戦国ちょっと悪い話33
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0001人間七七四年
2012/08/14(火) 19:13:27.50ID:90iWq5dq戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2012/08/15(水) 01:14:29.39ID:meBddRE4骨折り!
0003人間七七四年
2012/08/15(水) 13:40:32.41ID:KpQmkjq1スレ立て大儀であった!
お歴々が一風呂馳走したいと申しておるぞ
蒲生レオン「俸禄が払えず申し訳ない、心ばかりだが湯の加減にはいささか自信がある」
前田慶次郎「加賀大納言様も身を震わせて喜んだ自慢の風呂がござるぞ」
武田信玄「駿河から霊峰富士山を見ながらの風呂釜もよいぞ」
超時空太閤「いやいや三条河原で風呂釜に浸かれば極楽浄土も見えるぞよ」
鬼作左「当家は御主君が吝嗇なので釜はないがお家の周りに薪を積んで蒸し風呂の用意をしておいたぞ」
0006人間七七四年
2012/08/15(水) 23:22:04.60ID:qxrimqnS上杉定正「何やら風呂場が騒がしい?其方のために余興を用意しておる。ゆるりと湯に浸かって待つがよい」
0007人間七七四年
2012/08/16(木) 02:21:37.85ID:YABYJJ+Y0008人間七七四年
2012/08/16(木) 04:52:42.83ID:0AEbxoW10009人間七七四年
2012/08/16(木) 06:14:13.59ID:IZkuBg/j0010人間七七四年
2012/08/16(木) 17:28:57.57ID:tme3h6f2ある時、徳川家康がオコリになったことがあり、様々な治療を試みたが効果がなかった。
そんな時に病を治すことができるという者がいて、家康の病を治すために呼び出された。
ところがその者の治療法というのが珍妙であった。まず、その者は屏風の陰に立って
「さあ参るぞ参るぞ」と言うので、家康は「何をするつもりだ」と笑った。
すると今度は丸く括った帯を蛇のようにして投げ出したので、家康はただ可笑しく思って
いるだけで、病気はまったく治らなかったということだ。
身分の低い農民などの療法を家康のような高貴な人に使って、病気を治し大手柄を立て
ようと考えるとは、滑稽な話である。
慶長五年の七月頃に家康はオコリになったというから、これはその頃の話であろう。
――『徳川実紀(古老夜話、武徳編年集成)』
0012人間七七四年
2012/08/16(木) 17:59:07.21ID:Vp2XNNtA信長だったら世を欺く輩と言って成敗するんだろうな、と思うと
そのあたりがいい悪い別にして、君主としての違いにもつながるんだろうな、とか感じた
0013人間七七四年
2012/08/16(木) 18:57:24.19ID:Xpp3CHsJ危ないもんにかかってたんだな
0014人間七七四年
2012/08/16(木) 19:38:04.14ID:eY6iCOv1梅毒もこの頃からか
0015人間七七四年
2012/08/16(木) 19:50:01.63ID:IOF/2KPf0016人間七七四年
2012/08/16(木) 19:55:22.47ID:FaHuI2bTそれより前から流行してたのか>穴山梅毒
しかしコロンブスから100年で日本までというのがすごいというのかなんというか
と思ったら日本での初発は1512年だった(20年で全世界一周)
0017人間七七四年
2012/08/16(木) 20:27:56.49ID:QB5cLZmC0018人間七七四年
2012/08/16(木) 20:37:07.70ID:0AEbxoW10023人間七七四年
2012/08/16(木) 21:40:52.87ID:Vp2XNNtA応仁の乱の原因の一人でもあった畠山義就の母親は京の高級娼婦で、小笠原氏や飛騨江馬氏の所でも
子供作ってるな。全部お家騒動の元になってたりw
0024人間七七四年
2012/08/16(木) 23:27:30.00ID:FaHuI2bT畠山と小笠原のネタもあるが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4375.html
明智光秀の姪であり、細川持氏の妻として細川真之を産み、
持氏の仇である三好義賢の妻となり三好長治と十河存保を産み、
三好長治の後見である篠原自遁と通じ、
三好長治を攻め滅ぼした長宗我部元親の妻となり長宗我部右近大夫を産む
0025人間七七四年
2012/08/17(金) 00:05:08.29ID:1W5Q48/b0026人間七七四年
2012/08/17(金) 00:07:05.46ID:1W5Q48/b0027人間七七四年
2012/08/17(金) 00:11:00.96ID:5Q/YZoeZ→キニーネ発見されてないからマラリアで死ぬ
0028人間七七四年
2012/08/17(金) 00:39:43.40ID:fW9/cU2G1492年のクリストファー・コロンブスの新世界の「発見」にちなむ梅毒の伝搬は、
アジアへはヴァスコ・ダ・ガマの一行が1498年頃インドにもたらし、
日本には永正9年(1512年)に中国より倭寇を通じて伝わったといわれている。
20年じゃん。
0030人間七七四年
2012/08/17(金) 00:51:42.76ID:fW9/cU2G「コロンブスから100年で日本までというのがすごいというのかなんというか」
とあるが?
0031人間七七四年
2012/08/17(金) 00:52:46.87ID:5Q/YZoeZ100年云々は朝鮮出兵が1592年だったから
0035人間七七四年
2012/08/17(金) 08:24:45.84ID:70AveL260037人間七七四年
2012/08/17(金) 09:12:21.31ID:s1NXtKt3やることやってもお腹が目立たなければ当人同士の秘密でなんとかなるけど・・・
まぁ、オレの勝手なイメージなんだけどなw
0038人間七七四年
2012/08/17(金) 09:31:27.52ID:b/bErpYT農家だって飢饉の時以外は貴重な労働力、只で手に入る奴隷。
0039人間七七四年
2012/08/17(金) 09:42:53.12ID:YzapWMBg0040人間七七四年
2012/08/17(金) 10:23:28.76ID:70AveL26多いに越したことはない、自分の家のためだけじゃなくて、
親類縁者の家の跡継ぎが居なくなったらそこに放り込まなければならない事もあるんだから
0041人間七七四年
2012/08/17(金) 11:56:19.03ID:3PfqAZyYてか、コンドームの語源って人名説があるんだw
0042人間七七四年
2012/08/17(金) 12:42:37.18ID:+RMGFM/e分かった、昨今流行(?)の笑って免疫力をあげようっていうアレだよ!(えー
0043人間七七四年
2012/08/17(金) 12:44:21.04ID:+RMGFM/e0044人間七七四年
2012/08/18(土) 11:02:23.63ID:vWaaEVUX人間だもの
0045人間七七四年
2012/08/18(土) 11:39:05.87ID:WXlhiGsE0046人間七七四年
2012/08/18(土) 14:04:03.68ID:q5nYetVq御他界なさるまでに百萬両に達する貯金を作られた。
その内から尾張殿と紀伊殿に三十万両づつ、水戸殿へ十万両を御遺金として進呈され、残りの三十万両は
江戸の御金蔵に入れておくべきか伺いを立てたところ、そのまま駿府に残しておくように、とのことであった。
大納言忠長卿(秀忠次男)が駿河を拝領された時、この三十万両はおそらくお城に付いているものであると
皆思っていたが、この資金の所属についての明言がなかったので、忠長は幕府の御金を預かるのは迷惑であると
申し入れ、久野の御宮に御金蔵を作りそこに移した。これを世間では久野の御金と呼んで莫大な額があるように
言っていたが、ただ三十万両ではなかった。
それは尾張殿の江戸上屋敷が失火で消失した時の普請料として十万両、紀伊殿の和歌山城普請の時に十万両、
水戸殿には三万両を、それぞれ拝借が認められ、その後少しずつでも返済いただきたいと、幕府の勘定方から
お願いすると、尾張殿からの返答は
「私が拝借した御金はもともと権現様がご隠居料の中から貯えられたものであり、ご他界された時、遺金として
我々兄弟三人への御譲金の残りであり、それを我々が拝借したのだから返納する必要はない!」
と拒否し、紀伊殿、水戸殿も拝借金に対しては沙汰無しとなってしまった。
当時はその他の大名衆にも拝借金が認められていて、それぞれの借金は決まった通りに必ず返済されていた。
ところが伊達政宗の借金返済が滞ったので、これまた幕府勘定方より催促したところ、陸奥守忠宗からは
「私の代では拝借をしておらず、亡父政宗の代に借金があったとのことですが、どういう経緯で借金をしたのか
今は解りません。親の代に借りた御金ですから、親が生存しているうちに返上を申し付けられるべきなのに、
その時は放置しておいて私に返上しろとは、全く迷惑な話です!」
そう言って返済しようとしない。
また譜代大名の松平越中守の方でも拝借金返済が滞っており、これにも勘定方から催促すると、越中守は
「前に拝借した時、私の方からさし上げた証文があるはずなので、それを見えてもらえるか?」
と言うのでこれを取り寄せると、越中守はそれを見て
「うむ!私の覚えているとおりだ!皆もここに見えているように、『御貸し下され有難く存じ奉る御金の事』と書かれている。
これは『拝借を仰せ付けられた』とは私の解釈では『拝領を仰せ付けられた』ということなのだと考え一言書いたものである。
従ってこれは、返上の必要はないと思う。」
と、これもまた返済しようとしない。
この様なことがあったので、幕府からは今後もう、諸大名への拝借金は認めない、と言うこととなった。
(駿河土産)
言を左右にして何とか借金から逃げようとする大名たちのお話である。
0047人間七七四年
2012/08/18(土) 14:15:07.86ID:XzgT6NJu0048人間七七四年
2012/08/18(土) 14:17:17.73ID:uY5jsbIY0049人間七七四年
2012/08/18(土) 14:30:28.20ID:HjX195iS借金を理由に伊達を取りつぶせばよかったのに
抵抗したら奥州征伐で。あの時代の武士って戦無かったからちょうどいい演習になるしな
0050人間七七四年
2012/08/18(土) 14:33:13.22ID:lBc6ZGAR戦を経験した人も少ない時代だろうし
0052人間七七四年
2012/08/18(土) 15:28:20.03ID:UpumMJAU0053人間七七四年
2012/08/18(土) 15:52:49.91ID:Wbfacg1H幕府が伊達とケンカして米の流通滞ったら物価経済の混乱で借金額なんぞとは
比較にならん損失出るんじゃね?
0054人間七七四年
2012/08/18(土) 16:42:22.73ID:nlJ9mhVm0055人間七七四年
2012/08/18(土) 23:04:37.98ID:aSk0UUbR全部取潰してやればよかったのに
0056人間七七四年
2012/08/19(日) 02:10:15.36ID:v7aAzoIl幕府としても、金のことで揉めるのはみっともないという考えがあったのかもね。
現代の感覚だと借金はどんなことをしてでも返さないといけないって感じだけど
当時の感覚とは相当な隔たりがあるんだろうな。
0057人間七七四年
2012/08/19(日) 03:45:56.60ID:wK/xOXfA0058人間七七四年
2012/08/19(日) 04:00:28.72ID:VzY311M/0059人間七七四年
2012/08/19(日) 10:06:15.52ID:+GSIWw/p0060人間七七四年
2012/08/19(日) 10:53:47.82ID:7Kz0Em/i00611/2
2012/08/19(日) 13:17:21.55ID:YECCYDjF賭博の禁止を、厳重に申し付けた。
ところが桂菊右衛門と言う無足の者、法度にも関わらず毎晩他家に忍び出て博打を打っていた。
ある夜の事、菊右衛門は博打に勝って金・銀・刀・脇差など数多を取り、これらを雨羽織に包んで
打ち担いで帰る道、夜も明けようとしていた。
この道は如水が出仕のため通る道であり、行き合ってしまっては都合が悪い。如水が出仕の前に
帰ろうと道を急いだ。仮に行き合い、問い詰められたら、博打打ちに行ったわけではないと
言い訳しよう。その様に考えながら前の方を見ること無く急いでいたら、町の境目で
バッタリと行き合ってしまった。如水と。
菊右衛門大慌てである。心の準備もないまま出くわしてしまったのだ。パニックになった彼は
かの刀を担いだまま這いつくばり、聞かれもしないのに大声でこう叫んだ
「私は博打を打になんか行っていません!!!」
如水は、何も聞かなかった体で菊右衛門の横を通り過ぎた。
さて煩悶この上ないのが菊右衛門である。
「なんてことだ!あんなに取り乱してしまって、どうしようもないではないか!
この間法度を厳しく申し付けられたばかりだというのに…。きっと私は切腹を申し付けられるだろう!
こうなったらもう是非に及ばない。菊右衛門の奴は狼狽えてたわけたことをしたと、死後にきっと
馬鹿にされる!返す返すも無念だ。…どうしよう?」
そう思い悩んで長屋に帰り、すっかり草臥れていたのに寝入ることも出来ず、布団を打かぶって
まじまじとしていた。きっとガタガタ震えていたのだろう
さて、菊右衛門の大胆な告白を目の当たりにした、如水の出仕の時に供に付いていた者たちは
「おいおい何てことだ?コレはどうなっちゃうんだろう?」と、如水の出仕中座り込んで
囁きあった。
「絶対只じゃ済まないぞ。この間の博打禁止の法度は、普段よりも厳しく申し付けられた。
切腹は疑いようもないなあ…。」
そう考えると不憫に思い、供より帰ると直ぐに菊右衛門の部屋に我も我もと見舞い、さて、これからどうしよう
と話し合ったが、皆意見はまちまち
「とにかく逃げ出す以外はない!仰せ出される前に逃げろ!」という意見に菊右衛門
「いやいや、逃げ出すなんて出来ないよ。今朝すぐに逃亡しておけばどうって事も無く逃げ切れたの
だろうけど、あなた方が帰られ、こんなふうに相談してから逃げ出したら、あなた方が後から必ず
詮索を受けるよ。そうなったら私の逃亡先はバレて、またここに戻らされるだろう。
もう、とても逃れられない道だ。切腹を申し付けられたら外聞が良いように斬らせてくれ。」
そう行って逃げないことに決めた。傍輩達への信頼感はゼロである。しかし傍輩達
「そう思うのも理屈だけど、お前が逃げちゃえば、上から詮索受けても俺たち随分凌いでみせるぜ?
それでもどうしてもダメだったら、ま、その時は出てきて腹を斬れ。
そうした方が武士の手柄としても上だろう。さあ、急いで逃げる準備をしろ!急げ急げ!」
そんな風にしている所に突然、如水より御側衆の緊急の呼び出しがかかった。
すわ何事か!?何が起こったのか、もしや早くも菊右衛門の切腹の事かと口々に悔やみつつ、
取るものもとりあえず駆け出し集合してみれば、何のことはない、中間たちに居間の庭に竹垣を結ばせたが、
その結び様の手際が悪く、あれをほどいて手際よく結び直せ、との仰せ付けであった。
さては菊右衛門の事ではないと何れも安堵した。
0062人間七七四年
2012/08/19(日) 13:18:12.04ID:YECCYDjFガタガタ震えていたが、一人走り戻ってきて
「博打のことじゃないぞ!垣を結べという事だ!」
と報告したので、菊右衛門、そして一緒に残っていた者たちはホッとして大息をついた。そして菊右衛門
「こういう仕事にはいつも出ている私が、ここで引き込んでいるというのも良くないだろう。
もう手討ちにあってもしょうがないさ。あなた方と一緒に行くよ。」
と言い出したので、傍輩たちも「それも尤もだ」として共に竹垣の直しに向かった。
さて、如水は居間の縁側からそれを見つけると「菊右衛門!菊右衛門!」と高々と呼んだ。
傍輩達はこれに
『すわ、博打の事だ!不安だなあ。だけども如水様は家来を手討ちにはしない人だ。その上
他家での手討ちをいつも批判しているほどなので、まさかここで私が手討ちにされることは
無いだろう。いつもみたいにしたたかに叱りつけると言う事なのだろう。
上手く行けばここで、この件に関しては埒が明くぞ!』
そう思いながら尻目に見ていると、菊右衛門はいかにも近くまで呼びつけられ何事か囁かれた。
傍輩達『これは博打のことではない。何か隠密の用でも仰せ付けられるのか?
それとも如水様は彼の常日頃の心立てをよくご存知なので、菊右衛門に直に申して、埒を明けて
下さるのだろうか?おや?菊右衛門も何か申し上げているぞ?多分博打のことだな。
如水様が申し開きを聞いてくださっているのだ。あら嬉しや』
そう囁き合っているうちに、如水から
「竹垣を直し終わり、掃除をしたら皆々帰って休め!よく骨を折ってくれた。上々の竹垣である。
これには気に入ったぞ!」と、悦びを伝えた。
彼らは庭を出るやいなや菊右衛門に「何事を囁かれたのか!?」と尋ねた。すると菊右衛門
「あの事ですよ。お前、昨夜は博打を打にどこに行ったのかと聞かれたんだ。
どこどこの殿の家中に参りましたと申し上げると、
『どうやら勝ったようだな。刀、脇差の他、金をどのくらい取ったのだ?』
私は五百目程取ったのだが、如水様の常日頃の気質を知っているので
『一貫目あまりだと思います。今朝からは殊の外悩み苦しんでいたので、金ももはや要らぬものと思い
打ち捨てていたので詳しくはわかりません』
と申し上げた。すると如水様は手を打って喜ばれ
『先ずは勝ったか!でかしたぞ!しかし小金を要らぬものと思うのも当然だ。法度を厳しく言いつけたのだから、
お前のやったのは近頃は危ないことだ。
まあ、お前が今朝のようなたわけた事をしたのも、法度を常々恐ろしく思っているゆえだろう。
それ程に思っているのなら、今後はいかなることも法度に背いてはならぬ。
良いか、何でも物事というのは、良い事の次には悪い事があるものだ。勝った時はしっかりとそこに留まれ。
お前の身体にとって昨晩の勝ちは重々しいことだ。今後お前の身代が擦り切れたと聞いたら、罰を
与えるぞ!構えて構えて、博打を打ってはならぬ。むざむざと物を人に与えて、身代が擦り切れないようにせよ。』
そう、念を入れて仰っられたのだ。」
菊右衛門ははその仰せを肝に銘じ、誓紙にするまでもなく、博打をやめた。
その後彼は如水より知行を与えられ、身体に過ぎる富貴を得、年老いて子に知行を譲り、一生楽をして
80歳に及んで死んだという。
桂菊右衛門が博打のバレた顛末、についての逸話である
(古郷物語)
0063人間七七四年
2012/08/19(日) 13:32:07.55ID:w2Dv+0c1http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-873.html
の詳細・別出典版というのかな。詳しくありがとう。
個人的には時間的に遠い被りは気にしないけど・・・
やっぱいい話なんじゃね?w
0064人間七七四年
2012/08/19(日) 16:13:47.86ID:0+MweGva0066人間七七四年
2012/08/19(日) 16:37:06.28ID:C2GDjp0Kなんて逸話ありませんかねえ・・・
0068人間七七四年
2012/08/19(日) 18:35:59.81ID:BwQaCWrcところでロミオとジュリエットを日本で置き換えるとどことどこが相応しいかな?ガチで中が悪いというと三才さんのとことngmsとか津軽と南部とか、他あったっけ?
0069人間七七四年
2012/08/19(日) 20:37:21.36ID:FqR7YSwH飛騨の豪族たちは、時に争いながらも表面的には友好関係を保っていた
しかし越中から上杉謙信、信濃から武田信玄の脅威が迫ってくると、彼らもどちらかに付かざるを得なかった
南飛騨の三木氏が上杉氏と強く結びついたのに対し、北飛騨の江馬氏は主に武田氏寄りの立場を採った
江馬氏は執権北条氏の末裔を自称し、飛騨国高原郷(飛騨市神岡町)を中心に飛騨北部に勢力を持った。
戦国時代後期の当主・時盛は信濃から進出してくる武田氏と結び、三木氏と対抗していたが、息子の輝盛は越中国中地山城にあり、
上杉氏へ近づこうと考えていた
こういった考えの相違から、時盛は輝盛の弟・信盛を当主に据える動きを見せており、親子の対立は避けられないものとなっていた
天正元年、遂に輝盛は時盛を殺害して高原郷の本城を支配した
次いで弟の信盛を甲斐へ追放、他にも後継候補であった従弟の慶盛を攻め殺し、完全に実権を握った。
その後は三木氏と共に上杉氏に属した。
(武田信玄死去の情報を上杉氏へ伝えたのは江馬氏家中の者から河田長親へ宛てた書状である)
しかし、信玄と謙信の死、そして両氏の勢力減退、さらには織田信長の横死という激しく動く情勢は輝盛の野心に火を付けた
当時三木氏は織田氏と通じており、その織田氏という後ろ盾を失った三木氏に輝盛は決戦を挑んだのである
兵力の劣る三木氏は小島氏らと結んで迎撃、「飛騨の関ヶ原」とも言われる八日町の戦いとなった
父を殺し、従弟を討ち、弟を追った男の最期は、三木勢の放った銃弾であった
高原郷へは勢いに乗った小島時光が攻め寄せ、江馬氏は滅亡した
この抗争に打ち勝った三木氏は、これまで協力していた諸氏や自身の一族までも滅ぼし、飛騨国内の大半を手に入れるのであった
0070人間七七四年
2012/08/19(日) 21:21:06.58ID:nopW7FZ10071人間七七四年
2012/08/19(日) 21:35:19.84ID:7qY+8Hxyでもあんまり概説とかは主旨に反するよね
創作とかは言うまでもなく
0072人間七七四年
2012/08/19(日) 23:03:49.44ID:sareDJhY0073人間七七四年
2012/08/20(月) 00:50:45.88ID:k6Fhdk0nところで、小島って国司家の姉小路傍流なのかな?
それとも無関係の一族?
0074人間七七四年
2012/08/20(月) 01:43:44.42ID:4RWe1OET0075人間七七四年
2012/08/20(月) 20:01:12.92ID:TvH0cv810076人間七七四年
2012/08/20(月) 22:34:44.64ID:k6Fhdk0n0077人間七七四年
2012/08/20(月) 22:45:48.38ID:MumgZtZW0078人間七七四年
2012/08/21(火) 07:29:28.62ID:A3Ki2MCkあーでもこの時代は食わんよな
0080人間七七四年
2012/08/21(火) 08:04:12.99ID:7GiGOlWx0081人間七七四年
2012/08/21(火) 08:32:24.20ID:VlFlRE4n0083人間七七四年
2012/08/21(火) 15:46:35.16ID:MQ1+/the0084人間七七四年
2012/08/21(火) 16:33:17.47ID:F9rxcNHt人口の割に収入はあるイメージだな。まあ、隣国などとの交易も大変そうだけど。
0085人間七七四年
2012/08/21(火) 16:39:45.00ID:QMn0xiiF当然の事、幅は狭いし、短い間隔で道路工事やってたもんだからトラックも結構通るなから、なかなかスリリングで楽しかったw
0086人間七七四年
2012/08/21(火) 17:07:16.77ID:hUkpucKK観光で行くにはなかなか素敵なところだけど、住むとなるといろいろ不便ではなかろう
か、と思ったり
俺が戦国武将だとして、もし、
「こたびの働き見事であった!加増してつかわす。○○国××郡に代わり、飛騨一国を与える!」
とか言われたら「ははぁ〜有り難き幸せ」とか言いつつ、内心ビミョーなんだろうなw
でも、外敵には強そうだな。勝手知ったる地元の兵を動員してゲリラ戦に持ち込んだら
多少の大軍は撃退できそうなイメージ
0087人間七七四年
2012/08/21(火) 17:13:16.00ID:YGXQo3yb小大名クラスならかなり美味しい話かも。
結局木材の安定供給のために木曽共々天領になっちゃたけど
0088人間七七四年
2012/08/21(火) 17:48:21.55ID:fo8flQkM0089!ninja
2012/08/21(火) 17:58:33.84ID:3RAewFho忠興「このDQNが!」
どっちかいうと、兼続さんの方がそんなん得意そう。
TERUさんでもいいけど。
5人目に返せと言われ、家臣が決死で酒飲んで死んで、許してもらう。
0090人間七七四年
2012/08/21(火) 22:23:34.59ID:Kci/xxnv0091人間七七四年
2012/08/22(水) 00:09:48.07ID:5xjuHDDUそんな禿山にしたり統治に必要な資料ないないしたりはしないよ
むしろ景勝にべったりで会津移封から米沢減封まで自領である米沢放置状態だったのが
米沢にとっては悪い話(一応父ちゃんが城代してたけど)
0092人間七七四年
2012/08/22(水) 01:11:38.52ID:vzhmPES2連戦連敗のどこぞの猫抱き爺よりも凄いおかたぞ
0093人間七七四年
2012/08/22(水) 01:52:47.69ID:PcqlKZI+まあ確かに「天嶮」だわw
保木脇に帰雲城を築き、とは向牧戸の看板に書いてあったけど、攻める気が起きなくてもおかしくないレベルだったんだろうなあw
でも越中西部の砺波まで勢力下にあったと書いてあったから天嶮に籠もってばっかりだった訳じゃないんだろうね
0095人間七七四年
2012/08/22(水) 09:58:04.87ID:gIVvrAPUある時、三の丸にて不義密通をしたものが出たので、鍋島直茂は詮議の上、男女とも死罪とした。
ところがその後、この男女の幽霊が毎晩現れるようになり、城の女中衆は怖ろしさのあまり、夜になると
部屋の外には出ないほどであった。
この様なことがしばらく続いたので、御前様(直茂正妻・陽泰院)に申し上げたところ、慰霊のため祈祷や施餓鬼などを
するよう仰せ付けられたが、これらをしても幽霊の出現は止まなかった。
そこでついにこの事を直茂公に申し上げると、直茂公はこれを聞かれて
「さてさて、なんと嬉しいことだろうか。
あの者たちは首を斬っても足らないほど憎き者たちであった。そうであった所に、あの者たちが死んでも
行くべき所にも行かず、迷い廻って幽霊となり、苦しみ続けているというのは実に嬉しいことである。
なるほど、かまわないからずっと幽霊としてこの城に居ればよい。」
すると直茂がこう言ったその夜より、幽霊は出なくなったそうである。
(葉隠聞書)
幽霊よりもずっと恐ろしいのが戦国大名なのだ
0096人間七七四年
2012/08/22(水) 10:16:10.99ID:IMOYF7SG0097人間七七四年
2012/08/22(水) 10:19:53.88ID:g0PnSKOFと言われたらどんな返しをしたんだろ
0098人間七七四年
2012/08/22(水) 11:51:51.30ID:P9b1b+0F0099名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/22(水) 11:55:48.94ID:P4yn8byU>>97
鬼武蔵「そこへ直れ。この人間無骨の餌食にしてくれるわ」
三歳様「そこへ直れ。この歌仙兼定の餌食にしてくれるわ」
0100人間七七四年
2012/08/22(水) 12:01:35.89ID:PpggZvH7猫缶を準備する義弘様
0101人間七七四年
2012/08/22(水) 14:24:21.71ID:Hb83kX6S家久(悪)「正室とのみ愛し合わないといかんぞ!」
0102人間七七四年
2012/08/22(水) 17:45:58.08ID:8sNJcG3T0103人間七七四年
2012/08/22(水) 19:01:33.53ID:eIKmHs790104人間七七四年
2012/08/22(水) 21:05:50.29ID:GhOqlR3z0105人間七七四年
2012/08/22(水) 21:26:33.15ID:vchVMVkx0106人間七七四年
2012/08/22(水) 22:05:48.45ID:BEL8Vltyあと犬が自分以下だと判断した人間に対しては割と厳しい
0108人間七七四年
2012/08/22(水) 23:38:21.41ID:5d4D5QsUあれは農閑期だから兵を出したんじゃねーよ。謙信の書状にもあるが、古利根川の増水期を
避けだだけだ。増水期に大軍勢で無理に利根川渡るのは難しかったから、それを避けた。それだけの話。
帰国も農繁期に合わせたのではなく、再び増水期に入らないうちに帰っただけだ。
0109人間七七四年
2012/08/22(水) 23:38:56.38ID:jqfPcNhz家庭内で一番強くないと自動的に犬以下が確定しちゃう
0110人間七七四年
2012/08/22(水) 23:39:59.26ID:5d4D5QsU0112人間七七四年
2012/08/22(水) 23:54:32.57ID:+4lPlYtiどっちにしても命が危ないな
0114人間七七四年
2012/08/23(木) 17:42:28.64ID:0hZ60kwz用いなかったため、その領地を尽く失ったことは、尊師の既にご存知のところです。
彼はそれ以来五畿内のキリシタンに対し、心底からの憎悪の念を抱きました。
信長の死後、彼は大いに謙遜を示して羽柴殿(秀吉)に仕え、他の小姓と等しく茶の用を務めていました。
そして彼は海の司令官アゴスチニョ(小西行長)とその父が羽柴殿より寵を受けるのを妬み、
羽柴殿の前で密かに、また極めて巧みに彼らに対する重大なる偽の証言をしたのです。
彼が巧妙にこれを為したため、羽柴殿はこれを信じ、ジョーチンとアゴスチニョ父子の任を解き、
全キリシタンに大いなる打撃と恐怖の念を与えました。
ですが我等の主デウスは罪なきものに慈悲の目を向け給い、荒木は大いに信用を失い、
ジョーチンとその子アゴスチニョは最初に地位に復帰したのみならず、今はさらに恩寵を加えられ、その収入もまた
倍増するに至っています。
その荒木が羽柴殿と共に茶の湯の場にあった時、羽柴殿はジュスト(高山右近)の事について、その類い稀な
才知と善良なることを語り始めました。彼は荒木にとって甚だしき敵なので直ちにこれに答えました
「そうではありません。殿下が賞賛されている所は彼が外見を偽ったものであり、心中にそのような善良さは
持っていません。」
この言葉に羽柴殿は大いに怒り、彼を呼ぶのに再び「汝」という言葉を使って言われました
「去れ!かくの如き言葉を発してはならぬ!余は彼が内心も外見も異なる所がない事を良く知っておる!」
これによって荒木は直ちに羽柴殿の寵を失い、羽柴殿は再び彼を見ることを欲しませんでした。
荒木は多数の仲介者を通じて宥免を請いましたが、羽柴殿はついに彼を許しませんでした。
そして今度の戦争(小牧・長久手の戦い)において羽柴殿が多数の人を殺した時、荒木は都において彼を軽蔑する
発言をしました。この事が大阪にあった羽柴殿の夫人の耳に入り、彼女より使者を以って厳しく譴責されたのです。
荒木は羽柴殿が帰京した後、殺害されることを恐れて、妻と家を捨てて寺院に入り坊主となりました。
ですが果たして死罪を免れる事ができるかどうか、明らかではありません。
(ルイス・フロイス・天正12年次日本耶蘇会年報)
ルイス・フロイスによって伝えられる、天正12年(1584)ごろの荒木村重の動向である。
0115人間七七四年
2012/08/23(木) 19:24:16.36ID:ijGl90yK0117人間七七四年
2012/08/24(金) 07:48:53.20ID:tZ3UYXU1フロイスの記述は貴重な歴史なのに、もう少しフェアに記述されていれば・・・
0118人間七七四年
2012/08/24(金) 10:35:02.23ID:g66CsgaYもうちょっと長生きしてればジュストが追放されるのも
見れたのに
0119人間七七四年
2012/08/24(金) 10:51:45.73ID:38zWfZKr0120人間七七四年
2012/08/24(金) 14:09:12.72ID:5n2aqATQその男は極楽に入れるほどの善行を行っていなかったが地獄に墜ちるほどの悪行も行っていなかった。
閻魔帳を何度見直しても結論は出ない、そこで困り果てた閻魔は男に訪ねた。
閻魔「お前はこのままでは極楽にも地獄にも行けない。生前行った善行を言いなさい。」
男「はい、私は生前落ち度もない親族が無礼討ちの憂き目にあったので上役に訴えました。」
閻魔「なるほど、それで?」
男「一度は引き下がりましたが、勇気を振り絞って再び訴えました」
閻魔「それは勇気ある行動だ。で、それはいつの事だ?」
男「つい、四半刻前の事です」
0121人間七七四年
2012/08/24(金) 14:10:55.05ID:V3cF1bqR0122人間七七四年
2012/08/24(金) 14:13:07.09ID:zstQDjYa0123人間七七四年
2012/08/24(金) 14:20:37.14ID:38zWfZKr0124人間七七四年
2012/08/24(金) 15:40:43.57ID:5n2aqATQその男は、昔から本願寺法主の本願寺顕如に是非会いたいと念願していた。
あるとき、御尊顔を仰げる機会があると聞いた男はついに思い立ったか
長年の夢を果たそうと新しく誂えた着物を着て本山へ向かう
そして、待ちわびている群集の中に紛れ込んだ
拵えの良い着物を着て目立てば、法主が自分に気付いて話しかけてくれるのではないかと思ったのだ。
法主は、ゆっくりと(そして男に気づく気配もなく)人々の前を歩いて来た。
そして、ひとりの乞食にその慈顔を向けると、穏やかな笑みを浮かべて乞食に何か語りかけ、通り過ぎていったのである。
男はとても反省した。
いい服を着て法主に目を留めてもらおうなんて、自分はなんて汚い考えを持っていたのだろう。
貧しき者にこそ、仏は慈悲深き目を向けるのである。
「それでも一言でもお言葉を頂きたい」
一計を案じた男は、先程の乞食に頼んで、銀一枚で自分の服と乞食の服とを交換してもらうことにした。
次の日、また法主が人々の前に顔を見せた
すると法主は乞食の服を着た男に近づいてきたのである。
「念願が叶った!」
そして、男の耳に口を寄せると、優しい声でこう言われた。
法主「昨日、目障りだから失せろと言ったハズだぞ」
男「………………」
0125人間七七四年
2012/08/24(金) 16:11:52.35ID:jDRX58de0127人間七七四年
2012/08/24(金) 16:35:49.62ID:FFaXT/Jo0128人間七七四年
2012/08/24(金) 16:53:43.14ID:fiz2RSd40129人間七七四年
2012/08/24(金) 17:03:50.72ID:qI7xjC4zつか、何で庶民で信仰を広げた本願寺なのか謎
やるなら南都や比叡山じゃね?
0130人間七七四年
2012/08/24(金) 17:10:12.11ID:5n2aqATQ0131人間七七四年
2012/08/24(金) 17:29:50.20ID:fiz2RSd40132人間七七四年
2012/08/24(金) 17:54:16.15ID:zstQDjYaその中の一人は老年の身分高い武士に嫁ぎ、名をマグダレナと言います。
彼女は王妃の秘書であり、大いに妃に重んぜられ、他の2,3人よりも親愛を受けています。
彼女はデウスが城中に置かれた一の明星であり、その行動と模範によって他の全ての異教徒を照らしています。
彼女は常に霊魂のことに意を注ぎ、甚だ多忙であるにもかかわらず、毎日3回数珠を操り、筑前殿及び夫人の前においても
少しも恥ずること無く祈祷を捧げ、他の婦人達の嘲笑を受けても、少しも心を乱さず、賢明に、親しく彼女らと
交わっておられます。その様であるので宮殿の婦人たちは全て彼女を頭に立つものとして遇し、羽柴殿すらも
彼女の正しい行動を認め、また王妃は日々一人で彼女と相対し、常々我等キリシタンのことを語り、また聞くことを
喜び、キリシタンの教えについて賞賛されています。彼女は常々我々の聖堂に来て懺悔を行います。
マグダレナには最愛の娘が一人あり、筑前殿は大変にこの娘を信用し、金銀は尽く彼女の手を通り、収納も分配も
全て彼女の手に委ねられています。
娘はその徳においても母マグダレナに劣ることはありません。
ところでその母が我々に語った一つの事例があります。
これは実に驚嘆すべき事であり、またキリシタンに対するデウスの大いなる摂理の認められることであります。
それは羽柴殿がマグダレナ、そしてその娘に対して、今まで手を触れた事もなく、また邪悪と認められる言葉を
用いたことがない、という事実です!
