったけど
「いかにも売ろう!しかし拙者は金銀には望みがない。代わりの物をお前が取ってきてくれたなら、これを売ろう!」
の所でオチがわかっちゃったw

こういう話結構あるね
0688人間七七四年2014/11/05(水) 07:15:19.21ID:QxUDeo7k
>大蔵氏嫡流で筑前西部(現在の福岡市西区・糸島市)を治めていた原田信種は秀吉の九州討伐軍に降伏した。

>信種は久留米の高良山にある秀吉本陣にて拝謁し許しを請うのであった。
>そのとき本領をありのまま申告するより少ない方が見逃してもらえると考え、その所領を過少に報告したのだった。
>しかし秀吉が下した判断は
>「小身にては家を立てること無用」
>とのことで所領没収の憂き目にあったのだった。
>そして秀吉の命で佐々成政の与力として熊本へ赴くのであった。
0689人間七七四年2014/11/05(水) 07:19:48.19ID:QxUDeo7k
↑を読んで思った。今時々起っている不祥事、当時からあったんだなあ。
もっともその佐々成政がじきに切腹に処せられるわけですが。
彼を信頼しておらず処刑したかった秀吉が
わざと彼を治めにくい肥後に配したとも言われるし
0690人間七七四年2014/11/05(水) 07:22:42.46ID:QxUDeo7k
>甲斐国、向嶽寺(現山梨県塩山市)において、代々の住持が書き継いできた『塩山向嶽禅庵小年代記』より、
>天文10年(1541)の、武田晴信(信玄)による、父・武田信虎追放についての記事


>『武田信虎は平生より悪逆無道であった。そのため国中の人民、牛馬、畜類どもに至るまで大いに愁い、
>悩んでいた。しかし駿河の太守である今川義元が信虎の娘を娶ったため、信虎は6月中旬に駿府に行ったので、
>晴信は万民の愁いを救おうとして、足軽を河内(甲斐南部、駿河との国境)境に出し父の帰り道を断って、
>自分が即位し国を保った。

>国中の人民はこれを知ると、尽く快楽の笑みを含んだ。』


>これによるとなんと武田信虎、人間どころか牛馬を始めとした甲斐の動物たちまで困り果てるほどの悪政を
>行なっていたらしいのだ。一体どれほどの悪逆無道だったのだろうか?w

>そんな、武田信虎追放に関する記録の一つである。
0691人間七七四年2014/11/05(水) 08:00:25.68ID:QxUDeo7k
↑は「打倒した前の統治者を悪く書く」の典型だろうな。
中国史なんかだと日常茶飯事に行われてきたこと。
殷の桀紂が物凄く酷く描かれているように
(実際に悪政は引いてはいただろうが、かなり誇張されてるはず。信虎も同様)
0692人間七七四年2014/11/05(水) 08:02:48.16ID:QxUDeo7k
>慶長の役で戦死した原田信種の嫡男嘉種は父の肥後熊本の所領を相続した。
>しかし嘉種は名門大蔵一族の嫡流を誇りとし、主君の加藤清正が相手でも素直に従わない困り者であったのだ。

>清正の娘がある大名に嫁ぐ事になった時、清正は嘉種の母が故事に明るいと聞き、
>乳母として娘に付き従っていくよう命じた。しかし嘉種母子はこの命令を断ってしまった。
>流石の清正は嘉種のこの行動に怒り、その後は嘉種を冷遇、ついには召し上げ追放してしまったのだった。

>流浪の身となった嘉種は旧知の唐津藩主寺沢氏の下に行くが寺沢家が改易、
>その後は流れに流れ最終的には会津藩保科正之に2千石で使えることになるのである。
0693人間七七四年2014/11/05(水) 08:07:06.23ID:QxUDeo7k
まあ珍しい例だが、春日局みたいに乳母が権力持つことだってあるのに。
そこまでいかなくても清正の命に従って関係を強化しておいたほうがいいのに。
プライドなんて捨てて。と>>692の話を読んで思いました。
0694人間七七四年2014/11/05(水) 08:49:47.09ID:QxUDeo7k
>1590年徳川家康の後継者に最も近いとされる三男竹千代が元服することになった
>この時元服にあたり諱を兄秀康に習い秀吉と家康の字をもらう事で秀家としてはどうかという案が出た
>しかしすでに秀家を名乗る者はいる宇喜多秀家である
>このためは銀子三百枚で秀家の名を譲ってもらってはどうかと言う案も出され
>石田三成が宇喜多秀家に交渉を試みた

>しかし秀家は憤慨し交渉は失敗
>しかも三成と秀家の仲も一時悪くなり三成は以後大谷吉継に秀家に対しての諸事を相談してから応るようになったという

>そして徳川秀家は実現せず家康三男竹千代は元服後父祖伝来の忠の字を継ぎ徳川秀忠となったとさ
0695人間七七四年2014/11/05(水) 08:54:31.03ID:QxUDeo7k
↑を読んで思ったこと。関係ない他家の人と同じ名を名乗るには
その既に名を使っている人の許可を取るのが必要だったのか?
それとも勝手に名乗ればいいものを、三成がわざわざ奔走したのか。

いずれにせよ三成は良かれと思って余計なことしてトラブルを作るタイプに思える
0696人間七七四年2014/11/05(水) 17:31:56.83ID:iZXyVGqG
>信玄の信長へのお手紙

>永禄12年 1569年

>「信玄事者、只今憑信長外又無味方候。此時聊も於信長御疎略者、信玄滅亡無疑候」
>(信玄には信長以外に味方いません。信長を粗略に扱えば、信玄が滅亡するのは確実です)

>駿河侵攻をきっかけとして、上杉・北条・徳川を同時に敵に回して窮した際、信玄が信長に上杉との和睦斡旋を求めた時の書状。

>元亀2年 1571年

>「縱扶桑国過半属手裏候共、以何宿意、信長ヘ可存疎意候哉」
>(たとえ日本の過半を支配するような事があっても、信長に敵意は持たないし粗略にもしない)

>甲越和与成立して信玄は危機を脱したが、結局は破綻し北条との甲相同盟が武田の方針となった時期の信長への手紙。
0697人間七七四年2014/11/05(水) 17:36:00.13ID:iZXyVGqG
信長が一方的に信玄に気を使った手紙を出してるようによく言われるが↑を見ると
信玄も信長に気を使った手紙出してるんだな。
もっとも後に信長包囲網の時は明らかに信長に敵意持って侵略を開始したわけだが。
敵味方なんてのは時間が立てば変わるし、外交は駆け引きといういい例だね。
0698人間七七四年2014/11/05(水) 17:37:51.97ID:iZXyVGqG
>徳川家を攻めようとした今川氏真は武田信玄に
>「このようにして徳川を攻めます」と伝えてきた。その計略の稚拙さに信玄は

>内心「馬鹿な奴だ」と思いながらも「心配なさるな」などと調子を合わせていた。
>その一方で徳川家には下條弾正をして氏真とのやりとりをつぶさに伝え、

>「何も心配することはありません。もし氏真が出馬したならば、一緒になって
>滅ぼしてやりましょう」と言った。この時、家康は「信玄は残酷な人物だな。
>しかし今川を倒すためならば是非も無い」と言ったという。

>氏真の逃亡後、徳川と武田の間に和議があり、誓紙の文に「川を両国の境界とする」
>と書き定められた。これは大井川のことであったが、信玄は家康を若輩者と侮って
>今川義元が扱ったごとく家康を扱ってやろうと思っていた。

>ある時、突然武田家が徳川側の里民の人質を取ったので
>徳川家が抗議すると、武田家は「誓紙の川切とは天竜川切という意味だ」と答えた。

>これを聞いた家康は「天竜川は我々にとって城溝のようなものではないか!
>何が天竜切だ。こんな嘘偽りばかりの輩に我らの行末を頼むわけにはいかん!」
>と激怒し、遂には武田家との隣好を絶つことになった。
0699人間七七四年2014/11/05(水) 18:13:38.27ID:iZXyVGqG
↑を読んで思った。この頃か完全に信玄のほうが狸オヤジ。
でも、こういうのをみて家康は老獪さを身につけていったんだな。
フィクションだが山岡や横山の『徳川家康』で信玄を人生の師匠の一人に挙げている。
0700人間七七四年2014/11/05(水) 18:15:29.15ID:iZXyVGqG
>稗貫広忠の末期
>陸奥国稗貫郡の領主稗貫広忠は、奥羽仕置によりその領地を没収され、その後の再興運動も実を結ばず、
>没落して稗貫郡矢沢村に潜居していた。
>ある時、近所の高松寺の法印と四方山話をするついでに、広忠は法印に語った。

>「実はこの頃、良い夢を見るのだ。ひょっとしたら本領に帰参できるかもしれない」
>「それはよかったですね、どんな夢をご覧になったので?」
>その問いに、広忠は歌を詠んだ。

