トップページsengoku
1001コメント413KB

戦国ちょっと悪い話33

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2012/08/14(火) 19:13:27.50ID:90iWq5dq
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0166人間七七四年2012/08/25(土) 18:29:29.82ID:GoBdw8dI
>>165
それは素肌攻めだろw
0167人間七七四年2012/08/25(土) 18:46:08.11ID:Zv/dTIwS
エジプト軍にはヌコを盾に括り付けてだな…
ひょっとしたら井伊家にも有効かもしれん。
0168人間七七四年2012/08/25(土) 18:55:08.63ID:nagH/188
>>164
これかw

伊藤清蔵さん大活躍
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5012.html
0169人間七七四年2012/08/25(土) 18:56:39.95ID:Oanugzmt
>>165
素肌攻めは全裸って意味じゃないお
0170人間七七四年2012/08/25(土) 19:01:36.16ID:NjyD/zAp
えっ武田軍ってパラダイスだと思ったのに!
0171人間七七四年2012/08/25(土) 20:09:08.15ID:yv4kpZeV
あれを素肌攻めって呼ぶのはちょっと不思議だな
「素肌」の意味がどうこうじゃなくて、普通「○○攻め」って「○○を利用した攻め」って意味だと思うから
0172人間七七四年2012/08/25(土) 20:50:04.00ID:YHrjyWmz
>>163
ご多分に漏れず漢陽も風水を基礎に街造りが行われたそうだけど、これの解説図が女性器そのものだった
で、日本総督府はこれを断ちきるように建てられていたから壊したんだとかw
0173人間七七四年2012/08/25(土) 23:52:10.29ID:GXCoKmI+
蒲生氏郷も素肌に鎧で雪中行軍してなかったかしら
0174人間七七四年2012/08/26(日) 01:59:26.93ID:AHjtlf5x
「素肌」っていったら裸ってことじゃなくて
鎧を付けてないってことです(着物は着てる)
0175人間七七四年2012/08/26(日) 10:57:02.27ID:sTO3hyt0
>>171
城攻めは?
0176人間七七四年2012/08/26(日) 11:56:10.83ID:/P3YIZD2
>>174
工場長の場合「直の膚」(ソース:氏郷記)と書かれてるんだがどーだろ
0177人間七七四年2012/08/26(日) 12:43:53.49ID:wpMGNzvP
>>176
「大将スゲー!」って士気が上がったらしいから裸に鎧だったんじゃない?
0178人間七七四年2012/08/26(日) 12:56:45.99ID:1IIAssB7
鎧なしでしかも城攻めだからすごいんだな
0179人間七七四年2012/08/26(日) 13:00:17.46ID:qayyvTJ3
銃をバンバン撃ち合ってたのに西洋みたく鎧が簡略化されていかなかったのは不思議
0180人間七七四年2012/08/26(日) 13:05:23.24ID:Ua1KRJI8
鉄砲隊は陣羽織のみになりましたが?
0181名無しさん@お腹いっぱい2012/08/26(日) 14:27:50.60ID:ZuSXXKgS
天正14年の豊薩合戦で大友方は入田義実・志賀親守・同親度・南志賀鑑隆・同鎮隆ら南郡衆の多くが島津氏に通じた。
いずれも主君の大友義統や先代の宗麟に対して含むところがあったらしくそこを島津方に付けこまれた。
特に入田義実や志賀親度は率先して先導役を務めており豊後方面の守備は崩壊していった。

・朽網宗暦(85歳)の報われぬ奮戦

山野城は豊後南部の久住連山「黒岳」南の麓、標高750mの山中にあった大友家臣朽網氏の居城である。
これを攻めるは島津家中でも名高き「親指武蔵」新納忠元。守るは朽網鑑康入道宗暦、当年85歳。
この宗暦は「二階崩れの変」後に大友宗麟の差し金で阿蘇惟豊に殺された入田親誠(義実の父)の弟である。
朽網親満謀反で途絶えていた朽網家を継いでいた。兄の一件があったにも関わらずよく用いられていたらしい。

支城の三船城を落とされて兵達は意気消沈、自身は病床にあったにも関わらず宗暦は采配を取り新納勢に立ち向かっていった。しかし病身かつ高齢で采配をしたのが災いしたのか12月23日に病死。
嫡子・鎮則から和睦論を聞かされ憤死したとも言われている。鎮則は父と違って島津勢と立ち戦う意思は薄かったらしく、父が病死した翌日に降伏開城を決めている。
また宗暦の死は鎮則が山野城を開城降伏したことへの責任を感じて自刃したとの説もある。