彼は城中にある他の婦人に対しては戯れるのが常のことなのに!
日本における異教の婦人の名は笑うべきものであり、信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが、
羽柴は戦争に出る前に、マグダレナの勧めに従って、全てにキリシタンの聖人の名をつけました。
それは宮廷において今もなお使われています。
(ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)
ルイス・フロイスの報告における、天正12年(1584)頃の秀吉の奥のキリシタン女性の模様である。
しかしフロイス、驚嘆すべきことがそれかよw
0133人間七七四年
2012/08/24(金) 18:19:59.83ID:jDRX58de0134人間七七四年
2012/08/24(金) 18:48:42.90ID:7BgePD+H0135人間七七四年
2012/08/24(金) 18:49:50.56ID:83IJIaEjこれって日本の史料にも残っているんだろうか。
信長ならありそうなきもするが。
0136人間七七四年
2012/08/24(金) 18:59:29.57ID:vHdPuoj/つまりルシファーか
0139人間七七四年
2012/08/24(金) 21:51:09.00ID:BBQXCVOo0140人間七七四年
2012/08/24(金) 21:59:21.50ID:Pf9MfB4zつまり洗礼名を受けて、それで呼び合う女子に対し
「バテレンに名付けられたがうれしいか。なら奴らよりさらに偉いわしが名を付けてやろう」
と男の名を付けたと。女性性の剥奪であり、凌辱に等しい、とある種の女性史家がいうかもしれん(憶測)
0141人間七七四年
2012/08/24(金) 22:06:51.61ID:38zWfZKrそれに権現様よりはマ…シ…いやいやいやいや…
0142人間七七四年
2012/08/24(金) 22:11:25.71ID:vHdPuoj/0143人間七七四年
2012/08/24(金) 22:34:04.47ID:jDRX58deフロイスから見て異教徒だからキリシタン以外の人の事じゃないか?
0144人間七七四年
2012/08/24(金) 22:56:28.71ID:R0ZUuuZI日本みたいに亀だの花だのはおかしいんだろう
0145人間七七四年
2012/08/24(金) 23:53:52.11ID:yvZUVzP+かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ
くうねるところにすむところ
やぶらこうじのぶらこうじ
ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん ばきゅーん☆
しゅーりんがんの ぐーりんだい
ぐーりんだいの ぽんぽこぴーの ぽんぽこなーの
ちょうきゅうめいのちょーおーすけ!
0147人間七七四年
2012/08/25(土) 00:06:57.86ID:BP1oUpaS0148人間七七四年
2012/08/25(土) 01:13:03.96ID:YHrjyWmz落語を期待してたら、ただの尻だしアニメだったというのが
0149人間七七四年
2012/08/25(土) 01:20:37.74ID:gUyDuL4R「荒大名の茶の湯」「真田小僧」「太閤と曽呂利」「狂歌比べ」あたりをだな
0150人間七七四年
2012/08/25(土) 01:34:02.61ID:Bzyfqp/l0154人間七七四年
2012/08/25(土) 03:04:17.39ID:kUlszAoq0155人間七七四年
2012/08/25(土) 13:38:06.23ID:yv4kpZeV0156人間七七四年
2012/08/25(土) 13:45:58.04ID:oh1wmKO7敵に対してケツを見せるのは勇者の証とか書いてた気がする
戦国時代の逸話にありそうだ
0157人間七七四年
2012/08/25(土) 13:51:08.91ID:nagH/188ってのがあるわな。
0158人間七七四年
2012/08/25(土) 13:55:21.93ID:oh1wmKO7榊原に野人扱いされた後にその行動ってことか
0159人間七七四年
2012/08/25(土) 14:10:53.11ID:M8PWV1s6この付近で合戦が起こった時、敵に追われた手負いの武士が清水にたどり着いて、そこで喉の渇きを癒している所を
追いついていた敵に後ろから刺殺された。後にその武士の慰霊のため作られたのが
この尻冷やし地蔵とされる。
尻冷やしの名の由来は、清水の上に置かれたので、こんこんと湧水により、いつも裾が濡れていたためだと伝わる。
ちなみにこの地蔵には正保4年(1647)の銘が有り、市内でも最も古い地蔵の一つとされている。
春日井に伝わる、尻冷やし地蔵のお話。
0160人間七七四年
2012/08/25(土) 14:38:34.44ID:HkrtFv0B0161人間七七四年
2012/08/25(土) 15:01:41.83ID:7azbN4jG0162人間七七四年
2012/08/25(土) 15:09:06.00ID:WaJ+vnKt0163人間七七四年
2012/08/25(土) 16:47:15.99ID:+wXBRpPWちと違うけど女陰は魔を払う力があると神代の昔から信じられてた
さらに阿片戦争で大砲不足に悩んでいた清軍は、苦肉の策として英艦隊に向けて魔除けの女陰代わりとして便器を延々と並べたんだそうな
ちなみに桃が魔除けになるのも女陰に形が似てるからなんだそうな
0164人間七七四年
2012/08/25(土) 18:16:48.32ID:YjKO5EB00165人間七七四年
2012/08/25(土) 18:23:40.32ID:NjyD/zAp0167人間七七四年
2012/08/25(土) 18:46:08.11ID:Zv/dTIwSひょっとしたら井伊家にも有効かもしれん。
0168人間七七四年
2012/08/25(土) 18:55:08.63ID:nagH/188これかw
伊藤清蔵さん大活躍
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5012.html
0170人間七七四年
2012/08/25(土) 19:01:36.16ID:NjyD/zAp0171人間七七四年
2012/08/25(土) 20:09:08.15ID:yv4kpZeV「素肌」の意味がどうこうじゃなくて、普通「○○攻め」って「○○を利用した攻め」って意味だと思うから
0172人間七七四年
2012/08/25(土) 20:50:04.00ID:YHrjyWmzご多分に漏れず漢陽も風水を基礎に街造りが行われたそうだけど、これの解説図が女性器そのものだった
で、日本総督府はこれを断ちきるように建てられていたから壊したんだとかw
0173人間七七四年
2012/08/25(土) 23:52:10.29ID:GXCoKmI+0174人間七七四年
2012/08/26(日) 01:59:26.93ID:AHjtlf5x鎧を付けてないってことです(着物は着てる)
0178人間七七四年
2012/08/26(日) 12:56:45.99ID:1IIAssB70179人間七七四年
2012/08/26(日) 13:00:17.46ID:qayyvTJ30180人間七七四年
2012/08/26(日) 13:05:23.24ID:Ua1KRJI80181名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/26(日) 14:27:50.60ID:ZuSXXKgSいずれも主君の大友義統や先代の宗麟に対して含むところがあったらしくそこを島津方に付けこまれた。
特に入田義実や志賀親度は率先して先導役を務めており豊後方面の守備は崩壊していった。
・朽網宗暦(85歳)の報われぬ奮戦
山野城は豊後南部の久住連山「黒岳」南の麓、標高750mの山中にあった大友家臣朽網氏の居城である。
これを攻めるは島津家中でも名高き「親指武蔵」新納忠元。守るは朽網鑑康入道宗暦、当年85歳。
この宗暦は「二階崩れの変」後に大友宗麟の差し金で阿蘇惟豊に殺された入田親誠(義実の父)の弟である。
朽網親満謀反で途絶えていた朽網家を継いでいた。兄の一件があったにも関わらずよく用いられていたらしい。
支城の三船城を落とされて兵達は意気消沈、自身は病床にあったにも関わらず宗暦は采配を取り新納勢に立ち向かっていった。しかし病身かつ高齢で采配をしたのが災いしたのか12月23日に病死。
嫡子・鎮則から和睦論を聞かされ憤死したとも言われている。鎮則は父と違って島津勢と立ち戦う意思は薄かったらしく、父が病死した翌日に降伏開城を決めている。
また宗暦の死は鎮則が山野城を開城降伏したことへの責任を感じて自刃したとの説もある。
・朽網鎮則たちの後日談
秀吉の九州征伐後、大友義統は島津に降伏したり開城した連中をSATSUGAIする気マンマンだった。
重臣の一萬田鑑実すらも一族の紹伝が島津に寝返ったことをケチつけられ自身は関係ないのに切腹させられている。
そんな義統ゆえに朽網氏へも当然討伐軍を向ける。これに対し鎮則や子・統直は義統への怒りがあったのか逆に敢然と戦い鎮則は自害し統直は討死した。
ちなみに入田義実は島津義久の元に逃げ込み日向に所領を与えられ、子の氏虎は関ヶ原に参陣し島津義弘や豊久と一緒に戦っている。
0182人間七七四年
2012/08/26(日) 15:04:51.12ID:R5+7sVC80183人間七七四年
2012/08/26(日) 17:36:25.59ID:tJGrlDwnその中の一人が、
「明智殿の妻、ひろ子さまこそ天下一の美女でありましょう」
と主張した。
それほどまでかと興味をおぼえた信長は、
一度、実物を見たいと思うと言うと、近習の一人が、
「家中の妻女を1日、15日の礼に出仕させましょう」
と言ったので信長もその通りにした。
当日、ひろ子が長廊下を歩いてきたところへ、
信長は飛び出してきて後ろから抱きついた。
ひろ子はまさか信長とは考えもしないので、扇で打ちつけた。
しかしながらその男のただならぬ雰囲気や眼光が気になり、
帰ってのち、光秀に城中であった事を話した。
光秀もなにか勘に触るところがあり、
それを調べてみると、その男がおそらく信長であることがわかった。
この分ではただでは済まぬと思っていたが、
それからの信長はたびたび光秀に恥をかかすことが多くなった。
それより明智光秀は謀反を考えるようになった。
『落穂雑談一言集』にある、
本当とは思えないし、本当であってほしくない逸話です。
誰か歴史に詳しい人、信憑性ないと断言してくれ
0184人間七七四年
2012/08/26(日) 17:39:37.80ID:k9t/wssG0185人間七七四年
2012/08/26(日) 17:39:55.79ID:Ua1KRJI80186183
2012/08/26(日) 18:02:48.85ID:tJGrlDwn後世の者が自分の伝えたい教訓に有名人物の逸話を利用した可能性高いとオレは思ってる
中国で言うと老荘や墨家の書物に孔子が登場するみたいに
>>185
すまんね
まとめサイトにも詳しい人いるし、
スレで長々とやるつもりはないよ
0187人間七七四年
2012/08/26(日) 18:13:23.61ID:IwdDHBaU著述だが、実際子供も多いし、艶福家だったことは確かなんだろう。
まあ落穂雑談一言集は信長の時代から100年以上後の著作でもあるし、そもそも落穂雑談一言集自体、
うわさ話をまとめてみました居程度の本なので、まあ真実味はなあw
0188人間七七四年
2012/08/26(日) 19:46:15.14ID:3SsLoMCQブスだが頭脳は公明も驚くほど明晰だったとか
美人だけど美貌目当てに言い寄ってくる相手を欺くためにブス装ってるんだとか
0190人間七七四年
2012/08/26(日) 20:12:57.87ID:lP5MBpQK最初の妻は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2441.html
↑で美人にされてる千草じゃないのか
0191183
2012/08/26(日) 20:27:34.42ID:tJGrlDwnネタ元には明智光秀の妻女とあるので千草かひろ子どちらを指すのかわかりません。
時期的に後者かと思い読みすさもあるだろうとひろ子としたことを断っておきます
0192名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/26(日) 20:41:56.76ID:ZuSXXKgS斉藤鎮実と吉弘鎮信が鎮実の妹と鎮信の弟(紹運)を結婚させる約束をしていたとか。
ところが婚礼前になって鎮実妹が痘瘡に罹ってしまってあばた面になってしまった。
それで鎮実兄妹が紹運にこの話はなかったことにしてくれと頼んだら
紹運は逆にそんなことは気にしないと言って鎮実妹と結婚したっていう話。
0193人間七七四年
2012/08/26(日) 20:57:13.05ID:vdq3zO0V0194人間七七四年
2012/08/27(月) 00:12:05.82ID:r0VeB0kP0195人間七七四年
2012/08/27(月) 00:42:16.87ID:ZXLNnHKH勝手にお父さん似だったと想像してる
0196人間七七四年
2012/08/27(月) 09:51:36.68ID:tRJmQwTr0197人間七七四年
2012/08/27(月) 14:24:22.67ID:I6J6kc6y0198人間七七四年
2012/08/28(火) 03:52:15.96ID:Yp0/ISAG0199人間七七四年
2012/08/28(火) 06:47:12.43ID:aOmWG0Hq筑前殿は日本六十五カ国において、内裏に次いで、最も富み、かつ強勢によって日本全国より尊崇を受ける大身です。
一般の噂に寄れば、彼は何事においてもその前任者信長と比べ、遥かに優越しています。
彼は単にデウスの教えに反対しないのみならず、大いに我等が聖教を尊ぶ姿勢を示し、
坊主の欺瞞の宗旨(仏教)よりも真理であることを認め、キリシタンを信頼し、常に側近にある大身等の子息が
キリシタンとなるのを見て喜ばれます。
ジェスト(高山)右近殿に対しては、毎日城中において語り、彼を賞賛し、青年にしてかくも欲を制する者はいないと
考えておられるそうです。
他にもまた、デウスの教えに対する羽柴殿の愛情と行為を我等が信じるべき、多くの確実な理由があります。
その主なものは、彼が親類及び異教徒である親友よりも、キリシタンの方を信用しているという事です。
例えば、大坂に次いで彼が有する最も良き城は信長を殺害した明智の居た城ですが、ここは彼の地位にとって
重要なものの一つであるため、彼は稀な才能を有するキリシタンの老貴族(不明)を同城の守将としました。
彼の書記官(安威五左衛門尉志門)もキリシタンです。
また海の司令官にして塩飽諸島(瀬戸内)から堺に至るまでを監督するのは、尊師もご存知の(小西)隆佐の子、
アゴスチニョ(小西行長)です。彼は今、五畿内の地方において大いなる名声と収入を有しております。
さらに羽柴殿がその身辺を守るために常にその側近においているジュスト右近殿は、この地方において
最も槍術における達人として知られています。
ジョーチン隆佐はその収入の管理者にして、茶の湯の道具を保管しています。
尊師がご存知のようにこの道具は日本の宝物であり富です。
シメアン池田丹後(池田教正)殿に対しては大いなる名誉を与え、過ぐる戦争において為したことに対し、
その地位を引き上げ収入を増やすことを約束しました。
また大和国に逐われた三箇(サンチョ)殿の子マンショを呼び戻し、その戦争における勇猛さを見て、
多くの恩恵を与えて自分に仕えさせました。』
(ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)
後に禁教令を受けて大いに非難するフロイスも、この頃は秀吉をキリスト教の外護者としていたのである。
0200人間七七四年
2012/08/28(火) 08:07:35.30ID:RaXf7quw0201人間七七四年
2012/08/28(火) 17:36:51.53ID:nmVw6k3Qある時、太田道灌の居城に一夜にして笠ほどのキノコが生えた。
人々が「物怪だ!」と驚いてこれを道灌に告げたところ、
道灌は「決して物怪ではない。湿気の深い所には大きなキノコが
生えるものだ。逆さまに生えたとしたら不思議なことだがな」と言って
動じなかった。その後、十日ばかり過ぎて、今度は同様のキノコが
逆さに生えた。人々が驚いて道灌に告げると、
道灌は「最初に生えた時は逆さなら不思議だったのだが、
今度は智恵をつけて逆さに生えたか。これは笑えるな」と言った。
すると今度は火炉の鉄輪が踊り歩き始めた。道灌はこれを見ても
「人間は足二本でさえ自由に歩けるのだから、三つ足で歩けたって
珍しくもない。
そのようなことは全て狐狸の仕業だ。狐狸めは人間にたぶらかされて
戸惑っているようだな」と冷笑するだけで自若としていた。
その後は何の怪異も起こらなくなった。
――『名将言行録』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1185.html
↑の別バージョンか?
0202人間七七四年
2012/08/28(火) 21:20:25.39ID:CxSchxLm0203こうか
2012/08/28(火) 21:23:56.15ID:CxSchxLm0204人間七七四年
2012/08/28(火) 21:52:28.56ID:jjWVqCyv0205人間七七四年
2012/08/28(火) 22:34:28.10ID:qrwWJkEUどこまでやってくれるか試せば面白かったのに。
02061/2
2012/08/28(火) 22:36:13.04ID:P8mOuui5謁見を許した。その時の模様をキリシタンの側の記録より見てみよう
『…京都の知事(板倉勝重か)は京都より駿河に至る沿道の、公方(家康)の諸役人をして
師父に便宜を与えるため、彼らに宛てた回状をパエス師に授けました。プロバンシャルは京都の学院長
モレジョン師と、彼に常に従う師父一人と、日本人の法兄弟3人を伴い、8日後、駿府から5里ほど
離れた場所に到着し、そこで幕府よりの沙汰を待ちました。そして3日後、招きを受け駿府に入りました。
上野殿(本多正純)は人を遣わして我々が無事に到着したことを喜び、将軍の寵厚きソトサブロー殿
(後藤庄三郎か)は自ら我等のところに来て、我々のために周旋する旨を申し出されました。
翌日、謁見の儀式がありました。長崎の街に関係ある、とある大事件の為数日前に到着された
ジャン・ロドリゲス師もこの式に列席されました。上野殿は取次の役を勤められ、公方(家康)は
親切なる数語を述べられました。これは正式の謁見においては著しい名誉です。
かの国君はその謁見室から退かれたあと、近臣に向かい、謁見者の日本・支那に在る、同宗の人々に対する
権威が大なる事と、年々彼が命じた事について、そのまま従っていることに付いて長く語っておられたとのことです。
ここに摂理が密かに我等に幸いした一例として、特に語るべきことがあります。
それは謁見式の当日、公方の長子にも関わらず、正妻の子でなかったために位を継ぐことの出来なかった
越前公(結城秀康)薨去という凶報が駿府まで達したのですが、上野殿は、公方が若しこのことを知れば
謁見の式は延期され接待も厚く出来ないことを察知し、国君が謁見の前にこの報に接しないよう
全力をなし、越前より来る書状は全てこれを押さえ、その上謁見の時刻を早めにされました。
これは非常なる親切であり、大いに、我ら宣教師の利益となりました。
世の人々はこれにより、君主の意志の発表を待たずして我々が再びこの国内に滞在することを
許されたと考えて良い、と言います。日本の法によれば、追放令を発した人が、追放令を受けたものを
面前に出ることを許せば、この者は再び君寵を得たと理解されるためだからです。
我々は公方の子にて後継者たる人(秀忠)に敬意を表するため、江戸に向かいました。これにも上野殿は、
その父であり将軍の最も信頼されている顧問である本多佐渡殿(正信)宛の書状をプロバンシャルに与えました。
02072/2
2012/08/28(火) 22:37:19.82ID:P8mOuui5この山は高く美しいため、日本の文士、美術家によって常に賞賛されています。
道は駿河より伊豆を経て相模に入ると、ここに日本の旧都にして、公方又は将軍の居所である
鎌倉があります。元は人家の数20万に上ったそうですが、この時は減じて、5千に満たないほどでした。
師父は2日間この地に滞在し古跡を見て回りましたが、中でも特に注意を引いたのは、
青銅の巨大な偶像が、田園の中に捨て置かれ、野鳥の休憩所となっていたと言うものでした。(鎌倉の大仏)
江戸に到着する2里前で、師父は江戸の信徒たちの出迎えを受けました。彼らは果物や食品などの
贈り物を携え我等を歓迎しました。
若き将軍(秀忠)は元来とても親切な方で、特に師父を厚遇されました。
城の最も奥の溜りの間には、帝国内で最も名高い僧が二人居ました。
一人はタイチャウラウ(大長老)、もう一人はガチャウ(学校か)と称され、彼らも将軍に
謁見するためここに訪れていたのです。京都の寺院の長老である僧侶数名もまた同室にありました。
ところがこの君(秀忠)は先に来た僧侶たちとの面会を後にし、先ずパエス師を召されたのです。
謁見式の後、本多佐渡殿、および相模殿(大久保忠隣)は師父を送って最後から一つ前の部屋に至ると、
宮中を案内するようにと命じました。この宮殿(江戸城)は壮麗であること公方の宮殿に劣らず、
装飾は黄金と最も名高い画家の手による絵画を以ってなされています。
師父が主な保護者である相模殿及び本多佐渡殿に暇乞いに行き、親切にて寛大である佐渡殿に、
日本の教会の利益を保護することを依頼し、布教の自由を求め、宣教師の説く聖法は日本の施政にも、
臣下の君主に対する服従にも、反対するところは些かも無く、全く道理に合い君主及び人民に、
むしろその義務を教えるものであることを言い添え、またこの教えは現世のために大いなる効用があり
来世のためにも更に必要なものであることを説き、佐渡殿より将軍に請うて、将軍の父君のごとく
庶民のみならず、諸侯及び貴族にも教会に入る自由を与えられることを懇請しました。
師父はこの様に好成績を得て駿河に向かって帰路につき、5ヶ月の愉快なる旅行の後、再び長崎に帰られました。』
(パジェー日本耶蘇教史)
0208人間七七四年
2012/08/28(火) 23:06:56.77ID:I+akEOZd読解力ないからどのあたりがどう悪いのか頼むわ
0209人間七七四年
2012/08/28(火) 23:12:55.70ID:P8mOuui50210人間七七四年
2012/08/28(火) 23:32:40.11ID:tbpJN4Bp0211人間七七四年
2012/08/28(火) 23:43:57.43ID:I+akEOZd結局は禁教になるからキリスト教の伝来も悪い話な
0212人間七七四年
2012/08/29(水) 13:23:10.05ID:3kFQk1eY0213名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/29(水) 21:11:01.52ID:jUvkrsnJ天正14年の豊薩合戦で大友方の岡城は島津義弘・新納忠元が率いる大軍に包囲されていた。
守るは若き北志賀家の惣領・太郎親次弱冠18歳。しかも包囲軍の中には島津に寝返った父の道益(親度)と叔父の入田宗和(義実)の姿もあった。
また祖父の道輝(親守)も宗和や道益に同心していたものの宗和や道益のような表立った動きはしなかった。
この時は道益とは逆に孫と一緒に岡城に篭城していたという説もある。
親次と道益の父子が戦ったのはヤオではなくガチだがこの二人の仲は悪かったらしい。原因として大友義統への姿勢と信仰にあった。
道益は耳川合戦の前年、義統と対立し父共々誅殺されそうにことがあったことから義統を憎んでいた。
対して親次は大友家ひいては義統に対しても純忠一途の人物であった。さらに親次は熱心なキリシタンであり道益は熱心な仏教徒であった。
これらのこともありこの父子が仲が悪かったのはある意味必然だったかもしれない。
0214名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/29(水) 21:36:50.52ID:jUvkrsnJ決して逃げず寡兵で「天正の楠木」と評された戦ぶりで島津の大軍を何度も追い払い、たまらず手を焼いた島津義弘の降伏勧告を撥ね付け勇敢に戦い抜く。
島津軍の攻撃が膠着したのを機に近隣の城を奪回に乗りだす。折りしも豊臣秀長勢が豊後に到達。島津勢を追撃し反乱した南郡衆を滅ぼしていった。
その過程で父・道益を捕らえ言い訳一つも許さず問答無用でその場で自刃に追い込んだとも親次自ら斬ったとも言われている。
反逆した父に対する苛烈な処置とかは親次の名声を高める結果になったものの今度はその名声が皮肉にも主君・義統改め吉統に徐々に疎まれる原因になっていく…
0215人間七七四年
2012/08/30(木) 09:20:50.77ID:vw3Zxu6Z0216人間七七四年
2012/08/30(木) 10:43:33.35ID:rozVLcIm>>213-214 はまあ逸話と判定してもいいんじゃないか。>>213の下段や>>214の下から2段目あたりが。
なんでもかんでもチラ裏禁止では、書き込み自体がなくなってしまう
0217人間七七四年
2012/08/30(木) 22:27:22.32ID:4XX6FsO90218名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/30(木) 22:37:06.50ID:RIu1izbP元はと言えば自身に原因がある、みたいなのばっかり。
これでもノブヤボ烈風伝の時は政治力が53なんだよな。
氏真や勝頼・クマーより高いなんてありえん……
0219名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/30(木) 23:05:55.43ID:qjBhSU8G0220人間七七四年
2012/08/30(木) 23:08:53.81ID:WbfbgHdmその優秀さが霞むくらいダメ人間だけど
0221人間七七四年
2012/08/31(金) 09:58:56.39ID:vfSZnF2p0222人間七七四年
2012/08/31(金) 12:07:19.20ID:2dSpdj6y0223人間七七四年
2012/08/31(金) 12:21:36.78ID:Q83zoGAC0224人間七七四年
2012/08/31(金) 15:17:01.72ID:zoGj/3B20225人間七七四年
2012/08/31(金) 15:58:24.88ID:mQclrRyc0226人間七七四年
2012/08/31(金) 16:55:22.98ID:zoGj/3B20227人間七七四年
2012/08/31(金) 17:29:06.91ID:VY1J2o8Sその理由はこの様なところにあったという。
天正13年(1585)、秀吉の越中攻めに、織田信雄の仲介によって降伏した成政であったが、越中において
秀吉との対面はならず、引き上げの途中、大津で5日間滞留していいた所に成政は後から追いつき、
大津において秀吉に対し降伏う受け入れられたことへの御礼申し上げるため、城に上り書院までやってきた。
ここで多くの者達が成政を出迎え、取持衆は「御対面成されるまで、どうぞここでゆっくりとお待ちください」
との丁重な挨拶。敵対したとはいえ織田家の猛将であった成政に対し、彼を尊敬する気持ちは、秀吉の家中でさえ
強かった、ということであろうか。
そこに浅野長政が現れた。成政は、長政が秀吉から内々に何か聞き届けた事でもあったかと思い、声をかけると、
長政は
「内蔵助(成政)殿は上様(秀吉)に対し謀反をした者である!御対面は御無用!
私は今も、あなたを切腹させるよう申し上げてきた所である!」
そう言い放った。
これを聞いた成政は、長政を睨みつけると
「弾正(長政)よく聞け。私は秀吉とは、たった今まで肩を並べた朋輩であった。そうであるからこそこの内蔵助も、
信長公の御切腹後は、天下の覇権を心がけたのだ。
秀吉の家来であれば謀反ということも可能だろう。だが私はそうでなかった以上、弾正(長政)の申し様は
全く聞こえないものである!」
そう怒鳴り、荒々しく長政をやり付けた。
その後成政は秀吉との対面を果たし、丹波の野瀬郡に召し置かれた。
(川角太閤記)
佐々成政と浅野長政に遺恨が出来た由来である
0228人間七七四年
2012/08/31(金) 19:21:44.62ID:QJ6Gd40w0229人間七七四年
2012/08/31(金) 20:00:28.72ID:wvf3GtKfていうよりこの時既にあるとしか思えないw
0230人間七七四年
2012/08/31(金) 20:29:18.27ID:sZFl0lgP0231名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/31(金) 21:00:25.07ID:FeSilS2c「独眼竜政宗」の時に林与一氏が演じたイメージとは違ってる
この話は浅野に無礼に対して堂々と怒鳴りやり返した佐々の武辺者らしい男前ないい話にも見える
0232人間七七四年
2012/08/31(金) 22:16:26.24ID:J18DFBdyイメージが強いが割と諸大名とトラブル起こしてるよなあ。
0234人間七七四年
2012/08/31(金) 22:40:11.23ID:EOVWZrzs0235人間七七四年
2012/08/31(金) 23:17:46.76ID:X4lm6gRt浅野長政はかなりのトラブルメーカーでもある。
ただ、喧嘩した相手自体もアレな人が多い。
例えば、政宗とか広家とか
0236人間七七四年
2012/08/31(金) 23:50:33.63ID:aFOMRCOA宗麟は戦術家としては凡庸だが、戦略家・謀略家としては一流だぞ。
筑前を巡る争いでは、戦術面で負けても、朝廷工作や幕府工作。更には
大内残党や尼子を利用することで、最終的には北九州領有を確定させたし、
島津に大敗した後も、織田・豊臣を利用して、可能な限り退勢を押し止めている。
豊前の田原本家の謀反を鎮圧した時も手際がいいし。
ただし、むら気があるのが致命的ではあったが。
『豊後三老がいた時は・・・』と言われるのは、宗麟のこうしたむら気をよく抑え、
前線指揮官として、宗麟の戦術能力を補ったが故なんだろうなあ。
0237名無しさん@お腹いっぱい
2012/09/01(土) 00:09:17.54ID:Rj3NcUa6三成もそうだしな。
仲が良かったのは家康あたり。
0238人間七七四年
2012/09/01(土) 01:13:13.71ID:V/70pHoJアホの子フィルターかけられまくってるTERUとか市松にも同じ事が言えるが。
0239人間七七四年
2012/09/01(土) 01:37:12.60ID:eWA0Nf07そこで成政は直ぐに尼崎まで上がり、その地の法華寺にて命を待っていた所、遺恨のある弾正殿(浅野長政)
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6740.html参照)が支障を申し立てたわけでは無いのだろうが、
藤堂和泉守(高虎)が検使として派遣され、秀吉の御意を伝えた。それには
『去年九州に馬を出し(九州征伐)、西国においてはめでたく相治まったはずなのに、そこで肥後に一揆が蜂起したのは、
すべて内蔵助(佐々成政)が時分をわきまえず厳しい施政を行ったためである。それにより天下の騒ぎを
起こしてしまった!
小早川隆景も統治の難しい国に遣わしたが、彼は何事も神妙に仕置きしたため、見事に鎮めたと聞いている!