>ただ頼め 真如の道ぞ ありがたき 立ち帰るべき 道ぞ来にける

>法印はその時は祝福した。だが広忠が帰った後、
>「広忠様は悪い夢を見ておられる。遠からずお亡くなりになるだろう」
>その言葉通り、その日からまもなく稗貫広忠は亡くなった。
>文禄3年3月2日の事だという。
0701人間七七四年2014/11/05(水) 18:18:36.32ID:iZXyVGqG
>>700の話、法印のやさしさなのか、それとも本当のこと言ったら斬られると思ったのか、
それによっていい話にも悪い話にもなる。
まあ改易されて潜居していた広忠を恐れる必要もないだろうから
前者かな?
0702人間七七四年2014/11/05(水) 20:28:10.22ID:iZXyVGqG
>立花道雪の死後、長年対立関係のあった高橋紹運と秋月種実との間に和平を望む機運が高まり、
>種実の娘と紹運の二男(統増)を婚姻させようとの動きが出てきていた。
>そしてその動きは秋月種実の盟友筑紫広門を驚愕させる。
>筑紫広門は道雪の死後のどさくさにまぎれ、高橋家の宝満城を攻略していたのだった。
>もし秋月と高橋・立花が結び筑紫に攻めてくれば当家の命運は尽きる・・・

>居城勝尾城に重臣を集め方策を練ったが、これと言った意見が出てこない。
>そんな中、一族の筑紫六左衛門より
>「当家が高橋家と婚姻をむすぶしかありません。姫を私にお預けください。
>姫とともに岩屋城に参り紹運公に姫と統増どのの縁組を直訴してまいります。
>紹運公は情け深きお方とのこと、こちらが真心を持って誠心誠意懇願すればあるいは・・・
>もし紹運公に承認いただけない時にはその場で姫を刺し、私も腹を切ります。」
>広門もこの六左衛門の気迫を見て賛成するのだった。
(続く)
0703人間七七四年2014/11/05(水) 20:31:02.24ID:iZXyVGqG
>岩屋城の高橋紹運、敵対している筑紫広門の娘が訪ねてきたとの知らせに訝りながらも目通りする。
>「筑紫上野介の娘かねでございます。不躾ながらお願いの儀があり参上いたしました。
>女子の口からお恥ずかしいことですが・・・・・」
>と言って目を伏せてうつむいてします。その後を六左衛門が続けた。
>統増とかね姫の婚姻による和平の提案、突然の押しかけ女房の提案に困惑する紹運。
>六左衛門は
>「ご当惑はごもっともと思います。しかし我が筑紫も滅亡の危機にあるのです。
>もしこの件どうしてもお許しいただけないようならば、庭先をお借りし切腹を致します。」

>六左衛門の熱意に押されたか紹運も婚姻を承諾、15歳の統増もとに17歳のかね姫が輿入れしたのである。
>その後の2人は九州征伐時に島津軍に夫婦そろって拉致られ薩摩祁答院での軟禁生活を夫婦で乗りきることになる。

>で、なぜ悪い話かと言えばその後広門が島津軍に宝満城の秘密を洩らしたため離縁することになったから。
0704人間七七四年2014/11/05(水) 20:35:20.95ID:iZXyVGqG
戦国の世、夫婦といえども心を許せないということもあるということか>>702-703
恐ろしや。
信長と濃姫にもそういう話があったな。
0705人間七七四年2014/11/05(水) 21:01:41.15ID:FXmkZyCc
立花家を継いだ忠茂はかね姫の子みたいだから
結局離縁しなかったか復縁したみたいだけどね
0706人間七七四年2014/11/05(水) 21:10:52.89ID:iZXyVGqG
>>705
え、そうだったの?
そんな大事な秘密漏らされて復縁したなんて・・・
0707人間七七四年2014/11/05(水) 21:16:09.11ID:iZXyVGqG
>元亀三年(1572)、いわゆる信長包囲網の中、武田信玄の西上が始まり窮地に陥った頃の織田信長が、
>上杉謙信に宛てた書状

>『先に使者を遣わして申し上げた所、すぐに御入眼され、さまざまな御懇慮を頂いたこと、少なからず
>我が本懐であります。そしてそちらから大鷹5羽を送っていただいたこと、私にこの様に御心をかけて頂いたのは、
>まさに前代未聞、当方に過ぎること至極な御扱いであり、これらの鷹は、別して今までにないほど寵愛いたします。
>(前代未聞過当至極候、別而寵愛無他候)

>右の内容を(謙信に)お取りなしして下さい。恐々謹言


                       >信長(花押)
>(元亀三年)十一月七日
   >直江大和守(景綱)殿


>追って申し入れます。仰せくださった御誓談の数々、かたじけない次第であります。
>特に、そちらの御養子に我が愚息を召しおきたいとのこと、これは私にとって面目の至りであります。
>(殊為御養子愚息可被召置旨、是面目之至候)

>これはいつ頃、そちらに送り出すべきでしょうか?今後我らに対しどうぞ御指南をしてやって下さい。
>これらの趣旨を(謙信に)ご披露頂ければ本望です。恐々謹言


                       >信長(花押)
>(元亀三年)十一月七日
   >直江大和守(景綱)殿

(上杉古文書)
0708人間七七四年2014/11/05(水) 21:22:01.02ID:iZXyVGqG
>>707に関して
上にある信玄に対する手紙(>>696)に比べて非常に下手に出た書き方。
この頃のほうが信玄に対する時よりも信長の勢力も強大になっているはずなのに。
どうも信長は謙信に対しては生理的に恐れを抱いていたような気がする。
俗人である信長にとって同じく俗人である信玄よりも
色々な意味でこの世の論理では理解できない人物である謙信は
得体のしれない不気味な存在だったのではないか?
0709人間七七四年2014/11/05(水) 22:14:58.26ID:cBMqs19D
>フロイスの秀吉評

>彼は美濃国の出で、貧しい百姓のせがれとして生まれた。
>若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。
>彼は今なお、その当時のことを秘密にしておくことができず、極貧の際には古い蓆(むしろ)以外に身を覆うものはなかったと
>述懐しているほどである。
>だが勇敢で策略に長けていた。

>ついでそうした卑しい仕事をやめて、戦士として奉公し始め、徐々に出世して美濃国主から注目され、戦争の際に挙用されるに至った。
>信長は美濃国を征服し終えると、秀吉が優れた兵士であり騎士であることを認め、その俸禄を増し、彼の政庁における評判も高まった。
>しかし彼は元来、下賎の生まれであったから、主だった武将たちと騎行する際には馬から下り、他の貴族たちは馬上に留まるを常とした。

>彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった。
>目がとび出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった。
>男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。

>彼は自らの権力が順調に増していくにつれ、それとは比べ物にならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。
>家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者はいないほどであった。
>彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事を自らの考えで決定し、誰一人、あえて彼の意に逆らうが如き事を一言として
>述べる者はいなかった。
(続く)
0710人間七七四年2014/11/05(水) 22:16:46.85ID:cBMqs19D
>彼はこの上もなく恩知らずであり、自分に対する人々のあらゆる奉仕に目をつぶり、このようなことで最大の功績者を追放したり、
>恥辱をもって報いるのが常であった。

>彼は尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって、彼を残酷で嫉妬深く不誠実な人物、欺瞞者、虚言者、
>横着者たらしめたのである。
>彼は日々、数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。

>彼は本心を明かさず、偽るのが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。

>齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行において極めて放縦に振る舞い、野望と肉欲が彼から正常な判断力を奪い取ったかに見えた。
>この極悪の欲情は彼においては止まることを知らず、その全身を支配していた。
>彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れていく種々の城に別の多数の娘たちを置いていた。
>彼がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的のひとつとしていたのは、見目麗しい乙女を探しだすことであった。
>彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者はなく、彼は国主や君侯、貴族、平民の娘たちを、なんら恥じることも恐れることもなく、
>その親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で、収奪した。
>彼は尊大な性格であったから、自らのこれらの悪癖が度を過ぎることについても、全く盲目であった。
>彼は自分の行為がいかに卑しく不正で卑劣であるかに全然気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し
>命令するままに振舞って自ら楽しんでいた。
0711人間七七四年2014/11/05(水) 22:22:40.58ID:cBMqs19D
>>709-710のフロイスの秀吉評はいい所と悪い所を混ぜて伝えているが
全般的に秀吉が宣教師追放をしたためか、悪意に満ちている感じがする。
そもそも
「彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事を自らの考えで決定し、
誰一人、あえて彼の意に逆らうが如き事を一言として述べる者はいなかった」
というのが大嘘じゃん。
秀吉は家臣の助言に耳を貸すほうだったぞ。晩年に耄碌するまでは。
0712人間七七四年2014/11/05(水) 23:10:02.69ID:cBMqs19D
>ある時、曾根内匠が内藤昌豊に武田家がいかにすごいかを語ったことがあった。

