戦国ちょっと悪い話33
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0001人間七七四年
2012/08/14(火) 19:13:27.50ID:90iWq5dq戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0827人間七七四年
2012/10/13(土) 23:09:42.63ID:pMAA7Nd0ここでの「笑止」は笑止千万じゃなくて、「困っている」と訳すべきだと思うよ?
つまり
「長慶の病状が思わしくなく困っている。」と解釈すべきかと。
「長慶」って言っているのも、野口冬長が長慶の末弟で、一門だからかと。
つまりこれは、身内で長慶の様子を心配している書状だと考えたほうが良いかと。
0828人間七七四年
2012/10/14(日) 00:56:44.62ID:FGqlsFMT0829人間七七四年
2012/10/14(日) 04:12:44.36ID:QlETwww8有信の父、有徳は島津貴久に仕えるも家中では「逆臣の子」と蔑まれていた。
そして有信自身も「逆臣の係累」とよばれ家中では白眼視されていたのだった。
しかし有信はそんな事を気にせず忠勤に励む。その結果、宗家の信頼を勝ち得て各地の地頭職を任され勤め上げていく。
1577年には島津義久は有信を対大友の最前線、日向新納院高城の地頭に任命している。
「逆臣の係累」と呼ばれた有信だが、義久は信頼したからこそ最前線を任したのであろう。
そして有信自身、義久の信頼にしっかり答えていくことになる。
翌年4月大友の大軍4万が南下し日向に殺到、有信の居城高城も包囲され3千VS4万の壮絶な籠城戦を戦うことになった。
籠城中に嫡男有栄誕生の知らせを聞いた有信は
「これで家が絶えずにすむ。おかげで城を枕に存分に戦い討ち死にすることができる」
と喜んだという。家中では「逆臣の係累」と呼ばれた彼だが忠義を守って討ち死にする覚悟であった。
11月まで籠城戦を戦い抜いた有信のもとに義久の援軍が到着、
耳川の戦いにより島津が九州の覇者となった。また有信自身も高名をあげている。
それから9年後、今度は豊臣秀吉の九州征伐軍を迎え撃つことになる。
このときは豊臣秀長率いる10万の軍勢を相手に籠城戦を戦い抜くのであった。
高城は主君義久が降伏するまで落ちず、義久からの使者に説得されて降伏開城と忠義を貫き通す有信。
この戦いは豊臣勢に激賞され秀吉本人から「天草4万石を与えるから直参にならないか」との誘いを受けている。
義久への忠義を尽くす有信はこの申し出を断っている。
そんな有信を義久は老中に抜擢、島津家中の最高職を任すのだった。
1609年老齢の義久が病に倒れると、有信は自分が身代わりになると自害して果てた。
病が言えた義久は有信の棺を内城に召し寄せ焼香し
「はちす葉のおきこぼしたる露の玉のおわりや君が為にすてけん」
との和歌を送っている。
「逆臣の係累」と呼ばれた男は「無二の忠臣」と呼ばれ死んでいったのである。
0830人間七七四年
2012/10/14(日) 04:13:54.72ID:QlETwww8有栄は朝鮮出兵などで島津義弘の下で戦い戦功を立ててきた武将である。
そんな彼の主君義弘が関ヶ原の戦いのさい「我ら無人」と嘆くほど手勢が足りずに困っていた。
本国で前領主の島津義久が中立を唱え上方での参戦を禁じたからだ。
義弘の窮状を知り上京を決意した有栄は配下32人と共に義弘の下にはせ参じる。
昼夜を問わず駆け続け義弘の下にたどり着いたのは関ヶ原の戦いの2日前である。
義久はいわゆる「島津奔る」の結果駆けつけた有栄の手を取って喜んだという。
関ヶ原ではいわゆる「島津の引き口」において常に主君義弘の傍らにおり、「軍功並ぶものなし」と言われたのだった。
そして有栄は1630年には出水の地頭に任じられている。
山田家因縁の地、出水へ出向く有栄。
曽祖父の有親が出水の島津実久に味方し「逆臣の係累」と言われるきっかけを作ってより実に100年近い年月がたっていたのだった・・・
逆臣の係累から忠臣の係累になった親子の話でした。
0831人間七七四年
2012/10/14(日) 04:29:53.11ID:QlETwww80832人間七七四年
2012/10/14(日) 07:44:49.87ID:OKRohXtu諱の呼び捨てに関して最近面白いものをみた。