私はやがて東国に出馬しようと考えているというのに、西国の統治が動揺しているように東国に伝わり、
東国に私の政権能力に対し疑問を抱かせた、そして諸大名への今後の見せしめのため!』
切腹を命じた。
成政はこれに従い、庭の泉水の所まで行き石に腰掛け家臣の主馬を呼び出し、金30枚、その他身の回りの衣装など
すべて主馬に渡し、自分の座っている石を見て
「この石は内蔵助腰掛岩と呼び伝えよ!!」
そう言うと腹を十文字に掻っ切り臓腑を掴み出し「時分は良いぞ!」と、己の頸を差し出した。
そこを、藤堂高虎が介錯したとも、また小姓が介錯したのだとも後に沙汰された。
(川角太閤記)
秀吉の言うことによれば、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6744.htmlで小早川隆景が一揆を起こさなかった事も、
成政切腹の理由になったのですね。
佐々成政の最期についての逸話である
0240人間七七四年
2012/09/01(土) 04:00:10.54ID:HwyrRaLG天正十六年(1588)八月、北条氏規は上洛の途につき、十日には三河岡崎へ到着した。
案内役を榊原康政と成瀬藤八が務めた。
同十七日、京都へ参着。相国寺に宿所を構えた。
毛利輝元の家臣、平佐就言の日記『輝元公上洛日記』には以降の氏規上洛の次第について、次のようにある。
「八月二十一日、晴れ
(前略)
……この日(輝元)は紫野へ御参りされていたが、御留守の中、民部卿法印前田玄以より
『明日の午の刻(午後十二時)、北条美濃守(氏規)に(秀吉が)御対面されるので、御相伴に参られるように』
との由、御触があった。
御注文の衆は
尾張内大臣(織田信雄)、駿河大納言(徳川家康)、大和大納言(豊臣秀長)、備前宰相(宇喜多秀家)、越後宰相(上杉景勝)、
安芸宰相(毛利輝元)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)で、
『以上の方々は(秀吉が)北条に御対面するので、御相伴に明日の巳の刻(午前十時)に参られよ』との旨であった」
「八月二十二日、晴れ
辰の刻に宿を立ち、大谷刑部少輔殿(の所?)まで御出なされた。ここより殿様(輝元)は御冠に黒い御装束である。
巳の刻に聚楽へ参られた。隆景様、広家様、黒田官兵衛殿、大谷刑部少輔殿が冠装束して御供をした。
穂井田越前守、福原上総守、口羽伯耆守、渡邊飛騨守、松山兵庫頭、堅田兵部少輔、林肥前守が冠に赤装束で御供をした。
赤川主水佐、国司隼人佐、粟屋右近大夫が風折の立烏帽子に狩衣にて御供をした。
…関白様へ北条新九郎氏直より進物。
金覆輪の御太刀一腰。
馬十疋。
御鷹十一居。このうち一居は白鷺。
漆塗の桶十杯。
(方広寺)大仏御合力の詞書。
…北条美濃守氏規自身進物。
金覆輪の御太刀一腰。
御馬五疋。
綿二折を二千把。」
…午の刻(午後十二時)に御対面。取り次ぎは前野但馬守。冠装束である。
御通い衆、諸大夫は冠に赤装束。
御膳を冠装束の尼子宮内少輔が御配りした」
0241人間七七四年
2012/09/01(土) 04:05:43.93ID:HwyrRaLG一段高くなっている高間には秀吉と聖護院道澄、
秀吉から見て右方、上手には公家衆
右大臣菊亭晴季、
大納言勧修寺晴豊、
同中山親綱、
同日野輝資、
頭宰相(不明)ら。
庭のある縁側の下手には尾張内大臣織田信雄、
駿河大納言徳川家康、
大和大納言豊臣秀長、
備前宰相宇喜多秀家、
越後宰相上杉景勝、
安芸宰相毛利輝元、
更に上手の後には
津少将上野介(織田信包)、
丹後侍従長岡越中守(細川忠興)
南寸野侍従藤五郎(長谷川秀一)、
岩倉侍従毛利河内守(毛利長秀か)、
伊賀侍従(筒井定次)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)など錚々たる面々が居並ぶ中、氏規は敦賀侍従(蜂屋頼隆)に次いで下手の末席を与えられた。
氏規と秀吉らが対面した広間は同年七月に輝元が聚楽第で初めて秀吉と対面した広間と同じもので、この広間の長さは(縦にだろう)十八間とあるから、威勢を示そうとする秀吉の意図が垣間見れる。
「…御三献があり、(秀吉は)氏規に御腰物一つ、脇差一つを差し遣わされた。
関白様が奥へ御立ちなされて、(諸大名らとの)御食事が有り、(氏規は)申の刻(午後四時)に帰られた。
殿様も御宿である妙願寺へ戻られた」
「八月二十四日、曇り
巳の刻(午前十時)に氏規を大和大納言殿が御請待された。
殿様も招待されたが、(氏規の)御腹中気(腹痛)に付き、殿様も御出なされなかった」
……ところで氏規の上洛に際して、北条氏は家中の知行にあわせて金銭を納入するよう定めているが、その費用は二万貫というとてつもない巨額であった。
『輝元公上洛日記』には輝元が行く先々で太刀や馬、織物などを献上している記述が散見されるが、このようにとかく上洛には莫大な経費が必要だったのだ。
この頃北条氏は、もう一方では上方勢との戦を想定し、「御国」論を持ち出して国人や民衆を動員し城の普請などをさせていたが、その上でこの降って湧いたような金銭納入の命である。
彼らの負担はいかばかりであっただろう。
同月二十九日、上洛の目的を果たした氏規は帰路につく。
氏規が初めて目にした上方は、どう映ったのだろうか。
0243人間七七四年
2012/09/01(土) 07:25:02.88ID:Q21KM4zv0244人間七七四年
2012/09/01(土) 13:41:33.02ID:ITo08+S80245人間七七四年
2012/09/01(土) 15:06:14.15ID:QKHJWgYH0246名無しさん@お腹いっぱい
2012/09/01(土) 16:35:42.04ID:Rj3NcUa6ナンバー6は池田
ナンバー7が森
あと蜂屋・河尻・蒲生・堀といった感じだと個人的には思うんだが
0247人間七七四年
2012/09/01(土) 16:39:43.40ID:z/JtvVRv0248人間七七四年
2012/09/01(土) 16:42:52.24ID:ynPbw/cB佐久間さんも折檻状以前は
0249人間七七四年
2012/09/01(土) 17:34:22.03ID:HwyrRaLG指摘ありがとう
今確認したらそうだった
>>243
利家は呼ばれてない
蜂屋頼隆は秀吉に反抗的だったからだ、と見てる。
確証はないけど出羽の検地に反対した逸話も残ってるし
0250人間七七四年
2012/09/01(土) 17:57:10.36ID:i3ZGQ34Mミニ丹羽という感じで信長の手元に置かれてて一軍を率いるとか無かったけど
0251人間七七四年
2012/09/01(土) 18:07:50.40ID:+XZS9WnT彼と長谷川は意外と秀吉政権じゃ席次高いな。
0252名無しさん@お腹いっぱい
2012/09/01(土) 18:20:15.90ID:Rj3NcUa6そうそう稲葉が居たね。指摘サンクス。
>>250
調べたら蜂屋がナンバー6で実質の摂津国主だったらしい。てっきり池田や森の下と思ってた。
となると本能寺前の織田家臣団の序列は明智柴田丹羽滝川羽柴蜂屋と来て
後は異論あるだろうけど直臣限定なら池田・森・河尻・稲葉・蒲生・斯波毛利・堀あたりが来るかな。
ちなみに蜂屋は小田原開城の前年に死去。養子の直政(丹羽長秀四男)は夭折しており無嗣断絶。
ちなみに後任の敦賀城主は大谷刑部が継いだんだよな。
0253人間七七四年
2012/09/01(土) 19:35:31.61ID:cUj0XLMVで、息子が毛利秀秋だから
羽柴長秀、豊臣秀頼の息子が豊臣秀秋ってことになるのか
大和大納言も木下長秀だった時期があるからなんかややこしい
0255人間七七四年
2012/09/01(土) 20:36:41.25ID:ICdBVRYx0258人間七七四年
2012/09/01(土) 20:50:55.73ID:F8ldVIZh本能寺がなければどこまで栄達したことか
0259人間七七四年
2012/09/01(土) 20:58:30.94ID:ynPbw/cB毛利秀秋となってさらにややこしく
0261人間七七四年
2012/09/01(土) 21:30:24.74ID:cf7vLbfH副将してる時の大将も信長の信孝とかだったりするし
0262人間七七四年
2012/09/01(土) 23:53:22.33ID:KntcF8d0家老・士大将・物頭を残らず集めると「此の度秀頼公へ御味方申すに於いては、甲信上三国を給ふべし」という証文を皆に見せた。
そして昌幸は家臣たちの知行を約束した。
禰津長右衛門には小諸で6万石、矢沢但馬には矢沢の城付きの知行
小山田壱岐には松本に7万石、その他の家老たちにも伊那・高遠などで城付きの知行を与えると申し渡し
丸子右衛門に諏訪3万石、昌幸の弟金井高勝や昌幸の三男信勝にも信州のうちで知行を分けた。
さらに士大将達は皆知行の倍増し、手柄次第でのさらなる加増を約束
騎馬、徒歩を問わず侍、足軽、中間、小者、百姓、町人といった全領民に対しても
「此の度の働きに付いては、敵の首一つに知行百石を宛与ふべし。偽り有るべからず」と申し渡した。
この為真田家の者たちは勇むこと限りなく、城内の普請を始め城下の外町筋を焼き払った。
『翁物語』
―――――
なお現存する三成から昌幸宛ての書状には「国数を拝領できるだろう」とあるのみで
具体的な国名等は挙げられていません。
0263人間七七四年
2012/09/01(土) 23:59:52.06ID:KntcF8d0×丸子右衛門
○丸子三右衛門
0264人間七七四年
2012/09/02(日) 00:02:10.93ID:cw/PlS1L0265人間七七四年
2012/09/02(日) 00:34:56.49ID:H7zQZ2qF八月五日付けの三成の書状では「小諸、深志、川中島、諏訪」の所領を約束してたね
それと、切り取り次第ともどこかの書状あたりで書かれていたと思う
0266人間七七四年
2012/09/02(日) 06:02:31.41ID:0+fxU+xXなんか危ないなw
0267人間七七四年
2012/09/02(日) 08:20:50.55ID:UmpYMEEy旧武田領を手に入れたところで拡張欲はおしまい
黒田如水のような関が原時に領地子供全てを抵当に入れての博打もやらない
0268人間七七四年
2012/09/02(日) 08:23:50.82ID:UmpYMEEy本因果天下機構(織田家)に組み込まれたため
学ぶ機会があったための差で昌幸が悪いわけでhない
0270人間七七四年
2012/09/02(日) 09:50:28.45ID:XviNB1E7そこから4ヶ月程前の天正十六年(1588)四月、聚楽第行幸時の序列
ttp://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3072/1/HirodaiKokushi_90_1.pdf
細川、長谷川、筒井、大友など侍従の席次が微妙に違う
0272人間七七四年
2012/09/02(日) 10:44:42.73ID:Hi8tI4T3左>右だからこの時に秀吉に随身した諸大夫では増田長盛が最上位か
てか、徳川を出奔した石川数正の位置に哀愁しか覚えない
0275人間七七四年
2012/09/02(日) 11:16:24.46ID:Hi8tI4T3諸大名の行列に列しているわけじゃないし随身だぞ
家康など他の大名の随身と立場は変わらないんだぞ
0276人間七七四年
2012/09/02(日) 11:22:37.64ID:+VjcDlhZすげー勘違いしてるみたいだけど、あの「諸大名欄」は侍従成してる連中が
載ってるだけで、あそこ以外が大名扱いされてない訳じゃないぞ
0277人間七七四年
2012/09/02(日) 11:28:50.72ID:XviNB1E7秀吉に供奉している中にも「大名格」は含まれていると言われている
でもそれは注釈10にあるように脇坂、九鬼、溝口、市橋などね
0278人間七七四年
2012/09/02(日) 11:42:09.42ID:XviNB1E7そういう面でも諸大名行列と分けてあるのだろうが
0279人間七七四年
2012/09/02(日) 19:58:06.63ID:5Fmpx7jvかつての徳川家臣二巨頭の一人・石川数正を糾弾した後輩の徳川家臣が諸大名行列に参列し
名門の京極や大大名の長宗我部より上位に列席している件
0280人間七七四年
2012/09/02(日) 23:10:06.66ID:QOZALTt5家康でさえ一時期名乗らされてた豊臣姓を平気で断るし断ってもお咎めもないし
0281人間七七四年
2012/09/02(日) 23:19:49.02ID:eJXCas/20282人間七七四年
2012/09/03(月) 00:13:27.62ID:J8naobvn緒戦の攻め合いの後、両軍はにらみ合いのような状況になる。
そんな中上田城内に籠っていた百姓たちのうちで用事があって外へ出たがった者たちがいたため
足軽を添えて城下へと出したことがあった。。
この時秀忠の旗本7人がこの一団に目を付けた。
この7人は抜け駆けして百姓足軽達に迫る。
しかしながらに襲われたのは百姓といえども勝戦に馴れたものたちであったため
7人を追い払い、難なく城内へと引き取った。
この7人を「真田ノ七本槍」と号するが
世に真田家の何某と槍を合わせたという話は合っても
この7人と槍を合わせたという者の話を聞かないのは
7人が戦ったのが百姓足軽達だったからである。
『上田軍記』
0283人間七七四年
2012/09/03(月) 11:53:45.22ID:ndkbgnTe本流は滅んじゃってもったいない。
0286人間七七四年
2012/09/03(月) 19:11:49.27ID:0OhJQCps鮭さまのバールのようなものの文言じゃないが
0287人間七七四年
2012/09/03(月) 19:43:34.74ID:nj5WlpxK日蓮宗の寺紋は「井桁に橘」で井伊家の家紋を取り入れているのは
宗祖の日蓮上人が井伊氏の支流という伝説から来たものらしい
日蓮の父が三国氏で井伊が継体天皇系の三国真人の出と言われる所以でもある
あとは徳川四天王の一人であった井伊直政が日蓮宗に帰依したことが始まりであるとも
0288人間七七四年
2012/09/03(月) 20:29:16.37ID:hMLsxde/この時その母、尾崎局が吉川元春に送った書状である
『さてもさてもじいさまの事、御年寄りとは申しながら、こんなに不意の事になるとは思いもよらず、
突然にお隠れになられて、さぞさぞご心中の方、おしはかり申し上げます。
輝元の御事、ひとえにひとえに、そなた様(元春)と隆景様(小早川)にお頼み申し上げます。
輝元の親となっていただき、お力もお貸しくださるよう、うち頼み申し上げます。
申すまでもない事かも知れませんが、申させて下さい。(申まてハ候ハすとも、申事ニて候)
この事、重ね重ねお願いいたします。』
息子輝元の今後を憂う母の気持ちが、痛いほどに見えて来る書状である。
いい話でも悪い話でもないと思うので、とりあえずこっちに
(毛利家文書)
0290人間七七四年
2012/09/03(月) 22:26:04.68ID:2wrUDnfMちょっと待て。その七本槍はつまり
「真田の百姓に追っ払われちゃった、秀忠の七人の旗本」て事?
不名誉やん…。誰でしょうねー?そんなあだ名付けちゃう口の悪い人は。
0291人間七七四年
2012/09/03(月) 23:33:33.42ID:CV7HMXqv【静岡】「徳川家康を大河ドラマに」 川勝知事らがNHKに要望★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1346673208/
0292人間七七四年
2012/09/04(火) 00:52:55.95ID:H3pwb3P7というか好きな人物はみんなやってほしくない
0293人間七七四年
2012/09/04(火) 01:05:34.24ID:hYJ1yZhxなんてな
0294人間七七四年
2012/09/04(火) 03:13:28.71ID:t4lfEBRf0295人間七七四年
2012/09/04(火) 03:59:04.74ID:/HwqI+Sy0296人間七七四年
2012/09/04(火) 06:25:57.91ID:jMYJjAos0297人間七七四年
2012/09/04(火) 07:44:20.90ID:Q7Mcf/O0NHK流にしてみれば・・・
0299人間七七四年
2012/09/04(火) 11:56:07.37ID:r640aWM8「労働力」である百姓の確保。
失う物のない小作農たちは条件の悪い大名を見捨て、
もっと条件のよい大名の下へ逃げて、そこの領民になってしまうためだ。
このため各大名は、
「新規に領民になったものは農具支給!」
「うちは初期の年貢を免除!」
「うちのご新規さんは当座の生活費に米を支給!」
などと百姓の確保・流出阻止はかなり気を使っていた。
細川家がまだ豊前小倉藩であったころ、細川忠興が隠居して、三男の忠利が藩主となった。
忠興は豊前小倉藩39万9000石の中の37000石を自分の領地として隠居。
この時、忠利の領地から忠興の領地に百姓たちが逃亡。
忠利「逃げた百姓、うちに返して!」
忠興「だが断る!」
という手紙が残っている。
親子(つか藩主と前藩主)の間でもこういう状態だったらしい・・・・・・
元ネタは「逃げる百姓、追う大名」(宮崎克則 著)
0300人間七七四年
2012/09/04(火) 11:58:44.10ID:oZWWxE700301人間七七四年
2012/09/04(火) 12:49:55.87ID:A3ER51lW図書館で借りたので今は手元にないが。
0302人間七七四年
2012/09/04(火) 13:54:06.36ID:8m5v88rh0303人間七七四年
2012/09/04(火) 14:20:02.05ID:bpJGoU6p0304人間七七四年
2012/09/04(火) 14:38:20.26ID:hYJ1yZhx0307人間七七四年
2012/09/04(火) 18:35:58.86ID:jMYJjAosそりゃ普段は温厚な三斎様もブチギレますよねー
0309人間七七四年
2012/09/04(火) 18:47:12.02ID:WZc8jDCA0310人間七七四年
2012/09/04(火) 18:53:52.95ID:nnPv7FPR領主に不満があると村全体で「逃散」して国境地帯まで行って、自分たちに優位な条件を出す大名の方に行って
耕作するというw
0311人間七七四年
2012/09/04(火) 20:57:35.59ID:Farc1UBFこの権六は重政がその当時城内に作っていた庭園の奉行で合ったが、彼はこの奉行において不正を行い、
部下の俸禄を掠め取り、彼らに正統な報酬を与えなかった。
重政はこのことを知り、権六を甚だしく憎んだ。
ある日、重政は造営中の庭園に出てきた。これを松田権六と、同役であった従兄弟である松田兵右衛門が出迎え、
重政の前に平伏した。
重政は何も言わず、懐中より訴状を出し
「権六、これを読め」
と言って投げ与えた。権六は何もわからすそれを拾い開くと、そこには自分の行った悪事の数々が並べ挙げてあった。
重政はじっと見て
「汝権六、私曲なくばその旨を陳ぜよ。」
権六は答えた
「も、もとより私にも陳述すべき事はあります!されどいかに君命とは申しながら、これは余りにも片落ちなる事では
ありませんか!先ずこの讒言を行ったものを糺してください。私はその後に陳述いたします!」
これに重政は冷たく
「汝、陳述するべき事がないのなら、今ここにて腹を斬れ。陳述すべき事があるのなら、私自ら、親しく聞いてやる。
汝が果たして罪がないという事を聞き得れば、そこで讒者を殺して、汝に謝罪しよう。
であれば今、讒者を糺す必要はない。」
権六は窮した
「…これはなんとも無理な仰せですが、腹を斬れとのの上意であるのなら斬りも致します。
されども、士たる者の死ぬのに、どうして犬猫のように扱われるのでしょうか?
願わくば沐浴の時間を賜り、そして検使をも受けて、その上で切腹をさせて下さい。」
すると、重政は刀に手をかけさらに冷たく
「汝は自らを犬猫にしてしまったのだ。ならばどうして犬猫のように死ぬのを嫌がるのか?
検使は私である。さあ、未だ遅らせようというのなら手討ちにいたす!」
そう、怒りに満ちた目で睨みつけた。
権六も、この上は是非に及ばずとついに観念し、短刀を引き抜くと逆手に握って自ら腹を掻っ切る。
そこに重政は兵右衛門に介錯をさせて帰っていった。
老臣達はこの事を知ると口々に重政を諌めた。「大名の御身として御仕置、あまりにも軽々しく思われます!」
これに重政は苦笑しつつ
「松田権六は勇士であった。仕手を遣わして放ち討ちにしても、容易には討たれるような者ではない。
また、もしあ奴が事前にこれを悟って己の自宅に立て篭もれば、人多く損なう事になったであろう。
私はそうなることを懸念して、つい若気を出してしまったのだ。
汝らの諫言は誠に理にかなったものだ。」
そう言って奥へと下がっていったという。
(日本武美譚)
松倉重政、私曲の臣を誅する、というお話。
0312人間七七四年
2012/09/04(火) 21:13:18.69ID:pnouzQKh悪いという程の話でも無いような、と思ったら…
「松倉重政」
島原の乱の遠因を作った御仁だ…。
これは肥前日野江に移封する以前の逸話なのかな?
0313人間七七四年
2012/09/04(火) 23:40:01.82ID:/HwqI+Sy0314人間七七四年
2012/09/05(水) 00:33:43.66ID:TjZCv7He0315人間七七四年
2012/09/05(水) 01:03:21.65ID:c7W3Hz70城の近くでひもじい!ひもじい!と合唱した加賀の領民って話もあるがw
0316人間七七四年
2012/09/05(水) 07:05:10.71ID:FzqNIhT80317人間七七四年
2012/09/05(水) 13:08:12.68ID:pd5+Bpcmというか逃散自体が一揆の主要な形態のひとつだな。
領主からこれだけの譲歩を引き出すと決めて、あとは我慢比べ
0318人間七七四年
2012/09/05(水) 22:16:31.38ID:+M9VKx6M降伏の説得をするようにと命じた。
これに舟戸久左衛門は困惑した。「わたしはその様な事のできる器ではありません。もっと老巧の者を
選んで遣わすべきです。」
しかし輝政は聞かず、強いて彼を使者とした。舟戸は致し方なくその命を排し、それから鍛冶の命じて
一辺3,4寸の、方形の鉄板を作らせこれを懐に入れ水口城に至り、案内を乞うて入城し、正家に対面すると
懇切に、主人輝政の言葉を言上した
「今降伏なされば、貴方様の一命のみならず、本領も安堵され士卒も助かるのです。」
長束正家はこれを聞くと
「その志、たいへんかたじけなく思う。その仰せに従って降伏することが可能なら降伏したいのだが、
我が士卒達は伊勢阿野津の城攻めに疲れて関ヶ原の戦場で功がなかったのを憤慨し、この城を枕として
目に立つほどの一戦をすることを、必死の思いで期待している。ならば士卒の心を問わずに私一人が降伏して、
何の益があるだろうか。
この趣を以って、宜しくそなたの主人の返答申されよ。」
その言葉に、降伏を受け入れる様子は見えなかった。
ここで舟戸、正家の小姓を呼び、懐の鉄板を取り出して言った
「これを火にて焼いて下さい。我が主人輝政の志、私の言葉、これらが長束様を欺くものではない証拠として、
貴方様の眼前で鉄火を行います!」
そしてまた懐中より午王の神符を取り出し、片手に握った。
その決意は顔前に溢れ、これを見た正家は涙をポロポロと流し
「貴殿のそのような真心に接しては、私はもう致し方ない。まさしく誠の武士で有るかな。この上は
たとえ欺かれて降伏したとしても、これもまた武士の一義、恨み悔いるには及ばない。」
そう言うと小姓を呼んで何事か囁いたが、暫くして小姓が脇差一腰を持って出てきた所を、
正家は舟戸に親しく声をかけ
「これは見苦しいものであるが、いささかお主のこの度の志に報いようとしたものである。帰ってお主の主人に
私の降伏を伝えられよ。」
と、それを与えた。
ところがそれでも舟戸が、なかなか座を立ちかねている体を見て正家
「ああ、私が忘れていた。」と小姓を呼び硯を取り寄せ、證文を書いてこれを与えた。
舟戸はが立ち返りこの旨を申し上げると、池田輝政は彼を激賞した。
ちなみにこの時長束正家が舟戸久左衛門に与えた脇差は、無銘で一尺あまりの貞宗鍛えだという。
舟戸久左衛門、長束正家への降伏勧告の使者となる。という逸話である。
(武士道美譚)
まあ正家さん、懸念した通り欺かれて切腹させられちゃうんですけどね。
0319人間七七四年
2012/09/05(水) 22:24:53.41ID:+EboGKCuこのだまし討ちで本多と池田の仲が悪くなって姫路城奪われた
なんて話はないよね
0320人間七七四年
2012/09/05(水) 22:37:42.16ID:djK8oeQ10321人間七七四年
2012/09/06(木) 00:10:44.16ID:QWniifPv0322人間七七四年
2012/09/06(木) 00:26:18.87ID:y4TWJCG7明らかに助かる状況じゃないし
長束さんもわかってて降伏したんじゃない?
0323人間七七四年
2012/09/06(木) 00:52:18.73ID:Nrb5jCBI判っていて、それでも舟戸の覚悟に感激して降伏を受諾した
だから池田輝政は舟戸を激賞したと
0324人間七七四年
2012/09/06(木) 08:53:38.23ID:rDTCjwjr【大分】大友宗麟PR大作戦 大分市 まちづくりへ検討委
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1346829411/
0325人間七七四年
2012/09/06(木) 10:23:52.29ID:TpRga5x+0326人間七七四年
2012/09/06(木) 10:52:42.98ID:W59RMvbQなんて思ってた頃に戻りたい
0327人間七七四年
2012/09/06(木) 11:37:13.75ID:fAY4MyLnそう思ってた時期が懐かしいねみんな
0328人間七七四年
2012/09/06(木) 11:59:09.10ID:hkfZeY7T俺も気配りと頭の回転の速さと人間的魅力で貧民から天下人になったって思ってた・・・
あれ、間違ってないな・・・あれ?
0329人間七七四年
2012/09/06(木) 14:44:57.60ID:GkDvIw8o0330人間七七四年
2012/09/06(木) 14:53:18.40ID:PpEWX2Gg西洋音楽(ムジカ)を愛した大友宗麟、なんて持ち上げられてたから、そこらでとめとけばいいのに
0332人間七七四年
2012/09/06(木) 15:14:00.48ID:qlwzXjvw0333人間七七四年
2012/09/06(木) 17:11:02.59ID:Wjow5dIE0334人間七七四年
2012/09/06(木) 17:14:49.07ID:MfMuhx+J比べてると乾いた笑いしか出ない。
0335人間七七四年
2012/09/06(木) 19:22:33.76ID:AZgXMjwe大坂城落城の朝、徳川家康は御旗御長柄を住吉の辺りに立てて置き、
自身は住吉と城の間の山奥にいた。
この時、家康は松平正綱を召して「城中の者は我が旗印を見て、わしが住吉に
いると思っているだろうな。味方は既に勝ったのだから、この上は身を大事に
することが第一じゃ」と笑った。
そんな所に安藤直次が馳せ来たり、家康に勝利の様子を報告した。
それから、直次は御茶や弁当のために同行していた坊主に向かって
「喉が渇いてかなわん。とにかく一杯飲ませろ」と言った。
しかし坊主は「只今、上様の御茶器の他には器がございません」と断るので、
直次は「上様の御器でも賜った後ですすげばよかろう。いいから飲ませよ」
と重ねて要求した。
そのような問答をしていたところ、聞いていた家康が「帯刀が喉が渇いたと
言っているのに何故飲ませぬか。こんな時に上も下もあるか馬鹿者!」
と坊主を叱ったので、直次はすぐに喉を潤すことができたという。
(徳川実紀)
0337人間七七四年
2012/09/06(木) 22:38:45.03ID:MfMuhx+J彼らは本能寺の変でも大いに活躍した勇者であり、その後の戦乱も生き延び、
後に天野源右衛門は立花宗茂に仕え、箕浦大蔵は浅野幸長に仕えた。
ある年京都において、天野の宿舎に箕浦が訪問して、昔の話などしていた時に丁度、古川九兵衛も尋ね来て、
久方ぶりの珍しい会合となった。
3人の話は尽きず、果ては本能寺の話となり、お互いの武功を論じ合ううちについに罵り合いとなった。
中でも箕浦と古川は互いに立腹してその功の優劣を争い、座もどんどん白けていく所を、天野が様々に
とりなしてどうにか収めようとしたが、双方共に一向に引こうとしなかった。
いい歳していても、武士はこれだから困りものである。
と、ここで門外にわかに騒ぎ立ち多くの人の足音聞こえてきた。
何事かと3人、2階の窓から外を覗くと、何としたことであろう、上京の方より大男が、たった今人を殺したのだろう、
血刀を振り回しながら走り来る。その後ろ二町ほど隔てて2,30人の者たちが抜き身にて、この男を追いかけていた。
「これは容易なことではない。」
先ず天野がとっさに2階より降り、古川もそれに続いた。
箕浦は昔鑓傷を負ったため手足不自由であり、急に降りることができず遅れたのを古川、「ここだ!」
と思い急いで梯子を引いた。箕浦大蔵、文字通り梯子を外されたのだ。
これでは下に降りることができない!箕浦はどうしようもなく窓から出て庇の上に立って見ていると、
なんとあの科人がその真下に通りかかったではないか!
箕浦、思い切って庇から科人の頭の上に飛びかかる!
そして踏み倒しざまに直に押し乗って、物も言わせずその頸取って立ち上がった。
この時天野古川もその場に到着したが、箕浦は大得意でその科人の頸を示し
「いつも手柄は我先なり!本能寺てもこの通りなり!!」
そう鼻をふくらませて悠然と言い放ったという。
人々その剛勇を感じ、古川は一言もなかった、とのことである。
(武士道美譚)
0339人間七七四年
2012/09/06(木) 22:56:31.21ID:qBqh71GNしかし蘭丸討っておきながら鬼武蔵に仕えた天野源右衛門(安田作兵衛)と
立花宗茂はあんまり合わない気がするが
安田作兵衛が立花宗茂に仕えたのは肥後一揆から文禄の役までの短い間だからねぇ
0342人間七七四年
2012/09/07(金) 01:01:03.11ID:kWlvANan「大友宗麟プロモーション検討委員会」(委員長=吉津弘一・日本文理大学経営経済学部教授、9人)を発足させた。
宗麟は南蛮貿易に取り組み、西洋音楽や西洋医術などを積極的に導入。宣教師フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許した。
ヨーロッパでは、九州の地図は「BUNGO(豊後)」と記され、宗麟が描かれた絵画も残っており「王として知れ渡っていた」(鹿毛敏夫・東京大学史料編纂所国内研究員)。
3日に同市役所であった検討委初会合では藤沢卓弘・大分商工会議所青年部副会長は「パエリアなど南蛮料理を飲食店と提携して出してみたらどうか」と提案。
牧達夫・NPO法人大友氏顕彰会理事長は「業績や資料を目にすることができる場所の確保を」と求め、
県立芸術文化短期大学1年の竹中容子さんは「歴女(歴史好きな女性)の学生には甲冑を着けたいという人もいる。難しい話よりインパクト重視で」とアイデアを出した。
委員会は、来年1月まで毎月1回開き、具体的なPR方法をまとめ、来年2月に釘宮磐市長に報告書を提出する。
同市は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに比べて知名度の低い宗麟にあらためてスポットライトを当てよう、
と昨年の市制施行100年を契機に宗麟を柱の一つにしたまちづくりに着手。本年度は児童向けの副読本作成や
国史跡「大友氏遺跡」を観光拠点とするための保存事業など14事業を予算化。観光客を意識し宗麟像があるJR大分駅前に、
ザビエル像を3年以内に新設することも予定している。
=2012/09/05付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/322259
0344人間七七四年
2012/09/07(金) 01:31:38.20ID:4sIVIzBZつか宗麟押しは悪い話かよw
0345人間七七四年
2012/09/07(金) 01:33:50.86ID:O62kEgbmこの3人と比べる事自体間違ってるだろw
0346人間七七四年
2012/09/07(金) 07:26:14.49ID:VP9ypd+i情けなくなるから
0347人間七七四年
2012/09/07(金) 11:03:00.85ID:xlZ8SbNS0348人間七七四年
2012/09/07(金) 11:57:11.88ID:JIkweN8t終わらせておいたほうがいいよね。
0349人間七七四年
2012/09/07(金) 12:04:08.31ID:9qqHBY3H宗麟ってR15指定だよな
0350人間七七四年
2012/09/07(金) 12:17:34.17ID:iZdvwBUr0351人間七七四年
2012/09/07(金) 12:44:48.03ID:/nOj86H90352人間七七四年
2012/09/07(金) 12:51:37.45ID:taYFq6P20353人間七七四年
2012/09/07(金) 13:42:35.00ID:yIisNEzp0354人間七七四年
2012/09/07(金) 14:42:21.41ID:tmTZfyp30355人間七七四年
2012/09/07(金) 15:38:15.40ID:qOrIL3ku0356人間七七四年
2012/09/07(金) 18:51:28.13ID:LYC4+IFH大谷吉継・石田三成恋人説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5215.html
これのおそらく原文見つけたので、短いので書いてみる
・石田治部少輔を度々大谷刑部少輔しかり、又は頭をはり候。
石田大谷に恋慕して、知音になり候。
それより頭をはらるるも、忝と云うやうにもてなし候。
(武功雑記 巻十二)
なんだかホントに異様な関係性だなw
0357人間七七四年
2012/09/07(金) 18:56:10.05ID:qAOThYD4漫画の風雲児たちの大谷吉継がハリセンで三成どついているのって、
元ネタあったのか
0359357
2012/09/07(金) 20:33:53.85ID:g4K+jpQy風雲児たちネタがいくつかあった
0360人間七七四年
2012/09/07(金) 21:57:18.15ID:LvUM7Tln清蔵は佐々成政の甥で、武士の家系であったが、小辨は伏見あたりの賤しき者の子であった。
しかしこの二人は容貌殊の外優れ、また賢かったので、禿(かむろ)として常に信忠の元で使われていた。
さらに清蔵は観世流の能を、小辨は小歌の名人であったので、特にその寵愛を受けた。
天正10年(1582)び武田征伐における高遠城攻めの時、両人共に16歳にして抜群の働きがあり、
織田信長はこれを聞くと両人を呼び出し、先ず山口小辨に
「この度高遠にての働き、稀代の至りである!城介(信忠)の眼鏡違わず、ひとしお満足の事である!」
そう褒め上げ、手づから国久の腰の物に感状を添えて下した。
次に佐々清蔵を召し
「高遠にての骨折り、天晴であった!ただし汝は手柄するのも当然である。何故ならあの大剛の
内蔵助(成政)の甥だからだ。」
と仰せられ長光の腰の物に感状を添えて下された。
これを見聞きした者たちは二人の名誉を羨むと同時に、
「信長公はさすが智勇兼備の大将である。あの褒められ様を見たか?
小辨は卑しい身分の出身なので、手柄高名誠に稀代なりと仰せられ、
清蔵は武士であるから伯父内蔵助の名まで出して賞せられたること、流石名将の一言一行、
感ずるに余りある。」と言いそやしたそうである
さて、このことがあって60日あまりにして、明智光秀の反逆により信長は弑せられた。
その時信忠は二条城にあったが、光秀の兵がそこにも襲い来て同じく討ち取られたその時に、
この清蔵、小辨の二人の小姓は互いにいい合わせて
「今は我々も討死すべき時である!されど素肌(鎧を着ていない状態)にて死ぬことは、屍の上に
恥を晒すことである。厳しく物具して死のう。そうであれば緊急の事態で何致し方ない。共にひとたび
敵軍に討ち入り、良き兵討ちてその物具を取って着よう!」
そう確認すると二人、遺産で突き出て、思った通りの敵を討ち取ると一度陣に帰り、その物具を二人共
厳しく装うと、互いに微笑み合い、再び切って出て敵勢と渡り合ったが、ついに二人共討ち取られた。
ただでさえ紅顔の美少年であった二人の思い切ったる働きに、この戦場の人々も彼らから目が離せなかったが、
その死んだ時、美しい顔に血が流れ、前髪も朱に染まっていたのを、敵も見方もこれを見て嘆くとこ、
ひとかたでは無かった。
そして多くの京童たちも二人の少年の首のもとに集まり、その健気さを惜しみあった、とのことである。
織田信忠寵愛の小姓、佐々清蔵、山口小辨という二人の少年についての逸話である。
(武士道美譚)
0361人間七七四年
2012/09/07(金) 22:07:30.29ID:qOrIL3ku0363人間七七四年
2012/09/07(金) 23:52:23.66ID:LTHm1aGnそれもガイシュツ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5983.html
武士道美譚なんて明治に書かれた逸話の寄せ集めなんだから
既出かどうかまとめブログで登場人物名を検索するぐらいしようよ
0364人間七七四年
2012/09/08(土) 00:01:29.37ID:PcoC7J24最近目立つ創作もどきや概説ならともかく、神経質すぎだろ。
そっちの出典は常山紀談だと書いてあるし、同じ話でも少しずつ違うんだから良いじゃないか。
0365人間七七四年
2012/09/08(土) 00:30:43.38ID:pq329bjA0366人間七七四年
2012/09/08(土) 00:49:11.25ID:TYKdc9uU「秀吉」「天地人」の時代考証の時に
「眼鏡にかなう」という言葉が入れられそうになった時、小和田哲男は
フロイス「日本史」では
フランシスコ・カブラルがメガネをかけていたら庶民からバテレンは4つ目だと評判になって
岐阜に四、五千人もの観衆が集まってきた。
と書かれているように、戦国時代に眼鏡はほとんど普及していなかった、だから「眼鏡にかなう」
という言葉もなかったはず、と入れさせなかったそうだが
0367人間七七四年
2012/09/08(土) 00:49:39.09ID:wdKNoxDl0368人間七七四年
2012/09/08(土) 00:54:35.47ID:K/FXAyga0369人間七七四年
2012/09/08(土) 02:18:52.15ID:NIxT/FZp0370人間七七四年
2012/09/08(土) 04:56:56.65ID:aRY9MqBK0371人間七七四年
2012/09/08(土) 05:18:47.30ID:XGjCSYo5武士に戦神と崇められている八幡神を祭る宇佐八幡宮。
その由来は謎な部分が多いが元はどうも渡来系の鍛冶の神らしく、弓削道鏡の野望を砕いた宇佐八幡神託事件など朝廷の庇護も厚く、九州最大の荘園領主として君臨していた。
という訳で、八幡神は天津神として扱われる事が多い。
また、宇佐八幡は神仏混合政策を主導していた事もあって弥勒寺という寺を抱え、国東半島は六郷満山という仏教の拠点にもなった。
さて、今度は国津神である。
豊後の国の南部、祖母山を中心とした山岳信仰から、とある一族が豊後国に台頭する。
大神氏。
この一族、その祖が蛇神という血統を有していた彼らは豊後南部に根を張り、土地は貧しいが港に適した地形から海上交易によって富を築き勢力を拡大していた。
そして、彼らが持つ水軍は平家台頭の時代の流れに乗り、源平以前から九州最大の荘園領主であった宇佐八幡と必然的に利害が衝突する。
大神氏の子孫である緒方惟義は平家を見限り源氏につき、平家が避難していた宇佐八幡宮を焼き討ち。
だが、平家が壇ノ浦にて滅んだ後の源頼朝と源義経の対立に巻き込まれた大神氏は義経側について失脚。
時代は下がり、豊後に下向してきた大友氏はこの神々の争いを徹底的に利用し、宇佐八幡信仰を利用して地元国人衆であった大神系国人衆を粛清してゆく。
ただ、宇佐八幡は豊前にあり豊後とは隣とはいえ国が違うために、その八幡信仰を担ったのは国東半島にある奈多八幡宮である。
この争いは戦国時代になるまで続けられてゆく。
大友家が合戦や血縁政策にて大神系国人衆を取り込めば、大神系国人衆はやばくなったら船を使って伊予に逃げ出しほとぼりが冷めたら豊後に帰還する始末。
その戦いの決着は全てを否定するこの男の信じる神によってもたらされた。
大友宗麟『主の為に』
大神系国人衆は小原鑑元の乱を最後に無力化されるが、宇佐八幡をはじめとする旧態依然として既得権益の塊だった寺社勢力全てをキリスト教信仰によって大友宗麟は敵に回した。
1561年 宇佐八幡宮焼き討ち
こうして神の国を作ろうとした男の夢は耳川合戦の大敗にて散り、大友家もその息子義統の代に朝鮮出兵の不手際にて滅ぶ。
その不手際の一説に名前があがったのがキリシタンだった志賀親次というのは何の因果だろうか。
天津・国津・仏教にキリスト教、豊後にはこのような神々が流れた残滓が残り、20世紀その後豊後こと大分県は国東半島を中心に仏の里をキャッチフレーズに観光資源としてPR。
最後まで残ったのは仏教だったという神々の争いとその顛末の話。
0372人間七七四年
2012/09/08(土) 06:07:11.81ID:aRY9MqBK最終的にキリスト教に取り込まれてしまったが
0373人間七七四年
2012/09/08(土) 12:09:22.24ID:hvtbgZHu眼鏡にかなうより昔からあったのかなあ
0374人間七七四年
2012/09/08(土) 12:25:04.96ID:5edXjqzV物だけかと思ってた
当時ないといえば四六時中とかも使えないんだろうなあw
0376人間七七四年
2012/09/08(土) 14:01:08.41ID:pT9WL0m5「殿、チャンスですぞ」という台詞を考証に却下された、とぼやいていた
0377人間七七四年
2012/09/08(土) 14:30:36.34ID:K/FXAyga0378人間七七四年
2012/09/08(土) 14:53:47.69ID:4S++orRw0379人間七七四年
2012/09/08(土) 14:55:34.21ID:xRjFVdfj0380人間七七四年
2012/09/08(土) 15:00:30.39ID:hvtbgZHu0381人間七七四年
2012/09/08(土) 15:08:44.51ID:6IIMnwwcチャンスとか雰囲気壊すのはやめて欲しい
0382人間七七四年
2012/09/08(土) 17:27:04.08ID:NIxT/FZp0384人間七七四年
2012/09/08(土) 23:16:42.97ID:pVJsbKH6玉虫忠兵衛とは甲斐の城意庵の弟で、武田信玄、上杉謙信に歴事し、
後には徳川家に仕えた。
小牧長久手の役に従軍した時、徳川家康は忠兵衛に向かって
「今少し見合わせて槍を入れて見せよう。よく見ておけ」と言い、
程なくして勝利を収めた。
後に忠兵衛が人に語ったところには、
「我が君の御軍略は甲斐や越後には劣っておられるが、
御勇気の凛然たるところは遥かに優っておられる。末頼もしきことだ」
ということだった。
また、ある時に家康が言うには、
「忠兵衛はたわけた男だが、軍陣においては眼が八つづつあるような者だ」
とのことだった。
忠兵衛は後には松平忠輝に仕え、大坂夏の陣では軍監を務めた。
しかし、指揮の悪さが家康を怒らせ、追放されることになった。
この時、家康は「玉虫ではない、逃虫じゃ!」と言ったとされる。
――『徳川実紀(武功雑記、古士談話、大坂覚書)』
0387人間七七四年
2012/09/09(日) 02:00:13.67ID:ZhPAw3tm0389人間七七四年
2012/09/09(日) 06:24:05.46ID:bC+Jnv3+0390人間七七四年
2012/09/09(日) 07:10:14.29ID:lyl50MhV学会で使われてるから王家にしました、とか
0391人間七七四年
2012/09/09(日) 08:19:32.81ID:mR3DOnv50392人間七七四年
2012/09/09(日) 08:45:54.00ID:oCElo4vA皇室は使われていた
王室の方が使われていた
結局そんな感じ?
