戦国ちょっといい話33
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0001人間七七四年
2012/06/19(火) 17:58:50.16ID:mEG9ezWZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336017262/
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http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0202人間七七四年
2012/07/01(日) 02:22:35.11ID:lC+a+hxfttp://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=OMpZ-yYxMY0
炎でもなくライトでもない。なんだこれ。
0203人間七七四年
2012/07/01(日) 10:50:09.24ID:XmckbJEX源ハチからは離れてるようだけど
0205人間七七四年
2012/07/01(日) 12:00:57.32ID:vddH01V5源八(源八郎為朝?)からは離れているようだけど
どういう意味だろう
0207人間七七四年
2012/07/01(日) 14:12:19.25ID:Jp8Ke8atまあそもそもがエンタメ目的で書かれたもんじゃないというのもあるけど、当時の感覚では
広瀬の台詞のインパクトで十分オチになってたのかもしれない
0208人間七七四年
2012/07/01(日) 20:08:47.66ID:5Gdm1uI+0209人間七七四年
2012/07/01(日) 20:14:20.87ID:6G2dhB3w弱い犬ほど良くほえるってのが広瀬にはぴったり
0210人間七七四年
2012/07/01(日) 20:52:32.89ID:hcC8H0Ai武士は強さや剣の技術ではなく、心意気こそが大事という考え方の常朝さんは、
広瀬少年の気迫を好ましく思ったのだろうね
ちなみに広瀬さんは弱い犬ではないぞ
0211人間七七四年
2012/07/01(日) 20:58:34.83ID:oW6lHdsL0212人間七七四年
2012/07/01(日) 21:00:12.15ID:O0ESjtZT0213人間七七四年
2012/07/01(日) 21:05:40.24ID:hcC8H0Ai思春期って現代でも喧嘩の強さとか気になる年齢だし、まして武士だからね
人相見に公開で門弟鑑定させる氏長さんの配慮が足らないような気もするw
0214人間七七四年
2012/07/02(月) 12:17:29.13ID:t4i/ojDP0215人間七七四年
2012/07/02(月) 16:48:14.35ID:tGONjg9K0216人間七七四年
2012/07/02(月) 17:08:24.78ID:pAZgF9/v0217人間七七四年
2012/07/02(月) 17:26:25.58ID:t4i/ojDP(^-^)「殿、見るだけにしといてくださいよ」
0218人間七七四年
2012/07/02(月) 22:37:19.22ID:ahYKAU7E敵の陣に突撃して討ち死にしてしまった。すぐそばで父の戦死を目の当たりにした
息子は走り寄って、遺体を肩にかついで、戦場から撤退しようとした。
0219人間七七四年
2012/07/02(月) 22:40:21.13ID:ahYKAU7E銃弾の飛び交う中を6〜7間ほどさがった時、息子はふと「これでは父親を
盾にして引きあげるようではないか。心得のある武士のすることではない」と
考えて、自分の家来に遺体となった父を囲ませて、敵の銃弾が当たらぬように気を配った。
0220人間七七四年
2012/07/02(月) 23:10:10.08ID:bO8stOccしかし父としては自分を盾にしていいから生還してほしいと願いそうな気も
0221人間七七四年
2012/07/02(月) 23:30:17.93ID:41/r/Fye0222人間七七四年