丸島和洋氏のつぶやきをtogetterで纏めたものの中で、
諱呼び捨てには敬意を表してるものもあるそうだ。
http://togetter.com/li/272725
0833人間七七四年
2012/10/14(日) 09:42:21.59ID:rJj6x35+0834人間七七四年
2012/10/14(日) 09:50:20.67ID:fI6j+dl6当時の書状の、笑止は「困ったこと」、笑止千万は「非常に困ったこと」だからな
自分も知らなかった頃は意味が通じなくて困ったことがある
0835人間七七四年
2012/10/14(日) 11:06:16.03ID:uIMmpfMc0836人間七七四年
2012/10/14(日) 12:08:13.84ID:84GTKurf0837人間七七四年
2012/10/14(日) 12:33:11.37ID:65cOsElr昔TERUが送った書状に「笑止千万」って出てるのを見て
「この状況で他人バカにするとかクズだなこいつ」って思ったけど
「非常に困った」の意で捉えればちゃんと意味の通る文章になったわ。
0838人間七七四年
2012/10/14(日) 12:43:17.47ID:7B/3+ACs0839人間七七四年
2012/10/14(日) 13:04:55.17ID:fI6j+dl6自分も忠興が小笠原親子戦死を国許に報じる書状に笑止千万って書いてあって
嫁さん憤死しちゃう><ってびっくりして調べて、非常に残念な事だと訳すんだと知った口だけど
0840人間七七四年
2012/10/14(日) 13:11:54.14ID:L8DhVion結構あるね。例えば微妙公の「微妙」は「極めて優れていること」という意味。
「遠慮」は「遠い先まで見通し深く考える」という意味。
「貴様」は「あなたさま」という丁寧な呼び方。
「留守」は真逆で「家を守るため外に出ない」こと。
このあたり現代の感覚で読むと混乱しやすい文字かも
0841人間七七四年
2012/10/14(日) 13:18:56.58ID:7uyBR+Z90842人間七七四年
2012/10/14(日) 13:30:24.35ID:Lc9bBxPg0843人間七七四年
2012/10/14(日) 13:46:28.93ID:D0a7bFrJ0844人間七七四年
2012/10/14(日) 13:49:22.24ID:7uyBR+Z93 非常に趣・おもしろみ・うまみなどがあること。また、そのさま。
奇妙丸もこれならいい意味
0846人間七七四年
2012/10/14(日) 15:48:46.09ID:7uyBR+Z9ところでここに出てくる松永弾正の性ハウツー本だが、
曲直瀬道三が弾正に送った「黄素妙論」に
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/mg5/image/mg5shf/mg5sh0002.html
夫女人の淫念いたらざる間は男子しゐてまじはるべからず女人に淫慾の情念のいたるしるし五つあり。
一には男女ひそかに対面し物語などするに俄に女のおもて赤くなるは心中淫事の念きざすしるし也。其時男子の玉茎を女人の玉門にあてがふべし
ニには女人はなをすすらば慾念肺の臓にうごくと知るべし、即玉茎を少し入るべし
三には女人目をふさぎ口をあき舌をさましいき使ひあらく成は淫情脾の臓にいたるとしるべし。其時ゆるゆると玉茎を出入すべしあまりにふかく入べからず
四には女の玉門の中あたたかにうるほひゆたかにして津液外にながれは腎気のいたると心得て玉門の口へ玉茎をぬき出し左右をよこにつくべし
五には女の足にて男の腰をはさみ女の手にて男の背をいだきしめ口をすはんことをもとめば肝の臓の気いたると心得て玉茎をふかく玉門の奥さしつめてしづかに左右につくべし
殆ど同じことが書かれてるんだが
0847人間七七四年
2012/10/14(日) 16:04:23.22ID:fI6j+dl60848人間七七四年
2012/10/14(日) 16:14:53.19ID:3qTu7GkG0849人間七七四年
2012/10/14(日) 16:16:48.24ID:nJktpLb60851人間七七四年
2012/10/14(日) 17:18:28.48ID:kHMbetqx内容的に道三のを参考にしたっぽいな
0852人間七七四年
2012/10/14(日) 17:39:01.63ID:FGqlsFMT松永、TERU、忠興、崇伝か
