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北条氏康はなぜ過大評価されるのか【逃亡キング】

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0001人間七七四年2012/09/11(火) 06:24:34.65ID:aIf89vg1
相模の北条氏康は関東制覇に失敗してしまった。

関東南東部では安房の里見義堯に翻弄され、
関東北東部では常陸の佐竹義昭に阻まれ、
関東北西部では越後の上杉謙信に歯が立たず、
関東南西部では甲斐の武田信玄や安房の里見義堯、越後の上杉謙信に攻め込まれ、
関東中央部では下総の簗田晴助に撃退された。

さらに駿河河東郡にて駿河の今川義元に手痛い敗北を喫し、領土を大幅に割譲する憂き目を見ている。

氏康の真骨頂とされる河越の戦い(天文15年)も決して特筆すべき戦ではなかった。
敵将は二十歳前後の若輩であった山内上杉憲政と扇谷上杉朝定および凡将の足利晴氏。
敵軍は指揮官達が戦慣れしてない上、団結力に欠ける烏合の衆であった。
この河越の戦いを桶狭間の戦い・厳島の戦いと並び日本三大奇襲戦とする珍説もあるが、
戦国の風雲児・織田信長が名将・今川義元を破った戦いや戦国最高の知将・毛利元就が猛将・陶晴賢を破った戦いとは
比べ物にならないほど凡庸な戦いであった。

北条氏康の生涯とは大まかに言って、関東の小大名に対しては強気に攻め、東日本の大大名からは逃げるものであった。
0002人間七七四年2012/09/11(火) 06:52:02.82ID:4dFODPHt
負け続けても領地広がるって最高やん
0003人間七七四年2012/09/11(火) 09:47:17.60ID:anCJJH04
小大名に対しては強気に、大大名からは逃げるって
堅実じゃないか
0004人間七七四年2012/09/11(火) 18:33:17.12ID:SUeN+T4B
小大名に対しては強気に出て負け、大大名からは逃亡
0005人間七七四年2012/09/11(火) 21:50:54.76ID:9Bl/jlvI
まあ過大かどうかはさておくとして、
何故評価されるのか、と言うと、領土広げたからです。

でもって、この人の場合は、理屈で説明できますからね。
手持ちのリソースを丁寧に把握し、適切に運用する、ないしそう志向する、と。
分かりやすいから参考になるし、評価もしやすい。
信長さんなんか素敵だけど、愛でるモノで参考にならない。
マネなんかできるわけがないしね。
0006人間七七四年2012/09/11(火) 22:12:20.52ID:9Bl/jlvI
と、言ったものの、さすがに『北条記』の記述は盛り過ぎだろ、とは思う。
盛られた理由は、旧家臣だったから?
0007人間七七四年2012/09/12(水) 01:13:59.39ID:lveKPap+
旧家臣が書いたのは『北条五代記』。
『北条記』は作者・成立年不詳の怪しげな軍記物語。

『北条記』と『北条五代記』では矛盾も多い。
たとえば氏康が夜襲によって八万の大軍を八千で撃破したとされる『河越夜戦』は怪しげな『北条記』の記述。
旧家臣が書いた『北条五代記』では彼我の兵数は明記されておらず、昼間の正面戦闘で撃退したと書かれている。

『北条五代記』と『北条記』はどちらも氏康称揚が著しいが
旧家臣が書いた『北条五代記』と比べると、物語である『北条記』のほうが氏康称揚が分かりやすい内容では有る。
そのためか、氏康は怪しげな『北条記』を元に語られる事が多いようだ。
氏康が過大評価されるのは『北条記』という虚構のせいだろう。
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