0394人間七七四年
2012/09/09(日) 10:11:42.69ID:u4jXpfaB0395人間七七四年
2012/09/09(日) 10:30:17.18ID:mNfSbztk皇国主義と批判されて中世の歴史学会では「王家」になったようだから
たしかにイデオロギーの問題だな
0396人間七七四年
2012/09/09(日) 13:06:57.62ID:MjrB2RIo戦国時代、畿内で勢力を誇った三好長慶の家臣に河内三箇城を治める三箇頼照という武将がいた。
永禄六年(1563)に頼照はロレンソの説教を聞いてキリシタンとなり、ガスパル・ヴィレラより「サンチョ」という洗礼名を与えられると、
以後の頼照のキリスト教への傾倒ぶりたるや相当なものですぐに領内に教会を多数建てて多くのキリシタンを呼び込んだ。
三好長慶から代が変わって主君が義継になり、バレテン追放令が出ようとその信仰は揺るがす、
一度は三箇城を破壊され、所領や財産を没収されるという憂き目にも遭った(後に返還されたが)がそれでも頼照は棄教しなかった。
そんな頼照の敬虔な信仰ぶりは当時のキリスト教宣教師たちから絶賛されている。
ルイス・デ・アルメイダ「予が日本で見た最も信仰厚きキリシタンに属す」
ルイス・フロイス「イエズス会士に対して真の父の如き庇護を与えた人」
また、フランシスコ・カブラルも頼照の語った「キリスト教と日本人の宗教観」についての演説に深く感銘を受けて、
日本人の聡明さを表したものとして頼照の演説文をそのままインドのゴアに送っている。
しかし、そんな頼照にも問題点はあった。
領内に美しい教会などを次々と建ててキリシタンを手厚く保護していたがその影で寺院などは取り壊されて肩身の狭い扱いを受けていたのである。
天正5年(1577)、ついに頼照は領内の寺院全てを破壊し尽くすという暴挙に出たが、これが元でキリシタン嫌いの多羅尾常陸介に
毛利家への内通を讒訴され失脚。この疑惑は後に解かれたものの頼照自身は家督を息子に譲り隠居する羽目となった。
有りがちといえば有りがちな行き過ぎた信仰の話。
0397人間七七四年
2012/09/09(日) 14:46:46.58ID:Q5B0QBFz0398人間七七四年
2012/09/09(日) 16:14:12.03ID:/U+lUKh8片言の日本語だから、〜しなさいとか、高圧的でかなり印象の悪い説教だったけど
0399人間七七四年
2012/09/09(日) 16:39:58.54ID:Dvi4jxiX流石に現代のカトリックは自重してるけど
0400人間七七四年
2012/09/09(日) 20:55:49.68ID:PSIY045r0401人間七七四年
2012/09/09(日) 21:04:18.64ID:L9R6RFTr0402人間七七四年
2012/09/10(月) 00:03:01.42ID:MjrB2RIo越前一向一揆の大将の最期
天正2年(1574年)の2月より加賀から押し寄せて越前を織田軍から奪い取った一向一揆であったが、
その一向一揆も翌天正3年(1575年)の夏には早くも織田軍の猛反撃に遭い壊滅した。
この越前一向一揆の主導者を務めた坊官の下間頼照は何とか織田軍の追手から逃れ、
越前から脱出しようとしていたが、執拗な捜索に阻まれ身動きが取れなくなっていた。
府中の近くにある茅屋に忍んでいた頼照は一揆軍が織田の軍勢に悉く探しだされて誅殺されているという報告を受けると
恐怖で焦りが出たのか乞食の扮装をして破れた笠を被って褐衣を羽織って茅屋を飛び出し、
織田軍の目を欺きながら何とかして湊まで落ち延び、加賀へと戻ろうとしたのである。
しかし、頼照の命を狙っていたのは何も織田軍だけではなかった。
道中で本願寺と対立していた真宗高田派の僧たちに見つかってしまった頼照は乞食の恰好のまま湊に辿り着く事もなく首を刎ねられ死んだ。
0403人間七七四年
2012/09/10(月) 11:49:08.69ID:gDOTx3uD0404人間七七四年
2012/09/10(月) 19:12:43.72ID:XcyOepf00405人間七七四年
2012/09/10(月) 19:56:25.92ID:jo8XTKVg0406人間七七四年
2012/09/10(月) 21:32:34.36ID:zpokYFvnまぁ長島と違って結束ガタガタで信長来る前から内紛してて信長来る頃には抵抗するような一揆衆も減ってたみたいだが。
0408人間七七四年
2012/09/10(月) 21:50:30.01ID:Oww+RKUu派遣されたやつが張り切りすぎたのか本願寺が情勢を見誤ったのかはわからないけれど
0409人間七七四年
2012/09/10(月) 22:42:57.33ID:TYYgxFYwお市が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送った逸話ってまだ出てない?
0410人間七七四年
2012/09/10(月) 23:52:53.76ID:11fgjDZwここ数週間で3回見たぐらい有名な逸話をなんで今さら出す必要があろうかw
そのうち2つはアニメ、あと一つは水曜どうでしょうだw
0411人間七七四年
2012/09/11(火) 21:12:46.19ID:z6dKr0bmしかし門徒の勢力が拡大するに連れ、念仏の寄り合いでも平気で酒を飲み魚鳥を食すなど
他宗の物忌を一切無視する門徒たちと、既存宗派との摩擦は大きくなり、これは既存の宗教勢力と
つながりの深い諸語など支配勢力との摩擦も生んだ。
双方の相克が強まる中、北陸の本願寺派の中心、越前吉崎御坊の多屋衆は、文明5年(1473)ついに
守護などへの明確な対決姿勢を決議した。
以下、その有名な決議文である。
『右、我々がここ両三年のあいだ、この当山(吉崎)において今まで忍耐してきたのは、
名誉や利益を目的としたものではなく、栄耀栄華を事ともせず、ただ願うことは極楽往生の為ばかりであった。
その様な中、当国(越前)、加賀、越中の内の土民、百姓以下等において、その人々の一生は、徒に罪業を作って
一善を修養する機会もなく、空しく三途(亡者の行く地獄道、畜生道、餓鬼道)に堕ちており、これは非常に
不幸なことであった。
幸いにも弥陀如来の本願は、誠にもって現在、今の状況に相応しい要法である上
その布教は、偏に念仏往生の安心を勧める以外の目的はないのに、最近の牢人衆による遠征の事について、
様々な(一向宗yがこれに関わっているという)雑説を申され、言語道断、迷惑の次第であり、不運の至、
悲しみもなお余りあるほどである。
このような状況により、心静かに念仏修行をしようとするその在所においてすら、もし要害を構築しなければ
一切の諸魔、鬼神(敵対勢力)に(吉崎御坊を滅ぼす)機会を与えてしまうので、我々は深く要害を
構築したのである。且つこれは盗賊への用心のためでもある。
その他の理由は全くないのだ!
だが、万一、そういう事であっても、現在の状況で我々に無理な要求をしてくるというのなら、
我々同篇(同士)の間では、念仏を唱えて順次往生を遂げて死去することも、また道理に外れた苦難に逢って死去するのも、
共に以前世の業の結果であると理解している。
そうである以上、仏法のために命を惜しんではならない!
合戦すべきだということを、先日諸人一同で評定し、衆議により議決したのだ!
文明五年十月(欠)日 多屋衆』
しかし蓮如はこの多屋衆の決議を批判し、翌文明六年五月十三日の御文でこのように諭した
『そもそも国においては守護方、所にあれば地頭方に対して、いかに我々が仏法を崇め信心を得た者であると言っても、
(彼ら支配層を)粗略にするようなことは、ゆめゆめあってはならないのだ。
むしろ、いよいよ租税や賦役にも熱心に従うべきなのだ。
その様に心得ている人をさして、信心発得して後生を願う念仏行者の手本というべきである。
これらはすなわち、仏法、王法を旨として守れる人と名付けるものである。』
このような中、更に翌年、文明7年(1475)8月21日、吉崎御坊は戦乱に巻き込まれて消失する。
永正3年(1506)には加賀一向一揆の軍勢を破った朝倉氏により、吉崎御坊は完全に破却され、廃坊となった。
戦乱に積極的に参加した、これがその結果であった。
北陸一向一揆をその中心として主導した吉崎御坊の「多屋衆決議文」と、その後についての事である。
0412人間七七四年
2012/09/11(火) 22:50:00.15ID:P3KyvVlI0413人間七七四年
2012/09/12(水) 11:02:15.10ID:cwtpUCSt朝倉の方も出し惜しみはしないだろ。
0414人間七七四年
2012/09/12(水) 18:52:12.28ID:f6RK1jDg0415人間七七四年
2012/09/13(木) 19:07:45.95ID:YiRa+l82因幡智頭郡、美作苫北郡を切り従え武威を両国の間に震い、毛利家に対して無二の忠功を胃打ち立てていたのだが、
一体どうしたことであろうか、兄の景継はその志を変じ、織田信長に通じようとした。
草刈景継からのこの申し出に織田信長は、景継が味方となれば因幡美作両国の攻略が速やかになると
判断し、過分とも言える報償を約束した朱印状を発した。
ところが、である。天は不義を憎まれるとはこの事であろうか、この景継の遣いが帰国の途中、
小早川隆景の設置した関所のものが不審に思い、これを搦め捕り草刈景継の織田信長への内奥を知ると、
これをすぐさま隆景の本拠である安芸国は沼田に連行した!
さて、これを知った隆景は大いに驚き、草刈家の家老、黒岩土佐守を召し出しその一部始終を説明し、
「急ぎ景継を討つのだ!」と下知をした。
黒岩土佐守も否やに及ばず、急ぎはせ帰り次男の重継と協議した。
そしてある時競馬(責め馬)を見物しようと、景継を呼び出した。
景継がこれに応じて見物をしている所を、有無をいわさず討ち取り、その頸を沼田の隆景に捧げた。
草刈重継は武勇優れただけではなく、節義においても固い、節操があり、篤実なる者であったので、
この兄の不義を骨髄に染みるほど口惜しく思い、この後毛利家に対していよいよ忠義をなし、
数度に及ぶ武功を献じた、とのことである。
(陰徳太平記)
草刈景継の、織田への内応事件の顛末である。
0416人間七七四年
2012/09/13(木) 21:51:38.55ID:PXchUSlK0417人間七七四年
2012/09/13(木) 22:03:58.09ID:1TAtvP790418人間七七四年
2012/09/13(木) 22:15:16.05ID:YnpD7mjF信長「長可よ、門番はいかがした」
鬼武蔵「身の程知らずにも止めようとしたので、ぶちのめしました」
信長「本当にうぬは武蔵坊弁慶の再来よな」
森蘭丸「あ、兄上、その血は!お怪我は大丈夫ですか?」
鬼武蔵「ん、これは怪我ではないよ」
森蘭丸「兄上、なにをなさっているのです」
鬼武蔵「遺書を書いているのだ、わしがいうのもなんだが因果な商売だ、
お前はけっして俺の跡を継ぐなよ」
最後、忠政はいずこに
0419人間七七四年
2012/09/13(木) 23:44:03.25ID:DsxZFvcu…えっ
0420人間七七四年
2012/09/14(金) 01:01:54.30ID:gur4czvT高遠城の描写はいいのかというツッコミはやめてください
0422人間七七四年
2012/09/14(金) 01:27:22.51ID:bWnMOtFb0424人間七七四年
2012/09/14(金) 18:41:20.85ID:3AG+fYXOある時、徳川家康は露地(茶庭)の手水鉢をしゃがんで使った。
露地の手水鉢には『つくばい』というようにしゃがんで使うもの
があったのだが、知ってか知らずか本多正純が、
「今時の数奇人(風雅な人)は手水を立ちながら使いますよ」
と言ったものだから、家康は気を悪くして、
「わしの露地では例え将軍であっても、立ちながら手水を
使いはしない。当然、その他の者もな」
と言ったのだとか。
――『徳川実紀(紀伊国物語)』
0425人間七七四年
2012/09/14(金) 19:35:42.77ID:aAWan72P0426人間七七四年
2012/09/14(金) 20:18:15.79ID:fDVJvPNN0427人間七七四年
2012/09/14(金) 22:43:45.88ID:q07tqjbL出てきたのは鮭を調理した御馳走であった。
この鮭料理を前に、元春
『…鮭はその性甚だ熱く、血を破壊すると言う。
今これを食せば、持病である瘡忽が再発してしまうかも知れぬ。』
元春、冷や汗である。しかし
『だが黒田はこの魚を主味(メインディッシュ)として饗してくれている。病気に害があるといってこれを断り
食わないというのも、無骨なやつだと思われるだけでなく、我が主人輝元のためにも良くないことだと思う。
どうしよう?』
元春は思い悩んだ。そして
『今これを毒であるといって食わないというのは、黒田官兵衛に対して遠慮がないと思われるか、もしくは
私が迷惑に思ったのだと、黒田は思ってしまうだろう。まあ実際迷惑なんだが。
ええい、こうなったら!』
少しだけ食べた。
そして酒も数献廻ったあと、官兵衛が言うには「九州が静謐となるのも遠いことではありません。そうなると
筑前一国は元春殿、あなたにあてがわれると、これは殿下のご内意です。」
これに元春も「かたじけなし」と謝辞を述べ、やがて饗宴も終わり退出し、その夜、
元春の瘡忽が大いに痛みを発し、日を追うごとに病は重くなった。これを知った毛利輝元は医師の徳琳を遣わした。
小倉城詰の丸で徳琳と対面した元春は、近習に助け起こされると彼を近づけ、輝元への伝言を頼んだ。
「私もこのごろは少し回復したようで、近日中には輝元様と直接対談もできるだろうが、先にあらかじめ、御辺に
言っておこうと思う。私の言うことをよくよく聞いて、輝元様に申し伝えるように。
今度九州退治のため、殿下がご出馬を仰せになられ、これによって我等三家(毛利・吉川・小早川)は、
先鋒として当国に出張しました。であれば、今回は輝元様は、今まで戦場に赴いたことと同じように考えられて
いては、甚だ宜しくありません。
何故かといえば、我々が各地で秀吉公と対陣していた当時は、輝元様を本陣として、隆景や私が先陣として進み、
士卒を下知し手を砕き攻戦の功を励まし、輝元様はただ帷幕の中に在って作戦を運用していればよいだけでした。
ところが今回はそれに引き換え、殿下が総大将であるので、輝元様は先陣の戦将となって、今まで隆景や私が
輝元様の先陣として戦を決したように、輝元様自身がそう心得、しなければなりません。
これは言わずにはおられない事でした。
それから次に、肥前の竜造寺政家(龍造寺隆信嫡男)の事です。彼は未だに殿下に属していません。
しかし現在の六十余州では、皆が殿下のために働いているというのに、政家一人がどうして独立を保てるものでしょうか。
彼もきっと、殿下に和を請い安堵したいと考えているはずなのですが、そのための良い縁故を持っていないために、
空しく歳月を過ごしているのです。
そこで、幸いに当家は、龍造寺と隆信以来の良好な関係がありますので、輝元様から使者を出し、和平の儀を進め
殿下にも推挙すると言い送れば、政家はきっと喜びに耐えず了承することでしょう。
龍造寺を味方に引き入れれば、この九州征伐における一方の功の助けとなるでしょう。」
このようなことを聞き終わると、徳琳は退出した。
しかしこの後も元春の病状は日々悪化し、同年11月15日、ついに逝去した。享年57歳であった。
(陰徳太平記)
吉川元春、その最後についてである。
0428人間七七四年
2012/09/14(金) 23:00:21.32ID:uoM+Liuk0429人間七七四年
2012/09/14(金) 23:20:09.15ID:fDVJvPNN0430人間七七四年
2012/09/14(金) 23:29:00.38ID:XAXcfTyp気配り上手なだけに気苦労も絶えないって感じか
0432人間七七四年
2012/09/15(土) 00:29:30.40ID:kF2lCOXYとくにトロ握り
0433人間七七四年
2012/09/15(土) 01:40:24.46ID:rb2a6yGM0434人間七七四年
2012/09/15(土) 08:46:24.68ID:SnsE7OfF元春の逸話を聞くと
鮭の食べ過ぎに注意しろという
長重や至鎮たちの思いやりだったのかもしれないな
とか思ったり思わなかったり
0435人間七七四年
2012/09/15(土) 09:49:34.45ID:2hUw/52R結局予感的中なわけだが。
0436人間七七四年
2012/09/15(土) 11:17:45.78ID:V6NusZYo0437人間七七四年
2012/09/15(土) 11:47:47.58ID:cHnSDcNEただ当時信じられてたなら、それを馬鹿だ無知だと現代人の目から非難するのは卑怯
0438人間七七四年
2012/09/15(土) 11:49:41.90ID:b+lUaeV40439人間七七四年
2012/09/15(土) 11:59:57.90ID:cHnSDcNEサケは温めるものに分類されるらしい。
体を冷やす物の代表は夏野菜、温めるものに唐辛子なんかは理解できるけど、
サケが体を温めるものっていうのは分類ありきの無理矢理こじつけ感があるね。
文献によっては逆に体を冷やすものに分類されてるみたいだし。
元春はなまじっか知識人だからこんな情報も知っていて、病気に良くないと思ったんだろう。
0440人間七七四年
2012/09/15(土) 12:09:10.28ID:F3xx7yXu0441人間七七四年
2012/09/15(土) 12:18:08.11ID:YPN+IE/i0442人間七七四年
2012/09/15(土) 12:20:08.13ID:r8vek6IB0443人間七七四年
2012/09/15(土) 14:40:21.87ID:6JeLg8Af0444人間七七四年
2012/09/15(土) 18:32:22.04ID:JKvx2fFL0445人間七七四年
2012/09/15(土) 20:05:45.48ID:B5pwwuHKこの一揆平定に従軍した吉川広家が、黒田官兵衛に以前のことを尋ねた
「先日私が萱切山において一戦せんと申し上げた時、あなたはそれをしきりに止めるよう言われました。
老巧の人の意見であり、また我が父元春も、万事あなたの指図に任せよと言っておられました。
その為どんな事でもあなたの言うことには背かないよう決心していたので、あの時は戦うことを
断念したわけですが…
改めてお尋ねしたいのですが、官兵衛殿はあの時、一体どういうお考えで私が合戦を行うことを
止められたのでしょうか?」
これを聞いた官兵衛、ニッコリと笑って
「ああ、あの日、広家殿が合戦を行えば間違いなく勝利されたでしょう。だから止めた。」
「!?、必ず勝利すると思われたのに、ではどうして止めさせたのですか!?」
「それはね?あの日広家殿が戦をして大利を得られては、ほら、その前にうちの息子の長政が、敵を侮って
負けちゃったでしょう?それとこれの優劣が比較されて、長政にケチが付いてしまうなと、そう思ったのです。
ですからあなたが戦をしようとするのを、堅く阻止したわけなのです。
私はあなたと兄弟の約を成した間柄ではありますが、そんな盟約も、実の子への愛には
勝てないものなのですねぇ。」
(御辺吾等兄弟の約を成し申したりとは雖、実の子の愛には不勝候そやと宣けるにそ。)
広家これを聞いてさすがに呆れ
「と言うことは、私は黒田官兵衛に方便をされていたのか!
いやはや、あなたの真意をもっと早く察していれば、制止されても聞く耳持たず一戦した物を!」
そう言って大笑いした。
黒田官兵衛と吉川広家は多年の親友であったので、官兵衛も自分の思っていることを正直に語り、
広家も方便をされても、さらに恨むことはなかった、とのことである。
(陰徳太平記)
そんな親バカ官兵衛さんのお話である。
0446人間七七四年
2012/09/15(土) 20:53:49.73ID:6JeLg8Af0447人間七七四年
2012/09/15(土) 22:10:10.31ID:Nm1+L9EV0449人間七七四年
2012/09/16(日) 09:04:36.51ID:nzGeo2Wk最近の研究ではマジで漢方どおりの体温変化がある食べ物も見つかってるし
経験則として馬鹿にできないものがあるんだろうな
0451人間七七四年
2012/09/16(日) 11:01:56.20ID:E8p4a0fx0452人間七七四年
2012/09/16(日) 12:35:39.30ID:xoIfxujC0453人間七七四年
2012/09/16(日) 12:53:13.78ID:uDd3vLfC0454人間七七四年
2012/09/16(日) 12:54:18.22ID:T8KhrIps0455人間七七四年
2012/09/16(日) 13:17:54.82ID:gM79Kzef若い頃は蹴鞠の話ばかり
0456人間七七四年
2012/09/16(日) 14:45:52.15ID:4accDfiH0457人間七七四年
2012/09/16(日) 19:26:47.31ID:yhYYyDQVお前ら恐れ知らずだな・・・、お前ら2/36決定だわ
0458人間七七四年
2012/09/16(日) 19:28:46.31ID:81YxZFft時は大坂冬の陣から年が開けた翌慶長20年(1615年)春の事。
大坂方の和睦の使者として駿府へと遣わされていた『大坂城七手組』の一人に数えられる青木一重は
駿府から大坂への帰途に京で板倉勝重の接待を受けていた。
しかし、これは罠であった。板倉は突如として兵を呼んで一重の身柄を拘束したのである。
囚われの身となった一重に板倉はこう告げた。「大坂へと戻れば弟である青木可直を処断する」と・・・
一重の弟である可直は大坂方ではなく、徳川家の旗本として3000石を与えられていた身分であったが、
これを処断されるとあらば家名存続が危うい。結局の所、一重は夏の陣が終わるまで板倉に軟禁されたまま過ごした。
その後、開放された一重は剃髪して高野山に隠棲していたのだが、家康から二条城へと呼び出しを受け、
何故か豊臣時代(1万石)から微増の摂津豊嶋1万2000石を与えられ初代麻田藩主として諸侯に名を連ねた。
かつて一重は徳川家に所属しており、姉川の戦いで真柄直隆を討つという功を挙げて家康から武勇を賞賛されたが、
三方ヶ原の戦いのしばらく後に徳川家を去っており、何の因果かそれから実に42年の時を経てまた再び家康から禄を賜る身分となった。
少なくともいい話ではないのでこっちに
0459人間七七四年
2012/09/16(日) 19:46:40.38ID:G+9Cjne/0460人間七七四年
2012/09/16(日) 20:50:41.37ID:0tEYl2V4家康としては一重を無駄に殺したくなかったのかな
0461人間七七四年
2012/09/16(日) 20:50:42.28ID:lre/8rHzスパイでもしてたの?
0462人間七七四年
2012/09/16(日) 21:43:40.86ID:gM79Kzef長老格の青木一重がこんなことになると七手組としてはもう何も意見言えなくなって結果的に主戦派の暴走を許すっていうのが狙いかなと妄想してる
0463人間七七四年
2012/09/17(月) 00:39:39.10ID:W8rDjt/n0464人間七七四年
2012/09/17(月) 00:48:37.46ID:gCUeR2Yw家康が呼びつけたってことは戦後すぐの話だし
一重を許すのは、少なくとも家康にとっては既定路線だよな
単純に死なせたくなかっただけなんじゃないのかと
0465人間七七四年
2012/09/17(月) 02:42:06.46ID:9t6TBFJk0466人間七七四年
2012/09/17(月) 08:23:44.35ID:ggqP0q70いよいよ手切れ布告の段階って事になるのか?
0467人間七七四年
2012/09/17(月) 10:17:48.94ID:hk/vXnJV0468人間七七四年
2012/09/17(月) 10:36:45.54ID:IUG41wpy0469人間七七四年
2012/09/17(月) 11:01:28.00ID:+5ZV8qHw慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の後のこと。高野山に逃れた一人の武将が豊臣秀頼の死を知って自害しようとしていた。
男の名前は伊東長実といってかつて織田家で「編笠清蔵」の異名をとった伊東長久の長男であり、
信長の死後は秀吉に仕えて黄母衣衆に抜擢され活躍。やがて『大坂城七手組』の一人に選ばれたという経歴の持ち主である。
いよいよ自害しようかという所で徳川家の使者が高野山へと現れ、長実の自害を止めさせると「かつて関ヶ原の戦いで
石田三成の挙兵を報じた功績で豊臣時代からの備中川辺1万石を安堵する」との事を伝えられた。
初め長実は「二君に仕えず」と断ったものの家臣からの説得もあって出仕を決意し、大名として諸侯に列したのであった。
こうして夏の陣まで大坂方として参加しながら所領を安堵された伊東家は備中岡田藩主として明治維新まで命脈を保った。
・・・しかしながら、この長実にはスパイ疑惑があった。
「老士談録」に寄れば長実は大坂の陣の少し前の頃より朝比奈義次なる武将を雇い、寵愛を注いで評定などにも同席させていたのだが、
この朝比奈という男は実は京都所司代板倉勝重の家臣であり、評定や大坂城内の様子を逐一板倉に報告していたというのである。
また、結婚時期などの詳細は不明であるが長実の息子である長昌は板倉勝重の養女を娶っていた。
どこまで本当かはわからないけど色々噂を立てられていた人のお話
0470人間七七四年
2012/09/17(月) 11:16:24.08ID:motsuw+B0471人間七七四年
2012/09/17(月) 11:34:32.07ID:ggqP0q70仕方のないことなんだろうな
0472人間七七四年
2012/09/17(月) 11:56:57.61ID:avmaeOf30473人間七七四年
2012/09/17(月) 15:30:29.56ID:Y7sWbmiA0474人間七七四年
2012/09/17(月) 17:50:22.94ID:+cQVIHtH全然知らんかった
0475人間七七四年
2012/09/17(月) 19:57:44.06ID:bjO5ydSC彼は本能寺の時、織田信長に槍を付けたとされたが、これにより豊臣秀吉から、
主君の敵であると大いに憎まれ、さしもの武名燦然たる勇者も逼塞の生活を余儀なくされていた。
そんな中関白豊臣秀次が、未だ三好治兵衛と称していた頃であったが、秀吉に許可をもらって
召抱えることとなった。
ある時の事、秀次が殿舎の建設をするとして、天野にも家人を召しだしてこの普請に当たらせよと
命じた。普請役というものである。天野は「承り候」と答えたものの、内心にこう思った
『私は国に大事のあった時、一方の先陣を駆けて敵を挫く事こそを仕事として、この人に仕えたのである。
普請などということをさせられるとは聞いていない!そのような作業は足軽などがするものではないか。」
そして屋敷に帰ると、すぐさま自分の士卒2,300人に弓鉄砲を持たせ、自分は槍を掴み、
その姿で普請場へと押しかけた!
この完全武装の集団を見た秀次は大いに驚き、
「天野は狂乱したのか!?どうしてこんな事をするのか、理由を聞いてこい!」
と、叫ぶと、側衆が出てそのとおりに天野に聞いた。これに天野曰く
「それはですな、私はここに家人を召し連れて来るようにとの御下知を受けました。
これはきっと、謀反人などがあって、それを討てという事があるのだと判断しました。
そのためこのように武装して馳せ参じたのです。」
秀次家臣の田中兵部はそれを聞くと大いに驚き
「そ、その様なことではない!急ぎの普請があるから家人を召し遣わし、この作業の功を励ませとの
仰せであったのだ!」
天野、この言葉にカラカラと大笑した
「私は、普請をするような家人は持ってはおらぬ!私は家人たちにいつも、槍を付き太刀を打つ業こそ
心掛けよと言っておるのだ!」
秀次はこの天野の言葉に激怒した
「このような傍若無人の行為を成すような者、頸を刎ね獄門に懸け。諸人に対する見せしめとせよ!」
そういって天野に対し討手を差し向けようとしているのを見て取った天野は、
「もはやこの様な暗君に仕えていかにするというのか」
と、直ぐ様その場より出奔した。
ちなみにこの天野の出奔がこのあと、
↓この話のように福島正則と立花宗茂を大いに対立させる事になる
福島正則と立花統虎(宗茂)、胃が痛くなりそうな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2654.html
そんな天野源右衛門、秀次家出奔の経緯である。
(陰徳太平記)
0476人間七七四年
2012/09/17(月) 21:35:29.70ID:+5ZV8qHw0477人間七七四年
2012/09/18(火) 18:34:46.79ID:VDmDAEvd関ヶ原の戦い後、渡辺了は主君・増田長盛の命があるまで郡山城を
接収させなかったが、この時、了は前もって妻子を本丸に入れて置いた。
対して田中角之助は妻子は足手纏いだとしてあらかじめ立ち退かせ、
自分だけ討死にする支度を整えていた。
だが、やがて長盛から城の受け渡しを命じる書状が来たので、
田中は城を渡して立ち去った。
田中は妻子を立ち退かせ、躊躇することなく城を去った。
しかし名声を高めた了とは違い、後世の批判を免れることはできなかった。
――『名将言行録』
0478人間七七四年
2012/09/18(火) 21:11:42.22ID:xz19Y2AV当時の価値観的には専門外の事をさせようとした秀次にも非はあるのかもしれんが
それに対して反論より先にこんな態度取っちゃうのはどうなのこれ
命じられたその場でハッキリ無理って言う方が男らしいと思うんだが
てか他の逸話も見たけどこいつ部下として滅茶苦茶使いづらそうな奴だなw
0479人間七七四年
2012/09/18(火) 21:18:41.11ID:toLLw6L80480人間七七四年
2012/09/18(火) 21:22:13.78ID:wEtAUHrfこの時代は平時だと雇ってないのかな?
0481人間七七四年
2012/09/18(火) 23:32:31.21ID:juvbnCgD本当なら所詮は葉武者だったってことだね。
0482人間七七四年
2012/09/18(火) 23:37:34.49ID:Y7wJegr+士卒2-300も支配していても気分は一騎駆けの猪武者か
0483人間七七四年
2012/09/19(水) 04:02:35.25ID:0GaEnQMr0484人間七七四年
2012/09/19(水) 18:06:07.20ID:XGxRcsUXそれにしても一応主君相手にどうなのそれ、という感じだなあ
0485人間七七四年
2012/09/19(水) 18:55:00.88ID:jswBSx1i市松さんちでの可児才蔵みたいに「少禄で構わないから普請免除ヨロ」なら角も立たなかったんだろうけどなあ
0486人間七七四年
2012/09/19(水) 21:06:41.65ID:/8EH4R/Pしかしそれだと寄騎つけられないから実際少禄になっちゃいそうだなあ
最も戦以外のあらゆる役目を免除されたら意外とそれでも裕福に暮らせるのかもしれん
0487人間七七四年
2012/09/19(水) 23:14:55.41ID:XGxRcsUXってなるだけな気も
0489人間七七四年
2012/09/20(木) 11:02:12.15ID:SHb5RPY50491人間七七四年
2012/09/20(木) 11:36:35.24ID:wUnYQsSP滅んだり小大名で終わったりしてたら殆ど戻って来なかったと思うぞ。
0492人間七七四年
2012/09/20(木) 13:59:32.40ID:/XjT+PGhまぁそういう、勝ち馬に乗ろうとした奴もいただろうけど、一向一揆の時に一揆に参加して
終息後に降伏せずに一旦は出奔した連中とか、結局ほんの数年で帰参した奴も結構いた
当然、当時の家康は、天下どころかなんとか三河一国を平定っていう段階
たぶん、「どうせ降伏しても冷や飯喰わされるんだろ!」と思って出奔したものの、あとで
降伏組が意外に冷遇されてなかったりする様子を聞いて、「なんだ、じゃ帰ろ」ってことに
なったのではないかと
0494人間七七四年
2012/09/20(木) 15:16:58.50ID:ufXKlLDXつうか一揆側って次男坊以下や分家とかが多かったって昔の群像かなんかで書かれてるのを読んだ記憶があるんじゃが
0495人間七七四年
2012/09/20(木) 18:50:17.79ID:mT5W41pB退却する奇襲部隊を追撃した幸長だったが、この退却は偽装であり、浅野勢は伏兵に囲まれ、窮地に陥った。
浅野勢は大将の幸長みずから鉄砲を連射し、槍を振るい反撃したが、あるいは討たれ、あるいは散り、
城の惣構に逃げ着いた時には、幸長に従う者は重臣の浅野河内守と、徒歩武者の橋本六郎のみとなってしまった。
「ようやく逃げおおせたか。やれやれ、安心したら腹が減ったのう。」
「殿、これを。」
やっと一息ついて飢えを漏らした幸長に、六郎は腰の袋から握り飯を三つ取り出し、一つは幸長に献じ、
一つは自分で食い、残る一つを再び腰袋に収めた。
「おっ、良い物を持っておるではないか。残る一つ、わしにくれぬか?」
六郎の様子を見ていた河内守の頼みに対し六郎は、この重臣を睨みつけて答えた。
「これは、拙者の予備食にござる。いざという時はこれを食って最後の力を振るい、殿の馬前に果てる覚悟。
貴殿こそ、お家の重職たる身が腰兵糧の用意も無く、どうして戦陣に臨んでおられるのか?