癖のある連中に使われて
裏のない神妙な意味だとは思われなくなったとか
0853人間七七四年
2012/10/14(日) 17:40:16.38ID:A+cGN+Y6関ヶ原本戦の直前、杭瀬川の戦いで有馬豊氏の家人・稲次右近は
敵方の横山監物に組伏せられたが、右近の若党が監物を引き倒して
右近にその首を取らせた。ところが、そんな時に何者かが現れて
若党の首を切って逃げ去った。後に糾明したところ、その者は
堀尾忠氏の家人ということが分かった。
まったくの味方殺しだったので右近は訴え出たが、徳川家康は
「何を言うか、軍が入り乱れている時にはそういうこともあるものだ。
そのまま捨て置け」と言ったということだ。
――『徳川実紀(天元実記)』
0854人間七七四年
2012/10/14(日) 18:12:05.65ID:fI6j+dl60855人間七七四年
2012/10/14(日) 18:42:12.26ID:GKguxXju0856人間七七四年
2012/10/14(日) 19:54:47.54ID:+u0sR4k9右近「それは島左近だ!」
0857人間七七四年
2012/10/14(日) 20:43:47.80ID:Lc9bBxPg筑紫広門は常にこれらの城を攻略しようと策を練っていた。例えば…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-856.html
立花城には計略を仕掛け、岩屋城には秋月種実とともに幾度と無く攻めるが、
その度に撃退されてしまっていた。そこで広門は一計を案じた。
↑のリンク先にも名前が出てくるが、筑紫方に武蔵城という城があった。
ここは宝満・岩屋城と、旧・大宰府の条坊があった広い平野(二日市など)を挟んだ
天拝山の麓にあり、その中腹の飯盛城とともに帆足弾正という武将が守っていた。
この山を越えるとすぐ肥前の筑紫居城・勝尾城に繋がり、
いわば筑前における筑紫方の前線基地である。
広門は帆足備後(弾正とも)に命じ、家臣を茶売りに変装させて岩屋城へと侵入させた。
戦時中の城とはいえ、城内には住居もあり、普段は商人なども行き交っていた。
まんまと侵入に成功した筑紫方の茶売りは、城内のいたるところに
「たまご火」を仕掛け、武蔵城へと逃げ帰ってきた。
この「たまご火」というのは、その名の通り見た目は卵なのだが、
卵の殻の中に一種の自動発火装置のようなものが仕込まれており、
それ自体に大した威力はないが、燃えやすいものの近くに置いておけば…
燃え移って延焼していくという仕組みだ。
岩屋城内は突然いたるところで起こった火事に大混乱。
この混乱に乗じて筑紫衆は観世音寺近辺まで詰め寄り、
このままでは岩屋城陥落も間近かと思われたが、
高橋方後詰の宝満山城の兵士たちが救援にかけつけたため、
筑紫方は自軍の損害も考えて、早々と引き返した。
しかし城内の家屋は残らず火災で焼け落ちてしまい、かなりの被害を受けたという。
0858人間七七四年
2012/10/14(日) 20:46:35.86ID:Lc9bBxPgちなみにその後も秋月・筑紫連合軍と大友軍の小競り合いは続く。
1584(天正12)年に立花道雪・高橋紹運が筑後へ出陣した隙を突いて
秋月種長(種実が前年に家督を譲る)が留守中の立花城を攻めるも、
立花統虎(宗茂)がこれを見事に撃退している。
しかしついに城攻めが成功する時がやってくる。
立花道雪が筑後の陣中で病没し大友軍が陣引きしようとしていた頃、
筑紫広門は今度は兵300人全員を山伏修験者の姿に変装させて宝満山に侵入、
不意を襲って山上の僧坊や城に放火して、これを占拠してしまった。
宝満山は元々修験道の霊場で山中いたるところに僧坊があり、
山伏の姿になって入れば怪しまれなかったのだろう。
広門さんは放火とか変装とか鉄砲盗人とか、そういう計略が得意みたいですね。
そしてこの5ヵ月後に、「筑紫の押しかけ姫」の逸話と繋がるのである。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6441.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-828.html
上の逸話では本当にいきなり姫が押しかけたように書かれているが、
筑紫広門は大友家との和睦の交換条件として宝満山城を手に入れておきたかったようだ。
