戦国ちょっと悪い話32
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0001人間七七四年
2012/06/16(土) 10:16:13.81ID:lqw/WNsT戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335874012/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336017262/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0177人間七七四年
2012/06/26(火) 18:38:33.20ID:8FV9WQRU三傑どころか戦国大名全ての中で外国人まで政権ブレーンに加えたのは家康だけだぞ?
それに秀吉が身内びいきでないように言うが、そもそも「身内」の極端に少ない秀吉は特殊例中の特殊だろ。
しかも数少ない身内はきっちり厚遇してるし。
ついでに言えば家康は、政権とった後は、外様や新参を厚遇しすぎて
その身内の三河衆からかなりの反発を受けている。
どうも家康、というか家康に限らず三傑のイメージは実態を離れた部分の固定観念が強すぎる気がする。
0178人間七七四年
2012/06/26(火) 19:46:09.85ID:8fFIMdFh家康は秀吉に比べれば内向的と言われても仕方がないよ。
当時は秀吉が桁外れに外向的すぎた。
0179人間七七四年
2012/06/26(火) 19:48:52.21ID:8FV9WQRUむしろ外の世界を全く理解してないからあんなことができた、としか言えないと思うんだがなあ。
秀吉の体外認識ってホントに粗雑で幼稚だぞw
0180人間七七四年
2012/06/26(火) 20:00:40.05ID:8fFIMdFhあと10年秀吉が長生きしていれば本当に明を倒せたかもしれない
0181人間七七四年
2012/06/26(火) 20:20:53.04ID:C2s0Bf4k0182人間七七四年
2012/06/26(火) 20:22:09.42ID:8FV9WQRU無理。
というか日本軍は勝ちまくってなんかない。明軍が参戦したら押しまくられてる。
そもそも明国本土に一歩も入ることが出来なかったという現実をよく見た方がいい。
戦闘意欲がいくら高くても、兵站が貧弱で現地の状況を知らず外交的な政略も無かった日本軍が
どうあがいたってあの時期の明に勝てるわけがない。
唐入りは秀吉の幻想にすぎんよ。
0183人間七七四年
2012/06/26(火) 20:26:56.19ID:h3xHtRx+10年続けてれば明は嫌気が差して引き上げるかもしれないけどそれまで日本側がもつかどうか
0184人間七七四年
2012/06/26(火) 20:37:01.58ID:xaPAhqyY安定しつつあった時期ということを差っ引いても、
近代以前の日本人であそこまで多くの勢力と外交関係を結んで貿易をしたってのは
家康くらいだろ
大体のやつは中国・朝鮮どまりだからな
0185人間七七四年
2012/06/26(火) 21:25:45.65ID:8fFIMdFh慶長の役は文禄の役の経験を活かして明軍を遠征させまくってとことん疲弊させるのが目的だったからね。
当時の明軍は大軍で一気に潰そうとするも日本軍にことごとく退けられほとんど成果を上げられなかった現実を見たほうがいい。
明側の認識では戦況がかなりヤバかったのは紛れもない事実なんで。
0186人間七七四年
2012/06/26(火) 21:39:51.73ID:RMnwqvUn0187人間七七四年
2012/06/26(火) 21:44:00.33ID:Fb8ja626こっちでどうぞ
0188人間七七四年
2012/06/26(火) 22:33:06.40ID:KquU7pGm実際に朝鮮・明を攻め滅ぼすつもりならラスボスみずから御親征するだろ
そして家康は天下普請を実施し諸大名の力を裂いた
0189人間七七四年
2012/06/26(火) 23:23:00.18ID:F9iZz8Wh「ここは功名を立てる場所ではない。」言って京都を去った。
次に中国地方に行って名を全国に轟かせようと思い、まず諸将の賢否を人に聞いたところ仕えるなら安芸の毛利元就しかありえないということだった。
安芸に着くとまず毛利家に仕官する縁を祈ろうと思い、厳島神社に参拝し神主と会見し京都の消息を語った。
神主は珍しいと思い勘助を元就に推挙した。元就はこれを聞くと何の答もせず、2、3日後に神主を呼び出した。
「先日の京都の浪人を長くこの地に留めないように。私はその人を登用することはできません。
登用しなければまた他国で仕官するでしょう。他国へ行けば安芸の毛利は兎にも角にもと評判します。
知らなければどうしようもなく、批判もできないでしょう。速やかにここを立退かせて下さい。」と命じられたので
神主もその意を汲んで、勘助に「関東までの間に功名を立てることができる地があるでしょう。西田舎での仕官は無益同然でしょう。」と言うと
勘助はすぐにこの意味を悟って、即日厳島を出発し東へ向かいましたとさ。
山本勘助の毛利家就職失敗談
0190人間七七四年
