戦国ちょっと悪い話33
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0001人間七七四年
2012/08/14(火) 19:13:27.50ID:90iWq5dq戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0567人間七七四年
2012/09/24(月) 22:00:17.68ID:PFkfcjlj×聊かも無かったのだら
◯聊かも無かったのだが
です。
0571人間七七四年
2012/09/25(火) 23:22:08.95ID:/0D5qFmv1597だったしwww
0572人間七七四年
2012/09/26(水) 00:02:11.99ID:NzqqgQxX1997年じゃ平成になってからの叙任になってしまうな
0573人間七七四年
2012/09/26(水) 00:15:53.23ID:zOxjmtoR筆者はもとから市松を良く思ってなさそうね
0574人間七七四年
2012/09/26(水) 00:57:27.13ID:IU4GiR0Q上杉景勝は越後、信濃の旗下の兵を動員して反乱を起こした新発田へ出陣した。
同年九月、
この隙をついて隣国深志城の小笠原貞慶は、兵三千余を率いて上杉方の竜王城を襲った。
この時、城主清野清左衛門佐は景勝の新発田攻めに従って居た為、
城には隠居した父の清就軒と兵四十余が籠るに過ぎなかったが
清就軒は、信玄公以来の武功の将だったので、
兵を三つに分け城内や山岳に潜ませ五千六千の兵に見えるように配置した為、
小笠原勢を食い止めることに成功した。
そして自らは、海津城の村上(山浦)国清の許へ援軍の要請に向かった。
海津城で国清に面会した清就軒は、
「我等が敵を引き付けている内に海津城から兵を出し、
敵の後方から切り崩せば小笠原勢を討ち取る事が出来るでしょう」
と主張したが国清は、病気を理由に出陣を渋った。
これを聞いて清就軒は、
「自身の出陣が無理ならせめて二十三十の寄合武者だけでも寄越すべきである!
このような不義な振る舞いをするのであれば、
川中島の四郡の内に貴殿の下知に従う者は一人も居なくなるだろう!!」
と怒り戦場へ戻って行った。
これに国清もさすがにこたえたのか二日後に配下の島津勢を加勢に向かわせた。
島津勢が到着する前の九月十一日払暁、
小笠原勢は竜王城の守りが堅く進攻は無理だと判断し、兵を九つの備に分け撤退を始めた。
山上からこれを見た清就軒は、
十騎に雑兵四百五十余を率いさせ山上に残し、自らは三十騎を率いて山を駆け下りた。
不意を突かれた小笠原勢は混乱し、歩者二三〇、士五六騎の被害を出して壊走していった。
十月五日、帰国した景勝は清就軒に感状を与え、救援を拒否した国清は、春日山城に召喚され
「今度の様子頼もしからず。ゆくゆく、川中島を敵に取られるべき事眼前なり」
と叱責され海津城主を罷免された。
『管窮武鑑』
0575人間七七四年
2012/09/26(水) 10:27:59.59ID:Ii86Mq/Sちゃんと成功するもんなんだなー。
それにしても、小笠原勢は一度も攻めなかったのか。
0576人間七七四年
2012/09/26(水) 13:16:27.86ID:5xg+0/viもしかしたら、この板の住人が1票ぐらい入れてくれるかもしれん。
0580人間七七四年
2012/09/26(水) 21:00:19.82ID:SlP38sd50582人間七七四年
2012/09/26(水) 23:11:58.10ID:V+z4qb0d0583人間七七四年
2012/09/26(水) 23:25:22.35ID:aENemeea敵の主力が出陣している隙をついて敵地に乱入する小笠原貞慶。
そのまま攻めかかった場合は、こんな感じ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-630.html
0584人間七七四年
2012/09/27(木) 04:30:59.03ID:Q5dWYvzf彼もまた父のように武田家に忠義を尽くしたかというと…、
ついに織田軍の武田征伐が開始され、東駿河の三枚橋城にいた信達は勝頼の元に馳せ参じる!
「勝頼様のおそばで戦いますぜ!」
…しかし実態は、近隣の戸倉城が同時に動き出した北条軍に落とされたため、
恐れおののいて逃げてきただけであった。そのため三枚橋城はそのまま北条軍のものとなってしまった。
これに対し勝頼は「なに三枚橋放棄してこっち来てるんだ!お前はもう地元の海津城に帰ってろ!」
と叱られ、とぼとぼと信濃の海津に帰還する。
その後、やって参りました鬼武蔵!これに対して信達は!