島津軍が北上するという時に、すぐ後方に敵の城があっては
岩屋城を守ることもできないため、高橋紹運としても婚姻は渡りに船の話だった。
宝満山城はその後、筑紫家と高橋家の相城となる。そしてかの有名な岩屋城の戦いへ…。
0859人間七七四年
2012/10/14(日) 22:05:02.78ID:TDtkLp3S0860人間七七四年
2012/10/14(日) 22:27:12.93ID:xnTH6Cmsそんなのが当時あったんだね
さすがノブヤボで知謀の数値高いだけのことはあるな
0861人間七七四年
2012/10/14(日) 23:55:42.01ID:nJktpLb60862人間七七四年
2012/10/15(月) 00:09:12.18ID:60ZXLO6g火薬や硝石は輸入物使ってたから黄燐とかも手に入ったのかな?それなら可能かもしれないけど
夕方くらいに仕掛けておいて翌日、日が上って気温上昇とともに発火とか
0863人間七七四年
2012/10/15(月) 00:21:44.97ID:z9QFnsn30864人間七七四年
2012/10/15(月) 00:24:45.31ID:RhmDVWTD既出の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話などをいろいろ雑談したいと思いスレ立ててみました。
良かったら書き込みしたりして下さい。
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
失礼しました。
0865人間七七四年
2012/10/15(月) 00:47:44.52ID:IfDTvJXs大友家の朝倉一玄も「留守の火縄」って
自動発火の計略をやってた話もあるし
そういう研究してる人は結構いたんじゃないかな
0866人間七七四年
2012/10/15(月) 09:21:10.57ID:2uUmQsPB器物目当てに町民が入り込むのを官軍はあえて制止せず
案の定幕軍が仕掛けていった地雷火が爆発して町民が吹っ飛んだのを確認してから入城したという。
地雷火ってどんなんだろう?砲術の伝書とかに書いてあるのかな。
0867人間七七四年
2012/10/15(月) 15:59:22.12ID:DCFAPyWL確実性にかけるので、電線張っての
遠隔操作の地雷火の方が多かったけど。
0868人間七七四年
2012/10/15(月) 18:16:55.99ID:pi3BwCFp立花道雪は瀬高口の陣を引き払い、嘆いて曰く、
「天晴れ、鍋島は智仁勇の大将だ。わしは多年、肺肝を砕いて
謀ってきたが、彼は謀られなかった。運を天に任せて時を待とうとしても、
鍋島は若く健全であるのに比べ、この道雪は年老いたうえに病身だ。
口惜しき仕合だよ」と首を垂れて悔やんだ。
その苦労は日々積もり、道雪は高良山の陣中で死去した。
鍋島直茂はそれを聞いて落涙して惜しんだということだ。
――『名将言行録』
0869人間七七四年
2012/10/15(月) 18:39:42.16ID:x0Hbw+K8火種が火薬に落ちて爆発みたいな装置かな?
0870人間七七四年
2012/10/15(月) 22:08:01.15ID:2zrkV/YM0871人間七七四年
2012/10/16(火) 09:30:26.73ID:uMDhT37n0872人間七七四年
2012/10/16(火) 10:53:28.71ID:PPMG4kC80873人間七七四年
2012/10/16(火) 13:45:05.15ID:5/7HctCV0874人間七七四年
2012/10/16(火) 14:56:35.08ID:wzzjPIjZ鍋島(…おまえらもっと動けよ…)
0875人間七七四年
2012/10/16(火) 15:10:31.48ID:3X4XDR/b0876人間七七四年
2012/10/16(火) 17:10:12.77ID:klwxAAdn小田原の役の折、前田利家と上杉景勝は関東の諸城を降伏せしめ、
小田原に至り秀吉に謁見した。この時、秀吉はその功を賞さなかったので、
二将はとても不可解に思いながらも、自営に帰っていった。
その後、秀吉は近臣に「利家と景勝が敵の城営を降したことは
確かに功ではあるが、その内の堅城十二ヶ所は屠るべきだった。
これは一威一宥というべし。ただ降伏だけを待つのはよくない」と語った。
そして近臣は密かにこれを二将に告げた。