今日、奇襲に敗れたのも貴殿らの、そのような用意の無さゆえではありませぬかな。」
戦後、日本に帰った幸長に河内守は、六郎を己の組下にする事を望んだが、河内守の心底を見抜いていた幸長は
ついにこれを許さなかった。(近古史談より)
橋本家は、芸州浅野藩家臣として永く続いたという。
島津家・中馬大蔵と浅野家・橋本六郎、どこで差がついたのか 慢心、環境の違い
0496人間七七四年
2012/09/20(木) 18:58:25.28ID:6+IZfnb9中馬の場合は駕篭かきに食わせたほうが
それぞれの主君の生き残る確率が高くなるわけで
なぜ差がついた、とか言われなきゃいけないのかがわからない
0498人間七七四年
2012/09/20(木) 22:35:28.68ID:wUnYQsSP0499人間七七四年
2012/09/20(木) 23:39:52.44ID:7951B03d河内守は自分の分があるにもかかわらず六郎に良い物持ってんなって言ったんだろうか
もしそうなら河内守は仲間を盾にして逃げおおせたような奴なんだろうな
0500人間七七四年
2012/09/20(木) 23:45:18.01ID:pQEoZRdk0501人間七七四年
2012/09/20(木) 23:49:47.93ID:3fQNXpI2ttp://photo.uzra.jp/event/2012101314sp.php
0502人間七七四年
2012/09/21(金) 09:45:26.64ID:AFJc4VZR0503人間七七四年
2012/09/21(金) 18:03:47.66ID:MHus+mKZ向かったところで、中村と言う場所で落ち武者狩りの郷民に取り囲まれた。
盛政は彼らを睨みつけ
「私の命運はここに付きた!再び合戦をしても勝機はないだろう。
お前たち、あの藤吉猿面郎のところへ私を連れて行け!ひとこと言っておきたいことがある。」
こうして盛政はこの郷民たちに捕われ、北の庄の浅野長政のもとに連行された。
長政は盛政を見て、彼を侮るように言った
「あなたは鬼玄蕃とまで言われた人ではないか!どうして未だ死なずにいるのか!?」
盛政はこれを聞くと
「汝はなんと愚かなことか。かつて源頼朝は大庭景親に負けて伏木の中に隠れ、将軍足利義稙(原文では義昭)は
細川政元に捕われ幽閉されたが、後についに脱出し大功を立てたではないか!
将たるものが、どうして容易く敵に自分の死を許すことがあろうか!」
これを聞いた人たちはみな、盛政の凄まじい気魂に舌を巻いたという。
(佐久間軍記)
0504人間七七四年
2012/09/21(金) 18:18:55.37ID:61LT6kna0506人間七七四年
2012/09/21(金) 19:02:33.25ID:2M0Px8yd0507人間七七四年
2012/09/21(金) 19:29:48.96ID:ggKjd+3g郷民も身ぐるみはぐより褒美をもらうほうが得だと思ったんだろうね
0509人間七七四年
2012/09/21(金) 21:15:12.12ID:Dhfzjym20511人間七七四年
2012/09/22(土) 01:02:26.01ID:F7XLBAknそれとも豊臣家の中枢に居た人なのにあまりにも早く家康の軍門に下ったから
江戸初期には侮られて小物役にふさわしいと思われてたんだろうか
0512人間七七四年
2012/09/22(土) 01:07:25.95ID:QuUwL04tという話が本当ならどの豊臣恩顧の武将よりも豊臣への
恩は深いはずなのに...
0513人間七七四年
2012/09/22(土) 05:33:44.59ID:v4hiVesG0514人間七七四年
2012/09/22(土) 06:06:52.39ID:qRdHmeZi0515人間七七四年
2012/09/22(土) 06:14:44.22ID:JJ8Bdbbi0516人間七七四年
2012/09/22(土) 07:34:28.08ID:/3atuCBe捕縛された佐久間盛政も山口甚兵衞、副田甚左衞門に警護され京へとその身を移された。
秀吉は浅野長政を使いに立て盛政にこう言った
「私はお主の大功を知っているので、殺すに忍びない。そこで怨敵と言う思いをひるがえして、私に従ってはくれないか?
九州の諸大名は未だ服属していない。私はお主に肥後を与え、九州の討伐を任せたいと考えているのだ。」
盛政はこれを聞くと
「命を助けてもらい、その上大国を与えられるということ、これは後代までの名誉である。
私が九州に行けば1年のうちに平定するだろう。平定を終えて上洛をして、秀吉に対面すれば、
その時私は必ず憤怒の感情が生じて、思わずとも秀吉を斬り捨てるだろう。
そうでなくても肥後に下って、反乱を起こすだろう。私は秀吉とはそれほど相容れないのだ。
命を助けてもらった恩、国主としてもらった恩を返すこと無く却って災いになるというのはどうかと思うだろう?
恩というなら、速やかに死罪にしてもらいたい!」
長政は帰って秀吉にこれを報告すると、秀吉は再び長政を盛政の元に使いさせた
「もしかしてお主は、私が何かはかりごとをお主に対して企んでいると考えているのではないか?
私はそんなことはしない!その事は天のご照覧に任せる!とにかく、早く私に従って欲しい。」
盛政は答えた
「私は秀吉にはかりごとが有ると考えてはいない。そもそもそういう話ではない。
勇者たるもの発した言葉を、再び翻すべきではない!
私に対しては明日、必ず車に乗せて洛中を一見させて、河原にて殺されるのが良いだろう。」
秀吉もこれには
「勇者の一言というものは俚諺にもあるように、もはやとても、私に従うような事はないだろう。」
と、ついに盛政の助命を諦め、彼に最期の衣装を与えた。
佐久間盛政は自らの小袖の上に染物の赤い大広袖を着て車に乗った。
その姿は、身長六尺(約180センチ)、顔は紅潮し、頬髭があったと云う。
天正11年(1583)5月12日、年齢は30、車にて洛中を引き回れた。
世に聞こえた鬼玄蕃を見ようと貴賎上下を問わず馬車道に横たわり、
男女が巷に立ち並んでこれを見た。
盛政は引き回されながら彼らを睨みつけ、河原において処刑されたとの事である。
(佐久間軍記)
以上、佐久間軍記に見える、佐久間盛政の処刑に至る様子である。
0517人間七七四年
2012/09/22(土) 08:51:18.05ID:lu9U/Xis0518人間七七四年
2012/09/22(土) 09:24:56.87ID:LIK4VB4Q0519人間七七四年
2012/09/22(土) 09:49:16.48ID:muq0fmif寧ろ、信長さんの処刑命令をあっさり受け入れた秀吉さんを受け入れられないんじゃないのかな〜
0520人間七七四年
2012/09/22(土) 10:45:05.55ID:F7XLBAkn0521人間七七四年
2012/09/22(土) 11:40:44.23ID:ZpdO2oWP0522人間七七四年
2012/09/22(土) 11:52:36.88ID:jGro9prD0523人間七七四年
2012/09/22(土) 12:00:39.49ID:rIHbkXdq0524人間七七四年
2012/09/22(土) 12:07:25.53ID:LoeRgdT80525人間七七四年
2012/09/22(土) 12:14:52.32ID:hBrVEyEn活動時期は江戸初期だけど生まれは戦国ってことで一つ
0526人間七七四年
2012/09/22(土) 12:24:46.56ID:96f3VvAj浅井長政 (1545年 - 1573年) - 戦国時代の武将・大名。(浅井氏)
浅野長政 (1547年 - 1611年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅野氏)
黒田長政 (1568年 - 1623年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅井氏)
池田長政 (1575年 - 1607年) - 戦国時代から江戸時代の武将。(池田氏)
上杉長政 (生年不詳 - 1628年) - 江戸時代の旗本。(上条上杉家)
織田長政 (大名) (1587年 - 1670年) - 江戸時代の大名。(織田氏、芝村藩)
山田長政 (1590年 - 1630年) - 江戸時代、シャム(現タイ)の日本人町の頭領として活躍した人物。
関長政 (1612年 - 1698年) - 江戸時代の大名。(関氏、宮川藩)
織田長政 (旗本) (1628年 - 1690年) - 江戸時代の旗本。(織田氏)
0527人間七七四年
2012/09/22(土) 12:26:14.75ID:4Cw0SdeS0528人間七七四年
2012/09/22(土) 12:28:22.84ID:96f3VvAj「オレは14歳で初陣して以来、手柄を何度も取った。
しかし、人は皆『如水の子だから当然だ』という目をしている。
その点、幸長はさして武辺者でもない弾正(浅野長政)の子だから、
あまねく天下から武勇をもてはやされている」と。
0529人間七七四年
2012/09/22(土) 12:32:40.70ID:EB2SNDHC0532人間七七四年
2012/09/22(土) 13:23:50.56ID:F7XLBAknそれも同時代の人から見ればとびきりの武辺者だと思うけど
0533人間七七四年
2012/09/22(土) 13:43:27.23ID:uCrdzVEhあのクロカンの息子なんだからさぞ出来がいいんだろう、
とか思われてたんじゃないかと
0534人間七七四年
2012/09/22(土) 13:47:22.01ID:fd1muouz大隅の城において薩州様が手討ちに及ばれたことがあった。
その時、お使いになった正宗の切先が鴨居に当たり折れてしまったそうである。
これ以来島津家においては正宗を差し料とはしないと言うことだ。
これは薩摩の国人、小川權兵衛から聞いた話である。
『鍛錬玉函』
『鍛錬秘函』
やっちゃった感がすごいですが
これはどの島津の殿様なんでしょうねえ・・・・・・?
0536人間七七四年
2012/09/22(土) 14:00:10.18ID:96f3VvAj0538人間七七四年
2012/09/22(土) 14:13:58.05ID:F7XLBAknそう言えば嫁を失った後の秀忠の手討ち話は豪快で爽快感すらあったな
0540人間七七四年
2012/09/22(土) 14:56:48.87ID:rIHbkXdq0541人間七七四年
2012/09/22(土) 15:18:38.01ID:pPMT5WgO0543人間七七四年
2012/09/22(土) 15:52:52.43ID:nlPpsqja0544人間七七四年
2012/09/22(土) 16:07:36.49ID:hBrVEyEn鴨居とかで刃毀れしちゃう間抜けは、まああいつだな
東郷に襲いかかって返り討ちにあったのと同じ匂いがする
0545人間七七四年
2012/09/22(土) 16:10:34.29ID:pPMT5WgO0546人間七七四年
2012/09/22(土) 16:21:21.93ID:URmyPShf0547人間七七四年
2012/09/22(土) 16:59:16.30ID:ttUqhglz0548人間七七四年
2012/09/22(土) 17:21:58.61ID:96f3VvAj0550人間七七四年
2012/09/22(土) 20:47:10.39ID:pPMT5WgO0551人間七七四年
2012/09/23(日) 11:12:38.64ID:yvQg5f+q0552人間七七四年
2012/09/23(日) 13:42:41.15ID:Bs7TKjKoここに出た話では棚の中に差し込んで斬ったんだっけ
0553人間七七四年
2012/09/23(日) 14:59:53.21ID:yvQg5f+q鴨井の真下あたりにいるのを切るとか鴨井から一歩のところで振りかぶるとかしないと当たらないな
0554人間七七四年
2012/09/23(日) 15:38:24.29ID:RI8/iPDP0555人間七七四年
2012/09/23(日) 18:09:57.65ID:yEt8ZH620556人間七七四年
2012/09/23(日) 18:12:44.76ID:UJFrPpIcその下の横木に刀が食い込むくらいになるらしい
重位からしてみればYOU、鴨居ごと斬っちゃいなYO!ってことか?
0557人間七七四年
2012/09/23(日) 18:22:16.85ID:RI8/iPDP0558人間七七四年
2012/09/23(日) 19:07:35.90ID:dMgqV0aj0559人間七七四年
2012/09/23(日) 19:47:54.29ID:EMkUoTnH『これは未だ、吉川元春様が生きておられ、我々と織田信長との和平が敗れ、織田との戦いが続いていた頃のことです。
ある時、元春様より隆景様に、次の合戦におけるご自身の方針の所存を遣いを以ってお伝えなされました。
これを聞いた隆景様は驚かれ
「元春は若武者か、五百三百の侍大将のつもりか!彼の言うような事が出来るわけがない、
こんなものは討ち死にするだけだ!彼はここから一歩も引き下がらず、敵に向かって攻めかけるとのみ言っている!
敵の大将である羽柴秀吉は大敵である。その秀吉との争いで、このように短慮で勇一途を専らにしては、
大敗するのが目に見えておる。このような作戦は、尼子勝久程度の敵に対してするものだ!」
私たちは隆景様の仰ったことを、誠に道理だと思いました。この事は元春様が誤っていると考えたため、
元春様の元に行き、この事を申し上げました。すると元春様は
「隆景ともあろう者が、なんと武道を心得ぬ事を言うものだろうか!
どうして私が秀吉を尼子勝久のような小敵と同じに見て、あの方針案を作るものか!
よいか、勝久のような小敵には、先ず負けぬ工夫をして、よく身を縮こまらせ堅く守る戦をするのだ。
そうすれば所詮相手は小敵であるので、次第に威勢衰えて結局は敗北するのだ。小敵こそ恐れるべきものである。
さて、現在我々は織田信長を敵とし、羽柴秀吉と合戦に及んでおる。
織田は大敵強敵であろ、中でも羽柴秀吉は大勇にして智を兼備した良将である。
彼は天性の大将であり、敵が弱気であると見て取れば、即座に打ち破り、そのまま足を止めず
三ヶ国も五ヶ国も、直ちに押し入るような弓取りである。
例えば、我等が父元就が厳島で陶晴賢を討ち滅ぼした時、家中からは「一両年ほど置き
戦備を整えて山口に攻め入りましょう」との声が上がった。これを聞いた父上は
『元就の弓矢は古風でな、私ならば陶を討ったその勢いに直に乗り山口に攻め入る。
そうすれば大内義長はその年のうちに滅びるだろう。期間を空けるのは、遠慮過ぎたる弓矢の取り様である!』
そう言って批判なされた。
秀吉は元就様のような大不敵の将であり、味方が少しでも弱気を見せれば、その威勢に任せ大軍を以って即時に攻め潰してくる。
この様な大将が、しかも大軍を以って敵対している以上、我々は勇を専らとして何度も攻めかかり、
彼の戦機を奪い動揺させ、十死に一生の戦いを決せんとする体を示すべきだと、私は言ったのだ。
それを小敵などとの戦と同様に考え、危うい戦を謹んで身を大事とのみ心得るのは、敵に威を奪われ
味方は気後れをし、ついには刀を血塗る事すら無く大敗するものである!
大敵を見ても恐れず、勇みたるこそ良きことなのだ。
思い出して欲しい。元就様が尼子を攻めようと出雲に侵入する時は、戦を後にし謀略を先にして、
陣城を築き、当方の安全を第一に考えられた。
ところが陶のような大敵と戦うときには、彼は2万余、我々はわずか三千で対峙し、風雨の中
厳島に渡り千死一生の合戦を挑まれた。
これは我々が規範とすべきことではないのか!?
秀吉のような敵を勝久などに対するように心得、危ない危ないと謹んでいれば、終には
戦わずして大いに敗亡してしまうだろう。
敵によって対応も変化させるべきなのだ。」
この様に承り、我等も愚かながら、これもまた畢竟の道理であると思いました。
いつも元春様のもとに参って仰せを承れば、これは当然の理であると思い、隆景様のもとに参って
仰せを承れば、これもまた至当であると思いました。
どちらのご所存も、一つとして愚かなものはありませんでした。
この様な名将が、今や二人ながらにして亡くなられたことの、なんと嘆かわしいことでしょう。』
秀吉との戦いについて、吉川広家と小早川隆景の方針の違い。という逸話である
(陰徳太平記)
0560人間七七四年
2012/09/24(月) 10:44:56.30ID:p3i0xl6D0561人間七七四年
2012/09/24(月) 13:40:04.74ID:zK088e/x0562人間七七四年
2012/09/24(月) 17:07:42.40ID:d6MMRShR0563人間七七四年
2012/09/24(月) 18:24:46.93ID:tt2gFvNR松平忠直は讒言を信じて家臣の布施但馬(久世但馬守)を殺害した。
この時、表口より本多富正、好寄屋口より永見伊右衛門、台所口よりは
永井道存が討手として遣された。
その話を聞いた徳川家康が「その道存とは誰だ。
他の二人のようにこのような時に出るべき者なのか」と尋ねると、
本多正純が「それは永井善右衛門のことでこざいます」と答えた。
「善右衛門のことか! 親の秀康の心にかなわず退去した者を
その子が使っておるのか!
他所に口に糊する所がなかったのだな。親が見限った者を
子として養う道理はない。我が生前に再び道存の面を見ることはないだろう!」
家康は相当不機嫌だったようで、忠直としても放置しておくわけにもいかず、
道存は逼塞を命じられた。
――『徳川実紀(武功実録)』
0564人間七七四年
2012/09/24(月) 21:30:29.62ID:maC7aOIv秀忠に対する礼の篤さが権現様の心を溶かしたのか
0565人間七七四年
2012/09/24(月) 21:46:59.11ID:c7kC9PRQhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6023.html
上の話だと永井善左衛門は、秀忠に壺や刀を献上して徳川家に戻った、てことになっているが
秀忠は親の家康の心にかなわなかったものの帰参を許したことに?
0566人間七七四年
2012/09/24(月) 21:56:24.12ID:PFkfcjlj彼は天性大剛勇猛であったので、大工の道具を売却して太刀を買い、太閤が未だ筑前守であったときに
これに奉公し、上月合戦において27歳にて南條元続の若党の頸を獲ってから後、数度の勇を顕し、
特に賤ヶ岳の合戦において比類の無い鑓働きをし次第に立身して高麗の陣の頃には
12万石(10万石とも)を采地し、諸大夫から四位の侍従に昇進した。
正則は酒に関していつも悪い癖があり、酔うと些細な事でも家人を自ら斬り殺したり、
切腹させたりした。
しかし酔っていない時はそのような悪癖は聊かも無かったのだら、そういう時もあまりに理屈を
強く重視する人で、そのため愛という事を知らず(余リニ理強ク被樹ケル故、愛ト云事ヲ不知)、
小さな罪でも許さず、彼の与える罰は常に、手柄を立てた時の賞に勝る物であった。
そんな事だったので人々の心は彼に叛き親しむこと無く、ただ悪鬼天狗のように恐れていた。
(陰徳太平記)
陰徳太平記より、福島正則についての解説である
0567人間七七四年
2012/09/24(月) 22:00:17.68ID:PFkfcjlj×聊かも無かったのだら
◯聊かも無かったのだが
です。
0571人間七七四年
2012/09/25(火) 23:22:08.95ID:/0D5qFmv1597だったしwww
0572人間七七四年
2012/09/26(水) 00:02:11.99ID:NzqqgQxX1997年じゃ平成になってからの叙任になってしまうな
0573人間七七四年
2012/09/26(水) 00:15:53.23ID:zOxjmtoR筆者はもとから市松を良く思ってなさそうね
0574人間七七四年
2012/09/26(水) 00:57:27.13ID:IU4GiR0Q上杉景勝は越後、信濃の旗下の兵を動員して反乱を起こした新発田へ出陣した。
同年九月、
この隙をついて隣国深志城の小笠原貞慶は、兵三千余を率いて上杉方の竜王城を襲った。
この時、城主清野清左衛門佐は景勝の新発田攻めに従って居た為、
城には隠居した父の清就軒と兵四十余が籠るに過ぎなかったが
清就軒は、信玄公以来の武功の将だったので、
兵を三つに分け城内や山岳に潜ませ五千六千の兵に見えるように配置した為、
小笠原勢を食い止めることに成功した。
そして自らは、海津城の村上(山浦)国清の許へ援軍の要請に向かった。
海津城で国清に面会した清就軒は、
「我等が敵を引き付けている内に海津城から兵を出し、
敵の後方から切り崩せば小笠原勢を討ち取る事が出来るでしょう」
と主張したが国清は、病気を理由に出陣を渋った。
これを聞いて清就軒は、
「自身の出陣が無理ならせめて二十三十の寄合武者だけでも寄越すべきである!
このような不義な振る舞いをするのであれば、
川中島の四郡の内に貴殿の下知に従う者は一人も居なくなるだろう!!」
と怒り戦場へ戻って行った。
これに国清もさすがにこたえたのか二日後に配下の島津勢を加勢に向かわせた。
島津勢が到着する前の九月十一日払暁、
小笠原勢は竜王城の守りが堅く進攻は無理だと判断し、兵を九つの備に分け撤退を始めた。
山上からこれを見た清就軒は、
十騎に雑兵四百五十余を率いさせ山上に残し、自らは三十騎を率いて山を駆け下りた。
不意を突かれた小笠原勢は混乱し、歩者二三〇、士五六騎の被害を出して壊走していった。
十月五日、帰国した景勝は清就軒に感状を与え、救援を拒否した国清は、春日山城に召喚され
「今度の様子頼もしからず。ゆくゆく、川中島を敵に取られるべき事眼前なり」
と叱責され海津城主を罷免された。
『管窮武鑑』
0575人間七七四年
2012/09/26(水) 10:27:59.59ID:Ii86Mq/Sちゃんと成功するもんなんだなー。
それにしても、小笠原勢は一度も攻めなかったのか。
0576人間七七四年
2012/09/26(水) 13:16:27.86ID:5xg+0/viもしかしたら、この板の住人が1票ぐらい入れてくれるかもしれん。
0580人間七七四年
2012/09/26(水) 21:00:19.82ID:SlP38sd50582人間七七四年
2012/09/26(水) 23:11:58.10ID:V+z4qb0d0583人間七七四年
2012/09/26(水) 23:25:22.35ID:aENemeea敵の主力が出陣している隙をついて敵地に乱入する小笠原貞慶。
そのまま攻めかかった場合は、こんな感じ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-630.html
0584人間七七四年
2012/09/27(木) 04:30:59.03ID:Q5dWYvzf彼もまた父のように武田家に忠義を尽くしたかというと…、
ついに織田軍の武田征伐が開始され、東駿河の三枚橋城にいた信達は勝頼の元に馳せ参じる!
「勝頼様のおそばで戦いますぜ!」
…しかし実態は、近隣の戸倉城が同時に動き出した北条軍に落とされたため、
恐れおののいて逃げてきただけであった。そのため三枚橋城はそのまま北条軍のものとなってしまった。
これに対し勝頼は「なに三枚橋放棄してこっち来てるんだ!お前はもう地元の海津城に帰ってろ!」
と叱られ、とぼとぼと信濃の海津に帰還する。
その後、やって参りました鬼武蔵!これに対して信達は!
「あたしゃ強い者には逆らいませんぜ。この通り人質も差し出します。へっへっ。」
と息子を人質に出してさっさと降伏、そのまま鬼武蔵の配下になる。
しかし間もなく本能寺の変が発生。鬼武蔵はただちに帰還することに。
すると信達は…!
「おおっと兄さんここからは帰しまへんで。立場は逆転したようですのう!」
と裏切り、一揆衆を率いて鬼武蔵の帰還を妨害する。
これに対し鬼武蔵側は大塚次右衛門を使者に立て、
「こっちには人質がいるんだ!こんな状況で汚ねえ真似しやがって、道を開けろ!」
と強い態度で責めたて、不可侵の約束を取り付ける。しかし…、
「なーにぶっ殺しちまえばいいってことよ。」
と約束を破り攻撃する。
しかしそこは相手は鬼武蔵。あっさり撃退される。
再度不可侵の約束を取り付けられて撤退されてしまう。
しかし鬼武蔵の怒りは収まらず、その後人質は皆殺しにされてしまった。
次に信達は上杉景勝に臣従することにした。
しかしやがて北条氏が勢力を伸ばしてきた。隣の真田昌幸も北条氏に仕えることにしたという。
「こりゃまた強い方に乗っとかな損でんな、上杉はんサイナラ。」
とまたしても裏切ろうとするが…、
景勝「てめえが裏切るだろうことはすでに見抜いてたんだよッ!!」
とここで信達、ついに誅殺されてしまった。
しかも話はここで終わらない。
やがて鬼武蔵の弟・森忠政が川中島に配置される。
そこで忠政が初めに手を付けたことは…、
「ここに兄貴を裏切って随分ナメた真似してくれた奴らがいるってなあ!ケジメつけてもらおかあ!!」
と残る春日一族を徹底的に探し出して皆殺しにしたという。
忠義?なにそれおいしいの?
0585人間七七四年
2012/09/27(木) 08:55:38.89ID:ylUuRTa00586人間七七四年
2012/09/27(木) 09:35:01.19ID:il61QrAl0587人間七七四年
2012/09/27(木) 10:25:33.36ID:g5jwDPI20588人間七七四年
2012/09/27(木) 12:41:41.93ID:K93fT0nf0589人間七七四年
2012/09/27(木) 12:57:03.26ID:DZcRIs4J真田パパンも春日信達も、「長篠合戦で兄ちゃん死んじゃった組」ですな
武田の武将、長篠後に運命かわっちゃった人がたくさんいるね
0590人間七七四年
2012/09/27(木) 13:09:46.29ID:ZIUk9L710591人間七七四年
2012/09/27(木) 14:05:28.68ID:5KBqIbgC「彦根往古ノ聞書」(慶大図書館収蔵)から
「(井伊)直孝様の時代、家中に上泉権左衛門という人がいた。この人はお見目えの時、髪を結わず長髪で登城したため、藩主の目にとまりお叱りを頂戴した」
剣豪・上泉伊勢守の孫、居合の達人の権左衛門は「拙者は髪にて御奉公は仕らず」と抗弁
結局は、直孝は激怒し、閉門処分に。彦根も退去して尾張に仕える
彦根藩ではその後、長髪登城で2人、ちょんまげを糸でなく藁で結った1人が、閉門処分となっている
戦国期には自由だった髪型も、寛永頃には戦闘の準備行動であるちょんまげが主君への奉仕を象徴し、管理統制へ移行したようだ
…直孝に抗弁して刃傷沙汰にならなかったから、いい話だったかもしれない…
0593人間七七四年
2012/09/27(木) 14:18:19.06ID:g5jwDPI20594人間七七四年
2012/09/27(木) 14:24:26.63ID:4Q5aK0LGttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?no=4215&spの逸話を思い出した
しかし糸でも紙でもなく藁で髪結ぶっておしゃれ上級者すぎるなw
0595人間七七四年
2012/09/27(木) 15:04:30.88ID:OFBUKKBq0596人間七七四年
2012/09/27(木) 16:17:38.68ID:6bzTicsI0597人間七七四年
2012/09/27(木) 17:36:03.46ID:4pQ4ekKl恐らく家を残すことに気持ちが向かい過ぎていたんだな
海津城に戻ってからの行動も、そもそも地政学的にも勢力の大きさ的にも風に靡き
機会主義的な行動も選ばざるを得ず、地侍や農民たちからの突き上げに抗せなかった
面もあるんだろう
愚将凡将と評される人にも全く持って弁護の余地が無い訳ではないさ
0602人間七七四年
2012/09/27(木) 23:35:26.78ID:YE1hKJAw人質37564の話も、こういう事情があったとしたら致し方なく思えるな
てゆーかこいつ、正真正銘のクズすぎて言葉が出ねえ・・・
0603人間七七四年
2012/09/27(木) 23:42:06.24ID:jLsdpooI権左衛門さんってこのことで出奔して尾張に流れ着いて
尾張柳生の所にやってきて剣聖の孫の実力を遺憾なく発揮することになるのか
0604人間七七四年
2012/09/28(金) 00:16:00.10ID:Wj5+BYCP水軍のサポートあってこその拠点だしな
防御力に乏しいし既に兵も足りないので籠城して持久戦も難しく、
撤退するのも止むを得ない選択だろう
>>584はやや悪意あり過ぎないか
0605人間七七四年
2012/09/28(金) 00:18:06.33ID:cG/fzyhGさらにたちが悪いのは、こいつがこういうことするから
虎綱の甥は甲陽軍鑑の執筆を佐渡島に逃れて行わなければならず、
その結果甲陽軍鑑は間違いだらけになり、後世史料的価値なしと断じられることに…。
0606人間七七四年
2012/09/28(金) 17:37:46.53ID:JqkI9rwb0607人間七七四年
2012/09/28(金) 17:52:01.16ID:IO6GurYO0608人間七七四年
2012/09/29(土) 10:10:52.43ID:wO9vk1yW本職なんか、してる暇ないってくらい
0609人間七七四年
2012/09/29(土) 10:17:21.15ID:v/n0K/kkhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/890234
真田幸村が関ヶ原の後、十勇士とともに豊臣の味方を募りながら悪党倒しつつ諸国を漫遊するという
水戸黄門真田幸村バージョン
0610人間七七四年
2012/09/29(土) 14:36:21.07ID:v/n0K/kkある時の事、宗像の大宮司より政資に、印子金(良質の金)で作った獅子の像一匹を増進された。
その姿は後ろを向く形であったため、政資は、対となるもう一匹があるはずだと思い、それも合わせて
自分に渡すようにと、所望の使いを、数度にわたって大宮司へと遣わした。
しかしその獅子像は元来1匹しか無かったため、大宮司はその旨を伝えその要求を断ったのであるが、
政資はこれを信じず、
「私に渡さないため深く秘蔵するとは!なんと憎いことか!」
と大いに怒り、ついに大宮寺を自害させた。大宮司は自害に及んで、このような辞世の句を詠んだ
『根をたてば 末は枯葉の藤原や 何せうにとて打捨にけり』(藤の原と、藤原氏である少弐氏を懸けている)
後に大内義興によって追討された、少弐政資についての逸話である
(陰徳太平記)
0611人間七七四年
2012/09/29(土) 18:49:47.03ID:XbXJhMnF0612人間七七四年
2012/09/29(土) 20:23:06.65ID:cKk1FnPP0613人間七七四年
2012/09/29(土) 20:33:54.95ID:LkCWWSBB0614人間七七四年
2012/09/30(日) 00:49:44.53ID:hTyMeY/dttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3815.html
こっちだと獅子の像が猫の像になってたりするけど同じ話っぽいよね
0615人間七七四年
2012/09/30(日) 08:01:26.61ID:XwnLgV5F0616人間七七四年
2012/09/30(日) 10:57:38.72ID:fCyEyFS1・・・少弐さんというといつ討ち死にするんだろうって聞いてしまう
0617人間七七四年
2012/09/30(日) 14:18:30.19ID:lDqfzO4N政元の養子細川澄元を擁立するとして政元に反旗を翻した。
しかしこの反乱に追随するものはおらず、逆に元一の弟・薬師寺長忠によって攻撃を受けるなどし失敗、
9月18日には元一の籠る淀城は追討軍により落城、自害者数名、討たれたもも数知れずという状況になったが、
それでも薬師寺元一は脱出した。しかし水中村という所の葦の中に潜んでいた所を発見され、
生け捕られて薬師寺氏の菩提寺である一元院に監禁された。
10月2日には赤沢宗益討伐の軍勢も出発した。
この様な中薬師寺元一は切腹の処分と決まった。
元一は住持に引導を請うた時、この様に言った
「ご存知のように私は常に一の文字を好んでいる。
故に名は与一、実名は元一、寺は一元院と号しておる!
