戦国ちょっと悪い話32
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0001人間七七四年
2012/06/16(土) 10:16:13.81ID:lqw/WNsT戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話31
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戦国ちょっといい話32
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0814人間七七四年
2012/08/01(水) 16:57:27.13ID:ObEW6HMJ0815人間七七四年
2012/08/01(水) 19:34:20.94ID:1H29ZaN/羽柴秀吉が家臣を集め酒宴を開いた。このとき秀吉は非常な御機嫌で
「我が家の弓矢の勢(家臣の数)も、昔と比べて随分盛んになったとは思わんか!?」
と尋ねると、居並ぶ家臣たちは「ええ、3倍になりました!」「いやいや、5倍にもなりました」
などと秀吉に和し、これに秀吉はますます機嫌よく
「何を言うか!10倍になったわ!!」
と大笑いした。
が、ここで竹中半兵衛が声を発した。
「いいえ、我が家の弓矢は昔に比べ劣りました。」
水をさされた秀吉はとたんに機嫌を悪くし、半兵衛を問い詰めた
「どういうことだ!?何故我が家の弓矢が昔より劣ったというのか!?」
半兵衛は静かに語った
「先年、宮田喜八郎(光次)が死んで以来、羽柴家の弓矢は甚だしく劣化しました。」
「あ…」
半兵衛は三木城攻めで討ち死にした羽柴家随一の勇者、宮田光次の名を出した。
これを聞いた秀吉も、宮田のことを思い出し
「そうだ、半兵衛の申すとおりだ」
と、嘆息を漏らしたという。
(名将言行録)
0816人間七七四年
2012/08/01(水) 19:40:48.65ID:uKfc7Vum秀吉「我が家の弓矢は勢いをましたな」
官兵衛「いいえ、先年半兵衛が死んで以来衰えました」
0817人間七七四年
2012/08/01(水) 20:13:07.06ID:gTisydH0秀吉「我が家の弓矢は勢いを増したな」
某「秀なg…左様にございますな!」
0818人間七七四年
2012/08/01(水) 21:00:07.51ID:I7kHkDV+0819人間七七四年
2012/08/01(水) 21:09:06.92ID:Ljew9wdW0820人間七七四年
2012/08/01(水) 21:30:31.78ID:FBGbFxz9いや・・・あんたは自重しろw
しかし、三傑から一度は「もうこいつにはついていけねぇ」と、出奔
(小十郎は未遂だったが)されたにもかかわらず、いつの間にか
帰参している辺り、DQNの人望もパネェなぁ。
>>814
しかし、羽柴の残りの四人組の末路を見ていると、宮田も生き残っていたら
あんな目に合っていたんだろうかねぇ。
賤ヶ岳合戦以降、どうも秀吉は古参の家臣に対して、有能無能問わずに
扱いが悪くなっているんだよなぁ。
山内なんかぼやきまくっているし。
0821人間七七四年
2012/08/01(水) 23:08:15.37ID:wQ14VJFA0822人間七七四年
2012/08/01(水) 23:20:21.47ID:VGlFSC+y0823人間七七四年
2012/08/01(水) 23:24:40.89ID:GrmdYFno0824人間七七四年
2012/08/02(木) 00:41:40.34ID:g2tGJO2R種無しのちびなイエローモンキーとは雲泥の差じゃないっすかwww
0825人間七七四年
2012/08/02(木) 07:36:21.56ID:y1CKMUTe0826人間七七四年
2012/08/02(木) 10:50:12.76ID:J1mbkMnD0827人間七七四年
2012/08/03(金) 17:38:15.61ID:2HLtgDKJこの日、家康をもてなすため山海の珍味を残らず取り揃え、その上に能を
梅若太夫に申し付けた。そして舞は幸若太夫に申し付けた。
この幸若太夫の舞を徳川家康は殊の外喜んだ。これを見て信長は
「ではもう一番舞わせよう」
と、すでに幸若が下がっていた楽屋へ使いを立てた。
戻ってきた幸若は『和田酒盛り』を舞った。これは最初の舞より更に素晴らしい出来であると
信長も絶賛し、彼に金子百両、帷子五十を遣わした。
梅若にも同様の御音物が遣わされたのだが、梅若のその日の能は大変不出来で、
2度に渡りど忘れをしてしまった。
信長は後から腹が立ったのか、饗宴が終わってから梅若の泊まる宿に
「お前のその頸を刎ねてやる!!(其頸を可被成御刎)」
と、わざわざ使いを送ったそうである。
(川角太閤記)
0828人間七七四年
2012/08/03(金) 18:24:29.08ID:6EoNdPSA早速兵を集めてまいりますゆえ暫しお待ちを・・・」
0829人間七七四年
2012/08/03(金) 18:40:26.36ID:gu+iVM4A0830人間七七四年
2012/08/04(土) 00:21:03.27ID:C/r8pJwt0831人間七七四年
2012/08/04(土) 10:17:11.93ID:i11XuGZ2「信長記」だと「向後嗜もなく失念等仕候はば、頸を可レ被レ刎とぞ宣ひける」
だから、「次ミスったら殺すぞゴルァ」という念押しぽい。
ここで首飛んでたら梅若家は今はなかったろうし。
流れとしては、
・幸若頑張る。
・信長喜ぶ。
・梅若ミスる。
・信長キレる。
・幸若もう一度頑張る。
・信長機嫌直す→褒美あげる。機嫌直ったから梅若にも褒美。
・信長終わってからまただんだんムカついてきた→一言
っぽい。
0834人間七七四年
2012/08/04(土) 12:00:58.74ID:H557dgB/その場で怒ってたら家康を供応している側の自分の接待ミスにもなるから
幸若さんにもう一度頑張らせて梅若さんの失敗を帳消しにして
2人に褒美を与えてその時は穏便に済ます振りして後で叱ったって感じじゃないかな?
0835人間七七四年
2012/08/04(土) 13:26:07.85ID:L0+pEHnw0836人間七七四年
2012/08/04(土) 19:34:16.03ID:aNaivOgn0837人間七七四年
2012/08/04(土) 22:29:08.03ID:6KZRWF6B0838人間七七四年
2012/08/05(日) 10:03:46.53ID:ey+545yD0839人間七七四年
2012/08/05(日) 10:06:35.41ID:yAXPKXQK信長なりの空気の読み方なんだろう。
0840人間七七四年
2012/08/05(日) 11:19:42.44ID:ey+545yD0841人間七七四年
2012/08/05(日) 11:24:08.81ID:tQ2LIkoIやばくなったら信長に寝返った高山右近さん
0842人間七七四年
2012/08/05(日) 14:21:49.39ID:m85Bzr2k0843人間七七四年
2012/08/05(日) 16:51:10.42ID:yAXPKXQK如水と軍評定を行い、薩摩に攻め込む軍略を話し合い、先ず清正を先に立て、肥後を通って
薩摩との境、浅敷・水俣・湯ノ浦に軍を集結し、不日に薩摩に攻め入るべし、といった内容を
確認し合った。
この時黒田如水の軍勢は、彼が挙兵した頃にはおよそ9千。1万に足らないほどであったのだが、
熊谷内蔵充、筧和泉守、福原右馬充、太田飛騨守、毛利民部大輔、毛利壱岐守など西軍の将の配下たちを
望み次第に抱え、その他筑前、筑後の牢人たちが、我も我もと馳せ加わったため、今や事々しい
大軍となっていた。その上加藤鍋島も幕下に属し、如水も「この上はどんな望みでも叶う」と
面白く思っていた所、子息甲斐守(長政)より急な使者が届いた
使者は如水の前で報告する
『今度天下分け目の決戦、内府公(家康)勝利を得られ、石田治部少輔は一戦に打ち負け、
敗北し伊吹山中の民家において生け捕り。大谷刑部少輔は戦場を去らず自害。小西・安国寺は
どこどこにて生け捕り。すなわち大路を引き回され、三条河原にて獄門にかけられました。
毛利輝元・金吾中納言(小早川秀秋)は甲州様の御計略を以って裏切りをなさったため、御国御安堵。
さてまた美濃、神戸川、また関ヶ原では二度、甲州様はご自身でお手柄をなさいました。
この事やいろいろな方面でのお働き、内府様へのご忠節、人に超えたものである故、内府様も
甲州様の意向を聞かずに何事も決めないと、いかにも入念に語られました。
この上は天下静謐になりましたので、九州での弓箭(合戦)はお止めください。』
これを聞いた如水はしたたかに腹を立てて怒鳴った
「さてさて甲斐守、いくらまだ若いとは言いながら、なんと知恵のないことだろう!
天下分け目の合戦とは、そのように急いでやるものではないぞ!
何としてでも長引かせ、牢人に口過ぎをさせ、方々にて合戦があれば敵味方ともに、もし歳が行っていれば
老年の慰みとなるよう、若者は、老いてからも人として生活できるよう、武功を立てさせるように
させることこそ、人を引き回すものの役目である!
それなのに、今の状況で天下が治まっては、我が軍に集まってきた牢人たちは餓え死にしてしまう!
しかも集まってくる牢人は、一日一日増えているのだぞ!?
全く以て、物を知らぬ日本一の大たわけは、甲斐守である!!
どうしてそんな忠義立てをして、あれをくり分け、これに裏切りをさせ、それほど急いで家康に勝たせて、
一体何の利益があるというのか!まったく残念大き事である。上方が治まってしまった上は、
もはや是非に及ばず。」
そう言うと不機嫌な表情のまま、中津川の城にすごすごと引き上げた。
表向きはこの様であったが、その内意については計り難いものであった。
(古郷物語)
0844人間七七四年
2012/08/05(日) 17:25:02.23ID:lwmMR0o/0845人間七七四年
2012/08/05(日) 18:29:41.97ID:bRl2+K7Tこんな危ない奴がもし100万石持ってたら…(((( ;゚Д゚)))ガクガクブリブリ 」
0846人間七七四年
2012/08/05(日) 18:44:11.48ID:tIWtSurk官兵衛さんは先見の妙のある切れ者であるのは間違いないけど、
同時にどこまでも「戦国大名」であり「軍師」だったんだなぁ、というか。
0848人間七七四年
2012/08/05(日) 20:14:58.17ID:8klr0w7u官兵衛さん先読み力がもう少し足りなかったね
0851人間七七四年
2012/08/05(日) 21:59:40.65ID:XA+iD0hj0853人間七七四年
2012/08/06(月) 14:57:44.50ID:IWBy3ccGその経歴の複雑さはhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5455.htmlここにも出ているが
それがどんなものであったか書いてみよう
成里の父、牧野某は尾張国毛呂崎城(現愛知県知多郡南知多町師崎)の城主であった石川筑後守と、
囲碁の事で論争におよび、ついにこの石川に殺されてしまった。享年29歳であったという。
この頃成里は未だ幼少であり、父の旧臣らによって育てられ成長し、元亀二年(1571)に至って父の敵を討とうとするが、
石川筑後守はすでに年老い、家督を息子の隼人佑に譲って隠居していた。そして筑後守は成里が父の復讐を
しようとしている、という話を聞き及び
「壮年の隼人佑が家督を継いでいるというのに、老衰の私を狙うなどとは、まさしく勇気の無い行い様である!」
と嘲り笑った。このことを今度は成里は伝え聞き、
「筑後守は正しく父の仇であり、だからこそ今まで彼の命を狙っていたが、そういう事であるならこの上は
隼人佑を討つべし!」として年月を送り、大野宮川の狩場においてついにこれを討ち果たした。
この時隼人佑の家来たちが成里たちを追ってきたが、かねてから牧野成里の敵討ちのことを知っていた
滝川一益が兵を出してこれを救け、伊勢長島城に迎え入れた。
そののち、滝川一益が没落すると織田信雄に仕え、また所縁があったために長谷川藤五郎秀一に属し、
文禄元年(1573)朝鮮の役に長谷川家の一員として従い、長谷川秀一が陣中において没した時、
豊臣秀吉が
「長谷川秀一の軍勢を預かるべき者は誰が良いか?」
と諸将に尋ねると、皆が牧野成里こそ然るべきと推薦したため、成里は秀吉の命令で長谷川家の軍配を預かり