・朽網鎮則たちの後日談

秀吉の九州征伐後、大友義統は島津に降伏したり開城した連中をSATSUGAIする気マンマンだった。
重臣の一萬田鑑実すらも一族の紹伝が島津に寝返ったことをケチつけられ自身は関係ないのに切腹させられている。
そんな義統ゆえに朽網氏へも当然討伐軍を向ける。これに対し鎮則や子・統直は義統への怒りがあったのか逆に敢然と戦い鎮則は自害し統直は討死した。
ちなみに入田義実は島津義久の元に逃げ込み日向に所領を与えられ、子の氏虎は関ヶ原に参陣し島津義弘や豊久と一緒に戦っている。
0182人間七七四年2012/08/26(日) 15:04:51.12ID:R5+7sVC8
逸話スレなんだけどなぁ
0183人間七七四年2012/08/26(日) 17:36:25.59ID:tJGrlDwn
信長があるとき近習と女の話をした。
その中の一人が、
「明智殿の妻、ひろ子さまこそ天下一の美女でありましょう」
と主張した。
それほどまでかと興味をおぼえた信長は、
一度、実物を見たいと思うと言うと、近習の一人が、
「家中の妻女を1日、15日の礼に出仕させましょう」
と言ったので信長もその通りにした。
当日、ひろ子が長廊下を歩いてきたところへ、
信長は飛び出してきて後ろから抱きついた。
ひろ子はまさか信長とは考えもしないので、扇で打ちつけた。
しかしながらその男のただならぬ雰囲気や眼光が気になり、
帰ってのち、光秀に城中であった事を話した。
光秀もなにか勘に触るところがあり、
それを調べてみると、その男がおそらく信長であることがわかった。
この分ではただでは済まぬと思っていたが、
それからの信長はたびたび光秀に恥をかかすことが多くなった。
それより明智光秀は謀反を考えるようになった。

『落穂雑談一言集』にある、
本当とは思えないし、本当であってほしくない逸話です。
誰か歴史に詳しい人、信憑性ないと断言してくれ
0184人間七七四年2012/08/26(日) 17:39:37.80ID:k9t/wssG
煕子は天然痘であばた面じゃなかったか(これも伝説だが)
0185人間七七四年2012/08/26(日) 17:39:55.79ID:Ua1KRJI8
検証スレにでもどうぞ
01861832012/08/26(日) 18:02:48.85ID:tJGrlDwn
>>184
後世の者が自分の伝えたい教訓に有名人物の逸話を利用した可能性高いとオレは思ってる
中国で言うと老荘や墨家の書物に孔子が登場するみたいに

>>185
すまんね
まとめサイトにも詳しい人いるし、
スレで長々とやるつもりはないよ
0187人間七七四年2012/08/26(日) 18:13:23.61ID:IwdDHBaU
秀吉の作らせた天正記に、信長は「妻妾三千人」なんて書かれたりしてるし、まあコレは栄華を極めたと言う意味の
著述だが、実際子供も多いし、艶福家だったことは確かなんだろう。
まあ落穂雑談一言集は信長の時代から100年以上後の著作でもあるし、そもそも落穂雑談一言集自体、
うわさ話をまとめてみました居程度の本なので、まあ真実味はなあw
0188人間七七四年2012/08/26(日) 19:46:15.14ID:3SsLoMCQ
諸葛孔明の嫁の話とかもそんな感じだもんね
ブスだが頭脳は公明も驚くほど明晰だったとか
美人だけど美貌目当てに言い寄ってくる相手を欺くためにブス装ってるんだとか
0189人間七七四年2012/08/26(日) 20:07:15.05ID:SmnKkMJ8
>>184
それは光秀の最初の妻
0190人間七七四年2012/08/26(日) 20:12:57.87ID:lP5MBpQK
あれ、痘痕は煕子で
最初の妻は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2441.html
↑で美人にされてる千草じゃないのか
01911832012/08/26(日) 20:27:34.42ID:tJGrlDwn
すみません
ネタ元には明智光秀の妻女とあるので千草かひろ子どちらを指すのかわかりません。
時期的に後者かと思い読みすさもあるだろうとひろ子としたことを断っておきます
0192名無しさん@お腹いっぱい2012/08/26(日) 20:41:56.76ID:ZuSXXKgS
高橋紹運にもそんな話があったな。
斉藤鎮実と吉弘鎮信が鎮実の妹と鎮信の弟(紹運)を結婚させる約束をしていたとか。
ところが婚礼前になって鎮実妹が痘瘡に罹ってしまってあばた面になってしまった。
それで鎮実兄妹が紹運にこの話はなかったことにしてくれと頼んだら
紹運は逆にそんなことは気にしないと言って鎮実妹と結婚したっていう話。
0193人間七七四年2012/08/26(日) 20:57:13.05ID:vdq3zO0V
醜女話はテンプレなんだろうねえ
0194人間七七四年2012/08/27(月) 00:12:05.82ID:r0VeB0kP
吉川さんの奥さんもそうだな。
0195人間七七四年2012/08/27(月) 00:42:16.87ID:ZXLNnHKH
熊谷さんの娘は評判通りな気がするな
勝手にお父さん似だったと想像してる
0196人間七七四年2012/08/27(月) 09:51:36.68ID:tRJmQwTr
内府さんあたりならあばただろうが気にしないだろうな
0197人間七七四年2012/08/27(月) 14:24:22.67ID:I6J6kc6y
嫁さんの実家が、そういうのを気に出来ない力持ってた、ってー事でもあるような
0198人間七七四年2012/08/28(火) 03:52:15.96ID:Yp0/ISAG
悪久「伯父さんが死んで、やっと嫁から自由になれたぜ……」
0199人間七七四年2012/08/28(火) 06:47:12.43ID:aOmWG0Hq
『ここに羽柴筑前(秀吉)殿に関して、尊師が知りたいと思われるであろうことを少々述べます。

筑前殿は日本六十五カ国において、内裏に次いで、最も富み、かつ強勢によって日本全国より尊崇を受ける大身です。
一般の噂に寄れば、彼は何事においてもその前任者信長と比べ、遥かに優越しています。

彼は単にデウスの教えに反対しないのみならず、大いに我等が聖教を尊ぶ姿勢を示し、
坊主の欺瞞の宗旨(仏教)よりも真理であることを認め、キリシタンを信頼し、常に側近にある大身等の子息が
キリシタンとなるのを見て喜ばれます。