「あたしゃ強い者には逆らいませんぜ。この通り人質も差し出します。へっへっ。」
と息子を人質に出してさっさと降伏、そのまま鬼武蔵の配下になる。
しかし間もなく本能寺の変が発生。鬼武蔵はただちに帰還することに。
すると信達は…!
「おおっと兄さんここからは帰しまへんで。立場は逆転したようですのう!」
と裏切り、一揆衆を率いて鬼武蔵の帰還を妨害する。
これに対し鬼武蔵側は大塚次右衛門を使者に立て、
「こっちには人質がいるんだ!こんな状況で汚ねえ真似しやがって、道を開けろ!」
と強い態度で責めたて、不可侵の約束を取り付ける。しかし…、
「なーにぶっ殺しちまえばいいってことよ。」
と約束を破り攻撃する。
しかしそこは相手は鬼武蔵。あっさり撃退される。
再度不可侵の約束を取り付けられて撤退されてしまう。
しかし鬼武蔵の怒りは収まらず、その後人質は皆殺しにされてしまった。
次に信達は上杉景勝に臣従することにした。
しかしやがて北条氏が勢力を伸ばしてきた。隣の真田昌幸も北条氏に仕えることにしたという。
「こりゃまた強い方に乗っとかな損でんな、上杉はんサイナラ。」
とまたしても裏切ろうとするが…、
景勝「てめえが裏切るだろうことはすでに見抜いてたんだよッ!!」
とここで信達、ついに誅殺されてしまった。
しかも話はここで終わらない。
やがて鬼武蔵の弟・森忠政が川中島に配置される。
そこで忠政が初めに手を付けたことは…、
「ここに兄貴を裏切って随分ナメた真似してくれた奴らがいるってなあ!ケジメつけてもらおかあ!!」
と残る春日一族を徹底的に探し出して皆殺しにしたという。
忠義?なにそれおいしいの?
0585人間七七四年
2012/09/27(木) 08:55:38.89ID:ylUuRTa00586人間七七四年
2012/09/27(木) 09:35:01.19ID:il61QrAl0587人間七七四年
2012/09/27(木) 10:25:33.36ID:g5jwDPI20588人間七七四年
2012/09/27(木) 12:41:41.93ID:K93fT0nf0589人間七七四年
2012/09/27(木) 12:57:03.26ID:DZcRIs4J真田パパンも春日信達も、「長篠合戦で兄ちゃん死んじゃった組」ですな
武田の武将、長篠後に運命かわっちゃった人がたくさんいるね
0590人間七七四年
2012/09/27(木) 13:09:46.29ID:ZIUk9L710591人間七七四年
2012/09/27(木) 14:05:28.68ID:5KBqIbgC「彦根往古ノ聞書」(慶大図書館収蔵)から
「(井伊)直孝様の時代、家中に上泉権左衛門という人がいた。この人はお見目えの時、髪を結わず長髪で登城したため、藩主の目にとまりお叱りを頂戴した」
剣豪・上泉伊勢守の孫、居合の達人の権左衛門は「拙者は髪にて御奉公は仕らず」と抗弁
結局は、直孝は激怒し、閉門処分に。彦根も退去して尾張に仕える
彦根藩ではその後、長髪登城で2人、ちょんまげを糸でなく藁で結った1人が、閉門処分となっている
戦国期には自由だった髪型も、寛永頃には戦闘の準備行動であるちょんまげが主君への奉仕を象徴し、管理統制へ移行したようだ
…直孝に抗弁して刃傷沙汰にならなかったから、いい話だったかもしれない…
0593人間七七四年
2012/09/27(木) 14:18:19.06ID:g5jwDPI20594人間七七四年
2012/09/27(木) 14:24:26.63ID:4Q5aK0LGttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?no=4215&spの逸話を思い出した
しかし糸でも紙でもなく藁で髪結ぶっておしゃれ上級者すぎるなw
0595人間七七四年
2012/09/27(木) 15:04:30.88ID:OFBUKKBq0596人間七七四年
2012/09/27(木) 16:17:38.68ID:6bzTicsI0597人間七七四年
2012/09/27(木) 17:36:03.46ID:4pQ4ekKl恐らく家を残すことに気持ちが向かい過ぎていたんだな
海津城に戻ってからの行動も、そもそも地政学的にも勢力の大きさ的にも風に靡き
機会主義的な行動も選ばざるを得ず、地侍や農民たちからの突き上げに抗せなかった
面もあるんだろう
愚将凡将と評される人にも全く持って弁護の余地が無い訳ではないさ
0602人間七七四年
2012/09/27(木) 23:35:26.78ID:YE1hKJAw人質37564の話も、こういう事情があったとしたら致し方なく思えるな
