戦国ちょっと悪い話32
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0001人間七七四年
2012/06/16(土) 10:16:13.81ID:lqw/WNsT戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335874012/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336017262/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0461人間七七四年
2012/07/09(月) 23:30:42.60ID:eYJR7bX5本当に木曽馬見たことある?
当時の人が今より小柄だったことを除いても十分な大きさに思えるけど
ttp://wasikibajyutu.txt-nifty.com/tankyukaikousyu/2005/06/post_688f.html
ttp://wasikibajyutu.txt-nifty.com/tankyukaikousyu/images/h_2.jpg
0462人間七七四年
2012/07/09(月) 23:49:55.71ID:eYJR7bX5に追加
こっちの方が大きさがわかりやすいかも
ttp://wasikibajyutu.txt-nifty.com/tankyukaikousyu/images/h_3.jpg
0464人間七七四年
2012/07/09(月) 23:57:52.32ID:+gDcecH/0465人間七七四年
2012/07/10(火) 00:02:51.28ID:8r+KlKpX重い甲冑や武具を装備した人間を乗せて日本の山河を走り回るのには向いてない気がする
すぐに足が折れそう
0467人間七七四年
2012/07/10(火) 00:18:33.98ID:YWbNCk+lまぁ、それしかいなきゃ歩くより速いし乗るんじゃないかね〜
0468人間七七四年
2012/07/10(火) 00:27:50.79ID:luUTeGXh馬高140cm、俺より低い馬とかwww とおもってる人多そう
0469人間七七四年
2012/07/10(火) 00:43:53.80ID:qmyEtKLOヨーロッパの、それも騎士を多量に含む軍勢をフルボッコにしたモンゴル軍の馬はポニーだって事を知ってほしいところよね
0470人間七七四年
2012/07/10(火) 01:48:03.58ID:GKvmMnacあれ普通に想像するところのポニーだよね?
あれであれなら軍馬として選別繁殖されたポニーはもっとすごいと思っていいんでないの。
0471人間七七四年
2012/07/10(火) 02:02:10.40ID:YWbNCk+l0472人間七七四年
2012/07/10(火) 02:32:45.47ID:luUTeGXh勝敗は忘れたけど
0473人間七七四年
2012/07/10(火) 06:07:49.10ID:y1u+vsqrそんな騎馬隊の突撃で神聖ローマ帝国やスペインの軍隊を蹴散らしていたわけだ。
0474458
2012/07/10(火) 08:13:12.02ID:pjHhYEGa俺、木曽にある某乗馬クラブで木曽馬で外乗したことあって、
その時に乗ったのがほんとに小さかったからああ書いたんだけど、
この写真見るとけっこうデカいな。
俺が乗ったのは一体なんだったんだろう・・・
0475人間七七四年
2012/07/10(火) 09:52:35.97ID:ziTmA3Ig同じく木曽馬の乗馬経験があるけど、生まれた季節や環境で大きさが変わると牧場農家の人が言っていた
特に冬生まれは小さめの馬が多いらしい
馬も人間と同じく昔は病気にかかりやすい上に治し難いだろうし、木曽馬でも小さめの馬を想像した方がいいのかも
>>460の写真くらいの馬でも身長160前後の人間ならビール箱くらいの高さの台から乗れば余裕
0476人間七七四年
2012/07/10(火) 10:46:14.72ID:O/hL5BJFポニーに乗って戦争をしていたことはあまり知られていない
750 :人間七七四年 [sage] :2009/06/20(土) 01:07:18 ID:6UuzqP+c
中世の軍馬の大きさは、長い間議論の主題であった。伝説によれば、騎士の馬は頑丈な軍用馬であり、
これは、現代の荷馬車用の馬と同じぐらいの大きさがあったことを意味するが、そのような馬の遺物は
十四世紀以前には発見されていない。中世後期以前の考古学遺跡から出土した馬の遺物は、体高は、
せいぜい一四二・二センチであった。
J.クラットン=ブロック『馬と人の文化史』
0477人間七七四年
2012/07/10(火) 11:08:14.32ID:FxyZ0zqOhttp://youtu.be/dhRUe-gz690
0478人間七七四年
2012/07/10(火) 12:06:36.32ID:Ga/SNBAGそれでも十分に大きいと思うわさ
0479人間七七四年
2012/07/10(火) 14:05:58.28ID:SnBFkywn0480人間七七四年
2012/07/10(火) 16:13:28.21ID:36t7eALR0481人間七七四年
2012/07/10(火) 17:29:38.49ID:GYKGtBp/陸奥>>>>>>甲斐・信濃>>>>>>>>>>>>関東>>>>>>>>その他>>>>>>>>>>四国
0482人間七七四年
2012/07/10(火) 18:26:10.05ID:y1u+vsqrしかしこの作業に下人たちはくたびれ果て、その内の一人が密かにその傍らに板を立て、
そこに歌を書き付けた
『殿はまた いらぬ事をはするかなる 富士の後ろは浅間なるもの』
幽斎はこれを見て、さてさて奥ゆかしいものだと
『我もまた いらぬ事とはおもへとも ふしか見たさにするかなるもの』
なんとも雅な労使対話でしたw
(幽斎公歌集)
0483人間七七四年
2012/07/10(火) 20:14:51.50ID:oPg311dT0484人間七七四年
2012/07/10(火) 20:26:11.35ID:luUTeGXh0485人間七七四年
2012/07/10(火) 22:21:34.20ID:YWbNCk+l0486人間七七四年
2012/07/10(火) 22:48:15.54ID:5Q6gNBqq0487人間七七四年
2012/07/10(火) 23:10:03.66ID:pjHhYEGa霞むは雪に
あらざりき
我が振る太刀の
血煙と見よ
・・・吉村寅太郎が混ざってるような気がするが、
大目に見てくれorz
0488人間七七四年
2012/07/10(火) 23:17:15.05ID:TbRjk3zU0489人間七七四年
2012/07/10(火) 23:48:08.55ID:lhEUYxP9ネタにしたらまずいか
0491人間七七四年
2012/07/11(水) 18:58:11.46ID:j+NV/K6z昭和35年(1960)、新安保条約の自然成立を目前に控えた内閣総理大臣・岸信介は、池田勇人を呼びこの様に言った
「君は保守本流なのだから、党内の反主流派と付き合うのは控えなさい。僕の後は、君か栄作(佐藤栄作)しか
居ないのだから。河野(一郎)は闘将だが、一国を任せられる器ではない。
加藤清正は確かに強かった。だが、天下は取れなかった。そういうことだ。」
昭和の妖怪・岸信介が清正を例えに出したエピソードである。
0493人間七七四年
2012/07/12(木) 04:21:18.92ID:jcIeA/hr岸信介その人は武将に例えると誰になるのかな?
能吏でもあり大国の後ろ盾があって好き放題wやったあたりは小西だけど
ありゃ天下取れんかったからなぁ
0495人間七七四年
2012/07/12(木) 18:27:26.05ID:IPTk1YZ90496人間七七四年
2012/07/12(木) 19:33:41.80ID:L9e0S6TR細川頼之、本多正信が浮かんだけど
やっぱり違う気がする。
0497人間七七四年
2012/07/13(金) 01:50:25.87ID:lu8jwE5kうーむ…
0498人間七七四年
2012/07/13(金) 06:57:36.96ID:BpbQITHP能吏とかどうかは、まず置いといて
家康のように天下を取れる位置にいることが大事ってことでしょうか。
0499人間七七四年
2012/07/13(金) 08:13:12.28ID:VotxM4Wd岸信介は佐藤栄作とのエピが好き
安保改定の夜「首相が死ぬのは首相官邸だ」と避難の勧めを無視して官邸に残る岸。
「兄貴を一人で死なせる訳にはいかない」と一緒に官邸に入る佐藤。
0500人間七七四年
2012/07/13(金) 08:59:32.92ID:Wh0Vg5KI0502人間七七四年
2012/07/13(金) 16:58:36.65ID:vZ+OKWof歌を詠めない家臣なんて、斬られちゃいますよ。
0503人間七七四年
2012/07/13(金) 17:45:49.86ID:eE4HtCGb0504人間七七四年
2012/07/13(金) 18:18:36.92ID:lu8jwE5k0505人間七七四年
2012/07/13(金) 18:55:11.11ID:HGlidSbK0506人間七七四年
2012/07/13(金) 20:01:51.45ID:rf3Ug6Rg豊後国の大身の一人の兄弟にて、名を式部殿と呼ぶ武士がこの場所にあって、ことごとく説教を聴き終わった後
洗礼を受け、バスチャンという名を与えられた。
翌日彼はパードレ・ペロ・ゴメスと日本人イルマン一人を伴ってその家に帰り、直ちにその妻と家族及び
家人一同に説教を聞かせ、約80人に洗礼を受けさせた。
また、このパンタリヤンの城において、偶然彼を訪問していた青年武士が一人キリシタンとなった。
彼については特に報ずるべき事件が起きた。
シマンと名付けられたこの青年は、説教を聞くと熱意に満ち、偶像を崇拝していた過去を恥じて、次の手段によって
これを改める決心をした。すなわち洗礼を受けた後、その家に戻らず、直ちに領内の町村に行って、同所にある
寺院に火を放ったのだ。
この事は突然行われたので、坊主も俗人も驚き、火災が甚だしいため、住民は彼が豊後の王(大友宗麟)に叛いたか、
あるいはその地が敵の手に落ちたものかと考えた。
彼は領内にある、彼の父の兄の寺院に至ると人を遣わして、
「私は既にキリシタンになったことにより、その領内における神仏の愚行を容認することが出来ない。
しかしこの寺院は叔父上のものであるのであえてこれを焼却しないが、叔父上が自ら命じてこれを焼き払われる
事を望む」
との旨を伝えた。叔父はこれに返答をせず、異教徒である親類及びその兵士とともにこの寺院を守る決意を固めた。
この叔父の態度にシマンは大いに怒り、彼を殺すことを決心し、必ずその首を取ると言い放った。
叔父は偶像崇拝の保護者たる親賢(田原親賢:大友宗麟の妻奈多夫人の兄。反キリスト教)に頼り事の顛末を
伝えた。この事は神仏を守ることであると田原親賢はこの要請を引き受け
「怖れるには及ばない!私自ら保護に当たろう!」
と宣言した。それでも青年は叔父を殺す決心を動かさず、また田原親賢は既に約束した事によりこの叔父を守ろうとした。
しかしその田原親賢の婿であるパンタリヤン(田原親盛)は、こと信仰に関することであるので青年に好意を寄せ、シマンの
許に人を遣わして、この問題においては感情的にならず、道理によって処置すべきだ。もしその結果によってあなたに
見の危険が迫ることがあれば生命をかけて防ぐ。そう伝えた。
(中略)
その後パンタリヤンはパードレ・ペロ・ゴメスに使者を遣わし、シマンとその叔父のことは既に解決し、二人の裁判官を定め
その正当と認める所に従うよう伝え、裁判官たちは田原親賢が約束を破棄し叔父を保護せず、またこれを臣下とせず
国外に追放し再び入国することを許さず、その所領の半分を没収し、残りの半分はその子に与えると決定した。
その後パードレはシマンがその家臣約2000人をキリシタンにしようと切望していると聞いた。しかし全員をキリシタンにすれば
労役者が不足するので来れをするのは不可能であった。(キリシタンは労役義務を免除されていたようだ)
シマンは信仰のことに甚だ熱心であり、たとえ世子(大友義統)が反対の命令を下しても、既に説教を聞いた上は
必ず洗礼を受けると言い、ついにこれを受けた。』
大友宗麟の時代の、豊後で起こったキリスト教絡みの騒動の一つである
(天正12年・日本耶蘇会年報)
0507人間七七四年
2012/07/13(金) 22:20:50.32ID:eeBMNuSJ同情した長政は内府(家康)に助命を請うか尋ねると行長は答えた。
「私はもはや命を重んじていない。キリシタンの教えが禁じていなければ切腹するのは
容易で私は自分の罪に対してどのような死を与えられようとも甘受する用意がある。
私が貴殿に願いたいことは自分が告白するのに一人の司祭バテレンに会えるよう尽力してほしい」
0508506 小西行長の話の続き
2012/07/13(金) 22:24:08.67ID:eeBMNuSJ黒田長政は内府の許可を得られるよう全力を尽くすと約束した。しかし、内府の家康は
司祭との面会を許さなかった。バテレンの司祭たちはあらゆる手を尽くしたが、面会はかなわず、
小西行長は処刑されてしまった。
家康はキリシタンの告白が何のことかわからず、何らかの欺瞞ではないかと思ったので、
司祭たちに面会の許可を与えなかったのだ。(イエズス会年報集)
0509人間七七四年
2012/07/13(金) 23:39:26.91ID:rf3Ug6Rg(上略)…また、モンセニュール・ド・セルケイラは、公方(徳川家康)に謁見することがあって、これにより公方は
宗教のことに関してますます寛大となられた。
この司教、日本に到着して以来、迫害、内乱、そして公方によるこの帝国の統一と厳重なる施政の展開があり、
この間、彼は長崎から動くことが出来ず、また自由に司教の職務を果たすことも出来なかったが、
ここに至って事態が好転したことを認め、この国の主権者に拝謁する計画を立てた。
エチアム(小笠原一庵為信)という朝廷(幕府)の重臣の一人はこれより前に、ポルトガル関係事務の監督官として
長崎に派遣されていたのだが、司教に助力することを申し出、ついにその謁見の許可を得た。
司教は多くの師父、及び法兄弟と共に直ぐに上洛した。大阪に至ってエチアムが用意した一艘の川船に乗り
エドガワ(淀川)を上って京都にいたり、師父の家に宿泊した。
大阪においても、またその途上においてもいたるところでキリスト教徒は群れをなして駆けつけ、司教に
服従の意を表し、京都に至るときもまた同様にて、キリスト教は尽くその権利を回復せし観があった。
モンセニュール・ド・セルケイラは司教の服を着け謁見のために出発したが、駕籠のまま宮殿の内部に
入ることを許可された。これは最大の諸侯でなければ与えられない特権であった。
公方自らも礼服を着用し、最も厚く司教を待遇した。
次に、その平常の居城である伏見の宮殿、及び城と、京都の城(二条城か?)とを司教に見せるべしとの
命を下し、また日本国中で最も壮麗である同地の諸寺院を見せた。
司教はこの滞在を機として、キリスト教徒を最も厚遇している諸侯であり、君主の寵臣たるカンズケ殿(本多上野介正純)、
及び京都の知事板倉殿(板倉勝重)に謁した。この両人は共にキリスト教の重要な保護者である。
司教はまた甚だ多くのキリスト教徒に、堅信の秘跡を授ける機会を得た。
帰途、豊前候エッツーン殿(細川越中守忠興)に、同国の首都小倉にて謁見したが、候は彼に、司教によるミサ聖祭に
臨席する許可を求め、キリスト教及び宣教師に対する保護が決して覆ることがないと、司教に確信させた。
また司教は後で、候自らもその心中においてはキリスト教徒であり、未だ神聖なる洗礼こそ受けられていないが、
候を以って神霊上の子の一人と認めざるをえないと言われた。
候が自らキリスト教徒であることを宣言し、かつ洗礼を受けることが出来ないのは、公方が諸侯のキリスト教に
改宗することを禁じたために、その意に従わざるを得ないためなのだ、とも付け加えられた。』
本多正純と板倉勝重がキリスト教の二大保護者だったり、細川忠興をキリスト教徒認定してたり、
本国への報告のためか、どうも希望的観測すぎないかと思わざるをえない記録である。
(パジェー日本耶蘇教史)
0510人間七七四年
2012/07/14(土) 00:36:10.05ID:bL+LifhN0511人間七七四年
2012/07/14(土) 00:59:02.57ID:CLucpikP0512人間七七四年
2012/07/14(土) 02:25:15.98ID:clULgAfH妄想補完とキリスト教上げが多すぎて何が本当なのかわからん
歴史とか言いつつも、結局は布教活動用の資料の粋を越えてないと思う
0514人間七七四年
2012/07/14(土) 14:40:17.22ID:fDVg0WLL馬から降りて戦うのは西洋でもそんな珍しいことではなかったようですよ
というか常に馬に乗ってなんてモンゴル軍みたいに潰れてもいいように予備の馬何頭も連れてるような場合でないと難しいみたいで
まあフロイスさんは幼少期をスペイン宮廷で過ごして成長してインド、日本で主に生活してた人なんだから
日本の現実よりむしろ西洋の現実のほうを知らないと思う・・・
0515人間七七四年
2012/07/14(土) 21:43:39.02ID:dHBxf5HS享禄4年、細川高国・浦上村宗と、細川晴元・三好元長・赤松政村(晴政)の間で合戦の火蓋が切られようとしていた。
そして、6月4日、三好方の諸勢が、打出、天王寺、木津、今宮に攻めかかった。
大物(だいもつ)崩れの戦いである。
細川高国はここを先途と防戦したが、その先鋒を務める浦上勢は小勢であったために敗れ、浦上村宗は討ち死にしてしまった。
村宗の臣・島村弾正(貴則)はこの事態に「無念なり!」と叫んで敵を引っつかみ、野里川の淵に飛び込んで死んでいった。
この時以来、彼が死んだ淵では甲羅に武者の顔のあるカニが見られるようになり、今に至っている。
周辺に住む者は、このカニのことを「島村蟹」と呼んでいる。
(足利季世記)
島村蟹とは、標準和名「ヘイケガニ」のことである。
遠浅の干潟でも見られるというこのカニは、そのインパクト抜群の姿のために様々な地方名を持っている。
江戸時代後期の『本草綱目啓蒙』という書物には、島村蟹の他にも、長田蟹(元ネタは「主をきり婿をころすは身のおはり むかしはおさだ今は山しろ」の長田忠致)、
清経蟹(平清経)、武文蟹(太平記の登場人物・秦武文)、治部少輔蟹(石田かどうかは不明)というようなものが挙げられている。
0516人間七七四年
2012/07/14(土) 21:44:54.44ID:dHBxf5HS例えば、昆虫では、ジョウカイボン(浄海坊=平清盛。火傷のような炎症を起こす別種の有毒昆虫と混同され命名されたらしい)
トウゴウヤブカ、トウゴウカワゲラ(東郷平八郎)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)、オオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)
(外人の研究者が名付けた「学名」を「和名」に反映させている)
魚類では、キントキダイ(坂田金時)、クマガイウオ、アツモリウオ
(それぞれの体色に由来)
シュンカンハゼ(俊寛僧都)、タメトモハゼ(鎮西八郎為朝)、ベンケイハゼ
(それぞれの標本の産地(薩摩硫黄島の対岸、運天港の近く、田辺湾)+容姿に由来するらしい)
等があるようです。
戦国時代の人物にちなんだ標準和名の動物とか、いかにもありそうな気がするけど・・・
タメトモハゼ「魚類に限って言えば、小耳に挟んだことも無い!」
まあ、変化球でアカハチハゼ(石垣島の豪族・オヤケアカハチ)とか、
伊達者という言葉に由来するという、お洒落な縞模様のダテハゼなんてのがあったりしますが。
0517人間七七四年
2012/07/14(土) 21:48:23.09ID:poa2keyKサナダ虫「・・・」
0518人間七七四年
2012/07/14(土) 21:49:17.96ID:poa2keyK0519人間七七四年
2012/07/14(土) 22:13:24.40ID:dHBxf5HS魚類くらいしか把握できてないもので、完全に忘れてた。
サナダムシ
形状が真田紐に似ていることからその名が付いた。
また、一説では徳川家康がサナダムシに苦しんでいた事から
「真田は虫になってまでもこの家康を苦しめる」と嘆いた事から家康が名付け親と言われる事もある。
あと、地方名なら戦国の人名由来のものは色々ありそうですね。
0520人間七七四年
2012/07/14(土) 23:26:49.08ID:KkSrYP1x話の本筋からは離れるけど、
いわゆる「大物崩れ」って戦の範囲がえらく広範囲に及んでるんだけど、
これってどう解釈したらいいのかな?
細川浦上連合軍が西宮の神呪寺に布陣してた赤松勢に
背後から襲われて総崩れになったことになってるんだけど、
天王寺や今宮のあたりから大物まで延々と布陣してたなんて考えづらいし・・・
0521人間七七四年
2012/07/15(日) 00:17:39.65ID:PKmFApoL『後鑑』収録分を使ったので前後の文章が分からないけど、
ただ単に『足利季世記』作者の誤解または故意で、数ヶ月にわたる一連の戦いを
一日のものとして描いてるだけじゃないのかな?
0522人間七七四年
2012/07/15(日) 06:08:15.45ID:73R7Butz(~)
γ´⌒`ヽ
{i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ´・ω・)
(V) (V)
し─J
0523人間七七四年
2012/07/15(日) 10:03:56.86ID:jLTHAmro0524人間七七四年
2012/07/15(日) 11:31:50.35ID:JUJOLVZM0525人間七七四年
2012/07/15(日) 19:15:41.05ID:SJCrnKFzある時には蝋燭は数本だけで残りは油火ばかりという徹底ぶりで日頃から
家人たちも厳しく言われていたらしい。
ある時、成瀬正成と松平正綱が急ぎの連署状を書くために坊主からわずか
二、三寸の蝋燭を請い得て連署状を書き、その場を離れた。
この時、二人はうっかり火を消し忘れた。見回りが蝋燭を見かけると
坊主は呼び出され「上様が御覧になったらお咎めになるぞ。何故消さない」
と叱られてしまった。
「いや、これは隼人殿たちが…」と、坊主が説明しているところに消し忘れに
気付いた二人が戻ってきた。
「お前たち、消し忘れに気付いていたなら何故消さない」
坊主はまた叱られてしまった。
0526人間七七四年
2012/07/15(日) 19:35:21.66ID:jy7EbxNU一般人は使ってなかったんじゃないかな?
水戸黄門とかの時代劇だと農民でも使ってるけど
0527人間七七四年
2012/07/15(日) 19:35:48.56ID:SmZeOzs00528人間七七四年
2012/07/15(日) 19:46:21.38ID:rZBNcugHそして肝心の消し忘れはそれと気付いているのに消そうとしない
この見回りは一体誰でしょうな
0529人間七七四年
2012/07/16(月) 00:11:35.33ID:O8eaPXUR0530人間七七四年
2012/07/16(月) 08:10:27.90ID:uN8vUu/G0531人間七七四年
2012/07/16(月) 09:21:53.41ID:AKgEYPKZ坊さんマジ踏んだり蹴ったり
0532人間七七四年
2012/07/16(月) 10:31:26.98ID:qMOzFLgo0533人間七七四年
2012/07/16(月) 20:08:41.44ID:zifDkflFあんま関係ないけど、スカシカシパンとかのカシパン類って昔は「桔梗貝」って呼ばれてたそうだが
明治の学者が菓子パンからカシパン類なんて権現様のようなネーミングをしたせいで今に至るという・・・
05341/3
2012/07/16(月) 23:46:54.86ID:LdB3vkF6主君の真田信之に似た(?)のか、広大な屋敷地を拝領したは良いが、敷地にぐるりと竹垣を巡らして他人の
出入りを禁じ、季節ごとに行う垣根の補修も人足を雇わず、中間や領民をコキ使っていた。
「そんな中で八助よ、お前はこの右近の心に叶い、律儀に働いてくれるのう。」
「へへーっ!有り難うございます。」
「よし、この際だ。お前に加増してつかわす。年末を楽しみにしておれ。」
そして、その年の暮れ。右近に呼び出され、ワクワクして主人のもとにまかり出た八助の前に、
年給と別の包みが差し出された。「そら、加増分じゃ。」
包みには銭が百文、入っていた。
「・・・・・・」
「なんじゃ、その顔は。あのな、我が殿は十数万石の大名なれど、侍の加増は十石二十石よ。それを思えば、
わしなんぞが百文の加増をつかわすなど、おびただしき事ぞ。有り難く思えよ。」
「・・・・・・」
05352/3
2012/07/16(月) 23:47:52.71ID:LdB3vkF6餅が間食に・携帯食にと、年中作っておくのが当たり前だった時代に『米の費えが、かさむ』と
正月以外は餅つきを許さない、という有様だった。
若党八人、中間等二十数人、下女等十数人を使い、若い者も多い右近の家中がそれで収まるはずもなく、
見かねた右近の妻が用人の一場太兵衛に命じて、深夜二時ごろにコッソリ餅をついて配っていた。
さて、右近は毎朝五時に起きて支度し、六時に食事、家内の所用・指示を済ませて八時に登城、という
規則正しい生活を送っていたが、ある日のこと、餅をつく音に気づき、深夜目覚めてしまった。
「太兵衛よ、あれは何の物音じゃ?」
「・・・ははっ、あれは中間どもが、薪を割る音にございます。」
「こんな遅くまで働いておるとは感心だのう。中間に酒を振る舞ってやれ。猪口で三杯、な。」
太兵衛に振る舞い酒を命じた右近は再び眠ると、翌朝はいつも通りの規則正しい生活に戻り、登城していった。
「太兵衛、旦那様はもう、ご登城されましたか?」
「はっ、奥方様。」
「よろしい。では、あとで皆に酒を振る舞ってあげなさい。茶碗や木椀で、ね。」
「はっ、奥方様。」
05363/3
2012/07/16(月) 23:48:41.38ID:LdB3vkF6それなりの給金を出して中間等を雇ってはいたが、金銭・物品の出し入れの細部に至るまで右近の監視を受け、
『どうにも気が詰まる』と、年季が明けるとすぐ辞めてしまい、二年と雇われる者は稀だった。
「そんな中で八助よ、お前は良く続けて働いてくれるのう。」
「そりゃあ、一応加増していただいておきながら、人並みに辞める、なんてマネはできませんや。」
「うーむ。その心意気、見事!これをくれてやろう。着物の一つも作るが良い。」
右近が褒美として八助に、目にも鮮やかな反物を与えてやった、しばらく後のこと。
「どうじゃ八助よ、あの反物は仕立ててみたか?」
「・・・はっ。」
「歯切れが悪いの。・・・まさかお前、主人からの拝領品を売ってはおるまいな?仕立てた着物を持って来い!」
さっそく八助は、仕立てた着物を着込んで戻ってきた。
「なんじゃ、その着物の丈は。ツンツルテンではないか。やはりお前・・・」
「い、いえ!この通り!」
八助は懐から一尺四寸ほどの、着物と同じ柄の手ぬぐいを取り出して見せた。
「それでも、これほど着物が短くはなるまい。有り体に申せ!」
「お、恐れながら!」
八助が前をくつろげた。そこには着物と同じ柄の、目にも鮮やかな六尺フンドシが締めこまれていた。
「・・・なんちゅうケチじゃ。お前のような者は日本に二人とおるまい。」
『流石質素の右近も、此八助には及ばざると思ひたるとみえたり』と、真田家御事蹟稿は結んでいる。
0537人間七七四年
2012/07/16(月) 23:54:08.96ID:kx+wRB9H0538人間七七四年
2012/07/17(火) 00:50:05.76ID:+GMXheMFあと柳生新陰流は松代で披露したんかね?
0541人間七七四年
2012/07/17(火) 12:14:55.73ID:QOJ15MRf0542人間七七四年
2012/07/17(火) 12:25:52.98ID:QOJ15MRf忘れてください
0543人間七七四年
2012/07/17(火) 18:29:53.43ID:jpO8CV/W0544人間七七四年
2012/07/17(火) 20:53:29.45ID:DiOFImt+0545人間七七四年
2012/07/17(火) 21:48:59.41ID:3+YgdTAA信州っ子はしらんが
0546人間七七四年
2012/07/17(火) 22:12:20.34ID:YDLOSd8z0548人間七七四年
2012/07/18(水) 06:11:28.25ID:zs54iqdY> 569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 22:18:22.12 ID:BJDZhdpE
> 「黒田家譜」の毛利輝元の扱いが酷い件
> 登場人物が次々にダメ出ししてゆく、不幸な立ち位置
>
> 孝高「輝元は天下の主たるべき器量ではありません」(小寺政職に)
> 「輝元は大身ですが、天下をとるべき力量などありません」
> (宇喜多直家に)
> 「どうして、輝元が天下の主になれるでしょうか?」(別所孫右衛門)
> 「あの輝元も隆景のおかげで、今までは見事に見えていたのだ」
> (隆景の死に際して)
>
> 隆景「輝元を天下の主にするなら、たちまち天下を失うだけでなく、
> 毛利の家も滅亡してしまいます」(吉川元春に)
> 「輝元は天下を保つべき器量にあらず」(隆景遺言)
>
> 家康「輝元は愚かではあるが頼もしい人だ。石田が秀頼のためと称したのを
> 信じて味方し、家を傾け破ったものの、他の人とは違って
> 私的な野心などなかったのだから」(関ヶ原のあと)
>
> 「輝元は天下をとる器量にあらず」―大事なことなので皆で何回も言いました
> 570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 23:05:50.99 ID:P/DLDS1d
> 細川書状の「あいつ生まれつきバカだから・・・」な毛利秀就評よりはましと思えば・・・
【合子形兜】 黒田孝高総合スレ 2 【圧切長谷部】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293800734/
0551人間七七四年
2012/07/18(水) 08:24:14.72ID:4xiXU/nk家康にして毛利残してもいいか。って思わせた訳だし。
0552人間七七四年
2012/07/18(水) 09:32:25.84ID:rqzLch3R一方毛利輝元は馬鹿で家を守った
どうしてこんな差がついた…
0554人間七七四年
2012/07/18(水) 11:25:38.41ID:9irL3ZNz0555人間七七四年
2012/07/18(水) 11:42:40.71ID:FGZjr13xそりゃー一般ピーポーに比べるならそうだろ、というかホントにボンクラだったら家残せんだろうw
でも、関ヶ原の際に私的な野心が無かった、ってのはひじょーに疑問が残るw
0556人間七七四年
2012/07/18(水) 12:42:56.40ID:35oWiEoP東軍総大将の権現様の経歴考えたら普通に固辞するだろ
0557人間七七四年
2012/07/18(水) 12:53:54.11ID:IhImhVkT0558人間七七四年
2012/07/18(水) 12:57:02.76ID:bdjR7Vzr■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています