戦国ちょっと悪い話33
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0001人間七七四年
2012/08/14(火) 19:13:27.50ID:90iWq5dq戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0403人間七七四年
2012/09/10(月) 11:49:08.69ID:gDOTx3uD0404人間七七四年
2012/09/10(月) 19:12:43.72ID:XcyOepf00405人間七七四年
2012/09/10(月) 19:56:25.92ID:jo8XTKVg0406人間七七四年
2012/09/10(月) 21:32:34.36ID:zpokYFvnまぁ長島と違って結束ガタガタで信長来る前から内紛してて信長来る頃には抵抗するような一揆衆も減ってたみたいだが。
0408人間七七四年
2012/09/10(月) 21:50:30.01ID:Oww+RKUu派遣されたやつが張り切りすぎたのか本願寺が情勢を見誤ったのかはわからないけれど
0409人間七七四年
2012/09/10(月) 22:42:57.33ID:TYYgxFYwお市が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送った逸話ってまだ出てない?
0410人間七七四年
2012/09/10(月) 23:52:53.76ID:11fgjDZwここ数週間で3回見たぐらい有名な逸話をなんで今さら出す必要があろうかw
そのうち2つはアニメ、あと一つは水曜どうでしょうだw
0411人間七七四年
2012/09/11(火) 21:12:46.19ID:z6dKr0bmしかし門徒の勢力が拡大するに連れ、念仏の寄り合いでも平気で酒を飲み魚鳥を食すなど
他宗の物忌を一切無視する門徒たちと、既存宗派との摩擦は大きくなり、これは既存の宗教勢力と
つながりの深い諸語など支配勢力との摩擦も生んだ。
双方の相克が強まる中、北陸の本願寺派の中心、越前吉崎御坊の多屋衆は、文明5年(1473)ついに
守護などへの明確な対決姿勢を決議した。
以下、その有名な決議文である。
『右、我々がここ両三年のあいだ、この当山(吉崎)において今まで忍耐してきたのは、
名誉や利益を目的としたものではなく、栄耀栄華を事ともせず、ただ願うことは極楽往生の為ばかりであった。
その様な中、当国(越前)、加賀、越中の内の土民、百姓以下等において、その人々の一生は、徒に罪業を作って
一善を修養する機会もなく、空しく三途(亡者の行く地獄道、畜生道、餓鬼道)に堕ちており、これは非常に
不幸なことであった。
幸いにも弥陀如来の本願は、誠にもって現在、今の状況に相応しい要法である上
その布教は、偏に念仏往生の安心を勧める以外の目的はないのに、最近の牢人衆による遠征の事について、
様々な(一向宗yがこれに関わっているという)雑説を申され、言語道断、迷惑の次第であり、不運の至、
悲しみもなお余りあるほどである。
このような状況により、心静かに念仏修行をしようとするその在所においてすら、もし要害を構築しなければ
一切の諸魔、鬼神(敵対勢力)に(吉崎御坊を滅ぼす)機会を与えてしまうので、我々は深く要害を
構築したのである。且つこれは盗賊への用心のためでもある。
その他の理由は全くないのだ!
だが、万一、そういう事であっても、現在の状況で我々に無理な要求をしてくるというのなら、
我々同篇(同士)の間では、念仏を唱えて順次往生を遂げて死去することも、また道理に外れた苦難に逢って死去するのも、
共に以前世の業の結果であると理解している。
そうである以上、仏法のために命を惜しんではならない!
合戦すべきだということを、先日諸人一同で評定し、衆議により議決したのだ!