二将はこれを聞いて、直ちに八王子城を攻め屠った。
加藤嘉明はこれを聞いて「殿下の後裔は続かないだろう。
殺をもって威を立つとは、将校の武をもって喜ぶ者のやることであって
天下の長たる者のなすことではない。天下の長たる者は殺を止めることを
務めとするものだ」と、密かに人に語った。
後には果たしてその言葉の通りになった。
――『名将言行録』
0878人間七七四年
2012/10/16(火) 18:43:49.65ID:l3mevywU氏政・氏照はやむなしとしても、
松田と大道寺、ついでに宗二ぶっころしてだろ、ここらへんは許してやれたはず
特に大道寺政繁は一ヶ月近くの攻防戦の末の降伏で北条への義理はちゃんと立ててるし、
北陸勢に従って転戦して功も上げてる
殺す理由がさっぱりわからん
0879人間七七四年
2012/10/16(火) 19:30:34.77ID:W0cyz0fV奈良の有名な猿沢の池において、10月15日から水換えを行い、11月4日5日と池の魚を一方の
水たまりに寄せ、主池を掃除して22日に再び水を入れそこに魚を離すと、魚が10匹ばかり
たちまちのうちに死んでしまった。
これを一乗院は夢のお告げによって、この事は不吉な兆しだと言っているそうである。
かつて、80年以上前にもこれと同じことがあり、天下は凶相の有様となった。
また、去る永禄10年(1567)にもこの池において同じことが起こった。
すると翌年より天下大乱となり(三好三人衆と松永久秀の争い)、これにより当時天下の主人であった
三好家が滅亡したのである。
(当代記)
大仏焼き討ちで有名な東大寺大仏殿の戦いのころ、こんな怪奇現象があったらしい、というお話
0880人間七七四年
2012/10/16(火) 19:34:45.65ID:aZMW5iMW0881人間七七四年
2012/10/16(火) 19:35:15.81ID:LUpvVy8y0882人間七七四年
2012/10/16(火) 20:48:43.84ID:bRgAzFFNpHショック、硬度ショック、水温ショックのいずれかが起きたと思われ.
お魚を別の水に移動させる時は「水合わせ」を忘れずに!!!
0883人間七七四年
2012/10/16(火) 20:49:55.47ID:UqMlIr4aなんて謡われる不思議池ですし
0884人間七七四年
2012/10/16(火) 20:50:21.33ID:qQUoZR4D0885人間七七四年
2012/10/16(火) 21:43:33.42ID:FEfsZ3ef小屋みたいな城落としてるんじゃねえよと言われたり、堅城は落としとけと言われたり…下請けの悲哀だな…
0887人間七七四年
2012/10/17(水) 00:08:32.27ID:phStM6dH白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
0888人間七七四年
2012/10/17(水) 00:18:52.96ID:dSnOhPMA魚飼ってる奴なら分かると思うが
池の水を全部交換とか論外にも程があるわボケ
自分のミスを不吉な兆しで誤魔化すなw
0889人間七七四年
2012/10/17(水) 00:24:48.08ID:FWcWnClT「五傷之法」は「黄素妙論」の六章目のようだ
「一に、玉門ふくれず、うるほはざる間は、必ず玉茎を入べからず、しゐて入る時は肺をやぶる
ニに、女人の淫情既に動ずといへども、男子それをもしらず、漸女の心中に興つき、
時過て交合する時は、必帯下の病となる
三に、少壮之女に白髪之老男相対して、玉茎かたからず、なましゐに少しおゆるといつて、
しゐて交合し精汁をもらすことかさなれば必目をやみ、終には盲目となる也、
四に、女の月水いまだやまざるに、しゐて交合すれば互に腎をやぶる、
五に、男子沈酔して交合し、女人の美快なる事過おはありたるに、しゐて久しく出入をおこなふ時は、
必面黄之病を生ず。」
内容も前にこのスレに出たやつと同じっぽい
あと、「黄素妙論」全文および現代語訳は、新潮新書の山崎光夫「戦国武将の養生訓」に載っているな
上記以外は体位(9つ)とか精力剤の処方とか
0890876
2012/10/17(水) 00:38:05.19ID:gRKLHb8eいまさらすいません訂正します。
×堅城十二ヶ所
○堅城一、二ヶ所
一つ二つと十二じゃ全然違うよ…申し訳ない。
