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戦国ちょっと悪い話32

レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年2012/06/16(土) 10:16:13.81ID:lqw/WNsT
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335874012/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336017262/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0849人間七七四年2012/08/05(日) 20:57:27.69ID:HQLGK1lj
>>840
右近より中川瀬兵衛の方がガチで酷いと思うんだがw
0850人間七七四年2012/08/05(日) 21:00:16.62ID:m85Bzr2k
>>848
中川瀬兵衛に関しては、
因果応報というか「ざまぁwww」としか思えないw
0851人間七七四年2012/08/05(日) 21:59:40.65ID:XA+iD0hj
小説とかゲームとかだと、だいたい単細胞な戦バカでアホの猪武者扱いされるけど、ここで紹介される話を読んでるとそーでもない気がしてくる>中川瀬兵衛
0852人間七七四年2012/08/06(月) 13:46:38.83ID:iny1WZBH
>>840 のは
右近ではなく、清秀の事だね。
0853人間七七四年2012/08/06(月) 14:57:44.50ID:IWBy3ccG
牧野成里というややこしい経歴の武士がいる。
その経歴の複雑さはhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5455.htmlここにも出ているが
それがどんなものであったか書いてみよう

成里の父、牧野某は尾張国毛呂崎城(現愛知県知多郡南知多町師崎)の城主であった石川筑後守と、
囲碁の事で論争におよび、ついにこの石川に殺されてしまった。享年29歳であったという。

この頃成里は未だ幼少であり、父の旧臣らによって育てられ成長し、元亀二年(1571)に至って父の敵を討とうとするが、
石川筑後守はすでに年老い、家督を息子の隼人佑に譲って隠居していた。そして筑後守は成里が父の復讐を
しようとしている、という話を聞き及び

「壮年の隼人佑が家督を継いでいるというのに、老衰の私を狙うなどとは、まさしく勇気の無い行い様である!」

と嘲り笑った。このことを今度は成里は伝え聞き、

「筑後守は正しく父の仇であり、だからこそ今まで彼の命を狙っていたが、そういう事であるならこの上は
隼人佑を討つべし!」として年月を送り、大野宮川の狩場においてついにこれを討ち果たした。
この時隼人佑の家来たちが成里たちを追ってきたが、かねてから牧野成里の敵討ちのことを知っていた
滝川一益が兵を出してこれを救け、伊勢長島城に迎え入れた。

そののち、滝川一益が没落すると織田信雄に仕え、また所縁があったために長谷川藤五郎秀一に属し、
文禄元年(1573)朝鮮の役に長谷川家の一員として従い、長谷川秀一が陣中において没した時、
豊臣秀吉が
「長谷川秀一の軍勢を預かるべき者は誰が良いか?」
と諸将に尋ねると、皆が牧野成里こそ然るべきと推薦したため、成里は秀吉の命令で長谷川家の軍配を預かり
士卒を下知して各所で軍功を立てた。
帰国の後豊臣秀次に仕えたが、秀次事件の後、石田三成に属した。

慶長5年(1600)の関ヶ原の役において三成が敗亡すると、郎党十余人を従え包囲を突破して
池田輝政のもとに逃げ込んだ。
輝政は徳川家康にこのことを報告し、成里を扶持した。
この時彼は剃髪し名を一楽斎と改め、輝政の領国播磨に暮らした。

やがて寛永8年(1631)の徳川秀忠の上洛の時に、伏見において仰せを被り江戸に下向し、秀忠の御前に召されて
還俗して再び名を傳蔵と改め、下野国梁田郡三千石の旗本と成った。

牧野成里の、非常にややこしい履歴についてである。
(寛政重修諸家譜)
0854人間七七四年2012/08/06(月) 16:35:02.63ID:y16USDnQ
惜しい、あとちょっとで日根野さんに並べたのに
0855人間七七四年2012/08/06(月) 17:25:48.83ID:eASKNGlM
敵でも知り合いのところに逃げ込めばなんとかなるもんだな
0856人間七七四年2012/08/07(火) 06:42:02.42ID:VFpxUdEN
今も昔もコミュニケーション能力が大事なんだな・・・
0857人間七七四年2012/08/07(火) 07:33:02.19ID:VpX0d1Ko
三成の陣から池田輝政の陣まで突破するのって東軍の中央突き抜けないといけないよね、すごくね?
0858人間七七四年2012/08/07(火) 10:11:36.36ID:aXGL0qQ6
カタパルトで飛んでったんだろうよ
0859人間七七四年2012/08/07(火) 12:39:06.11ID:8wvkDqSF
へうげェ―
0860人間七七四年2012/08/07(火) 13:37:11.33ID:MKrFIbp7
黒田如水は関ヶ原の後、徳川家康へのお目見えのため上洛し京都狼谷に宿泊していたのだが、
その宿舎には諸大名たちは言うに及ばず、越前中納言様、当時は三河守(結城秀康)からは、
日々御使者が送られ、度々自身御見舞され、懇ろに饗すという、類少ない扱いであった。
その他徳川家の御旗本衆、御近習、外様衆、更には牢人衆など、訪問者が門前市をなすありさまであった。

