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戦国ちょっと悪い話32

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0001人間七七四年2012/06/16(土) 10:16:13.81ID:lqw/WNsT
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335874012/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336017262/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0426人間七七四年2012/07/08(日) 20:59:59.22ID:a2+ZtMI9
>>423
現代人的には80cmでちょうどいいと思うけど戦国時代なら体も小さいし長過ぎたんじゃないの

0427人間七七四年2012/07/08(日) 21:07:24.24ID:qE3zdK9J
>>424
そんなこと三斎さんの前で言っちゃ大変だぉ!
0428人間七七四年2012/07/08(日) 21:08:10.09ID:sowdps6P
>>425
南北朝時代には刃渡り1メートル超は普通で、中には刃渡り2メートル近いものまである。
しかも実際に使ったらしいw
0429人間七七四年2012/07/08(日) 21:09:41.56ID:XX825fYu
南北朝の頃は馬上で剣使うのが多かったんじゃなかったっけ
戦国時代だと馬上では槍か弓だろうけど
0430人間七七四年2012/07/08(日) 21:34:30.49ID:2TynslHt
>>420
誤用の方の泣いて馬謖を斬る的な涙すっか 
0431人間七七四年2012/07/08(日) 22:44:50.46ID:FNk8734A
呉用「孔明より優れた軍師の私ですが、馬謖を斬ったおぼえはありませんが」
0432人間七七四年2012/07/09(月) 00:32:31.12ID:eINvvjVN
>>427
そもそも馬の上で戦えたのだろうか…
上野動物園にいるあの馬じゃなぁ……かわいいけど。

フロイスさんによると、日本の武士は馬から降りて戦ってたらしいし。
0433人間七七四年2012/07/09(月) 00:38:07.39ID:799uObyX
南北朝までは普通に馬上で戦ってたのでは
0434人間七七四年2012/07/09(月) 01:02:47.67ID:eE5VRbpf
>>430
うっかり軍師さんは巣へお帰り下さいw
0435人間七七四年2012/07/09(月) 02:47:27.23ID:yBR6ytM1
>>431
戦国時代の武士は、な
この時代は戦国期に見られるような雑兵の大量投入はまだ常態化してないからな

同じ武士でも戦国時代の武士と求められる役割、装備、戦い方が全く違うから、
同じに考えないほうがいいよ
0436人間七七四年2012/07/09(月) 02:58:41.05ID:4gse2Vjx
>>431
動物園にいるポニーって、ポニーの中でも小さい種だからな?
いろんなスレでさんざん語られてることだけど、ポニーってのは肩からの高さが147センチ以下の馬で、モンゴル馬も日本の馬もこのサイズ。
モンゴル戦士が馬上戦闘できなかったなんて話はなかろ?
0437人間七七四年2012/07/09(月) 03:13:15.83ID:L3BgnyPd
>>431
鎌倉武士なんて訓練メニューが騎射三物(犬追物・笠懸・流鏑馬)だよ
揺れる馬上からの精密射撃
0438人間七七四年2012/07/09(月) 08:54:45.81ID:sexqfhfJ
武芸を鍛えた馬上の鎧武者って平和な時代だからこその理想だよな
戦いが長期化すると雑兵の大量動員で武芸なんか吹っ飛ぶ
0439人間七七四年2012/07/09(月) 10:38:04.69ID:wd6ZpNy3
弱い軍勢って雑兵だらけなんだろ 負けだすと一気に崩壊潰走
0440人間七七四年2012/07/09(月) 10:55:30.36ID:hLB8/V2D
だからこそ、士気が大事なんだと思う〜
0441人間七七四年2012/07/09(月) 11:06:17.38ID:eIwt2ARS
雑兵を督戦して士気を保ってるのが武芸ある武士だと思う〜
0442人間七七四年2012/07/09(月) 14:41:10.36ID:hoV6wWRT
南北朝の太刀が、もうちょっと残って欲しかったなぁ
お腰の大小としてフィットするコンビニエントなカターナーではなく、
もっとビッグでラージなロマンをもっとですねぇ
0443人間七七四年2012/07/09(月) 16:20:42.88ID:J24mNdZN
上野動物園には木曽馬もいるようだけど、見た感じ現代人が乗ってもなんとか大丈夫そうには見えたぞ
0444人間七七四年2012/07/09(月) 18:08:00.56ID:6qT2wHWU
>>438
雑兵だらけでも規律がしっかりしてるところは強いよ
0445人間七七四年2012/07/09(月) 18:46:57.43ID:v1qOjcae
三河あたりだと足軽でもめんどくさいんだろうな
0446人間七七四年2012/07/09(月) 18:47:09.15ID:eIwt2ARS
例えば?w
0447人間七七四年2012/07/09(月) 19:44:27.90ID:eIwt2ARS
規律がしっかりしてるって 誰がその規律を守らせるかって話だ
雑兵軍団が強いわけないだろ
0448人間七七四年2012/07/09(月) 19:46:24.87ID:S41Xn4BV
彦左をdisる足軽とか?まぁ〜芝良太郎は足軽処か侍大将すら中間にdisら瀬田ケドネ 
0449人間七七四年2012/07/09(月) 20:21:34.41ID:Um77HLya
ルイス・フロイスが、とある人物を熱情を込めて語っている、
永禄12年(1569)12月17日付、日本耶蘇会年報の一節を見てみよう