0891人間七七四年
2012/10/17(水) 04:58:31.02ID:iVnlSqZp北条家、今川家の書状は具体的な年月日が記載され、
城の普請などでも具体的な城名も記載されているので、
いつどこの出来事に関する書状かすぐに分かるという。
一方武田家の書状は年月日の記載がなく、
城に関しても「其城」としか書いておらず、
いつどこの出来事の書状かそのままじゃさっぱり分からない。
そのため他の史料などから前後関係を調べて年代の特定をするところから始めねばならず、
研究は大変なのだという。
0893人間七七四年
2012/10/17(水) 14:31:49.48ID:pPEb8PzQ0894人間七七四年
2012/10/17(水) 18:58:14.96ID:UGTttLN5http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4552.html
0895人間七七四年
2012/10/17(水) 19:13:39.00ID:H9I1HYsN0896人間七七四年
2012/10/17(水) 19:20:01.82ID:jBejSjWm0897人間七七四年
2012/10/17(水) 19:55:05.24ID:o4bTbvXi猶可有山本菅助口上候恐々
謹言
六月廿三日 晴信(花押)
市河藤若殿
↑市河文書の最後のほう
0898人間七七四年
2012/10/18(木) 00:30:38.40ID:TT2CuZ93関ヶ原の戦いの折、朝ほどに深い霧のなかで鉄砲の音が激しく聞こえる中、
東軍本陣の人々はいずれも勇み進んで馬を乗り廻し、未だ陣も定まらない時に、
野々村四郎右衛門某は誤って自分の馬を徳川家康の馬に乗りかけてしまった。
すると家康は怒って刀を引き抜いて切り払ったので、野々村は驚いて走っていった。
なおも怒りの収まらない家康は側にいた門奈宗勝の指物を筒より切るも、宗勝の身
には触れなかった。
これは単に一時の英気を発したまでで、後日に野々村を咎めることはなかったという。
――『徳川実紀』
0899人間七七四年
2012/10/18(木) 00:38:23.82ID:Wz0N4xHy0902人間七七四年
2012/10/18(木) 10:37:21.94ID:/td3rcG3今川北条が文書なんかシコシコ書いてる前に武田は攻め込んでるよw
0903人間七七四年
2012/10/18(木) 11:07:49.64ID:KqO7EW3N0904人間七七四年
2012/10/18(木) 11:29:15.55ID:ovYf0ydAおかげで3家とも滅んだ家なのに書状残りまくりで
論文なんか今だに北条武田今川ばっかだわ
0905人間七七四年
2012/10/18(木) 12:04:36.76ID:2WEkCgbeで、長篠で痛い目にあってこりゃあかんってことで改革を断行、
文書をシコシコ作るようになってるのは皮肉
0906人間七七四年
2012/10/18(木) 12:13:19.26ID:dRypKPld0907人間七七四年
2012/10/18(木) 12:39:42.23ID:DUqeztv1つか、髪の方の話題はあんまりないんかね?
CS見てて和田さんのhage方は欧州人っぽくてあこがれたわ〜
0909人間七七四年
2012/10/19(金) 00:18:31.99ID:kZa+IzlA上杉憲政の老臣・長尾意玄は北条氏康の勢力が日に日に強大になるのを
憂いて、本間近江と井俣左近を氏康に仕えさせてその内情を視察させた。
やがて平井に戻って来た二人によると、
「氏康の人となりを熟視したところ、沈着剛毅にして測られず、剛にして
柔であり、書を読んだり刀槍の訓練をし、礼節は正しく、威厳があります。
また下賤であっても功を賞し、士を用いる時には老少問わずその器量に
適した用い方をしています。その子弟は嫡子でなくとも皆俸禄を与えて
仕事をさせ、功があればすぐに昇進しています。
そうした理由から配下は畏怖しつつも氏康を愛し、人々は奮い立って
死を致す覚悟です。しかも上杉の将士は皆密かによしみを通じています。
通じていない者はわずかに九人しかおりません」とのことであった。
意玄は二人の報告を引き合いにして憲政の非を諫言した。
これを聞いて憲政はようやくその非を改めた。ところが程なくすると、
菅野信方と上原兵庫の言葉を用いて、また大いに政事を怠るようになった。