>「村上義清は信濃五郡の主で、当家は甲斐四郡とまことに小郡でした。しかも村上は
>当家より人数も多かった。にもかかわらず何度も戦に負けてついには国を捨てて越後に
>逃げていきました。

>諏訪頼茂、小笠原長時、木曾義昌、上杉憲政らと幾度も戦いましたがいつも当家の旗風に
>靡きました。北条氏康、上杉謙信とも何度も戦いましたが、当家の戦いぶりは凄まじく、
>今や関東で当家の太刀風に並ぶ者はいません。まさに日本無双というべきです」

>これを聞いていた昌豊は呆れてこう言った。

>「あなたは本当に幼いことを言う人だ。いま中国には毛利元就という大将がいる。
>その人物ははじめ七百貫より起こり、八ヶ国持ちの大内義隆、七ヶ国持ちの尼子晴久、
>五ヶ国の主である大友義鎮と何度も戦って打ち勝ったのだ。村上諏訪小笠原と戦って勝つ
>よりも遥かに勝っているではないか。

>しかし案ずることはない。世間では当家の武勇ほど毛利の武辺は話題になっていないぞ。

>国がどれだけ広くとも、どれだけ多くとも、戦の勝敗は志ひとつで決まるものだ。
>村上の五郡は大内の八ヶ国には及ばずとも、戦士の数は八ヶ国よりも多かった。

>当家の四郡は毛利の十三ヶ国に比べれば大海の一滴にすぎないが、死を惜しまぬ士は
>十三ヶ国よりも盛んだ。つまり、当家は毛利よりも上に立っているのだ」
0713人間七七四年2014/11/06(木) 18:27:07.62ID:WRNm3a5p
>>712を見て思った、高校野球に代表される精神論・根性論は日本の伝統なのだな
0714人間七七四年2014/11/06(木) 18:30:28.31ID:WRNm3a5p
>最上家臣・松根家に伝わる話。
>あるとき、松根家の者が山形城下を歩いていた。するととある家の周りに幽霊がいる。
>「うらめしやー…うらめしやー…」
>そこで松根がこう訪ねた。
>「おい、おめさ、何してんだか?」
>「いやあ、この家の奴に仇討ちしたいのだけどお札を貼ってあるからできなくてな、成仏できんのだ」
>「んだか(ピッ)」
>親切な松根は札を剥がしてやった。
>「かたじけない!」
>幽霊は早速家に飛び込むと、家の中からすさまじい悲鳴が聞こえてくる。
>しばらくすると幽霊は生首を持って出てきた。
>「これでわしは成仏できる。ところでこの生首を葬っておいてくれんか?」
>「んだか」
>松根は幽霊から生首を受け取ると竹林に丁寧に葬った。これ以来、松根家は生首を旗印に描くようになり「松根の生首」として有名になったという。
>幽霊にとってはちょっといいが、お札を剥がされた家の者にとってはかなり悪い話である。
0715人間七七四年2014/11/06(木) 18:32:22.13ID:WRNm3a5p
↑の話、幽霊はフィクションだろう。
というか『牡丹燈篭』がかなり元ネタとして入ってるんじゃないのか?
0716人間七七四年2014/11/06(木) 19:16:02.61ID:WRNm3a5p
>耳川の戦いの後、筑後の国人たちは大友を見限り竜造寺・秋月勢に寝返るものが続出した。
>そんな中、数少ない大友方に残っていた問註所統景より一族の問註所鑑景との戦いにさいし大友家に援軍要請が入る。

>筑後回復の機は今とばかり宗麟次男・三男の田原親家・親盛を大将副将に約7千の軍勢で筑後になだれ込んだ。
>が、初戦の猫尾城攻略から苦戦、黒木氏の猫尾城には竜造寺からの鉄砲隊が援軍として入場しており、城方の反撃悩まされていた。
>豊後勢は耳川で歴戦の武将の多くが戦死しており、若い武将ばかりなのも苦戦に拍車をかけていたのだった。

>城攻め1ヶ月で業を煮やした大友軍は立花道雪・高橋紹運に出陣を要請、形勢は一気に逆転する。
>両将は筑前より一直線に猫尾城へ進軍、立ちふさがる竜造寺・秋月連合軍を片っ端から蹴散らすのであった。
>竜造寺からの増援軍も激戦の末に破り(この激戦で道雪の弟戸次次右衛門など戦死)、即猫尾城攻略に取りかかる。
>そしてこの猫尾城もすぐに落城。城主黒木家永は13歳の娘に介錯され自害している。
>その後も山下・谷川・辺春・兼松・鷹尾などいくつもの城を攻略。
>そんな中、竜造寺もさらなる援軍を繰り出し柳川城で戦線は膠着するのだった。

>そんな柳川での対陣中、いきなり田原親家・親盛兄弟が撤退してしまう。その理由は
>「自分たちがどんだけ頑張っても手柄は道雪・紹運コンビのものになってしまうのでツマラナイ」
>と言うものであった。そのまま豊後まで引き上げる田原勢。
>さすがの道雪も
>「豊後もここまで落ちぶれたか・・・」
>と嘆くのであった。
0717人間七七四年2014/11/06(木) 19:18:46.31ID:WRNm3a5p
>>716を読んで素朴な感想。
武士だって商売でやっているようなもんなんだから・・・
道雪はそういう連中を引き留めるいい手は打てなかったものか?
0718人間七七四年2014/11/06(木) 20:31:30.89ID:WRNm3a5p
>ある日、牧野康成の下に刀を売ろうする商人がやって来た。

>康成はじっくり観察すると
>「素晴らしい。これは良く切れそうな刀だ」
>どうやらその刀は業物であったため、これを購入した。

>その後、家康が家中の名刀の切れ味を試すために試し切りを行った。
>康成も件の刀で試し切りに参加することになった。

>そして刀を購入した経緯を説明し、いよいよ試し切りを行うことになった。
>自らの眼で業物と判断しただけに、もしここで切れなければ恥をかくことになる。

>緊張の余り康成はしばし目を閉じた。

>「私の目利きの通りに切れてくれよ」
>と念じ、刀を下ろした。

>果たして試し切りは成功した。土壇まで切入り、斜めの様子でもない。
>康成の喜ぶ様子を見た家康は大いに笑い、その刀を「目眠刀」と名付けるよう命じた。
>康成が目を閉じた姿が眠っているように見えたためであろう。
>この刀は代々家宝とされた。

>なお、この刀は保昌五郎貞吉の作である。
0719人間七七四年2014/11/06(木) 20:34:21.35ID:WRNm3a5p
↑の話は家康のユーモアセンスを表していると思う。
一般的に秀吉=明るいひょうきんもの、家康=堅物のイメージが定着しているが
実際には家康もひょうきんものだったと思う。
家康とその家臣団は笑いの絶えない集団だったのではないか?
0720人間七七四年2014/11/06(木) 20:39:48.13ID:d+kKxIr5
>>717
高良台に一旦引いた後、反撃に来た2万の龍造寺軍を、残った1万だけで
返り討ちにしてるのは流石だけどね
0721人間七七四年2014/11/06(木) 21:16:44.51ID:WRNm3a5p
>>720
もちろん道雪の戦の能力を疑問視する気は全くないさ
>>717も自分が優れているだけに
並みの武士にも自分と同じものを期待してしまったんだろうし
天才スポーツプレイヤーが指導者になった時に陥りがちなことと同じだね
0722人間七七四年2014/11/06(木) 21:19:43.81ID:WRNm3a5p
>明智光秀の元に小西万兵衛という十八、九ほどの武士が高禄で士官を願い出、抱えられた。
>家中の者はこれを聞き「なんとも図々しい奴だ。若僧になにができる。
>あのような者を高禄で抱えるとは殿も大人気ないことよ」とつぶやいた。
>〜中略〜
>その後の天正三年、丹波のほづつの城の城主、赤井悪右衛門(直正)との合戦の際、
>明智殿は夜中陣を巡視された所、この万兵衛と新参の武士が一緒の小屋で前後不覚に
>眠り込んでいるのを見かけた。そこで明智殿は忍び入り二人の刀、脇差を取って帰られた。

>二人は目を覚まして驚き合ったが、新参の武士が「夜が明ければこの評判は広まってしまうだろう、
>夜の明けぬうちに二人刺し違えて死のうではないか」と言った。
>万兵衛はこれを聞いて「死んだ所で何の価値もない、起きていて盗まれたなら大恥であろうが、
>眠っていたなら仕方がないことだ。わしは同意しかねる」と答えた。
>このため新参の武士も一人では死ぬこともできずにいた。

