戦国ちょっと悪い話33
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0001人間七七四年
2012/08/14(火) 19:13:27.50ID:90iWq5dq戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話32
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戦国ちょっといい話34
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0286人間七七四年
2012/09/03(月) 19:11:49.27ID:0OhJQCps鮭さまのバールのようなものの文言じゃないが
0287人間七七四年
2012/09/03(月) 19:43:34.74ID:nj5WlpxK日蓮宗の寺紋は「井桁に橘」で井伊家の家紋を取り入れているのは
宗祖の日蓮上人が井伊氏の支流という伝説から来たものらしい
日蓮の父が三国氏で井伊が継体天皇系の三国真人の出と言われる所以でもある
あとは徳川四天王の一人であった井伊直政が日蓮宗に帰依したことが始まりであるとも
0288人間七七四年
2012/09/03(月) 20:29:16.37ID:hMLsxde/この時その母、尾崎局が吉川元春に送った書状である
『さてもさてもじいさまの事、御年寄りとは申しながら、こんなに不意の事になるとは思いもよらず、
突然にお隠れになられて、さぞさぞご心中の方、おしはかり申し上げます。
輝元の御事、ひとえにひとえに、そなた様(元春)と隆景様(小早川)にお頼み申し上げます。
輝元の親となっていただき、お力もお貸しくださるよう、うち頼み申し上げます。
申すまでもない事かも知れませんが、申させて下さい。(申まてハ候ハすとも、申事ニて候)
この事、重ね重ねお願いいたします。』
息子輝元の今後を憂う母の気持ちが、痛いほどに見えて来る書状である。
いい話でも悪い話でもないと思うので、とりあえずこっちに
(毛利家文書)
0290人間七七四年
2012/09/03(月) 22:26:04.68ID:2wrUDnfMちょっと待て。その七本槍はつまり
「真田の百姓に追っ払われちゃった、秀忠の七人の旗本」て事?
不名誉やん…。誰でしょうねー?そんなあだ名付けちゃう口の悪い人は。
0291人間七七四年
2012/09/03(月) 23:33:33.42ID:CV7HMXqv【静岡】「徳川家康を大河ドラマに」 川勝知事らがNHKに要望★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1346673208/
0292人間七七四年
2012/09/04(火) 00:52:55.95ID:H3pwb3P7というか好きな人物はみんなやってほしくない
0293人間七七四年
2012/09/04(火) 01:05:34.24ID:hYJ1yZhxなんてな
0294人間七七四年
2012/09/04(火) 03:13:28.71ID:t4lfEBRf0295人間七七四年
2012/09/04(火) 03:59:04.74ID:/HwqI+Sy0296人間七七四年
2012/09/04(火) 06:25:57.91ID:jMYJjAos0297人間七七四年
2012/09/04(火) 07:44:20.90ID:Q7Mcf/O0NHK流にしてみれば・・・
0299人間七七四年
2012/09/04(火) 11:56:07.37ID:r640aWM8「労働力」である百姓の確保。
失う物のない小作農たちは条件の悪い大名を見捨て、
もっと条件のよい大名の下へ逃げて、そこの領民になってしまうためだ。
このため各大名は、
「新規に領民になったものは農具支給!」
「うちは初期の年貢を免除!」
「うちのご新規さんは当座の生活費に米を支給!」
などと百姓の確保・流出阻止はかなり気を使っていた。
細川家がまだ豊前小倉藩であったころ、細川忠興が隠居して、三男の忠利が藩主となった。
忠興は豊前小倉藩39万9000石の中の37000石を自分の領地として隠居。
この時、忠利の領地から忠興の領地に百姓たちが逃亡。
忠利「逃げた百姓、うちに返して!」
忠興「だが断る!」
という手紙が残っている。
親子(つか藩主と前藩主)の間でもこういう状態だったらしい・・・・・・
元ネタは「逃げる百姓、追う大名」(宮崎克則 著)
0300人間七七四年
2012/09/04(火) 11:58:44.10ID:oZWWxE700301人間七七四年
2012/09/04(火) 12:49:55.87ID:A3ER51lW図書館で借りたので今は手元にないが。
0302人間七七四年
2012/09/04(火) 13:54:06.36ID:8m5v88rh0303人間七七四年
2012/09/04(火) 14:20:02.05ID:bpJGoU6p0304人間七七四年
2012/09/04(火) 14:38:20.26ID:hYJ1yZhx0307人間七七四年
2012/09/04(火) 18:35:58.86ID:jMYJjAosそりゃ普段は温厚な三斎様もブチギレますよねー
0309人間七七四年
2012/09/04(火) 18:47:12.02ID:WZc8jDCA0310人間七七四年
2012/09/04(火) 18:53:52.95ID:nnPv7FPR領主に不満があると村全体で「逃散」して国境地帯まで行って、自分たちに優位な条件を出す大名の方に行って
耕作するというw
0311人間七七四年
2012/09/04(火) 20:57:35.59ID:Farc1UBFこの権六は重政がその当時城内に作っていた庭園の奉行で合ったが、彼はこの奉行において不正を行い、
部下の俸禄を掠め取り、彼らに正統な報酬を与えなかった。
重政はこのことを知り、権六を甚だしく憎んだ。
ある日、重政は造営中の庭園に出てきた。これを松田権六と、同役であった従兄弟である松田兵右衛門が出迎え、
重政の前に平伏した。
重政は何も言わず、懐中より訴状を出し
「権六、これを読め」
と言って投げ与えた。権六は何もわからすそれを拾い開くと、そこには自分の行った悪事の数々が並べ挙げてあった。
重政はじっと見て
「汝権六、私曲なくばその旨を陳ぜよ。」
権六は答えた
「も、もとより私にも陳述すべき事はあります!されどいかに君命とは申しながら、これは余りにも片落ちなる事では
ありませんか!先ずこの讒言を行ったものを糺してください。私はその後に陳述いたします!」
これに重政は冷たく
「汝、陳述するべき事がないのなら、今ここにて腹を斬れ。陳述すべき事があるのなら、私自ら、親しく聞いてやる。
汝が果たして罪がないという事を聞き得れば、そこで讒者を殺して、汝に謝罪しよう。
であれば今、讒者を糺す必要はない。」
権六は窮した
「…これはなんとも無理な仰せですが、腹を斬れとのの上意であるのなら斬りも致します。
されども、士たる者の死ぬのに、どうして犬猫のように扱われるのでしょうか?
願わくば沐浴の時間を賜り、そして検使をも受けて、その上で切腹をさせて下さい。」
すると、重政は刀に手をかけさらに冷たく
「汝は自らを犬猫にしてしまったのだ。ならばどうして犬猫のように死ぬのを嫌がるのか?
検使は私である。さあ、未だ遅らせようというのなら手討ちにいたす!」
そう、怒りに満ちた目で睨みつけた。
権六も、この上は是非に及ばずとついに観念し、短刀を引き抜くと逆手に握って自ら腹を掻っ切る。
そこに重政は兵右衛門に介錯をさせて帰っていった。
老臣達はこの事を知ると口々に重政を諌めた。「大名の御身として御仕置、あまりにも軽々しく思われます!」
これに重政は苦笑しつつ
「松田権六は勇士であった。仕手を遣わして放ち討ちにしても、容易には討たれるような者ではない。
また、もしあ奴が事前にこれを悟って己の自宅に立て篭もれば、人多く損なう事になったであろう。
私はそうなることを懸念して、つい若気を出してしまったのだ。
汝らの諫言は誠に理にかなったものだ。」
そう言って奥へと下がっていったという。
(日本武美譚)
松倉重政、私曲の臣を誅する、というお話。
0312人間七七四年
2012/09/04(火) 21:13:18.69ID:pnouzQKh悪いという程の話でも無いような、と思ったら…
「松倉重政」
島原の乱の遠因を作った御仁だ…。
これは肥前日野江に移封する以前の逸話なのかな?