――『名将言行録』
0910人間七七四年
2012/10/19(金) 17:20:46.97ID:+LAh1N5L大阪夏の陣、後藤又兵衛との合戦の折に政宗公は鉄砲を釣瓶撃ちにせんと鉄砲足軽隊へ御下知なされた
ところが加藤太某という者、鉄砲300丁の隊を預かる身なれど一向に撃たず、公は不振に思ってこれを詰問した
加藤太曰く「道中火縄を点け続ければ燃え尽きて無益だと思い、また玉薬も兵に預ければかさばってかなわないので道すがら捨ててしまうことと思います。」
「故に火縄と玉薬は出発前に荷造りして荷駄隊にそっくり預けてありますので、もう間もなく到着致します。」
公、大いに怒りて手討ちにし、見せしめとす
国史叢書より意訳
騎馬鉄砲隊ならぬ荷馬鉄砲隊を組織して戦場に空筒をぶら下げてた(頭の)悪い話
0911人間七七四年
2012/10/19(金) 18:40:59.54ID:N34nQY1m0912人間七七四年
2012/10/19(金) 18:43:17.83ID:RfxbNVdfかませ犬的存在なのに
0913人間七七四年
2012/10/19(金) 19:17:19.94ID:MrlCTSX8重さ数キロの鉄パイプでも振り回す気だったのか
0914人間七七四年
2012/10/19(金) 19:40:02.81ID:gCP82WQH0915人間七七四年
2012/10/19(金) 19:53:40.05ID:4p7XbHJi0916人間七七四年
2012/10/19(金) 22:48:28.07ID:9+l2T6yk0917人間七七四年
2012/10/20(土) 01:26:27.36ID:/Y7A9m/W0918人間七七四年
2012/10/20(土) 02:19:26.62ID:4gryY6ax一休さん的なパンチの効いた解答を期待したんだが・・・
つか、この加藤さんもシラっと言っちゃうとこが凄いよな
0919人間七七四年
2012/10/20(土) 07:02:31.71ID:OjTnBRaU小早川隆景は朝鮮開城府に在陣していたが、太閤秀吉へのご機嫌伺いのため、曽根兵庫を使いとして
名護屋の本営に参らせた。
曽根は太閤の御前に出て平伏し、隆景の言を伝える
『今十万の人数の渡海を仰せ付けられましたならば、それを朝鮮の占領した城々に入れおき、
現在朝鮮に在陣している十三万にてこの隆景が先手を仕り、朝鮮を押し払い大明に討ち入り、北京をも
攻め取りたいと思っています。この段、願い奉ります。』
秀吉はこれを聞いて大変機嫌を良くし
「隆景の気性、そうでなくてはならぬ!」と、傍らに居た徳川家康、前田利家を見て
「皆の者達、よく聞いてほしい!この秀吉が寿命を迎え、この戦争の最中に病死などしたとしても、
秀次を大将に立てて必ず大明攻めにとりかかるのだ!その時私の亡魂は悪神となって天に登り、
黒雲に乗って、日本軍の鉄の盾となるだろう!
四百余州の奴原(明国)を一々に蹴り殺すこと、思いのままである!」
と、快く語り、ふと
「そういえば、悪霊になって柘榴を食って火を吹いた小男があったが、名前を忘れてしまったぞ。」
これを聞いた施薬院森成
「畏れながら、それは菅丞相(菅原道真)と申し奉る、北野の天神の御事でございます。」
そう申し上げると秀吉
「それそれ!その菅丞相ですら我が念を通じて雷となったのだ。全くその男は、我が睾丸(キンタマ)の垢ほども
無き者である!」
と仰せられた。
この言葉に一座の大小名、皆興を醒ましたとのことである。
(武士道美譚)
0920人間七七四年
2012/10/20(土) 07:31:25.18ID:AGJlYvYm0921人間七七四年
2012/10/20(土) 07:48:26.78ID:jjrnK5P/太閤殿下の軽い冗談かな
0922人間七七四年
2012/10/20(土) 08:02:32.34ID:kGGGam6n頼朝より自分のほうが上だとか言っちゃったりするあたり、
成り上がりだなーとしみじみ感じる
0924人間七七四年
2012/10/20(土) 09:58:14.15ID:MKIMWOZy0925人間七七四年
2012/10/20(土) 10:12:38.96ID:yebQoZPm0926人間七七四年
2012/10/20(土) 10:22:50.07ID:8exgBFE5レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。