>ところが万兵衛は夜明けとともに、茜色の吹抜き指物を高い所に立て、
>その下で討ち死にを遂げた。これを見て敵も味方も、さても見事な振る舞いと感嘆したという。
>この件に関しては明智殿の失敗であったとの評判であった(この時の丹波攻略も失敗した)。
<武者物語より>
0723人間七七四年2014/11/06(木) 21:25:17.78ID:WRNm3a5p
↑はイマイチ明智光秀の意図がわからないのだが、万兵衛と新参の武士を試したかったのか?
彼等が刀を取られそうになって目を覚ますか否か、いざ取られてしまったときどういう対応をするかということを。
0724人間七七四年2014/11/06(木) 23:19:04.52ID:BkhwNS7q
>天正十年五月の晦日、光秀は「西国へ出陣する軍勢のいでたちを信長公にお見せしたい。」と
>表向き発表し総勢八千余騎の軍勢で夜半に丹波の亀山を出発した。
>どんどん道を進んでいくと、まだ夜中のうちに大江山まで着いた。
>ここで光秀は明智左馬助(秀満)・斎藤内蔵助(利三)などに向かって
>「この密事をすべて軍兵にも言い聞かせよう。」と言うと、皆「それがよろしいでしょう。」と答える。
>光秀は諸軍勢に向かって「私はとあるわけがあって信長を討ち果たそうと思っている!
>皆の者、これから本能寺に討ち入り一気に攻め破れ!
>私がこの大望を遂げたならば皆にも大国を宛てがおう。進め者ども!」と呼びかけた。
>兵達はこれを聞いて、皆勇み進んで洛中へと攻め寄せた。

>折りしもそのとき信長は本能寺で終夜多数の美女を集めて酒を飲み、歌を謡わせるなどして何の用心もしないでいたが
>「飲みすぎた。」と言って帳の中に入り、珊瑚の枕を押しやって美しい婦人の玉臂にすがり寝始めたので
>当番の者達も皆、帯剣を解いて寝入った。

>こうして六月朔日、東の空が明けてゆく頃、光秀は大江山を越えて桂川に臨んでいた。
>村井長春軒が召し使っていた者が、桂川のほとりで小役人などをしていたが
>光秀の兵が西国には下らず洛中へ行こうとしているのを不審に思って、急いで使者を遣わした。
>「光秀の軍兵たちは西国へは向かわず、洛中目指して討ち入ろうとしております。
>おそらく光秀は謀反を起こしたものと思われます。ご用心ください。」と注進したけれども
>これを聞いた者は「何を言うか!今さら誰がわが主君信長公に向かって弓を引くというのか。
>中でも光秀は世に類ない厚恩を受けている。他の者ならともかく光秀に限ってそんなことするはずがない。」と
>まったく聞き入れなかった。これが信長の運の尽きであった。
(続く)
0725人間七七四年2014/11/06(木) 23:21:07.45ID:BkhwNS7q
>光秀の先駆けの勢は、卯の上刻(午前五時ごろ)に本能寺の門前に至った。
>「惟任は西国に出陣するいでたちを信長公にお見せするためにここまで参りました。
>上様にもこのことをお伝えください。門も開いてください。」と言うので門番たちは「それは喜ばしいことです。」と
>門を八の字に開いた。すると光秀の軍勢が一度にドドっと駆け込んだ。
>当番の者たちは「上様はまだ御殿に籠もっていらっしゃるというのに狼藉に及ぶのはいったい何者か!」と
>制したけれども兵たちは鬨の声をどっと上げる。
>森乱丸は勘のいい者だったためすぐ外に出てきて明智の軍勢を確認すると
>「皆の者!切って出て手が動く限り戦い、敵を追い払え!」と下知した。
>当番の者たちは鬨の声に飛び起きて帯を急いで身に回したけれども、太刀を取りそびれた者もいた。
>同じところで寝ていた者たちは一本の帯を「自分の帯だ!」「いやこれは誰々のだ!」などと論じ合って
>太刀なども同じように自分のものだと言い争い、奪い合う者もいた。
>また太刀を抜いて出てみると、後から鞘だけを持って追いかけてきたりする者もいて
>慌てふためいているところへ明智勢がここぞとばかりに攻め入り、散々に斬り付け、突き伏せていった。
>寺にいた兵たちは全く歯が立たず、皆向かってくる敵に走りかかっていって討ち死にした。

>信長は白綾の単衣を着て、髪を茶筅に結い、槍を提げて廊下へと走り出ると「せがれめか!せがれめか!」と叫んだ。
>その後、敵が思いもよらず攻め入ってきたせいで抵抗のしようがない思いと自害を決めたのだろう
>信長は部屋の中へ入ろうとしたが、そこを光秀の郎党、天野源右衛門(当時は安田作兵衛)が槍でしたたかに突いた。
>信長は深手を負ってしまったので、自害も思うようにできないとみるや、そのまま燃え盛る炎の中へと飛び込んだ。
>だが並河金右衛門が続いて炎の中へ飛び込み、中から信長を引きずり出すとついにその首を討ったのである。

>天野源右衛門がのちに語った本能寺の変の一部始終である。
0726人間七七四年2014/11/06(木) 23:24:39.64ID:BkhwNS7q
↑つまり信長は最初信忠の謀反だと思ったわけね
0727人間七七四年2014/11/06(木) 23:57:50.06ID:d+kKxIr5
唐津城に天野源右衛門の信長を刺したとされる槍が展示されてたな
0728人間七七四年2014/11/07(金) 00:03:37.25ID:AA/Pkhpa
>>727
信長の死体って見つかってないはずなのに・・・と思ったが、
別に刺した=討ち取ったではないからおかしくはないよな。
>>725
>だが並河金右衛門が続いて炎の中へ飛び込み、中から信長を引きずり出すとついにその首を討ったのである。
はおかしいが。
0729人間七七四年2014/11/07(金) 00:05:44.57ID:AA/Pkhpa
>大坂の役の後、徳川家康は二条城で御宿勘兵衛をよく知るという同郷の者を
>召して話を聞いた。その時、その者が勘兵衛のことだけでなく、国府台の戦いで
>名をあげたと口を滑らせたところ、

>「お前は永禄の年に生まれたと言ったが、国府台の戦いといえば、
>北条氏康は五十前後、氏政は二十六か七ほどの頃だったはず。お前はその頃、
>四歳か五歳だろう。どうして従軍できる?デタラメを申しおって、さっさと失せろ!」

>と、家康を激怒させてしまった。

>「あのような嘘吐きが家人にいては風紀が乱れる。きつく罰してやる」

>家康はそう言ったが、まもなく死去したのでその者が罰せられることはなかった。
0730人間七七四年2014/11/07(金) 00:08:53.40ID:AA/Pkhpa
↑大坂冬の陣の後、約束を破って堀を全部埋めさせた大御所が何をおっしゃられるwww
若い頃の家康なら>>729のようなことがあっても笑って突っ込んだと思う。
0731人間七七四年2014/11/07(金) 00:47:13.01ID:AA/Pkhpa
>豊臣秀吉が休戦期間を挟み再び朝鮮への出兵を命じた慶長の役において、巨済島沖に
>出没した300隻の朝鮮水軍と日本軍が激突した際、決戦前の軍議で藤堂高虎らが
>「まず偵察船を出して様子を探った上で、大船で攻撃すべし。」
>と主張したが、加藤嘉明は
>「いや、ここは中船であえて弱く見せて機を伺って攻勢に出るべきだ。」
>と提案したが、これが不採用になると
>「配下の乗った偵察船を連れ戻す。」
>という名目で味方の船団から離れ、そのまま一隻で敵に先制攻撃を仕掛けて、自ら敵船に飛び移る奮戦で
>多くの敵船を乗っ取った。軍勢の軍監だった奉行達からは
>「あの命知らずの働きを見よ。」
>と称えられ、抜け駆けの件でも咎めは受けなかったものの、後から戦いに参加した武将達からは
>大いに不満を抱かれたという。その後、奉行たちに手柄を報告する際にも高虎が、
>「儂の功績は皆の中でも随一である。」
>との言葉に嘉明は
>「貴殿は小舟を2、3隻捕えたまでの事。その点儂は大船を捕獲した。比較を絶しておる。」
>と反論。怒った高虎が刀を抜いても顔色一つ変えず、
>「周りの目を気にしてむやみに気張って見せるのは子供のする事ぞ。」
>と押しとどめ、
>「高虎とは器が違う。」
>と周囲に感嘆されたという。 
「武将感状記」
0732人間七七四年2014/11/07(金) 00:50:30.24ID:AA/Pkhpa
↑を読むと藤堂高虎が子供に見えて仕方ない。
意外だった。高虎ってそんなキャラじゃないと思ってたから。
実話だろうか?
0733人間七七四年2014/11/07(金) 01:26:19.26ID:AA/Pkhpa
>天正13年6月18日、四国征伐のため軍勢の派遣を進めていた羽柴秀吉が、小早川隆景に当てた書状

>『今度長宗我部元親から、阿波・讃岐を返上した上、実子を出し、大阪に人質として置いて私に対して
>奉公させたいと言って来ました。

>しかし、もはや人質など受け取れません。また、あなたがお望みだった伊予も返上に入っていませんので、
>是非にもおよびません。
>長宗我部からの人質は全て返し、伊予の国の一織はあなたに与えます。