文明五年十月(欠)日 多屋衆』
しかし蓮如はこの多屋衆の決議を批判し、翌文明六年五月十三日の御文でこのように諭した
『そもそも国においては守護方、所にあれば地頭方に対して、いかに我々が仏法を崇め信心を得た者であると言っても、
(彼ら支配層を)粗略にするようなことは、ゆめゆめあってはならないのだ。
むしろ、いよいよ租税や賦役にも熱心に従うべきなのだ。
その様に心得ている人をさして、信心発得して後生を願う念仏行者の手本というべきである。
これらはすなわち、仏法、王法を旨として守れる人と名付けるものである。』
このような中、更に翌年、文明7年(1475)8月21日、吉崎御坊は戦乱に巻き込まれて消失する。
永正3年(1506)には加賀一向一揆の軍勢を破った朝倉氏により、吉崎御坊は完全に破却され、廃坊となった。
戦乱に積極的に参加した、これがその結果であった。
北陸一向一揆をその中心として主導した吉崎御坊の「多屋衆決議文」と、その後についての事である。
0412人間七七四年
2012/09/11(火) 22:50:00.15ID:P3KyvVlI0413人間七七四年
2012/09/12(水) 11:02:15.10ID:cwtpUCSt朝倉の方も出し惜しみはしないだろ。
0414人間七七四年
2012/09/12(水) 18:52:12.28ID:f6RK1jDg0415人間七七四年
2012/09/13(木) 19:07:45.95ID:YiRa+l82因幡智頭郡、美作苫北郡を切り従え武威を両国の間に震い、毛利家に対して無二の忠功を胃打ち立てていたのだが、
一体どうしたことであろうか、兄の景継はその志を変じ、織田信長に通じようとした。
草刈景継からのこの申し出に織田信長は、景継が味方となれば因幡美作両国の攻略が速やかになると
判断し、過分とも言える報償を約束した朱印状を発した。
ところが、である。天は不義を憎まれるとはこの事であろうか、この景継の遣いが帰国の途中、
小早川隆景の設置した関所のものが不審に思い、これを搦め捕り草刈景継の織田信長への内奥を知ると、
これをすぐさま隆景の本拠である安芸国は沼田に連行した!
さて、これを知った隆景は大いに驚き、草刈家の家老、黒岩土佐守を召し出しその一部始終を説明し、
「急ぎ景継を討つのだ!」と下知をした。
黒岩土佐守も否やに及ばず、急ぎはせ帰り次男の重継と協議した。
そしてある時競馬(責め馬)を見物しようと、景継を呼び出した。
景継がこれに応じて見物をしている所を、有無をいわさず討ち取り、その頸を沼田の隆景に捧げた。
草刈重継は武勇優れただけではなく、節義においても固い、節操があり、篤実なる者であったので、
この兄の不義を骨髄に染みるほど口惜しく思い、この後毛利家に対していよいよ忠義をなし、
数度に及ぶ武功を献じた、とのことである。
(陰徳太平記)
草刈景継の、織田への内応事件の顛末である。
0416人間七七四年
2012/09/13(木) 21:51:38.55ID:PXchUSlK0417人間七七四年
2012/09/13(木) 22:03:58.09ID:1TAtvP790418人間七七四年
2012/09/13(木) 22:15:16.05ID:YnpD7mjF信長「長可よ、門番はいかがした」
鬼武蔵「身の程知らずにも止めようとしたので、ぶちのめしました」
信長「本当にうぬは武蔵坊弁慶の再来よな」
森蘭丸「あ、兄上、その血は!お怪我は大丈夫ですか?」
鬼武蔵「ん、これは怪我ではないよ」
森蘭丸「兄上、なにをなさっているのです」
鬼武蔵「遺書を書いているのだ、わしがいうのもなんだが因果な商売だ、
お前はけっして俺の跡を継ぐなよ」
最後、忠政はいずこに
0419人間七七四年
2012/09/13(木) 23:44:03.25ID:DsxZFvcu…えっ
0420人間七七四年
2012/09/14(金) 01:01:54.30ID:gur4czvT高遠城の描写はいいのかというツッコミはやめてください
0422人間七七四年
2012/09/14(金) 01:27:22.51ID:bWnMOtFb0424人間七七四年