2012/07/02(月) 23:49:28.66ID:pAZgF9/v0223人間七七四年
2012/07/03(火) 00:03:30.79ID:HU9wdxzM部隊を率いる者としては一人前とは言えないなw
0224人間七七四年
2012/07/03(火) 00:04:15.19ID:IDaq8dwx0226人間七七四年
2012/07/03(火) 03:14:23.18ID:8jTMfKbXそれはどこの人海戦術軍かと。
地雷原?そんなの兵士を散開させて進ませればいーじゃん、ていう考えは北の大国では今も健在なのだろうか…。
0228人間七七四年
2012/07/03(火) 03:51:52.32ID:Zxzeslwzシベリアのスッカスカぶりに焦ってるらしいから、やんねーんじゃないな
その下の国(除くモンゴル)は、やりかねないけど
0229人間七七四年
2012/07/03(火) 12:57:51.83ID:8jTMfKbX下の国も一人っ子政策の影響で兵士が跡取りばっかでうっかり死なせられないって嘆いてるって聞いたな。
その割りにどっちの大国も人命軽視なエピに事欠かないような気もするが(汗
0230人間七七四年
2012/07/03(火) 13:28:04.70ID:sEZ18WdI両国とも結局は資本主義、自由経済に飲み込まれたけど人の命の重さもふくめていろいろと
『オマエラもう中〜近世じゃないんだからそろそろ慣れろよ・・・』って言いたくなる時代遅れっぷり
を感じることはよくある、地力はあるだけに隣人としては厄介この上ない
0231人間七七四年
2012/07/03(火) 13:40:15.97ID:wiZ0Tdq20232人間七七四年
2012/07/03(火) 14:15:16.27ID:Mo9SyXmXああいうのは資本主義を利用しても、理念には馴染まないから強いんだよ
マフィアの強さと同類(笑)
0233人間七七四年
2012/07/03(火) 20:11:14.99ID:IUnFH5m1そして今や資本主義は崖っぷちに立っている!
0234人間七七四年
2012/07/03(火) 20:34:00.71ID:WQYpVNut聞いた福島正則は老臣の福島治重を使いにして基次を招いた。
基次は「三万石なら仕える」と言い、治重はそれを復命した。
正則は頭をふって曰く「勲功あるお前でさえ三万石に及ばない
というのに、又兵衛に三万石も与えられるわけがない」と。
0235人間七七四年
2012/07/03(火) 20:39:40.66ID:WQYpVNut「又兵衛を三万石で召しだせば私も(尾関)石見も武名が上がる
というものです。
世間はこう考えるでしょう。
又兵衛でさえ三万石で召されたのだから丹波、石見は世間に出れば
四万石の士だ。譜代故に小禄だったのだ、と。所詮、私一人の面目です」
治重はそう言って勧めたが、やはり正則は聞き入れなかったという。
0236人間七七四年
2012/07/03(火) 21:21:12.39ID:bzjMropD0237人間七七四年
2012/07/03(火) 21:28:28.05ID:tky2Bg/70238人間七七四年
2012/07/03(火) 21:32:23.14ID:HU9wdxzM結果的に歴史に名を残したけど、又兵衛本人は安泰な人生とどっちが良かったんだろうか
0239人間七七四年
2012/07/03(火) 21:45:39.27ID:ghqnfhMf0240美濃の陶工の話1
2012/07/03(火) 22:06:03.32ID:JXnmWD+J1600年、石田三成が決起して諸大名が東西に分かれた時、美濃でも岩村城主の田丸具忠が西軍につき、
東軍に味方している妻木城主の妻木家頼を攻めるために兵をあげた。
0241美濃の陶工の話2
2012/07/03(火) 22:10:01.96ID:JXnmWD+J一族のものたちに武器を持たせて、さえぎり戦った。一族の角左衛門景勝は弓をもって後陣の大将松原中兵衛を射落とし、
太郎衛門は鉄砲で敵の勇士である木原清八を撃ちとった。
0242美濃の陶工の話3