>長宗我部が許しを請うて降服してきたら、彼には土佐一国のみをあてがうでしょう。

>謹言

>天正拾参
  >六月十八日               >秀吉(花押)

    >小早川左衛門佐殿

(小早川家文書)
0734人間七七四年2014/11/07(金) 01:32:29.54ID:AA/Pkhpa
もう↑の時点でどうあがいても長宗我部は土佐一国だけの領有しか残された道は無かったわけだな。
戦う前から戦後処理を決めていた秀吉(絶対勝つ自信があったからだろうが)。

これがあの悪名高い大河『江』だと
この四国討伐に際して江にアドバイスを求め、それにしたがっているwww
0735人間七七四年2014/11/07(金) 07:12:02.02ID:/RFmeOLM
>明智左馬助秀満は本能寺の焼跡から信長の屍を捜索していた。
>すると並河金右衛門が自ら討ち取った信長の首と白綾衣袖を持ってやってきた。
>秀満はすぐにこれを人目に触れないよう隠させた。
>金右衛門は「左馬助殿はそれがしの功を隠されようとなさるのか!」と怒った。
>秀満は金右衛門を諭して言った。
>「前右府殿(信長)はかつて甲斐征伐において勝頼公の首を罵詈されたが、今になって人々はこれを誹誇している。
>もし今、殿に前右府殿の首を御見せすれば恨み骨髄に達しているゆえ、必ず陵辱されるであろう。
>そうなると殿の汚名が末代まで残ってしまう事は必定だ。天命とは実に畏るべきものである。
>そなたの功はわしが後日必ず証を立ててやるゆえ、今は黙ってわしの言う事を聞いてもらいたい。」
>そして涙を流しながら頼み込んだ。
>金右衛門もその志に感じて秀満に托す事を了承し、秀満は僧西誉に命じて信長の遺骸を葬らせた。

>光秀は信長の屍がなかなか見つからないので斎藤(内蔵助)利三を遣わして秀満にこう伝言をさせた。
>「その方は先陣となっておるのに未だ前右府殿の生死の明証を得ていないとはどういう事だ!
>もし生き延びて逃げられていたならば既に我等は為す術が無くなってしまう。」
>これを聞いて秀満は真実を利三に告げた。
>利三も感じ入って、焼け焦げた白綾の衣を取って信長の死の証としたのである。

>ところで織田信長を討ち取った並河金右衛門だが、明智軍が山崎の合戦で敗れるとその素性を隠して
>後に加藤清正に仕え、江戸時代になってからも長生きていたそうである。
0736人間七七四年2014/11/07(金) 07:16:15.07ID:/RFmeOLM
↑そもそも信長の死体って発見されてないんじゃないか。
だから並河金右衛門は光秀を納得させるために捏造したということなのか。
ちなみに光秀の死体に関しても諸説あるのが面白い。
だから光秀=天海なんて伝説もあるわけで。
0737人間七七四年2014/11/07(金) 07:17:57.63ID:/RFmeOLM
>上月の役の時、織田信長は自ら出陣しようとして、手始めに子の信忠らを派兵し、
>羽柴秀吉を助けようとした。

>この時、吉川元長は父の元春に
>「信長自身が出馬すれば、数も多く統率のとれた軍隊を相手にしなければなりません。
>いま羽柴秀吉や荒木村重らは功を争って協調できていないと聞いています。

>幸い、雨が降り月も暗い。ここは夜討ちを仕掛けましょう」と言った。
>元春も「お前の言う通りだ」と同意し、小早川隆景と相談した。

>ところが隆景は「そのような危うき戦は大事の前の小事である」と反対した。
>元長はそれでも食い下がったが、やはり隆景は耳を貸さないので悔しさに歯をくいしばり
>ながらも、とうとう諦めたという。
0738人間七七四年2014/11/07(金) 07:55:43.87ID:/RFmeOLM
↑の話、元春と隆景の性格の違いが如実に表れていて面白い。
作り話じゃないかと思うぐらいだ。
0739人間七七四年2014/11/07(金) 07:57:26.34ID:/RFmeOLM
>高坂昌信の幼女が一日外で遊んで帰ってきたところ重い病気になってしまった。
>昌信が「いったい何があった」と尋ねると幼女は「山伏を見た」と言った。

>そこで昌信がその山伏を連れてきて祈祷させると、すぐに平癒したので
>その日は謝礼を渡して山伏を帰した。ところがその後も幼女は発病し、山伏が
>治療するということが続き、三度に及んだ。

>その後、実はあの山伏は犬神を使うらしいと聞いた昌信は山伏に料理を振る舞い、
>「これは快気の謝礼だ」と金子を渡した。そして昌信は山伏が喜んで金子に
>気をとられたところを一太刀で首を刎ねた。その日から幼女が発病することはなかった。
0740人間七七四年2014/11/07(金) 08:00:49.53ID:/RFmeOLM
↑はそのまま史実としては受け取れないが、面白い。
昌信としては山伏の自作自演と見たのだろうな。
自分で娘を病気にさせ、その後治してみせて褒美をもらう。
いわばヤクザの手口と同じ。
0741人間七七四年2014/11/07(金) 08:37:45.85ID:/RFmeOLM
>天正13年(1585)の10月はじめ、土佐の長宗我部元親は家老たちの反対をあえて聞かず、
>秀吉への臣従のため上阪した。

>10月20日浦戸を出港し、程なく堺の港につく。そこで津田宗及の屋敷を宿舎とすると、
>ここに羽柴美濃守(秀長)と藤堂与右衛門(高虎)が来訪。秀長は「早々の上洛に、秀吉卿は
>御感に思召しておられます。」と伝え、大阪出仕の支度をするよう促した。
>藤堂高虎はこの堺から案内として元親に同道した。

>大阪に入ると町家で装束を整え登城。桜の門に入ると警固のものが50人、金棒を持って左右に
>並び、元親の共の者たちを
>「これより先、小姓一人、草履取り一人のみしか同道出来ぬ!」
>と押し留めた。これに共をしていた長宗我部家臣団は激昂。
>「こんな事は見たこともない!主の供をするのを一体誰が止めるというのか!?」と
>大声で叫んだ。この騒ぎを聞いた高虎は警固のものに
>「長宗我部の共の衆なら問題はない。入れてやるのだ。」と云えば、警固の者共は金棒を引いて
>彼らを門内に入れた。

>ここで羽柴秀長が迎えに罷り出て、元親と同道し奥の間に通らせた。ここで高虎は立ち戻り、
>「共の衆はここに居よ」と、彼らを侍所に連れて行った。

>元親は小袖20,馬代銀百枚、一文字の太刀一腰を進上し秀吉に御礼を申し上げる。
>秀吉は対面を許し、「長宗我部早々上洛、感じ入るぞ」との御意を伝え饗膳を下し、
>「美濃守(秀長)、施薬院(全宗)相伴せよ」と言って、自分は奥へと下がった。

>さてここで元親の前には、七五三の膳部、金銀の造花、京堺の魚鳥、そういった珍しいものが
>尽きることがないほど出されて来た。元親は四国の主であったが、このような膳部は見たこともなかった。
>正直ビビっていたがそれでも臆せぬ体でこれを賜り、酒を数回やりとりしていると
>秀吉卿が再び現れ「長宗我部の折角の上洛だというのに、肴も出していないではないか!」と、
>さらに元親の度肝を抜かせる事をいう。これを施薬院を通して聞かされた元親は、「この長曾我部、
>結構な膳部を頂きました、有難き幸せ。」と挨拶をし、秀吉は盃を取るとこれを元親に下し、
>元親は頂戴して酒を賜った。

>このあと元親に引き出物が出され、腰の物(二尺五寸備前兼光)、黄金百枚、梨地の鞍鐙をつけた鬼葦毛の馬、
>などが下される。そして秀吉は言う

>「長宗我部は酒も数盃となり、酔も出ただろうが珍しい肴があるのだ、もう一献参られよ。
>珍しい肴とはな、その方が上洛するというのを、家老たちがそれは無用だと止めただろう?だがその方一人の
>覚悟によって上洛をした、と、わしは聞いておる。

>この上はお前が人質に出した津野孫次郎(親忠・元親三男)を返してやる。これを肴に、さあ、
>もう一献参られよ。」

>元親「かたじけなし」と、それを飲み干した。

>元親は明日京に上り羽柴秀次に御礼申し上げる予定であったが、秀吉はそれも免除し、すぐに津野親忠と共に
>帰国することを許した。翌日、元親親子は堺を出港した。
(続く)
0742人間七七四年2014/11/07(金) 08:39:52.06ID:/RFmeOLM
>元親が帰国すると、土佐の侍町人たちはこれを出迎え、口々に千秋万歳を叫び喜んだ。
>翌日、元親は城に家中の者たちを集めると今回の上洛の次第を語り、そして下賜されたもののうち、
>最初に太刀を見せた。