ジェスト(高山)右近殿に対しては、毎日城中において語り、彼を賞賛し、青年にしてかくも欲を制する者はいないと
考えておられるそうです。

他にもまた、デウスの教えに対する羽柴殿の愛情と行為を我等が信じるべき、多くの確実な理由があります。
その主なものは、彼が親類及び異教徒である親友よりも、キリシタンの方を信用しているという事です。

例えば、大坂に次いで彼が有する最も良き城は信長を殺害した明智の居た城ですが、ここは彼の地位にとって
重要なものの一つであるため、彼は稀な才能を有するキリシタンの老貴族(不明)を同城の守将としました。
彼の書記官(安威五左衛門尉志門)もキリシタンです。

また海の司令官にして塩飽諸島(瀬戸内)から堺に至るまでを監督するのは、尊師もご存知の(小西)隆佐の子、
アゴスチニョ(小西行長)です。彼は今、五畿内の地方において大いなる名声と収入を有しております。

さらに羽柴殿がその身辺を守るために常にその側近においているジュスト右近殿は、この地方において
最も槍術における達人として知られています。

ジョーチン隆佐はその収入の管理者にして、茶の湯の道具を保管しています。
尊師がご存知のようにこの道具は日本の宝物であり富です。

シメアン池田丹後(池田教正)殿に対しては大いなる名誉を与え、過ぐる戦争において為したことに対し、
その地位を引き上げ収入を増やすことを約束しました。

また大和国に逐われた三箇(サンチョ)殿の子マンショを呼び戻し、その戦争における勇猛さを見て、
多くの恩恵を与えて自分に仕えさせました。』
(ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)

後に禁教令を受けて大いに非難するフロイスも、この頃は秀吉をキリスト教の外護者としていたのである。
0200人間七七四年2012/08/28(火) 08:07:35.30ID:RaXf7quw
さすがの神もラスボスの豹変までは予知できなかったか
0201人間七七四年2012/08/28(火) 17:36:51.53ID:nmVw6k3Q

ある時、太田道灌の居城に一夜にして笠ほどのキノコが生えた。
人々が「物怪だ!」と驚いてこれを道灌に告げたところ、

道灌は「決して物怪ではない。湿気の深い所には大きなキノコが
生えるものだ。逆さまに生えたとしたら不思議なことだがな」と言って

動じなかった。その後、十日ばかり過ぎて、今度は同様のキノコが
逆さに生えた。人々が驚いて道灌に告げると、

道灌は「最初に生えた時は逆さなら不思議だったのだが、
今度は智恵をつけて逆さに生えたか。これは笑えるな」と言った。

すると今度は火炉の鉄輪が踊り歩き始めた。道灌はこれを見ても
「人間は足二本でさえ自由に歩けるのだから、三つ足で歩けたって
珍しくもない。

そのようなことは全て狐狸の仕業だ。狐狸めは人間にたぶらかされて
戸惑っているようだな」と冷笑するだけで自若としていた。

その後は何の怪異も起こらなくなった。

――『名将言行録』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1185.html
↑の別バージョンか?
0202人間七七四年2012/08/28(火) 21:20:25.39ID:CxSchxLm
俺のところに美女が大金を持参して嫁入りに来れば不思議なことだが
0203こうか2012/08/28(火) 21:23:56.15ID:CxSchxLm
秀吉「わしのところに大勢の美女が嫁入りに来れば不思議なことだが」
0204人間七七四年2012/08/28(火) 21:52:28.56ID:jjWVqCyv
子孫がリアル化け物だから物の怪ぐらいじゃ驚かないわな
0205人間七七四年2012/08/28(火) 22:34:28.10ID:qrwWJkEU
要求をエスカレートさせて、
どこまでやってくれるか試せば面白かったのに。
02061/22012/08/28(火) 22:36:13.04ID:P8mOuui5
慶長12年(1607)、秀忠に将軍職を譲り駿府に隠居した徳川家康は、長崎に居たイエズス会員に
謁見を許した。その時の模様をキリシタンの側の記録より見てみよう

『…京都の知事(板倉勝重か)は京都より駿河に至る沿道の、公方(家康)の諸役人をして
師父に便宜を与えるため、彼らに宛てた回状をパエス師に授けました。プロバンシャルは京都の学院長
モレジョン師と、彼に常に従う師父一人と、日本人の法兄弟3人を伴い、8日後、駿府から5里ほど
離れた場所に到着し、そこで幕府よりの沙汰を待ちました。そして3日後、招きを受け駿府に入りました。

上野殿(本多正純)は人を遣わして我々が無事に到着したことを喜び、将軍の寵厚きソトサブロー殿
(後藤庄三郎か)は自ら我等のところに来て、我々のために周旋する旨を申し出されました。

翌日、謁見の儀式がありました。長崎の街に関係ある、とある大事件の為数日前に到着された
ジャン・ロドリゲス師もこの式に列席されました。上野殿は取次の役を勤められ、公方(家康)は
親切なる数語を述べられました。これは正式の謁見においては著しい名誉です。
かの国君はその謁見室から退かれたあと、近臣に向かい、謁見者の日本・支那に在る、同宗の人々に対する
権威が大なる事と、年々彼が命じた事について、そのまま従っていることに付いて長く語っておられたとのことです。

