【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
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0001人間七七四年
2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?
意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0568人間七七四年
2013/12/08(日) 00:59:20.38ID:qFsIBuwS0570人間七七四年
2013/12/08(日) 19:00:48.89ID:OVIn2Ljt二俣城、諏訪原城といった遠江中枢の城を奪回されてる時点で武田の大敗だったのがわかる。
結局勝頼は一時的に無理矢理軍を再起動させてみたものの何もできずに終わってるし
0571人間七七四年
2013/12/08(日) 19:12:56.81ID:dVoVpmBD作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候などと書いてる。
このことから当初案では石山本願寺救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して 穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は実数1万くらいの兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り5万の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して
伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、陣城攻撃を開始し優勢だったが陣城は落ちず
撤退をしたら殿が下手を打って軍が崩壊。義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
長篠決戦前日の勝頼が織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸
信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は
高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。
長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。
6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。
武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけで
やはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。
殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
0572人間七七四年
2013/12/08(日) 19:15:56.54ID:dVoVpmBDttp://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/29015563.html
願望妄想乙w そもそもその書状は天正2年だからすでに間違えてる。
信玄が死んだ年の末に浜松城再度襲撃なんて、そんな大規模軍事行動はしてないだろ…
んで、書状内容は 家康が篭る浜松を焼き払い、刈田しまくった。
いま久野(袋井市)と掛川を追い詰め佐夜郡に押さえの築城した。
他には佐竹と北条の和睦の提案と、小田原の軍勢が関宿攻めしてる話に言及してる書状。
さて袋井市と掛川市を制する地の利の場所に築城してるのに、
なんでそれが諏訪原なんだよwwwお前さ、地図くらい見てから書けよwww
机上の空論ならぬ、 妄想願望の暴論だぞw 織田チョンはどうしようも無いアホだわ
あーあ。悪質な歪曲してるな。 諏訪原城がある位置は榛原郡だから。
佐夜郡ではなく、小夜の中山と言う山にある急坂の場所が
宿場町の日坂(掛川)→宿場町の金谷(菊川)
の間にある道中の山の急坂を指しているって話なだけ。地理まで曲解すんなよ・・・
なんでそれが佐夜郡の支配領域とイコールになるんだよ。
単に中山にある坂が佐夜郡への道だから名前が転化しただけだろ。
そこは榛原郡であって、佐夜郡はもっと西だから。
延喜期式には遠江国佐野郡に己等乃麻知神社が書かれているので
そもそも文学的表現からではなく元々は佐野郡が佐夜郡に転化したもの。
のちの周智郡なども含まれた広大な領域だったとも言われ
また、中山という呼称は郡と郡の郡堺の山や峠を意味する言葉で
中山から西が佐夜郡であり、東が榛原郡だということがわかります。
小夜の中山を境に、 東側が榛原郡であり諏訪原城がある地域で、
明らかに対高天神城攻略のために徳川が作った牧野城のこと。
中山の西側が佐夜郡であり浜松襲撃した帰り掛けに袋井市や掛川市を追い詰める意図で
武田が数ヶ月突貫で砦を作った場所だろ。
天正元年に諏訪原ができたってのは牧野城がすでにあったことを知っている
江戸時代の作られた甲陽軍鑑のネタに引っ張られた間違った解釈だし
そもそも久野城や掛川城を制する位置に築城されたのは天方城のことだとされている。
諏訪原城がその両城を押さえる形にならないどころか
武田軍が大井川の南下して高天神城へ行く道を塞ぐように築城されてるのが牧野城。
見張り台目的で古い砦のような簡素なものが諏訪原にあっただろうが、
本格的な築城は徳川によってなされたと考えるべきだろう。
(特に家忠日記などでは天正6年以降やたら普請を繰り返している)
そして周の文王が牧野で武王を破った故事から築城するにあたり牧野城としたのであろう。
(犬居城説などもあり判然としないが、ちなみに天方城説にも諸説あってよくわからないのだが、
徳川と武田の争奪が激しく新城があったのではと言われている)
当時、天野氏も2派に分かれて派閥抗争をしており ここを巡って奪回戦が繰り返されたといわれている。
0573人間七七四年
2013/12/08(日) 19:28:13.84ID:dVoVpmBDむしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。
しかし織田チョンは必死だな〜。
犬居城が落城したなんて大須賀記っていう家譜にしか出てこない捏造話だし、
二俣城落城に至っては浜松城記って言う偽書にしか出てこないのにwwww
また戦死に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く 名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、 甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
実際、軍記講談話を除けば、 馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし、
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、
嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、信長も感状を一切出すことも無い。
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて長篠に現れたとしか思えない。
だからこそ信長は深く追撃することを恐れて、さっさと帰っていった。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、 構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、 秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、 山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。
天正元年7/30の時点では、 武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
0574人間七七四年
2013/12/09(月) 06:33:48.79ID:xPZMJLvz0575人間七七四年
2013/12/09(月) 08:03:46.21ID:zGtc0tP/ちょっとほかのスレ見てきたらわかるけど戦国板荒廃の原因だから
0576人間七七四年
2013/12/19(木) 23:42:11.57ID:bl5IqCqlそれとも違うの?