2012/07/03(火) 22:13:05.71ID:JXnmWD+J久々利に向かうことにした。久々利は東軍側の武将の千村良重がいるところである。山間の道を通って五斗蒔、大平、大萱を
経ると久々利に着くのだが、これらの地にはいずれも陶工の窯があった。
0243美濃の陶工の話4
2012/07/03(火) 22:17:00.12ID:JXnmWD+J乱射し、なおかつ岩を投げつけて攻撃してきた。これにはたまらず、田丸勢はすごすごと退却していった。
小なりとはいえ、れっきとした大名の軍勢を相手に陶工の一族が戦って撃退したのは前代未聞の手柄であった。
0244人間七七四年
2012/07/03(火) 22:33:52.45ID:ghqnfhMfまぁ、小山会議に参加してないって聞いたことあるんだがあの話は実に逸話っぽいから好きwww
0245人間七七四年
2012/07/03(火) 22:36:32.19ID:AqYG+ymVwikiでは隠居してすでに直昌に家督譲っていることになってるけど
0246人間七七四年
2012/07/03(火) 22:41:36.69ID:Mo9SyXmX隣の多治見と同じく。
多治見には新羅神社あるし渡来系の土地柄なのかもね
0248美濃の陶工の話訂正
2012/07/03(火) 23:05:12.16ID:JXnmWD+J×→角左衛門景勝
○→角左衛門景定
×→松原中兵衛
○→松原忠兵衛
0250人間七七四年
2012/07/05(木) 00:21:29.04ID:7EbYgKEA多米氏と大道寺氏は、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2319.htmlの逸話にあるように北条家の古くからの家臣である。
・・・が、その後の処遇は大きく異なってしまう。
大道寺氏が1000貫以上の知行をもらったのに対し、多米氏は本家が約148貫+約42貫という知行であった。
(約42貫の方は血族関係が不明)
0251人間七七四年
2012/07/05(木) 00:31:46.39ID:7EbYgKEA多米氏は上州西牧城主(あるいは箕輪城主とも)になり、松井田城の大道寺政繁とともに上杉・前田家の攻撃を受けることとなった。
西牧城に籠ったのは多米周防守長宗、そしてその次子家元である。
ちなみに長宗の長男出羽守長定は伊豆山中城に籠っていた。
0252人間七七四年
2012/07/05(木) 00:41:53.94ID:7EbYgKEA奮戦むなしく、多米長宗(72歳!)・家元父子は討死してしまった。
山中城に籠った長定も、落城時に討死してしまう。
さらに、家元の兄弟である左近(実名不明)も4月に討死し、多米氏は滅亡してしまった。
0253人間七七四年
2012/07/05(木) 00:45:07.32ID:7EbYgKEAのちラスボスによって切腹させられてしまい、結局大道寺氏も滅びてしまう。
・・・が家康によって厚遇され、子孫は福井藩士・尾張藩士・旗本・弘前藩士になっている。
・・・さて、北条家に殉じた多米氏はというと・・・しっかりと再興を成し遂げたのであった。
0254人間七七四年
2012/07/05(木) 00:57:17.89ID:7EbYgKEA総右衛門は無事西牧城を脱出し、自分の故郷相模国三浦郡山口村へと避難したのであった。
一説によると、多米家元の妻はこの山口村を領有していた富塚氏の一族であったらしく、総右衛門はその縁で仕えていたらしい。
0255人間七七四年
2012/07/05(木) 01:10:34.95ID:7EbYgKEA一方次男時安の方はその後家康に召しだされ、松平忠吉に仕えることとなった。
忠吉の死後松平忠輝に仕える…が彼も改易。
改易後の元和3年に土井利雄に仕え、元和8年古河で没した。
その子孫は代々土井家に仕え、明治維新を迎えることになる。
0256人間七七四年
2012/07/05(木) 01:14:22.02ID:7EbYgKEAなんだかんだで子孫は武士にとりたてられているのでいい話に投稿しました。
0257人間七七四年
2012/07/05(木) 01:18:17.00ID:7EbYgKEA大道寺直繁(政繁子)と多米時安がもし会ったら、どんな言葉をかわすのでしょうかね…?