>「なんと!金で装飾されている!?」土佐者たちは早くも仰天した。

>次に黄金百枚を見せた。

>「これが判金という物ですか…。はなしには聞いたことがありますが、初めて見た。」
>としげしげと眺めていた。そして最期に葦毛の馬に鞍を置いて出すと土佐者たちの驚愕は頂点に達した
>「上方という国は一体どんな国なんだ!?こんな馬が存在するなんて!!」

>彼らにとって馬といえば、体高一寸ほどの土佐駒であった。上方から来た五寸の馬を見て、
>舌を震わせて驚いたのも、仕方のない事であろう。
>そして梨地の鞍鐙を見て

>「これ光ってる!どうして!?」

>などと騒いだ。全く田舎者にも程がある事である。

>ところで津野親忠は人質として長く上方に逗留していたので、御供衆まで上方めいた男になって帰ってきた。
>これに土佐の者たちは羨み。月代の剃り方から服装まで、土佐の者たちは一斉に真似をした。

>それまで土佐の者たちは着物を小袖といい、袖は短く綿をたくさん入れ、帯ははいはたと言う木綿帯をして、袴の
>裾も短く、その姿はモグラのようであった。
>月代は大きく剃りあげ、刀は三尺ほど、脇差は二尺ほどもある物を差し、顔には武勇を貼り付けていた。

>しかしながらそんなモグラ侍を上方侍に見比べると、そのあたりで暴れてるガキ大将すらそんな異風な者はいない。
>津野親忠の共の衆に皆習い、着物の脇をすき、袴や袖を長くすれば、男ぶりも良くなり、土佐者たちは
>その姿を鏡で見て大いに喜んだという。

>翌年、元親が再び上洛した時は、みな上方風の服装をしていた。
>この時長宗我部家の諸侍はより合って先年のことを話し、大笑いしたという。
(土佐軍記)
0743人間七七四年2014/11/07(金) 08:46:41.90ID:/RFmeOLM
>>741-742の感想。
この時代、中央と地方の差って今からは想像も出来ないほど大きかったんだな。
源平の頃ならいざ知らず、戦国時代でもまだこの様子だったとは。

それでも四国は特に遅れていた気がする。
距離的には四国よりも中央から遠くても九州はもっとマシだったんじゃないかな。
鉄砲・キリスト教の伝来も最初は九州だし古くから大陸の文化の入り口だったから。
一方、四国はガラパゴス状態だったのだと思う。
0744人間七七四年2014/11/07(金) 17:57:11.53ID:V1rsPEpr
>永禄6年、越後の上杉輝虎34歳の正月11日、輝虎は一族および譜代の家老、物主(物頭)らを招集し、
>彼らを前に突然、このようなことを語った

>『私は道七居士(長尾為景)の八男であり、誠に末流であったのに、世間の転変により不思議な事に
>長尾の家督を継ぎ、惣領職と相なった。

>しかし、これは私の本意ではない。
>何故かといえば、春秋左氏伝を始めとして異国の歴代の事跡を考え、また本朝(日本)の書伝を見るにつけ、
>私のしたことは簒奪の汚名、廃立の慙徳、賢明な人たちからの異論、万世にわたって続く誅筆、こういったものから
>逃れることはできない。

>そもそも、今さら言うのも恥ずかしいことだが、我が父紋竹庵(為景)が一旦の恨み事で主君上杉房能を弑殺し、
>また管領上杉顕定を討ちまいらせ、逆威を振るっていたところ、天鑑は蒙昧ではない。ついに越中において
>命を落とされた。

>私もまた、越後の御屋形様である上杉定実公の命令とはいえ、兄の長尾晴景を討った事、千歳の悪名である。
>然れども、国家のために大義を行い、身の誹りを顧みることはない。ただ、これ故に一生妻子を置かず、
>これを以って世の人々に謝罪したい。
>この上は、弥持戎清浄の出家となるべし!』

>こうして輝虎は不識院心光謙信法印と号した。
>高野山無量尋院清胤法印を戒師となし、真言金胎両部の秘密の印明を受け、潅頂を遂げ、
>大覚寺門主義俊大僧正執奏にて、大阿闍梨号を賜り、弥戒律堅固であった。
0745人間七七四年2014/11/07(金) 18:01:57.52ID:V1rsPEpr
↑を読んで思った。謙信は義の人とか、あるいは理解不能な変人のように思われたりしているが、
彼にも様々な葛藤があり、その結果があの強固なまでの信仰につながったのかと。
また関東遠征へのあの異常な執着もそういう中から生まれたものだったのかと。
0746人間七七四年2014/11/07(金) 18:06:02.68ID:V1rsPEpr
>肥後の甲斐宗運は、娘を遠縁の隈庄城主・甲斐守昌に嫁がせていた。
>天正頃のある正月、宗運のもとに守昌夫妻が訪問、年賀のあいさつをしていた。
>その時、猫が宗運の背後にあった刀かけを倒してしまった。
>いたずらな猫ちゃんである。

>その時鞘から抜け落ちた短刀は、偶然そこにあった茶臼に9cmも突き刺さり、
>「茶臼剣」と呼ばれ名を馳せたという。

>さて、茶臼に刺さった切れ味を目の当たりにした守昌は、ぜひこの茶臼剣を賜
>りたいと夫婦ともども懇願したが、それは宗運が主君である阿蘇大宮司から拝
>領した短刀であった。
>宗運は自分の目の黒いうちは手放すわけにはいかない、しかし自分が死んだら
>形見として必ず守昌に渡そう、と嫡子を証人に約束した。
>守昌は引き下がるしかなかった。

>しかし、奥さんがここで気を利かせてしまった。宗運の娘である立場を悪用し、
>宗運の寝室から茶臼剣を盗み出してしまったのである。
>守昌は宗運の怒りを恐れて敵対、婿と舅の合戦におよび、最後には守昌は城を
>捨てて落ち延びろこととなったのであった。
0747人間七七四年2014/11/07(金) 18:47:33.85ID:V1rsPEpr
↑女と猫が合戦の原因になるとは
恐ろしいな
「女心と猫の目」という言葉があるように
女と猫って何か結びつきがあるのかな
0748人間七七四年2014/11/07(金) 18:50:46.47ID:V1rsPEpr
>ある時、富山城の佐々内蔵助成政は、城内に桜の馬場が完成したというのでそこに出向くことにした。
>そしてこの時、氷見郡阿尾城主であった菊池伊豆入道(武勝)にも出仕するよう申し付けた。

>菊池入道は「私はもう隠居した身です。どうぞお許し下さい」と申し上げたが、たっての事だと言われ、罷り出ることになった。

>さて、出仕してみると成政は御機嫌で酒など飲んでおり、菊池入道を見つけると、”なますの盃”という秘蔵の盃を取り出し酒を注がせ入道を呼び

>「其方、この盃で一献指すがよい」

>と言う。菊池入道は喜び「忝き次第です。生前の大慶、これに過ぎることはありません。成政様が
>常々おっしゃっているように、この盃は常にはお出しすることのない物です。有難いことです。」

>と一盃飲み干し、盃をそこに置いて立ち下がろうとした。と、ここで成政
>「その盃をこちらにも指さないか。」

>返杯をせよ、というのである。しかし盃を交わすというのは同格かそれに近い者の間ですることである。これには菊池入道恐縮し

>「いかに成政様の仰せと言えどもそれは憚るべきことです。どうかお許し下さい。」などと必死にこれを
>断ろうとした。しかし成政は

>「其の方は常の人並みの者ではない。ただ、私に返杯するのだ。」

>これには菊池入道も「重ねて御辞退するのも、憚りのあることです。」
>この待遇に感激した菊池入道は、御前に自分が飲んだ盃を置くと

>「さてさて忝き次第。この度の返杯の仰せ付け、吾が家の威光となるものでございます。
>このためわたくし、御前を憚らず御肴を進上したいと思います。

>そう言うと指していた脇差を抜き

>「この脇差は鬼神大王と言いまして、上杉謙信が当国に討ち入られました時に私に下されたものです。
>上杉謙信は、7ヶ国の管領となりました。殿様もどうか、謙信に御あやかりください。」

>と、成政に進上した。ここまではいい話である
(続く)
0749人間七七四年2014/11/07(金) 18:52:58.03ID:V1rsPEpr
>これを聞くと成政はみるみる機嫌を損じた
>「さてさて年寄りめ途方に暮れ、うつけたことを言い出したものよ!
>あの謙信などという者は、私の足元にも及ばない人物だ!それにあやかれとは、どういうことだ!?」

>そのように激しく叱りつけた。この時菊池入道は脇差を下げることもできず、だからと言って
>進上することも出来ない状況で申し上げたことには

>「御尤も千万でございます!上様(織田信長)がお亡くなりになり、今や御前(成政)が天下を得ること、
>疑いありません。この年寄り、うつけを申し上げてしまいました。