0577人間七七四年
2013/12/20(金) 09:36:00.49ID:XFpSe6/00578人間七七四年
2013/12/21(土) 19:58:47.80ID:oYBMzSpP0580人間七七四年
2013/12/21(土) 20:10:07.00ID:C3OPJUDL家康なんかは三方ヶ原の戦いの敗走時に、
騎射で立ちふさがる敵を突破している
0581人間七七四年
2013/12/22(日) 10:08:06.73ID:ahA5y8Hl0582人間七七四年
2013/12/22(日) 10:49:53.00ID:amCM5l940583人間七七四年
2013/12/22(日) 11:48:01.85ID:PRh0dRuW0584人間七七四年
2013/12/22(日) 13:13:59.79ID:1RFhliqsそういう非効率的な戦いを成り立たせるために、
馬乗り身分の人間を足軽が討つってのを非道とする逸話が多いのかな
歩兵がついて行ける速度で馬上にいたんじゃ、良い的だし。
0585人間七七四年
2013/12/22(日) 13:24:37.27ID:amCM5l94徒従者を後続させても時を置かずに合流できる
0586人間七七四年
2013/12/22(日) 13:58:15.29ID:ahA5y8Hlまた軍旗物に出てくる「先駆けの足軽」をツヴァイヘンダーの類と見れば
歩兵が槍を切り払った後に騎馬が突撃する戦法も普遍的だったと考えられる
0587人間七七四年
2013/12/22(日) 14:31:59.18ID:1RFhliqs>重装騎兵
日本の騎馬武者の武装って
革と竹?で組み合わせたスケールメイルと篭手と脛当て
と片手剣(太刀って短いんだよな)もしくは騎槍じゃなかったか?
盾も無いし、戦車の代わりにはならんだろ?
それに銃器が普及してからなら馬上の重装兵なんか只の的だし。
0588人間七七四年
2013/12/22(日) 14:45:42.83ID:ahA5y8Hl0589人間七七四年
2013/12/22(日) 20:06:17.91ID:jEBE5W8H0590人間七七四年
2013/12/23(月) 14:46:35.09ID:8A0Y5EoJ0591人間七七四年
2013/12/23(月) 18:26:13.51ID:kUzmoyl/弓かポン刀か槍なのか
ちなみに手持ちのとある学研の書籍では、武田、上杉、北条の兵装比率は
北条が騎馬武者比率断トツだが、基本北条のドクトリンはお城にこもること
だから追撃にお馬さんは活躍したんか?
0593人間七七四年
2013/12/24(火) 19:55:56.97ID:q5swGg9p使いもんにならんな
0594人間七七四年
2013/12/25(水) 06:26:54.36ID:30f646xE>鉄砲>金砕棒>長刀
一次資料(笑)に載ってそうだな。
そんな話をするから、戦闘時は下馬したって説がでんじゃねw
馬上で手綱離して両手武器が振れるわけないだろ
乗馬の首でも切り落とす気か?