0258人間七七四年
2012/07/05(木) 01:23:55.14ID:bsrAZrfv0259人間七七四年
2012/07/05(木) 06:46:18.13ID:HMdk5ig+俄に間者を差し向ける必要が出来た。
さて、通常上杉家においては間者を派遣する時、まず毘沙門堂の前にその者を召しだして起請をさせるのであるが、
なにぶん緊急の際であるので、例に無く謙信の面前で起請をさせた。
これに上杉家の老臣たちは「家法に触ります!」と反対したのであるが、謙信は笑って承知をしなかった。
そしてそんな事をいう老臣たちに、不思議そうに
「私があればこそ、毘沙門天も用いられているのだ。つまり、もし私が無ければ、毘沙門天の威徳も無くなるのだ。
そういう事であるから、私が毘沙門天を百度拝めば、向こうも30度か50度くらいは私を拝み返している事だろう。
だから私を、直ちに毘沙門天だと思わせて起請させるのだ。」
こう、当然の事のように言った。
この謙信の言葉に、群臣目を見はって言葉を出すものもなかったという
(上杉謙信言行録)
0260人間七七四年
2012/07/05(木) 08:33:14.36ID:oVUUqFmV0261人間七七四年
2012/07/05(木) 09:48:07.90ID:y/Iub8OX0262人間七七四年
2012/07/05(木) 10:25:43.64ID:1s8iM5vv0263人間七七四年
2012/07/05(木) 13:10:54.34ID:kSgdZV6Z0264人間七七四年
2012/07/05(木) 15:59:49.18ID:fRaj87lq0265人間七七四年
2012/07/05(木) 16:11:22.33ID:1s8iM5vvこの味は!……クソのついている「味」だぜ……
0266人間七七四年
2012/07/05(木) 16:22:35.30ID:gH08OojO焼き味噌なんだよ
うわーん
0267人間七七四年
2012/07/05(木) 19:25:43.57ID:gOW61cH5馬に重荷を負わせて富士山を登らせた。すると馬は少しも疲れる様子がなかったので、
家康はこの馬を「富士の道芝」と名付けて寵愛した。
しかし道芝はかなりの暴れ馬で誰も手懐けることができなかった。そこで金悟秀秋の旧臣で
精騎と名高い村上吉正を乗せてみると、難なく乗りこなしたので感じ入った家康は吉正に
道芝を預け飼わせた。家康は後に吉正が道芝を反した時、馬具を与えその労を賞したという。
0268人間七七四年
2012/07/05(木) 19:29:12.37ID:yVQ3ULla0270人間七七四年
2012/07/05(木) 20:37:13.69ID:/Uhh2VQQ0271人間七七四年
2012/07/05(木) 21:13:47.79ID:S1vqZhYyもしくは「自分の馬術を過信して落馬するとか大将失格だよね」とか考えちゃうんだろうか?
0272人間七七四年
2012/07/05(木) 21:37:52.51ID:HMdk5ig+0274人間七七四年
2012/07/05(木) 22:30:57.69ID:GviUIa8o馬「鎧なしで人間ここまで重たくなれるものなのかとあのとき初めて思いました。」
0277人間七七四年
2012/07/06(金) 00:41:12.85ID:1UViccHM0278人間七七四年
2012/07/06(金) 02:23:29.80ID:V6YLX5Kl母シーヴァ
馬主ふじのなんちゃら
よし、馬名決まったな!
0279人間七七四年
2012/07/06(金) 09:09:22.46ID:sug5sgfjあれが道芝の墓だったのかな?
0280人間七七四年
2012/07/06(金) 20:25:21.77ID:tvLtD7va陸奥の南部氏領は、浄法寺塗に代表される漆の産地だった。
漆掻きが始まる頃、時の当主 南部利直は家臣の毛馬内三左衛門宛に宛てて書状を書いた。
『漆掻きに良い時期となったので、漆掻きの者たちを代官たちにつけて、急ぎ派遣しなさい。
最近は(量を取ろうとして)漆を深く掻かせてしまい、木を枯らせてしまう。枯れなかった木も傷んで、実がならなくなってしまう。
漆は一杯ニ杯少なくても良いから、木を枯らせないようにさせなさい、そう毎年申し付け、奉行にもそれを伝えているのに、奉行たちがそれを理解していない。
もし木が枯れたら、それは奉行の落ち度として処罰するから、よく申し付け、厳重に取り締まるように』
代官の悪い話の気もするけど、資源を大事にした年直のいい話ってことで。
0281人間七七四年
2012/07/07(土) 19:55:14.62ID:KL7roJ0U0282人間七七四年
2012/07/07(土) 19:55:58.08ID:KL7roJ0U0283人間七七四年
2012/07/07(土) 20:02:33.54ID:WZeXkCam0284人間七七四年
2012/07/07(土) 20:05:01.51ID:EPbOlz/G0285人間七七四年
2012/07/07(土) 20:08:32.11ID:tIwx5QfD0286人間七七四年
2012/07/07(土) 20:10:59.58ID:VdlAuKXN0287人間七七四年
2012/07/07(土) 20:40:49.99ID:zJGl1MAL0289人間七七四年
2012/07/07(土) 22:46:55.83ID:azH3NmH/お隣は津軽塗りもあるし、良い漆が取れるんだろうな
0290人間七七四年
2012/07/07(土) 23:26:48.37ID:4t36OVTS天文14年(1545年)、大田原資清が新たなる本拠地として建築していた前室城(大田原城)がついに完成した時のこと。
資清はこれまで城の築城に携わった城下6ヶ村の農民たちを労い彼らを招いて酒宴を開いた。
宴もたけなわ、興が乗ってきた所で酔っ払った石神村の藤兵衛という男が鋤や鍬を持ったまま奇っ怪な踊りを披露すると
これが会場で大受けしたが、これが領主資清の目にも止まった。
どうやら資清もこの踊りを気に入ったらしくその後、資清は毎年正月になると彼等を城中に招き、この踊りを演じさせたという。
最初は酔っぱらいの宴会芸に過ぎなかったこの踊りも次第に舞踊として形式が固まっていき、現在に城鍬舞として伝承され、
現在は栃木県の県指定無形民俗文化財となり、例年10月になると上石上温泉神社に奉納されている。
0291人間七七四年
2012/07/07(土) 23:30:22.47ID:zJGl1MALてっきり農民たち全員殺すのかと思った
0292人間七七四年
2012/07/07(土) 23:37:59.27ID:7vQC2XM10293人間七七四年
2012/07/07(土) 23:59:38.97ID:rKyNG4Yr0294人間七七四年
2012/07/08(日) 00:41:19.54ID:rJ7C71LD損得計算できるわけだからねぇ
0296人間七七四年
2012/07/08(日) 00:48:19.17ID:Gyn7CuHaここでは一定しててワロタw
0297人間七七四年
2012/07/08(日) 00:54:24.71ID:6i5dFhg30298人間七七四年
2012/07/08(日) 01:53:17.66ID:qE3zdK9J0299人間七七四年
2012/07/08(日) 09:28:54.67ID:XHsrjdf8大坂夏の役の後。
藤堂高虎は井伊直孝と共に、将軍秀忠から金・銀の分銅を1つずつ賜った。
金銀分銅は一万両の重さがあり、
秀吉が軍用にと大阪城に貯蔵していたものである。
この金銀分銅を領国から江戸へ運ぶ時は、
それはそれはたいした騒ぎであった。
真紅の組紐でこれを縛って金8人、銀4人で担ぎ、
それぞれ数百人が守備についた。
道中の見物人も両側にびっちりであった。
先に江戸にいた高虎は一行が品川に到着した日、
下着した問屋まで出迎えた。
さて、ここの問屋の子は、強力が自慢であった。
「おぬし、怪力自慢と申すか?
もし、この分銅を肩まで上げれば、それをくれてやるろう。」
高虎は試しにそう言ってみた。
よもや持ち上げられまいと思った分銅は、
問屋の子が
「むんっ、こりゃ重いなっ!」
と言うが早いか、肩まで持ち上げられてしまった。
一同、青ざめて問屋の子と高虎を交互に見た。
高虎はしれっとして言ってのけた。
「二つ重ねるのじゃぞー。一つは誰でも持ち上げるぞー。」
問屋の子は
「二つなんて、そりゃ、おらにはムリだー。」
と差し控えた。
一同ホッとして、
高虎のこのような急な切り替えしは神業で、
人知では計り知れない、と妙な讃え方をしたのであった。
「高山公言行録」
0300人間七七四年
2012/07/08(日) 09:37:23.41ID:oRCWVHb2■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています