んーどこから突っ込んだものやら…
以下、ややスレ違いかつ長文の為、適当に読み飛ばしてください

まず甲陽軍鑑は、近年の研究によれば、国語学的には、その語彙は江戸期ではなく戦国期の語彙が多くを占めており
書誌学的研究からは、編者とされる小幡景憲がかなり原資料に充実に書写を行っていたことが、明らかになっていて
少なくとも(関係者の多くが生存していた)元和年間の認識が反映された、
武田時代の史料や関係者からの聞き取りを踏まえた記述を含む史料である(丸島和洋氏)といった感じに、
かつての通説が言うほどいい加減なものではなく、
一定の配慮・留保はしつつも以前よりはやや肯定的に評価するのが最近の学会の風潮になっている

で、馬場については、
>>他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
馬場は、他の4名臣や秋山、原昌胤と比べると15歳くらい年上だから
馬場が25くらいの時期、ようやく晴信がクーデターを起こして甲斐一国をまとめ挙げた段階
他の武将は、20代の頃、信濃への侵攻を重ねて武田家の所領が急速に拡大している時期にあたり
若くても出世しやすかった
実際、この時期に馬場も120騎持ちに加増されたと甲陽軍鑑にも記してあったはず
異なる時期・状況での麾下兵力を比べるのは誤解を招くのではなかろうか

あと信春が少なくとも牧之島城代だったことは間違いないはず
武田勝頼の代に牧之島城代を信春の息子とされる「馬場民部少輔」が務めているけど
(勝頼が馬場民部少輔の同心衆に軍記粛正を指示する文書が残っている)
父の後を継いだ以外に考えられないし

馬場信春がその知名度に比べてえらく一次資料が少ない謎な人物であることは確かだけど
だからといって、「怪しい話」で一括りにしてしまうのはいかがなものか

ややスレ違いな長文失礼しました