>しかしながらこの脇差を引けとは仰らないでください。お酌をしている小姓の方に、これを差し上げたいと思います。
>小姓殿、殿様は天下の主。あなたは殿様の御太刀かげにて、謙信にあやかり、7ヶ国取り給え。」
>そうして盃も脇差も小姓に渡した。

>「私も頼もしいことです。殿様太刀かげにて一国の主にもしていただけるでしょう。」

>これに成政、たちまち機嫌を直し
>「尤もである!あれらは謙信にあやかるのが良い!」そう笑った。

>さて、菊池入道がその座を立って帰宅するという時、傍輩にこんな事を言い残した
>「今日も面目を失ってしまったよ。是非もないことだ。これは私が老耄してしまったせいであり、
>今後はもう、公の場所には出ないようにするよ。とすればこの富山城も、今日が見納めか…。」

>菊池伊豆入道武勝が佐々成政から前田利家に寝返ったのは、それから間もなくのことであった。
(菊池文書)
0750人間七七四年2014/11/07(金) 19:29:28.39ID:V1rsPEpr
>>748-749の話を読んで改めて思った

佐々成政は「自己の過大評価が酷過ぎる」
0751人間七七四年2014/11/07(金) 19:32:33.63ID:V1rsPEpr
>朝鮮の朱子学者李珥は兵曹判書であった1583年に国王に対してこのような意見を述べた。
 
>「国勢の不振がきわまっております。十年を出でずして土崩の災があるでしょう。
 >願わくばあらかじめ十万人の兵を養い、都城に二万、各道(八道)に一万人を配置して
 >戸税を免除し武芸の鍛錬をすようにすべきです。
 >また六朔(六か月)に分けて交代しながら、都城を守備するようにし
 >変乱を聞けばあわせて十万人で守るように緩急に備えなければなりません。
 >そうでなければ一朝に変乱が起こった場合市井の民を駆り集めて戦うようになり、大事を招くになるでしょう。」

>しかしこれに柳成竜が反対した。曰く
>「事変がないのに養兵するのは養禍である。」
>他の重臣たちも李珥の意見は過慮であると反対した為、この案は行われなかった。
>李珥はその場を去る時柳成竜に対し
>「俗儒はもとより時宜に通達しないものだが貴公もまたその言を言うか。」と言い
>この翌年亡くなった。

>この9年後文禄の役が起こり、朝鮮全土が大混乱に陥る。
>柳成竜は慨嘆して曰く
>「今に至ってみると李文成は真の聖人であった。
>もしその言を用いていればどうして国事がこのようになったろうか。」

―――
>当時の李朝では非常時には農閑期に訓練を施した農民などを兵として動員することになっており
>書類上では二十万近い兵がいることになっていたものの、当てになったのはかなり限られた数だったとか。
>やっときゃよかった幻の十万人養兵論の話。
0752人間七七四年2014/11/07(金) 19:35:35.83ID:V1rsPEpr
ようするに今もそういうことがよく言われるが
当時も韓国は日本の10〜20年後を行ってたのね。
まだ兵農分離も全く出来ていなかったと。>>751
0753人間七七四年2014/11/07(金) 20:11:55.34ID:V1rsPEpr
>関ヶ原の結果、伊予20万石を領した加藤嘉明であったが、伊予の首府である松前城には、
>非常に辟易していた。

>松前城は東南北の三方は山から遠く、城のまわりは底深き沼地。西は九州に続く青海原。
>まさに攻めるに難し、日本第一の城郭と語られていたのであるが、嘉明はこう思った

>「なんだこの城は!?海に近いが風が強い日には砂が天に舞上がり砂まみれになり、
>波は堤防を越え高波に船も転覆してしまう。
>だいたいこの城は波音がうるさい!うるさすぎる!!
>もっと静かないい場所に引っ越そう!」

>とまあ、波の騒音に耐えかね、領内を巡り新城建築の候補地を探し始めた。
>高山という場所は松前城から近いが土地が歪んでいる。
>長山、高山、尾崎と見て回ったが、どうも一長一短だ。
0754人間七七四年2014/11/07(金) 20:13:22.51ID:V1rsPEpr
>…と、ここに温泉宮(現在の道後温泉あたり)の西南のあたり、原田広野の中に山があり、
>これは勝山と呼ばれていた、
>広地にして水清く、八方に開けた場所である。
>南には5,6町隔てて石手川の流れ清く、また南方2,3里隔てたところには加藤家直轄領である
>施梨山、西に15,6町隔てた場所には江戸山。
>三津の浜までは山が続き、北は御幸寺の山遠く、東は道石手山、湯の山嶺数里続き、湯月の古城を
>去ること20町。
>素晴らしい地だと確信した。

>慶長8年(1603)嘉明はここに、五重の天守を始めとした大規模な築城を始めた。
>そして勝山の地名を改め、「松山」と名付けた。
>伊予の新たな首府・松山の威容が今まさに出現しようとしていた…

>が、この松山城完成を前に、加藤嘉明は寛永4年(1627)、会津40万石に転封となってしまったのである。

>とまあそんなこんなで、騒音公害から始まった、伊予松山築上の顛末である。
(伊予郡郷里俚諺集)
0755人間七七四年2014/11/07(金) 20:17:34.22ID:V1rsPEpr
>>753-754の時、
加藤嘉明の気持ちはどうだったんだろう。
石高が倍増するのは嬉しい、しかしせっかくお気に入りの場所に作った松山城の
完成間近に遠地に転封

スケールの小さな家康の関東転封という感じだ
0756人間七七四年2014/11/07(金) 21:43:48.39ID:h8/hcZeP
>天正10年(1582)12月2日、羽柴秀吉は和平を一方的に放棄し柴田勝豊の近江長浜城を攻略。
>ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
>さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状


>『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
>沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!

>また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
>これもまた緊急に届けさせるように!

>恐々謹言

             >筑前守 秀吉(花押)

>十二月十四日
 >小西弥九郎(行長) 殿』


>戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
>その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。
(壱岐文書)
0757人間七七四年2014/11/07(金) 21:46:22.27ID:h8/hcZeP
小西行長というと物資調達のような兵站の達人だと思っていたので
>>756の話を読んで意外だった。
むしろこの時の反省から成長し達人になったのかな?
0758人間七七四年2014/11/07(金) 21:47:48.94ID:h8/hcZeP
>上杉征伐に向かっていた最中のことである。下野国小山で石田三成挙兵の報告をうけた徳川家康は
>決戦に備えて三男の秀忠に中山道を西上する様に命じた。サポート役に大久保忠隣や牧野康成、榊原康政
>お目付け役として本多正信も帯同したこの部隊は進軍の途上、三成方の真田昌幸が籠る上田城を攻撃した。その際、
>窮地に陥った味方を救おうと、忠隣配下の杉浦文勝と康成配下の贄掃部が命令が無いまま兵を動かしたのだが、正信はこれを

>「いかに味方を救う為とはいえ、命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である。両名に厳しい処罰を与えるべきじゃ。」

>と主張した。結果として文勝は切腹し、これに反論した康成は秀忠軍から外された。武功派の忠隣らと、さしたる戦功もなく智謀で出世した
>正信とはもともと馬が合わず、この一件がきっかけで不仲が表面化したという。さらに戦後、正信が家康の後継者として二男の結城秀康を推薦したのに対し、
>忠隣が秀忠を推した事などもあり、両者の溝はより一層深まっていったという。
0759人間七七四年2014/11/07(金) 22:24:23.56ID:h8/hcZeP
↑の話、家康が武功派と正信のどっちを重んじていたのかわからんな。
正信が秀忠を推したのなら正信を重んじていたのだとスッキリするが。
まあ家康は特定の人物(派閥)を重んじるのでなく臨機応変だったということかな。
0760人間七七四年2014/11/07(金) 22:29:16.45ID:h8/hcZeP
>天正13年(1585)7月、羽柴秀吉は越中の佐々成政を征伐すると、近々北国に発向すると表明。
>そして越前領主丹羽長重にその先陣を許した。長重は急ぎ帰国し、軍馬を揃え秀吉の下向を待つ。

>8月、秀吉は北伐と称し越前路に来臨。長重は北ノ庄城を発して近江路まで出てこれを迎え、北ノ庄城への
>渡御を乞う。秀吉はこれを許諾し、総軍は街道に残した上で、扈従ばかりの人数で北ノ庄城に入城し、秀重からの
>饗応を受けた。時に秀吉の、長重への懇意なことは、まるで父子のようであった。

>この時、丹羽家中では一部に、秀吉に対し密かに反逆せんとする企てが進んでいた。
>ところが秀吉はその事を以前から気き知っており、しかしそれをいささかも顔に出さず、この饗応に
>大いに喜んだ風で、丹羽家の重臣一同(無論反秀吉派も含む)を御前に召し出し、特別に銘々に盃を与える。
>そして一同にこう申し下した。