てゆーかこいつ、正真正銘のクズすぎて言葉が出ねえ・・・
0603人間七七四年
2012/09/27(木) 23:42:06.24ID:jLsdpooI権左衛門さんってこのことで出奔して尾張に流れ着いて
尾張柳生の所にやってきて剣聖の孫の実力を遺憾なく発揮することになるのか
0604人間七七四年
2012/09/28(金) 00:16:00.10ID:Wj5+BYCP水軍のサポートあってこその拠点だしな
防御力に乏しいし既に兵も足りないので籠城して持久戦も難しく、
撤退するのも止むを得ない選択だろう
>>584はやや悪意あり過ぎないか
0605人間七七四年
2012/09/28(金) 00:18:06.33ID:cG/fzyhGさらにたちが悪いのは、こいつがこういうことするから
虎綱の甥は甲陽軍鑑の執筆を佐渡島に逃れて行わなければならず、
その結果甲陽軍鑑は間違いだらけになり、後世史料的価値なしと断じられることに…。
0606人間七七四年
2012/09/28(金) 17:37:46.53ID:JqkI9rwb0607人間七七四年
2012/09/28(金) 17:52:01.16ID:IO6GurYO0608人間七七四年
2012/09/29(土) 10:10:52.43ID:wO9vk1yW本職なんか、してる暇ないってくらい
0609人間七七四年
2012/09/29(土) 10:17:21.15ID:v/n0K/kkhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/890234
真田幸村が関ヶ原の後、十勇士とともに豊臣の味方を募りながら悪党倒しつつ諸国を漫遊するという
水戸黄門真田幸村バージョン
0610人間七七四年
2012/09/29(土) 14:36:21.07ID:v/n0K/kkある時の事、宗像の大宮司より政資に、印子金(良質の金)で作った獅子の像一匹を増進された。
その姿は後ろを向く形であったため、政資は、対となるもう一匹があるはずだと思い、それも合わせて
自分に渡すようにと、所望の使いを、数度にわたって大宮司へと遣わした。
しかしその獅子像は元来1匹しか無かったため、大宮司はその旨を伝えその要求を断ったのであるが、
政資はこれを信じず、
「私に渡さないため深く秘蔵するとは!なんと憎いことか!」
と大いに怒り、ついに大宮寺を自害させた。大宮司は自害に及んで、このような辞世の句を詠んだ
『根をたてば 末は枯葉の藤原や 何せうにとて打捨にけり』(藤の原と、藤原氏である少弐氏を懸けている)
後に大内義興によって追討された、少弐政資についての逸話である
(陰徳太平記)
0611人間七七四年
2012/09/29(土) 18:49:47.03ID:XbXJhMnF0612人間七七四年
2012/09/29(土) 20:23:06.65ID:cKk1FnPP0613人間七七四年
2012/09/29(土) 20:33:54.95ID:LkCWWSBB0614人間七七四年
2012/09/30(日) 00:49:44.53ID:hTyMeY/dttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3815.html
こっちだと獅子の像が猫の像になってたりするけど同じ話っぽいよね
0615人間七七四年
2012/09/30(日) 08:01:26.61ID:XwnLgV5F0616人間七七四年
2012/09/30(日) 10:57:38.72ID:fCyEyFS1・・・少弐さんというといつ討ち死にするんだろうって聞いてしまう
0617人間七七四年
2012/09/30(日) 14:18:30.19ID:lDqfzO4N政元の養子細川澄元を擁立するとして政元に反旗を翻した。
しかしこの反乱に追随するものはおらず、逆に元一の弟・薬師寺長忠によって攻撃を受けるなどし失敗、
9月18日には元一の籠る淀城は追討軍により落城、自害者数名、討たれたもも数知れずという状況になったが、
それでも薬師寺元一は脱出した。しかし水中村という所の葦の中に潜んでいた所を発見され、
生け捕られて薬師寺氏の菩提寺である一元院に監禁された。
10月2日には赤沢宗益討伐の軍勢も出発した。
この様な中薬師寺元一は切腹の処分と決まった。
元一は住持に引導を請うた時、この様に言った
「ご存知のように私は常に一の文字を好んでいる。
故に名は与一、実名は元一、寺は一元院と号しておる!