士卒を下知して各所で軍功を立てた。
帰国の後豊臣秀次に仕えたが、秀次事件の後、石田三成に属した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役において三成が敗亡すると、郎党十余人を従え包囲を突破して
池田輝政のもとに逃げ込んだ。
輝政は徳川家康にこのことを報告し、成里を扶持した。
この時彼は剃髪し名を一楽斎と改め、輝政の領国播磨に暮らした。
やがて寛永8年(1631)の徳川秀忠の上洛の時に、伏見において仰せを被り江戸に下向し、秀忠の御前に召されて
還俗して再び名を傳蔵と改め、下野国梁田郡三千石の旗本と成った。
牧野成里の、非常にややこしい履歴についてである。
(寛政重修諸家譜)
0854人間七七四年
2012/08/06(月) 16:35:02.63ID:y16USDnQ0855人間七七四年
2012/08/06(月) 17:25:48.83ID:eASKNGlM0856人間七七四年
2012/08/07(火) 06:42:02.42ID:VFpxUdEN0857人間七七四年
2012/08/07(火) 07:33:02.19ID:VpX0d1Ko0858人間七七四年
2012/08/07(火) 10:11:36.36ID:aXGL0qQ60859人間七七四年
2012/08/07(火) 12:39:06.11ID:8wvkDqSF0860人間七七四年
2012/08/07(火) 13:37:11.33ID:MKrFIbp7その宿舎には諸大名たちは言うに及ばず、越前中納言様、当時は三河守(結城秀康)からは、
日々御使者が送られ、度々自身御見舞され、懇ろに饗すという、類少ない扱いであった。
その他徳川家の御旗本衆、御近習、外様衆、更には牢人衆など、訪問者が門前市をなすありさまであった。
こういった状況を心配したのが、久しい如水の友人である山名禅高(豊国)であった。
彼は如水を尋ねるとこの様に忠告した
「諸大名衆が色々と訪問する場所がある中、あえてここに参られるというのは、一体何の御用があるのか?
人目を避けて夜から明け方まで御密談なされているという。
牢人衆の事も、一体どんな理由があって、ここに大勢入れ込まれているのか?
特に三河守殿に関しては、3日と開けず御使者を使わされ、ご自身による御見舞も度々のことだという。
私がその場にたまたま居合わせた時に見たが、三河守殿はまるで親を崇めもてなすように
心がけられていた。その様なこと、家康公にとってお気に召すはずがないではありませんか。
ご存知のように内府公は単純な人ではない。いかにも親しい体の出入りの衆の内に、内府公の横目(監視役)も
きっといるだろう。きっと内府公は、如水は面倒な相手であると思われていることでしょう。
それでは立場はどんどん悪くなり、さらにもっと大事を引き起こすと考えます。
現在、筑前守殿(黒田長政)の幸福は極まっていて、当代肩を並べる人も稀な程です。
ご自身の様子、人からの評価、内府公からの信頼、今の日本において彼よりも幸福な人は2,3人も
居ないでしょう。そうであるのに、貴老のそのほうな、現在の御作法では、筑前殿のためにも
然るべからざるものでありましょう。
ここは、同行させてきた家臣も大方国元に返され、病気療養として静かに在京されるべきでしょう。
天下が治まったというのに、『未だ治まらず』と、徳川家の御旗本が警戒しているのは、大方
貴老の事を念頭にしている事であると、世の中では申し散らしている。無論邪推ではあるが、
天に口無しとも言い、猶以て警戒しなければいけないことです。
真偽は知りません。ですが醍醐・山科・狼谷・六地蔵・宇治・その他京に近い在家に牢人であるとして、
侍たちが方々に居住しているが、これは如水が隠し置いている人数であると、もっぱら噂されています。
返す返すも大変なことだと思う。あなたはこれについて、その様に見られている事への御覚悟を
持っているのか!?」
このように繰り返し繰り返し意見した所、如水は言った
「禅高、よく聞いて欲しい。もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら、関ヶ原の折
九州において数ヶ国討ち取り、島津だけが手に入っていないは国境まで押し詰めていた。
あの時彼らを蹴散らすにしても味方に引き入れるにしても、さほど時間はかからなかったであろう。
そうして九州を掌握した上で甲斐守(黒田長政・当時)を引き取り堂々と、家康に敵対するという
我らの方針をはっきりさせて、当時中国地方、備前、播磨は空き国であったし、我々には
2万余の人数があった。これを以って陸海を押し上がり、道中牢人や侍たちを吸収しつつ、
内府との出会い次第に合戦を行えば、天下が私の掌中に入った、ということもありえただろう。
だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために、討ち取った国を捨て、下鞘一つで上洛したのだ。
特に筑前守は大国の主になったので、心安く養われ、後は後生に願いをかけているだけの状況である。
そんな私に何の用心、何の気遣いがあるだろうか!?
あなたの言ったような風聞には、このたわけ共はそんな事を言っていると聞き流し、真実とは
考えないでいただきたい。少しでも私のことを知り、会話をしたことのある人間なら、
その様に思うことはない!」
そう、扇で畳を叩き、まったく取り付く島もない有り様で主張したので、禅高も呆れてしまい
もう何も言わなかった。
やがて禅高の言ったように、京大阪の牢人に対する取り締まりが厳しくなったが、徳川家の
老中のうち黒田長政と特に親しいものより密かに連絡があったため、如水と親しい牢人たちは
俄に取り散ったという。
(古郷物語)
0861人間七七四年
2012/08/07(火) 17:41:45.68ID:bHJhD/3sこれには禅高も苦笑い
0862人間七七四年
2012/08/07(火) 18:11:04.54ID:cN9q46nx0863人間七七四年
2012/08/07(火) 18:23:38.61ID:JZirb/Sm計画が大風呂敷過ぎてネタにしか見えない。
0864人間七七四年
2012/08/07(火) 21:51:01.09ID:cFnD2V+J0865人間七七四年
2012/08/07(火) 21:51:06.14ID:86NNy1Gv0866人間七七四年
2012/08/07(火) 22:57:34.13ID:rwvlED7/0867人間七七四年
2012/08/07(火) 23:32:50.82ID:Goy/BcYj如水の現代から見ればやりすぎな計画も、
同時代人にとってはさほどおかしくはない気はするけどね
0868人間七七四年
2012/08/07(火) 23:35:40.33ID:xdocKTRo広家にそれっぽい書状を出してたな。
美濃で今月(10月)まで睨み合ってたら
中国へ切り返して一合戦しようと思ってたのに
内府の勝手になっちゃったので残念。みたいな感じ
0869人間七七四年
2012/08/07(火) 23:36:12.38ID:r2J0z4CY0870人間七七四年
2012/08/07(火) 23:44:12.38ID:7uiimwfz0871人間七七四年
2012/08/08(水) 10:35:52.16ID:eXaOyBTq主人公が黒田長政と本多正純というのも良かった。三斎様が物凄い嫌な奴で出てくるw
0872人間七七四年
2012/08/08(水) 11:34:38.62ID:EJrvxqvE風の如く、て権現様にあてはまるのか
0873人間七七四年
2012/08/08(水) 11:53:15.02ID:Mds0W+dQ地下人に金銀を下し、地子銭(固定資産税)の永代免除を発表した。
これに京都の人々はみな有難く思って喜び合い、禁裏よりは久我宰相・土御門少将を勅使として、地子銭免除が
叡聞に達し叡感を得られた旨を伝えられた。
6月10日の未明、明智日向守光秀は参内し、久我宰相を通して金子五百両、白絹百疋、
綿五百把を献上。そして奏上して曰く
「私は奸心によって信長親子を害し、不慮に天下の政道を掌握しましたが、これは天の許さないところなのでしょう。
それ故に今、朋輩であった羽柴筑前守秀吉が中国より馳上り、諸勢を尼崎に集結させていると報告を受けました。
きっとここ両3日の内に、洛外において山河を動かすほどの戦いをし、私は討ち死にをするのだと思い定めております。
今日は、今生のお暇乞いとして帝の龍顔を拝し、忝く思い奉ります。」
これに久我宰相は天意を承って、答えた
「戦の勝敗は、朝廷の関知できることではない。
しかし地子銭免除は洛中洛外の永代の厚情であり、その積善は後世の子孫にまで及ぶだろう。」
これを聞いた光秀は忝なさのあまり落涙して退出した。
光秀はその他に仙院、女院、三公、九卿、百司、女官等まで尽くに金絹を献呈した。
これこそ死後までの栄華であると、その頃言われたのだという。
(増補筒井家記)
山崎の戦い直前の、明智光秀暇乞い、という場面である。
しかし光秀の洛中洛外地子銭免除というのは、相当のインパクトのある政策だったのだと
実感させられるお話である。
0874人間七七四年
2012/08/08(水) 17:28:45.09ID:mHVSUtao柳生宗矩が剣術仕合について話しているのを傍らで聞いていた
大久保彦左衛門は突然「但馬殿、仕合を致しましょう」と言い出した。
宗矩も断る理由がないので仕合の日を約束した。
当日、宗矩は庭に砂を蒔き、仕合の用意をして待っていた。
そこに彦左衛門がやって来たのだが、彦左衛門は甲冑を身に付け、直槍を持った
物々しい出で立ちで、宗矩の方へ行って小さい砥石を取り出し、槍の穂先を研ぐと
「但馬殿、いざ参らん!」と言った。
困惑した宗矩が「これは一体どういうことです。
そのようなお姿では仕合はできません」と言うと彦左衛門はこう言った。
「それがしはいつもこのようにして仕合を致しております。
このように庭に砂を蒔いて所で、竹に皮袋をはめ、木の先に毛毬のようなものを
括り付けて人と仕合を致したことはありませぬ。
それがしはいつも山や田の中、畠の畷のような所で仕合を致して参った。
しかし、このような庭で致しても一向に構いませぬ。さあ但馬殿、いざいざ参らん!」
当然、宗矩は仕合?を断ったという。
――『名将言行録』
0875人間七七四年
2012/08/08(水) 17:47:44.17ID:wJrs8txV0876人間七七四年
2012/08/08(水) 17:50:36.94ID:cu3uAtem0877人間七七四年
2012/08/08(水) 18:00:10.69ID:Mds0W+dQ改変バージョンなんだろうな。
0879人間七七四年
2012/08/08(水) 18:32:13.63ID:XH7TY4VB0880人間七七四年
2012/08/08(水) 19:16:04.43ID:FWGx8qE20882人間七七四年
2012/08/08(水) 19:31:06.39ID:bvZQLNg7この人って失脚した人だっけ?
0883人間七七四年
2012/08/08(水) 19:54:06.01ID:eXaOyBTq上に向かって物の言える人間というのが求められていたらしく、そのシンボルとして彦左さんが注目されたらしい。
0884人間七七四年
2012/08/08(水) 20:05:19.62ID:o1YlFD6e新参の宗矩が譜代の面目を潰すわけにもいかないよね。
可児才三とどっかの武芸者なら、戦場往来の古強者が薄肌剣術の隆盛に物申すいい話になるけど、宗矩と彦左衛門だと
新参者にパワハラする老害の話になる。
0885人間七七四年
2012/08/08(水) 20:13:56.40ID:eXaOyBTq柳生宗矩に一本食らわした』という痛快な話としてのものでしょうな。
あまり難しく考えずに、一休さんのトンチ話と似たようなものだと思えばいいw
0886人間七七四年
2012/08/08(水) 20:15:49.10ID:V1MseDbzイメージで決めつけすぎ
0887人間七七四年
2012/08/08(水) 20:16:33.94ID:j4ZhLhzB0888人間七七四年
2012/08/08(水) 20:16:35.33ID:nAeyhI040890人間七七四年
2012/08/08(水) 20:55:04.80ID:Yz7ZaWV40891人間七七四年
2012/08/08(水) 22:18:15.03ID:trKb4po3まぁ、あと200年もすれば同じ扱いになるからwww
というか、幻の『民明書房』を探すことに一生を捧げる研究者がでるかもしれんぜw
0892人間七七四年
2012/08/08(水) 22:44:02.33ID:SnIlGC2o0893人間七七四年
2012/08/08(水) 23:30:27.45ID:FWGx8qE20894人間七七四年
2012/08/09(木) 00:02:31.57ID:3gqbyJV6大人げない小野忠明vs嫌味ったらしい彦左衛門
二人の対決を呆れ顔で見ている
宗矩と横田甚右衛門
0896人間七七四年
2012/08/09(木) 09:23:06.12ID:awAqdDYX0897人間七七四年
2012/08/09(木) 17:29:25.43ID:M2QzuxWM鴫野の戦いの時、上杉景勝は敵の大軍を破って勝利した。
この時、軍監を務めていた小栗忠政は、徳川家康の陣にやって来て、
戦の次第を伝えると御次の間に退いた。
そこで忠政は戦の時の話をし始めた。
「今日の戦で敵を追い討ちする絶好の機会があったゆえ、
景勝にすすめたのだが、もう日暮れだといって聞き入れなかった。
しかし、残った敵も多かったゆえ諦めきれず、直江に兵を貸せ、
わしが行くと言ったのだが、これも同じ様なことを言って断られたわい。
さてさて、残念なことじゃ」
…と言っているところに家康が入って来た。忠政の声がよほど
大きかったのか、家康は話をすべて聞いていた。
「やい、又一。お前の身分で景勝の指揮を非難するはいらざることぞ。
このたわけ者め!」
主に厳しく咎められて、流石の忠政も平伏して恐縮した。
――『徳川実紀』
0898人間七七四年
2012/08/09(木) 18:07:14.23ID:G8q1lgcT0899人間七七四年
2012/08/09(木) 19:25:12.53ID:nVNH7eNI0900人間七七四年
2012/08/09(木) 19:52:22.06ID:6ehqqsG6理不尽でめんどくさくて大久保彦左とガップリ四つに組める男なのに…
0901人間七七四年
2012/08/09(木) 20:14:45.54ID:RtLGP5if直江に「兵を貸せ」と言ってもそりゃお断りされるような…
0902人間七七四年
2012/08/09(木) 20:19:38.27ID:2zdOeasM兵を貸してはくださらぬか?」
景勝「・・・」
直江「殿は、もう日暮れなので兵は貸せぬ、とおっしゃってます」
忠政「では直江殿、貴公の兵を」
直江「わたしも、日暮れなので兵は貸せませぬな」
そりゃ同じ様な返事になるよな
0903人間七七四年
2012/08/09(木) 20:30:21.38ID:e8TeZ/K+0904人間七七四年
2012/08/09(木) 20:30:36.96ID:M+sQuYa2つまりこの発言後まもなく命に関わる負傷をしてしまう。
0905人間七七四年
2012/08/09(木) 23:00:10.53ID:8Xj1weZz「最近『甲陽軍鑑』という本を読んだが、上杉謙信が武田陣に乗り込み、武田信玄は謙信の太刀を軍配で請けた
と、書いてある。ありゃ、ウソじゃ。
わしは、あのころ会津不動院に住しておったが、武田家に祈祷師として呼ばれる事があった。
天文23年(1554)8月、わしが甲州へ檀那廻りに行くと、信玄公は信州で上杉と対陣との話。急いで川中島へ
向かい、8月17日、信玄公と対面かなった。信玄公は機嫌良く会ってくれたが、
「一両日に輝虎と合戦に及ぶであろう。ひとまず御坊は会津に帰り、来年ゆるゆると甲斐に来られよ。」
と、さっさと追い出されてしもうた。
わしも一度は帰路に着いたが、「出家の身が、大檀那の大事なる戦を聞き捨てにして去るとは、道理に合わぬ」
と思い直し、夜通しかけて立ち戻り、翌18日の合戦を、近くの山に登って眼下に見届けた。
両大将は御幣川に馬を乗り入れ、太刀にて一騎打ちに及んだが、敵味方入り乱れるうち、退いて行ったわ。
その夜、わしは信玄公の陣小屋へ見舞いに行った。信玄公は手負い、壁に寄りかかっておったが、
「御坊は帰られたと思っていたわ!」と喜んで迎えて下さった。
それを受けて、わしも
「源平の合戦以来、大将の太刀打ちなど、聞いた事がありませぬ。古今に無きお手柄にございますぞ。」
と褒めたが信玄公は、にわかに顔色を変え、
「輝虎と太刀打ちしたのは、わしでは無い。知らぬ者は信玄と見ただろうがアレは、わしに似せた法師武者よ。
わしでは無いので御坊、奥州に帰られても、左様な話は無用ぞ!」
と怒られた。が、わしは近々と見たのじゃ。なかなか見間違えるハズも無し。」
話を聞いていた横田尹松が尋ねた。
「わしも謙信公の太刀にての斬り掛けに、信玄公は軍配で受けた、と聞きましたが・・・」
「しゃっ!甚右衛門は生まれてもおらぬ時の話の、何を存ずるか!?わしは直に見たのじゃ、両大将の、
騎馬にて川に乗り込んでの太刀打ちをな。わしが45歳の時の話じゃ、間違いない。」
(上杉将士書上より)
・・・ホントですか大僧正?(天文23年に45歳だと享年133、4になるw)
0906人間七七四年
2012/08/09(木) 23:05:38.72ID:e8TeZ/K+こういう事ですね
.-、
ヽ、メ、〉 r〜〜ー-、__ ________________
∠イ\) ムヘ._ ノ |
⊥_ ┣=レヘ、_ 了 | え−−い、信玄公は軍配で受けたんじゃないっ!
-‐''「 _  ̄`' ┐ ム _..-┴へ <
| |r、  ̄ ̄`l Uヽ レ⌒', ヽ. | 川に乗り込んだんだ! 騎馬での太刀打ちだっ!!
(三 |`iー、 | ト、_ソ } ヽ |
| |`'ー、_ `'ー-‐' .イ `、  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | `ー、 ∠.-ヽ ',
__l___l____ l`lー‐'´____l. |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| .| |
|| |__.. -‐イ
|| | ノ/
0907人間七七四年
2012/08/09(木) 23:39:15.96ID:WJIhcnj10908人間七七四年
2012/08/09(木) 23:48:59.34ID:mscTs0VD0909人間七七四年
2012/08/10(金) 00:19:41.79ID:BSV3slSp0910人間七七四年
2012/08/10(金) 09:49:36.54ID:hzrsj5qo←──≪
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三本の矢
(お兄ちゃん早すぎる)
なぜか、一番上が短くみえるのは、気のせい?
0911人間七七四年
2012/08/10(金) 10:48:22.93ID:A8NxHFdf0912人間七七四年
2012/08/10(金) 11:25:12.62ID:l1z91fYL0913人間七七四年
2012/08/10(金) 12:09:59.23ID:XzAs2U1Z大坂の陣にて、塙直之が蜂須賀至鎮に夜討を仕掛けた時、
至鎮の家臣、稲田九郎兵衛は十五歳にして大功を立てたので
徳川家康から感状を下された。
この時に家康が近臣に向かって曰く、
「子に名前をつける時はきちんと考えなければならないな。
九郎兵衛はわずか十五だというのに、無闇に大人らしい名前を
つけるから散々なことになる。
何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ」
――『徳川実紀(天元実記)』
名前はよく考えろって、それなんてブーメラ(ry
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。