>「よいか、国主長重は年若い。お前たちは故越前守(丹羽長秀)の遺訓に違わず、忠義をなして長重を補佐するべし!
>万一、彼が幼主であるのを侮り、私意を以って悪事を進める賊臣があるようならば、直ちに首を刎ね、長重の領地は
>全て没収する!そうなれば長重は不肖の子であり、お前たちは不義不忠の賊臣である!
>固くこの旨を心せよ!」

>そう厳命すると長重の方を向いて

>「わしからの、そなたの家臣共への命令は今聞いたとおりだ。そなたは若年といっても、これをいささかも忘れてはならない。
>そなたの父長秀は、信長公天下創業第一の功臣であり、その英名は天下を恐服させたものだ。
>そなたもその父の資質を受け継いでいる風にみえる。謹んで臣下の善悪を究明し、国家の大事を怠るでないぞ!
>年頃に至れば朝廷に奏し高官に登用し、これから攻めとる佐々成政の領地を加増し北国一円の主とさせるであろう。
>そのつもりであるから、今回の佐々成政に対する先陣も許したのだ。この旨をよくよく理解せよ!」

>そう厳命した上で北の庄を発した。

>秀吉による、丹羽家中及び丹羽長重に対する牽制と懐柔である。
(丹羽歴代年譜)
0761人間七七四年2014/11/07(金) 22:31:35.47ID:h8/hcZeP
↑この頃の秀吉はホント冴えてるね
晩年だったら皆を処刑してしまっていただろう
0762人間七七四年2014/11/07(金) 23:02:55.46ID:h8/hcZeP
>天正19年正月2日 利休が奥州一揆鎮圧に向かった細川家重臣松井佐渡へあてた手紙
>当時忠興と松井康之は二本松にいた

>一、 浅野弾正と一緒に二本松に同陣していることは、奇特というか名誉なことです。
   >上様(秀吉)の耳にもそのことは入っています。
>一、 奥州の一揆が蜂起したのは、ひとえに政宗が謀反を企てているからだと上様のお耳に入れ申しました。
>一、 政宗は羽忠(蒲生氏郷)を攻略するつもりのようだが、氏郷が油断しているように見えるので、
   >(原文だと羽忠政宗武略之覚悟、羽忠油断無様に被思食候)
   >上様は去年二八日中様(秀次)、家康様両名に折紙をよこし、
   >そちらへ向かわせることにしました。このことは弾様(浅野長政)へも取次があったと思います。
>一、 政宗は去年4日黒川に陣替えして、会津と二本松の間を通行できないようにしてしまった。
   >これはまぎれもなく謀反の意図があるということだ。氏郷が会津に無事帰城するまでは、
   >政宗が何を言おうと、すべて裏表がある、と上様はおっしゃっていました。
>一、 霜台(浅野長政)から政宗へ、ご返事があったことは承っています。上様と全く同じ思し召しです。
   >会津への通路を切り取った以上、政宗が何を言っても、申し開きは無理でしょう。
>一、 上様は三月一日奥州へ出馬することに決まりました。

>この年の1月22日秀長死去、2月28日利休は秀吉に切腹を命じられる
0763人間七七四年2014/11/07(金) 23:05:55.81ID:h8/hcZeP
↑を見ると、利休は完全に秀吉配下の奉行だな。ただの茶人や商人ではないとは思っていたが
ここまでやっていたとは。

この仕事と切腹に関連性はあるのだろうか?
0764人間七七四年2014/11/07(金) 23:39:49.89ID:h8/hcZeP
>近衛信尹の遺書


>近衛信尹は、武家との交流が盛んであった公家である。
>さて、いよいよ病が重くなったある日、信尹は愛する家族にあてて遺言をしたため、形見分け等を指示するが、
>その中に、交流のあった諸大名の名が見える。曰く、

>「左衛門大夫(福島正則)・政宗・島津(義弘)にも、似合いの品を、それぞれ遣わしてください」
>(原文:左衛門大夫・政宗・島津などへも、似合い候物ども遣り候べく候)(※前後略)

>書面上のことではあるが、信尹卿も、政宗は呼び捨てなのであった。
0765人間七七四年2014/11/07(金) 23:43:22.80ID:h8/hcZeP
この時代なら大名のほうが公家より遥かに金持ちだったろうに↑は
公家が大名達に形見分けをしてんだな。

まあこれらの大名に公家としての権威を提供し
その見返りとして金(米)をもらっていたんだろうな。
0766人間七七四年2014/11/08(土) 00:16:49.21ID:PmPgif3E
>尾張守護・斯波義達は、守護代・織田達定の反逆を平定し、尾張における主導権を再び回復しすると、
>永正11年(1512)、今川氏親の遠州侵略に対し再び反抗を起こし、曳馬城(浜松)を奪還し、さらに池田・入野といった
>地域まで横領に成功した大河内貞綱に呼応。斯波家の領国である遠江を回復するため自身が出馬して
>これを助けんとした。

>が、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田伊勢守信安は、この遠征に利がないと強く諌めた。
>しかし義達はこれを聞かず出馬を強行。ここに斯波義達と織田信安の関係は不和となり、上四郡の兵は
>この遠征に参加しなかったため、義達の兵は甚だ少ないものとなった。それでも遠江へと進軍し、
>曳馬城に入った。
>余談だが織田信安は後に、一族である若き日の信長とも激しく対立することになる。

>同年6月。今川氏親は3万の兵で城攻めを行った。
(続く)
0767人間七七四年2014/11/08(土) 00:18:34.90ID:PmPgif3E
>この時曳馬城周辺は大水により、城のまわりは海のような状況で、誰が見ても、とても攻められるような
>状況ではなかった。が、氏親は大竹縄数百で繋げた船橋をかけ軍勢をやすやすと城の周囲に展開させ取り囲んだ。

>しかし曳馬城は非常に堅固な城で、それでも今川の攻撃に耐え続けた。
>そこで氏親は城が高台にあることに目をつけ、阿部金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせた。
>このため城には水がなくなり日々に弱り、8月19日、この日の攻撃で大河内貞綱と、その弟、巨海道綱、
>高橋正定、中山監物ら千人あまりが討ち死に、斯波義達は捕虜となり、曳馬城は落城した。

>付近の普済寺という禅寺に監禁された斯波義達であったが、今川氏親は「同じ足利一門の好である」として
>彼の命を助けた。そのかわり剃髪し出家させ(法名は”安心”であったという)、『今後二度と今川家に対して弓を引かぬ』
>との誓紙を書かせ、これをもって尾張へと送り返した。

>斯波家の権威を決定的に低下させ、尾張において織田氏に主導権をもたらす画期になったと言われる、
>斯波義達の曳馬城合戦の逸話である


(今川家譜)
(名古屋合戦記)
0768人間七七四年2014/11/08(土) 00:21:44.69ID:PmPgif3E
↑のちに武田信玄がやっていたような城の攻め方(金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせる)
を既にやっていたんだな

信玄が発明した方法だとばかり思っていたよ
0769人間七七四年2014/11/08(土) 00:56:06.60ID:PmPgif3E
>中野修理康実は九戸政実の実弟だが、九戸の乱の際は南部信直に味方し、その家を存続させた。
>だがやはり兄弟を討たれたことに思うことはあったのだろう、信直を恨む様子が折々に見え、そんな吉兵衛に信直も警戒していた。

>さて、この中野修理は大男で怪力の持ち主だった。彼は唐竹の中に鉄棒を仕込んだ五寸回りの狩り杖をつねに持ち歩いており
>三戸城の石垣を組む時、三十人でも引けないような大きな石が落ちてくるのを
>その狩り杖で押さえたという逸話があった。

>ある冬の事、信直が三戸にて冬雪の上にて追鳥をして気晴らしをしていた。
>信直はかんじきを履いて雪の上を自由に歩いていたが、大男だった中野は雪を踏つぶし、歩くのも難儀しているようだった。
>その様子に信直は
>「御身はいつも鬼のようだが、こう雪が深くては我には駆けつけられないだろう?」
>この言葉に中野は言い返した。

>「さてさておかしな事をおっしゃる。御前を手取りにするのは、わが心のままですぞ」
>「ほほう、さればわれに追い付いてみよ!」
>駆け出す信直、中野は自慢の狩り杖を持ち直し、それを信直のかんじきに当てた。
>雪の中にこける信直。中野は
>「堪忍せぬぞ!」
>とトドメを――刺さなかった。理由は分からない(書いてない)

>こうしてこの場は何事もなく終わったが、信直はさらに中野を警戒するようになり、いつか討ってやろうと折を窺っていたが
>結局機会が来ることはなかったという。
0770人間七七四年2014/11/08(土) 00:57:19.36ID:PmPgif3E
↑白髪三千丈みたいな話
日本にもあったんだなw
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