しかれば腹も一文字に斬り申す!」
そうして見事真一文字に腹を斬って死んだ。
文字通り最後まで一の文字に拘った、薬師寺元一についての逸話である
(陰徳太平記)
ちなみにこの薬師寺元一の辞世の句は
『地獄には よき我が主(若衆)のあるやとて 今日おもひたつ旅衣かな』
と伝わる。
彼が主君政元と衆道関係にあったとも言われる所以である。
0618人間七七四年
2012/09/30(日) 14:50:10.47ID:UYXoHlotぜひ大河ドラマの主人公になって欲しいキャラだな
0619人間七七四年
2012/09/30(日) 15:55:03.14ID:T6lieRIpとりわけ山本勘助の活躍はその実在すら疑われるほど怪しいものなのは周知の通り。
しかし甲陽軍鑑の怪しさはこれだけにとどまらない。
その活躍が怪しい人物がもう一人いるのだ。
その人物とは、「不死身の鬼美濃」で知られる馬場信春。
武田四名臣の一人とされ、甲陽軍鑑の中でもさかんに信玄に助言するさまが描かれる。
しかし実際の活躍の記録は信長公記での長篠の合戦の記録にとどまる。
三方原の合戦の後、信春が800の手勢で信長軍1万を退けたという話もあるが、これも明白に誤りである。
なぜならこの戦いで美濃岩村城を信春が落としたことになっているからだ。
実際の岩村城は三方原以前に武田方に降っており、三方原後秋山虎繁が入城しており、馬場の記録はない。
さらに馬場発給の竜朱印状はなく、政治的に高い地位にいた記録はない。
実は甲陽軍鑑の中でもよく読めば馬場の地位の低さが見えてくる。
他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
また他の将がいずれも城主、城代経験があるのに対し、馬場はない。
さらには築城術を山本勘助から教わったなどという怪しい話が残るばかりである。
0620人間七七四年
2012/09/30(日) 16:00:35.30ID:5uAaIze50621人間七七四年
2012/09/30(日) 16:05:12.89ID:XjEq5PrD0622人間七七四年
2012/09/30(日) 18:26:43.69ID:q0viYpZX0623人間七七四年
2012/09/30(日) 20:45:05.61ID:/SVpEYRs以下、ややスレ違いかつ長文の為、適当に読み飛ばしてください
まず甲陽軍鑑は、近年の研究によれば、国語学的には、その語彙は江戸期ではなく戦国期の語彙が多くを占めており
書誌学的研究からは、編者とされる小幡景憲がかなり原資料に充実に書写を行っていたことが、明らかになっていて
少なくとも(関係者の多くが生存していた)元和年間の認識が反映された、
武田時代の史料や関係者からの聞き取りを踏まえた記述を含む史料である(丸島和洋氏)といった感じに、
かつての通説が言うほどいい加減なものではなく、
一定の配慮・留保はしつつも以前よりはやや肯定的に評価するのが最近の学会の風潮になっている
で、馬場については、
>>他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
馬場は、他の4名臣や秋山、原昌胤と比べると15歳くらい年上だから
馬場が25くらいの時期、ようやく晴信がクーデターを起こして甲斐一国をまとめ挙げた段階
他の武将は、20代の頃、信濃への侵攻を重ねて武田家の所領が急速に拡大している時期にあたり
若くても出世しやすかった
実際、この時期に馬場も120騎持ちに加増されたと甲陽軍鑑にも記してあったはず
異なる時期・状況での麾下兵力を比べるのは誤解を招くのではなかろうか
あと信春が少なくとも牧之島城代だったことは間違いないはず
武田勝頼の代に牧之島城代を信春の息子とされる「馬場民部少輔」が務めているけど
(勝頼が馬場民部少輔の同心衆に軍記粛正を指示する文書が残っている)
父の後を継いだ以外に考えられないし
馬場信春がその知名度に比べてえらく一次資料が少ない謎な人物であることは確かだけど