2012/06/27(水) 04:14:47.34ID:KQKTF81u0191人間七七四年
2012/06/27(水) 04:30:02.86ID:gx2NGmKrまあ東国諸侯も動員すれば朝鮮占領はできるかもだが長続きはしなさそう。
漁夫の利狙える第三勢力もいないし、結局家康みたいな本国にいる人が反乱起こして終了だと思う。
0192人間七七四年
2012/06/27(水) 05:13:41.22ID:AD9Ffdckでも続けることが家康を出兵なり兵站なりで弱らせる唯一のチャンスだったかもしれない
武断派も国内には居なかった事になるんだしな
0194人間七七四年
2012/06/27(水) 05:59:53.94ID:zrrGgultすると、源頼政の鵺の段になってしきりに涙を落とされた。
傍らの者たちは不審に思い、その理由を聞くと、謙信は憮然としてこんな事を語った
「私は今、検校の琵琶を聞いて、いまさらのように武道の衰退を感じた。
かつて八幡太郎義家は、禁中に妖怪が出たのを『鎮守府将軍源義家である!』と名乗って弓の弦を鳴らせば、
妖怪その姿を消したというのに、頼政は鵺を射たが、猶死ななかったので猪隼太が刺し殺してとどめを刺した
と伝えている。
義家が妖怪を払ったのは天仁元年(1108)、頼政が鵺を射たのは仁平3年(1153)である。
その間わずか46年の差ほどしかないのに、すでに武道の劣れることこういう有様である。
そこから思うと私は頼政に遅れること450年。その間に武道はどれだけ衰微したかと思うと、
つい我知らず涙を流したのである」
謙信公、武道の衰微を嘆く、というお話
(上杉謙信言行録)
0195人間七七四年
2012/06/27(水) 08:00:42.28ID:sxfeWse90196人間七七四年
2012/06/27(水) 10:01:58.11ID:DGsFh2yh0197人間七七四年
2012/06/27(水) 10:14:59.00ID:idKkm+Mu0199人間七七四年
2012/06/27(水) 10:40:49.13ID:mWaRbUqE0200人間七七四年
2012/06/27(水) 13:58:02.82ID:WR7HgupU0201人間七七四年
2012/06/27(水) 14:46:49.19ID:SGuZO+XQ0202人間七七四年
2012/06/27(水) 21:13:38.31ID:zrrGgult浅井長政の待つ近江佐和山城に入り、初めての対面を果たした。このとき京童たちは
『婿入りも無き先の舅入りとはこの事よ』と言いはやしたという。
その後各地の情勢報告が行われたあと、信長一行は近江柏原の成菩提院という天台宗の寺に座を移し
そこに一泊した。この寺において接待のため長政から浅井縫殿助、遠藤喜右衛門、中島九郎次郎が
付けられた。様々なもてなしに信長も非常に機嫌がよく、夜すがら打ち解け、酒宴の後就寝した。
これを見届けると遠藤喜右衛門は早馬に鞭を当てて急ぎ小谷へはせ帰り、長政を諌めて申し上げるには
「信長という人物は、大変に表裏の深い大将です。彼の行跡をよくよく見れば、その知略の早いこと、
サルが梢を伝うようです。我が浅井家を縁者として組み込み、こちらに参って懇切に言ってくるのも、
ただ上洛のための、当面だけの事です。功成り名を遂げたならば、朝倉も当家も必ず敵とするでしょう。
また、終始信長の気に入るように出来るかと考えても、なかなか想像のつかないことです。
そうして信長の怒りを買った時に戦うことになったとしても、必ず討ち負けて後悔しても手遅れとなります。
であれば、今夜柏原において、二百人ほどの供の者たちも皆町家に寄宿し、信長自身は酔いつぶれて
寝入っております。彼の側には14,5歳の小姓2,3人が眠っているに過ぎません。
ここで、どうか私一人に仰せ付けください。今夜中に柏原に罷り帰って、信長を安々と討ち取って
見せましょう。二百あまりの供侍たちも、大将が討ち取られればその上は、我先にと逃げ出すでしょう。
それを追って美濃に入り、岐阜の城を攻めるなら、城主はなく家督を継ぐ嫡男も幼少であり、彼の地の武士たちも
我も我もと味方に参り、美濃・尾張両国は時を移さずして攻め取ることが出来るでしょう。
そうなれば、その威勢に乗じて六角親子を押し倒し、帝都へ攻め上がって天下の仕置を助ける立場になることも…
誠に当家の興廃は、ただこの一挙にあるのです!」
こう言葉を尽くして説得した。これに長政はしばらく迷い、家老や一族を集めて密かに相談したが、一同が言うには
「信長はあれほど当家に対し懇切で、心やすく打ち解け、頼みまいらせているではありませんか。
そんな良好な関係を失い、公方様の上洛を妨げ、その上酔いつぶれて寝ている人を殺すというのは、
籠の中の飼い鳥を殺すのと同じ事です。
それに今のような時節に信長を討ち取れば、人望に背き、天の冥加も恐ろしく、侍の本意が立ちません。
そんなことは、絶対にあってはなりません。」
長政もこの意見に同意し、遠藤の諌めを用いず、彼に早々に帰って明朝も又接待をするようにと命じた。
しかし遠藤が重ねて申し上げる
「天の与えることを取らなければ、災に会うと申します!信長は表裏の大将です!必ず当家を
押し傾けようとするでしょう。その時、この判断が返って災いとなること、私には鏡に写したように
見えるのです!
どうか、どうか私の申し上げたことにご同心ください!」
そう、涙を流して訴えた。しかし長政は頑としてそれを聞き入れなかった。
遠藤も是非に及ばず、何事かブツブツと呟きながらその夜、柏原に引き返していった。
後にこれは信長の運の強さの現れだと言われた。
(総見記)
0203人間七七四年
2012/06/27(水) 21:16:48.86ID:HK80yfd3いまさらだけど
0205人間七七四年
2012/06/27(水) 21:40:40.85ID:WXxewK+D0206人間七七四年
2012/06/27(水) 21:55:41.51ID:Q7H1kcS6今の感覚からすると親戚とは到底いえないレベルだけど血族意識の強かった平安末期だしなあ
0207人間七七四年
2012/06/27(水) 22:17:52.95ID:RTgemBWr室町後期くらまで日本は氏族社会(源平藤橘の氏族ごとで固まる)だから、そういう氏族意識はもちろん存在したと
考えられる。室町後期まで、例えば国人による一揆も「平一揆」「白旗(源氏)一揆」など、氏族で組織化していた。
これが室町後期くらいになると氏族から地縁で固まるように成る。
0208人間七七四年
2012/06/27(水) 23:04:16.39ID:WLOA6EBWヒゲがないと女子供の鼻を削いだのではないかと疑われるからである。
ただし、若い武者の場合はヒゲが生えていないこともある。
そういった場合はその若武者の持ち物を持参せよ。
『細川幽斎覚書』
0209人間七七四年
2012/06/27(水) 23:12:51.90ID:Q7H1kcS60210人間七七四年
2012/06/27(水) 23:16:10.56ID:HK80yfd30211人間七七四年
2012/06/28(木) 00:11:40.39ID:TJzbM7u/0212人間七七四年
2012/06/28(木) 00:29:37.33ID:7tOhB3Y10214人間七七四年
2012/06/28(木) 00:43:24.70ID:Z3kigmrF0216人間七七四年
2012/06/28(木) 09:23:46.25ID:zaxIDqfm0217人間七七四年
2012/06/28(木) 09:29:30.47ID:DFjGMWq7気付いたら家臣になってるだけで
0218人間七七四年
2012/06/28(木) 11:22:13.83ID:TJzbM7u/0219人間七七四年
2012/06/28(木) 22:16:18.78ID:DdCRKXiK13歳で人質として大内氏に行き三年を過ごして帰ってきたが、その際に父の毛利元就にこのように報告した。
「大内氏は必ず滅亡するに違いありません。
なぜならば、大内義隆の贅沢は度を外れていて、政治も自ら行わず家臣の陶隆房は諌言を尽くして、ついには義隆の意に反するようになりました。
そこへ相良武任という者が義隆に阿諛追従して、隆房を讒言しました。
なので群臣は皆義隆を嫌い、武任を憎み、隆房に心を寄せる者が多くなっています。
主君が隆房を疎んじ、家臣一同が隆房に帰服しているような状況ですから、隆房が兵をあげるのは時間の問題でしょう。」
元就はこれを聞いてうなずいたが、果たしてその後、隆景の予言したとおりとなった。
小早川隆景の予言による最初の犠牲者
0220人間七七四年
2012/06/28(木) 22:24:04.30ID:rXHmKKR50221人間七七四年
2012/06/29(金) 00:22:03.55ID:hWKR8dCb0222人間七七四年
2012/06/29(金) 00:27:14.93ID:JDqW3Uy+0223人間七七四年
2012/06/29(金) 01:02:50.87ID:cbJOdNM10224人間七七四年
2012/06/29(金) 01:21:25.21ID:1uc45loyバランサーは必要なのだよ、でも輝元には無理なのだよ
0225人間七七四年
2012/06/29(金) 02:34:30.81ID:UQoMqn1U元春と隆景は隆元が死んだ後から責任感が出てきたんじゃねーかな?
毛利家伝統の若いころろくでなしな奴が年取るとめっちゃ真面目な原理で。
0226人間七七四年
2012/06/29(金) 05:35:17.67ID:BMIywk230227人間七七四年
2012/06/29(金) 05:44:45.04ID:tNfUpQeG0228人間七七四年
2012/06/29(金) 07:16:30.68ID:cyq+WLeb0229人間七七四年
2012/06/29(金) 13:20:32.73ID:uHRpgtHv天正十五年に入ると、正月に小田原城、五月には上野の箕輪城と松井田城、
一〇月武蔵岩付城、十一月箱根の山中城、足柄城と領国全土で普請を始めていた。
上杉、佐竹に加え、天正十四年十月に秀吉に臣従した徳川と、
全方面からの攻撃が予想されたからであった。
しかしそんな普請で忙しい最中のはずの天正十五年五月、
武蔵の各地では北条氏邦や氏房の命令で、堰や堤の構築が行われていたりもする。
実はこの時期、上記普請の連発のためか、北条領国内では退転欠落が続発していた。
「御国の御用につき」と言う理屈で百姓を動員していた北条だが、
一方で懐柔策もとっていたと言うお話。
あるいは、とらねばならなかったと言うお話。
0230人間七七四年
2012/06/29(金) 14:23:37.93ID:itjA/vHi0231人間七七四年
2012/06/29(金) 16:37:21.52ID:+6+KYZzv余裕ぶっこいてた連中よりはまし
0232人間七七四年
2012/06/29(金) 16:59:21.95ID:TJpXzbS6数百年ばかり速すぎた、北条は未来に生き過ぎた
0233人間七七四年
2012/06/29(金) 20:19:45.23ID:aPDrTFXH0234人間七七四年
2012/06/29(金) 20:25:29.73ID:Ztwz2rjWこの時、武田の陣において、越前衆の夜襲があると騒ぎ出し、俄に混乱したことがあった。
この事を知った前線の上杉軍の武将達は、直ちに本陣に馳せ来てその状況を伝え
「この虚に乗じて攻められれば、我軍の勝利、疑いありません!」と言上した。
ところが謙信はこれを聞くととたんに不機嫌な表情になり
「虚実は解らないが、そういう事がないとも言えない。しかし仮にこれが事実としても、
空虚を突くというのは私の本意ではない!それにそんな行為は信玄に対しても、弓矢の無礼である!」
そう言下に拒否したという。
もし信玄がこの事を聞けば、感動するよりも「変な奴だなあ」と呆れる気がしないでもないがw
上杉謙信、自分だけでなく好敵手に対してもその武を汚させず、と言うお話。
(上杉謙信言行録)
0235人間七七四年
2012/06/29(金) 20:29:05.65ID:HGN8hn2A0236人間七七四年
2012/06/29(金) 20:45:50.37ID:mLhTz5Vg謙信はこれは罠だと思ったにちがいないw
0237人間七七四年
2012/06/29(金) 21:51:05.70ID:0WJoa8UP0239人間七七四年
2012/06/29(金) 21:56:28.19ID:ITAzqWCj0240人間七七四年
2012/06/29(金) 23:55:28.03ID:hWKR8dCb0241人間七七四年
2012/06/30(土) 01:39:19.44ID:nurx7Nrgこのごろ怪鳥が出没し、細川政元の家人がそれを図にした。
陰涼軒日録には次のように記されている。
「世間に化鳥あり」という話を聞いた。
その頭は馬、尾は蛇、蹄は牛のようであり、「無常引導骨積天」という鳴き声を上げるそうだ。
その図は右京兆屋形(細川政元邸)より出でて、天竜寺に在るという。
また、昨日20日、右京兆屋形の辺りで羊角風(つむじ風)が大いに吹き荒れ、人々を驚かせた。
その羊角風の中には鳶が居て、火を纏って飛行していたという。
(後鑑)
よ、呼び出してしまったのですか・・・ 管領様・・・。
0242人間七七四年
2012/06/30(土) 01:44:00.74ID:5eQHhM/Q0243人間七七四年
2012/06/30(土) 05:09:04.41ID:sP8V6lEQ0244人間七七四年
2012/06/30(土) 08:34:45.33ID:A6gePg3A0245人間七七四年
2012/06/30(土) 10:09:35.19ID:AW0Zc9N9珍しい動物が中世に出現したら漏れなく妖怪認定されるのかな・・・
0246人間七七四年
2012/06/30(土) 10:12:52.32ID:NvhdMRCN0247人間七七四年
2012/06/30(土) 10:14:23.52ID:k9LnvroQ0248人間七七四年
2012/06/30(土) 12:15:15.30ID:jEcZJefm0249人間七七四年
2012/06/30(土) 12:28:24.78ID:3zG53xIi0250人間七七四年
2012/06/30(土) 12:43:34.97ID:NvhdMRCN0251人間七七四年
2012/06/30(土) 15:31:12.92ID:5eQHhM/Q謙信の家臣に元尾州牢人・深渕金太夫と言う者が居た。
彼は10年前から謙信に仕えて覚えめでたく、軍功の数々も重なり次第に扶持の高多くなった。
謙信取り立ての近習の一人だったのである。
そんな金太夫がある時、謙信御座所の次の間で、何事かあって仙可という若者と口論になり、
怒りのあまり仙可を取り押さえ殴りつけようとした。
この物音に謙信は襖を開いて出てくると、帯びていた貞宗の脇差を抜くやいなや、物も云わず片手討ちに
金太夫と仙可の二人を斬り捨てた。
この状況を近くで目撃した仙可の父、内記は怒りのあまり声を震わせ叫んだ
「殿!先に乱暴をしよとした金太夫は公儀を恐れぬ狼藉者、御成敗は道理だと思います。
しかし咎無き倅を同罪に遊ばしたのは、近頃にない無慈悲の御沙汰と心得ます。これはいかなることか!?
ご返答によっては殿とて決して仮借いたしませぬぞ!」
そして小刀の柄に手を掛ける。しかし謙信は全く動ずる色もなく、静に脇差を鞘に収めて
自分の部屋に帰ろうとした。この謙信の態度に内記は激怒した
「ご返答がないというのは、弁解の道に窮したためだと心得ました!ならば、御免!!」
内記は脇差を抜くや謙信に斬りかかる。謙信、その切っ先を巧みにあしらいながら二太刀目に
彼の右手首を切り落とした。
その時、謙信の小姓、上村伊勢松がこの騒動に気が付き馳せ来る。内記が脇差を左手で持ち直そうと
する隙に、彼の太腿を突いて討ち伏せ、ついに止めを刺した。
これを見て謙信はすこぶる機嫌よく、伊勢松に向かい
「ハハハ。今日は妙なところでお前と相打ち(一人の敵を二人または数人で討つことの意)したな。」
そう言って大笑したのだという。
多分隣の部屋で喧嘩騒ぎされてイラッとしたのでしょうが、それによって死者3名。
謙信公の近くではよくよく気をつけていないと、命にかかわるのだ。
(上杉謙信言行録)
0252人間七七四年
2012/06/30(土) 16:09:14.20ID:L0SsltCB0253人間七七四年
2012/06/30(土) 17:03:04.49ID:ef62dox4TPOを弁えないようでは、斬られても仕方なし
0254人間七七四年
2012/06/30(土) 17:26:24.46ID:bGUHSJwM0255人間七七四年
2012/06/30(土) 17:54:32.14ID:SmDIVfrx便利だけどw
0256人間七七四年
2012/06/30(土) 20:16:56.87ID:7sp5dfUU0259人間七七四年
2012/06/30(土) 23:10:53.26ID:bZ+ypjFE俺はとてもじゃないが武家奉公して命を全うできる気がしないw
0261人間七七四年
2012/07/01(日) 00:19:20.94ID:KIbXmFfR上杉謙信家中にこの様な梅雪の意向を伝えた
『近年、信玄公は庶子の伊奈四郎勝頼君を愛され、御惣領の太郎義信君を疎まれておられます。
このため武田家中は二派に分かれ、今にも内戦に及ばんとしております。
何卒、謙信公は義信君を慈しませられ、御養子としてお取り立てあられるならば、微力ながらこの梅雪も
謙信公に従い御旗本に参り申します。そして更科よりお取次ぎがありませば、信州一円はご自身で動かれる
までもなく手に入り、また多年ご宿願である村上義清殿の領地へのご帰還も、事もなく果たすことが
出来るでしょう。
義信君をご援助の事、偏に頼み参らせます。』
これを聞いた謙信の近習、諸角喜助、本郷八左衛門、及び旗本七手組の面々は、甲州に介入する
良い便宜を得たと喜び、早速この事を謙信に報告した。
報告を受けた謙信は梅雪からの使僧、空庵を御前に召し出し、改めて来意を問いただした後、形を改め
こう言い渡した
「御坊、よく聞いて梅雪に伝えられよ。
義信の便宜を以って信州をとれとの儀、この謙信、一向に合点が参らぬ。
是非を論ずる場合において、人手を借りる謙信ではない!
特に子として親に歯向かうなど、不所存この上ない儀と心得る!
義信殿は未だ若年である故もあろうが、梅雪程の老巧者がなにゆえこの様なウツケたる事を言い出すのか。
それも身の拠り所が無い程であるから頼み入るとの話ですらない。
この謙信、あえて慮外は言わぬ。御坊の黒衣を尊重して、この度は無事に帰す。
しかし重ねてこの様な事を言ってくるのなら、その時は容赦致さぬぞ!」
これには空庵も色を失い、這々の体で甲州に帰っていったとのことである。
(上杉謙信言行録)
0262人間七七四年
2012/07/01(日) 00:34:11.29ID:v8TTcLMVいやまあ逸話に突っ込むのも野暮だけど
義信のほうが梅雪より歳上だよね
0263人間七七四年
2012/07/01(日) 00:45:30.40ID:o2kP2EXKそうなのかと思ってwiki見てみたら・・・
武田義信(1538年生誕)
穴山信君(1541年生誕)
今の今まで知らなかったw
0264人間七七四年
2012/07/01(日) 01:16:35.46ID:qokirKKi永禄4年って第4次川中島合戦の年だけど、このころ梅雪20歳くらいか…
なかなか無茶苦茶な逸話だ
上杉謙信言行録って大正時代に成立した書籍らしいけど、
元ネタが明記されてないから怪しさ爆発してる
序文を見ると著者が
「英雄豪傑のことというと、兎角誤った話が伝えられている。
(中略)、態と誇張したり、潤色を加えたりするので、とんでもない間違ったものとなってしまったのである。
それを確かめるには記録や文書による他ないが、それは史家の任務で、研究結果も乾燥無味で
趣味性の読み物としては、ふさわしくない。
かといって、私は史料を離れて、雑書の説に盲従したのではない。
研鑽して得られるものは子細に研鑽し、事実と認めたところは雑書をも採用しているのである。
煙の立つところには必ず火がある。」
とか言ってる
なんだこのスレと同じことしてるだけかw
0265人間七七四年
2012/07/01(日) 01:36:48.91ID:gqw7mYFI悪い事は言わぬ、其許は刀を捨てるが宜しかろう。
某がさる御家の庭師か門番の職を紹介してやる故、安心召されるが良い。
0266人間七七四年
2012/07/01(日) 04:45:03.30ID:apRfMBK60267人間七七四年
2012/07/01(日) 06:36:09.14ID:gqw7mYFI0268人間七七四年
2012/07/01(日) 07:16:22.22ID:Jp8Ke8at置き換わったというのはあるかな。
義信事件に穴山氏も関わってた可能性もあるみたいなので一族の年長の誰かとか
0272人間七七四年
2012/07/01(日) 08:36:52.03ID:xBkM9F9b0275人間七七四年
2012/07/01(日) 12:39:34.68ID:cFF57zbH利休が庭師に石の高さをあれはこう、ここは一寸高く、そこは・・・と細かく指示しているのを見たその大名は悪戯心を起こした。
夜の間に庭師に命じて二個の石の高さを五分、一寸それぞれ低くしておいたのである。
翌朝利休がやってくるなり、誰がかえたのだろう・・・・とつぶやきながら両方の石を直させるのを見て
その大名は利休の目の確かさに感服したそうな
なぜ大名の名を残さない。
こんなことしそうなのは・・・・誰だ?
0276人間七七四年
2012/07/01(日) 13:19:11.89ID:tKTZmzCJむしろ七哲あたりは自分で庭園作って利休に批評してもらいたがるだろうしなあ
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