ここに摂理が密かに我等に幸いした一例として、特に語るべきことがあります。
それは謁見式の当日、公方の長子にも関わらず、正妻の子でなかったために位を継ぐことの出来なかった
越前公(結城秀康)薨去という凶報が駿府まで達したのですが、上野殿は、公方が若しこのことを知れば
謁見の式は延期され接待も厚く出来ないことを察知し、国君が謁見の前にこの報に接しないよう
全力をなし、越前より来る書状は全てこれを押さえ、その上謁見の時刻を早めにされました。
これは非常なる親切であり、大いに、我ら宣教師の利益となりました。

世の人々はこれにより、君主の意志の発表を待たずして我々が再びこの国内に滞在することを
許されたと考えて良い、と言います。日本の法によれば、追放令を発した人が、追放令を受けたものを
面前に出ることを許せば、この者は再び君寵を得たと理解されるためだからです。

我々は公方の子にて後継者たる人(秀忠)に敬意を表するため、江戸に向かいました。これにも上野殿は、
その父であり将軍の最も信頼されている顧問である本多佐渡殿(正信)宛の書状をプロバンシャルに与えました。
02072/22012/08/28(火) 22:37:19.82ID:P8mOuui5
江戸は駿府より東方へ4日ほどの所にあり、途中には有名な山があります(富士山)。
この山は高く美しいため、日本の文士、美術家によって常に賞賛されています。
道は駿河より伊豆を経て相模に入ると、ここに日本の旧都にして、公方又は将軍の居所である
鎌倉があります。元は人家の数20万に上ったそうですが、この時は減じて、5千に満たないほどでした。
師父は2日間この地に滞在し古跡を見て回りましたが、中でも特に注意を引いたのは、
青銅の巨大な偶像が、田園の中に捨て置かれ、野鳥の休憩所となっていたと言うものでした。(鎌倉の大仏)

江戸に到着する2里前で、師父は江戸の信徒たちの出迎えを受けました。彼らは果物や食品などの
贈り物を携え我等を歓迎しました。

若き将軍(秀忠)は元来とても親切な方で、特に師父を厚遇されました。
城の最も奥の溜りの間には、帝国内で最も名高い僧が二人居ました。
一人はタイチャウラウ(大長老)、もう一人はガチャウ(学校か)と称され、彼らも将軍に
謁見するためここに訪れていたのです。京都の寺院の長老である僧侶数名もまた同室にありました。
ところがこの君(秀忠)は先に来た僧侶たちとの面会を後にし、先ずパエス師を召されたのです。

謁見式の後、本多佐渡殿、および相模殿(大久保忠隣)は師父を送って最後から一つ前の部屋に至ると、
宮中を案内するようにと命じました。この宮殿(江戸城)は壮麗であること公方の宮殿に劣らず、
装飾は黄金と最も名高い画家の手による絵画を以ってなされています。

師父が主な保護者である相模殿及び本多佐渡殿に暇乞いに行き、親切にて寛大である佐渡殿に、
日本の教会の利益を保護することを依頼し、布教の自由を求め、宣教師の説く聖法は日本の施政にも、
臣下の君主に対する服従にも、反対するところは些かも無く、全く道理に合い君主及び人民に、
むしろその義務を教えるものであることを言い添え、またこの教えは現世のために大いなる効用があり
来世のためにも更に必要なものであることを説き、佐渡殿より将軍に請うて、将軍の父君のごとく
庶民のみならず、諸侯及び貴族にも教会に入る自由を与えられることを懇請しました。

師父はこの様に好成績を得て駿河に向かって帰路につき、5ヶ月の愉快なる旅行の後、再び長崎に帰られました。』
(パジェー日本耶蘇教史)
0208人間七七四年2012/08/28(火) 23:06:56.77ID:I+akEOZd
悪い話なのか
読解力ないからどのあたりがどう悪いのか頼むわ
0209人間七七四年2012/08/28(火) 23:12:55.70ID:P8mOuui5
簡単に言うと、5年後にこの宣教師たちが信頼した本多親子がらみで岡本大八事件がおきてキリスト教禁教に。
0210人間七七四年2012/08/28(火) 23:32:40.11ID:tbpJN4Bp
オチを書かないのはどうなんだろう
0211人間七七四年2012/08/28(火) 23:43:57.43ID:I+akEOZd
わかった
結局は禁教になるからキリスト教の伝来も悪い話な
0212人間七七四年2012/08/29(水) 13:23:10.05ID:3kFQk1eY
努力が必ず報われるとは限らないって話しだな
0213名無しさん@お腹いっぱい2012/08/29(水) 21:11:01.52ID:jUvkrsnJ
志賀親次と道益父子のガチバトル

天正14年の豊薩合戦で大友方の岡城は島津義弘・新納忠元が率いる大軍に包囲されていた。
守るは若き北志賀家の惣領・太郎親次弱冠18歳。しかも包囲軍の中には島津に寝返った父の道益(親度)と叔父の入田宗和(義実)の姿もあった。
また祖父の道輝(親守)も宗和や道益に同心していたものの宗和や道益のような表立った動きはしなかった。
この時は道益とは逆に孫と一緒に岡城に篭城していたという説もある。