だからといって、「怪しい話」で一括りにしてしまうのはいかがなものか
ややスレ違いな長文失礼しました
0624人間七七四年
2012/09/30(日) 21:31:39.98ID:aiKXKzxe甲陽軍鑑は江戸期に逸話の編集してた人が虚妄多しって言ってるくらい滅茶苦茶だからなあ
0625人間七七四年
2012/09/30(日) 21:54:34.45ID:LAvg8iav0626人間七七四年
2012/09/30(日) 21:55:30.82ID:Vo4QF4Tz徳川家康が、小幡勘兵衛に軍配団扇のことを聞いた所、信玄公の故実によって調進して献上します、
と言って、十数日の後、こしらえ立てて献上した。
表に日月を金銀で出し、裏に北斗七星を銀で象眼して、大へん美しいものであるが、
全部が鉄でこしらえてある上に形が大きく、おそろしく重かった。
家康は、ちょっと持って見るや、グワンと投げ出して、
「こんな重いものを持って、どうして兵の指揮が出来るものか」
と、どなりつけたという。
0627人間七七四年
2012/09/30(日) 21:58:57.06ID:6vAGaoJa畠山義春さん、甲陽軍監を聞いて
逸話の編集者とかではないと思うが、こんな逸話があったな(1636年の事の話になってる)
0628人間七七四年
2012/09/30(日) 22:20:08.60ID:LAvg8iav0630人間七七四年
2012/09/30(日) 22:36:26.23ID:/SVpEYRs>>624の「虚妄多し」って言ってるのは多分1770年成立の常山紀談(湯浅常山著)
常山紀談にまんま「甲陽軍鑑虚妄多き事」っていう項目がある
まぁ、そもそも甲陽軍鑑の冒頭に昔のことなので細かい年代は記憶違いが多いと断り書きがあるくらいなんで
甲陽軍鑑は、歴史書ではなくて、戦国時代のバリバリ武闘派爺さんが
記憶頼りに当時の首脳部批判も交えて昔語りした書物として読むべきなのではなかろうか
で、余談なんだけど
そこで甲陽軍鑑はここが間違っている、って歴史的な事実関係の誤謬を散々指摘してるんだけど
締めの言葉は「戦国の勢いをよく知り、かつ侍の情に達っせし者の書いた書だから、
弓箭取る者が心の慰みとして愛すべき書であって、虚妄を以て棄てるべきではない」
って言ってるから、18世紀の人間である湯浅常山から見ても、
甲陽軍鑑は戦国時代の気風をよく伝えている文書だったんだろうね
0631人間七七四年
2012/09/30(日) 22:44:35.54ID:LAvg8iav他の売文屋からw
0632人間七七四年
2012/09/30(日) 23:03:58.68ID:T6lieRIp甲陽軍鑑では深志城代には日向大和守を任じたとあります。
馬場信春は1559年に120騎の将になったとありますが、他の将は、
山県昌景:1552年150騎、1563年300騎
春日虎綱:1552年100騎
秋山虎繁:1556年250騎
原昌胤:1550年120騎
0633人間七七四年
2012/09/30(日) 23:04:44.28ID:ISUWi90Fその家康は鉄軍配ももてないほど衰えてたんだな
0634人間七七四年
2012/09/30(日) 23:07:40.98ID:aiKXKzxe0635人間七七四年
2012/09/30(日) 23:12:03.26ID:KqbV6UIN0637人間七七四年
2012/10/01(月) 01:03:58.13ID:keNEq6Ue0638人間七七四年
2012/10/01(月) 01:28:16.89ID:XwcHZDvV0639人間七七四年
2012/10/01(月) 03:35:15.06ID:hIkxFoXoたしかその後義春の息子は圧力かけられて
「うちの父親の方が間違ってますごめんなさい」って
言わされてるんだよな…
0640人間七七四年
2012/10/01(月) 07:14:07.26ID:PA4vPWOX武田四名臣は五人で龍造寺四天王の逆バージョンだな
二人はプリキュ…武田四名臣!