東北の殿様のみたいな指揮棒を金砕棒なんて誇大表現するならまだしもw
鉄砲での馬上射撃にしたって先込の火縄銃って馬上で使えるかどうか考えてみれば良い。
0595人間七七四年
2013/12/25(水) 09:29:23.77ID:zjJXOyVV0596人間七七四年
2013/12/25(水) 10:10:01.82ID:/YlqyjK80597人間七七四年
2013/12/25(水) 10:53:04.36ID:ZeQyeXWY0598人間七七四年
2013/12/25(水) 11:13:55.11ID:/YlqyjK80599人間七七四年
2013/12/25(水) 11:38:47.55ID:CFW01JRO0600人間七七四年
2013/12/25(水) 11:58:18.69ID:ZeQyeXWY例えば敵陣に突撃する時は馬に乗り、敵陣に侵入後は下馬したと
生駒利豊は関ヶ原合戦を回想した書状で語っている
0602人間七七四年
2013/12/25(水) 18:30:37.32ID:30f646xE書いてある通りだと
馬に乗って戦闘エリアに突入、交戦時には下馬してるってことだろ
騎乗での戦闘が有ったとは読めないな
つまり、移動時も馬の轡を取る従者がついて行って、戦闘エリアに入ると下馬し、馬は従者が確保しておくと
移動時は馬に乗って戦闘時は下馬したってことじゃんw
0604人間七七四年
2013/12/25(水) 18:38:43.87ID:zjJXOyVV0606人間七七四年
2013/12/25(水) 21:57:07.68ID:ianDC/QHどのスレでも挑発しては喧嘩を売ってる
0607人間七七四年
2013/12/26(木) 19:04:13.51ID:NJMWl1aihttp://music.geocities.jp/jphope21/0203/39/266_1.html
徳川家康の戦術にあった。
( http://music.geocities.jp/jphope21/01/6/74.html )
0608人間七七四年
2014/01/24(金) 20:00:12.77ID:nOJraPQP0609人間七七四年
2014/01/27(月) 23:49:11.45ID:4LrPB4MNアスペルガーだがウゼーからしゃしゃり出てくるなカス
0610人間七七四年
2014/02/14(金) 15:54:22.14ID:qwYbg9rc突撃離脱を繰り返して長い間戦うのなんてよくあることだし、
突撃開始位置と目標が斜めになってたら普通に車懸りみたいな陣形に自然になると思うんだが
0611人間七七四年
2014/02/14(金) 16:56:18.74ID:LWQyK/4z車懸りの存在そのものが否定された
0612人間七七四年
2014/02/14(金) 16:58:01.09ID:b5FqVm+Fあと検索してみれば上位にヒットするが車輪のようになってクルクル回りながら戦うという
誰もが否定したくなる戦術に改変されてるから
車懸り=順撃法、啄木鳥戦法=鉄床戦術
実際その時に使われたかは一次資料の裏付けがなく分からないが
戦術自体は否定できるようなものじゃない
最近の話だと三段撃ち否定論も似たようなものだな
0613人間七七四年
2014/02/14(金) 16:59:03.62ID:7BjaOQEG0614人間七七四年
2014/02/14(金) 17:17:20.11ID:b5FqVm+F戦術自体はともかく
0616人間七七四年
2014/02/14(金) 18:23:06.75ID:qwYbg9rc中規模の各兵科を組み合わせた部隊をいくつも並べてそれぞれに行動させてたようだ
ニーウポールトの戦い布陣図1600年
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Slag_bij_Nieuwpoort_%281600%29_-_2_Fases.jpg
80年戦争中期の軍制改革がある程度進んだ状態
当時は欧州最先端軍事国家の一つだったオランダのマウリッツが率いているのが左側の軍
右側はスペインのアルプレヒト
0617人間七七四年
2014/02/14(金) 18:39:55.62ID:LWQyK/4zもっとも日本は大砲を除外しているけど
0618人間七七四年
