遅かった話 小野寺輝道編
天正10年、出羽仙北の領主小野寺輝道は、織田信長の家臣千福遠江守に対して返書をした。

『わざわざ書状をいただき、ありがとうございます。
上様(信長)が甲斐・信濃・駿河を始め、関八州までことごとく掌握されたこと、
また西国では中国地方も毛利氏を安芸一国まで追い詰めるのは時間の問題であるとお聞きしました。

上様に対する祝意の御礼を申し上げるべきところ、当方で紛争(小野寺氏は当時安東氏などと対立していた)があり、
承知していながら先延ばしになっておりました。
ぜひとも孫四郎を使者に御礼を申し上げますので、その時は上様に対して諸事よろしくお取り計らいください』

輝道もまたほかの奥羽大名たちと同じように、天下統一を目前に控えた信長と好を通じようとしていた。
信長を『上様』とまで呼び祝意を示している。

が、この手紙が書かれたのは“8月1日”
既に信長は本能寺に倒れていた。輝道は信長の死を知らなかったのだ。

というわけで、本能寺の変が遠く奥羽の地まで影響を及ぼしていたという話。