0641人間七七四年
2012/10/01(月) 08:48:09.23ID:t61Mpwrf生涯かかっても信玄公の境地には立てなかったようだな家康
0642人間七七四年
2012/10/01(月) 08:55:40.46ID:QWWKI9y10644人間七七四年
2012/10/01(月) 09:07:53.24ID:t61Mpwrf0645人間七七四年
2012/10/01(月) 10:02:47.65ID:ETyexKjT0646人間七七四年
2012/10/01(月) 10:06:34.46ID:I6jY8+jS0647人間七七四年
2012/10/01(月) 10:32:16.20ID:35zBFJFB0648人間七七四年
2012/10/01(月) 12:08:07.29ID:UrnBCJG7謙信が本陣まできて軍配で受け止める的な講談めいたことがない限り頑丈である必然性が
0649人間七七四年
2012/10/01(月) 12:21:09.94ID:+FJ8prk40650人間七七四年
2012/10/01(月) 12:21:56.10ID:mh0Ik8pe大阪夏の陣では漏らしてない。
人間は成長するんだよ。
実際は夏の陣でも漏らしていて、天下人なのにウンコ漏らしは
まずいと緘口令が敷かれただけかもしれんがw
0651人間七七四年
2012/10/01(月) 12:22:35.88ID:gQLxbHHJ0652人間七七四年
2012/10/01(月) 12:43:14.31ID:jU/Yr0o8浅野裏切りのデマを流された汚いやり方に動揺した所を捨て身で突撃されただけ
0653人間七七四年
2012/10/01(月) 12:52:47.70ID:ETyexKjT0654人間七七四年
2012/10/01(月) 14:33:11.32ID:ASK7EGlJ0655人間七七四年
2012/10/01(月) 14:52:37.50ID:kscez4Ld0656人間七七四年
2012/10/01(月) 15:05:09.93ID:ljRYPRmaあれは家康に叱り飛ばされる秀忠がかわいいよなw
「あほーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」ってw
0657人間七七四年
2012/10/01(月) 15:09:06.04ID:XwcHZDvV事実関係確認しようにも周りに武田関係者なんていないわけだし。
そんな中、山本勘助や馬場の助言がやたら多いのは、とりあえず誰かの記憶がはっきりしない助言を
全部彼らの助言という扱いにしたのかも。
あるいは家臣の意見をよく聞く名君信玄を演出しようとしたか。
0658人間七七四年
2012/10/01(月) 16:50:39.32ID:mkRU7gY/0659人間七七四年
2012/10/01(月) 17:01:56.57ID:kjSDLvxy0660人間七七四年
2012/10/01(月) 18:53:40.26ID:gR1Zw0A2今川義元は子息氏真に書を贈り諌めて曰く、
「お前はすでに成長したというのに未だに童心を失わず、
鶏を闘わせたり狗を走らせるばかりで、第一になすべき文武を疎かにしている。
今これを改めなければ、必ずや国は覆り、家を滅ぼすことになるぞ」
しかし、氏真は父の言葉を意に介さず、ついには滅亡するに至った。
――『名将言行録』
0661人間七七四年
2012/10/01(月) 19:00:23.42ID:kzckAfJY0662人間七七四年
2012/10/01(月) 19:23:02.65ID:+FJ8prk40663人間七七四年
2012/10/01(月) 19:44:37.94ID:PJ3s3G8W考えられる。しかし出雲国内には三澤、三刀屋、赤穴といった強力な国人たちがあり、彼らは経久の威令に
従おうとはしなかった。しかし容易に攻め従えることのできるような相手ではなく、
これは謀略をもって討つべきだと、寝食を忘れて考えぬいた。
そしてある時、山中勘ノ充と云う者を近づけ、言った
「私は三澤を騙すぞ!汝は智弁人に超えた者であるので、この謀略をきっと成功させてくれると信じる。
私の言うとおりに行動し、三澤を誑かしてみよ!」
そうして詳細を説明すると、山中は「御諚承り候」と、これに同意した。
さて、この頃経久の歩兵に、死罪になるべき重罪の者があった。山中はこれを喧嘩のようにして
斬り殺し、三澤の元へと逐電した。経久はこれに大いに怒り、山中の妻子並びに老母までを捕縛し詰牢に監禁した。
三澤の元に逃げ込んだ山中は二心無くこれに仕え、三澤も彼を不憫に思い召し使った。
そして2年ほどが経った。「いまこそ謀略が成功すべき時だ。」山中は三澤に向かってこんな事を言った
「私は些かの口論によって、経久の澤田と申す徒歩の者を斬りましたが、経久の奴は私の老母、妻子を捕縛し
牢に入れてしまいました。侍の喧嘩口論で相手を討って退転するなどというのは良くあることなのに、
その罪を妻子父母に及ぼすなど未曽有のことであり、無念至極に思っています。
願わくば私に、精鋭の兵200を付けて下さい!