2014/02/15(土) 19:22:15.96ID:RtB6sEli車がかり=戦闘行軍的な意見を何度か散見して納得してるが
五段瀬は戦闘行軍に近い気がする
0619人間七七四年
2014/02/15(土) 19:57:43.20ID:IwxXeTlF0620人間七七四年
2014/02/15(土) 21:58:01.52ID:cIAgOfDq欧州も中隊は諸兵科連合風(混合?)です。
少し後の時代になりますが、
1692年10月1日制定、フランス軍歩兵中隊の下士官兵士定数
2名 軍曹(ショートパイク、ハルベルド)
3名 伍長(フリントロック・マスケット)
5名 anspessade/兵長または上等兵相当(フリントロック・マスケット)
10名 パイクマン(パイク)
13名 フュジリエ(フリントロック・マスケット)
21名 マスケッティア(マッチロック・マスケット)
1名 鼓手
下士官兵士合計55名
この内1〜2名(人数と人選は大尉の裁量)にライフル・カービンを装備させ、カラビニエとしました。
将校は大尉1名、下級尉官1〜2名
戦闘時に大隊(13個中隊)を組む際に中隊は一旦解体され、兵科毎に決められた配置に付きました。
大隊の中央から左右両翼に向かって、パイクマン→マスケッティア→フュジリエみたいに。
5横列(rank)、130縦列(file)、合計650名。
1個中隊が50名の計算になりますが、将校と鼓手の全て、下士官の一部は隊列の外側に位置したのだと思います。
横列やパイクマンが減っていますが、基本的にマウリッツの大隊隊形を踏襲。
中隊は兵の管理の為の単位であり戦闘時には解体されていた為、中隊が純粋な諸兵科連合とは言えませんが・・・
0621人間七七四年
2014/02/15(土) 23:07:46.19ID:IwxXeTlF0622人間七七四年
2014/02/15(土) 23:35:23.89ID:72cCEDpE0623人間七七四年
2014/02/16(日) 07:59:24.07ID:qLksCDtT0624人間七七四年
2014/02/16(日) 08:03:53.48ID:dCcimD2hそこまで違いが生まれなかったこと
まぁ大きく欧州の軍事が発展する17世紀に、逆に日本は戦争が収束してしまったけど
もしあのまま戦争続けてたら、森林山岳地帯の日本でどんな戦術や軍制になってたかなぁ
欧州は銃兵の戦列でならんで撃ち合う狂気の戦術が発展したけど、日本の地形からいってそれはあまり合わないだろうし
0625人間七七四年
2014/02/16(日) 09:06:34.85ID:qLksCDtT足軽はより散兵化し擲弾兵も登場、砲兵は山砲がメイン
そんな所かと
0626人間七七四年
2014/02/16(日) 12:07:37.90ID:kIIs6djl0627人間七七四年
2014/02/16(日) 12:20:41.91ID:0ZvCAPxc日本では最もキツイのは信濃のアルプス地帯だが
ヨーロッパのピレネー山脈やアルプス山脈ウラル山脈バルカン山脈ロタール山地などの基地外天嶮は日本の物とは全く比較にならないレベルだし
0628人間七七四年
2014/02/16(日) 12:22:52.59ID:dnhKGlv8同じ国力があれば、同じような兵力を動員できる。
毛利輝元だろうが秀頼だろうが上杉憲政だろうが徳川秀忠だろうが秀次だろうが
大内義興だろうが同じ。
0629人間七七四年
2014/02/16(日) 12:29:01.77ID:0ZvCAPxc今川氏真だろうが毛利アホ元だろうが石田三成だろうが
毛利輝元だろうが豊臣秀頼だろうが徳川秀忠だろうが一緒
指揮官の能力を超えた大軍とか意味不明
指揮官の能力があろうがなかろうが大軍の統率とは関係ない
無能な指揮官なら寡兵だろうが大軍だろうがうまく統率できないし
有能なら寡兵だろうが大軍だろうが統率する
指揮官の指揮能力不足で軍の数が多過ぎて統率が取れず負けた例なんてない
大軍のために統率がとれなかったのではなく純粋に指揮官の戦術能力や采配能力によるものでしょ
0630人間七七四年
2014/02/16(日) 12:29:41.32ID:dnhKGlv8物資兵糧調達や兵站の面・戦後の恩賞の面・行軍のスピード・機敏性など圧倒的に寡兵のがローコストでメリットも大きいんだし