『私が次に述べたいと思う事を一層明瞭にするため、先ず私が語ろうと思う人物について述べる必要がある。
キリシタンらが、当諸国(日本)においてあだ名を日本のアンチキリスト、又は肉体に宿りたるルシフェルと
称し、思慮ある異教徒は庶民の欺瞞者と称する坊主(朝山日乗)である。

彼は下賎の者にして、背は低く、甚だ醜く軽蔑すべき人物であり、日本の宗教も知らず、また学問もない愚人であるが、
悪魔がその悪事を行うために発見した、最も彗敏な道具である。
彼は談話に巧妙であり、雄弁においては日本のデモステネスである。

彼は妻子があったのだが、貧窮であるためこれを捨て兵士となったのは、未だ多くの年を得ない程度の
以前の話である。そうして武芸によって多数の人を苦しめ、また殺した故に恐怖して服装を変えた(僧になった)
が、その習慣を改めることはなく小羊の皮をかぶって僧侶になったのだ。

諸国を廻りアマンゴの王(尼子晴久)に対し反逆を行い、山口の王(毛利元就)の元に逃れ、釈迦より
「汝を日本の宗旨を改革し、また内裏を往時の名誉、地位、権力、および富貴に復する道具となす」
との夢想を得た、と称し、熱心を装って広くこの事を伝えた。

彼が8年もしくは10年前、当地(京都)において一片の金襴を購入した事は、都のキリシタン等の記憶する
ところであるが、彼は他の遠国に行き、各村落において、「これは内裏より賜った衣服である。
記念品としてあなた方に分けよう」と言い、各人小片に対し、その資力に応じて、あるいは1クルザード、
あるいは2クルザード等を彼に与えたのだ。彼はこれによって多額の資金を得、山口に寺院を建て数人の弟子を
集めた。この頃他にも千種類もの詐欺を行い、悪行のため一つの場所に落ち着くことができず、
シャンニンシウ(三好三人衆)が公方(足利義輝)を殺した弾正殿(松永久秀)を奈良の城(信貴山城)に
囲んだ時、弾正殿の裕福なことを知って、窮地にあるが故に金銭を与えてもらえると思い、山口の毛利より
弾正殿に宛てて『直に士卒を動員して赴き助けよう。三人衆が滅亡した場合は、日乗上人と称する坊主と協議
するべし』と認めた書簡を得た。

しかしデウスの御裁断により、三年前、私が堺に滞在していた時、彼はそこにやって来たが、三人衆の間者が
反逆の書簡と共に彼を捕らえた。
彼は書簡のことは知らないと言いはったが、篠原殿(長房)は堺の寺院において厳しく鞭を打たせた。
そのうちに山口より書簡が来て6,7千クルザードを送り、彼を赦免することを求めてきたが、篠原殿は
これを受け付けず、マラバルのボレヤ(南インドの賤民)の如き、日本の最も卑しき民族である穢多に
引渡した。彼らは死んだ獣類の皮を剥ぎ、また死刑囚の首を斬ることを職業としていた。

摂津国西宮と称する地においてこの人々に彼を渡したが、首に鉄枷をかけ、手足は縛られ、動くことの出来ない
状態で重罪者の牢に入れ、番人に彼に紙や墨を与えることを禁止させ、食料も大いに制限させた。
彼は釈迦の作ったフォケキャウ(法華経)8巻を前に置いていた。

私の記憶に間違いがなければ、篠原殿の用務を帯びてダミヤンをコシミネの城(越水城)に遣わした時、
彼の偽善した神性を装う姿を見た。その後、私が牢の門を通過した時、アントニオは彼の入れられた厠に入って
これを見た。ところが彼を捕らえた者は、悪魔の下僕であったために、毎日彼らの言うところの談合をなし、
地獄において彼の苦痛を増すため首を斬ろうかと協議していた所が、彼の狡知により、内裏よりその赦免を
求めるに至り、彼の死を希望する多数の異教徒の意向に反し、これを釈放したのだ。

信長が再び公方様を立てるため上洛した後、内裏はこれもまた、不幸および貧困より興起する好機を
得るべき時と見、この日乗上人を仲介者とした。同人の人間的知慮は彼に信長の寵を得させ、その後あえて
その側を去ることはなかった。これによって彼は、悪魔の如き傲慢悪意の翼を広げたのだ。』