0313人間七七四年
2012/09/04(火) 23:40:01.82ID:/HwqI+Sy0314人間七七四年
2012/09/05(水) 00:33:43.66ID:TjZCv7He0315人間七七四年
2012/09/05(水) 01:03:21.65ID:c7W3Hz70城の近くでひもじい!ひもじい!と合唱した加賀の領民って話もあるがw
0316人間七七四年
2012/09/05(水) 07:05:10.71ID:FzqNIhT80317人間七七四年
2012/09/05(水) 13:08:12.68ID:pd5+Bpcmというか逃散自体が一揆の主要な形態のひとつだな。
領主からこれだけの譲歩を引き出すと決めて、あとは我慢比べ
0318人間七七四年
2012/09/05(水) 22:16:31.38ID:+M9VKx6M降伏の説得をするようにと命じた。
これに舟戸久左衛門は困惑した。「わたしはその様な事のできる器ではありません。もっと老巧の者を
選んで遣わすべきです。」
しかし輝政は聞かず、強いて彼を使者とした。舟戸は致し方なくその命を排し、それから鍛冶の命じて
一辺3,4寸の、方形の鉄板を作らせこれを懐に入れ水口城に至り、案内を乞うて入城し、正家に対面すると
懇切に、主人輝政の言葉を言上した
「今降伏なされば、貴方様の一命のみならず、本領も安堵され士卒も助かるのです。」
長束正家はこれを聞くと
「その志、たいへんかたじけなく思う。その仰せに従って降伏することが可能なら降伏したいのだが、
我が士卒達は伊勢阿野津の城攻めに疲れて関ヶ原の戦場で功がなかったのを憤慨し、この城を枕として
目に立つほどの一戦をすることを、必死の思いで期待している。ならば士卒の心を問わずに私一人が降伏して、
何の益があるだろうか。
この趣を以って、宜しくそなたの主人の返答申されよ。」
その言葉に、降伏を受け入れる様子は見えなかった。
ここで舟戸、正家の小姓を呼び、懐の鉄板を取り出して言った
「これを火にて焼いて下さい。我が主人輝政の志、私の言葉、これらが長束様を欺くものではない証拠として、
貴方様の眼前で鉄火を行います!」
そしてまた懐中より午王の神符を取り出し、片手に握った。
その決意は顔前に溢れ、これを見た正家は涙をポロポロと流し
「貴殿のそのような真心に接しては、私はもう致し方ない。まさしく誠の武士で有るかな。この上は
たとえ欺かれて降伏したとしても、これもまた武士の一義、恨み悔いるには及ばない。」
そう言うと小姓を呼んで何事か囁いたが、暫くして小姓が脇差一腰を持って出てきた所を、
正家は舟戸に親しく声をかけ
「これは見苦しいものであるが、いささかお主のこの度の志に報いようとしたものである。帰ってお主の主人に
私の降伏を伝えられよ。」
と、それを与えた。
ところがそれでも舟戸が、なかなか座を立ちかねている体を見て正家
「ああ、私が忘れていた。」と小姓を呼び硯を取り寄せ、證文を書いてこれを与えた。
舟戸はが立ち返りこの旨を申し上げると、池田輝政は彼を激賞した。
ちなみにこの時長束正家が舟戸久左衛門に与えた脇差は、無銘で一尺あまりの貞宗鍛えだという。
舟戸久左衛門、長束正家への降伏勧告の使者となる。という逸話である。
(武士道美譚)
まあ正家さん、懸念した通り欺かれて切腹させられちゃうんですけどね。
0319人間七七四年
2012/09/05(水) 22:24:53.41ID:+EboGKCuこのだまし討ちで本多と池田の仲が悪くなって姫路城奪われた
なんて話はないよね
0320人間七七四年
2012/09/05(水) 22:37:42.16ID:djK8oeQ10321人間七七四年
2012/09/06(木) 00:10:44.16ID:QWniifPv0322人間七七四年
2012/09/06(木) 00:26:18.87ID:y4TWJCG7明らかに助かる状況じゃないし
長束さんもわかってて降伏したんじゃない?
0323人間七七四年
2012/09/06(木) 00:52:18.73ID:Nrb5jCBI判っていて、それでも舟戸の覚悟に感激して降伏を受諾した
だから池田輝政は舟戸を激賞したと
0324人間七七四年
2012/09/06(木) 08:53:38.23ID:rDTCjwjr【大分】大友宗麟PR大作戦 大分市 まちづくりへ検討委
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1346829411/
0325人間七七四年
2012/09/06(木) 10:23:52.29ID:TpRga5x+0326人間七七四年
2012/09/06(木) 10:52:42.98ID:W59RMvbQなんて思ってた頃に戻りたい
0327人間七七四年
2012/09/06(木) 11:37:13.75ID:fAY4MyLnそう思ってた時期が懐かしいねみんな
0328人間七七四年
2012/09/06(木) 11:59:09.10ID:hkfZeY7T俺も気配りと頭の回転の速さと人間的魅力で貧民から天下人になったって思ってた・・・
あれ、間違ってないな・・・あれ?
0329人間七七四年
2012/09/06(木) 14:44:57.60ID:GkDvIw8o0330人間七七四年
2012/09/06(木) 14:53:18.40ID:PpEWX2Gg西洋音楽(ムジカ)を愛した大友宗麟、なんて持ち上げられてたから、そこらでとめとけばいいのに
0332人間七七四年
2012/09/06(木) 15:14:00.48ID:qlwzXjvw0333人間七七四年
2012/09/06(木) 17:11:02.59ID:Wjow5dIE0334人間七七四年
2012/09/06(木) 17:14:49.07ID:MfMuhx+J比べてると乾いた笑いしか出ない。
0335人間七七四年
2012/09/06(木) 19:22:33.76ID:AZgXMjwe大坂城落城の朝、徳川家康は御旗御長柄を住吉の辺りに立てて置き、
自身は住吉と城の間の山奥にいた。
この時、家康は松平正綱を召して「城中の者は我が旗印を見て、わしが住吉に
いると思っているだろうな。味方は既に勝ったのだから、この上は身を大事に
することが第一じゃ」と笑った。
そんな所に安藤直次が馳せ来たり、家康に勝利の様子を報告した。
それから、直次は御茶や弁当のために同行していた坊主に向かって
「喉が渇いてかなわん。とにかく一杯飲ませろ」と言った。
しかし坊主は「只今、上様の御茶器の他には器がございません」と断るので、
直次は「上様の御器でも賜った後ですすげばよかろう。いいから飲ませよ」
と重ねて要求した。
そのような問答をしていたところ、聞いていた家康が「帯刀が喉が渇いたと
言っているのに何故飲ませぬか。こんな時に上も下もあるか馬鹿者!」
と坊主を叱ったので、直次はすぐに喉を潤すことができたという。
(徳川実紀)
0337人間七七四年
2012/09/06(木) 22:38:45.03ID:MfMuhx+J彼らは本能寺の変でも大いに活躍した勇者であり、その後の戦乱も生き延び、
後に天野源右衛門は立花宗茂に仕え、箕浦大蔵は浅野幸長に仕えた。
ある年京都において、天野の宿舎に箕浦が訪問して、昔の話などしていた時に丁度、古川九兵衛も尋ね来て、
久方ぶりの珍しい会合となった。
3人の話は尽きず、果ては本能寺の話となり、お互いの武功を論じ合ううちについに罵り合いとなった。
中でも箕浦と古川は互いに立腹してその功の優劣を争い、座もどんどん白けていく所を、天野が様々に
とりなしてどうにか収めようとしたが、双方共に一向に引こうとしなかった。
いい歳していても、武士はこれだから困りものである。
と、ここで門外にわかに騒ぎ立ち多くの人の足音聞こえてきた。
何事かと3人、2階の窓から外を覗くと、何としたことであろう、上京の方より大男が、たった今人を殺したのだろう、
血刀を振り回しながら走り来る。その後ろ二町ほど隔てて2,30人の者たちが抜き身にて、この男を追いかけていた。
「これは容易なことではない。」
先ず天野がとっさに2階より降り、古川もそれに続いた。
箕浦は昔鑓傷を負ったため手足不自由であり、急に降りることができず遅れたのを古川、「ここだ!」
と思い急いで梯子を引いた。箕浦大蔵、文字通り梯子を外されたのだ。
これでは下に降りることができない!箕浦はどうしようもなく窓から出て庇の上に立って見ていると、
なんとあの科人がその真下に通りかかったではないか!
箕浦、思い切って庇から科人の頭の上に飛びかかる!
そして踏み倒しざまに直に押し乗って、物も言わせずその頸取って立ち上がった。
この時天野古川もその場に到着したが、箕浦は大得意でその科人の頸を示し
「いつも手柄は我先なり!本能寺てもこの通りなり!!」
そう鼻をふくらませて悠然と言い放ったという。
人々その剛勇を感じ、古川は一言もなかった、とのことである。
(武士道美譚)
0339人間七七四年
2012/09/06(木) 22:56:31.21ID:qBqh71GNしかし蘭丸討っておきながら鬼武蔵に仕えた天野源右衛門(安田作兵衛)と
立花宗茂はあんまり合わない気がするが
安田作兵衛が立花宗茂に仕えたのは肥後一揆から文禄の役までの短い間だからねぇ
0342人間七七四年
2012/09/07(金) 01:01:03.11ID:kWlvANan「大友宗麟プロモーション検討委員会」(委員長=吉津弘一・日本文理大学経営経済学部教授、9人)を発足させた。
宗麟は南蛮貿易に取り組み、西洋音楽や西洋医術などを積極的に導入。宣教師フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許した。
ヨーロッパでは、九州の地図は「BUNGO(豊後)」と記され、宗麟が描かれた絵画も残っており「王として知れ渡っていた」(鹿毛敏夫・東京大学史料編纂所国内研究員)。
3日に同市役所であった検討委初会合では藤沢卓弘・大分商工会議所青年部副会長は「パエリアなど南蛮料理を飲食店と提携して出してみたらどうか」と提案。
牧達夫・NPO法人大友氏顕彰会理事長は「業績や資料を目にすることができる場所の確保を」と求め、
県立芸術文化短期大学1年の竹中容子さんは「歴女(歴史好きな女性)の学生には甲冑を着けたいという人もいる。難しい話よりインパクト重視で」とアイデアを出した。
委員会は、来年1月まで毎月1回開き、具体的なPR方法をまとめ、来年2月に釘宮磐市長に報告書を提出する。
同市は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに比べて知名度の低い宗麟にあらためてスポットライトを当てよう、
と昨年の市制施行100年を契機に宗麟を柱の一つにしたまちづくりに着手。本年度は児童向けの副読本作成や
国史跡「大友氏遺跡」を観光拠点とするための保存事業など14事業を予算化。観光客を意識し宗麟像があるJR大分駅前に、
ザビエル像を3年以内に新設することも予定している。
=2012/09/05付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/322259
0344人間七七四年
2012/09/07(金) 01:31:38.20ID:4sIVIzBZつか宗麟押しは悪い話かよw
0345人間七七四年
2012/09/07(金) 01:33:50.86ID:O62kEgbmこの3人と比べる事自体間違ってるだろw
0346人間七七四年
2012/09/07(金) 07:26:14.49ID:VP9ypd+i情けなくなるから
0347人間七七四年
2012/09/07(金) 11:03:00.85ID:xlZ8SbNS0348人間七七四年
2012/09/07(金) 11:57:11.88ID:JIkweN8t終わらせておいたほうがいいよね。
0349人間七七四年
2012/09/07(金) 12:04:08.31ID:9qqHBY3H宗麟ってR15指定だよな
0350人間七七四年
2012/09/07(金) 12:17:34.17ID:iZdvwBUr0351人間七七四年
2012/09/07(金) 12:44:48.03ID:/nOj86H90352人間七七四年
2012/09/07(金) 12:51:37.45ID:taYFq6P20353人間七七四年
2012/09/07(金) 13:42:35.00ID:yIisNEzp0354人間七七四年
2012/09/07(金) 14:42:21.41ID:tmTZfyp30355人間七七四年
2012/09/07(金) 15:38:15.40ID:qOrIL3ku0356人間七七四年
2012/09/07(金) 18:51:28.13ID:LYC4+IFH大谷吉継・石田三成恋人説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5215.html
これのおそらく原文見つけたので、短いので書いてみる
・石田治部少輔を度々大谷刑部少輔しかり、又は頭をはり候。
石田大谷に恋慕して、知音になり候。
それより頭をはらるるも、忝と云うやうにもてなし候。
(武功雑記 巻十二)
なんだかホントに異様な関係性だなw
0357人間七七四年
2012/09/07(金) 18:56:10.05ID:qAOThYD4漫画の風雲児たちの大谷吉継がハリセンで三成どついているのって、
元ネタあったのか
0359357
2012/09/07(金) 20:33:53.85ID:g4K+jpQy風雲児たちネタがいくつかあった
0360人間七七四年
2012/09/07(金) 21:57:18.15ID:LvUM7Tln清蔵は佐々成政の甥で、武士の家系であったが、小辨は伏見あたりの賤しき者の子であった。
しかしこの二人は容貌殊の外優れ、また賢かったので、禿(かむろ)として常に信忠の元で使われていた。
さらに清蔵は観世流の能を、小辨は小歌の名人であったので、特にその寵愛を受けた。
天正10年(1582)び武田征伐における高遠城攻めの時、両人共に16歳にして抜群の働きがあり、
織田信長はこれを聞くと両人を呼び出し、先ず山口小辨に
「この度高遠にての働き、稀代の至りである!城介(信忠)の眼鏡違わず、ひとしお満足の事である!」
そう褒め上げ、手づから国久の腰の物に感状を添えて下した。
次に佐々清蔵を召し
「高遠にての骨折り、天晴であった!ただし汝は手柄するのも当然である。何故ならあの大剛の
内蔵助(成政)の甥だからだ。」
と仰せられ長光の腰の物に感状を添えて下された。
これを見聞きした者たちは二人の名誉を羨むと同時に、
「信長公はさすが智勇兼備の大将である。あの褒められ様を見たか?