それにもかかわらず毎回寡兵の敵に向けて大軍でたくさん物資や人件費かけてはるばる遠くまで出撃してるのはそれだけメリットが大きいんだろ
所詮大軍の指揮がどうとか妄言やいいわけにすぎん。
0631人間七七四年
2014/02/16(日) 12:31:03.81ID:Yfy9opjo信長でも家康でも信玄でも敵が大軍であればあるほど、味方は寡兵であればあるほど苦戦や敗戦は増えてる
戦争なんて物量や兵力が圧倒的にものをいい、兵力の2乗は実際の戦力になる。
寡兵側が勝つには特別な戦術で敵を自陣深く釣り込んだり油断ついて奇襲したり地形をうまく使って包囲殲滅したり
偶発的条件、幸運などに恵まれない限り無理。普通にガチンコでやりあえば山地だろうが渓谷だろうが平野だろうが100%大軍が勝つに決まってる
純粋に相手も大軍だったか寝返り・日和見(指揮能力以外の要因に起因する)が主要因だったか
「兵の数と関係なく」指揮官の指揮・采配・戦術・戦略面に問題があっただけじゃんって言ってるだけなんだが。
(関が原の戦いが6000対7000の戦いだろうが、史実のように裏切り・日和見があれば間違いなく負けてた)
0632人間七七四年
2014/02/16(日) 12:31:55.55ID:dnhKGlv820対10で戦った場合10人の方は結束したとしても20人分の攻撃を10人でうけなきゃいけないけど
20人の方は10人分の攻撃を20人で分散できるから一人のダメージ比は4対1だし
寡兵側が勝ってるのは相手の油断をついて奇襲・敵を自陣深くうまく釣り込んで殲滅・ポエニ戦争みたいに敵の左右の陣を突破して
包囲殲滅など優れた戦術や敵の油断をつくなど、かなりの指揮采配能力の差や、偶発的事故などが続くなりしないと無理。
普通に正面衝突すりゃ大軍側が100%勝つに決まってる
0634人間七七四年
2014/02/16(日) 12:45:49.48ID:dnhKGlv8日本の戦国期よりもはるか昔のポエニ戦争の時代ですら何十万もの大軍が
日本のそれより遥かにキツイガチンコ天嶮をまともに乗り越えて戦争とかやってるし
日本のショボイ天嶮なんて、アトラクションの息抜き程度でしかないだろ
0635人間七七四年
2014/02/16(日) 12:47:44.31ID:Er5c9uPu織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
どうみても武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
0636人間七七四年
2014/02/16(日) 12:50:36.03ID:+dAhUbAD0637人間七七四年
2014/02/16(日) 13:01:58.36ID:v9gVhPmK北斗の拳に出てくるモヒカンの縄張り争い程度の、室町〜江戸の空白時代の内ゲバと国家間の戦争を同列にしちゃいけない
0639人間七七四年
2014/02/16(日) 13:34:09.45ID:+dAhUbAD0640人間七七四年
2014/02/16(日) 14:37:34.90ID:DmF0+SFmそんなところで大軍の戦いなんてしてない。
イタリア北部のガリア人とスペインのアルモバガルが少数でいたくらい
ローマに大移動してきた各部族の戦域ですら山岳は少なく、中世以降はハプスブルク勢力を筆頭に通ることすら極力避けてる
ウェールズやスイスの山岳地帯は可能な限り戦役を拡大させない方針でいってる
というか普通に考えてそういう天然の要害でわざわざ軍を展開したがるような将は欧州では少なかった
避けれられるなら当然避けただけ、日本は国土の大半が山や森で避けられなかった
ちなみにアルプス越えしたのはハンニバル以前には一人もおらず
その後近世になってスヴォーロフがこえるまでほぼ誰も軍を率いていっていない
0641人間七七四年
2014/02/16(日) 14:46:02.66ID:DmF0+SFmアルモガバル ○
アルモガバルの軽装山岳兵は優秀で、遠くビザンチンまで派遣されて、雇い主に裏切られて殺されかけたところ
返り討ちにして王国作ったり、重装歩兵や重装騎士ぶっとばしたりしてる
山岳地帯で隊列が細くなりやすいことや、重装備の兵は動きが鈍くふところまで飛びこめば弱いことから包丁みたいな太い短剣を装備して殺しまくった