以上、ルイス・フロイスによる朝山日乗の解説である。これでもかと言わんばかりに徹底的に悪様に
書いているが、ここまで波瀾万丈だと本当なら逆に不世出の大宗教人ではないか、とすら思うw

(日本耶蘇会年報)
0450人間七七四年2012/07/09(月) 20:22:55.47ID:4DND2Yzr
>>446
黒田のご隠居が関ヶ原の時に金ででっち上げた軍勢って数多いけど弱そうだよね、大友義統にちょっと苦労したし
0451人間七七四年2012/07/09(月) 20:33:51.64ID:H2a8va+d
ここまで嫌われるとは…
よっぽど脅威だったんだな
0452人間七七四年2012/07/09(月) 20:36:51.32ID:MKG8FPPh
フロイスフィルタさえ取り除けば貴重な逸話だね
0453人間七七四年2012/07/09(月) 20:45:00.72ID:lmjgjXfe
>>442
長野だか山梨だか忘れたけど、いまでも木曽馬で騎射イベントしてる乗馬クラブあるよ
たしかようつべに映像があったはず
0454人間七七四年2012/07/09(月) 21:05:55.15ID:yBR6ytM1
フロイスが日乗が嫌いなのはよくわかったwww
0455人間七七四年2012/07/09(月) 21:29:12.46ID:Z8GAcVoL
ルシフェルに体を乗っ取られた仏僧ってのも斬新だな
0456人間七七四年2012/07/09(月) 21:57:49.96ID:D9xrLaL5
狐憑いてんじゃね?って大名とかどうよ
0457人間七七四年2012/07/09(月) 22:51:03.34ID:84jaUo1D
日蓮宗は他宗教に排他的で一神教みたいだから
フロイスも危機感というか同族嫌悪を感じたんだろうな
0458人間七七四年2012/07/09(月) 23:00:52.02ID:7RLViAzf
ってか、毛利が京に出兵して松永を助けるってどんな世界線だ
0459人間七七四年2012/07/09(月) 23:14:56.05ID:tGmYUv6T
まさかフロイスの書簡に我が故郷の名が記されていようとは思わなんだw

>>442
木曽馬はサラブレッドからしたら、
「犬か?」ってくらいにちっさいぞw
あんなのに跨って戦争してたなんて信じられんw
0460人間七七四年2012/07/09(月) 23:19:05.71ID:0A0guFnz
>>457
その頃の毛利は上洛する野心があったとか?
0461人間七七四年2012/07/09(月) 23:30:42.60ID:eYJR7bX5
>>458
本当に木曽馬見たことある?
当時の人が今より小柄だったことを除いても十分な大きさに思えるけど

ttp://wasikibajyutu.txt-nifty.com/tankyukaikousyu/2005/06/post_688f.html
ttp://wasikibajyutu.txt-nifty.com/tankyukaikousyu/images/h_2.jpg
0462人間七七四年2012/07/09(月) 23:49:55.71ID:eYJR7bX5
>>460
に追加
こっちの方が大きさがわかりやすいかも
ttp://wasikibajyutu.txt-nifty.com/tankyukaikousyu/images/h_3.jpg
0463人間七七四年2012/07/09(月) 23:55:57.59ID:75H+0CR6
>>455
当時、乱心・狐憑きは無罪(隠居はさせられるが)なので
擁護してるという見方もある
0464人間七七四年2012/07/09(月) 23:57:52.32ID:+gDcecH/
幕末の写真でも侍騎乗の立派な日本馬とかあんのにな
0465人間七七四年2012/07/10(火) 00:02:51.28ID:8r+KlKpX
ぶっちゃけサラブレッドって高速で走ることのみに特化した馬だから
重い甲冑や武具を装備した人間を乗せて日本の山河を走り回るのには向いてない気がする
すぐに足が折れそう
0466人間七七四年2012/07/10(火) 00:16:58.06ID:ivCvNoQ7
>>464
日本の山河どころか欧州の平野でも無理っしょ
0467人間七七四年2012/07/10(火) 00:18:33.98ID:YWbNCk+l
西洋馬ってかその類が入ってきたのは、吉宗とかその辺りの時代だっけ?
まぁ、それしかいなきゃ歩くより速いし乗るんじゃないかね〜
0468人間七七四年2012/07/10(火) 00:27:50.79ID:luUTeGXh
そこら辺はポニーっていう響きからくる誤ったイメージと、馬高での勘違いだろうね
馬高140cm、俺より低い馬とかwww とおもってる人多そう
0469人間七七四年2012/07/10(火) 00:43:53.80ID:qmyEtKLO
軍馬としてのポニーを馬鹿にする人多いけど
ヨーロッパの、それも騎士を多量に含む軍勢をフルボッコにしたモンゴル軍の馬はポニーだって事を知ってほしいところよね
0470人間七七四年2012/07/10(火) 01:48:03.58ID:GKvmMnac
ナリタブラリアンだっけ、動画でしか見たことないけど、すっげぇはええのな。
あれ普通に想像するところのポニーだよね?
あれであれなら軍馬として選別繁殖されたポニーはもっとすごいと思っていいんでないの。
0471人間七七四年2012/07/10(火) 02:02:10.40ID:YWbNCk+l
ナリタブラリアンは、森安Jが仕事そっちのけで調教つけてたとか聞くからwwwww
0472人間七七四年2012/07/10(火) 02:32:45.47ID:luUTeGXh
ナリタブラリアンってサラブレッドとも戦ってたよな
勝敗は忘れたけど
0473人間七七四年2012/07/10(火) 06:07:49.10ID:y1u+vsqr
有名な話だと、ヨーロッパの30年戦争の英雄、グスタフ・アドルフの騎馬隊の馬は日本の馬より馬格が小さかった。
そんな騎馬隊の突撃で神聖ローマ帝国やスペインの軍隊を蹴散らしていたわけだ。
04744582012/07/10(火) 08:13:12.02ID:pjHhYEGa
>>460-461
俺、木曽にある某乗馬クラブで木曽馬で外乗したことあって、
その時に乗ったのがほんとに小さかったからああ書いたんだけど、
この写真見るとけっこうデカいな。