親次と道益の父子が戦ったのはヤオではなくガチだがこの二人の仲は悪かったらしい。原因として大友義統への姿勢と信仰にあった。
道益は耳川合戦の前年、義統と対立し父共々誅殺されそうにことがあったことから義統を憎んでいた。
対して親次は大友家ひいては義統に対しても純忠一途の人物であった。さらに親次は熱心なキリシタンであり道益は熱心な仏教徒であった。
これらのこともありこの父子が仲が悪かったのはある意味必然だったかもしれない。
0214名無しさん@お腹いっぱい2012/08/29(水) 21:36:50.52ID:jUvkrsnJ
豊後国内では栂牟礼城の佐伯惟定や丹生島城の大友宗麟たちも奮戦中。志賀親次はさぞ「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…」な心境だっただろうが
決して逃げず寡兵で「天正の楠木」と評された戦ぶりで島津の大軍を何度も追い払い、たまらず手を焼いた島津義弘の降伏勧告を撥ね付け勇敢に戦い抜く。
島津軍の攻撃が膠着したのを機に近隣の城を奪回に乗りだす。折りしも豊臣秀長勢が豊後に到達。島津勢を追撃し反乱した南郡衆を滅ぼしていった。
その過程で父・道益を捕らえ言い訳一つも許さず問答無用でその場で自刃に追い込んだとも親次自ら斬ったとも言われている。
反逆した父に対する苛烈な処置とかは親次の名声を高める結果になったものの今度はその名声が皮肉にも主君・義統改め吉統に徐々に疎まれる原因になっていく…
0215人間七七四年2012/08/30(木) 09:20:50.77ID:vw3Zxu6Z
どこら辺が逸話なの?
0216人間七七四年2012/08/30(木) 10:43:33.35ID:rozVLcIm
>>215 のようなレスを最近よく見るし、実際逸話になってない教科書的記述も増えているが、
>>213-214 はまあ逸話と判定してもいいんじゃないか。>>213の下段や>>214の下から2段目あたりが。

なんでもかんでもチラ裏禁止では、書き込み自体がなくなってしまう
0217人間七七四年2012/08/30(木) 22:27:22.32ID:4XX6FsO9
雑談ならまだしも、創作とか解説みたいな逸話モドキは勘弁して欲しい。
0218名無しさん@お腹いっぱい2012/08/30(木) 22:37:06.50ID:RIu1izbP
それにしても大友義統絡みの逸話は悪久とは違った意味で後味の悪いのばかりだな。
元はと言えば自身に原因がある、みたいなのばっかり。
これでもノブヤボ烈風伝の時は政治力が53なんだよな。
氏真や勝頼・クマーより高いなんてありえん……
0219名無しさん@お腹いっぱい2012/08/30(木) 23:05:55.43ID:qjBhSU8G
外交力だけはなぜか優秀な大友宗麟
0220人間七七四年2012/08/30(木) 23:08:53.81ID:WbfbgHdm
宗麟はガチで優秀と思うけどね
その優秀さが霞むくらいダメ人間だけど
0221人間七七四年2012/08/31(金) 09:58:56.39ID:vfSZnF2p
能力とそれを載せてる器の兼ね合いって難しいよね・・・
0222人間七七四年2012/08/31(金) 12:07:19.20ID:2dSpdj6y
宗麟は優秀な重臣が死ぬまでは優秀さと愚かさが混在してたが・・・
0223人間七七四年2012/08/31(金) 12:21:36.78ID:Q83zoGAC
優秀な分ちょっとずれると一気にものすごい所まで行くんだろうなあ
0224人間七七四年2012/08/31(金) 15:17:01.72ID:zoGj/3B2
優秀なDQNほど始末が悪いもんはねえ。悪久とかまーくんとか
0225人間七七四年2012/08/31(金) 15:58:24.88ID:mQclrRyc
秀吉「ほんと優秀で権力持ったDQNはたちわるいね!」
0226人間七七四年2012/08/31(金) 16:55:22.98ID:zoGj/3B2
ラスボス止めることできるのっておかんか秀長ぐらいだしな・・・
0227人間七七四年2012/08/31(金) 17:29:06.91ID:VY1J2o8S
浅野長政は佐々成政に対して意趣があった。
その理由はこの様なところにあったという。

天正13年(1585)、秀吉の越中攻めに、織田信雄の仲介によって降伏した成政であったが、越中において
秀吉との対面はならず、引き上げの途中、大津で5日間滞留していいた所に成政は後から追いつき、
大津において秀吉に対し降伏う受け入れられたことへの御礼申し上げるため、城に上り書院までやってきた。

ここで多くの者達が成政を出迎え、取持衆は「御対面成されるまで、どうぞここでゆっくりとお待ちください」
との丁重な挨拶。敵対したとはいえ織田家の猛将であった成政に対し、彼を尊敬する気持ちは、秀吉の家中でさえ
強かった、ということであろうか。

そこに浅野長政が現れた。成政は、長政が秀吉から内々に何か聞き届けた事でもあったかと思い、声をかけると、
長政は

「内蔵助(成政)殿は上様(秀吉)に対し謀反をした者である!御対面は御無用!
私は今も、あなたを切腹させるよう申し上げてきた所である!」

そう言い放った。
これを聞いた成政は、長政を睨みつけると

「弾正(長政)よく聞け。私は秀吉とは、たった今まで肩を並べた朋輩であった。そうであるからこそこの内蔵助も、
信長公の御切腹後は、天下の覇権を心がけたのだ。
秀吉の家来であれば謀反ということも可能だろう。だが私はそうでなかった以上、弾正(長政)の申し様は
全く聞こえないものである!」

そう怒鳴り、荒々しく長政をやり付けた。
その後成政は秀吉との対面を果たし、丹波の野瀬郡に召し置かれた。
(川角太閤記)