足場がしっかりしていない地域での騎馬の弱点を知っていたようで、湿地帯に騎士をおびきよせたりして倒した
0642人間七七四年
2014/02/16(日) 15:56:47.01ID:p2THHmWy日本の会戦でも、山岳部での戦闘なんてごく一部で大半は平野部で行われてるよ。
特に大軍同士の衝突だとまず山岳部なんて使われない。
0643人間七七四年
2014/02/16(日) 16:07:39.01ID:eqHcQp7J大軍で戦争しまくったんだが。
ポエニ戦争のときでいうとローマからスペインに派遣されたローマ型将官もかなり遠征してるぞ
0644人間七七四年
2014/02/16(日) 16:14:51.88ID:Yfy9opjo信濃のアルプス地帯でも信忠らが侵攻してるし
山陰山陽道だって毛利や大内などが何回か大軍で通ってるし
単に生産力が低いか相手が手ごわくて後回しにされただけ
0645人間七七四年
2014/02/16(日) 16:18:44.38ID:dnhKGlv8自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
0646人間七七四年
2014/02/16(日) 16:23:42.35ID:Yfy9opjo日本の戦国期よりもはるか昔でも、古代ローマのコルネリウス兄弟は当たり前のように
ローマからアルプス山脈やピレネー山脈越えて楽勝でスペインに行って戦ったりしてるからな。
ハンニバルじゃなくても誰くらいそのくらい余裕だったって事だろ。
それよりも遥かに近距離でのショボイ戦同士の戦いだった日本の戦争を天嶮だの山岳戦だのいうのはおかしい。
現に武田の織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて少ない兵力にもかかわらず侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
0647人間七七四年
2014/02/16(日) 16:28:04.18ID:dnhKGlv8上杉も遠征のたびに上野下野などの山城落としまくってたからな
武田なんて山間部のキツイ山城一日に16も落とすほどだったし
0648人間七七四年
2014/02/16(日) 16:36:52.22ID:Er5c9uPu0649人間七七四年
2014/02/16(日) 16:43:10.12ID:DmF0+SFmすいませんわかりにくかったですね
>日本は国土の大半が山や森で避けられなかった
ってのは大軍同士がゆっくり対峙してやる会戦じゃなくて、
日本はそもそも山岳を通らない迂回が難しく、そのため戦闘が山岳地帯もしくはその裾野で起きるのはおかしくなかったってことです
進軍中に山城と拠点から出撃してくる兵に邪魔されるリスクがあり、小競り合いを含め、奇襲に使えた
そういった戦闘が避けにくかったのが山岳国家の特色で、日本と欧州の大きな違いじゃないかなと思うんですよ
スイスやウェールズ除けば、欧州は山岳からちょっと離れれば平野だし、わざわざ裾野通って敵と接触するリスク犯す必要もなかった
例えばバイキングがそれで城などの拠点防衛を無視して長期間にわたって縦横無尽に荒らし続けたとか
0650人間七七四年
2014/02/16(日) 16:49:41.12ID:DmF0+SFm恐らくアルプスの東西の道を通ったのを、アルプス越えしたのだと勘違いしているのだと思われます
その地点を拠点防衛するのが常道だったからこそ、アルプス越えが奇襲効果として大きく欧州戦史に刻まれてるんです
詳しくはスヴォーロフのアルプス越えについて調べればよいかと
0651人間七七四年
2014/02/16(日) 17:07:52.15ID:3oS3RPiA日本の戦国期の合戦にみても
>進軍中に山城と拠点から出撃してくる兵に邪魔されるリスクがあり、小競り合いを含め、奇襲に使えた
それをやってる戦争ってほとんどないよ。
特に大規模会戦となるとほとんどが平野部で、山城とか出撃兵とか余り関係ない。
つか、攻められるべきポイントはたとえ山城でも出撃兵がいようとも普通に出撃して攻めたりしてるし。
信玄や謙信の戦争なんてそれこそ山間部の比重がかなり大きかったし
北条も毛利も山間部を大軍で攻めたり普通にしてる。それで小規模兵の奇襲とか邪魔が入った例とか
侵攻を阻まれた例ってあまり思いつかないんだけど、何かあったっけ?