俺が乗ったのは一体なんだったんだろう・・・
0475人間七七四年2012/07/10(火) 09:52:35.97ID:ziTmA3Ig
>>473
同じく木曽馬の乗馬経験があるけど、生まれた季節や環境で大きさが変わると牧場農家の人が言っていた
特に冬生まれは小さめの馬が多いらしい
馬も人間と同じく昔は病気にかかりやすい上に治し難いだろうし、木曽馬でも小さめの馬を想像した方がいいのかも

>>460の写真くらいの馬でも身長160前後の人間ならビール箱くらいの高さの台から乗れば余裕
0476人間七七四年2012/07/10(火) 10:46:14.72ID:O/hL5BJF
近代以前、世界のほとんどの地域において
ポニーに乗って戦争をしていたことはあまり知られていない

750 :人間七七四年 [sage] :2009/06/20(土) 01:07:18 ID:6UuzqP+c
中世の軍馬の大きさは、長い間議論の主題であった。伝説によれば、騎士の馬は頑丈な軍用馬であり、
これは、現代の荷馬車用の馬と同じぐらいの大きさがあったことを意味するが、そのような馬の遺物は
十四世紀以前には発見されていない。中世後期以前の考古学遺跡から出土した馬の遺物は、体高は、
せいぜい一四二・二センチであった。

J.クラットン=ブロック『馬と人の文化史』
0477人間七七四年2012/07/10(火) 11:08:14.32ID:FxyZ0zqO
いや、もっと小さいかもしれない
http://youtu.be/dhRUe-gz690
0478人間七七四年2012/07/10(火) 12:06:36.32ID:Ga/SNBAG
鎌倉期の遺構から出てきた馬の推定体高が120cm台だったっけ?
それでも十分に大きいと思うわさ
0479人間七七四年2012/07/10(火) 14:05:58.28ID:SnBFkywn
オマエラ長宗我部…というか、四国の悪口はその辺にしておけよ(´・ω・`)
0480人間七七四年2012/07/10(火) 16:13:28.21ID:36t7eALR
げに根深きは鈴木眞也の呪いか・・・
0481人間七七四年2012/07/10(火) 17:29:38.49ID:GYKGtBp/
名馬の産地といえば

陸奥>>>>>>甲斐・信濃>>>>>>>>>>>>関東>>>>>>>>その他>>>>>>>>>>四国
0482人間七七四年2012/07/10(火) 18:26:10.05ID:y1u+vsqr
ある時、細川幽斎が下人たちに命じて、庭に富士の山を模して作らせた事があった。

しかしこの作業に下人たちはくたびれ果て、その内の一人が密かにその傍らに板を立て、
そこに歌を書き付けた

『殿はまた いらぬ事をはするかなる 富士の後ろは浅間なるもの』

幽斎はこれを見て、さてさて奥ゆかしいものだと

『我もまた いらぬ事とはおもへとも ふしか見たさにするかなるもの』

なんとも雅な労使対話でしたw
(幽斎公歌集)
0483人間七七四年2012/07/10(火) 20:14:51.50ID:oPg311dT
この時命令したのが幽斎様じゃなく、SANSAI様だったら・・・
0484人間七七四年2012/07/10(火) 20:26:11.35ID:luUTeGXh
三斎さま「富士の高嶺に降るのは雪ではなく血であったな(ニッコリ
0485人間七七四年2012/07/10(火) 22:21:34.20ID:YWbNCk+l
奥方絡んでなきゃ三歳さんだってそこまで酷くないだろwww
0486人間七七四年2012/07/10(火) 22:48:15.54ID:5Q6gNBqq
噴火を摸さねば完璧とは言えまいよ、つまり紅
0487人間七七四年2012/07/10(火) 23:10:03.66ID:pjHhYEGa
頂きに
霞むは雪に
あらざりき
我が振る太刀の
血煙と見よ