経久の月山富田城は案内を良く知った城です。夜討ちを行い私の鬱憤を晴らしたいのです!
実は尼子の一門の中に3人、私と思いを同じくする方々がいます。ですので経久の頸を討つことはもはや、
袋の中の物を探るに等しい行為だと考えています。」
このようにいかにも頼もしげに語ったため、三澤も大いに喜び、野沢大学兵衛、三澤与右衛門、梅津主殿助、
野尻、竹田、中原、下川といった、三澤氏配下の屈強の兵たち500人を選び山中に付けた。
山中は「謀略、成れり」と経久にありのまま報告する。報告を聞いた経久は「年来の謀略、一時に叶った!」
と喜び、早速伏兵を3ヶ所に置いて、寄せてくる敵を待った。
山中は三澤勢500の先頭に立って、月山富田城へと急いだ。
軍勢が中チカという場所に忍び上がったところで山中「さて、あなた方は暫くここでお待ちください。
私は合流する一族を手引きしてきます。」そう言って一人出ていった。
残された軍勢は、待っている間に一町でも上がっておこうか、などと言っている時突然、
月山富田城の城門が開き一千余の兵が鬨を作って打出てきた!
寄せ手の三澤軍は、今夜の夜討ちの事を敵は察知していないと全く油断していたため、
この不意打ちに「これは何事か!?山中に野心があったのか!?」と大いに驚き、既に逃げ腰に
なっていたが、流石に三澤の郎党の中でも名を知られた者達だけに、みな一箇所に固まり
ひしひしと撤退していった。
が、ここでまた思いもよらぬことに、今度は後ろから敵が突然現れ鬨を合わせて攻めかけてきた!
三澤軍の者たち「これは山中に騙されたのだ!こうなったからにはただ一方を打ち破って
落ち延びるしか無い!」と叫んで撤退しようとしたが、暗闇の中、道もない場所へと入り込んでしまい
更に混乱し、何も出来ないまま討たれるものもあり、谷や穴に落ちて空しく死ぬものもあった。
そんな中でも三澤与右衛門、野澤といった者達は真ん丸となって襲いかかる尼子勢を打ち破りつつ
撤退したが、3ヶ所の伏兵に逢い、野澤大学兵衛、梅津主殿助、野尻、竹田、猪口などの勇士を始めとして
200あまりが討たれ、なんとか生きて逃げ切ったのは、三澤与右衛門、中原、下川ら100ばかりという有様であった。
かくして三澤は多くの家臣を討たれ、その勢力も凋落した所に、経久から「近日中に三澤を討伐する!」
との声が聞こえてくる。これにはもはや耐えられず、三澤は居城である亀瀧城を出て尼子経久に降伏した。
経久は三澤の勢力を併合すると一気に国中に討って出て、三刀屋、赤穴といった有力国人を尽く幕下に従えた。
尼子経久、謀略をもって三澤を討つ、という逸話である。
(陰徳太平記)
0664人間七七四年
2012/10/01(月) 19:52:49.78ID:SHcdWNxnhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2902.html
0665人間七七四年
2012/10/01(月) 20:31:17.01ID:0oYt8lS/0666人間七七四年
2012/10/01(月) 22:01:46.46ID:V8qDhI04>浅野裏切りのデマを流された汚いやり方
日本全国vs牢人&裸城の戦いなのにそんなの信じる馬鹿いるのかよ
普通なら「ねーよw」で済む話。
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