2012/09/14(金) 18:41:20.85ID:3AG+fYXOある時、徳川家康は露地(茶庭)の手水鉢をしゃがんで使った。
露地の手水鉢には『つくばい』というようにしゃがんで使うもの
があったのだが、知ってか知らずか本多正純が、
「今時の数奇人(風雅な人)は手水を立ちながら使いますよ」
と言ったものだから、家康は気を悪くして、
「わしの露地では例え将軍であっても、立ちながら手水を
使いはしない。当然、その他の者もな」
と言ったのだとか。
――『徳川実紀(紀伊国物語)』
0425人間七七四年
2012/09/14(金) 19:35:42.77ID:aAWan72P0426人間七七四年
2012/09/14(金) 20:18:15.79ID:fDVJvPNN0427人間七七四年
2012/09/14(金) 22:43:45.88ID:q07tqjbL出てきたのは鮭を調理した御馳走であった。
この鮭料理を前に、元春
『…鮭はその性甚だ熱く、血を破壊すると言う。
今これを食せば、持病である瘡忽が再発してしまうかも知れぬ。』
元春、冷や汗である。しかし
『だが黒田はこの魚を主味(メインディッシュ)として饗してくれている。病気に害があるといってこれを断り
食わないというのも、無骨なやつだと思われるだけでなく、我が主人輝元のためにも良くないことだと思う。
どうしよう?』
元春は思い悩んだ。そして
『今これを毒であるといって食わないというのは、黒田官兵衛に対して遠慮がないと思われるか、もしくは
私が迷惑に思ったのだと、黒田は思ってしまうだろう。まあ実際迷惑なんだが。
ええい、こうなったら!』
少しだけ食べた。
そして酒も数献廻ったあと、官兵衛が言うには「九州が静謐となるのも遠いことではありません。そうなると
筑前一国は元春殿、あなたにあてがわれると、これは殿下のご内意です。」
これに元春も「かたじけなし」と謝辞を述べ、やがて饗宴も終わり退出し、その夜、
元春の瘡忽が大いに痛みを発し、日を追うごとに病は重くなった。これを知った毛利輝元は医師の徳琳を遣わした。
小倉城詰の丸で徳琳と対面した元春は、近習に助け起こされると彼を近づけ、輝元への伝言を頼んだ。
「私もこのごろは少し回復したようで、近日中には輝元様と直接対談もできるだろうが、先にあらかじめ、御辺に
言っておこうと思う。私の言うことをよくよく聞いて、輝元様に申し伝えるように。
今度九州退治のため、殿下がご出馬を仰せになられ、これによって我等三家(毛利・吉川・小早川)は、
先鋒として当国に出張しました。であれば、今回は輝元様は、今まで戦場に赴いたことと同じように考えられて
いては、甚だ宜しくありません。
何故かといえば、我々が各地で秀吉公と対陣していた当時は、輝元様を本陣として、隆景や私が先陣として進み、
士卒を下知し手を砕き攻戦の功を励まし、輝元様はただ帷幕の中に在って作戦を運用していればよいだけでした。
ところが今回はそれに引き換え、殿下が総大将であるので、輝元様は先陣の戦将となって、今まで隆景や私が
輝元様の先陣として戦を決したように、輝元様自身がそう心得、しなければなりません。
これは言わずにはおられない事でした。
それから次に、肥前の竜造寺政家(龍造寺隆信嫡男)の事です。彼は未だに殿下に属していません。
しかし現在の六十余州では、皆が殿下のために働いているというのに、政家一人がどうして独立を保てるものでしょうか。
彼もきっと、殿下に和を請い安堵したいと考えているはずなのですが、そのための良い縁故を持っていないために、
空しく歳月を過ごしているのです。
そこで、幸いに当家は、龍造寺と隆信以来の良好な関係がありますので、輝元様から使者を出し、和平の儀を進め
殿下にも推挙すると言い送れば、政家はきっと喜びに耐えず了承することでしょう。
龍造寺を味方に引き入れれば、この九州征伐における一方の功の助けとなるでしょう。」
このようなことを聞き終わると、徳琳は退出した。
しかしこの後も元春の病状は日々悪化し、同年11月15日、ついに逝去した。享年57歳であった。
