>天正10年(1582)、明智光秀は本能寺で主君織田信長を滅ぼすと、三宅式部を京都所司代とし、洛中洛外の
>地下人に金銀を下し、地子銭(固定資産税)の永代免除を発表した。
>これに京都の人々はみな有難く思って喜び合い、禁裏よりは久我宰相・土御門少将を勅使として、地子銭免除が
>叡聞に達し叡感を得られた旨を伝えられた。

>6月10日の未明、明智日向守光秀は参内し、久我宰相を通して金子五百両、白絹百疋、
>綿五百把を献上。そして奏上して曰く

>「私は奸心によって信長親子を害し、不慮に天下の政道を掌握しましたが、これは天の許さないところなのでしょう。
>それ故に今、朋輩であった羽柴筑前守秀吉が中国より馳上り、諸勢を尼崎に集結させていると報告を受けました。
>きっとここ両3日の内に、洛外において山河を動かすほどの戦いをし、私は討ち死にをするのだと思い定めております。

>今日は、今生のお暇乞いとして帝の龍顔を拝し、忝く思い奉ります。」

>これに久我宰相は天意を承って、答えた

>「戦の勝敗は、朝廷の関知できることではない。
>しかし地子銭免除は洛中洛外の永代の厚情であり、その積善は後世の子孫にまで及ぶだろう。」

>これを聞いた光秀は忝なさのあまり落涙して退出した。

>光秀はその他に仙院、女院、三公、九卿、百司、女官等まで尽くに金絹を献呈した。
>これこそ死後までの栄華であると、その頃言われたのだという。
(増補筒井家記)