佐々成政と浅野長政に遺恨が出来た由来である
0228人間七七四年2012/08/31(金) 19:21:44.62ID:QJ6Gd40w
えっと、嫌われ役をやったということか?
0229人間七七四年2012/08/31(金) 20:00:28.72ID:wvf3GtKf
意趣があった理由…
ていうよりこの時既にあるとしか思えないw
0230人間七七四年2012/08/31(金) 20:29:18.27ID:sZFl0lgP
嫌われ役も何も、和睦の礼にやって来た者にわざわざ面と向かって言う必要も無いわな
0231名無しさん@お腹いっぱい2012/08/31(金) 21:00:25.07ID:FeSilS2c
浅野長政は九戸政実一族皆殺しの謀略に関わってるし宇都宮家改易にも噛んでるし結構エグい人
「独眼竜政宗」の時に林与一氏が演じたイメージとは違ってる

この話は浅野に無礼に対して堂々と怒鳴りやり返した佐々の武辺者らしい男前ないい話にも見える
0232人間七七四年2012/08/31(金) 22:16:26.24ID:J18DFBdy
浅野長政って「他の奉行達とは違って良識派」みたいな
イメージが強いが割と諸大名とトラブル起こしてるよなあ。
0233人間七七四年2012/08/31(金) 22:18:12.01ID:Y39JoAuw
>>232
???「そうだそうだ!だからこっちから絶交してやった!オレは悪くない!!」
0234人間七七四年2012/08/31(金) 22:40:11.23ID:EOVWZrzs
ちょっと政宗は黙ってて!
0235人間七七四年2012/08/31(金) 23:17:46.76ID:X4lm6gRt
>>232
浅野長政はかなりのトラブルメーカーでもある。

ただ、喧嘩した相手自体もアレな人が多い。
例えば、政宗とか広家とか
0236人間七七四年2012/08/31(金) 23:50:33.63ID:aFOMRCOA
>>219
宗麟は戦術家としては凡庸だが、戦略家・謀略家としては一流だぞ。
筑前を巡る争いでは、戦術面で負けても、朝廷工作や幕府工作。更には
大内残党や尼子を利用することで、最終的には北九州領有を確定させたし、
島津に大敗した後も、織田・豊臣を利用して、可能な限り退勢を押し止めている。
豊前の田原本家の謀反を鎮圧した時も手際がいいし。
ただし、むら気があるのが致命的ではあったが。

『豊後三老がいた時は・・・』と言われるのは、宗麟のこうしたむら気をよく抑え、
前線指揮官として、宗麟の戦術能力を補ったが故なんだろうなあ。
0237名無しさん@お腹いっぱい2012/09/01(土) 00:09:17.54ID:Rj3NcUa6
>>235
三成もそうだしな。
仲が良かったのは家康あたり。
0238人間七七四年2012/09/01(土) 01:13:13.71ID:V/70pHoJ
みっちゃんの場合は木っ端役人フィルター掛けすぎってな逸話も多いから実際な所何ともいえない。
アホの子フィルターかけられまくってるTERUとか市松にも同じ事が言えるが。
0239人間七七四年2012/09/01(土) 01:37:12.60ID:eWA0Nf07
肥後国人一揆も概ね制圧されると天正16年(1588)、秀吉は上意によって佐々成政に畿内に上がるよう命令した。
そこで成政は直ぐに尼崎まで上がり、その地の法華寺にて命を待っていた所、遺恨のある弾正殿(浅野長政)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6740.html参照)が支障を申し立てたわけでは無いのだろうが、
藤堂和泉守(高虎)が検使として派遣され、秀吉の御意を伝えた。それには

『去年九州に馬を出し(九州征伐)、西国においてはめでたく相治まったはずなのに、そこで肥後に一揆が蜂起したのは、
すべて内蔵助(佐々成政)が時分をわきまえず厳しい施政を行ったためである。それにより天下の騒ぎを
起こしてしまった!
小早川隆景も統治の難しい国に遣わしたが、彼は何事も神妙に仕置きしたため、見事に鎮めたと聞いている!

私はやがて東国に出馬しようと考えているというのに、西国の統治が動揺しているように東国に伝わり、
東国に私の政権能力に対し疑問を抱かせた、そして諸大名への今後の見せしめのため!』

切腹を命じた。


成政はこれに従い、庭の泉水の所まで行き石に腰掛け家臣の主馬を呼び出し、金30枚、その他身の回りの衣装など
すべて主馬に渡し、自分の座っている石を見て

「この石は内蔵助腰掛岩と呼び伝えよ!!」

そう言うと腹を十文字に掻っ切り臓腑を掴み出し「時分は良いぞ!」と、己の頸を差し出した。
そこを、藤堂高虎が介錯したとも、また小姓が介錯したのだとも後に沙汰された。
(川角太閤記)

秀吉の言うことによれば、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6744.htmlで小早川隆景が一揆を起こさなかった事も、
成政切腹の理由になったのですね。

佐々成政の最期についての逸話である
0240人間七七四年2012/09/01(土) 04:00:10.54ID:HwyrRaLG
北条氏規上洛の次第

天正十六年(1588)八月、北条氏規は上洛の途につき、十日には三河岡崎へ到着した。
案内役を榊原康政と成瀬藤八が務めた。
同十七日、京都へ参着。相国寺に宿所を構えた。


毛利輝元の家臣、平佐就言の日記『輝元公上洛日記』には以降の氏規上洛の次第について、次のようにある。

「八月二十一日、晴れ
(前略)
……この日(輝元)は紫野へ御参りされていたが、御留守の中、民部卿法印前田玄以より
『明日の午の刻(午後十二時)、北条美濃守(氏規)に(秀吉が)御対面されるので、御相伴に参られるように』
との由、御触があった。
御注文の衆は
尾張内大臣(織田信雄)、駿河大納言(徳川家康)、大和大納言(豊臣秀長)、備前宰相(宇喜多秀家)、越後宰相(上杉景勝)、
安芸宰相(毛利輝元)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)で、
『以上の方々は(秀吉が)北条に御対面するので、御相伴に明日の巳の刻(午前十時)に参られよ』との旨であった」

「八月二十二日、晴れ
辰の刻に宿を立ち、大谷刑部少輔殿(の所?)まで御出なされた。ここより殿様(輝元)は御冠に黒い御装束である。
巳の刻に聚楽へ参られた。隆景様、広家様、黒田官兵衛殿、大谷刑部少輔殿が冠装束して御供をした。
穂井田越前守、福原上総守、口羽伯耆守、渡邊飛騨守、松山兵庫頭、堅田兵部少輔、林肥前守が冠に赤装束で御供をした。
赤川主水佐、国司隼人佐、粟屋右近大夫が風折の立烏帽子に狩衣にて御供をした。
…関白様へ北条新九郎氏直より進物。
金覆輪の御太刀一腰。
馬十疋。
御鷹十一居。このうち一居は白鷺。
漆塗の桶十杯。
(方広寺)大仏御合力の詞書。
…北条美濃守氏規自身進物。
金覆輪の御太刀一腰。
御馬五疋。
綿二折を二千把。」
…午の刻(午後十二時)に御対面。取り次ぎは前野但馬守。冠装束である。
御通い衆、諸大夫は冠に赤装束。
御膳を冠装束の尼子宮内少輔が御配りした」
0241人間七七四年2012/09/01(土) 04:05:43.93ID:HwyrRaLG
対面の席次は以下の通りである

一段高くなっている高間には秀吉と聖護院道澄、
秀吉から見て右方、上手には公家衆
右大臣菊亭晴季、
大納言勧修寺晴豊、
同中山親綱、
同日野輝資、
頭宰相(不明)ら。

庭のある縁側の下手には尾張内大臣織田信雄、
駿河大納言徳川家康、
大和大納言豊臣秀長、
備前宰相宇喜多秀家、
越後宰相上杉景勝、
安芸宰相毛利輝元、
更に上手の後には
津少将上野介(織田信包)、
丹後侍従長岡越中守(細川忠興)
南寸野侍従藤五郎(長谷川秀一)、
岩倉侍従毛利河内守(毛利長秀か)、
伊賀侍従(筒井定次)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)など錚々たる面々が居並ぶ中、氏規は敦賀侍従(蜂屋頼隆)に次いで下手の末席を与えられた。

氏規と秀吉らが対面した広間は同年七月に輝元が聚楽第で初めて秀吉と対面した広間と同じもので、この広間の長さは(縦にだろう)十八間とあるから、威勢を示そうとする秀吉の意図が垣間見れる。

「…御三献があり、(秀吉は)氏規に御腰物一つ、脇差一つを差し遣わされた。
関白様が奥へ御立ちなされて、(諸大名らとの)御食事が有り、(氏規は)申の刻(午後四時)に帰られた。
殿様も御宿である妙願寺へ戻られた」

「八月二十四日、曇り
巳の刻(午前十時)に氏規を大和大納言殿が御請待された。
殿様も招待されたが、(氏規の)御腹中気(腹痛)に付き、殿様も御出なされなかった」

……ところで氏規の上洛に際して、北条氏は家中の知行にあわせて金銭を納入するよう定めているが、その費用は二万貫というとてつもない巨額であった。

『輝元公上洛日記』には輝元が行く先々で太刀や馬、織物などを献上している記述が散見されるが、このようにとかく上洛には莫大な経費が必要だったのだ。

この頃北条氏は、もう一方では上方勢との戦を想定し、「御国」論を持ち出して国人や民衆を動員し城の普請などをさせていたが、その上でこの降って湧いたような金銭納入の命である。
彼らの負担はいかばかりであっただろう。


同月二十九日、上洛の目的を果たした氏規は帰路につく。
氏規が初めて目にした上方は、どう映ったのだろうか。
0242人間七七四年2012/09/01(土) 06:18:32.83ID:Qio4EGrC
>>241
二十四日って、輝元の腹痛じゃなかったっけ?
0243人間七七四年2012/09/01(土) 07:25:02.88ID:Q21KM4zv
利家は呼ばれなかったの?
0244人間七七四年2012/09/01(土) 13:41:33.02ID:ITo08+S8
蜂屋頼隆の扱いの悪さが泣ける、織田家でそれなりに偉かったのに長谷川より格下に
0245人間七七四年2012/09/01(土) 15:06:14.15ID:QKHJWgYH
蜂屋頼隆って織田家中では明智羽柴田丹羽滝川に次ぐナンバー6ぐらいだっけ?
0246名無しさん@お腹いっぱい2012/09/01(土) 16:35:42.04ID:Rj3NcUa6
>>245
ナンバー6は池田
ナンバー7が森
あと蜂屋・河尻・蒲生・堀といった感じだと個人的には思うんだが
0247人間七七四年2012/09/01(土) 16:39:43.40ID:z/JtvVRv
稲葉はナンバー10には入りませぬか?
0248人間七七四年2012/09/01(土) 16:42:52.24ID:ynPbw/cB
木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
佐久間さんも折檻状以前は
0249人間七七四年2012/09/01(土) 17:34:22.03ID:HwyrRaLG
>>242
指摘ありがとう
今確認したらそうだった
>>243
利家は呼ばれてない