しかれば腹も一文字に斬り申す!」
そうして見事真一文字に腹を斬って死んだ。
文字通り最後まで一の文字に拘った、薬師寺元一についての逸話である
(陰徳太平記)
ちなみにこの薬師寺元一の辞世の句は
『地獄には よき我が主(若衆)のあるやとて 今日おもひたつ旅衣かな』
と伝わる。
彼が主君政元と衆道関係にあったとも言われる所以である。
0618人間七七四年
2012/09/30(日) 14:50:10.47ID:UYXoHlotぜひ大河ドラマの主人公になって欲しいキャラだな
0619人間七七四年
2012/09/30(日) 15:55:03.14ID:T6lieRIpとりわけ山本勘助の活躍はその実在すら疑われるほど怪しいものなのは周知の通り。
しかし甲陽軍鑑の怪しさはこれだけにとどまらない。
その活躍が怪しい人物がもう一人いるのだ。
その人物とは、「不死身の鬼美濃」で知られる馬場信春。
武田四名臣の一人とされ、甲陽軍鑑の中でもさかんに信玄に助言するさまが描かれる。
しかし実際の活躍の記録は信長公記での長篠の合戦の記録にとどまる。
三方原の合戦の後、信春が800の手勢で信長軍1万を退けたという話もあるが、これも明白に誤りである。
なぜならこの戦いで美濃岩村城を信春が落としたことになっているからだ。
実際の岩村城は三方原以前に武田方に降っており、三方原後秋山虎繁が入城しており、馬場の記録はない。
さらに馬場発給の竜朱印状はなく、政治的に高い地位にいた記録はない。
実は甲陽軍鑑の中でもよく読めば馬場の地位の低さが見えてくる。
他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
また他の将がいずれも城主、城代経験があるのに対し、馬場はない。
さらには築城術を山本勘助から教わったなどという怪しい話が残るばかりである。
0620人間七七四年
2012/09/30(日) 16:00:35.30ID:5uAaIze50621人間七七四年
2012/09/30(日) 16:05:12.89ID:XjEq5PrD0622人間七七四年
2012/09/30(日) 18:26:43.69ID:q0viYpZX0623人間七七四年
2012/09/30(日) 20:45:05.61ID:/SVpEYRs以下、ややスレ違いかつ長文の為、適当に読み飛ばしてください
まず甲陽軍鑑は、近年の研究によれば、国語学的には、その語彙は江戸期ではなく戦国期の語彙が多くを占めており
書誌学的研究からは、編者とされる小幡景憲がかなり原資料に充実に書写を行っていたことが、明らかになっていて
少なくとも(関係者の多くが生存していた)元和年間の認識が反映された、
武田時代の史料や関係者からの聞き取りを踏まえた記述を含む史料である(丸島和洋氏)といった感じに、
かつての通説が言うほどいい加減なものではなく、
一定の配慮・留保はしつつも以前よりはやや肯定的に評価するのが最近の学会の風潮になっている
で、馬場については、
>>他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
馬場は、他の4名臣や秋山、原昌胤と比べると15歳くらい年上だから
馬場が25くらいの時期、ようやく晴信がクーデターを起こして甲斐一国をまとめ挙げた段階
他の武将は、20代の頃、信濃への侵攻を重ねて武田家の所領が急速に拡大している時期にあたり
若くても出世しやすかった
実際、この時期に馬場も120騎持ちに加増されたと甲陽軍鑑にも記してあったはず
異なる時期・状況での麾下兵力を比べるのは誤解を招くのではなかろうか
あと信春が少なくとも牧之島城代だったことは間違いないはず
武田勝頼の代に牧之島城代を信春の息子とされる「馬場民部少輔」が務めているけど
(勝頼が馬場民部少輔の同心衆に軍記粛正を指示する文書が残っている)
父の後を継いだ以外に考えられないし
馬場信春がその知名度に比べてえらく一次資料が少ない謎な人物であることは確かだけど
だからといって、「怪しい話」で一括りにしてしまうのはいかがなものか
ややスレ違いな長文失礼しました
0624人間七七四年
2012/09/30(日) 21:31:39.98ID:aiKXKzxe甲陽軍鑑は江戸期に逸話の編集してた人が虚妄多しって言ってるくらい滅茶苦茶だからなあ
0625人間七七四年
2012/09/30(日) 21:54:34.45ID:LAvg8iav0626人間七七四年
2012/09/30(日) 21:55:30.82ID:Vo4QF4Tz徳川家康が、小幡勘兵衛に軍配団扇のことを聞いた所、信玄公の故実によって調進して献上します、
と言って、十数日の後、こしらえ立てて献上した。
表に日月を金銀で出し、裏に北斗七星を銀で象眼して、大へん美しいものであるが、
全部が鉄でこしらえてある上に形が大きく、おそろしく重かった。
家康は、ちょっと持って見るや、グワンと投げ出して、
「こんな重いものを持って、どうして兵の指揮が出来るものか」
と、どなりつけたという。
0627人間七七四年
2012/09/30(日) 21:58:57.06ID:6vAGaoJa畠山義春さん、甲陽軍監を聞いて
逸話の編集者とかではないと思うが、こんな逸話があったな(1636年の事の話になってる)
0628人間七七四年
2012/09/30(日) 22:20:08.60ID:LAvg8iav0630人間七七四年
2012/09/30(日) 22:36:26.23ID:/SVpEYRs>>624の「虚妄多し」って言ってるのは多分1770年成立の常山紀談(湯浅常山著)
常山紀談にまんま「甲陽軍鑑虚妄多き事」っていう項目がある
まぁ、そもそも甲陽軍鑑の冒頭に昔のことなので細かい年代は記憶違いが多いと断り書きがあるくらいなんで
甲陽軍鑑は、歴史書ではなくて、戦国時代のバリバリ武闘派爺さんが
記憶頼りに当時の首脳部批判も交えて昔語りした書物として読むべきなのではなかろうか
で、余談なんだけど
そこで甲陽軍鑑はここが間違っている、って歴史的な事実関係の誤謬を散々指摘してるんだけど
締めの言葉は「戦国の勢いをよく知り、かつ侍の情に達っせし者の書いた書だから、
弓箭取る者が心の慰みとして愛すべき書であって、虚妄を以て棄てるべきではない」
って言ってるから、18世紀の人間である湯浅常山から見ても、
甲陽軍鑑は戦国時代の気風をよく伝えている文書だったんだろうね
0631人間七七四年
2012/09/30(日) 22:44:35.54ID:LAvg8iav他の売文屋からw
0632人間七七四年
2012/09/30(日) 23:03:58.68ID:T6lieRIp甲陽軍鑑では深志城代には日向大和守を任じたとあります。
馬場信春は1559年に120騎の将になったとありますが、他の将は、
山県昌景:1552年150騎、1563年300騎
春日虎綱:1552年100騎
秋山虎繁:1556年250騎
原昌胤:1550年120騎
0633人間七七四年
2012/09/30(日) 23:04:44.28ID:ISUWi90Fその家康は鉄軍配ももてないほど衰えてたんだな
0634人間七七四年
2012/09/30(日) 23:07:40.98ID:aiKXKzxe0635人間七七四年
2012/09/30(日) 23:12:03.26ID:KqbV6UIN0637人間七七四年
2012/10/01(月) 01:03:58.13ID:keNEq6Ue0638人間七七四年
2012/10/01(月) 01:28:16.89ID:XwcHZDvV0639人間七七四年
2012/10/01(月) 03:35:15.06ID:hIkxFoXoたしかその後義春の息子は圧力かけられて
「うちの父親の方が間違ってますごめんなさい」って
言わされてるんだよな…
0640人間七七四年
2012/10/01(月) 07:14:07.26ID:PA4vPWOX武田四名臣は五人で龍造寺四天王の逆バージョンだな
二人はプリキュ…武田四名臣!
0641人間七七四年
2012/10/01(月) 08:48:09.23ID:t61Mpwrf生涯かかっても信玄公の境地には立てなかったようだな家康
0642人間七七四年
2012/10/01(月) 08:55:40.46ID:QWWKI9y10644人間七七四年
2012/10/01(月) 09:07:53.24ID:t61Mpwrf0645人間七七四年
2012/10/01(月) 10:02:47.65ID:ETyexKjT0646人間七七四年
2012/10/01(月) 10:06:34.46ID:I6jY8+jS0647人間七七四年
2012/10/01(月) 10:32:16.20ID:35zBFJFB0648人間七七四年
2012/10/01(月) 12:08:07.29ID:UrnBCJG7謙信が本陣まできて軍配で受け止める的な講談めいたことがない限り頑丈である必然性が
0649人間七七四年
2012/10/01(月) 12:21:09.94ID:+FJ8prk40650人間七七四年
2012/10/01(月) 12:21:56.10ID:mh0Ik8pe大阪夏の陣では漏らしてない。
人間は成長するんだよ。
実際は夏の陣でも漏らしていて、天下人なのにウンコ漏らしは
まずいと緘口令が敷かれただけかもしれんがw
0651人間七七四年
2012/10/01(月) 12:22:35.88ID:gQLxbHHJ0652人間七七四年
2012/10/01(月) 12:43:14.31ID:jU/Yr0o8浅野裏切りのデマを流された汚いやり方に動揺した所を捨て身で突撃されただけ
0653人間七七四年
2012/10/01(月) 12:52:47.70ID:ETyexKjT0654人間七七四年
2012/10/01(月) 14:33:11.32ID:ASK7EGlJ0655人間七七四年
2012/10/01(月) 14:52:37.50ID:kscez4Ld0656人間七七四年
2012/10/01(月) 15:05:09.93ID:ljRYPRmaあれは家康に叱り飛ばされる秀忠がかわいいよなw
「あほーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」ってw
0657人間七七四年
2012/10/01(月) 15:09:06.04ID:XwcHZDvV事実関係確認しようにも周りに武田関係者なんていないわけだし。
そんな中、山本勘助や馬場の助言がやたら多いのは、とりあえず誰かの記憶がはっきりしない助言を
全部彼らの助言という扱いにしたのかも。
あるいは家臣の意見をよく聞く名君信玄を演出しようとしたか。
0658人間七七四年
2012/10/01(月) 16:50:39.32ID:mkRU7gY/0659人間七七四年
2012/10/01(月) 17:01:56.57ID:kjSDLvxy0660人間七七四年
2012/10/01(月) 18:53:40.26ID:gR1Zw0A2今川義元は子息氏真に書を贈り諌めて曰く、
「お前はすでに成長したというのに未だに童心を失わず、
鶏を闘わせたり狗を走らせるばかりで、第一になすべき文武を疎かにしている。
今これを改めなければ、必ずや国は覆り、家を滅ぼすことになるぞ」
しかし、氏真は父の言葉を意に介さず、ついには滅亡するに至った。
――『名将言行録』
0661人間七七四年
2012/10/01(月) 19:00:23.42ID:kzckAfJY0662人間七七四年
2012/10/01(月) 19:23:02.65ID:+FJ8prk40663人間七七四年
2012/10/01(月) 19:44:37.94ID:PJ3s3G8W考えられる。しかし出雲国内には三澤、三刀屋、赤穴といった強力な国人たちがあり、彼らは経久の威令に
従おうとはしなかった。しかし容易に攻め従えることのできるような相手ではなく、
これは謀略をもって討つべきだと、寝食を忘れて考えぬいた。
そしてある時、山中勘ノ充と云う者を近づけ、言った
「私は三澤を騙すぞ!汝は智弁人に超えた者であるので、この謀略をきっと成功させてくれると信じる。
私の言うとおりに行動し、三澤を誑かしてみよ!」
そうして詳細を説明すると、山中は「御諚承り候」と、これに同意した。
さて、この頃経久の歩兵に、死罪になるべき重罪の者があった。山中はこれを喧嘩のようにして
斬り殺し、三澤の元へと逐電した。経久はこれに大いに怒り、山中の妻子並びに老母までを捕縛し詰牢に監禁した。
三澤の元に逃げ込んだ山中は二心無くこれに仕え、三澤も彼を不憫に思い召し使った。
そして2年ほどが経った。「いまこそ謀略が成功すべき時だ。」山中は三澤に向かってこんな事を言った
「私は些かの口論によって、経久の澤田と申す徒歩の者を斬りましたが、経久の奴は私の老母、妻子を捕縛し
牢に入れてしまいました。侍の喧嘩口論で相手を討って退転するなどというのは良くあることなのに、
その罪を妻子父母に及ぼすなど未曽有のことであり、無念至極に思っています。
願わくば私に、精鋭の兵200を付けて下さい!
経久の月山富田城は案内を良く知った城です。夜討ちを行い私の鬱憤を晴らしたいのです!
実は尼子の一門の中に3人、私と思いを同じくする方々がいます。ですので経久の頸を討つことはもはや、
袋の中の物を探るに等しい行為だと考えています。」
このようにいかにも頼もしげに語ったため、三澤も大いに喜び、野沢大学兵衛、三澤与右衛門、梅津主殿助、
野尻、竹田、中原、下川といった、三澤氏配下の屈強の兵たち500人を選び山中に付けた。
山中は「謀略、成れり」と経久にありのまま報告する。報告を聞いた経久は「年来の謀略、一時に叶った!」
と喜び、早速伏兵を3ヶ所に置いて、寄せてくる敵を待った。
山中は三澤勢500の先頭に立って、月山富田城へと急いだ。
軍勢が中チカという場所に忍び上がったところで山中「さて、あなた方は暫くここでお待ちください。
私は合流する一族を手引きしてきます。」そう言って一人出ていった。
残された軍勢は、待っている間に一町でも上がっておこうか、などと言っている時突然、
月山富田城の城門が開き一千余の兵が鬨を作って打出てきた!
寄せ手の三澤軍は、今夜の夜討ちの事を敵は察知していないと全く油断していたため、
この不意打ちに「これは何事か!?山中に野心があったのか!?」と大いに驚き、既に逃げ腰に
なっていたが、流石に三澤の郎党の中でも名を知られた者達だけに、みな一箇所に固まり
ひしひしと撤退していった。
が、ここでまた思いもよらぬことに、今度は後ろから敵が突然現れ鬨を合わせて攻めかけてきた!
三澤軍の者たち「これは山中に騙されたのだ!こうなったからにはただ一方を打ち破って
落ち延びるしか無い!」と叫んで撤退しようとしたが、暗闇の中、道もない場所へと入り込んでしまい
更に混乱し、何も出来ないまま討たれるものもあり、谷や穴に落ちて空しく死ぬものもあった。
そんな中でも三澤与右衛門、野澤といった者達は真ん丸となって襲いかかる尼子勢を打ち破りつつ
撤退したが、3ヶ所の伏兵に逢い、野澤大学兵衛、梅津主殿助、野尻、竹田、猪口などの勇士を始めとして
200あまりが討たれ、なんとか生きて逃げ切ったのは、三澤与右衛門、中原、下川ら100ばかりという有様であった。
かくして三澤は多くの家臣を討たれ、その勢力も凋落した所に、経久から「近日中に三澤を討伐する!」
との声が聞こえてくる。これにはもはや耐えられず、三澤は居城である亀瀧城を出て尼子経久に降伏した。
経久は三澤の勢力を併合すると一気に国中に討って出て、三刀屋、赤穴といった有力国人を尽く幕下に従えた。
尼子経久、謀略をもって三澤を討つ、という逸話である。
(陰徳太平記)
0664人間七七四年
2012/10/01(月) 19:52:49.78ID:SHcdWNxnhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2902.html
0665人間七七四年
2012/10/01(月) 20:31:17.01ID:0oYt8lS/0666人間七七四年
2012/10/01(月) 22:01:46.46ID:V8qDhI04>浅野裏切りのデマを流された汚いやり方
日本全国vs牢人&裸城の戦いなのにそんなの信じる馬鹿いるのかよ
普通なら「ねーよw」で済む話。
0667人間七七四年
2012/10/02(火) 08:08:35.87ID:npjl9vln最後の大戦から14年だから戦場で前線に出た幕府方の将兵も若く経験の無いものが多く…
とも考えられんかね
0668人間七七四年
2012/10/02(火) 08:24:16.57ID:1m4zqM3Qさて、この亀右衛門の友人に、増田蔵人という者があった。
この友好は蔵人の父が臨終の時、彼にくれぐれもと深く頼み置いたことによる。
蔵人は細川家で六千石を領していたが、家は常に貧乏で一金の貯蓄もなく、この事を亀右衛門は常々
諌めていたが、蔵人はその度に「実にそのとおりだ」と言いながら、しかし反省した様子は見えなかった。
有る年、蔵人は1年間江戸にあって後、細川家の領国である小倉への帰国の途についた。
亀右衛門は彼の帰路を推し量って逆に江戸方面へ上り、桑名で行き会った。
亀右衛門が十人ほどの徒歩の者共を引き連れ馬にて通るのを見た蔵人は、これを不思議に思い
「どうして今、江戸へと上るのか?」
と尋ねた。すると亀右衛門は
「やがて華々しいものを見るぞ!今は一言の暇も惜しむゆえ申せぬ。その理由は早々に小倉に帰って聞かれよ!」
そう言い捨て打ち過ぎた。蔵人はこれを聞くと馬を返して亀右衛門に追いつき
「日頃の友情はこういう時にこそ表されるものではないか!密かに私だけに教えてくれ!」と、従僕達はみな後ろに下げ
唯自分一騎のみで亀右衛門の側に付いた。すると亀右衛門は馬から降り、蔵人を前に呼び寄せ
「私は片時の時間も惜しんでいるのだが、この上は話してしまおう。よいか?今度、大坂に事が起こる。
そのため我が君にも近日中に御船出あるべしとの、幕府よりの陣触れがあった。これによって私は俄に
命を蒙り、急ぎ江戸に参る最中なのである。」
これを聞いた蔵人は驚愕した。「私は貧困であり、少しの貯蓄もないことはあなたも兼ねてよりよくご存知であろう。
どうして今私が、人並みの出陣が出来るだろうか!それに帰国後江戸に戻るということになれば、もはやその旅費も
無いのだ!この上は唯この場で腹を斬るしか無い!
これを見た亀右衛門殿「貴殿は常々私の諫言を聞きながら、これを用いようとしなかった。
普段から軍役を疎かにし、殿より頂いた大禄を空しくして、今またここで犬死するなど、一体何の意味があるのか!?
従者を扶持する資金がないのなら、只一騎敵と戦い討ち死にすれば良いだけではないか。
されどもこんな所で切腹など、人に笑われるだけの話である。
加々山隼人は貴殿と同じ知行であるが、彼は兵船数艘、騎兵歩兵の3〜400をいつでも揃えられるよう用意をしている。
貴殿は彼に劣っていることを、口惜しいと思わないのか!」
蔵人はこれに途方に暮れて「死ぬにも死なれず、帰るにも帰られず…」と、悄然として溜息を付くばかりであった。
と、暫くして蔵人が全く追い詰められた様子なのを確認すると、亀右衛門はにわかに言った
「実はさっき言ったこと、アレは全部ウソだ。」
「…!なな!?」
「ウソだ!…が、今の天下は既に乱の兆しがある。そもそも時安けれど危を忘れざるを武備と呼ぶ。
夏に衣を作って冬の寒さに備え、晴れた日に傘を貼って雨を待つのと同じ事だ。全ての事はあらかじめ
準備をしておかなければ、突然のことに対応することは出来ない。明日にも兵乱という事態も
考えられるのだ。もし本当に合戦騒ぎが起これば、貴殿は間違いなく今のように狼狽しただけであっただろう。
貴殿は、普通の諫言ではもはや容易く聞いてはくれぬと思ったので、今度貴殿が帰国するのを利用して
かく注意したのだ。」
増田蔵人はさすがにこの諫言に感じ入り、帰国すると驕りを捨て倹約を守った。そしてそれから3年、果たして
大阪の陣起こる。この時蔵人は見事、六千石の軍役を果たしたそうである。
現代でも耳の痛い人がいるであろう、井戸亀右衛門の諫言、という逸話である。
(武士道美譚)
0669人間七七四年
2012/10/02(火) 14:00:57.12ID:revx2Qwa0670人間七七四年
2012/10/02(火) 14:30:16.40ID:gREDtAD2政宗「俺は素直だから人の言う事聞くよ。借金までして金を使うやつなど信じられぬ」
忠教「忠告聞いて短い刀にしたし、老中におべっかを言ったよ」
0672人間七七四年
2012/10/02(火) 15:12:33.13ID:Q4Igc7Eu黄金伝説の無人島生活で台風が来るってんで必死で台風対策するも
結局ほとんどろくな風雨が来ず空回りに終わったのを見るに、
日本人の何でも備えすぎの風潮にはいささかうんざり。
0673人間七七四年
2012/10/02(火) 15:49:25.04ID:Vdedxfgm0674人間七七四年
2012/10/02(火) 15:51:44.32ID:vWdIZzrV如水「金をためておかねば」
利家「いきなり戦が始まった時に役に立たんぞ」
0675人間七七四年
2012/10/02(火) 16:18:57.03ID:9K05Yjh70676人間七七四年
2012/10/02(火) 17:03:31.16ID:Y5U38PiW0677人間七七四年
2012/10/02(火) 19:57:26.36ID:l3oT3NZz0678人間七七四年
2012/10/02(火) 20:02:06.94ID:J9gE9iit0679人間七七四年
2012/10/02(火) 20:07:04.92ID:Z7bsmnpv0680人間七七四年
2012/10/02(火) 23:14:36.58ID:rr0ZzEuQ小牧長久手の戦いの時、水野太郎作正重の隊下の同心が、森長一(長可)を銃で
撃ち落した。敵陣が色めくのを見て正重はただ一騎山の尾崎を下り突入していった。
徳川家康はこの様子を見て馬廻に命じて仕掛けさせ、敵陣を攻め破った。
戦後、家康は「今日の戦は大久保忠佐が先駆けになって大功を立てたな」と
感心した。正重は「これはそれがしと忠佐を見間違ったのだ」と思ったが、
無闇に言い争ったりはしなかった。ところが、重ねて軍功について論じた時、
またも家康が同じことを言うので正重は耐えかねた。
「山を下ったのはそれがしだ。あなたはその時、渡辺弥之助(光)と同じように
控えていたではないか。余人ならばこんな言い争いはしないが、あなたのような
何度も武功を立てた人が、上の見間違いをいいことに人の働きを自分の物に
しようというのか! あなたらしくもないことだ!」
光も「正重の申すことに些かの間違いもありません。それがしも見届けました」
と証言した。家康はつぶさに事情を聞き、「そうか、儂の見間違いだったか。
正重よ、そういうことは心に隠さずともよい」と懇意に諭したので
正重も畏まってその場を離れたという。
――『徳川実紀』
0681人間七七四年
2012/10/02(火) 23:51:47.72ID:/kQXZxDD0682人間七七四年
2012/10/03(水) 00:27:39.09ID:8y/DQByZ正重も言うように忠佐さんほどの歴戦に武功ある者が
家康の言うことは絶対だからといって黙って手柄にしようとした?のは悪い話だな〜w
当の忠佐さんはどう思っていたのか知りたいな
0683人間七七四年
2012/10/03(水) 04:23:11.74ID:703xjnuS馬場信春は実際の活躍が極めて不明な中、信長公記にだけは「中にも馬場美濃守手前の働き比類なし」と活躍が記録されている。
では信長公記における「比類なし」と称えられた働きとはどのようなものだろうか。
織田家以外の武将で同様に称えられた武将を見てみよう。
林弥七郎
林弥七郎と申す者隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き侯ところへ橋本一巴鉄炮の名仁渡し合ひ(中略、過去スレ弓vs鉄砲参照)
林弥七郎弓と太刀との働き比類なき仕立なり。
美濃屋小四郎
(三好勢により将軍義輝殺害、さらにその弟の足利周ロも殺害、美濃屋は周ロに特に目をかけられていた家臣)
美濃屋小四郎未だ若年十五、六にして討手の大将平田和泉を切り殺し御相伴仕り、高名比類なし。
三好左京大夫義継
御女房衆御息達みなさし殺し、切つて出で余多の者に手を負はせ、
其の後左京大夫殿腹十文字に切り、比類なき御働き哀れなる有様なり。
高橋甚三郎景業
(朝倉)義景に腹をきらせ、鳥井与七高橋甚三郎介錯を致し両人の者も追腹仕り侯。中にも高橋甚三郎が働き比類なきの由に侯。
諏訪勝右衛門女房
諏訪勝右衛門女房刀を披き切つて廻し、比類なき働き前代未聞の次第なり。
土屋右衛門尉昌恒
武田四郎勝頼若衆土屋右衛門尉、弓を取りてさしつめ引きつめ散貼に矢数射尽し能き武者余多射倒し追腹仕り、高名比類なき働きなり。
武田麟岳
りんがく長老、中にも比類なき働きなり。(麟岳は如意山宝珠寺の住職で勝頼の従弟であり、敵を9人斬って死んだという。)
このように概ね個人的武勇を示して討死した者を「比類なし」と称える場合がほとんどである。
また三好義継を除いては一軍を率いるほどの大将はおらず、
出家した僧や女性までも含まれている。
馬場信春も同様だとしたら、彼の姿も見えてくるのではなかろうか。
0684人間七七四年
2012/10/03(水) 07:34:38.20ID:SFQprfYR他の方々、度々の長文のややスレ違い、ご容赦下さい
まず、信長公記の長篠の合戦の項目に
武田勝頼の部下が攻め寄せる様が記載されているけど
それによれば一番手が「山県三郎兵衛」(昌景)、2番手が「正用軒」(武田信廉)
3番手が「西上野小幡一党」、4番手が「典厩」(武田信豊)と挙げられていって、
5番手に「馬場美濃守」が「推太鼓にてかかり来り、人数を備へ、右同前に勢衆討たれ引き退く」とあるから
この記載からも「馬場美濃守」が大勢の部下を持ち、
武田方において山県昌景、武田信廉、武田信豊ら
有力武将と並べられる格をもった部将であったことが分かります
信長公記の記述から、馬場信春が一武者に過ぎなかったって解釈するのは無理があるでしょう
まとめると一次資料と信頼性の高いといわれる信長公記の記載だけからも、
(>>623にもあるけど)馬場美濃守が牧之島城代を務めていたのはほぼ間違いなく
(ちなみに>>619では甲陽軍鑑の記載上で馬場美濃守は城代経験がないとおっしゃられているけど
甲陽軍艦にも品33に「信玄公馬場美濃守をめし、信州まきの島城代に被仰付候」(原文ママ)とあって
城代であったことが明記されてます)
武田御一門衆の重鎮武田信廉、武田信豊、宿老中の宿老山県昌景、上野の有力先方衆小幡一党と
並べられる武将であったことが分かりますので、
馬場信春に関する一次資料が少ないとしても、こうした武将がただの平武将だと理解するのは困難です
あと一次資料が少ないことに関して、多くの方に誤解があるようなので付言しますと
武田の直臣関係の史料は、武田家が滅亡したこともあり残りが悪く、
かつ従来学会において、(武田家に限らず)大名自身に比べ、その家臣団に対する関心が薄かったため、
家臣クラスが出した文書の集積分析が現状発展途上であり、むしろ一次資料が少ないことの方が普通です
だから家臣クラスの実態に関して、
一次資料が少ない→ほかの逸話は全て創作だ、とするよりは
一次資料からここまでは分かる→他の詳しいことは不明ながら、今後の研究の発展を待ちましょう、
とするのが今のところは穏当なのではないでしょうか
このスレはまとめサイトを通じて比較的影響力が強いため、偏向した認識が広まるのを恐れて
ややスレ違いながら長文書き込みいたしました
お目汚し失礼いたしました
0686人間七七四年
2012/10/03(水) 09:15:26.49ID:yBCynJqv上の間違いへの対応は、今も昔も難しいよね〜
0688人間七七四年
2012/10/03(水) 10:46:44.91ID:DFAL9Secまあ、だいたいそんな両極端なのは淘汰されて>>684みたいに落ち着くよね。
0689人間七七四年
2012/10/03(水) 17:26:37.55ID:KBr/Hjcd0690人間七七四年
2012/10/03(水) 18:48:37.22ID:2nybaQpz0691人間七七四年
2012/10/03(水) 19:31:59.23ID:8soiD6DU25歳まで役立たずで人から謗られていた(名将言行録)らしいし
近頃じゃ尻働きさえ高坂じゃないガセの可能性を指摘されているしな
0694人間七七四年
2012/10/03(水) 20:24:23.51ID:8soiD6DU0695人間七七四年
2012/10/03(水) 20:29:13.36ID:GSppoI6U0696人間七七四年
2012/10/03(水) 20:51:50.34ID:v4s7PdNG0697人間七七四年
2012/10/03(水) 21:44:58.50ID:pNp2QEwi確かに。
最近ちょっとおかしいな。逸話そのものや書状などじゃなくて
怪しげな概説や創作が蔓延ってる。
0698人間七七四年
2012/10/03(水) 22:25:37.36ID:yBCynJqv0699人間七七四年
2012/10/03(水) 23:29:36.38ID:SFQprfYR武田家家臣に多田新蔵という剛勇で知られた若者がいた。
彼はあるとき喧嘩沙汰を起こしたが、新蔵の父は武勇忠節名高い多田淡路であったためその際は許された。
にもかかわらず、その後、新蔵は甘利同心の福田という者との間で再び喧嘩沙汰を起こしてしまった。
その仔細はこうである。
福田は、酒に酔っ払った様子で自身の下女を町中に立たせ、往来の者に触らせ、
人の女に手を付けたといって打ち伏せて、刀脇差を奪い取ろうとした。
日暮れ時で、よく見えなかったたため、福田はその相手が新蔵だと気付かないまま、
逃がしてたまるかと、刀を抜いて新蔵を追いかけた。
新蔵はいろいろと言って釈明しようとしたが、福田はこれを許さず新蔵に切り付けた。
そこで新蔵は、刀を抜き、一刀にて福田の頸を打ち落とした。
この件は当然問題となり、山県三郎兵衛(昌景)を奉行として詮議が行われた。
新蔵は、「喧嘩の始終を、目撃していた町人を召し寄せて、拷問して聞いてみてください。」と言う。
呼ばれた町人は、拷問を受けるまでもなく見たままを話したので、
新蔵は赦免され、福田は切られ損となった。
それどころか福田の行いは強盗であるとされ、福田の女房まで磔に処せられた。
山県は、普段は新蔵のことを嫌っていたが、少しも私心を交えることなく判断なさったため、
このような結論となったのだった。
以上、修羅の国たる甲斐らしい突っ込みどころが多すぎる話を「甲陽軍鑑」からニュアンス訳で。
ちなみに書によって、本来別の人物である
新蔵、久蔵、三八が混同されて記録されているため混乱が生じていますが
既出の「多田満頼、久蔵、天下に名をはせた勇者の物語・いい話」
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-382.html
に出てくる久蔵と上記の新蔵は、おそらく同じ人物です。
0701人間七七四年
2012/10/04(木) 01:56:44.56ID:DyCMgkKm0702人間七七四年
2012/10/04(木) 06:29:50.11ID:FJiAJpCG逆に原さんとか小幡さんとか四名臣だけど内藤さんは評価低いね。徳川で言う大久保ポジションというか。
0703人間七七四年
2012/10/04(木) 10:10:52.12ID:Z89BwmrG武士道を知ることができる
0704人間七七四年
2012/10/04(木) 10:27:07.04ID:FTj2+X6D目撃者を拷問するなとw
0705人間七七四年
2012/10/04(木) 10:30:31.08ID:+upK+BFu下女は無事だったようだが
0706人間七七四年
2012/10/04(木) 10:31:49.86ID:K+7a1/nLなんで女房まで磔になるんですかー!やだー!
0707人間七七四年
2012/10/04(木) 11:17:51.17ID:Fcg6TPfa0708人間七七四年
2012/10/04(木) 12:08:32.97ID:EabxPmNO0709人間七七四年
2012/10/04(木) 12:17:16.53ID:DyCMgkKm0710699
2012/10/04(木) 12:34:39.98ID:GqDbShNe共犯ってよりも、主人の罪に妻子が連座したってことだと思う(この場合は子がいなかったみたいだけど)
甲州法度にも、罪人の妻子に刑罰が当然に連座することを前提にした規定があるし
>>701,704
甲陽軍鑑には他の逸話にも、証人として呼ばれた町人に対して、
拷問してでも話を聞けとする信玄の意向が示されるシーンがあるんで、
本当に拷問するかどうかは別として、
証人に拷問すると脅してでも証言させる、っていう発想は当時としてはそれほど突飛なものではないみたい
怖い世界ですなw
0711人間七七四年
2012/10/04(木) 12:52:46.60ID:466WC98E0712人間七七四年
2012/10/04(木) 13:38:37.38ID:Fcg6TPfa0713人間七七四年
2012/10/04(木) 14:44:05.02ID:EabxPmNO何でもかんでも連座という法は無い
0714人間七七四年
2012/10/04(木) 15:50:00.46ID:J3MY6+oyニア ごうもんしてでも といただす
「なにをする きさまらー!!」
0715人間七七四年
2012/10/04(木) 16:34:41.73ID:AeP+oVK60716人間七七四年
2012/10/04(木) 17:56:06.88ID:H5EgBvVS0717人間七七四年
2012/10/04(木) 19:33:02.84ID:kO5vp65O0718人間七七四年
2012/10/04(木) 20:46:54.73ID:+r+WOQwx0720人間七七四年
2012/10/04(木) 23:57:54.42ID:EY7LAARa0721人間七七四年
2012/10/05(金) 06:29:34.92ID:7dNJWe3whttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3125.html
これの謀殺の内容が出ていたので書いてみる
上にあるように、家臣である太田但馬守長知に愛妾を寝とられた前田利家はこれを甚だしく怒り、
横山大膳長知、山崎長門長徳の二人に、太田但馬の誅殺を命じた。
しかし太田但馬といえば、前田家を代表する武勇の者として有名であった。
横山大膳は命を受けて、勝尾半左衛門と共に登城した。
この時太田但馬は既に登城しており、何事も無く座していた。横山大膳、席にすこうとするその時、
突然側に居た侍童を激しく叱りつけた!
この騒ぎに驚いた太田但馬は急いでその場にやってきて、「何事か?」と尋ねる。横山大膳
「私が先に、この者に命じて書類の文案を作らせたのですが、このように間違いだらけなのです!
これを見てください!」
そう言って懐中よりその書類を出して太田但馬に渡す。但馬は体を屈め手を伸ばしてこれを受け取ろうとする。
その時
横山大膳、すかさず刀を抜いて大膳の頭を斬りつける。しかし浅手。「何事ぞ!?」太田但馬叫び
刀を抜いて横山大膳を刺す!違わず腹の真ん中を貫いた。が、『ガキッ』刀弾かれる。
横山大膳は太田但馬が剣術の達人であることを知っていたため、懐中に金属の鏡を忍ばせていたのだ。
そして横山大膳は身を躍らせ再び斬りかかり、ついに但馬を殺した。
勝尾半左衛門も走りよって後ろから但馬の背中を斬りつけたのだが、却って但馬によって傷を負わされた。
この時前田利長も但馬の剛勇を気遣い、薙刀を取って彼に挑んだという。
山崎長門は期を失って、ついに斬りかかることが出来なかった。
時に慶長七年のことであったという。
太田但馬守長知謀殺、についての話である
(武士道美譚)
0722人間七七四年
2012/10/05(金) 13:05:42.28ID:/mBoLR5g>>上にあるように、家臣である太田但馬守長知に愛妾を寝とられた前田利家はこれを甚だしく怒り、
利家になってる
0723人間七七四年
2012/10/05(金) 17:17:34.99ID:7dNJWe3w0724人間七七四年
2012/10/06(土) 18:06:43.48ID:S/s/koTS醍醐の花見の折、関白は近臣らが君(徳川家康)を笑い種にしているのを聞かれ、
「家康には芸が三つある。常人の及ぶ所ではない。第一に武略は人より優れ、
第二に思慮深い。そして第三に金銀を多く持っている。この三つは人が笑うことの
できない大芸だ。お前たちは何を笑うのか!」と言われたところ、
近臣どもは「殿下は徳川殿の何が良くていつも贔屓なさるのだ」と言ったとか。
これも本文(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3333.html)と同じ様なことを
様々に伝えているのである。
――『徳川実紀』
0725人間七七四年
2012/10/06(土) 19:13:21.15ID:s58dGmDO0727人間七七四年
2012/10/06(土) 20:02:51.19ID:8YI+CqXD有るときの戦で大いに負け、市郎兵衛は殿として引き退いていた事があった。
その時池田がふと見ると、田の畦にかねてから知っているものが座っていて、市郎兵衛に気がつくと
声をかけてきた
「そこを通るのは池田殿か!わしは深手を負ってもう退くことも出来ない。どうか助けてくれ!」
これに市郎兵衛は「心得た」と、彼を自分の馬に乗せ、自らは徒歩となり馬の口を取って退いた。
が、そこに敵三人が追いすがってくる。市郎兵衛は踏みとどまり、槍にて一人を突き殺し、
残り二人を追い払った。するとその後追ってくるものはなく、無事、本陣まで帰り着いた。
この市郎兵衛に助けられた男は後に黒田長政に仕え、この事を長政に話した。
長政はいたく感動し、ある時寺沢広高の元に訪問した時、この話をして池田市郎兵衛を呼び出してもらい
寺沢広高に向かって
「この様に強い働きをしたものがあるとは!寺澤殿、あなたはこの事を知っていましたか?」
そう問うと広高
「いやいや、この池田は抜群の戦功であってすら、常に自ら語るということをしない者でして、
その話は全く承知していませんでした。黒田殿、よく語っていただいた!」
と、大いに喜んだ。
ところが市郎兵衛は喜ぶどころか、困惑した顔をして申し上げる
「その話に関して私は、恥じ入るより他ありません。
実はあの時、『助けてくれ』と言ってくる声を聞いて、これは難儀なことだと、先ず驚き、困り果てました。
何故なら敵はしきりに後から追いすがってきていました。それに対して私に続こうという味方は
一人もおりません。
『ここに捨て殺しにしても、どうせ知る人はいないのだ。』
私はそう考え、助けを求める声も聞こえぬ体でその場を通りすぎようとしました。
ですが、そこでふと気がついたのです
『もしも私より後に残っている士があって、この男を助けるようなことがあったら、
見捨てたことが暴露され、武士として二度と男を立てることが出来なくなる。』
そう思い返し、どうしようもなく彼を助けたのです。」
長政はこれを聞くとますます感心し、「この腹蔵なき心中こそ、百人の首を斬るよりも難しいことである。」
と賞賛した。
そうして御前を退き次の間に下がった池田市郎兵衛に、寺沢家中の者達は集まり聞いた
「どうしてあのように、ありのままを答えたのか。その時の貴殿の心中など、知る者が居るはずもないのに。」
これに市郎兵衛
「私には若い頃から一つの嗜みがある。それは仮初にも表裏の言行あるまじき、という念願である。
そうであるので私は、未だかつて口に嘘を言わず身に偽りを行わずに生きてきた。
今日、両将の御前において些かでも欺くようなことを申しては、かねてからの念願の心に恥じる事に
なってしまう。だから、ああ言ったのだ。」
池田市郎兵衛の腹蔵なき心中、という逸話である
悪い(気持ちを告白した)話、ってことで
(武士道美譚)
0728人間七七四年
2012/10/06(土) 20:05:30.75ID:wUcWyK27http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6806.html
ラスボス「かっこいいから日本とつけよう!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6067.html
ラスボス「堀尾吉晴こそ日本無双の剛の者である!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6405.html
ラスボス「宮部善祥坊こそ日本無双である!」
ラスボス「地味加藤こそ日本無双・・・あ、前に宮部で使っちゃったか」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2481.html
ラスボス「忠勝は東国無双、宗茂は西国無双である!」
ラスボス様はボキャブラリーが低いからどっこいどっこい
ところで、無双を連発しすぎてたら、誰かからちょうどいい褒め言葉があるのを聞いて
これなら誰にも使えるな、ってラスボスが喜んだ逸話があった気がするが思い出せない
0729人間七七四年
2012/10/06(土) 23:28:43.96ID:qeLuIZFEA「あそこに家康いるじゃん、あいつ三方が原で敵に追いかけられて
糞漏らしながら逃げ回ったらしいよ、しかもその姿を家臣に目撃されたらしい」
B「まじで?そんな姿人に見られたら生きていけないわ。普通腹斬るしょ?」
C「道理でなんかここ味噌臭いと思ったわwwwww」
(一同爆笑)
0731人間七七四年
2012/10/07(日) 00:17:03.24ID:IpaxRQmO武田はどうだった?→おっかなくてちびっちゃいました→そうか!俺も漏らしたぞ!ガハハ
って感じで、親しめる先輩キャラの逸話にしてた
0732人間七七四年
2012/10/07(日) 00:40:23.31ID:JSBOe6u1敵兵にウンコするからちょっと待ってとか言うのか?
0735人間七七四年
2012/10/07(日) 02:05:30.34ID:392M8JX6それはしかみ像だけ?
0736人間七七四年
2012/10/07(日) 02:56:39.34ID:oqRi1/wQあと信長もセンスが独特過ぎてついていけない
三英傑は三人ともネーミングセンスが違うベクトルで残念だよな
0737人間七七四年
2012/10/07(日) 05:47:44.94ID:o/ss4l/M現代の視点から残念呼ばわりはどうなんだろう。
0738人間七七四年
2012/10/07(日) 08:35:13.95ID:Mr3L9O4/家康「い、命からがら帰ってきたぞ!」
忠世「それはよかった(棒)、あっ殿、その茶色いのはもしや糞・・(ニヤリ」
家康「や、焼き味噌だ!」
って話じゃなかったか?つまり焼き味噌である可能性は残されている(って権現様が言ってた。
0739人間七七四年
2012/10/07(日) 08:38:24.91ID:y2yf237Gシュレディンガーもとい
家康の焼き味噌って事か
0740人間七七四年
2012/10/07(日) 10:01:36.36ID:mPW4Ix+10741人間七七四年
2012/10/07(日) 10:04:25.80ID:yv13Q4PV誰がするかでもめる三河武士であった。
0742人間七七四年
2012/10/07(日) 11:04:27.91ID:jYy4TFp5ある時、秀政の屋敷に曲者が入った事があり、秀政はこの鹿島宗全と二木勘右衛門に追わせた。
勘右衛門は秀政秘蔵の布引という馬に乗って追ったが、宗全は徒歩であった。
二木は自分がいち早く曲者を打ちとってくれようと、青麦の畑を真一文字に乗り切ろうとしたが
畑のあぜ道を駆け抜けた宗全のほうが先に曲者に追いつき、たちまちに討ち取った。
そして両名、事の次第を秀政に申し上げる。
まず勘右衛門が出て、
「今度の曲者は、必ず私が討ち取ろうと思っていましたが、宗全に駆け抜けられてしまいました。
彼は馬よりも足が速い。」
これに宗全は
「いやいや、そうではありません。二木殿は青麦の畑を急いで越えられようとして、却って馬の足が
麦にからんで遅くなったのです。どうして私の足が馬に及びましょうか。」
と申し上げた。これに小笠原秀政は「いずれも隠し事のない申し立て、感心である。」と大いに褒めた。
この時二木勘右衛門は鹿島宗全に向かって
「この度のこと、いかにも口惜しい。この返報は戦場で争おう!」
と云った。
さて、この事から程なくして大阪夏の陣となった。
5月17日、鹿島騒然はまっさきに攻めかかり足軽に鉄砲など撃たせていた。ここに二木勘右衛門が現れ
「かねての約束、この場にて争い申すべし!」
そう叫ぶと敵の中に一騎駆け入り、討ち死にした。
これは大阪夏の陣における幕府方最初の討ち死にであったという。
二木勘右衛門の返報、という逸話である。
(武士道美譚)
0744人間七七四年
2012/10/07(日) 15:38:57.35ID:XY9TJ6ms0745人間七七四年
2012/10/07(日) 21:29:56.82ID:RHAQpMf4ていうかいつも思うんだけど、何で手柄立ててどやぁ!じゃなくて
討ち死にしてどやぁ!なんだろか。一騎駆けとか普通に死にに行ってないかい?
0746人間七七四年
2012/10/07(日) 22:04:13.91ID:dIDunZJl0747人間七七四年
2012/10/07(日) 22:05:32.03ID:XFHCdlP+0748人間七七四年
2012/10/07(日) 22:05:40.83ID:o/ss4l/M考え方はは↓の逸話と同じなんだな。当時の武士って、そういうもんだったのかねぇ
渡辺半蔵、三方原の撤退にて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4991.html
0749人間七七四年
2012/10/07(日) 23:02:06.03ID:IpaxRQmO死ぬことが身近な戦国武士から見れば「何を普通な事言ってんの?普通じゃない働きが手柄ってもんだろ?」って感じ?
0750人間七七四年
2012/10/08(月) 00:02:39.36ID:ucQTLqwW平塚郷(群馬県太田市)の百姓から大豆を買い上げた。
ところがこの時石橋と百姓との間で、支払いを精銭(良銭)でするのか鐚銭(悪銭)でするのかで
対立した。そう、これぞ『撰銭問題』である。
この当時、同じ額面の銭であってもその種類や状態によって価値は大きく異なった。
精銭と鐚銭の価値の差は、5〜10倍ほどもあったとされる。
少し解りやすく説明すると、日本で日本円の他に、価値としては日本円のほぼ10分の1である
韓国のウォン(漢字表記は円)が額面としては同等の貨幣として流通している、というようなものだろうか。
この時石橋は、代金を強引に鐚銭で支払った。すなわち5〜9割引きで無理やり買い取ったということである。
百姓たちは石橋の地所まで出向き当然猛抗議をしたがなかなか会おうとせず、百姓たちは近隣にあった
長楽寺の住持・賢甫義哲に助けを求め、義哲は石橋に書状を送った。
ようやく帰ってきた石橋からの返事にはなんと、『精銭で支払って欲しいのなら計る升を大きいものに変えろ』
というものであった。こんな話に百姓たちも納得するはずもなく、義哲は再び石橋に、
『この地域では鐚銭での支払いは認められていないこと。升も過去から使い続けられてきたものである』
とのことを説明し、精銭での支払いを求めたが、かんばしい反応はなかった。
業を煮やした百姓たちはついに領主である由良氏の居城・新田金山城に押しかけた。これには由良氏の側も
驚き、役人を派遣し裁定を行うとした。しかし3ヶ月たってもこの問題の解決は一向に進まなかった。
そして、それ以後の記録は無く、これが一体どうなったのか、わかっていない。
関東における撰銭問題の実態を端的に表した、貴重な記録である。
(長楽寺永禄日記)
0751人間七七四年
2012/10/08(月) 12:29:14.17ID:zZF9wQuo0752人間七七四年
2012/10/08(月) 12:58:23.60ID:dvSpoWsP0753人間七七四年
2012/10/08(月) 13:57:54.80ID:PhOw4zrL0754人間七七四年
2012/10/08(月) 14:46:52.35ID:jB/Q2g6o・・・というか西から信玄が攻めてきたからそれどころじゃなくなったのかもしれん
0755人間七七四年
2012/10/08(月) 17:03:37.41ID:wpclnYUb内藤某というとても狭量な者がいた。いつも人の言葉を咎めて、場合によっては
喧嘩に及ぶこともたびたびであった。ある時、徳川家康は彼を呼び出して戒めた。
「人は様々なことを口にするものだから、多い中には癇に障ることもあるだろう。
だが、そんなことを一々心にとめて咎めるのはよからぬことだ。
戦に臨んで明日は豪傑の某を討ってやるぞ、という心構えになれ。お前のいつも
人の言葉を咎める心と取り替えれば、無意味な言葉咎めなどする暇はないはずだ」
――『徳川実紀(君臣言行録)』
0756人間七七四年
2012/10/08(月) 17:49:19.36ID:KIOp1hmP暦も中国のパクリ。
現代でもいまだ中華暦パクリの悪影響が、まだ寒いのに立春、まだ暑いのに立秋で残ってる。
(大陸性気候の中国は日照時間の変化がすぐに気温に影響する。)
0757人間七七四年
2012/10/08(月) 17:57:16.41ID:eiQoRDUO日本の独自貨幣は江戸幕府が慶長11年(1606)に公鋳した慶長通宝で待たねばならない。
というかまともな通貨制度が出来たのは全部江戸時代に入ってからだな。
ちなみに慶長通宝は、日本で皇朝十二銭いらいおよそ600年ぶりに政府によって公鋳された通貨
0758人間七七四年
2012/10/08(月) 18:01:50.34ID:Jaj5m+dt暦は宣明暦ベースだが北条は三島暦だろうな。
気候に関しては戦国時分と現代は違うから、
今の感覚でどうこう言うのもおかしい話だ
0761人間七七四年
2012/10/08(月) 23:51:44.53ID:wzVNTHRI永禄年間に「鐚銭」なんて用語はまだ無いだろ。
原文でなんて書いてあるか興味が有るんだけど。
0762人間七七四年
2012/10/09(火) 12:43:53.22ID:cHbghv6Y>>永楽銭1枚は”ひた7枚”に値するとの記述があります(この『ひた』がビタ=鐚の言葉の初出とされています)。
ちょっとググったら出てきたが・・・
俺は研究者じゃないので本当かどうか知らんが。
0763人間七七四年
2012/10/09(火) 20:09:16.02ID:hY1BN/XF清洲城は大掃除をしていたのだが、殿守の上の段の戸が明かない。
不思議に思い無理に押し開けた所、なんと中に人が入っていた。
そのものは輪違いの模様の柿渋の着物を着て、槍の柄を2つ立てかけていた。
城の者達は彼を審問した所、尾張国内の者ではないと言った。
盗人というわけでもなかったので、即座に成敗はされなかったのだが、
監禁され14,5日ほどで死んだという。
(当代記)
当代記にある、清州城に隠れていた不思議な男の話である。
0764人間七七四年
2012/10/09(火) 20:20:41.77ID:ijMjNP4r0765人間七七四年
2012/10/09(火) 21:56:34.95ID:sRAIjwt0夢のなかに花倉(花倉の乱で義元と家督を争った玄広恵探)が現れ、義元に対し
『今度の出陣は止めるべきだ』
と云った。
義元はこれに
『貴様は私への敵愾心からそんな事を言うのだろう!そんな話を聞くことは出来ない!』
そう答えたが、花倉は更に云う
『今川の家が滅びるということを、どうして憂わざるか!』
そこで目が覚めた。
その後、駿河の藤枝を通った時、義元は突然刀に手をかけた
「町中に花倉が立っている!」
しかし周りの者達には何も見えなかった。
不思議な事である。
(当代記)
0766人間七七四年
2012/10/09(火) 23:26:12.71ID:nHbFVm2X片仮名や平仮名で「ヒタ」「ひた」などと記述される銭種の呼称が
東海地方で1560年代に登場するのは間違いないけど、
しばらくは東海ローカルな用語なのよ。
その後畿内でもヒタ、比タ、比多といった用語の使用例が出てくるけど、
例えば奈良興福寺の多聞院日記だと初見が天正7年(1579)、
東大寺文書で初見が天正9年(1581)かな。
関東だと、例えば後北条氏領国だと永楽銭と対比される銭種は「並銭」などと
呼ばれていて、ヒタという用語の使用は家康の関東入部以降ではないかと思う。
さらに、ヒタに「鐚」の漢字が当てられるようになるのはおそらく17世紀に入ってからで、
今のところ文書での初見は慶長13年(1608)の江戸幕府の法令らしい。
だから永楽年間の上野に「鐚銭」は無いだろうと。
0767人間七七四年
2012/10/09(火) 23:32:56.44ID:nHbFVm2X×永楽年間 ○永禄年間
0768人間七七四年
2012/10/10(水) 09:21:11.01ID:Rb3K20Cz0769人間七七四年
2012/10/10(水) 18:36:06.44ID:RTVrpBdNそこに逗留したのだが、この時持ってきてあった黄金の茶具、釜、天目、水差し、柄杓、柄杓置き、茶杓以下が
尽く紛失した。
これは近衆の者達の仕業かと、共の衆は上下関わらず、その夜の宿泊の宿を捜査されたが、
事件を解明することは全く出来なかった。
その夜の警備責任者のあいば勝七、落合長作、岡部藤十郎の3人は責任を取らされ、方々の城預けの処分を受けた。
勝七は掛川城、長作は田中城、藤十郎は沼津城に預けられた。
翌朝、紛失した黄金の茶釜の蓋だけが藪の中に落ちているのが発見された。
これが報告されると、発見者に家康から褒美として、金三枚が下された。
その後もどうも謎のまま終わったらしい、家康の黄金の茶具一式紛失事件についての記録である
(当代記)
0770人間七七四年
2012/10/10(水) 18:38:21.78ID:GWfFz1Tr0771人間七七四年
2012/10/10(水) 23:30:58.94ID:qbWa7p4Z0772人間七七四年
2012/10/10(水) 23:36:24.37ID:f1R80uRQもしあれが本当なら、見つかった、てことかな
0774人間七七四年
2012/10/11(木) 01:23:23.95ID:T1uxgLqf正直に金の茶釜って言ったらどうなるんだろう。
0775人間七七四年
2012/10/11(木) 01:49:57.24ID:Vuga7j1z0776人間七七四年
2012/10/11(木) 02:48:11.95ID:u5vuhp5b0777人間七七四年
2012/10/11(木) 02:51:27.66ID:ml726taz0778人間七七四年
2012/10/11(木) 07:54:25.32ID:1lyNlHCI0779人間七七四年
2012/10/11(木) 14:57:07.67ID:gpdTQrSM0780人間七七四年
2012/10/11(木) 15:00:00.86ID:J10jAjET逆にそこが人間臭くていいという人もいるんだろうが。
0781人間七七四年
2012/10/11(木) 15:59:13.78ID:3GgRYgAY0782人間七七四年
2012/10/11(木) 16:05:17.69ID:5im0Zst0なれんよなぁとか言って
個人の意見を一般化しないように。
0783人間七七四年
2012/10/11(木) 16:54:12.82ID:up+DWCw2庶民レベルでは国威を発揚した痛快な外国退治として認識されていた。
秀吉のネガティブな面が表にでてきたのって、ホントにここ2,30年じゃないかな?
0784人間七七四年
2012/10/11(木) 16:55:18.12ID:j9TGl7th泉の神様に正直に申告したのに何故か毒殺されました
よく見たら泉の神じゃなくて宇喜多の和泉守でした。
0785人間七七四年
2012/10/11(木) 18:05:01.86ID:up+DWCw2池田市郎兵衛と言えば度々の戦功を重ね、首供養(33人の首を獲った者のみが許される、自分が命を奪った者への
鎮魂の法要)をした程の武士であったが、牢人して困窮に陥った時、寺沢広高がこれを招き、茶料として四百石を
無役として与え、さらに鉄砲足軽20人を、「これは並の足軽ではないが、人数少なく色々と不便であろうから使われよ」
と言って預けられた。
ところでこの池田市郎兵衛は、かねてから黒田長政と細川忠興も召抱えたいと探していたのだが、
彼が既に寺沢広高の召し抱えられたことを知ると非常に残念がり、彼らはそれぞれ、市郎兵衛に対し
三千石で召抱えたいといってきた。
しかし市郎兵衛
「私が牢人し餓寒に及ぼうとしていた時に、主君広高の恩恵を蒙り、今にいたって妻子を豊かに育めております。
三千石はかたじけない事ですが、その高禄に心惹かれて他家に参るというのは、武士の本懐ではありません。」
と伝えて、両家の誘いを断った。
寺沢広高はこの話を漏れ聞き、「他人が高禄を以って池田市郎兵衛を招いたのに、彼は利を貪らず私に
義理を立てた。それを私が知らぬ顔で捨て置くというのは、道に背く行為である。」
そう考えて市郎兵衛に三千石を与えようとした。
が、これに市郎兵衛
「私はもとより、禄の多少を論じてはいません。ただ殿からの処遇の浅からざるを悦んでいるのです。
今頂いている所領にて、衣食の用は充分に足りています。ですからその他は毛頭望むところではありません。
もし殿に誘っていただいた時、その身上が不足だと考えていたら、たとえ餓死しても始めからそれに応じる筈も
ありません。
その上当家に参ってから、私には何の功労もなく、懸命な御奉公を勤めたいという気持ちばかり募りますが、
些かも御恩に報いることは出来ていません。そんな私が今更どうして、過分の御加増を受けられるでしょうか?」
池田市郎兵衛、なんと殊勝な物言いであろうか。ところが
「ただし」
市郎兵衛は続けた
「私のこれまでの武功に応じた所領を与えたい、とお考えなのなら、例えば御家では、御家老の平野源右衛門殿には
八千石を下されておりますね。しかし彼は、武功において私と同列に語れるような者ではありません。
もし源右衛門殿と同じ基準で武功を評価していただくのなら、私には一万石下されても、未だ充分だとは思いません。
殿?なまなかな気持ちで手をお付けなされては、私が成してきた功績に傷をつけてしまいます。
ですから却って今のままのほうがいいのですよ。」
そう言って断った。
家臣が主君に「仕えてやっている」とはこういう事か、と思わせる、池田市郎兵衛の自負である。
(武士道美譚)
0786人間七七四年
2012/10/11(木) 19:00:04.64ID:UbHGOshQ0787人間七七四年
2012/10/11(木) 19:02:15.14ID:BnOD9kal0788人間七七四年
2012/10/11(木) 19:06:27.44ID:kqIHIRh50789人間七七四年
2012/10/11(木) 19:23:40.99ID:nYwPNFgq0790人間七七四年
2012/10/11(木) 19:26:50.12ID:ereW9tlm0791人間七七四年
2012/10/11(木) 21:36:09.80ID:8cksYRGk0793人間七七四年
2012/10/11(木) 21:43:37.72ID:d6O9Qyuc0794人間七七四年
2012/10/12(金) 00:28:56.15ID:/aoxo5950795人間七七四年
2012/10/12(金) 01:25:54.22ID:+FBYIoEV鍋島直茂は家臣が中央のことを知らないために万事不都合なので、
稲垣権左衛門という者を召抱えて二百石を与えた。
ある日、直茂が高伝寺に詣でると、門に張札があり、
『御譜第の者だに取らぬ地行をば、いながきが来て二百石取る』
と書かれていた。直茂は帰宅すると、
「譜代の者には何の沙汰もないのに、他方の者に知行を与えたのでは、
合点がいかないのも無理はない。私たちは誤りによって恐縮する
こともあるだろうが、公儀に対して不調法だったとしても国家の
害にはならないはずだ」と言い、
権左衛門に経緯を話して諭し、暇を賜ったという。
――『名将言行録』
0796人間七七四年
2012/10/12(金) 09:19:43.48ID:v/isuBix0797人間七七四年
2012/10/12(金) 09:28:49.35ID:q8NF8Dri0798人間七七四年
2012/10/12(金) 10:22:39.99ID:R1hYhrwS0799人間七七四年
2012/10/12(金) 10:47:09.82ID:S09DAfZH昔も今も、洋の東西も問わず同じ問題抱えてるだろ。
0800人間七七四年
2012/10/12(金) 11:41:11.31ID:/aoxo5950801人間七七四年
2012/10/12(金) 13:24:12.12ID:FN00yU0A0802人間七七四年
2012/10/12(金) 13:26:36.31ID:pCeATkzI0803人間七七四年
2012/10/12(金) 15:51:22.41ID:NHOoK4PP0804人間七七四年
2012/10/12(金) 17:01:16.56ID:l5NTSM9N0806人間七七四年
2012/10/12(金) 18:34:27.54ID:Oc+D15Pzソロバン得意>>>>>脳筋なのに
なんでそんな落書きで考えを翻すかな
0807人間七七四年
2012/10/12(金) 18:37:31.58ID:yUbuChbJ0808人間七七四年
2012/10/12(金) 19:13:32.27ID:Kl5I33N5この時はまだ誰も知らない...(´・ω・`)
0809人間七七四年
2012/10/12(金) 20:07:27.39ID:vTG4OOsZ秀政は家臣の鹿島宗全に、この者の召し捕りを命じた。
と、ここで宗全は思った。「あの侍は器量優れた者である。これは容易ならぬ捕物である。」
そして深く考えた。
宗全は矢倉に走ってゆくと、その侍を呼び出し急いでいる様子で言った
「間もなく兵部大輔殿(秀政)がこちらに御出である!掃除はできているか!?私はそれを確かめるため
こちらに参ったのだ!」
そして矢倉の中を見回しつつ、ふと上を見上げると
「あっ!あそこに蜘蛛の巣が!」
小笠原秀政は何故だか知らないが蜘蛛の巣が大嫌いであったのだ。その事はこの侍もよく知っていたので、
「なんだと!?」り言って上の方をじっと見る。
と、すかさず宗全、彼を後ろからむずと抱き上げ目の高さより上まで持ち上げると、板敷の上に、どうと
思いっきり投げつけた!そしてそのまま押さえつけ縄をかけた。
この侍
「さてさて無念のことかな!蜘蛛の巣と言われたのに打ち驚き、空を見上げたところを細腰を抱かれては
もうどうしようもない!」と口惜しがったという。
鹿島宗全矢倉の捕物、というお話
(武士道美譚)
0810人間七七四年
2012/10/12(金) 20:42:52.12ID:NHOoK4PP0811人間七七四年
2012/10/12(金) 21:30:25.72ID:/aoxo5950813人間七七四年
2012/10/12(金) 22:44:08.00ID:8tjL621S0814人間七七四年
2012/10/12(金) 23:37:02.30ID:6Yz0wme50815人間七七四年
2012/10/13(土) 00:05:49.03ID:WROXocue0816人間七七四年
2012/10/13(土) 02:32:12.23ID:O/mAbsd+帯を締めるあたりの事を細腰というが一瞬何事かと吃驚しちまったぜ
0817人間七七四年
2012/10/13(土) 08:21:36.65ID:aSy1wE8R>すかさず宗全、彼を後ろからむずと抱き上げ目の高さより
>上まで持ち上げると、板敷の上に、どうと 思いっきり投げつけた!
当然この時の宗全の姿勢はきれいなブリッジですよねわかります。
0818人間七七四年
2012/10/13(土) 10:48:51.90ID:L7i5fm+Z0820人間七七四年
2012/10/13(土) 12:48:07.25ID:y8cm8NdD0821人間七七四年
2012/10/13(土) 12:52:52.17ID:9Vn2I3qQ何かやらかした自覚もなさそうな捕まり方だなw
0822人間七七四年
2012/10/13(土) 13:15:40.31ID:SbcHpIHH0824人間七七四年
2012/10/13(土) 15:41:31.66ID:o0IUkIam0825人間七七四年
2012/10/13(土) 15:55:44.47ID:WROXocue0826人間七七四年
2012/10/13(土) 22:49:27.35ID:8Ay9UkVa長慶内証の様体、笑止に存じ候。心中をも存ぜず候いつれども、おのおの心得のため、申し候いき。
それについて給人方田地の事、そのかくれあるべからず候。さりながら、ご不審のこと候はば、
給人衆の帳をごらんあるべく候。なお寿清へ申し渡し候間、一二能わず候。恐々謹言。
九月十四日 松弾 菅若 」
(お手紙、拝見しました。榎並の侍衆の騒動を鎮圧されたこと、当然の処置であると思います。
長慶の内々の様子は、笑止千万と言えましょう。本人も、もう何を考えているのか分かりませんし、
皆さんにも(こんな状態だと)心得ておいて欲しいので、申し送っておきます。
それはさておき、榎並衆の土地争いについては経緯が明らかですが、ご不明の点があれば
連中の知行簿をご覧ください。その他については使僧の寿清に伝えてあるので、一々書きません。
九月十四日 松永弾正より 菅若狭守へ )
三好長慶の晩年、永禄六年前後に出されたと思われる、松永弾正久秀から野口(菅)若狭守冬長あて書状。
主君の末弟への手紙で、肝心の主君を呼び捨てにしたり「アイツ何考えてるやらww」とか
書いちゃう松永先生、マジ爆弾正。誰のせいで『笑止』な事になったんですかねぇ・・・
0827人間七七四年
2012/10/13(土) 23:09:42.63ID:pMAA7Nd0ここでの「笑止」は笑止千万じゃなくて、「困っている」と訳すべきだと思うよ?
つまり
「長慶の病状が思わしくなく困っている。」と解釈すべきかと。
「長慶」って言っているのも、野口冬長が長慶の末弟で、一門だからかと。
つまりこれは、身内で長慶の様子を心配している書状だと考えたほうが良いかと。
0828人間七七四年
2012/10/14(日) 00:56:44.62ID:FGqlsFMT0829人間七七四年
2012/10/14(日) 04:12:44.36ID:QlETwww8有信の父、有徳は島津貴久に仕えるも家中では「逆臣の子」と蔑まれていた。
そして有信自身も「逆臣の係累」とよばれ家中では白眼視されていたのだった。
しかし有信はそんな事を気にせず忠勤に励む。その結果、宗家の信頼を勝ち得て各地の地頭職を任され勤め上げていく。
1577年には島津義久は有信を対大友の最前線、日向新納院高城の地頭に任命している。
「逆臣の係累」と呼ばれた有信だが、義久は信頼したからこそ最前線を任したのであろう。
そして有信自身、義久の信頼にしっかり答えていくことになる。
翌年4月大友の大軍4万が南下し日向に殺到、有信の居城高城も包囲され3千VS4万の壮絶な籠城戦を戦うことになった。
籠城中に嫡男有栄誕生の知らせを聞いた有信は
「これで家が絶えずにすむ。おかげで城を枕に存分に戦い討ち死にすることができる」
と喜んだという。家中では「逆臣の係累」と呼ばれた彼だが忠義を守って討ち死にする覚悟であった。
11月まで籠城戦を戦い抜いた有信のもとに義久の援軍が到着、
耳川の戦いにより島津が九州の覇者となった。また有信自身も高名をあげている。
それから9年後、今度は豊臣秀吉の九州征伐軍を迎え撃つことになる。
このときは豊臣秀長率いる10万の軍勢を相手に籠城戦を戦い抜くのであった。
高城は主君義久が降伏するまで落ちず、義久からの使者に説得されて降伏開城と忠義を貫き通す有信。
この戦いは豊臣勢に激賞され秀吉本人から「天草4万石を与えるから直参にならないか」との誘いを受けている。
義久への忠義を尽くす有信はこの申し出を断っている。
そんな有信を義久は老中に抜擢、島津家中の最高職を任すのだった。
1609年老齢の義久が病に倒れると、有信は自分が身代わりになると自害して果てた。
病が言えた義久は有信の棺を内城に召し寄せ焼香し
「はちす葉のおきこぼしたる露の玉のおわりや君が為にすてけん」
との和歌を送っている。
「逆臣の係累」と呼ばれた男は「無二の忠臣」と呼ばれ死んでいったのである。
0830人間七七四年
2012/10/14(日) 04:13:54.72ID:QlETwww8有栄は朝鮮出兵などで島津義弘の下で戦い戦功を立ててきた武将である。
そんな彼の主君義弘が関ヶ原の戦いのさい「我ら無人」と嘆くほど手勢が足りずに困っていた。
本国で前領主の島津義久が中立を唱え上方での参戦を禁じたからだ。
義弘の窮状を知り上京を決意した有栄は配下32人と共に義弘の下にはせ参じる。
昼夜を問わず駆け続け義弘の下にたどり着いたのは関ヶ原の戦いの2日前である。
義久はいわゆる「島津奔る」の結果駆けつけた有栄の手を取って喜んだという。
関ヶ原ではいわゆる「島津の引き口」において常に主君義弘の傍らにおり、「軍功並ぶものなし」と言われたのだった。
そして有栄は1630年には出水の地頭に任じられている。
山田家因縁の地、出水へ出向く有栄。
曽祖父の有親が出水の島津実久に味方し「逆臣の係累」と言われるきっかけを作ってより実に100年近い年月がたっていたのだった・・・
逆臣の係累から忠臣の係累になった親子の話でした。
0831人間七七四年
2012/10/14(日) 04:29:53.11ID:QlETwww80832人間七七四年
2012/10/14(日) 07:44:49.87ID:OKRohXtu諱の呼び捨てに関して最近面白いものをみた。
丸島和洋氏のつぶやきをtogetterで纏めたものの中で、
諱呼び捨てには敬意を表してるものもあるそうだ。
http://togetter.com/li/272725
0833人間七七四年
2012/10/14(日) 09:42:21.59ID:rJj6x35+0834人間七七四年
2012/10/14(日) 09:50:20.67ID:fI6j+dl6当時の書状の、笑止は「困ったこと」、笑止千万は「非常に困ったこと」だからな
自分も知らなかった頃は意味が通じなくて困ったことがある
0835人間七七四年
2012/10/14(日) 11:06:16.03ID:uIMmpfMc0836人間七七四年
2012/10/14(日) 12:08:13.84ID:84GTKurf0837人間七七四年
2012/10/14(日) 12:33:11.37ID:65cOsElr昔TERUが送った書状に「笑止千万」って出てるのを見て
「この状況で他人バカにするとかクズだなこいつ」って思ったけど
「非常に困った」の意で捉えればちゃんと意味の通る文章になったわ。
0838人間七七四年
2012/10/14(日) 12:43:17.47ID:7B/3+ACs0839人間七七四年
2012/10/14(日) 13:04:55.17ID:fI6j+dl6自分も忠興が小笠原親子戦死を国許に報じる書状に笑止千万って書いてあって
嫁さん憤死しちゃう><ってびっくりして調べて、非常に残念な事だと訳すんだと知った口だけど
0840人間七七四年
2012/10/14(日) 13:11:54.14ID:L8DhVion結構あるね。例えば微妙公の「微妙」は「極めて優れていること」という意味。
「遠慮」は「遠い先まで見通し深く考える」という意味。
「貴様」は「あなたさま」という丁寧な呼び方。
「留守」は真逆で「家を守るため外に出ない」こと。
このあたり現代の感覚で読むと混乱しやすい文字かも
0841人間七七四年
2012/10/14(日) 13:18:56.58ID:7uyBR+Z90842人間七七四年
2012/10/14(日) 13:30:24.35ID:Lc9bBxPg0843人間七七四年
2012/10/14(日) 13:46:28.93ID:D0a7bFrJ0844人間七七四年
2012/10/14(日) 13:49:22.24ID:7uyBR+Z93 非常に趣・おもしろみ・うまみなどがあること。また、そのさま。
奇妙丸もこれならいい意味
0846人間七七四年
2012/10/14(日) 15:48:46.09ID:7uyBR+Z9ところでここに出てくる松永弾正の性ハウツー本だが、
曲直瀬道三が弾正に送った「黄素妙論」に
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/mg5/image/mg5shf/mg5sh0002.html
夫女人の淫念いたらざる間は男子しゐてまじはるべからず女人に淫慾の情念のいたるしるし五つあり。
一には男女ひそかに対面し物語などするに俄に女のおもて赤くなるは心中淫事の念きざすしるし也。其時男子の玉茎を女人の玉門にあてがふべし
ニには女人はなをすすらば慾念肺の臓にうごくと知るべし、即玉茎を少し入るべし
三には女人目をふさぎ口をあき舌をさましいき使ひあらく成は淫情脾の臓にいたるとしるべし。其時ゆるゆると玉茎を出入すべしあまりにふかく入べからず
四には女の玉門の中あたたかにうるほひゆたかにして津液外にながれは腎気のいたると心得て玉門の口へ玉茎をぬき出し左右をよこにつくべし
五には女の足にて男の腰をはさみ女の手にて男の背をいだきしめ口をすはんことをもとめば肝の臓の気いたると心得て玉茎をふかく玉門の奥さしつめてしづかに左右につくべし
殆ど同じことが書かれてるんだが
0847人間七七四年
2012/10/14(日) 16:04:23.22ID:fI6j+dl60848人間七七四年
2012/10/14(日) 16:14:53.19ID:3qTu7GkG0849人間七七四年
2012/10/14(日) 16:16:48.24ID:nJktpLb60851人間七七四年
2012/10/14(日) 17:18:28.48ID:kHMbetqx内容的に道三のを参考にしたっぽいな
0852人間七七四年
2012/10/14(日) 17:39:01.63ID:FGqlsFMT松永、TERU、忠興、崇伝か
癖のある連中に使われて
裏のない神妙な意味だとは思われなくなったとか
0853人間七七四年
2012/10/14(日) 17:40:16.38ID:A+cGN+Y6関ヶ原本戦の直前、杭瀬川の戦いで有馬豊氏の家人・稲次右近は
敵方の横山監物に組伏せられたが、右近の若党が監物を引き倒して
右近にその首を取らせた。ところが、そんな時に何者かが現れて
若党の首を切って逃げ去った。後に糾明したところ、その者は
堀尾忠氏の家人ということが分かった。
まったくの味方殺しだったので右近は訴え出たが、徳川家康は
「何を言うか、軍が入り乱れている時にはそういうこともあるものだ。
そのまま捨て置け」と言ったということだ。
――『徳川実紀(天元実記)』
0854人間七七四年
2012/10/14(日) 18:12:05.65ID:fI6j+dl60855人間七七四年
2012/10/14(日) 18:42:12.26ID:GKguxXju0856人間七七四年
2012/10/14(日) 19:54:47.54ID:+u0sR4k9右近「それは島左近だ!」
0857人間七七四年
2012/10/14(日) 20:43:47.80ID:Lc9bBxPg筑紫広門は常にこれらの城を攻略しようと策を練っていた。例えば…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-856.html
立花城には計略を仕掛け、岩屋城には秋月種実とともに幾度と無く攻めるが、
その度に撃退されてしまっていた。そこで広門は一計を案じた。
↑のリンク先にも名前が出てくるが、筑紫方に武蔵城という城があった。
ここは宝満・岩屋城と、旧・大宰府の条坊があった広い平野(二日市など)を挟んだ
天拝山の麓にあり、その中腹の飯盛城とともに帆足弾正という武将が守っていた。
この山を越えるとすぐ肥前の筑紫居城・勝尾城に繋がり、
いわば筑前における筑紫方の前線基地である。
広門は帆足備後(弾正とも)に命じ、家臣を茶売りに変装させて岩屋城へと侵入させた。
戦時中の城とはいえ、城内には住居もあり、普段は商人なども行き交っていた。
まんまと侵入に成功した筑紫方の茶売りは、城内のいたるところに
「たまご火」を仕掛け、武蔵城へと逃げ帰ってきた。
この「たまご火」というのは、その名の通り見た目は卵なのだが、
卵の殻の中に一種の自動発火装置のようなものが仕込まれており、
それ自体に大した威力はないが、燃えやすいものの近くに置いておけば…
燃え移って延焼していくという仕組みだ。
岩屋城内は突然いたるところで起こった火事に大混乱。
この混乱に乗じて筑紫衆は観世音寺近辺まで詰め寄り、
このままでは岩屋城陥落も間近かと思われたが、
高橋方後詰の宝満山城の兵士たちが救援にかけつけたため、
筑紫方は自軍の損害も考えて、早々と引き返した。
しかし城内の家屋は残らず火災で焼け落ちてしまい、かなりの被害を受けたという。
0858人間七七四年
2012/10/14(日) 20:46:35.86ID:Lc9bBxPgちなみにその後も秋月・筑紫連合軍と大友軍の小競り合いは続く。
1584(天正12)年に立花道雪・高橋紹運が筑後へ出陣した隙を突いて
秋月種長(種実が前年に家督を譲る)が留守中の立花城を攻めるも、
立花統虎(宗茂)がこれを見事に撃退している。
しかしついに城攻めが成功する時がやってくる。
立花道雪が筑後の陣中で病没し大友軍が陣引きしようとしていた頃、
筑紫広門は今度は兵300人全員を山伏修験者の姿に変装させて宝満山に侵入、
不意を襲って山上の僧坊や城に放火して、これを占拠してしまった。
宝満山は元々修験道の霊場で山中いたるところに僧坊があり、
山伏の姿になって入れば怪しまれなかったのだろう。
広門さんは放火とか変装とか鉄砲盗人とか、そういう計略が得意みたいですね。
そしてこの5ヵ月後に、「筑紫の押しかけ姫」の逸話と繋がるのである。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6441.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-828.html
上の逸話では本当にいきなり姫が押しかけたように書かれているが、
筑紫広門は大友家との和睦の交換条件として宝満山城を手に入れておきたかったようだ。
島津軍が北上するという時に、すぐ後方に敵の城があっては
岩屋城を守ることもできないため、高橋紹運としても婚姻は渡りに船の話だった。
宝満山城はその後、筑紫家と高橋家の相城となる。そしてかの有名な岩屋城の戦いへ…。
0859人間七七四年
2012/10/14(日) 22:05:02.78ID:TDtkLp3S0860人間七七四年
2012/10/14(日) 22:27:12.93ID:xnTH6Cmsそんなのが当時あったんだね
さすがノブヤボで知謀の数値高いだけのことはあるな
0861人間七七四年
2012/10/14(日) 23:55:42.01ID:nJktpLb60862人間七七四年
2012/10/15(月) 00:09:12.18ID:60ZXLO6g火薬や硝石は輸入物使ってたから黄燐とかも手に入ったのかな?それなら可能かもしれないけど
夕方くらいに仕掛けておいて翌日、日が上って気温上昇とともに発火とか
0863人間七七四年
2012/10/15(月) 00:21:44.97ID:z9QFnsn30864人間七七四年
2012/10/15(月) 00:24:45.31ID:RhmDVWTD既出の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話などをいろいろ雑談したいと思いスレ立ててみました。
良かったら書き込みしたりして下さい。
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
失礼しました。
0865人間七七四年
2012/10/15(月) 00:47:44.52ID:IfDTvJXs大友家の朝倉一玄も「留守の火縄」って
自動発火の計略をやってた話もあるし
そういう研究してる人は結構いたんじゃないかな
0866人間七七四年
2012/10/15(月) 09:21:10.57ID:2uUmQsPB器物目当てに町民が入り込むのを官軍はあえて制止せず
案の定幕軍が仕掛けていった地雷火が爆発して町民が吹っ飛んだのを確認してから入城したという。
地雷火ってどんなんだろう?砲術の伝書とかに書いてあるのかな。
0867人間七七四年
2012/10/15(月) 15:59:22.12ID:DCFAPyWL確実性にかけるので、電線張っての
遠隔操作の地雷火の方が多かったけど。
0868人間七七四年
2012/10/15(月) 18:16:55.99ID:pi3BwCFp立花道雪は瀬高口の陣を引き払い、嘆いて曰く、
「天晴れ、鍋島は智仁勇の大将だ。わしは多年、肺肝を砕いて
謀ってきたが、彼は謀られなかった。運を天に任せて時を待とうとしても、
鍋島は若く健全であるのに比べ、この道雪は年老いたうえに病身だ。
口惜しき仕合だよ」と首を垂れて悔やんだ。
その苦労は日々積もり、道雪は高良山の陣中で死去した。
鍋島直茂はそれを聞いて落涙して惜しんだということだ。
――『名将言行録』
0869人間七七四年
2012/10/15(月) 18:39:42.16ID:x0Hbw+K8火種が火薬に落ちて爆発みたいな装置かな?
0870人間七七四年
2012/10/15(月) 22:08:01.15ID:2zrkV/YM0871人間七七四年
2012/10/16(火) 09:30:26.73ID:uMDhT37n0872人間七七四年
2012/10/16(火) 10:53:28.71ID:PPMG4kC80873人間七七四年
2012/10/16(火) 13:45:05.15ID:5/7HctCV0874人間七七四年
2012/10/16(火) 14:56:35.08ID:wzzjPIjZ鍋島(…おまえらもっと動けよ…)
0875人間七七四年
2012/10/16(火) 15:10:31.48ID:3X4XDR/b0876人間七七四年
2012/10/16(火) 17:10:12.77ID:klwxAAdn小田原の役の折、前田利家と上杉景勝は関東の諸城を降伏せしめ、
小田原に至り秀吉に謁見した。この時、秀吉はその功を賞さなかったので、
二将はとても不可解に思いながらも、自営に帰っていった。
その後、秀吉は近臣に「利家と景勝が敵の城営を降したことは
確かに功ではあるが、その内の堅城十二ヶ所は屠るべきだった。
これは一威一宥というべし。ただ降伏だけを待つのはよくない」と語った。
そして近臣は密かにこれを二将に告げた。
二将はこれを聞いて、直ちに八王子城を攻め屠った。
加藤嘉明はこれを聞いて「殿下の後裔は続かないだろう。
殺をもって威を立つとは、将校の武をもって喜ぶ者のやることであって
天下の長たる者のなすことではない。天下の長たる者は殺を止めることを
務めとするものだ」と、密かに人に語った。
後には果たしてその言葉の通りになった。
――『名将言行録』
0878人間七七四年
2012/10/16(火) 18:43:49.65ID:l3mevywU氏政・氏照はやむなしとしても、
松田と大道寺、ついでに宗二ぶっころしてだろ、ここらへんは許してやれたはず
特に大道寺政繁は一ヶ月近くの攻防戦の末の降伏で北条への義理はちゃんと立ててるし、
北陸勢に従って転戦して功も上げてる
殺す理由がさっぱりわからん
0879人間七七四年
2012/10/16(火) 19:30:34.77ID:W0cyz0fV奈良の有名な猿沢の池において、10月15日から水換えを行い、11月4日5日と池の魚を一方の
水たまりに寄せ、主池を掃除して22日に再び水を入れそこに魚を離すと、魚が10匹ばかり
たちまちのうちに死んでしまった。
これを一乗院は夢のお告げによって、この事は不吉な兆しだと言っているそうである。
かつて、80年以上前にもこれと同じことがあり、天下は凶相の有様となった。
また、去る永禄10年(1567)にもこの池において同じことが起こった。
すると翌年より天下大乱となり(三好三人衆と松永久秀の争い)、これにより当時天下の主人であった
三好家が滅亡したのである。
(当代記)
大仏焼き討ちで有名な東大寺大仏殿の戦いのころ、こんな怪奇現象があったらしい、というお話
0880人間七七四年
2012/10/16(火) 19:34:45.65ID:aZMW5iMW0881人間七七四年
2012/10/16(火) 19:35:15.81ID:LUpvVy8y0882人間七七四年
2012/10/16(火) 20:48:43.84ID:bRgAzFFNpHショック、硬度ショック、水温ショックのいずれかが起きたと思われ.
お魚を別の水に移動させる時は「水合わせ」を忘れずに!!!
0883人間七七四年
2012/10/16(火) 20:49:55.47ID:UqMlIr4aなんて謡われる不思議池ですし
0884人間七七四年
2012/10/16(火) 20:50:21.33ID:qQUoZR4D0885人間七七四年
2012/10/16(火) 21:43:33.42ID:FEfsZ3ef小屋みたいな城落としてるんじゃねえよと言われたり、堅城は落としとけと言われたり…下請けの悲哀だな…
0887人間七七四年
2012/10/17(水) 00:08:32.27ID:phStM6dH白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
0888人間七七四年
2012/10/17(水) 00:18:52.96ID:dSnOhPMA魚飼ってる奴なら分かると思うが
池の水を全部交換とか論外にも程があるわボケ
自分のミスを不吉な兆しで誤魔化すなw
0889人間七七四年
2012/10/17(水) 00:24:48.08ID:FWcWnClT「五傷之法」は「黄素妙論」の六章目のようだ
「一に、玉門ふくれず、うるほはざる間は、必ず玉茎を入べからず、しゐて入る時は肺をやぶる
ニに、女人の淫情既に動ずといへども、男子それをもしらず、漸女の心中に興つき、
時過て交合する時は、必帯下の病となる
三に、少壮之女に白髪之老男相対して、玉茎かたからず、なましゐに少しおゆるといつて、
しゐて交合し精汁をもらすことかさなれば必目をやみ、終には盲目となる也、
四に、女の月水いまだやまざるに、しゐて交合すれば互に腎をやぶる、
五に、男子沈酔して交合し、女人の美快なる事過おはありたるに、しゐて久しく出入をおこなふ時は、
必面黄之病を生ず。」
内容も前にこのスレに出たやつと同じっぽい
あと、「黄素妙論」全文および現代語訳は、新潮新書の山崎光夫「戦国武将の養生訓」に載っているな
上記以外は体位(9つ)とか精力剤の処方とか
0890876
2012/10/17(水) 00:38:05.19ID:gRKLHb8eいまさらすいません訂正します。
×堅城十二ヶ所
○堅城一、二ヶ所
一つ二つと十二じゃ全然違うよ…申し訳ない。
0891人間七七四年
2012/10/17(水) 04:58:31.02ID:iVnlSqZp北条家、今川家の書状は具体的な年月日が記載され、
城の普請などでも具体的な城名も記載されているので、
いつどこの出来事に関する書状かすぐに分かるという。
一方武田家の書状は年月日の記載がなく、
城に関しても「其城」としか書いておらず、
いつどこの出来事の書状かそのままじゃさっぱり分からない。
そのため他の史料などから前後関係を調べて年代の特定をするところから始めねばならず、
研究は大変なのだという。
0893人間七七四年
2012/10/17(水) 14:31:49.48ID:pPEb8PzQ0894人間七七四年
2012/10/17(水) 18:58:14.96ID:UGTttLN5http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4552.html
0895人間七七四年
2012/10/17(水) 19:13:39.00ID:H9I1HYsN0896人間七七四年
2012/10/17(水) 19:20:01.82ID:jBejSjWm0897人間七七四年
2012/10/17(水) 19:55:05.24ID:o4bTbvXi猶可有山本菅助口上候恐々
謹言
六月廿三日 晴信(花押)
市河藤若殿
↑市河文書の最後のほう
0898人間七七四年
2012/10/18(木) 00:30:38.40ID:TT2CuZ93関ヶ原の戦いの折、朝ほどに深い霧のなかで鉄砲の音が激しく聞こえる中、
東軍本陣の人々はいずれも勇み進んで馬を乗り廻し、未だ陣も定まらない時に、
野々村四郎右衛門某は誤って自分の馬を徳川家康の馬に乗りかけてしまった。
すると家康は怒って刀を引き抜いて切り払ったので、野々村は驚いて走っていった。
なおも怒りの収まらない家康は側にいた門奈宗勝の指物を筒より切るも、宗勝の身
には触れなかった。
これは単に一時の英気を発したまでで、後日に野々村を咎めることはなかったという。
――『徳川実紀』
0899人間七七四年
2012/10/18(木) 00:38:23.82ID:Wz0N4xHy0902人間七七四年
2012/10/18(木) 10:37:21.94ID:/td3rcG3今川北条が文書なんかシコシコ書いてる前に武田は攻め込んでるよw
0903人間七七四年
2012/10/18(木) 11:07:49.64ID:KqO7EW3N0904人間七七四年
2012/10/18(木) 11:29:15.55ID:ovYf0ydAおかげで3家とも滅んだ家なのに書状残りまくりで
論文なんか今だに北条武田今川ばっかだわ
0905人間七七四年
2012/10/18(木) 12:04:36.76ID:2WEkCgbeで、長篠で痛い目にあってこりゃあかんってことで改革を断行、
文書をシコシコ作るようになってるのは皮肉
0906人間七七四年
2012/10/18(木) 12:13:19.26ID:dRypKPld0907人間七七四年
2012/10/18(木) 12:39:42.23ID:DUqeztv1つか、髪の方の話題はあんまりないんかね?
CS見てて和田さんのhage方は欧州人っぽくてあこがれたわ〜
0909人間七七四年
2012/10/19(金) 00:18:31.99ID:kZa+IzlA上杉憲政の老臣・長尾意玄は北条氏康の勢力が日に日に強大になるのを
憂いて、本間近江と井俣左近を氏康に仕えさせてその内情を視察させた。
やがて平井に戻って来た二人によると、
「氏康の人となりを熟視したところ、沈着剛毅にして測られず、剛にして
柔であり、書を読んだり刀槍の訓練をし、礼節は正しく、威厳があります。
また下賤であっても功を賞し、士を用いる時には老少問わずその器量に
適した用い方をしています。その子弟は嫡子でなくとも皆俸禄を与えて
仕事をさせ、功があればすぐに昇進しています。
そうした理由から配下は畏怖しつつも氏康を愛し、人々は奮い立って
死を致す覚悟です。しかも上杉の将士は皆密かによしみを通じています。
通じていない者はわずかに九人しかおりません」とのことであった。
意玄は二人の報告を引き合いにして憲政の非を諫言した。
これを聞いて憲政はようやくその非を改めた。ところが程なくすると、
菅野信方と上原兵庫の言葉を用いて、また大いに政事を怠るようになった。
――『名将言行録』
0910人間七七四年
2012/10/19(金) 17:20:46.97ID:+LAh1N5L大阪夏の陣、後藤又兵衛との合戦の折に政宗公は鉄砲を釣瓶撃ちにせんと鉄砲足軽隊へ御下知なされた
ところが加藤太某という者、鉄砲300丁の隊を預かる身なれど一向に撃たず、公は不振に思ってこれを詰問した
加藤太曰く「道中火縄を点け続ければ燃え尽きて無益だと思い、また玉薬も兵に預ければかさばってかなわないので道すがら捨ててしまうことと思います。」
「故に火縄と玉薬は出発前に荷造りして荷駄隊にそっくり預けてありますので、もう間もなく到着致します。」
公、大いに怒りて手討ちにし、見せしめとす
国史叢書より意訳
騎馬鉄砲隊ならぬ荷馬鉄砲隊を組織して戦場に空筒をぶら下げてた(頭の)悪い話
0911人間七七四年
2012/10/19(金) 18:40:59.54ID:N34nQY1m0912人間七七四年
2012/10/19(金) 18:43:17.83ID:RfxbNVdfかませ犬的存在なのに
0913人間七七四年
2012/10/19(金) 19:17:19.94ID:MrlCTSX8重さ数キロの鉄パイプでも振り回す気だったのか
0914人間七七四年
2012/10/19(金) 19:40:02.81ID:gCP82WQH0915人間七七四年
2012/10/19(金) 19:53:40.05ID:4p7XbHJi0916人間七七四年
2012/10/19(金) 22:48:28.07ID:9+l2T6yk0917人間七七四年
2012/10/20(土) 01:26:27.36ID:/Y7A9m/W0918人間七七四年
2012/10/20(土) 02:19:26.62ID:4gryY6ax一休さん的なパンチの効いた解答を期待したんだが・・・
つか、この加藤さんもシラっと言っちゃうとこが凄いよな
0919人間七七四年
2012/10/20(土) 07:02:31.71ID:OjTnBRaU小早川隆景は朝鮮開城府に在陣していたが、太閤秀吉へのご機嫌伺いのため、曽根兵庫を使いとして
名護屋の本営に参らせた。
曽根は太閤の御前に出て平伏し、隆景の言を伝える
『今十万の人数の渡海を仰せ付けられましたならば、それを朝鮮の占領した城々に入れおき、
現在朝鮮に在陣している十三万にてこの隆景が先手を仕り、朝鮮を押し払い大明に討ち入り、北京をも
攻め取りたいと思っています。この段、願い奉ります。』
秀吉はこれを聞いて大変機嫌を良くし
「隆景の気性、そうでなくてはならぬ!」と、傍らに居た徳川家康、前田利家を見て
「皆の者達、よく聞いてほしい!この秀吉が寿命を迎え、この戦争の最中に病死などしたとしても、
秀次を大将に立てて必ず大明攻めにとりかかるのだ!その時私の亡魂は悪神となって天に登り、
黒雲に乗って、日本軍の鉄の盾となるだろう!
四百余州の奴原(明国)を一々に蹴り殺すこと、思いのままである!」
と、快く語り、ふと
「そういえば、悪霊になって柘榴を食って火を吹いた小男があったが、名前を忘れてしまったぞ。」
これを聞いた施薬院森成
「畏れながら、それは菅丞相(菅原道真)と申し奉る、北野の天神の御事でございます。」
そう申し上げると秀吉
「それそれ!その菅丞相ですら我が念を通じて雷となったのだ。全くその男は、我が睾丸(キンタマ)の垢ほども
無き者である!」
と仰せられた。
この言葉に一座の大小名、皆興を醒ましたとのことである。
(武士道美譚)
0920人間七七四年
2012/10/20(土) 07:31:25.18ID:AGJlYvYm0921人間七七四年
2012/10/20(土) 07:48:26.78ID:jjrnK5P/太閤殿下の軽い冗談かな
0922人間七七四年
2012/10/20(土) 08:02:32.34ID:kGGGam6n頼朝より自分のほうが上だとか言っちゃったりするあたり、
成り上がりだなーとしみじみ感じる
0924人間七七四年
2012/10/20(土) 09:58:14.15ID:MKIMWOZy0925人間七七四年
2012/10/20(土) 10:12:38.96ID:yebQoZPm0926人間七七四年
2012/10/20(土) 10:22:50.07ID:8exgBFE50928人間七七四年
2012/10/20(土) 11:10:12.62ID:8exgBFE50929人間七七四年
2012/10/20(土) 12:00:41.38ID:Mo8jlSjE0930人間七七四年
2012/10/20(土) 12:11:03.21ID:Hveczzzk0931人間七七四年
2012/10/20(土) 13:23:19.31ID:g2VVUmd00932人間七七四年
2012/10/20(土) 13:38:03.22ID:Hveczzzk0933人間七七四年
2012/10/20(土) 13:52:53.44ID:0/MYP7450934人間七七四年
2012/10/20(土) 14:03:10.47ID:n4VY6cUG家康「まったく殿下は教養がなくて困る。忠勝は菅丞相を知っておろうな」
忠勝「偉い学者ですよね。羅山先生とどっちが上ですか?」
0935人間七七四年
2012/10/20(土) 14:39:04.22ID:4gryY6ax0936人間七七四年
2012/10/20(土) 16:50:00.61ID:7BYW31Aa秀吉以外は指揮権の統制が全く取れない軍制だったのが運の尽き。
0937人間七七四年
2012/10/20(土) 18:07:15.31ID:3uRQr14Xそれなりの軍勢送るとどうしても微妙な序列の差しかない同格の人間が
0938人間七七四年
2012/10/20(土) 18:10:37.40ID:kGGGam6n中世で指揮権を持ってる奴が前線に居ないとか致命的すぎるからなー
0939人間七七四年
2012/10/21(日) 14:12:00.29ID:RRdnsyyH長久手の戦いの折、羽柴秀次は味方が敗れたと聞いて急いで旗本を進めた。
この時、可児吉長は秀次の近習であったが、秀次よりも遥かに先にいた。
ところが吉長が馬を乗り返して来るので、その様子を見た秀次は、
「才蔵、いつもの口振りと違うぞ、戻れ!」と命じた。
これに吉長は「この敵は槍のできる連中です。御馬を返してください」
と言ったが、秀次は構わずに三度まで戻れと言うので吉長は続けて、
「勝てば勝つほど備えは固まり、段々と後ろの勢が続いて来ます。
これでは槍を合わせるような状況ではない」と忠告した。
しかし、それでも秀次は言うことを聞かないので吉長は腹を立てて、
「糞でも喰いなされ!」と罵って引き退いた。
果たしてその言葉の通りに秀次の勢は一溜りもなく敗軍し、
池田恒興を始めとした戦死者を出した。
――『名将言行録』
こっから「馬貸して!」に続くのかな?
0940人間七七四年
2012/10/21(日) 14:47:23.13ID:ceSPNQsX0941人間七七四年
2012/10/21(日) 15:06:27.40ID:HCXGIXET0942人間七七四年
2012/10/21(日) 19:52:28.95ID:/m7kD9I/式法の歌会などがあるときには、装束に身を固めその上座に座られた。その時には由己(大村由己)
という者が、いつも御前近くに控えていた。
そして太閤は物に感じた体で座中において歌を吟ずるのであるが、その実、それらは皆
由己が詠んだものだったそうである。
(武士道美譚)
0943人間七七四年
2012/10/21(日) 21:19:58.24ID:r7Sn4MDZ結構な軍勢が移動してるのに全く気づかないとかありえんだろ
目障りな親子を始末する策略のような気がしてきた最近。。。
0944人間七七四年
2012/10/21(日) 21:51:05.14ID:0jg5p7RWそれは、単にお前が秀吉が嫌いなだけだろwとしか
0945人間七七四年
2012/10/21(日) 22:08:55.21ID:7MhLU9Y80946人間七七四年
2012/10/21(日) 22:11:19.35ID:os+A7UnD家康に利をならしめ、未だ固まっていない自分の覇権を動揺させる程の価値があるのか、って話ですなw
あと豊臣軍って家康の隠密行軍を非常に苦手としていたフシがある。
関ヶ原の時もご存知のようにあの大軍が東海道をおっちら来たのに、赤坂に旗立てるまで
まるで気づかなかったほどでw
0947人間七七四年
2012/10/21(日) 22:15:06.42ID:0jg5p7RW西軍は外様主体で、その超スピードで東上した東軍主力こそが
まさに豊臣恩顧なわけなんだが
0948人間七七四年
2012/10/21(日) 22:24:07.13ID:7MhLU9Y8流石にそれは俗説。
遅くとも9月12日頃には家康の着陣をキャッチしてた模様。
吉川広家や益田元祥が書状で内府着陣を報じている。
0950人間七七四年
2012/10/22(月) 13:22:39.57ID:B7eKEguPそのタイミングでクーデターを起こし政権首脳を捕らえ引き返してきた正規軍を迎え撃つ
0951人間七七四年
2012/10/22(月) 15:33:35.39ID:mlFILlRY0952人間七七四年
2012/10/22(月) 15:45:43.12ID:AyPrD6hl0953人間七七四年
2012/10/22(月) 18:57:20.51ID:pGchYo/n0954人間七七四年
2012/10/22(月) 19:14:26.73ID:mlFILlRY家康の寿命が史実通りならおにいちゃんと泳ぐ人はもちろん生きてるだろうしパパンもなんとか生きてそうだし
0955人間七七四年
2012/10/22(月) 22:08:17.92ID:hMW9rDvm0956人間七七四年
2012/10/22(月) 22:44:59.52ID:5iz7ajhg0957人間七七四年
2012/10/22(月) 22:51:21.62ID:YJZlDPd20958人間七七四年
2012/10/22(月) 23:06:10.25ID:zcYttfLe0959人間七七四年
2012/10/23(火) 01:08:11.21ID:I0+UqwwI0960人間七七四年
2012/10/23(火) 02:15:34.58ID:8Wvg11hp本当に鮭様はこの手で不遇だな
0962人間七七四年
2012/10/23(火) 06:31:21.53ID:FaZWZMUhhttp://members.oni-soul.jp/contents/gotochi/area/yamagata/
0963人間七七四年
2012/10/23(火) 06:37:32.82ID:7C5axKPF0966人間七七四年
2012/10/23(火) 11:06:50.00ID:w7ilBfyz別に最上だけあげつらっても
0968人間七七四年
2012/10/23(火) 11:37:05.22ID:w8utLtT80971人間七七四年
2012/10/23(火) 18:51:17.76ID:hT3DrHmS脳筋公方のほうがおもしろいんだけど無名に等しいからなあ
0973人間七七四年
2012/10/23(火) 19:18:02.25ID:FaZWZMUh0974人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:47.89ID:FaZWZMUh戦国ちょっと悪い話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350987604/
0975人間七七四年
2012/10/23(火) 19:29:23.42ID:lwvxOILNでも福岡ってメインとするにはどこか微妙な点のある人たちしか思いつかないわ
早く滅んだ少弐とか他所から来た立花や秋月のような豪族だったり
0976人間七七四年
2012/10/23(火) 20:01:50.82ID:rtrEvqkqさて関ヶ原の役の勃発直前、三成は加々江彌八郎を招き寄せ、今回の挙兵の次第を説明した。
彌八郎はこれを聞いて
「私が以前、太閤のご命令を背いた時、あなたの取り扱いによってお許しを頂くことが出来た。
この厚恩は忘れられぬものである。であればこの一命をあなたに奉ることは、第一には秀頼公への忠節であり、
第二にはあなたへのご恩返しでもあるので、まったく簡単な事である。」
そう言い切った。これに三成は大いに喜び
「ならば秀頼公からの慰問のお使いとして江戸に赴き、家康に対面して、その時彼を刺し殺してほしい!」
家康の暗殺を依頼した。これに彌八郎は少し戸惑い
「仮に世情静謐の刻ならば、幼君のお使いとあれば内府が対面しないということはないだろう。
しかし今は会津征伐もあり世の中は立ち騒いでおる。この様な折に内府ほどの老巧の者が、そう簡単に
対面などするだろうか?」
しかし三成は諦めない
「家康が対面しなければ是非無いことである。しかし、もし近寄るべき機会があれば!
偏に頼み入る。これを果たした時、あなたの子息に、相違なく一国を与えるだろう!」
そう言って起請文を書き、彌八郎の目の前で血判をしてこれを渡した。
彌八郎もこれを見て決意し、起請文を懐中に仕舞い、莞爾と笑って退出し、早速江戸へと下った。
が
家康に秀頼公よりの御使者の故を申し上げても、案の定家康は対面しなかった。
それどころか奏者(取次)の者達すら彌八郎をまともに相手にせず追い返し、これにはさしもの大剛の
彌八郎も呆れ果て、頼る人もいないまま、力及ばぬ有様にてすごすごと帰っていったそうである。
三成の家康暗殺の刺客、誰からも相手にされず。というお話
(玉露叢)
0977人間七七四年
2012/10/23(火) 20:02:54.74ID:Pn8DLQrXそのお礼として京都へ参勤した光泰は、秀吉の御前でついつい、余計なことを言ってしまった。
「今度ご加増いただき、多くの侍を召抱えました。ですから、蔵入地からの収入についてはお望みになりませんように。」
これを聞いた秀吉は激怒した。
「なにぃ!預け置かれた蔵米まで自分の家来に宛がうだと!そんなやり方が許されるとでも思っているのか!出仕を停止するゆえ、今後、二度とわしの前に姿を現すな!」
0978人間七七四年
2012/10/23(火) 20:04:49.59ID:Pn8DLQrX「恐れながら申し上げます。お預かりした蔵入地を家人に遣わしたのではありません。
自分の禄を私のために蓄えず、家人にことごとく遣わしたのです。言葉のあや、言い間違いでございます。」
この男、「蔵入地の収入を家来にあげちゃったらまずいけど、預かっている僕自身が使うんだから、もちろんOKに決まってるよね!」とでも思っているのか?
さすがは戦国の不思議ちゃんである。さすがは「兵糧が無いなら砂を食えばいいじゃない!」という迷言を残した人である。
彼は他にも色々と申し上げたが、聞き届けられるはずもなく、大和大納言秀長へ御預けとなってしまう。
大和ではなぜか、秋山城2万6千石(一書に1万6千石)を秀長から下されていたのだが、彼が秀吉から正式に赦免され、佐和山城主・遠江守に任ぜられるまで、数年という時間を要したのである。
(加藤光泰貞泰軍功記)
0979人間七七四年
2012/10/23(火) 20:06:21.25ID:Pn8DLQrX光泰が大垣在城の頃、飛騨国に武田勝頼の残党があり、討伐のための軍勢が派遣された。
この時、石田三成が先陣を望んだのだが、光泰が進み出て、
「今度の軍勢は大軍ゆえ、若輩者の先陣というのは大変に危のうござる。先陣はそれがしに仰せ付けられますように」と献策し、軍勢を発向させてしまった。
これを恨んだ三成は、光泰を讒言。飛騨から帰陣した彼は、秀吉の勘気を蒙って流浪の身となり、大和大納言の懇意によって宇多郡に蟄居する。
彼が秀吉の赦免を受けて、秋山城を拝領するのは3年後のことである。
0981人間七七四年
2012/10/23(火) 21:14:04.57ID:eEA/Ukp+0982人間七七四年
2012/10/23(火) 23:47:58.24ID:7WzrrOpI>自分の禄を私のために蓄えず、家人にことごとく遣わしたのです。言葉のあや、言い間違いでございます。」
お前は何を言っているんだ。
0983人間七七四年
2012/10/24(水) 00:14:51.91ID:muuCJ20h不思議ちゃんというキャラ付けできてよかったな
0984人間七七四年
2012/10/24(水) 00:28:26.25ID:omz+zevWうーん、これは許されないな
0985人間七七四年
2012/10/24(水) 00:42:47.75ID:1RNc34g3秀長さん優しすぎ
蔵入地という仕組みがよくわかっていなかったのだろうか
0986人間七七四年
2012/10/24(水) 00:45:24.02ID:LyMdmEsP勝手に手を付けたら斬られてもしょうがないだろ
守護の土地を守護代とか国人が勝手に横領したのと一緒だぞ
0988人間七七四年
2012/10/24(水) 07:37:40.50ID:lrZY34+v0989人間七七四年
2012/10/24(水) 09:49:22.67ID:x8iJzT2J芸人か!
0990人間七七四年
2012/10/24(水) 11:09:44.47ID:4cIIG4mP0991人間七七四年
2012/10/24(水) 11:19:32.94ID:8TiDJuTm0992人間七七四年
2012/10/24(水) 11:28:31.29ID:oJ3MEW990993人間七七四年
2012/10/24(水) 15:41:57.76ID:6WQFK4aF結局どっちが正しいんだろうか?
前者だといくらなんでも光泰がアホすぎると思うし(代官という役職を理解してないようなもん)
後者は後者で如何にも後世の創作っぽいテンプレ的な佞臣三成像だし(そもそも佐々攻めの時点で三成にそこまでの権力は無い)
0994人間七七四年
2012/10/24(水) 15:46:19.55ID:SqGp2EqN無理矢理預けられた奴らの知行なんだから、おまえの土地からの上がりでそいつらを養うぞと、俺個人の知行では足りないからな
というわけなんだろ
0995人間七七四年
2012/10/24(水) 16:24:49.71ID:SqIYoogS大御所(家康)より禁中御造営の奉行として、板倉内膳正重昌に上洛すべしとの旨があった。
彼は京都所司代伊賀守勝重の次男である。
今日、御雑談の折に武蔵の由良新六の従僕に、手足を使ってとにかく疾く走るものがあり、
山坂の嶮難であっても、1里、2里ほどなら馬に劣らぬほどに駆け抜ける、との話が出た。
大御所は露骨に怪しまれ、今度その者を見てやろうと仰った。
またこの頃、京都において奇異なことがあった。
一条裏辻幸阿彌長安というものがあったのだが、彼が死去して数日も過ぎない内に、
彼の居宅において、夕暮れ時になると山伏のような姿をした者達が数人、出現するようになった。
しかしこれらをはっきりと見ようとすれば、忽然と姿を消してしまう。毎夕、この様であった。
長安の弟がこれを怪しんで、数人の仲間とともに深夜までこの山伏のような姿をした者達の様子を
覗っていた所、彼らはいつの間にか増えていき、気が付けば幾千万とも知れぬほどとなり辺りに
充満した。
かの弟はあまりの恐ろしさに逃げ帰り、その翌朝死んだ。
この事があり長安の残された妻子や下人たちはもはや住むに耐えずと、他所に移り住んだのだという。
大御所はこれを聞かれて、狐か何かだろうと仰ったと云々。
一昨年の4月4日にこの様なことがあった。伏見城の賓殿の庭に見知らぬ者が立っていた。
手足に指がなく、弊衣、乱髪、そして口には青蛙を咥えていた。
どこから来たのかと問えば、手を以って天を指した。
人々は皆彼を叩き殺そうとしたが、大御所が「殺すな」と仰せになったので、城外に出した。
それから彼がどこに行ったのか、誰も知らないとのことだ。
(玉露叢)
この頃の家康が見聞きした、ちょっと怪しいお話。
0996人間七七四年
2012/10/24(水) 19:11:14.89ID:Lcy8qRkH0997人間七七四年
2012/10/24(水) 19:35:07.59ID:2A79Zxth「ムー」あたりで(宇宙人じゃないか等)時々話題にされる「肉人」ですな。
ただ、「弊衣、乱髪、そして口には青蛙を咥えていた」の件は初めて読みました。
0998人間七七四年
2012/10/24(水) 19:54:07.20ID:6WQFK4aF0999人間七七四年
2012/10/24(水) 21:41:09.33ID:NC9PyKAq1000しかのすけ
2012/10/24(水) 21:42:44.74ID:DqXG8z9C10011001
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