(陰徳太平記)
吉川元春、その最後についてである。
0428人間七七四年
2012/09/14(金) 23:00:21.32ID:uoM+Liuk0429人間七七四年
2012/09/14(金) 23:20:09.15ID:fDVJvPNN0430人間七七四年
2012/09/14(金) 23:29:00.38ID:XAXcfTyp気配り上手なだけに気苦労も絶えないって感じか
0432人間七七四年
2012/09/15(土) 00:29:30.40ID:kF2lCOXYとくにトロ握り
0433人間七七四年
2012/09/15(土) 01:40:24.46ID:rb2a6yGM0434人間七七四年
2012/09/15(土) 08:46:24.68ID:SnsE7OfF元春の逸話を聞くと
鮭の食べ過ぎに注意しろという
長重や至鎮たちの思いやりだったのかもしれないな
とか思ったり思わなかったり
0435人間七七四年
2012/09/15(土) 09:49:34.45ID:2hUw/52R結局予感的中なわけだが。
0436人間七七四年
2012/09/15(土) 11:17:45.78ID:V6NusZYo0437人間七七四年
2012/09/15(土) 11:47:47.58ID:cHnSDcNEただ当時信じられてたなら、それを馬鹿だ無知だと現代人の目から非難するのは卑怯
0438人間七七四年
2012/09/15(土) 11:49:41.90ID:b+lUaeV40439人間七七四年
2012/09/15(土) 11:59:57.90ID:cHnSDcNEサケは温めるものに分類されるらしい。
体を冷やす物の代表は夏野菜、温めるものに唐辛子なんかは理解できるけど、
サケが体を温めるものっていうのは分類ありきの無理矢理こじつけ感があるね。
文献によっては逆に体を冷やすものに分類されてるみたいだし。
元春はなまじっか知識人だからこんな情報も知っていて、病気に良くないと思ったんだろう。
0440人間七七四年
2012/09/15(土) 12:09:10.28ID:F3xx7yXu0441人間七七四年
2012/09/15(土) 12:18:08.11ID:YPN+IE/i0442人間七七四年
2012/09/15(土) 12:20:08.13ID:r8vek6IB0443人間七七四年
2012/09/15(土) 14:40:21.87ID:6JeLg8Af0444人間七七四年
2012/09/15(土) 18:32:22.04ID:JKvx2fFL0445人間七七四年
2012/09/15(土) 20:05:45.48ID:B5pwwuHKこの一揆平定に従軍した吉川広家が、黒田官兵衛に以前のことを尋ねた
「先日私が萱切山において一戦せんと申し上げた時、あなたはそれをしきりに止めるよう言われました。
老巧の人の意見であり、また我が父元春も、万事あなたの指図に任せよと言っておられました。
その為どんな事でもあなたの言うことには背かないよう決心していたので、あの時は戦うことを
断念したわけですが…
改めてお尋ねしたいのですが、官兵衛殿はあの時、一体どういうお考えで私が合戦を行うことを
止められたのでしょうか?」
これを聞いた官兵衛、ニッコリと笑って
「ああ、あの日、広家殿が合戦を行えば間違いなく勝利されたでしょう。だから止めた。」
「!?、必ず勝利すると思われたのに、ではどうして止めさせたのですか!?」
「それはね?あの日広家殿が戦をして大利を得られては、ほら、その前にうちの息子の長政が、敵を侮って
負けちゃったでしょう?それとこれの優劣が比較されて、長政にケチが付いてしまうなと、そう思ったのです。
ですからあなたが戦をしようとするのを、堅く阻止したわけなのです。
私はあなたと兄弟の約を成した間柄ではありますが、そんな盟約も、実の子への愛には
勝てないものなのですねぇ。」
(御辺吾等兄弟の約を成し申したりとは雖、実の子の愛には不勝候そやと宣けるにそ。)
広家これを聞いてさすがに呆れ
「と言うことは、私は黒田官兵衛に方便をされていたのか!
いやはや、あなたの真意をもっと早く察していれば、制止されても聞く耳持たず一戦した物を!」
そう言って大笑いした。
黒田官兵衛と吉川広家は多年の親友であったので、官兵衛も自分の思っていることを正直に語り、
広家も方便をされても、さらに恨むことはなかった、とのことである。
(陰徳太平記)
そんな親バカ官兵衛さんのお話である。
0446人間七七四年
2012/09/15(土) 20:53:49.73ID:6JeLg8Af0447人間七七四年
2012/09/15(土) 22:10:10.31ID:Nm1+L9EV0449人間七七四年
2012/09/16(日) 09:04:36.51ID:nzGeo2Wk最近の研究ではマジで漢方どおりの体温変化がある食べ物も見つかってるし
経験則として馬鹿にできないものがあるんだろうな
0451人間七七四年
2012/09/16(日) 11:01:56.20ID:E8p4a0fx0452人間七七四年
2012/09/16(日) 12:35:39.30ID:xoIfxujC0453人間七七四年
2012/09/16(日) 12:53:13.78ID:uDd3vLfC0454人間七七四年
2012/09/16(日) 12:54:18.22ID:T8KhrIps0455人間七七四年
2012/09/16(日) 13:17:54.82ID:gM79Kzef若い頃は蹴鞠の話ばかり
0456人間七七四年
2012/09/16(日) 14:45:52.15ID:4accDfiH0457人間七七四年
2012/09/16(日) 19:26:47.31ID:yhYYyDQVお前ら恐れ知らずだな・・・、お前ら2/36決定だわ
0458人間七七四年
2012/09/16(日) 19:28:46.31ID:81YxZFft時は大坂冬の陣から年が開けた翌慶長20年(1615年)春の事。
大坂方の和睦の使者として駿府へと遣わされていた『大坂城七手組』の一人に数えられる青木一重は
駿府から大坂への帰途に京で板倉勝重の接待を受けていた。
しかし、これは罠であった。板倉は突如として兵を呼んで一重の身柄を拘束したのである。
囚われの身となった一重に板倉はこう告げた。「大坂へと戻れば弟である青木可直を処断する」と・・・
一重の弟である可直は大坂方ではなく、徳川家の旗本として3000石を与えられていた身分であったが、
これを処断されるとあらば家名存続が危うい。結局の所、一重は夏の陣が終わるまで板倉に軟禁されたまま過ごした。
その後、開放された一重は剃髪して高野山に隠棲していたのだが、家康から二条城へと呼び出しを受け、
何故か豊臣時代(1万石)から微増の摂津豊嶋1万2000石を与えられ初代麻田藩主として諸侯に名を連ねた。
かつて一重は徳川家に所属しており、姉川の戦いで真柄直隆を討つという功を挙げて家康から武勇を賞賛されたが、
三方ヶ原の戦いのしばらく後に徳川家を去っており、何の因果かそれから実に42年の時を経てまた再び家康から禄を賜る身分となった。
少なくともいい話ではないのでこっちに
0459人間七七四年
2012/09/16(日) 19:46:40.38ID:G+9Cjne/0460人間七七四年
2012/09/16(日) 20:50:41.37ID:0tEYl2V4家康としては一重を無駄に殺したくなかったのかな
0461人間七七四年
2012/09/16(日) 20:50:42.28ID:lre/8rHzスパイでもしてたの?
0462人間七七四年
2012/09/16(日) 21:43:40.86ID:gM79Kzef長老格の青木一重がこんなことになると七手組としてはもう何も意見言えなくなって結果的に主戦派の暴走を許すっていうのが狙いかなと妄想してる
0463人間七七四年
2012/09/17(月) 00:39:39.10ID:W8rDjt/n0464人間七七四年
2012/09/17(月) 00:48:37.46ID:gCUeR2Yw家康が呼びつけたってことは戦後すぐの話だし
一重を許すのは、少なくとも家康にとっては既定路線だよな
単純に死なせたくなかっただけなんじゃないのかと
0465人間七七四年
2012/09/17(月) 02:42:06.46ID:9t6TBFJk0466人間七七四年
2012/09/17(月) 08:23:44.35ID:ggqP0q70いよいよ手切れ布告の段階って事になるのか?
0467人間七七四年
2012/09/17(月) 10:17:48.94ID:hk/vXnJV0468人間七七四年
2012/09/17(月) 10:36:45.54ID:IUG41wpy0469人間七七四年
2012/09/17(月) 11:01:28.00ID:+5ZV8qHw慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の後のこと。高野山に逃れた一人の武将が豊臣秀頼の死を知って自害しようとしていた。
男の名前は伊東長実といってかつて織田家で「編笠清蔵」の異名をとった伊東長久の長男であり、
信長の死後は秀吉に仕えて黄母衣衆に抜擢され活躍。やがて『大坂城七手組』の一人に選ばれたという経歴の持ち主である。
いよいよ自害しようかという所で徳川家の使者が高野山へと現れ、長実の自害を止めさせると「かつて関ヶ原の戦いで
石田三成の挙兵を報じた功績で豊臣時代からの備中川辺1万石を安堵する」との事を伝えられた。
初め長実は「二君に仕えず」と断ったものの家臣からの説得もあって出仕を決意し、大名として諸侯に列したのであった。
こうして夏の陣まで大坂方として参加しながら所領を安堵された伊東家は備中岡田藩主として明治維新まで命脈を保った。
・・・しかしながら、この長実にはスパイ疑惑があった。
「老士談録」に寄れば長実は大坂の陣の少し前の頃より朝比奈義次なる武将を雇い、寵愛を注いで評定などにも同席させていたのだが、
この朝比奈という男は実は京都所司代板倉勝重の家臣であり、評定や大坂城内の様子を逐一板倉に報告していたというのである。
また、結婚時期などの詳細は不明であるが長実の息子である長昌は板倉勝重の養女を娶っていた。
どこまで本当かはわからないけど色々噂を立てられていた人のお話
0470人間七七四年
2012/09/17(月) 11:16:24.08ID:motsuw+B0471人間七七四年
2012/09/17(月) 11:34:32.07ID:ggqP0q70仕方のないことなんだろうな
0472人間七七四年
2012/09/17(月) 11:56:57.61ID:avmaeOf30473人間七七四年
2012/09/17(月) 15:30:29.56ID:Y7sWbmiA0474人間七七四年
2012/09/17(月) 17:50:22.94ID:+cQVIHtH全然知らんかった
0475人間七七四年
2012/09/17(月) 19:57:44.06ID:bjO5ydSC彼は本能寺の時、織田信長に槍を付けたとされたが、これにより豊臣秀吉から、
主君の敵であると大いに憎まれ、さしもの武名燦然たる勇者も逼塞の生活を余儀なくされていた。
そんな中関白豊臣秀次が、未だ三好治兵衛と称していた頃であったが、秀吉に許可をもらって
召抱えることとなった。
ある時の事、秀次が殿舎の建設をするとして、天野にも家人を召しだしてこの普請に当たらせよと
命じた。普請役というものである。天野は「承り候」と答えたものの、内心にこう思った
『私は国に大事のあった時、一方の先陣を駆けて敵を挫く事こそを仕事として、この人に仕えたのである。
普請などということをさせられるとは聞いていない!そのような作業は足軽などがするものではないか。」
そして屋敷に帰ると、すぐさま自分の士卒2,300人に弓鉄砲を持たせ、自分は槍を掴み、
その姿で普請場へと押しかけた!
この完全武装の集団を見た秀次は大いに驚き、
「天野は狂乱したのか!?どうしてこんな事をするのか、理由を聞いてこい!」
と、叫ぶと、側衆が出てそのとおりに天野に聞いた。これに天野曰く
「それはですな、私はここに家人を召し連れて来るようにとの御下知を受けました。
これはきっと、謀反人などがあって、それを討てという事があるのだと判断しました。
そのためこのように武装して馳せ参じたのです。」
秀次家臣の田中兵部はそれを聞くと大いに驚き
「そ、その様なことではない!急ぎの普請があるから家人を召し遣わし、この作業の功を励ませとの
仰せであったのだ!」
天野、この言葉にカラカラと大笑した
「私は、普請をするような家人は持ってはおらぬ!私は家人たちにいつも、槍を付き太刀を打つ業こそ
心掛けよと言っておるのだ!」
秀次はこの天野の言葉に激怒した
「このような傍若無人の行為を成すような者、頸を刎ね獄門に懸け。諸人に対する見せしめとせよ!」
そういって天野に対し討手を差し向けようとしているのを見て取った天野は、
「もはやこの様な暗君に仕えていかにするというのか」
と、直ぐ様その場より出奔した。
ちなみにこの天野の出奔がこのあと、
↓この話のように福島正則と立花宗茂を大いに対立させる事になる
福島正則と立花統虎(宗茂)、胃が痛くなりそうな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2654.html
そんな天野源右衛門、秀次家出奔の経緯である。
(陰徳太平記)
0476人間七七四年
2012/09/17(月) 21:35:29.70ID:+5ZV8qHw0477人間七七四年
2012/09/18(火) 18:34:46.79ID:VDmDAEvd関ヶ原の戦い後、渡辺了は主君・増田長盛の命があるまで郡山城を
接収させなかったが、この時、了は前もって妻子を本丸に入れて置いた。
対して田中角之助は妻子は足手纏いだとしてあらかじめ立ち退かせ、
自分だけ討死にする支度を整えていた。
だが、やがて長盛から城の受け渡しを命じる書状が来たので、
田中は城を渡して立ち去った。
田中は妻子を立ち退かせ、躊躇することなく城を去った。
しかし名声を高めた了とは違い、後世の批判を免れることはできなかった。
――『名将言行録』
0478人間七七四年
2012/09/18(火) 21:11:42.22ID:xz19Y2AV当時の価値観的には専門外の事をさせようとした秀次にも非はあるのかもしれんが
それに対して反論より先にこんな態度取っちゃうのはどうなのこれ
命じられたその場でハッキリ無理って言う方が男らしいと思うんだが
てか他の逸話も見たけどこいつ部下として滅茶苦茶使いづらそうな奴だなw
0479人間七七四年
2012/09/18(火) 21:18:41.11ID:toLLw6L80480人間七七四年
2012/09/18(火) 21:22:13.78ID:wEtAUHrfこの時代は平時だと雇ってないのかな?