こういった状況を心配したのが、久しい如水の友人である山名禅高(豊国)であった。
彼は如水を尋ねるとこの様に忠告した

「諸大名衆が色々と訪問する場所がある中、あえてここに参られるというのは、一体何の御用があるのか?
人目を避けて夜から明け方まで御密談なされているという。
牢人衆の事も、一体どんな理由があって、ここに大勢入れ込まれているのか?
特に三河守殿に関しては、3日と開けず御使者を使わされ、ご自身による御見舞も度々のことだという。
私がその場にたまたま居合わせた時に見たが、三河守殿はまるで親を崇めもてなすように
心がけられていた。その様なこと、家康公にとってお気に召すはずがないではありませんか。

ご存知のように内府公は単純な人ではない。いかにも親しい体の出入りの衆の内に、内府公の横目(監視役)も
きっといるだろう。きっと内府公は、如水は面倒な相手であると思われていることでしょう。
それでは立場はどんどん悪くなり、さらにもっと大事を引き起こすと考えます。

現在、筑前守殿(黒田長政)の幸福は極まっていて、当代肩を並べる人も稀な程です。
ご自身の様子、人からの評価、内府公からの信頼、今の日本において彼よりも幸福な人は2,3人も
居ないでしょう。そうであるのに、貴老のそのほうな、現在の御作法では、筑前殿のためにも
然るべからざるものでありましょう。
ここは、同行させてきた家臣も大方国元に返され、病気療養として静かに在京されるべきでしょう。

天下が治まったというのに、『未だ治まらず』と、徳川家の御旗本が警戒しているのは、大方
貴老の事を念頭にしている事であると、世の中では申し散らしている。無論邪推ではあるが、
天に口無しとも言い、猶以て警戒しなければいけないことです。

真偽は知りません。ですが醍醐・山科・狼谷・六地蔵・宇治・その他京に近い在家に牢人であるとして、
侍たちが方々に居住しているが、これは如水が隠し置いている人数であると、もっぱら噂されています。
返す返すも大変なことだと思う。あなたはこれについて、その様に見られている事への御覚悟を
持っているのか!?」

このように繰り返し繰り返し意見した所、如水は言った

「禅高、よく聞いて欲しい。もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら、関ヶ原の折
九州において数ヶ国討ち取り、島津だけが手に入っていないは国境まで押し詰めていた。
あの時彼らを蹴散らすにしても味方に引き入れるにしても、さほど時間はかからなかったであろう。
そうして九州を掌握した上で甲斐守(黒田長政・当時)を引き取り堂々と、家康に敵対するという
我らの方針をはっきりさせて、当時中国地方、備前、播磨は空き国であったし、我々には
2万余の人数があった。これを以って陸海を押し上がり、道中牢人や侍たちを吸収しつつ、
内府との出会い次第に合戦を行えば、天下が私の掌中に入った、ということもありえただろう。

だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために、討ち取った国を捨て、下鞘一つで上洛したのだ。
特に筑前守は大国の主になったので、心安く養われ、後は後生に願いをかけているだけの状況である。
そんな私に何の用心、何の気遣いがあるだろうか!?
あなたの言ったような風聞には、このたわけ共はそんな事を言っていると聞き流し、真実とは
考えないでいただきたい。少しでも私のことを知り、会話をしたことのある人間なら、
その様に思うことはない!」

そう、扇で畳を叩き、まったく取り付く島もない有り様で主張したので、禅高も呆れてしまい
もう何も言わなかった。

やがて禅高の言ったように、京大阪の牢人に対する取り締まりが厳しくなったが、徳川家の
老中のうち黒田長政と特に親しいものより密かに連絡があったため、如水と親しい牢人たちは
俄に取り散ったという。
(古郷物語)
0861人間七七四年2012/08/07(火) 17:41:45.68ID:bHJhD/3s
>だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために

これには禅高も苦笑い
0862人間七七四年2012/08/07(火) 18:11:04.54ID:cN9q46nx
そういう計画だったのに誰かさんの左手が遊んでいたのでできなかったと
0863人間七七四年2012/08/07(火) 18:23:38.61ID:JZirb/Sm
TERUはすぐ戻ってきたから中国地方は空国じゃないよなあ。

計画が大風呂敷過ぎてネタにしか見えない。
0864人間七七四年2012/08/07(火) 21:51:01.09ID:cFnD2V+J
つまり如水にとってはTERUが居たくらいでは空き国ということかw
0865人間七七四年2012/08/07(火) 21:51:06.14ID:86NNy1Gv
>856、全裸で駆け抜ければ度肝を抜かれていけるかと
0866人間七七四年2012/08/07(火) 22:57:34.13ID:rwvlED7/
これ如水は既に耄碌したと思わせる振りだったのでは?
0867人間七七四年2012/08/07(火) 23:32:50.82ID:Goy/BcYj
東西決戦が長期戦にもつれる予想の方が多かったんだから、
如水の現代から見ればやりすぎな計画も、
同時代人にとってはさほどおかしくはない気はするけどね
0868人間七七四年2012/08/07(火) 23:35:40.33ID:xdocKTRo
>>862
広家にそれっぽい書状を出してたな。

美濃で今月(10月)まで睨み合ってたら
中国へ切り返して一合戦しようと思ってたのに
内府の勝手になっちゃったので残念。みたいな感じ
0869人間七七四年2012/08/07(火) 23:36:12.38ID:r2J0z4CY
実は「安芸国」を「空き国」と聞き間違えただけだったり
0870人間七七四年2012/08/07(火) 23:44:12.38ID:7uiimwfz
ある意味生き残った秀吉みたいなものかな
0871人間七七四年2012/08/08(水) 10:35:52.16ID:eXaOyBTq
このへんの家康と如水の暗闘をテーマにした安部龍太郎の小説「風の如く 水の如く」は面白かったなあ。もう絶版だけどw
主人公が黒田長政と本多正純というのも良かった。三斎様が物凄い嫌な奴で出てくるw
0872人間七七四年2012/08/08(水) 11:34:38.62ID:EJrvxqvE
水の如く、てのはそのまま如水だろうけど
風の如く、て権現様にあてはまるのか
0873人間七七四年2012/08/08(水) 11:53:15.02ID:Mds0W+dQ
天正10年(1582)、明智光秀は本能寺で主君織田信長を滅ぼすと、三宅式部を京都所司代とし、洛中洛外の
地下人に金銀を下し、地子銭(固定資産税)の永代免除を発表した。
これに京都の人々はみな有難く思って喜び合い、禁裏よりは久我宰相・土御門少将を勅使として、地子銭免除が
叡聞に達し叡感を得られた旨を伝えられた。

6月10日の未明、明智日向守光秀は参内し、久我宰相を通して金子五百両、白絹百疋、
綿五百把を献上。そして奏上して曰く

「私は奸心によって信長親子を害し、不慮に天下の政道を掌握しましたが、これは天の許さないところなのでしょう。
それ故に今、朋輩であった羽柴筑前守秀吉が中国より馳上り、諸勢を尼崎に集結させていると報告を受けました。
きっとここ両3日の内に、洛外において山河を動かすほどの戦いをし、私は討ち死にをするのだと思い定めております。

今日は、今生のお暇乞いとして帝の龍顔を拝し、忝く思い奉ります。」

これに久我宰相は天意を承って、答えた

「戦の勝敗は、朝廷の関知できることではない。
しかし地子銭免除は洛中洛外の永代の厚情であり、その積善は後世の子孫にまで及ぶだろう。」

これを聞いた光秀は忝なさのあまり落涙して退出した。

光秀はその他に仙院、女院、三公、九卿、百司、女官等まで尽くに金絹を献呈した。
これこそ死後までの栄華であると、その頃言われたのだという。
(増補筒井家記)

山崎の戦い直前の、明智光秀暇乞い、という場面である。
しかし光秀の洛中洛外地子銭免除というのは、相当のインパクトのある政策だったのだと
実感させられるお話である。
0874人間七七四年2012/08/08(水) 17:28:45.09ID:mHVSUtao

柳生宗矩が剣術仕合について話しているのを傍らで聞いていた
大久保彦左衛門は突然「但馬殿、仕合を致しましょう」と言い出した。
宗矩も断る理由がないので仕合の日を約束した。

当日、宗矩は庭に砂を蒔き、仕合の用意をして待っていた。

そこに彦左衛門がやって来たのだが、彦左衛門は甲冑を身に付け、直槍を持った
物々しい出で立ちで、宗矩の方へ行って小さい砥石を取り出し、槍の穂先を研ぐと
「但馬殿、いざ参らん!」と言った。

困惑した宗矩が「これは一体どういうことです。
そのようなお姿では仕合はできません」と言うと彦左衛門はこう言った。

「それがしはいつもこのようにして仕合を致しております。
このように庭に砂を蒔いて所で、竹に皮袋をはめ、木の先に毛毬のようなものを
括り付けて人と仕合を致したことはありませぬ。

それがしはいつも山や田の中、畠の畷のような所で仕合を致して参った。
しかし、このような庭で致しても一向に構いませぬ。さあ但馬殿、いざいざ参らん!」

当然、宗矩は仕合?を断ったという。

――『名将言行録』
0875人間七七四年2012/08/08(水) 17:47:44.17ID:wJrs8txV
いつみても嫉妬心丸出しのヤな奴だな
0876人間七七四年2012/08/08(水) 17:50:36.94ID:cu3uAtem
古豪や剣豪でよくあるような逸話なのになんでここまでダサくなるのか
0877人間七七四年2012/08/08(水) 18:00:10.69ID:Mds0W+dQ
これはおそらく、可児才蔵が決闘申し込まれて決闘の場所に完全武装した上郎党20人引き連れてきたって話の
改変バージョンなんだろうな。
0878人間七七四年2012/08/08(水) 18:18:12.82ID:89E4OFzW
>>873
断られるのは織り込み済みなんだろな・・・
0879人間七七四年2012/08/08(水) 18:32:13.63ID:XH7TY4VB
清正バージョンもあったよね
0880人間七七四年2012/08/08(水) 19:16:04.43ID:FWGx8qE2
キンギオブ面倒臭いが彦左衛門でいいのかな?
0881人間七七四年2012/08/08(水) 19:23:10.49ID:f6Gh6SYK
>>875
突っ込み待ちで嫌味をだらだら語る逸話が多すぎるからかしらねえ…
0882人間七七四年2012/08/08(水) 19:31:06.39ID:bvZQLNg7
大久保彦左衛門ってなんかイメージ悪いなw

この人って失脚した人だっけ?
0883人間七七四年2012/08/08(水) 19:54:06.01ID:eXaOyBTq
幕末から明治にかけて大久保彦左衛門ブームというのがあって、どうもそのころ、硬直化した組織の中で
上に向かって物の言える人間というのが求められていたらしく、そのシンボルとして彦左さんが注目されたらしい。
0884人間七七四年2012/08/08(水) 20:05:19.62ID:o1YlFD6e
大坂の陣でふつーに鎧武者を9人切り倒してる宗矩なら、その気になれば彦左衛門ぐらいどうにでもなるんだろうけど。
新参の宗矩が譜代の面目を潰すわけにもいかないよね。

可児才三とどっかの武芸者なら、戦場往来の古強者が薄肌剣術の隆盛に物申すいい話になるけど、宗矩と彦左衛門だと
新参者にパワハラする老害の話になる。
0885人間七七四年2012/08/08(水) 20:13:56.40ID:eXaOyBTq
まあこの話の作者が意図した解釈は、『将軍家指南役であり将軍側近でもある、権威も権力も極まっている
柳生宗矩に一本食らわした』という痛快な話としてのものでしょうな。

あまり難しく考えずに、一休さんのトンチ話と似たようなものだと思えばいいw
0886人間七七四年2012/08/08(水) 20:15:49.10ID:V1MseDbz
老害って・・・
イメージで決めつけすぎ
0887人間七七四年2012/08/08(水) 20:16:33.94ID:j4ZhLhzB
小野忠明「なら俺と仕合しようぜ!彦左衛門殿。」
0888人間七七四年2012/08/08(水) 20:16:35.33ID:nAeyhI04
一応言っとくけど名将言行録は民明書房のようなもんだぞ。
0889人間七七四年2012/08/08(水) 20:19:45.11ID:j4ZhLhzB
>>887
違います。

名将言行録 > それまでの逸話をまとめたもの
民明書房 > 完全妄想
0890人間七七四年2012/08/08(水) 20:55:04.80ID:Yz7ZaWV4
まさむね「では某と一つ相撲でも…」
0891人間七七四年2012/08/08(水) 22:18:15.03ID:trKb4po3
>>888
まぁ、あと200年もすれば同じ扱いになるからwww
というか、幻の『民明書房』を探すことに一生を捧げる研究者がでるかもしれんぜw
0892人間七七四年2012/08/08(水) 22:44:02.33ID:SnIlGC2o
首切り茂吉も伝説になるな
0893人間七七四年2012/08/08(水) 23:30:27.45ID:FWGx8qE2
民明書房だろうが本物の文章だろうがまーくんのイメージはさほど変わらないだろうなw
0894人間七七四年2012/08/09(木) 00:02:31.57ID:3gqbyJV6
>>886
大人げない小野忠明vs嫌味ったらしい彦左衛門

二人の対決を呆れ顔で見ている

宗矩と横田甚右衛門
0895人間七七四年2012/08/09(木) 03:00:08.61ID:P7WzNdAJ
>>873
おお、 三河者の精神が形になったようだ
0896人間七七四年2012/08/09(木) 09:23:06.12ID:awAqdDYX
宗矩:めんどくせぇ〜なぁ〜 
0897人間七七四年2012/08/09(木) 17:29:25.43ID:M2QzuxWM

鴫野の戦いの時、上杉景勝は敵の大軍を破って勝利した。
この時、軍監を務めていた小栗忠政は、徳川家康の陣にやって来て、
戦の次第を伝えると御次の間に退いた。

そこで忠政は戦の時の話をし始めた。

「今日の戦で敵を追い討ちする絶好の機会があったゆえ、
景勝にすすめたのだが、もう日暮れだといって聞き入れなかった。

しかし、残った敵も多かったゆえ諦めきれず、直江に兵を貸せ、
わしが行くと言ったのだが、これも同じ様なことを言って断られたわい。

さてさて、残念なことじゃ」

…と言っているところに家康が入って来た。忠政の声がよほど
大きかったのか、家康は話をすべて聞いていた。

「やい、又一。お前の身分で景勝の指揮を非難するはいらざることぞ。

このたわけ者め!」

主に厳しく咎められて、流石の忠政も平伏して恐縮した。

――『徳川実紀』
0898人間七七四年2012/08/09(木) 18:07:14.23ID:G8q1lgcT
小栗さんはこんな年になってもぶれないなw
0899人間七七四年2012/08/09(木) 19:25:12.53ID:nVNH7eNI
もっと若い頃だったら家康に何か言い返したりしたんだろうかw
0900人間七七四年2012/08/09(木) 19:52:22.06ID:6ehqqsG6
言い返せないなんてオレの知ってる又一と違う

理不尽でめんどくさくて大久保彦左とガップリ四つに組める男なのに…
0901人間七七四年2012/08/09(木) 20:14:45.54ID:RtLGP5if
景勝に断わられた追い打ちについて
直江に「兵を貸せ」と言ってもそりゃお断りされるような…
0902人間七七四年2012/08/09(木) 20:19:38.27ID:2zdOeasM
忠政「景勝殿、今こそ追撃の好機にござろう。
兵を貸してはくださらぬか?」
景勝「・・・」
直江「殿は、もう日暮れなので兵は貸せぬ、とおっしゃってます」
忠政「では直江殿、貴公の兵を」
直江「わたしも、日暮れなので兵は貸せませぬな」

そりゃ同じ様な返事になるよな
0903人間七七四年2012/08/09(木) 20:30:21.38ID:e8TeZ/K+
そりゃ景勝がダメっつってんのに直江が貸せるわけ無いだろうと
0904人間七七四年2012/08/09(木) 20:30:36.96ID:M+sQuYa2
小栗さんって大坂夏の陣の戦傷が元で死んだんだよな。

つまりこの発言後まもなく命に関わる負傷をしてしまう。
0905人間七七四年2012/08/09(木) 23:00:10.53ID:8Xj1weZz
ある日、南光坊天海が江戸城で語った。
「最近『甲陽軍鑑』という本を読んだが、上杉謙信が武田陣に乗り込み、武田信玄は謙信の太刀を軍配で請けた
と、書いてある。ありゃ、ウソじゃ。

わしは、あのころ会津不動院に住しておったが、武田家に祈祷師として呼ばれる事があった。
天文23年(1554)8月、わしが甲州へ檀那廻りに行くと、信玄公は信州で上杉と対陣との話。急いで川中島へ
向かい、8月17日、信玄公と対面かなった。信玄公は機嫌良く会ってくれたが、

「一両日に輝虎と合戦に及ぶであろう。ひとまず御坊は会津に帰り、来年ゆるゆると甲斐に来られよ。」
と、さっさと追い出されてしもうた。

わしも一度は帰路に着いたが、「出家の身が、大檀那の大事なる戦を聞き捨てにして去るとは、道理に合わぬ」
と思い直し、夜通しかけて立ち戻り、翌18日の合戦を、近くの山に登って眼下に見届けた。
両大将は御幣川に馬を乗り入れ、太刀にて一騎打ちに及んだが、敵味方入り乱れるうち、退いて行ったわ。

その夜、わしは信玄公の陣小屋へ見舞いに行った。信玄公は手負い、壁に寄りかかっておったが、
「御坊は帰られたと思っていたわ!」と喜んで迎えて下さった。

それを受けて、わしも
「源平の合戦以来、大将の太刀打ちなど、聞いた事がありませぬ。古今に無きお手柄にございますぞ。」
と褒めたが信玄公は、にわかに顔色を変え、

「輝虎と太刀打ちしたのは、わしでは無い。知らぬ者は信玄と見ただろうがアレは、わしに似せた法師武者よ。
わしでは無いので御坊、奥州に帰られても、左様な話は無用ぞ!」

と怒られた。が、わしは近々と見たのじゃ。なかなか見間違えるハズも無し。」

話を聞いていた横田尹松が尋ねた。
「わしも謙信公の太刀にての斬り掛けに、信玄公は軍配で受けた、と聞きましたが・・・」

「しゃっ!甚右衛門は生まれてもおらぬ時の話の、何を存ずるか!?わしは直に見たのじゃ、両大将の、
騎馬にて川に乗り込んでの太刀打ちをな。わしが45歳の時の話じゃ、間違いない。」
(上杉将士書上より)

・・・ホントですか大僧正?(天文23年に45歳だと享年133、4になるw)
0906人間七七四年2012/08/09(木) 23:05:38.72ID:e8TeZ/K+
>>904
こういう事ですね
  .-、 
  ヽ、メ、〉      r〜〜ー-、__      ________________
  ∠イ\)      ムヘ._     ノ      |
   ⊥_      ┣=レヘ、_ 了     | え−−い、信玄公は軍配で受けたんじゃないっ!
-‐''「 _  ̄`' ┐  ム  _..-┴へ   <
  | |r、  ̄ ̄`l Uヽ レ⌒',    ヽ.   | 川に乗り込んだんだ! 騎馬での太刀打ちだっ!!
  (三  |`iー、  | ト、_ソ   }     ヽ   |
  | |`'ー、_ `'ー-‐'    .イ      `、   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  | |   `ー、    ∠.-ヽ      ',
__l___l____ l`lー‐'´____l.       |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||  .|      |
               ||  |__.. -‐イ
               ||   |    ノ/
0907人間七七四年2012/08/09(木) 23:39:15.96ID:WJIhcnj1
実は光秀だったり享年100歳越えの化け物だったり忙しい坊さんだな
0908人間七七四年2012/08/09(木) 23:48:59.34ID:mscTs0VD
第四次川中島って永録…
0909人間七七四年2012/08/10(金) 00:19:41.79ID:BSV3slSp
このジジイ自分で怪情報流して楽しんでるだろw
0910人間七七四年2012/08/10(金) 09:49:36.54ID:hzrsj5qo
>>3 
    ←──≪      
    ←──≪     
    ←──≪                
     三本の矢      
  (お兄ちゃん早すぎる)

なぜか、一番上が短くみえるのは、気のせい?
0911人間七七四年2012/08/10(金) 10:48:22.93ID:A8NxHFdf
享年108歳だとしても当時19の若僧じゃねーかw
0912人間七七四年2012/08/10(金) 11:25:12.62ID:l1z91fYL
そっか、文章でも真実とは限らないんだな。幽斎さまとかならそうぶれとかないだろうけど三才さまとかまーくんだと脚色とか多そうだ
0913人間七七四年2012/08/10(金) 12:09:59.23ID:XzAs2U1Z

大坂の陣にて、塙直之が蜂須賀至鎮に夜討を仕掛けた時、
至鎮の家臣、稲田九郎兵衛は十五歳にして大功を立てたので
徳川家康から感状を下された。

この時に家康が近臣に向かって曰く、

「子に名前をつける時はきちんと考えなければならないな。
九郎兵衛はわずか十五だというのに、無闇に大人らしい名前を
つけるから散々なことになる。

何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ」

――『徳川実紀(天元実記)』

名前はよく考えろって、それなんてブーメラ(ry
0914人間七七四年2012/08/10(金) 12:15:00.55ID:BqjjkEmG
>>912
>>何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ

なるほど、珍しい名前をつけておけば評判になるのか

さすが権現様
0915人間七七四年2012/08/10(金) 12:28:31.39ID:nUTaD59d
権現様のネーミングセンスの根源を垣間見た気がした
0916人間七七四年2012/08/10(金) 12:29:04.59ID:ZfC0qa9S
>>913
逆逆。九郎兵衛が子供なのに珍しい(大人っぽい)名前だったから今一インパクトがないよ、
子供らしい平凡な名前だったらもっと評判になったのに、って話だよ。
0917人間七七四年2012/08/10(金) 12:36:52.46ID:q3WwlswE
子供らしく…奇妙丸とか茶筅とか?
0918人間七七四年2012/08/10(金) 12:55:58.13ID:3b6zioRa
15で九郎兵衛なら通称じゃないの?
こういう事言われるって事はまだ元服前で幼名九郎兵衛ってことか
親は凄いセンスだな
0919人間七七四年2012/08/10(金) 13:02:30.74ID:WLFh4AEK
ちやほやされすぎて天狗になり、狭量な人間になってしまったかも知れないし
人間がどう成長なるかなんてわからんけどね
0920人間七七四年2012/08/10(金) 14:39:31.79ID:ur+b5Yrw
恩賞ケチるための口上なだけでは?
0921人間七七四年2012/08/10(金) 18:18:42.69ID:Vp9vd+Sj
>無闇に大人らしい名前をつけるから散々なことになる。

九郎兵衛だけに苦労するんですね、判ります
でも神君が名前ネタでいじって後世に名を残せるように計らってくれて
九郎兵衛も末代までの誉れになったから良かったね


0922人間七七四年2012/08/10(金) 21:31:34.89ID:ZH26C3W8
稲田九郎兵衛=稲田植次は明治維新時の庚午事変でも有名な
徳島藩筆頭家老稲田氏の嫡子だからなあ
物々しい名前も付けられるってもんよ

そんな大身の御曹司でありながら感状を賜るほどの目覚ましい
働きは大したもの
0923人間七七四年2012/08/10(金) 23:44:58.10ID:CU/QAYC2
遅かった話 南部信直・北信愛編

すったもんだの末に南部家25代当主として家督を相続した南部信直は、北信愛をそばに呼びこう語った。
「天下に名高き武将は多いが、今皆がその名を知り四海に武威を振るっているのは、織田信長様だ。諸国諸士はこぞってよしみを結んでいると聞く。
私も参上こそ叶わないが、土産を持たせて使者を送りたい。だが、この遠い糠部の地、なかなか思うようにはいかない。
それに、信長様に我が家の由緒を示したいが、代々の由緒を記した巻物(系図書)も火災によって失ってしまっていてなぁ……」

天文18年(8年とも)に、当時の居城であった本三戸城は、晴政に妻を奪われた家臣の赤沼備中によって放火され、
南部家相伝の証文・系図・家宝などはことごとく燃えてしまっていた。

信直はどうしたものかと思案していたが、そこへ北信愛が
「御屋形様、これを……」
と、差し出した。それはまさに焼けて無くなった筈の系図書だった。
「どうしたのだこれは?!」
「はい、御城炎上ののちに、晴政様は家中に自家の系図を提出させ、その時集まった30巻余りをつき合わせて抜きだし、
御前で清書しました。私の父は文筆の心得があったので、その手伝いを任されました。
その下書きを、晴政様は私の父に賜り、その後父はこれを私に譲ったのです」

そして信愛はそれから延々系譜の内容について詳しく説明した(長いので割愛)
「――ということで、そのほかにも筆にも及ばぬ言い伝えは数多ありますが、それは追々話すとして、あらましはこのようなものでした」
信直の喜びはひととおりではなかった。
「よし、こうとなればさっそく信長公へ使者を登らせよう! 誰が良いと思う?」
「このたびの使者は御家の一大事のことです、私が行きましょう。良い伝えを持って帰りますので、安心して待っていてください」
と、信愛は御家の由緒を荒々と書き抜いて、献上するための馬三頭・大鷹五羽を持って糠部を出立した。

時に“天正10年 6月中旬”のことだった。

北信愛は順調に進み、日本海側に抜けて下越後へ着いた。が、そこで、信長公が京都で逆臣のために果てたことを風聞に聞いた。
不安に思った信愛はしばらくその所に逗留して情報を集めていたが、風聞が真実だと知ると、今は上洛しても詮無しと、力を失い帰国したという。
0924人間七七四年2012/08/10(金) 23:46:00.21ID:CU/QAYC2
遅かった話 小野寺輝道編
天正10年、出羽仙北の領主小野寺輝道は、織田信長の家臣千福遠江守に対して返書をした。

『わざわざ書状をいただき、ありがとうございます。
上様(信長)が甲斐・信濃・駿河を始め、関八州までことごとく掌握されたこと、
また西国では中国地方も毛利氏を安芸一国まで追い詰めるのは時間の問題であるとお聞きしました。

上様に対する祝意の御礼を申し上げるべきところ、当方で紛争(小野寺氏は当時安東氏などと対立していた)があり、
承知していながら先延ばしになっておりました。
ぜひとも孫四郎を使者に御礼を申し上げますので、その時は上様に対して諸事よろしくお取り計らいください』

輝道もまたほかの奥羽大名たちと同じように、天下統一を目前に控えた信長と好を通じようとしていた。
信長を『上様』とまで呼び祝意を示している。

が、この手紙が書かれたのは“8月1日”
既に信長は本能寺に倒れていた。輝道は信長の死を知らなかったのだ。

というわけで、本能寺の変が遠く奥羽の地まで影響を及ぼしていたという話。
0925人間七七四年2012/08/11(土) 01:53:21.67ID:TZJ+STfh
本能寺の変への各大名の反応とか調べたいな

色んな情報が錯綜してそうで面白そう
0926人間七七四年2012/08/11(土) 03:20:11.11ID:QL8qErtR
>>923
ちょw2ヶ月経ってるじゃねーかw
周りはもっと早く情報を入手してるのにどんだけ世間ずれしてんだ
0927人間七七四年2012/08/11(土) 05:59:11.37ID:HF/OB6T/
>>924
とっかかりとして、平山優「天正壬午の乱」がお勧め。
0928人間七七四年2012/08/11(土) 07:56:09.23ID:PVQ/QCRb
東北は日本海側のほうが情報が届くのが早いイメージ
0929人間七七四年2012/08/11(土) 08:14:00.48ID:iu2O5qkN
まあ東北の太平洋側の航路が成立するのが江戸時代だからな、徳川家光の時代。
0930人間七七四年2012/08/11(土) 08:50:16.87ID:7w7T/gqH
東北の8月1日が日本の8月1日と同じとは限らないのではないでしょうか
0931人間七七四年2012/08/11(土) 09:02:13.58ID:HF/OB6T/
>>929
閏月の挿入時期で混乱したのは、天正10年12月〜翌1月の話だから
この話の時点ではいっしょだよ。
0932人間七七四年2012/08/11(土) 16:46:39.73ID:/qNjNtQX
ん?6月中旬ってことは実際は越後は天正壬午の乱中だったんだろうが
信長が死んだことを知らないのになんで越後側に抜けたんだ
まさか上杉が織田と戦ってたことすら知らなかったのか?
0933人間七七四年2012/08/11(土) 16:54:23.60ID:yi+zMmTj
下越後から船で上杉領スルーするとか?
0934人間七七四年2012/08/11(土) 17:32:29.71ID:HF/OB6T/
>>931
下越後だと新発田重家の領内だろうから、そこから船にするか
関東方面へ出るつもりだったのかも。
0935人間七七四年2012/08/11(土) 17:34:21.45ID:UyImDaMx
>>922
この時秀吉に従ってれば、津軽は安堵されたのに(´・ω・`)
0936人間七七四年2012/08/11(土) 19:30:48.90ID:9jyoXUZh
>天下に名高き武将は多いが、今皆がその名を知り四海に武威を振るっているのは、織田信長様だ。
>諸国諸士はこぞってよしみを結んでいると聞く

この程度の把握では信長急逝後の後継者見込みを立てられなかったんじゃないかな
0937人間七七四年2012/08/11(土) 21:28:59.16ID:LYIXatLM
天正10年(1582)3月14日、信州浪合に駐屯していた織田信長のもとに、武田家滅亡の知らせと勝頼の首が届いた。
信長は喜んで勝頼の首に向かい、

「うぬが父、信玄入道以来の積悪によって、うぬは信玄の死から時を経ずして滅亡するハメになったのよ。
しかし、かかる小せがれめに多くの将士を討たれしこと、くやしゅうてならぬわ。
・・・よし、うぬら親子は上洛を望んでいたと聞く。望み通り、その首を都の大路にさらしてくれるぞ!」

そう言うが早いか床机から立ち上がり、勝頼の首を蹴飛ばした。

見ていた近習の竹中重矩は、たまらず隣にいた後輩の細川忠興に話しかけた。

(アレは、今回の御征討が始まって百日もせぬうちに大した苦もなく取った首ゆえ、あのような真似を
されるのだろうか?普通は、大将首なら首実検をするものだが・・・)

(うむ、そうだな。ならばその旨、信長様にご注進いたそう。)
(やめておけ、あの御景色では聞き届けていただけまい。益なき事ぞ。)
(それもそうか。)


「・・・それから百日もせぬうちに、信長様は本能寺に果てた。ゆえに、大将首は丁重に実検せねばならんぞ。」
細川忠興は、のちに家臣たちにそう言ってきかせた。(綿考輯録)



お盆に向け、こんな話をどうぞ。「信長は勝頼の首を粗末に扱った」説の元ネタかな、これ?
0938人間七七四年2012/08/11(土) 22:11:25.46ID:5bsoGrnl
首実検って作法がいろいろあるんだよね。
視界の隅でしか見ちゃいけないとか。
あの辺ってやっぱり怨霊をおそれてのことかしら。
0939人間七七四年2012/08/11(土) 22:16:28.63ID:XTtQybm0
さすが信長 狭量だな 
0940人間七七四年2012/08/11(土) 22:53:34.37ID:HshhauHa
蹴飛ばされて当然の非道外道な行いを糞馬鹿親子はしてるからな
信濃に対する傍若無人・悪逆無道な行いに対する報いで滅んだよようなもん
信濃の民衆は武田滅亡を泣いて喜び、進んで武田残党狩りに勤しみましたとさ
0941人間七七四年2012/08/11(土) 22:57:08.56ID:CDJc4OlC
黄金に塗られるという手間をかけられなかったということは、
朝倉・浅井の頭蓋骨は供養のつもりだったんだろうか
趙襄子が智伯に同じようなことしたのは侮辱のためだったらしいが
0942人間七七四年2012/08/11(土) 23:20:06.82ID:9QHghjUI
>>939
誰が見ても信長は因果応報の悪逆非道だろ カス織田厨
0943人間七七四年2012/08/11(土) 23:21:47.86ID:DxcBpOZg
それなりに信頼してた義弟の浅井はわかるとして、朝倉にそこまで礼尽くすだろうか…
あ、でも名門だしなぁ
0944人間七七四年2012/08/12(日) 00:00:07.11ID:VBE/hqIi
人畜無害装ってれば蹴鞠の人みたいに生き残れたんだろうか?
0945人間七七四年2012/08/12(日) 00:19:33.93ID:T/tkyNye
調子にのって首を蹴って世間に嘲りを受け
自分が首なしになって供養もされないハメになるとは・・・
0946人間七七四年2012/08/12(日) 02:00:46.05ID:TH/ROrAo
いくらどのような相手だろうと、感情に任せてするようでは不幸を招くな
0947人間七七四年2012/08/12(日) 02:43:05.90ID:ZTEh3t56
高転びと予言されるだけはある 一方東北の方々はそんなことも露知らなかったとw
0948人間七七四年2012/08/12(日) 17:49:11.64ID:iaaTX/9o
基本的に武田の勢力拡大方法って「盟約・婚姻→破棄・騙し討ち」だったからなぁ

勝頼もとんでもない業を背負わされたもんだ
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。