・・・吉村寅太郎が混ざってるような気がするが、
大目に見てくれorz
0488人間七七四年2012/07/10(火) 23:17:15.05ID:TbRjk3zU
243人ぶった斬ってたら、刀の名前は富士山になったんだろうな。
0489人間七七四年2012/07/10(火) 23:48:08.55ID:lhEUYxP9
203人ぶった斬ったら爾霊山
ネタにしたらまずいか
0490人間七七四年2012/07/11(水) 11:13:59.24ID:q5jC2euc
>>488
あそこは死因を問わなければ日本軍だけで5000人以上戦死してますな。
0491人間七七四年2012/07/11(水) 18:58:11.46ID:j+NV/K6z
戦国とはかなりズレるが印象的なエピソードだったので。

昭和35年(1960)、新安保条約の自然成立を目前に控えた内閣総理大臣・岸信介は、池田勇人を呼びこの様に言った

「君は保守本流なのだから、党内の反主流派と付き合うのは控えなさい。僕の後は、君か栄作(佐藤栄作)しか
居ないのだから。河野(一郎)は闘将だが、一国を任せられる器ではない。

加藤清正は確かに強かった。だが、天下は取れなかった。そういうことだ。」

昭和の妖怪・岸信介が清正を例えに出したエピソードである。
0492人間七七四年2012/07/11(水) 19:43:17.37ID:9oBdJXrK
>>489
ハイハイ、森のせい森のせい

ヒャッハー
0493人間七七四年2012/07/12(木) 04:21:18.92ID:jcIeA/hr
>>490
岸信介その人は武将に例えると誰になるのかな?

能吏でもあり大国の後ろ盾があって好き放題wやったあたりは小西だけど
ありゃ天下取れんかったからなぁ
0494人間七七四年2012/07/12(木) 18:15:52.15ID:pap5C7me
>>490
岸信介はリアル大叔父上であらされる。
リアルでは岸安倍両家共に没交渉ではあるけれど…
0495人間七七四年2012/07/12(木) 18:27:26.05ID:IPTk1YZ9
空気の読める三成とか?
0496人間七七四年2012/07/12(木) 19:33:41.80ID:L9e0S6TR
嫌われ具合、雌伏期間があったことなど
細川頼之、本多正信が浮かんだけど
やっぱり違う気がする。
0497人間七七四年2012/07/13(金) 01:50:25.87ID:lu8jwE5k
浅野長政とか?
うーむ…
0498人間七七四年2012/07/13(金) 06:57:36.96ID:BpbQITHP
反主流になっちゃいけないって教訓だから
能吏とかどうかは、まず置いといて
家康のように天下を取れる位置にいることが大事ってことでしょうか。
0499人間七七四年2012/07/13(金) 08:13:12.28ID:VotxM4Wd
戦国時代じゃないけど源頼朝とか。嫌われてるあたりが。

岸信介は佐藤栄作とのエピが好き
安保改定の夜「首相が死ぬのは首相官邸だ」と避難の勧めを無視して官邸に残る岸。
「兄貴を一人で死なせる訳にはいかない」と一緒に官邸に入る佐藤。
0500人間七七四年2012/07/13(金) 08:59:32.92ID:Wh0Vg5KI
誰それ
0501人間七七四年2012/07/13(金) 12:32:18.01ID:5NQoDr6G
>>481
細川家は下人ですら歌を詠めるのか
0502人間七七四年2012/07/13(金) 16:58:36.65ID:vZ+OKWof
三十六歌仙がいる細川家なんだから当然じゃないですか!
歌を詠めない家臣なんて、斬られちゃいますよ。
0503人間七七四年2012/07/13(金) 17:45:49.86ID:eE4HtCGb
ただし、斬られるのは忠興様の下人に限る
0504人間七七四年2012/07/13(金) 18:18:36.92ID:lu8jwE5k
いざという時辞世の句位は詠ませてもらえそうだな
0505人間七七四年2012/07/13(金) 18:55:11.11ID:HGlidSbK
( ´・ω・)「連歌師もたくさんいるんだろうな」
0506人間七七四年2012/07/13(金) 20:01:51.45ID:rf3Ug6Rg
『日本人イルマンがパンタリヤン(田原親盛・大友宗麟三男)の城に於いて説教を行なっていた時、
豊後国の大身の一人の兄弟にて、名を式部殿と呼ぶ武士がこの場所にあって、ことごとく説教を聴き終わった後
洗礼を受け、バスチャンという名を与えられた。
翌日彼はパードレ・ペロ・ゴメスと日本人イルマン一人を伴ってその家に帰り、直ちにその妻と家族及び
家人一同に説教を聞かせ、約80人に洗礼を受けさせた。

また、このパンタリヤンの城において、偶然彼を訪問していた青年武士が一人キリシタンとなった。
彼については特に報ずるべき事件が起きた。

シマンと名付けられたこの青年は、説教を聞くと熱意に満ち、偶像を崇拝していた過去を恥じて、次の手段によって
これを改める決心をした。すなわち洗礼を受けた後、その家に戻らず、直ちに領内の町村に行って、同所にある
寺院に火を放ったのだ。

この事は突然行われたので、坊主も俗人も驚き、火災が甚だしいため、住民は彼が豊後の王(大友宗麟)に叛いたか、
あるいはその地が敵の手に落ちたものかと考えた。

彼は領内にある、彼の父の兄の寺院に至ると人を遣わして、

「私は既にキリシタンになったことにより、その領内における神仏の愚行を容認することが出来ない。
しかしこの寺院は叔父上のものであるのであえてこれを焼却しないが、叔父上が自ら命じてこれを焼き払われる
事を望む」

との旨を伝えた。叔父はこれに返答をせず、異教徒である親類及びその兵士とともにこの寺院を守る決意を固めた。
この叔父の態度にシマンは大いに怒り、彼を殺すことを決心し、必ずその首を取ると言い放った。

叔父は偶像崇拝の保護者たる親賢(田原親賢:大友宗麟の妻奈多夫人の兄。反キリスト教)に頼り事の顛末を
伝えた。この事は神仏を守ることであると田原親賢はこの要請を引き受け

「怖れるには及ばない!私自ら保護に当たろう!」

と宣言した。それでも青年は叔父を殺す決心を動かさず、また田原親賢は既に約束した事によりこの叔父を守ろうとした。
しかしその田原親賢の婿であるパンタリヤン(田原親盛)は、こと信仰に関することであるので青年に好意を寄せ、シマンの
許に人を遣わして、この問題においては感情的にならず、道理によって処置すべきだ。もしその結果によってあなたに
見の危険が迫ることがあれば生命をかけて防ぐ。そう伝えた。

(中略)

その後パンタリヤンはパードレ・ペロ・ゴメスに使者を遣わし、シマンとその叔父のことは既に解決し、二人の裁判官を定め
その正当と認める所に従うよう伝え、裁判官たちは田原親賢が約束を破棄し叔父を保護せず、またこれを臣下とせず
国外に追放し再び入国することを許さず、その所領の半分を没収し、残りの半分はその子に与えると決定した。

その後パードレはシマンがその家臣約2000人をキリシタンにしようと切望していると聞いた。しかし全員をキリシタンにすれば
労役者が不足するので来れをするのは不可能であった。(キリシタンは労役義務を免除されていたようだ)
シマンは信仰のことに甚だ熱心であり、たとえ世子(大友義統)が反対の命令を下しても、既に説教を聞いた上は
必ず洗礼を受けると言い、ついにこれを受けた。』


大友宗麟の時代の、豊後で起こったキリスト教絡みの騒動の一つである
(天正12年・日本耶蘇会年報)
0507人間七七四年2012/07/13(金) 22:20:50.32ID:eeBMNuSJ
関ヶ原で敗れた小西行長は大名の黒田長政の面前に連行された。
同情した長政は内府(家康)に助命を請うか尋ねると行長は答えた。
「私はもはや命を重んじていない。キリシタンの教えが禁じていなければ切腹するのは
容易で私は自分の罪に対してどのような死を与えられようとも甘受する用意がある。
私が貴殿に願いたいことは自分が告白するのに一人の司祭バテレンに会えるよう尽力してほしい」
0508506 小西行長の話の続き2012/07/13(金) 22:24:08.67ID:eeBMNuSJ

 黒田長政は内府の許可を得られるよう全力を尽くすと約束した。しかし、内府の家康は
司祭との面会を許さなかった。バテレンの司祭たちはあらゆる手を尽くしたが、面会はかなわず、
小西行長は処刑されてしまった。
 家康はキリシタンの告白が何のことかわからず、何らかの欺瞞ではないかと思ったので、
司祭たちに面会の許可を与えなかったのだ。(イエズス会年報集)
0509人間七七四年2012/07/13(金) 23:39:26.91ID:rf3Ug6Rg
『1606年の条

(上略)…また、モンセニュール・ド・セルケイラは、公方(徳川家康)に謁見することがあって、これにより公方は
宗教のことに関してますます寛大となられた。

この司教、日本に到着して以来、迫害、内乱、そして公方によるこの帝国の統一と厳重なる施政の展開があり、
この間、彼は長崎から動くことが出来ず、また自由に司教の職務を果たすことも出来なかったが、
ここに至って事態が好転したことを認め、この国の主権者に拝謁する計画を立てた。

エチアム(小笠原一庵為信)という朝廷(幕府)の重臣の一人はこれより前に、ポルトガル関係事務の監督官として
長崎に派遣されていたのだが、司教に助力することを申し出、ついにその謁見の許可を得た。

司教は多くの師父、及び法兄弟と共に直ぐに上洛した。大阪に至ってエチアムが用意した一艘の川船に乗り
エドガワ(淀川)を上って京都にいたり、師父の家に宿泊した。
大阪においても、またその途上においてもいたるところでキリスト教徒は群れをなして駆けつけ、司教に
服従の意を表し、京都に至るときもまた同様にて、キリスト教は尽くその権利を回復せし観があった。

モンセニュール・ド・セルケイラは司教の服を着け謁見のために出発したが、駕籠のまま宮殿の内部に
入ることを許可された。これは最大の諸侯でなければ与えられない特権であった。
公方自らも礼服を着用し、最も厚く司教を待遇した。

次に、その平常の居城である伏見の宮殿、及び城と、京都の城(二条城か?)とを司教に見せるべしとの
命を下し、また日本国中で最も壮麗である同地の諸寺院を見せた。

司教はこの滞在を機として、キリスト教徒を最も厚遇している諸侯であり、君主の寵臣たるカンズケ殿(本多上野介正純)、
及び京都の知事板倉殿(板倉勝重)に謁した。この両人は共にキリスト教の重要な保護者である。

司教はまた甚だ多くのキリスト教徒に、堅信の秘跡を授ける機会を得た。
帰途、豊前候エッツーン殿(細川越中守忠興)に、同国の首都小倉にて謁見したが、候は彼に、司教によるミサ聖祭に
臨席する許可を求め、キリスト教及び宣教師に対する保護が決して覆ることがないと、司教に確信させた。

また司教は後で、候自らもその心中においてはキリスト教徒であり、未だ神聖なる洗礼こそ受けられていないが、
候を以って神霊上の子の一人と認めざるをえないと言われた。
候が自らキリスト教徒であることを宣言し、かつ洗礼を受けることが出来ないのは、公方が諸侯のキリスト教に
改宗することを禁じたために、その意に従わざるを得ないためなのだ、とも付け加えられた。』


本多正純と板倉勝重がキリスト教の二大保護者だったり、細川忠興をキリスト教徒認定してたり、
本国への報告のためか、どうも希望的観測すぎないかと思わざるをえない記録である。
(パジェー日本耶蘇教史)
0510人間七七四年2012/07/14(土) 00:36:10.05ID:bL+LifhN
エッツーン殿
0511人間七七四年2012/07/14(土) 00:59:02.57ID:CLucpikP
エェツーン殿キリシタン説はちょいちょい見かけるけどこの辺がソースなんだろうか
0512人間七七四年2012/07/14(土) 02:25:15.98ID:clULgAfH
フロイスしかり、こういう宣教師の書いた歴史書って
妄想補完とキリスト教上げが多すぎて何が本当なのかわからん

歴史とか言いつつも、結局は布教活動用の資料の粋を越えてないと思う
0513人間七七四年2012/07/14(土) 06:54:03.49ID:zz3tN4If
>>505
キリシタンは労役を免除されてたのか
これはメリットあるな
0514人間七七四年2012/07/14(土) 14:40:17.22ID:fDVg0WLL
>>431
馬から降りて戦うのは西洋でもそんな珍しいことではなかったようですよ
というか常に馬に乗ってなんてモンゴル軍みたいに潰れてもいいように予備の馬何頭も連れてるような場合でないと難しいみたいで
まあフロイスさんは幼少期をスペイン宮廷で過ごして成長してインド、日本で主に生活してた人なんだから
日本の現実よりむしろ西洋の現実のほうを知らないと思う・・・
0515人間七七四年2012/07/14(土) 21:43:39.02ID:dHBxf5HS
島村蟹

享禄4年、細川高国・浦上村宗と、細川晴元・三好元長・赤松政村(晴政)の間で合戦の火蓋が切られようとしていた。
そして、6月4日、三好方の諸勢が、打出、天王寺、木津、今宮に攻めかかった。
大物(だいもつ)崩れの戦いである。

細川高国はここを先途と防戦したが、その先鋒を務める浦上勢は小勢であったために敗れ、浦上村宗は討ち死にしてしまった。
村宗の臣・島村弾正(貴則)はこの事態に「無念なり!」と叫んで敵を引っつかみ、野里川の淵に飛び込んで死んでいった。

この時以来、彼が死んだ淵では甲羅に武者の顔のあるカニが見られるようになり、今に至っている。
周辺に住む者は、このカニのことを「島村蟹」と呼んでいる。
(足利季世記)

島村蟹とは、標準和名「ヘイケガニ」のことである。
遠浅の干潟でも見られるというこのカニは、そのインパクト抜群の姿のために様々な地方名を持っている。
江戸時代後期の『本草綱目啓蒙』という書物には、島村蟹の他にも、長田蟹(元ネタは「主をきり婿をころすは身のおはり むかしはおさだ今は山しろ」の長田忠致)、
清経蟹(平清経)、武文蟹(太平記の登場人物・秦武文)、治部少輔蟹(石田かどうかは不明)というようなものが挙げられている。
0516人間七七四年2012/07/14(土) 21:44:54.44ID:dHBxf5HS
ちなみに、「標準和名」に歴史上の人物の名を冠する動物には、
例えば、昆虫では、ジョウカイボン(浄海坊=平清盛。火傷のような炎症を起こす別種の有毒昆虫と混同され命名されたらしい)

トウゴウヤブカ、トウゴウカワゲラ(東郷平八郎)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)、オオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)
(外人の研究者が名付けた「学名」を「和名」に反映させている)

魚類では、キントキダイ(坂田金時)、クマガイウオ、アツモリウオ
(それぞれの体色に由来)

シュンカンハゼ(俊寛僧都)、タメトモハゼ(鎮西八郎為朝)、ベンケイハゼ
(それぞれの標本の産地(薩摩硫黄島の対岸、運天港の近く、田辺湾)+容姿に由来するらしい)
等があるようです。

戦国時代の人物にちなんだ標準和名の動物とか、いかにもありそうな気がするけど・・・

タメトモハゼ「魚類に限って言えば、小耳に挟んだことも無い!」

まあ、変化球でアカハチハゼ(石垣島の豪族・オヤケアカハチ)とか、
伊達者という言葉に由来するという、お洒落な縞模様のダテハゼなんてのがあったりしますが。
0517人間七七四年2012/07/14(土) 21:48:23.09ID:poa2keyK
ハタハタ「サタケウオ・・・」
サナダ虫「・・・」
0518人間七七四年2012/07/14(土) 21:49:17.96ID:poa2keyK
あ、標準和名の魚か失敬した
0519人間七七四年2012/07/14(土) 22:13:24.40ID:dHBxf5HS
そうだ、サナダムシがあったね。
魚類くらいしか把握できてないもので、完全に忘れてた。

サナダムシ

形状が真田紐に似ていることからその名が付いた。
また、一説では徳川家康がサナダムシに苦しんでいた事から
「真田は虫になってまでもこの家康を苦しめる」と嘆いた事から家康が名付け親と言われる事もある。

あと、地方名なら戦国の人名由来のものは色々ありそうですね。
0520人間七七四年2012/07/14(土) 23:26:49.08ID:KkSrYP1x
>>514
話の本筋からは離れるけど、
いわゆる「大物崩れ」って戦の範囲がえらく広範囲に及んでるんだけど、
これってどう解釈したらいいのかな?

細川浦上連合軍が西宮の神呪寺に布陣してた赤松勢に
背後から襲われて総崩れになったことになってるんだけど、
天王寺や今宮のあたりから大物まで延々と布陣してたなんて考えづらいし・・・
0521人間七七四年2012/07/15(日) 00:17:39.65ID:PKmFApoL
>>519
『後鑑』収録分を使ったので前後の文章が分からないけど、
ただ単に『足利季世記』作者の誤解または故意で、数ヶ月にわたる一連の戦いを
一日のものとして描いてるだけじゃないのかな?
0522人間七七四年2012/07/15(日) 06:08:15.45ID:73R7Butz
>>514
    (~)
  γ´⌒`ヽ
   {i:i:i:i:i:i:i:i:}
  ( ´・ω・)  
  (V)    (V)
    し─J
0523人間七七四年2012/07/15(日) 10:03:56.86ID:jLTHAmro
蛍なんかゲンジボタル・ヘイケボタルだな。
0524人間七七四年2012/07/15(日) 11:31:50.35ID:JUJOLVZM
しまむらガニワロタw
0525人間七七四年2012/07/15(日) 19:15:41.05ID:SJCrnKFz
徳川家康は倹約を徹底したといわれているが、明かりに関しても同じだった。
ある時には蝋燭は数本だけで残りは油火ばかりという徹底ぶりで日頃から
家人たちも厳しく言われていたらしい。

ある時、成瀬正成と松平正綱が急ぎの連署状を書くために坊主からわずか
二、三寸の蝋燭を請い得て連署状を書き、その場を離れた。

この時、二人はうっかり火を消し忘れた。見回りが蝋燭を見かけると
坊主は呼び出され「上様が御覧になったらお咎めになるぞ。何故消さない」
と叱られてしまった。

「いや、これは隼人殿たちが…」と、坊主が説明しているところに消し忘れに
気付いた二人が戻ってきた。

「お前たち、消し忘れに気付いていたなら何故消さない」
坊主はまた叱られてしまった。
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