0481人間七七四年
2012/09/18(火) 23:32:31.21ID:juvbnCgD本当なら所詮は葉武者だったってことだね。
0482人間七七四年
2012/09/18(火) 23:37:34.49ID:Y7wJegr+士卒2-300も支配していても気分は一騎駆けの猪武者か
0483人間七七四年
2012/09/19(水) 04:02:35.25ID:0GaEnQMr0484人間七七四年
2012/09/19(水) 18:06:07.20ID:XGxRcsUXそれにしても一応主君相手にどうなのそれ、という感じだなあ
0485人間七七四年
2012/09/19(水) 18:55:00.88ID:jswBSx1i市松さんちでの可児才蔵みたいに「少禄で構わないから普請免除ヨロ」なら角も立たなかったんだろうけどなあ
0486人間七七四年
2012/09/19(水) 21:06:41.65ID:/8EH4R/Pしかしそれだと寄騎つけられないから実際少禄になっちゃいそうだなあ
最も戦以外のあらゆる役目を免除されたら意外とそれでも裕福に暮らせるのかもしれん
0487人間七七四年
2012/09/19(水) 23:14:55.41ID:XGxRcsUXってなるだけな気も
0489人間七七四年
2012/09/20(木) 11:02:12.15ID:SHb5RPY50491人間七七四年
2012/09/20(木) 11:36:35.24ID:wUnYQsSP滅んだり小大名で終わったりしてたら殆ど戻って来なかったと思うぞ。
0492人間七七四年
2012/09/20(木) 13:59:32.40ID:/XjT+PGhまぁそういう、勝ち馬に乗ろうとした奴もいただろうけど、一向一揆の時に一揆に参加して
終息後に降伏せずに一旦は出奔した連中とか、結局ほんの数年で帰参した奴も結構いた
当然、当時の家康は、天下どころかなんとか三河一国を平定っていう段階
たぶん、「どうせ降伏しても冷や飯喰わされるんだろ!」と思って出奔したものの、あとで
降伏組が意外に冷遇されてなかったりする様子を聞いて、「なんだ、じゃ帰ろ」ってことに
なったのではないかと
0494人間七七四年
2012/09/20(木) 15:16:58.50ID:ufXKlLDXつうか一揆側って次男坊以下や分家とかが多かったって昔の群像かなんかで書かれてるのを読んだ記憶があるんじゃが
0495人間七七四年
2012/09/20(木) 18:50:17.79ID:mT5W41pB退却する奇襲部隊を追撃した幸長だったが、この退却は偽装であり、浅野勢は伏兵に囲まれ、窮地に陥った。
浅野勢は大将の幸長みずから鉄砲を連射し、槍を振るい反撃したが、あるいは討たれ、あるいは散り、
城の惣構に逃げ着いた時には、幸長に従う者は重臣の浅野河内守と、徒歩武者の橋本六郎のみとなってしまった。
「ようやく逃げおおせたか。やれやれ、安心したら腹が減ったのう。」
「殿、これを。」
やっと一息ついて飢えを漏らした幸長に、六郎は腰の袋から握り飯を三つ取り出し、一つは幸長に献じ、
一つは自分で食い、残る一つを再び腰袋に収めた。
「おっ、良い物を持っておるではないか。残る一つ、わしにくれぬか?」
六郎の様子を見ていた河内守の頼みに対し六郎は、この重臣を睨みつけて答えた。
「これは、拙者の予備食にござる。いざという時はこれを食って最後の力を振るい、殿の馬前に果てる覚悟。
貴殿こそ、お家の重職たる身が腰兵糧の用意も無く、どうして戦陣に臨んでおられるのか?
今日、奇襲に敗れたのも貴殿らの、そのような用意の無さゆえではありませぬかな。」
戦後、日本に帰った幸長に河内守は、六郎を己の組下にする事を望んだが、河内守の心底を見抜いていた幸長は
ついにこれを許さなかった。(近古史談より)
橋本家は、芸州浅野藩家臣として永く続いたという。
島津家・中馬大蔵と浅野家・橋本六郎、どこで差がついたのか 慢心、環境の違い
0496人間七七四年
2012/09/20(木) 18:58:25.28ID:6+IZfnb9中馬の場合は駕篭かきに食わせたほうが
それぞれの主君の生き残る確率が高くなるわけで
なぜ差がついた、とか言われなきゃいけないのかがわからない
0498人間七七四年
2012/09/20(木) 22:35:28.68ID:wUnYQsSP0499人間七七四年
2012/09/20(木) 23:39:52.44ID:7951B03d河内守は自分の分があるにもかかわらず六郎に良い物持ってんなって言ったんだろうか
もしそうなら河内守は仲間を盾にして逃げおおせたような奴なんだろうな
0500人間七七四年
2012/09/20(木) 23:45:18.01ID:pQEoZRdk0501人間七七四年
2012/09/20(木) 23:49:47.93ID:3fQNXpI2ttp://photo.uzra.jp/event/2012101314sp.php
0502人間七七四年
2012/09/21(金) 09:45:26.64ID:AFJc4VZR■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています