甲陽軍鑑といえば間違いが多く、その記述内容は極めて信憑性が低いと言われる。
とりわけ山本勘助の活躍はその実在すら疑われるほど怪しいものなのは周知の通り。
しかし甲陽軍鑑の怪しさはこれだけにとどまらない。
その活躍が怪しい人物がもう一人いるのだ。

その人物とは、「不死身の鬼美濃」で知られる馬場信春。

武田四名臣の一人とされ、甲陽軍鑑の中でもさかんに信玄に助言するさまが描かれる。
しかし実際の活躍の記録は信長公記での長篠の合戦の記録にとどまる。
三方原の合戦の後、信春が800の手勢で信長軍1万を退けたという話もあるが、これも明白に誤りである。
なぜならこの戦いで美濃岩村城を信春が落としたことになっているからだ。
実際の岩村城は三方原以前に武田方に降っており、三方原後秋山虎繁が入城しており、馬場の記録はない。
さらに馬場発給の竜朱印状はなく、政治的に高い地位にいた記録はない。

実は甲陽軍鑑の中でもよく読めば馬場の地位の低さが見えてくる。
他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
また他の将がいずれも城主、城代経験があるのに対し、馬場はない。
さらには築城術を山本勘助から教わったなどという怪しい話が残るばかりである。