つか、ポエニ戦役の時でも
山や川など地形を使って敵を殲滅してる戦術がなくもないわけで
日本もヨーロッパも本質的にはかわりないよ。
ただ日本の場合は城や砦など小規模城郭の取り合いという特質があったから
小競り合いが生まれる機会は多かったかもしれないけど。
0653人間七七四年
2014/02/16(日) 17:37:02.92ID:4nqNHhrl嘘もごり押せば真実になると勘違いしてる嘘吐き荒らし
0654人間七七四年
2014/02/16(日) 18:35:31.33ID:DmF0+SFm0657人間七七四年
2014/02/16(日) 19:13:19.09ID:4TeMn+13>日本みたいなショボイ雑魚天嶮と違って
>日本の戦国期よりもはるか昔でも、古代ローマのコルネリウス兄弟は当たり前のように
>ローマからアルプス山脈やピレネー山脈越えて楽勝でスペインに行って戦ったりしてるからな。
運確かにそうだね。コルネリウス兄弟はローマからはるか天嶮のアルプスピレネーを越えて
スペインまで行って長期間戦争やってる。
ちなみにハンニバル側も弟が来たりして、ピレネーやアルプスを越えて侵攻してきたりしてる。
>ハンニバルじゃなくても誰くらいそのくらい余裕だったって事だろ。
確かにやってる奴は多いよね。
ナポレオンもバルカン山脈超えてバルカン半島に攻め入ったりしてるし。
>それよりも遥かに近距離でのショボイ戦同士の戦いだった日本の戦争を天嶮だの山岳戦だのいうのはおかしい。
確かに乱暴な言い方だけど、大筋では間違ってないね。日本の山脈とかて天嶮なんてヨーロッパのそれとは比較にならないし
中国などと比べても低い山々ばかりで最も険しい山城が並ぶ信濃や上野ですら武田上杉北条などが馬鹿みたいに楽勝で落としてるよね。
堅城とかデッチあげられてる岐阜城なんて6回もあっさり落ちてるし。
>現に武田の織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて少ない兵力にもかかわらず侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
>大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
確かにそうだね。これと言って間違ってない
>長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
>ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
>山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
>まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
>以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
長篠の戦いの経過だけやや疑問符がつくが、まぁ長篠日記を参照するなら正しいといえるね。
0658人間七七四年
2014/02/16(日) 19:17:34.73ID:eqHcQp7J行われてる例なんて数えるほどしかないし
ヨーロッパや中国でも逆に山の麓を通ったりする例はバンバンある
日本の場合はショボイ陣城や砦の取り合いが多くて小競り合いが多いように見えただけ。
0659人間七七四年
2014/02/16(日) 19:18:40.74ID:bdaa352PIDはすでに消滅してますからwww
0660人間七七四年
2014/02/16(日) 19:54:00.08ID:+dAhUbAD0661人間七七四年
2014/02/16(日) 20:20:55.39ID:p2THHmWy0662人間七七四年
2014/02/16(日) 21:33:14.65ID:9iyML+EjID:dnhKGlv8 が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/ZG5oS0dsdjg.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら…
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
関ヶ原、西軍勝利 その2
ID:Yfy9opjo が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/WWZ5OW9wam8.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら…
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
関ヶ原、西軍勝利 その2
ID:Er5c9uPu が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/RXI1Yzl1UHU.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
関ヶ原、西軍勝利 その2
【治部】石田三成総合スレ 11【佐吉】
ID:p2THHmWy が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/cDJUSEhtV3k.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら…
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
【治部】石田三成総合スレ 11【佐吉】
ID:eqHcQp7J が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/ZXFIY1FwN0o.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら…
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
関ヶ原、西軍勝利 その2
※一言一句同じ文章を書いてしまうミスを犯す馬鹿なところ
>>635 ID:Er5c9uPu
>>646 ID:Yfy9opjo
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
見てのとおり自演IDを丸一日駆使して嘘をでっち上げていることが分かる
0663人間七七四年
2014/02/16(日) 21:39:05.61ID:+dAhUbAD0664人間七七四年
2014/02/16(日) 22:31:23.07ID:ApPBOZ9Aそれだけ引用されるって事はそれだけその意見に賛同する人間が多いって事だろうが
何言ってんだお前
0665人間七七四年
2014/02/16(日) 22:38:26.24ID:p7jyumUOhttp://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/RG1GMCtTRm0.html
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/djlnVmhQbUs.html
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/UXVobXgxeDY.html
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/cUxrc0NEdFQ.html
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