小辨は卑しい身分の出身なので、手柄高名誠に稀代なりと仰せられ、
清蔵は武士であるから伯父内蔵助の名まで出して賞せられたること、流石名将の一言一行、
感ずるに余りある。」と言いそやしたそうである
さて、このことがあって60日あまりにして、明智光秀の反逆により信長は弑せられた。
その時信忠は二条城にあったが、光秀の兵がそこにも襲い来て同じく討ち取られたその時に、
この清蔵、小辨の二人の小姓は互いにいい合わせて
「今は我々も討死すべき時である!されど素肌(鎧を着ていない状態)にて死ぬことは、屍の上に
恥を晒すことである。厳しく物具して死のう。そうであれば緊急の事態で何致し方ない。共にひとたび
敵軍に討ち入り、良き兵討ちてその物具を取って着よう!」
そう確認すると二人、遺産で突き出て、思った通りの敵を討ち取ると一度陣に帰り、その物具を二人共
厳しく装うと、互いに微笑み合い、再び切って出て敵勢と渡り合ったが、ついに二人共討ち取られた。
ただでさえ紅顔の美少年であった二人の思い切ったる働きに、この戦場の人々も彼らから目が離せなかったが、
その死んだ時、美しい顔に血が流れ、前髪も朱に染まっていたのを、敵も見方もこれを見て嘆くとこ、
ひとかたでは無かった。
そして多くの京童たちも二人の少年の首のもとに集まり、その健気さを惜しみあった、とのことである。
織田信忠寵愛の小姓、佐々清蔵、山口小辨という二人の少年についての逸話である。
(武士道美譚)
0361人間七七四年
2012/09/07(金) 22:07:30.29ID:qOrIL3ku0363人間七七四年
2012/09/07(金) 23:52:23.66ID:LTHm1aGnそれもガイシュツ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5983.html
武士道美譚なんて明治に書かれた逸話の寄せ集めなんだから
既出かどうかまとめブログで登場人物名を検索するぐらいしようよ
0364人間七七四年
2012/09/08(土) 00:01:29.37ID:PcoC7J24最近目立つ創作もどきや概説ならともかく、神経質すぎだろ。
そっちの出典は常山紀談だと書いてあるし、同じ話でも少しずつ違うんだから良いじゃないか。
0365人間七七四年
2012/09/08(土) 00:30:43.38ID:pq329bjA0366人間七七四年
2012/09/08(土) 00:49:11.25ID:TYKdc9uU「秀吉」「天地人」の時代考証の時に
「眼鏡にかなう」という言葉が入れられそうになった時、小和田哲男は
フロイス「日本史」では
フランシスコ・カブラルがメガネをかけていたら庶民からバテレンは4つ目だと評判になって
岐阜に四、五千人もの観衆が集まってきた。
と書かれているように、戦国時代に眼鏡はほとんど普及していなかった、だから「眼鏡にかなう」
という言葉もなかったはず、と入れさせなかったそうだが
0367人間七七四年
2012/09/08(土) 00:49:39.09ID:wdKNoxDl0368人間七七四年
2012/09/08(土) 00:54:35.47ID:K/FXAyga0369人間七七四年
2012/09/08(土) 02:18:52.15ID:NIxT/FZp0370人間七七四年
2012/09/08(土) 04:56:56.65ID:aRY9MqBK0371人間七七四年
2012/09/08(土) 05:18:47.30ID:XGjCSYo5武士に戦神と崇められている八幡神を祭る宇佐八幡宮。
その由来は謎な部分が多いが元はどうも渡来系の鍛冶の神らしく、弓削道鏡の野望を砕いた宇佐八幡神託事件など朝廷の庇護も厚く、九州最大の荘園領主として君臨していた。
という訳で、八幡神は天津神として扱われる事が多い。
また、宇佐八幡は神仏混合政策を主導していた事もあって弥勒寺という寺を抱え、国東半島は六郷満山という仏教の拠点にもなった。
さて、今度は国津神である。
豊後の国の南部、祖母山を中心とした山岳信仰から、とある一族が豊後国に台頭する。
大神氏。
この一族、その祖が蛇神という血統を有していた彼らは豊後南部に根を張り、土地は貧しいが港に適した地形から海上交易によって富を築き勢力を拡大していた。
そして、彼らが持つ水軍は平家台頭の時代の流れに乗り、源平以前から九州最大の荘園領主であった宇佐八幡と必然的に利害が衝突する。
大神氏の子孫である緒方惟義は平家を見限り源氏につき、平家が避難していた宇佐八幡宮を焼き討ち。
だが、平家が壇ノ浦にて滅んだ後の源頼朝と源義経の対立に巻き込まれた大神氏は義経側について失脚。
時代は下がり、豊後に下向してきた大友氏はこの神々の争いを徹底的に利用し、宇佐八幡信仰を利用して地元国人衆であった大神系国人衆を粛清してゆく。
ただ、宇佐八幡は豊前にあり豊後とは隣とはいえ国が違うために、その八幡信仰を担ったのは国東半島にある奈多八幡宮である。
この争いは戦国時代になるまで続けられてゆく。
大友家が合戦や血縁政策にて大神系国人衆を取り込めば、大神系国人衆はやばくなったら船を使って伊予に逃げ出しほとぼりが冷めたら豊後に帰還する始末。
その戦いの決着は全てを否定するこの男の信じる神によってもたらされた。
大友宗麟『主の為に』
大神系国人衆は小原鑑元の乱を最後に無力化されるが、宇佐八幡をはじめとする旧態依然として既得権益の塊だった寺社勢力全てをキリスト教信仰によって大友宗麟は敵に回した。
1561年 宇佐八幡宮焼き討ち
こうして神の国を作ろうとした男の夢は耳川合戦の大敗にて散り、大友家もその息子義統の代に朝鮮出兵の不手際にて滅ぶ。
その不手際の一説に名前があがったのがキリシタンだった志賀親次というのは何の因果だろうか。
天津・国津・仏教にキリスト教、豊後にはこのような神々が流れた残滓が残り、20世紀その後豊後こと大分県は国東半島を中心に仏の里をキャッチフレーズに観光資源としてPR。
最後まで残ったのは仏教だったという神々の争いとその顛末の話。
0372人間七七四年
2012/09/08(土) 06:07:11.81ID:aRY9MqBK最終的にキリスト教に取り込まれてしまったが
0373人間七七四年
2012/09/08(土) 12:09:22.24ID:hvtbgZHu眼鏡にかなうより昔からあったのかなあ
0374人間七七四年
2012/09/08(土) 12:25:04.96ID:5edXjqzV物だけかと思ってた
当時ないといえば四六時中とかも使えないんだろうなあw
0376人間七七四年
2012/09/08(土) 14:01:08.41ID:pT9WL0m5「殿、チャンスですぞ」という台詞を考証に却下された、とぼやいていた
0377人間七七四年
2012/09/08(土) 14:30:36.34ID:K/FXAyga0378人間七七四年
2012/09/08(土) 14:53:47.69ID:4S++orRw0379人間七七四年
2012/09/08(土) 14:55:34.21ID:xRjFVdfj0380人間七七四年
2012/09/08(土) 15:00:30.39ID:hvtbgZHu0381人間七七四年
2012/09/08(土) 15:08:44.51ID:6IIMnwwcチャンスとか雰囲気壊すのはやめて欲しい
0382人間七七四年
2012/09/08(土) 17:27:04.08ID:NIxT/FZp0384人間七七四年
2012/09/08(土) 23:16:42.97ID:pVJsbKH6玉虫忠兵衛とは甲斐の城意庵の弟で、武田信玄、上杉謙信に歴事し、
後には徳川家に仕えた。
小牧長久手の役に従軍した時、徳川家康は忠兵衛に向かって
「今少し見合わせて槍を入れて見せよう。よく見ておけ」と言い、
程なくして勝利を収めた。
後に忠兵衛が人に語ったところには、
「我が君の御軍略は甲斐や越後には劣っておられるが、
御勇気の凛然たるところは遥かに優っておられる。末頼もしきことだ」
ということだった。
また、ある時に家康が言うには、
「忠兵衛はたわけた男だが、軍陣においては眼が八つづつあるような者だ」
とのことだった。
忠兵衛は後には松平忠輝に仕え、大坂夏の陣では軍監を務めた。
しかし、指揮の悪さが家康を怒らせ、追放されることになった。
この時、家康は「玉虫ではない、逃虫じゃ!」と言ったとされる。
――『徳川実紀(武功雑記、古士談話、大坂覚書)』
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