蜂屋頼隆は秀吉に反抗的だったからだ、と見てる。
確証はないけど出羽の検地に反対した逸話も残ってるし
0250人間七七四年2012/09/01(土) 17:57:10.36ID:i3ZGQ34M
蜂屋頼隆は馬揃えで丹羽に次ぐ2番手だったりでそれなりに良い地位だったよ
ミニ丹羽という感じで信長の手元に置かれてて一軍を率いるとか無かったけど
0251人間七七四年2012/09/01(土) 18:07:50.40ID:+XZS9WnT
毛利長秀って誰かと思ったが鬼武蔵にやたら喧嘩売られてた毛利秀頼か。

彼と長谷川は意外と秀吉政権じゃ席次高いな。
0252名無しさん@お腹いっぱい2012/09/01(土) 18:20:15.90ID:Rj3NcUa6
>>247
そうそう稲葉が居たね。指摘サンクス。

>>250
調べたら蜂屋がナンバー6で実質の摂津国主だったらしい。てっきり池田や森の下と思ってた。
となると本能寺前の織田家臣団の序列は明智柴田丹羽滝川羽柴蜂屋と来て
後は異論あるだろうけど直臣限定なら池田・森・河尻・稲葉・蒲生・斯波毛利・堀あたりが来るかな。
ちなみに蜂屋は小田原開城の前年に死去。養子の直政(丹羽長秀四男)は夭折しており無嗣断絶。
ちなみに後任の敦賀城主は大谷刑部が継いだんだよな。
0253人間七七四年2012/09/01(土) 19:35:31.61ID:cUj0XLMV
毛利長秀って羽柴姓、豊臣姓を許されてるんだ
で、息子が毛利秀秋だから
羽柴長秀、豊臣秀頼の息子が豊臣秀秋ってことになるのか
大和大納言も木下長秀だった時期があるからなんかややこしい
0254人間七七四年2012/09/01(土) 20:02:49.04ID:HwyrRaLG
>>253
しかも彼の名は秀頼とも伝わるから更にややこしい
0255人間七七四年2012/09/01(土) 20:36:41.25ID:ICdBVRYx
質問、織田家臣団で明智柴田丹羽滝川羽柴蜂谷ってあるけど前田利家は織田家臣じゃなかったんでしたっけ?
0256人間七七四年2012/09/01(土) 20:39:11.13ID:k1WPtt6k
>>241
北条はあまりにとんでもない額を集めようとしたせいで上洛するのが遅れたとかあるのかね…
0257人間七七四年2012/09/01(土) 20:43:58.66ID:ZvfOcQp0
>>255
席順がもっと下って事だろ
0258人間七七四年2012/09/01(土) 20:50:55.73ID:F8ldVIZh
蜂屋は馬回り出身だっけ?
本能寺がなければどこまで栄達したことか
0259人間七七四年2012/09/01(土) 20:58:30.94ID:ynPbw/cB
もし金吾が毛利家の養子に無理やりくいこんでたら
毛利秀秋となってさらにややこしく
0260人間七七四年2012/09/01(土) 21:18:29.13ID:dVdmqx/a
>>252
本能寺直前だと丹羽って一段落ちないか?
どこかを任される訳でもなく援軍とか副将とかだし
0261人間七七四年2012/09/01(土) 21:30:24.74ID:cf7vLbfH
支店長と本社本部長のどっちが偉いか的な
副将してる時の大将も信長の信孝とかだったりするし
0262人間七七四年2012/09/01(土) 23:53:22.33ID:KntcF8d0
関ヶ原の際上田城に帰着した真田昌幸は
家老・士大将・物頭を残らず集めると「此の度秀頼公へ御味方申すに於いては、甲信上三国を給ふべし」という証文を皆に見せた。

そして昌幸は家臣たちの知行を約束した。
禰津長右衛門には小諸で6万石、矢沢但馬には矢沢の城付きの知行
小山田壱岐には松本に7万石、その他の家老たちにも伊那・高遠などで城付きの知行を与えると申し渡し
丸子右衛門に諏訪3万石、昌幸の弟金井高勝や昌幸の三男信勝にも信州のうちで知行を分けた。

さらに士大将達は皆知行の倍増し、手柄次第でのさらなる加増を約束
騎馬、徒歩を問わず侍、足軽、中間、小者、百姓、町人といった全領民に対しても
「此の度の働きに付いては、敵の首一つに知行百石を宛与ふべし。偽り有るべからず」と申し渡した。

この為真田家の者たちは勇むこと限りなく、城内の普請を始め城下の外町筋を焼き払った。

『翁物語』
―――――

なお現存する三成から昌幸宛ての書状には「国数を拝領できるだろう」とあるのみで
具体的な国名等は挙げられていません。
0263人間七七四年2012/09/01(土) 23:59:52.06ID:KntcF8d0
すみません、ちょっと修正です。
×丸子右衛門
○丸子三右衛門
0264人間七七四年2012/09/02(日) 00:02:10.93ID:cw/PlS1L
律儀もののお兄ちゃんがわざわざ残すから
0265人間七七四年2012/09/02(日) 00:34:56.49ID:H7zQZ2qF
>>262
八月五日付けの三成の書状では「小諸、深志、川中島、諏訪」の所領を約束してたね
それと、切り取り次第ともどこかの書状あたりで書かれていたと思う
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています