戦国ちょっと悪い話32
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001人間七七四年
2012/06/16(土) 10:16:13.81ID:lqw/WNsT戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335874012/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336017262/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2012/06/16(土) 12:36:18.60ID:IBD2787b0003コピペだが・・・
2012/06/16(土) 12:39:33.55ID:IBD2787b( ´・ω・) >>1 大儀であった!好きなものを取るがよい
( ∪ ∪ ただし、自己責任じゃ!何があっても与り知らんぞ!
と__)__)
,ハiヽ.. ┌─┐ ┌───┐ ∞ (・ω・)
ノ"・,,'' ヽミ /. ̄ ̄.\ │狙撃願│ ∈||∋ (( ))
(。,,/ ) ヽミ〜 ∪⌒∪⌒∪ └───┘ || (_)_)
百段 平蜘蛛 稲富狙撃依頼券 蜻蛉切のトンボ 秋田木像
(長可付き) (火薬入り) (成功率13%) (プライスレス)(木像守の役職付き)
┌┬┬┬┬┐ /\ __ ┌───┐
│§§§§│ / \. <ニニニ||=== <´゚ノ `,>《. │GO! │
└┴┴┴┴┘ .(_ 人 _) Φ ` ̄ ̄(∞). └───┘
利家のそろばん 季節外れの大桃 小豆長光 義姫の手料理 八丈島へのチケット
(利家憑依で守銭奴化) (献上品だお) (短い) (毒見禁止) (片道)
←──≪ ┌───┐ ∠二二二ア ┌───┐
←──≪ <ニニニ||===. │ 山内 │ │ 酒 │| ├───┤
←──≪ └───┘ ヽ┴┴┴ ′ └───┘
三本の矢 怪刀痣丸 山内相撲招待券 備前の酒 直江書状
(お兄ちゃん早すぎる) (眼病注意) (一両具足とドスコイ!!) (直家寄贈) (閻魔様によろしく)
0005人間七七四年
2012/06/16(土) 20:06:01.92ID:3tPY/4qo∋≧≦∈ >>1
∠(・ω・ )ゝ こ、これは乙じゃなくて切腹なんだから
/ y/ ヽ 変な勘違いしないでよね!
━(m)⊂[_ノニニニニニニ ̄ ̄ >
(ノノノ l l l ) >/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / /
/ <___/|
|______/
0006人間七七四年
2012/06/16(土) 20:16:36.81ID:RHhpjksdスレたて大義である
0007人間七七四年
2012/06/16(土) 22:51:43.35ID:woxTjZ3q_, ´ `丶 / /. |
xく/ \ / / |
/V / ト'l \ / / |
/:/ .// ' / :l |^゙|│! :l \ / /. |
.::i レ|.:i:|:l⌒|:ト| |l:| |⌒l|:| |'⌒ / / |
|::| .::从:iィri抃N ル斗トV|:| | / /. Ф
|::i ::::〈^|小 ヒ)ソ ヒソ 从|/ ./ / |
|::i ::::人| |ι ` /:lV / / 乙
|:: : /:::::| l\ ∀ .ィ∨ / /
|/:/:::::/| |\` ‐r</| | / /<これは乙であって餌だけ食われたわけではありませんよ
/::::::/´| l、 >〈 Vト| | ./ /
':::/ l八| ∨((:::))| 〉| | / /
'::{'⌒ヽ  ̄| ∨}{∨.>|∧ / /
/:::::| ∨  ̄《_儿_》 | ハ. / /
/:::::八 ∨ O|==〈 ∨ /
/.:::::/:::::'、 ヽ 斗<ア¨¨⌒)
. /::: '|::::::::::∨ )ー‐|::::::::::{ ニ)
//| i:::::i:::::::∨ 〃 ∨:::::∧__´ソ
/ / :j:::::i:::::::::ト、 \_::イ∧\
0008人間七七四年
2012/06/17(日) 00:19:26.46ID:rNepJm1z高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらなる抵抗をしめしていた。
そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)攻略に取りかかる。
しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねていたのだった。
そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳ぎ渡っているのを兵士が目撃する。
報告を受けた小早川隆景は検使の黒田韓米とと相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より攻撃を開始。
浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略するのだった。
この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した男女焼く400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することになり、周防灘が赤く染まったそうである。
0009人間七七四年
2012/06/17(日) 00:23:31.37ID:9/EjLFwS0011人間七七四年
2012/06/17(日) 00:47:48.91ID:FeA03xLKうん、我ながら不謹慎なレスだな
0012人間七七四年
2012/06/17(日) 01:02:58.18ID:GcPvQhKB0013人間七七四年
2012/06/17(日) 02:54:59.51ID:XkOhU6jO遺体を周防灘に流すなんてのは、内外に対する見せしめもあったんでないの。
0014人間七七四年
2012/06/17(日) 03:34:19.38ID:CijZPTMV0015人間七七四年
2012/06/17(日) 04:10:43.57ID:kNgdlHhm0018人間七七四年
2012/06/17(日) 09:47:57.05ID:wvINmDXUまあ香春城を攻める前に二度目の釈放はないか
0019人間七七四年
2012/06/17(日) 10:32:46.87ID:FeA03xLK0020人間七七四年
2012/06/17(日) 18:26:01.67ID:ki6yvYI/上手の茶人たちが皆この世を去ったがゆえ織部が上手に見えてもてはやされておる。
だがな・・・当世の茶人どもはその織部にも遠く及ばぬ者ばかりなのじゃ(´・ω・`)フゥ…
三斎様の近頃の若い者はなお話
0021人間七七四年
2012/06/17(日) 19:13:47.71ID:LF71Jdc70022人間七七四年
2012/06/17(日) 20:35:52.08ID:CijZPTMV0023人間七七四年
2012/06/17(日) 20:50:46.98ID:FeA03xLKいつまでたっても精神年齢三歳のままだ
0025人間七七四年
2012/06/18(月) 09:39:06.81ID:JQwGnOdV0026人間七七四年
2012/06/18(月) 09:53:25.22ID:nvGXQihq0027人間七七四年
2012/06/18(月) 10:37:43.22ID:jKBBDagP古田織部 言われた人
織田有楽 存命
高山右近 存命だが金沢
蒲生氏郷、物故
芝山監物 不明
瀬田掃部 処刑済
牧村兵部 朝鮮で没
荒木村重 物故
0028人間七七四年
2012/06/18(月) 17:36:43.72ID:TOaqXHhj0029人間七七四年
2012/06/18(月) 17:57:52.02ID:W9oqS2v70030人間七七四年
2012/06/18(月) 18:18:47.53ID:9FnLyRed0031人間七七四年
2012/06/18(月) 20:26:58.32ID:QNxDRloj後世の評価では三斎様より織部の方が圧倒的に評価高いからなあ
創意工夫を続けた織部と利休の作法を墨守した三斎様では前者の評価が高くなるのは仕方ない
0032人間七七四年
2012/06/18(月) 20:36:01.49ID:eC8waPxB0033人間七七四年
2012/06/18(月) 22:26:33.04ID:cRSyYLnC何をする時も茶の湯絡みだからな
しかもそれで茶の湯馬鹿としての評価はうなぎ登りになるというw
0034人間七七四年
2012/06/18(月) 23:23:14.37ID:a6mb/eG40036人間七七四年
2012/06/19(火) 17:42:03.90ID:EmjsoCwqあらためて見ると利休の高弟って
頭のネジがちょっと飛び気味な人が多い気がする
良くも悪くも南蛮かぶれ率高いし
0037人間七七四年
2012/06/19(火) 18:11:27.71ID:+D51LTxj0038人間七七四年
2012/06/19(火) 20:17:58.02ID:JH30sZNb普通に田中利休でいいだろうに
0039人間七七四年
2012/06/19(火) 20:28:09.77ID:omQLERFP0040人間七七四年
2012/06/19(火) 20:36:09.96ID:bVwEYcPh0042人間七七四年
2012/06/19(火) 21:23:31.28ID:I7GNrwE50043人間七七四年
2012/06/19(火) 21:24:13.83ID:I7GNrwE50044人間七七四年
2012/06/19(火) 21:30:24.26ID:jF3RBF9q0046人間七七四年
2012/06/20(水) 00:13:05.50ID:PJfY082c村田珠光 侘び茶の開祖
武野紹鴎 侘び茶を継承
千利休 侘び茶を大成
古田織部 大名茶
小堀遠州 綺麗さび
三歳様....(´・ω・`)
0047人間七七四年
2012/06/20(水) 00:27:18.76ID:3mwhdrwn0048人間七七四年
2012/06/20(水) 00:34:29.56ID:60T+aq8cメインストリームだけだと省略されがちだけど、茶人の逸話系の本だと頻出になったりもする三斎様
0049人間七七四年
2012/06/20(水) 00:53:09.11ID:3mwhdrwn0050人間七七四年
2012/06/20(水) 01:33:39.98ID:wA+M4wC80051人間七七四年
2012/06/20(水) 01:36:32.36ID:Ecl6qRcyむしろマー君のパパが歴代の中では異質
0052人間七七四年
2012/06/20(水) 15:18:13.89ID:YKSpc3r6天正19年(1591年)、ポルトガル領インドから日本に使節が届いた。
秀吉はこれに返書を出すとともに、返礼としていくつかの品物を用意した。
その内訳は、甲冑2領、薙刀・太刀・打刀・脇差がそれぞれ一振りずつ。
さらに小袖20枚が加わるはずだったが、秀吉がこれを北政所に見せたところ、北政所がいたくこれを気に入り、周囲の家臣たちも
「インドからはたくさんの絹の品物がきたのだから、向こうではそれは珍重されないでしょう」
と言ったため、小袖はねねに与えられた。
なお、刀剣についても「ポルトガル人は刀身よりも装飾の方を気にし、価値を鑑定できるものはいないので、送るのは無駄なことです」
と言う者がいたが、秀吉は
「たとえ相手に価値を鑑定できる者がいなくても、余のような立場の者が優れていないものを送るのは良くない。
余は日本で価値が高いと信じられている物を送ったという評判が永久に残るのを望んでおり、適当なものを送ったなどと噂されたくない」
と言ってこれを退けた。
0053人間七七四年
2012/06/20(水) 20:43:49.96ID:GcAuAipGもったいない、なんで?って思った事があるけど、刀剣に対する価値観が全然違ってたんだな
そして400年前の武士がその事を知ってたのか
0054人間七七四年
2012/06/20(水) 20:56:26.77ID:eNBVepZF0055人間七七四年
2012/06/20(水) 21:22:19.86ID:827IoW0k0056人間七七四年
2012/06/20(水) 21:33:18.67ID:eyRTNYac0057人間七七四年
2012/06/20(水) 22:22:15.27ID:3mwhdrwn勿体無いのは戦地でそのまま持主と共に朽ち果てたり、内地に進駐軍が来る前に埋めたり廃棄されたりした刀…
0058人間七七四年
2012/06/20(水) 23:06:12.30ID:N1H1AwKq0059人間七七四年
2012/06/21(木) 00:02:46.19ID:x3xjk6YB0060人間七七四年
2012/06/21(木) 00:04:49.18ID:ltWkLfs50061人間七七四年
2012/06/21(木) 00:07:54.89ID:7x7/Irpi0062人間七七四年
2012/06/21(木) 01:23:00.45ID:9Oh3YIzE0063人間七七四年
2012/06/21(木) 03:43:39.97ID:5vqeqewn0064人間七七四年
2012/06/21(木) 04:55:28.81ID:x3xjk6YBそれこそ伝家の宝刀とかってんなら遺棄はしないだろうが…
0065人間七七四年
2012/06/21(木) 12:35:41.18ID:wcUDvhvz0067人間七七四年
2012/06/21(木) 18:24:23.37ID:Biwd+Gpm普通に何度も研ぎを入れるだけでも刀身が痩せてしまい、初期の姿が保てない
よって名刀は美術的観点から考えると、使用しないことが望ましい
0068人間七七四年
2012/06/21(木) 18:41:44.06ID:wcUDvhvz0070人間七七四年
2012/06/21(木) 19:02:00.19ID:6PBHZxiB0072人間七七四年
2012/06/21(木) 19:27:40.42ID:hWxvXE7w生涯に212人もブチ殺しておきながら
「ワシの流儀は戦わずして勝つ(キリッ)」とか言っちゃう剣聖がいるらしい
0073人間七七四年
2012/06/21(木) 19:36:44.59ID:NkL3lkMW0074人間七七四年
2012/06/21(木) 21:57:55.02ID:dR41ppxHこの贈り物、
1594年12月に、マドリード郊外のエスコリア宮で、
フェリペ二世(当時ポルトガル王兼任)らに披露されたそうな。
1884年に火事で焼けたそうだけど、
ある程度原型たもった甲冑が残っているって、歴史群像で読んだことがある。
0075人間七七四年
2012/06/21(木) 22:09:05.24ID:dR41ppxHとあるから、立派なもの贈った意味は、面目保つと言う意味ではあったと思うw
なにこのガラクタとかされたら恰好悪いしw
0076人間七七四年
2012/06/21(木) 22:46:18.00ID:1xqbsN7a今頃どこかの歴史博物館で西洋の武具と日本の武具が並び立ってたのか。
惜しいな
0077人間七七四年
2012/06/21(木) 23:09:27.49ID:hWxvXE7wマドリードの王宮武器庫に日本甲冑が3領所蔵されている。
仁王胴具足・本小札色々威丸胴・伊予札色々威腹巻。
腹巻は伝わった時代が違うようだが、他の2領は秀吉がフェリペ2世に贈ったものという。
当時の記録とも甲冑の描写と符合するので間違いないだろう。
19世紀の末に武器庫が火事になった際に損傷し、残欠が整理されて現在に至る。
で、その丸胴具足は大袖を備えているが、全体の性格は実用より儀礼性が高いものだ。
同時期に作られた贈り物や儀礼用の本小札丸胴(ロンドン塔にある、
徳川秀忠がジェームス1世に贈ったものなど)にも同様に大袖が付随していることからも、
文禄・慶長期には、大袖は実戦から遠ざかっていたと見ることができるのではないか。
このときの戦場ではより動きやすい壷袖・蝶番袖や袖なし籠手のみが多かったかもしれない。
甲冑の詳細は土井輝生の『武具甲冑紀行』の1巻をどうぞ。
0078人間七七四年
2012/06/22(金) 16:26:37.14ID:/ftld+HA秀吉の九州攻めの最中、司祭ガスパル・コエリョは秀吉を訪問するため、先に博多で待機していた。
そこでコエリョは、同地に足利義昭がいることを知った。
秀吉が備後から連れてきていたのだ。
コエリョは日本の風習通り、贈り物を携えて彼を訪問した。
『公方様は司祭を特に優遇し、きわめて教養ある言葉を用いて彼と語らい、手ずから杯と肴を供し、日本式の麻衣である
カタビラ(帷子)二着を贈与した。
彼は談話の間、しばしば、かつ長時間にわたって、すでにデウスの教えについては幾ばくかの事を聞いているが、それらはことごとく神聖、
また正当な宗教であり、全く道理に基づいているものと思われる。
よって自分が当初の将軍職に復帰した暁には、当日本66ヵ国の全てにおいて、デウスの教え以外にはいかなる教えも説いてはならぬ
と厳命するであろう。
下関においては、その地を通過する際に1、2度キリシタンの話を聞きはしたが、なにぶんにも道中のことで引き続き聴聞できなかった
ことゆえ、予に説教するため修道士を派遣してくれるよう尊師に願う次第だ、と語った』
どう見てもこの話とリンクしていると思われたので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6516.html
0079人間七七四年
2012/06/22(金) 19:30:03.58ID:eB8HCZ9D細川ガラシャの侍女に、霜女という人が居た。彼女の夫は明智光秀に使えた入江兵兵衛という武士であり、
山崎の戦いで討ち死にした。その縁のためであろうか、霜女は細川ガラシャ夫人に仕えた。
以下、霜女による細川ガラシャ夫人の最期に関する証言である。
『石田治部少輔乱(関ヶ原)の年7月12日に、小笠原昌斎・河北石見の御両人が台所(奥)に参られ
私(霜女)を呼び出し、こう申された
「治部少輔方より、何れも(徳川家康とともに)東に出陣された大名衆から人質を取るのだという風聞を
奥方様(ガラシャ)はご存知でしょうか?ご存知だとしたら、この事についてどのようにお考えに
なっているのでしょうか」
私はこれをその通り秀林院様(ガラシャ)に申し上げました。秀林院様がこれを聞いて仰ったのは
「治部少と三斎様(忠興)とはかねがね御関係が大変悪いので、定めて人質を取る時はまっ先に我が方に
要求してくることでしょう。もし最初でなければ、他家の対応を見ながら考えることも出来るでしょうが
一番にそれを要求してくればどうするべきか、昌斎・石見によく検討してみるよう伝えなさい。」
私はこれをまた、その通りに両名に伝えた。これを受けて小笠原昌斎・河北石見は、
「石田方より人質を要求されれば、『忠興様のご子息である与一様(忠隆)、同じく与五郎様(忠秋)は東に
出陣成されているし、内記様(忠利)は江戸に人質としてあります。現在我が方には人質に出すべき者は
一人もおりません。よって人質を出すということは不可能です。どうしても人質を出せというのなら、丹後に
使者を出して、幽斎様に京に上って頂き人質になって頂くしかありません。それを申し使わす時間もあるので、
それらの調整が終わるまで人質の件はお待ちくださるように。』と返答すると言われ、これに秀林院様も
「それこそ然るべきである」と仰られた。
そのような時、”ちやうごん”と申す比丘尼があり、これは常々御上様(ガラシャ)の元に出入りしていたのであるが、
石田方はこの人を頼み、内々に「(ガラシャに)人質に出るように」何度も申し上げた。しかしこれにも
「三斎様の御ためにも、人質に出ることはどんな事があろうとも同意できない」
と拒否された。その後この比丘尼が参られ今度は「そういえば宇喜多秀家様の奥方と、忠興様嫡男忠隆様の奥方は
同じ姻戚(両方前田利家娘)であり御一門であります。ならば宇喜多殿の屋敷に入るということでもいいのです。
その分には、人質に出たと世間も申しますまい。そうなされませ。」
これを聞いた御上様は
「宇喜多の八郎殿(秀家)は確かに一門ですが、これも治部少の一味ではありませんか!そこに出るのも
同じ事です!」とこれも拒絶した。
16日、石田方より公式の使者が参られ、「是非是非御上様を人質に出して下さい。それを聞き入れないのなら
我らは押し入ってでもその身柄を頂く!」と申しよこした、
この強行な姿勢に小笠原昌斎・河北石見は激怒した。
「あまりの申し様ではないか!この上は我らが切腹する事態になっても、絶対に人質に出ていただく訳にはいかない!
これにより屋敷中の者たちは覚悟を決めました。御上様の御意には
「本当に石田方が押し入って来たら自害いたします。その時は昌斎が奥に入りなさい。私の介錯をするように。」
と仰せになられた。与一郎様の奥方も人質に出してはならない。これも一緒に御自害なされると言うことも、
内々に約束された。
小笠原昌斎・河北石見・稲富祐直などが談合し、稲富は表にて敵を防ぎ、その間に御上様にご最期を迎えて頂く、
という事に決まった。そのため稲富は屋敷の表門に居た。そしてその日、夜の入の頃、敵が御門前まで押し寄せた。
0080続き
2012/06/22(金) 19:30:59.70ID:eB8HCZ9D御上様御座所へ参り、「只今が、ご最期の時です」と申し上げた。内々に約束してあったことなので、与一郎様の
奥方様を呼んで、一ヶ所で果てられようと、奥方様のお部屋に人を遣わしたが、もはやどこかに落ち延びた後であった。
最早仕方のない事なので、御上様はお力なく、お一人で御自害なされた。昌斎が長刀にて御介錯された。
その前に御上様は三斎様・与一郎様への書置を作られ、それを私に御渡しになり仰せられたのは、”をく”と申す
女房と私の両人は落ち退きてこの書置を届け、最期の様子を三斎様に申し上げるように、とのことであった。
私は「ご最期を見捨てて落ち延びるなど出来ません!どうかお供をさせて下さい!」と申し上げたが、
「二人は落ちるのです。そうしなければ、一体誰が私の最後の様子を伝えるのですか?どうか、お願いします。」
そう仰られたために、私はその御最期を見届けて屋敷の外に出た。内記様(忠利)ご存じの方には、内記様への
御形見を遣わされた。
私達が御門に出た時には、もはたお屋敷に火がかかっていました。御門の外には大勢の人が居ましたが、
後に着いた所によると、それは敵ではなく、家事を見物しに集まった人たちであったと言うことです。
敵も居たのですが、それらは稲富を引き連れて、御上様のご最期以前に引き上げていったのだそうです。
この事も、後になって知りました。
お屋敷において切腹されたのは、小笠原昌斎、河北石見、石見の甥六右衛門、同じく子一人、このあたりは
覚えております。他にも2,3人も切腹されたと思いますが、それははっきりとは覚えていません。
細々としたことまでは書き付けられませんでしたが、だいたい概略はこういうことでした。』
(霜女覚書)
0081人間七七四年
2012/06/22(金) 19:49:56.66ID:dsc/DapB0082人間七七四年
2012/06/22(金) 19:53:38.30ID:371T431n稲富さんが上手く騙してくれたんだね!
0083人間七七四年
2012/06/22(金) 20:27:06.35ID:7dxXa9EY0084人間七七四年
2012/06/22(金) 20:38:49.58ID:Yew3VIlI0085人間七七四年
2012/06/22(金) 20:57:48.57ID:iFDQZ7aD興味本位で戦を見に行って巻き込まれて死んだ奴とかいっぱいいたんだろうな
0086人間七七四年
2012/06/22(金) 21:12:18.69ID:MnPLGTVQ代わりにわしを人質として連れて行けみたいなことを言ったのかね?
0087人間七七四年
2012/06/22(金) 21:23:37.24ID:PMARcdPpって脅して三成に説明しに行っただけだったりして…
0088人間七七四年
2012/06/22(金) 21:28:22.75ID:CxmBMAPS「だったら、稲富は逃げたのであろう、あいつは腹を切るようなやつじゃない」って三歳様は言ってたりする。
0089人間七七四年
2012/06/22(金) 21:30:55.29ID:iFDQZ7aD0090人間七七四年
2012/06/22(金) 21:53:13.07ID:S5/vHg8V怖いような面白いような。
0091人間七七四年
2012/06/23(土) 00:14:22.85ID:3r7dyb+D0092人間七七四年
2012/06/23(土) 00:24:43.63ID:FEE8Fg+wこの思いを共有したく…。(既出だったらスミマセン)
噺家さんで「三遊亭歌武蔵」という師匠がいらっしゃいますよね。
武蔵川部屋のお相撲さんだったという経歴のある方です。
最近ここのスレとかまとめサイトとかを見るようになって、
その影響か、つい師匠のことを「三遊亭鬼武蔵」と
言いそうになって気付いたんですが、
力士時代「森武蔵」というしこ名だったんですよね…。
いや、本名が若森さんだからだとは思うんですが、岐阜県出身だし…。
0093人間七七四年
2012/06/23(土) 09:23:30.25ID:3eke8mgx逸話スレで悪名を馳せてからそれを知ると
朝青龍みたいな感じを想像してしまう。
0094人間七七四年
2012/06/23(土) 12:05:52.67ID:G24LmmGy0095人間七七四年
2012/06/23(土) 12:34:53.35ID:uD1byG+X0096人間七七四年
2012/06/23(土) 12:57:45.33ID:wazEjIhL0097人間七七四年
2012/06/23(土) 12:58:09.86ID:Ia2lEB/+0098人間七七四年
2012/06/23(土) 13:05:33.06ID:sw93JDny0099人間七七四年
2012/06/23(土) 13:08:03.71ID:9U8evgnK0100人間七七四年
2012/06/23(土) 13:15:36.95ID:3nrTBRmgあのあと一度、三斎さまのところに顔出した話はあったよね、そこで何らかの申し開きはあったかも
ただそれを表に出してしまうと勘違いで自害したマヌケということになっちゃってまずいから
稲富が泥をかぶったままとし、身柄は徳川が召抱えたからもう手が出せないっす、という体にしたとか
のこのこ出て行った時に斬られなかったのがガラシャがらみの三斎さまの対応として不自然極まりねぇ・・・
0101人間七七四年
2012/06/23(土) 14:08:34.50ID:C+9ijvklあるいはすでに36人斬ってたか
0102人間七七四年
2012/06/23(土) 14:21:05.47ID:E+Y5tmlo確かに、敵前逃亡か裏切りかで味方見殺しにした、それも当主の妻をも見殺しにした訳だから
忠興じゃなくとも斬られてもおかしくない失態だよな
ヘタレの稲富にしてはさっさと忠興の方に顔を出してるし、言うとおり稲富が悪いという事にして事態を丸く収めたのかね
0103人間七七四年
2012/06/23(土) 14:24:49.68ID:6HtTLQ3l「さて又、信長記を見るに偽り多し。3分の1は実際にあったことがだ、3分の1は似たようなこともあった。
しかし残りの3分の1は全く事実のない、信長記の作者の創作である。
自分の贔屓のものの逸話を、自分の知恵のあるままに上手く捏造したのだろう。」
という批判が有名だが(ただし三河物語のここに言う”信長記”は、太田牛一のいわゆる「信長公記」だという説もある)、
実は「常山紀談」にも小瀬甫庵への批判が収録されている。しかもそのネタ元の人からの!
『小瀬甫庵は町医者であり、加賀の金沢に住んでいた。
甫庵は、前田利家の家臣であった横山山城守長知の元に心やすく出入りし、毎晩のように夜話を楽しんでいた。
横山長知は尾張の出身であり、織田家のことをよく覚えていたので、甫庵は信長のことを毎回尋ね、さらに
秀吉のことも問いただした。
長知はが、あることは詳しく、あることはうろ覚えを語り聞かせた事を、甫庵は筆記し、信長記、太閤記の二部の書を著し、
世の中に発表した。
この事を知った横山長知は
「信長や太閤のことを筆記するために尋ねたと知っていれば、もっと答えようがあったのに!
遺漏も多く、語り尽くしていないことも多い。
筆記し出版するということを全く知らせなかったために、ただこの場だけの物語として言い聞かせたのに、
それをそのままに書著するとは、今更ながら甚だ遺憾なことだ。甫庵はまったく馬鹿者である!
(今に於いて甚遺憾なり。甫庵馬鹿者なり)」
そう言い捨てたそうである。』
甫庵のネタ元、横山長知、大いに憤る。というお話。
0104人間七七四年
2012/06/23(土) 16:55:03.33ID:3eke8mgxまるでマスコミが事件現場周辺の住民にインタビューしたのを
都合よく編集した感じだな
0105人間七七四年
2012/06/23(土) 17:37:50.48ID:7MWDdH3C0106人間七七四年
2012/06/23(土) 20:00:07.39ID:3eke8mgx稲富「屋敷の中では既に皆自刃して果てた、これ以上の狼藉は無用!」
石田方「ちぇっ死体じゃ人質にならねーから引き上げるか、代わりに生きてるお前連れてくわ」
稲富「あーれー(皆様方、今のうちに落ち延びなされ」
とか言って上手く相手を丸め込んだつもりが
中の人が稲富裏切ったもう駄目ポ→奥方自刃&屋敷に火を放つとかだったら悲しすぎる
0107人間七七四年
2012/06/23(土) 20:53:08.84ID:3nrTBRmgということは実はその時点で人質が成立してた可能性があるのか?
自害モードに入っちゃって説得聞かない人達を無視して稲富(さくせん:いのちをだいじに)
が独断もしくは嫡男周辺で計らって石田方を退かせたけど連絡間に合わず、みたいな
そうするとその後の嫁が逃げたことで三斎激怒して忠隆が廃嫡になったってのも
いろいろありそうな・・・
0108人間七七四年
2012/06/24(日) 01:06:50.77ID:PCMdbXAzガラシャを永遠に自分のモノにしたい忠興は
関が原に際してガラシャが石田方に捕捉された時点で死ぬ手はずにしていて、
その時に全責任をかぶせる役として稲富をガラシャにつけてた……というのはどうだろう
稲富なら、それなりの立場ながら正直使いどころのない奴だし、
一度逃げたら現場に引き返す事はないだろうし、
「稲富が帰って来た」という事が「ガラシャの死」を確定させる暗号みたいな役割を帯びるだろうし
つまりあの現場では脇役のようだった稲富だけが事の流れが見えていた状態だったとか
0109人間七七四年
2012/06/24(日) 01:14:49.40ID:XCF0KyZA上野を北条領、甲斐と信濃を徳川領とする事で和睦した。この和睦の証として、家康の娘である督姫を正室に迎えた氏直は
ある日、家康から中国産のミカンを贈られたのだが、北条家の面々はこれをただのミカンと勘違いし、
「徳川領ではそんなにミカンが珍しいのか。ならば山ほど送って驚かせてやる。」
大箱いっぱいのミカンを送り返した。これを受け取った家康は
「氏直はまだ若いから仕方ないが、老臣たちも一緒になってこんな子供じみた真似をするとは、
北条家も滅亡の運命にあるな。」
と冷笑したという。
0111人間七七四年
2012/06/24(日) 01:18:46.41ID:cg09ikiR今月頭にも出た
0112人間七七四年
2012/06/24(日) 01:26:45.77ID:PCMdbXAzこっちの話だとオレンジだね
統合すると、北条に送られた物候補は、オレンジ、九年母、中国ミカンか
0113人間七七四年
2012/06/24(日) 01:53:12.07ID:lQVuy8FS0114人間七七四年
2012/06/24(日) 02:39:06.80ID:KNx+oA6x日本人は判官贔屓大好きなんじゃねーのかよー
0115人間七七四年
2012/06/24(日) 02:52:45.06ID:XCF0KyZA1586年、徳川家康が織田信長の後継者として勢力を伸ばしていた豊臣秀吉に臣従し、北条家も服属を迫られる状況となった。
家中では、当主の氏直ら恭順派と、家中に強い影響力を持つ父の氏政ら交戦派に分かれたが、家康の
「こちらの説得を聞き入れない場合は同盟破棄も辞さない。」
という強い説得を受け、秀吉に使者が送られる事になった。その後、北条家と豊臣配下の真田家との間に会った領土問題に秀吉が
裁定を下し、北条家もこれを受け入れて、氏政が上洛し臣従の意を示すことで話がまとまりかけた。所がそこに、北条家家臣、猪俣邦憲が
真田配下の名胡桃城を奪取するという事件が勃発した。これに激怒した秀吉から
「必ず氏直の首を刎ねてやる!」
と宣言されると、氏直は
「北条家は何も知りません。父の氏政は上洛させますが、そのまま抑留されるなどの噂もありますので、
かつて家康殿の上洛に際して豊臣家から人質を出した様なご配慮お願いします。」
といった弁明書を送り、家康にもとりなしを頼んだものの、聞き入れられる事は無かったという。
0117人間七七四年
2012/06/24(日) 03:17:14.57ID:c3mdYiEV最近、判官贔屓に拒絶反応が出るようになって
やっぱり時代を作った人のほうが凄いやって思うようになったな
0118人間七七四年
2012/06/24(日) 03:48:00.62ID:CDjhDghM信長みたいな武将に今の閉塞した空気を作り替えてもらいたい
0119人間七七四年
2012/06/24(日) 04:36:38.31ID:L7BEoLx50121人間七七四年
2012/06/24(日) 08:35:38.39ID:6PanonHY> 593 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/14(木) 12:19:34.12 ID:sqRAU7+v
> 織田配下だった逸見昌経は
> 8000石の所領を持ち若狭衆筆頭として活躍。
> 天正9年2/28に馬揃いに傘下したが3/26に死去。
> すると信長は所領全没収の上
> 5000石を溝口秀勝に
> 3000石は武田元明に分配され
> 子の源太虎清は追放される。
> なんら罪もなく武功を重ねてきたのに・・・
> こんな暴君はありえない。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1331989369/
0123人間七七四年
2012/06/24(日) 09:25:33.31ID:UaJtz3Jfはめるのは簡単だろう
0124人間七七四年
2012/06/24(日) 09:52:41.86ID:F/V7u639猪俣が北条勢の防衛戦のことを考えて名胡桃城を奪取したみたいだよ。
戦術的な判断で、あの城取ると上野の防御の助けになるとか。
また氏康時代から、本城の小田原で侵攻軍を受け止めて、支城で絡め取る戦法が通用してたから、
豊臣勢にも同様に通用すると思ってたらしい。
でも豊臣の攻勢は一拠点で支えられる規模では済まなくて、
四国や九州を攻めたように多方面から大軍を投入してきた上に、補給も完璧だったからご存じのとおり小田原も落ちた。
完全に秀吉の戦略勝ちで、関東の一武将では思いつかないくらいスケールが大きい攻勢だったんだね。
0126人間七七四年
2012/06/24(日) 11:50:49.76ID:lQVuy8FSナンバー2とナンバー3が縁戚でラスボスもあんまり無茶できないだろうな
0129人間七七四年
2012/06/24(日) 12:26:35.09ID:26aRAo2Sそれこそ小牧長久手から小田原合戦までの8年間、ほぼ絶え間なく。
こういう状況があるから北條もうかつに秀吉を信じるわけには行かなかったし、常に警戒を行う必要があった。
0130人間七七四年
2012/06/24(日) 12:29:32.06ID:1Z8Av8D30131人間七七四年
2012/06/24(日) 12:32:25.85ID:7p6rjKG8秀吉的にはそんなめんどくさい状況にしたくないだろうなあ。
ちゅーことはやっぱり北条はどう対応しても潰されたんじゃなかろうか。
0133人間七七四年
2012/06/24(日) 12:35:07.14ID:SG+Vq1CYその上、本能寺の変の直後にすぐさま織田を裏切っていたしなあ
0134人間七七四年
2012/06/24(日) 12:40:59.24ID:cg09ikiR家康「北条からミカンが山ほど送られてきた」
秀吉「これほど見事なミカンを産出する国がそばにある。
北条はなんとしても滅ぼさなければならぬ」
加藤清正(大カトー)加藤嘉明(中カトー)加藤光泰(小カトー)
「そうだそうだ」
0136人間七七四年
2012/06/24(日) 16:40:53.77ID:+k+xMmvQ名胡桃城と沼田城って利根川を挟んでだいたい3qくらいしか離れていないんだよね。
晴れた日なら見えるくらいの距離だから、そこが敵方のままでは沼田城を活かしきれない。
0137人間七七四年
2012/06/24(日) 17:08:07.40ID:2bQdFUfL0138人間七七四年
2012/06/24(日) 20:26:10.69ID:vC4ERPjY「北条の兄弟衆が上洛したら事態は最悪だぞ」って警告する書状が残ってるみたいだし
石田ごときの讒言に左右はされないだろうけど、秀吉が北条滅ぼす気満々だったのはこの辺も関係するのかな?
対して家康はギリギリまで秀吉と北条を取りなそうとしてたし、戦後も氏直赦免に奔走した
三成と家康の対立って結構早い段階から始ってたのかな
0139人間七七四年
2012/06/24(日) 21:22:44.68ID:c3mdYiEV0140人間七七四年
2012/06/24(日) 22:10:35.42ID:F/V7u6390141人間七七四年
2012/06/24(日) 22:28:21.99ID:26aRAo2S今川氏真養子として今川の継承権を、
武田信玄娘黄梅院の子として武田の継承権を所持しており、
さらに徳川家康の娘婿という、東国大名のサラブレッドにも程がある存在だったりするw
0142人間七七四年
2012/06/24(日) 22:40:51.06ID:NR1LLmj60143人間七七四年
2012/06/25(月) 01:48:44.21ID:kz64S8gr下総の国葛飾郡にかつて葛西城という城があった。詳しい創建の時期は明らかになっていないが、15世紀中ごろにはすでに存在していたようである。
はじめ関東管領上杉方の城であったが後北条氏の手によって天文7年(1538年)に陥落。後北条氏により整備され規模も拡張されたが、天正18年(1590年)後北条氏の滅亡により城としての役割を終えた。
この葛西城での発掘調査ではいくつか不思議なものが発掘されている。
漆器の椀や将棋の駒、下駄、櫛、陶器類などの日用品に交じってヒコサンヒメシャラ(英彦山姫沙羅)という植物の種が発見されているのである。
このヒコサンヒメシャラは椿の仲間で白い花を咲かせるのだが、神奈川以西に自生する花であり、おそらく小田原から持ち込まれたものだと考えられている。
さて、もうひとつ見つかって大変驚かれたものだが…。
堀の中から見つかったのはなんと女性の頭骨。しかも打ち首にあったと見られる刀傷がある。
泥の中から発掘され、茶色く変色した頭骨の持ち主がどういう人物であったのか、どういういきさつで打ち首にあい、首が堀の中に紛れ込んでしまったのかは全くの不明である。
人質か何かで囚われ、斬られてしまったのでは等諸説あるが、はっきりとした資料がないためわからない。
ただ、現代人である私たちに戦国の世の苛烈さを伝えるばかりである。
葛西城から発掘されたヒメシャラと女性のしゃれこうべの話、乱文大変失礼いたしました。
0144人間七七四年
2012/06/25(月) 02:19:21.44ID:kWkmw88L大河ドラマ「武田信玄」に出てくる八重のような女中だったとか?
0145人間七七四年
2012/06/25(月) 06:30:47.05ID:GQJ4ExFuめちゃ北条氏推してたわ。
0150人間七七四年
2012/06/25(月) 14:04:21.72ID:w5p0GLbehttp://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume015.html
0151人間七七四年
2012/06/25(月) 14:25:37.25ID:kz64S8grこんなのやってたのか…ありがとうございます!
余談ですが第二回国府台合戦で氏康公が指揮する主力はここ葛西城周辺方面で集結して現在の江戸川のからめきの瀬を渡ったそうです。
あ、からめきの瀬に関しては以前に投稿させていただいたこちらをご参照くださいttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%CC%F0%C0%DA%A4%EA
0152人間七七四年
2012/06/25(月) 16:03:10.84ID:9NNhsfhsむしろ絶対生かしておけないだろ
旧三国同盟の遺臣をすべて統合できる人物なんだから天下人にとって不発弾でしかない
信長は実子を養子として送り込んで家と権威を乗っ取るかもしれない
家康は事実、娘を嫁がせて敵対しないよう懐柔した
しかし、秀吉は上記の手段をとれないため潰すしかなかった
0153人間七七四年
2012/06/25(月) 17:31:53.64ID:TO9LxSsc0154人間七七四年
2012/06/25(月) 17:37:23.99ID:11IoEfL6足利の代々とか、尼子勝久とか
0155人間七七四年
2012/06/25(月) 20:41:04.27ID:2q+p2wux少弐氏は当主戦死しまくりでも担ぎ手がいたからこそ存続し続けた
0156人間七七四年
2012/06/25(月) 20:54:51.79ID:qlwlUqNP0157人間七七四年
2012/06/25(月) 20:58:42.81ID:Y1J64Gdh0158人間七七四年
2012/06/25(月) 21:07:44.26ID:EQh3PZnKって言っておいて
「乗っ取っちゃった☆(・ω<)」
もしくは
「譲られちゃった☆(・ω<)」
ってのも多々あるしなー、いつの世でもネームバリューとかブランド的なもんって大事だしね。
0159人間七七四年
2012/06/25(月) 22:01:45.13ID:nkKcnEi30160人間七七四年
2012/06/25(月) 22:09:51.52ID:iVnGGrGo0161人間七七四年
2012/06/25(月) 22:45:13.11ID:IlxS+/yh0162人間七七四年
2012/06/26(火) 00:25:43.31ID:NTi7wZTKもしかしたら面白い展開になったかもしれないのに
0163人間七七四年
2012/06/26(火) 00:26:04.92ID:0z2ov9u8子供の時は判官贔屓だったけど大人になると意図的に家康や源頼朝を悪に造り上げて
自分らは被害者、犠牲者です悪いとこないと主張する半官贔屓の不平等な歴史観を見て嫌になった
豊臣家の約束を裏切ったのは家康と印象をさせておいて三成の方が実は先だったことを知った時は
もう見切りがついたわ
今の日本や世界状況を見ると
本当に悪いのは卑怯なことより、国を失い、民衆に大勢犠牲をだすことだわ
0164人間七七四年
2012/06/26(火) 00:46:18.11ID:rei3rAYe秀吉のキチ老害っぷりが一般常識化したら「史観」も変わるのだろうか
もし徳川家の助けなしで豊臣政権続いてたらと思うとゾッとする
更に荒れてまた乱世、最悪それにつけこんだ欧米諸国の植民地ルートだろうか
0165人間七七四年
2012/06/26(火) 05:51:50.42ID:jVex21Jb死の直前まで新しい領地経営に向けて奔走する逸話があったな
氏直が長生きしたら股間の槍の人はどうなんだろうな
0166人間七七四年
2012/06/26(火) 06:09:45.28ID:Nd6t/5tC勝者が臭いものに蓋をして作った歴史の裏側を
見てみようとか可能性を考察しようとかするのも大事なことなんで
秀吉と比べて家康のケチで内向的な部分が
後々の大規模一揆や尊王討幕運動を招いた幕府の体質に関わっていないかとか
0167人間七七四年
2012/06/26(火) 07:56:37.84ID:gIXLOw3F判官贔屓が無くなって勝者のみを讃えるようになったら、色々とつまらない世界になりそうだ
0168人間七七四年
2012/06/26(火) 08:06:41.70ID:brnI6XQjその点で言えば、明治政府が家康や幕府を貶めてる方が大きいぞ。
お前さんが家康は内向的だと思いこんでる時点で弊害は明らかだし
0169人間七七四年
2012/06/26(火) 08:09:24.74ID:pr+8WZq90170人間七七四年
2012/06/26(火) 08:29:20.16ID:gIXLOw3Fアダムスっていう外国人の顧問がいたり、薩摩の琉球支配の許可を出したり、秀吉よりもずっと外向的だった
0171人間七七四年
2012/06/26(火) 09:32:49.51ID:OX5WhbVaちょうど力が入れ替わる時期でもあるし
0172人間七七四年
2012/06/26(火) 14:33:41.99ID:WsNjgq8D0173人間七七四年
2012/06/26(火) 15:26:11.59ID:4sMOLDg2じゃあ、政策に関係ない個人的な性格が内向的だって非難してんの?
0174人間七七四年
2012/06/26(火) 15:59:21.59ID:Nd6t/5tCなんで単発IDが必死に家康擁護してんの?
0175人間七七四年
2012/06/26(火) 17:16:07.55ID:xaPAhqyY徳川幕府が倹約せざるを得ない原因を作ったのは家康が倹約家だったからじゃなくて、
家光が家康・秀忠が蓄財した金銀全部使い果たして、
そのうえ大奥とか(金銭的に)負の遺産を後世に残したせいで財政がすごい勢いで傾いたからだぞ
さもなくば綱吉が財政改革に着手する必要なんて無かったのに
0176人間七七四年
2012/06/26(火) 18:27:53.30ID:Nd6t/5tC積極的に敵からも人材を発掘して取り立てるという部分で
秀吉と比べて身内びいきというか無難だった家康の方針が
幕末の外様の反抗に繋がらなかったかどうかってことね
0177人間七七四年
2012/06/26(火) 18:38:33.20ID:8FV9WQRU三傑どころか戦国大名全ての中で外国人まで政権ブレーンに加えたのは家康だけだぞ?
それに秀吉が身内びいきでないように言うが、そもそも「身内」の極端に少ない秀吉は特殊例中の特殊だろ。
しかも数少ない身内はきっちり厚遇してるし。
ついでに言えば家康は、政権とった後は、外様や新参を厚遇しすぎて
その身内の三河衆からかなりの反発を受けている。
どうも家康、というか家康に限らず三傑のイメージは実態を離れた部分の固定観念が強すぎる気がする。
0178人間七七四年
2012/06/26(火) 19:46:09.85ID:8fFIMdFh家康は秀吉に比べれば内向的と言われても仕方がないよ。
当時は秀吉が桁外れに外向的すぎた。
0179人間七七四年
2012/06/26(火) 19:48:52.21ID:8FV9WQRUむしろ外の世界を全く理解してないからあんなことができた、としか言えないと思うんだがなあ。
秀吉の体外認識ってホントに粗雑で幼稚だぞw
0180人間七七四年
2012/06/26(火) 20:00:40.05ID:8fFIMdFhあと10年秀吉が長生きしていれば本当に明を倒せたかもしれない
0181人間七七四年
2012/06/26(火) 20:20:53.04ID:C2s0Bf4k0182人間七七四年
2012/06/26(火) 20:22:09.42ID:8FV9WQRU無理。
というか日本軍は勝ちまくってなんかない。明軍が参戦したら押しまくられてる。
そもそも明国本土に一歩も入ることが出来なかったという現実をよく見た方がいい。
戦闘意欲がいくら高くても、兵站が貧弱で現地の状況を知らず外交的な政略も無かった日本軍が
どうあがいたってあの時期の明に勝てるわけがない。
唐入りは秀吉の幻想にすぎんよ。
0183人間七七四年
2012/06/26(火) 20:26:56.19ID:h3xHtRx+10年続けてれば明は嫌気が差して引き上げるかもしれないけどそれまで日本側がもつかどうか
0184人間七七四年
2012/06/26(火) 20:37:01.58ID:xaPAhqyY安定しつつあった時期ということを差っ引いても、
近代以前の日本人であそこまで多くの勢力と外交関係を結んで貿易をしたってのは
家康くらいだろ
大体のやつは中国・朝鮮どまりだからな
0185人間七七四年
2012/06/26(火) 21:25:45.65ID:8fFIMdFh慶長の役は文禄の役の経験を活かして明軍を遠征させまくってとことん疲弊させるのが目的だったからね。
当時の明軍は大軍で一気に潰そうとするも日本軍にことごとく退けられほとんど成果を上げられなかった現実を見たほうがいい。
明側の認識では戦況がかなりヤバかったのは紛れもない事実なんで。
0186人間七七四年
2012/06/26(火) 21:39:51.73ID:RMnwqvUn0187人間七七四年
2012/06/26(火) 21:44:00.33ID:Fb8ja626こっちでどうぞ
0188人間七七四年
2012/06/26(火) 22:33:06.40ID:KquU7pGm実際に朝鮮・明を攻め滅ぼすつもりならラスボスみずから御親征するだろ
そして家康は天下普請を実施し諸大名の力を裂いた
0189人間七七四年
2012/06/26(火) 23:23:00.18ID:F9iZz8Wh「ここは功名を立てる場所ではない。」言って京都を去った。
次に中国地方に行って名を全国に轟かせようと思い、まず諸将の賢否を人に聞いたところ仕えるなら安芸の毛利元就しかありえないということだった。
安芸に着くとまず毛利家に仕官する縁を祈ろうと思い、厳島神社に参拝し神主と会見し京都の消息を語った。
神主は珍しいと思い勘助を元就に推挙した。元就はこれを聞くと何の答もせず、2、3日後に神主を呼び出した。
「先日の京都の浪人を長くこの地に留めないように。私はその人を登用することはできません。
登用しなければまた他国で仕官するでしょう。他国へ行けば安芸の毛利は兎にも角にもと評判します。
知らなければどうしようもなく、批判もできないでしょう。速やかにここを立退かせて下さい。」と命じられたので
神主もその意を汲んで、勘助に「関東までの間に功名を立てることができる地があるでしょう。西田舎での仕官は無益同然でしょう。」と言うと
勘助はすぐにこの意味を悟って、即日厳島を出発し東へ向かいましたとさ。
山本勘助の毛利家就職失敗談
0190人間七七四年
2012/06/27(水) 04:14:47.34ID:KQKTF81u0191人間七七四年
2012/06/27(水) 04:30:02.86ID:gx2NGmKrまあ東国諸侯も動員すれば朝鮮占領はできるかもだが長続きはしなさそう。
漁夫の利狙える第三勢力もいないし、結局家康みたいな本国にいる人が反乱起こして終了だと思う。
0192人間七七四年
2012/06/27(水) 05:13:41.22ID:AD9Ffdckでも続けることが家康を出兵なり兵站なりで弱らせる唯一のチャンスだったかもしれない
武断派も国内には居なかった事になるんだしな
0194人間七七四年
2012/06/27(水) 05:59:53.94ID:zrrGgultすると、源頼政の鵺の段になってしきりに涙を落とされた。
傍らの者たちは不審に思い、その理由を聞くと、謙信は憮然としてこんな事を語った
「私は今、検校の琵琶を聞いて、いまさらのように武道の衰退を感じた。
かつて八幡太郎義家は、禁中に妖怪が出たのを『鎮守府将軍源義家である!』と名乗って弓の弦を鳴らせば、
妖怪その姿を消したというのに、頼政は鵺を射たが、猶死ななかったので猪隼太が刺し殺してとどめを刺した
と伝えている。
義家が妖怪を払ったのは天仁元年(1108)、頼政が鵺を射たのは仁平3年(1153)である。
その間わずか46年の差ほどしかないのに、すでに武道の劣れることこういう有様である。
そこから思うと私は頼政に遅れること450年。その間に武道はどれだけ衰微したかと思うと、
つい我知らず涙を流したのである」
謙信公、武道の衰微を嘆く、というお話
(上杉謙信言行録)
0195人間七七四年
2012/06/27(水) 08:00:42.28ID:sxfeWse90196人間七七四年
2012/06/27(水) 10:01:58.11ID:DGsFh2yh0197人間七七四年
2012/06/27(水) 10:14:59.00ID:idKkm+Mu0199人間七七四年
2012/06/27(水) 10:40:49.13ID:mWaRbUqE0200人間七七四年
2012/06/27(水) 13:58:02.82ID:WR7HgupU0201人間七七四年
2012/06/27(水) 14:46:49.19ID:SGuZO+XQ0202人間七七四年
2012/06/27(水) 21:13:38.31ID:zrrGgult浅井長政の待つ近江佐和山城に入り、初めての対面を果たした。このとき京童たちは
『婿入りも無き先の舅入りとはこの事よ』と言いはやしたという。
その後各地の情勢報告が行われたあと、信長一行は近江柏原の成菩提院という天台宗の寺に座を移し
そこに一泊した。この寺において接待のため長政から浅井縫殿助、遠藤喜右衛門、中島九郎次郎が
付けられた。様々なもてなしに信長も非常に機嫌がよく、夜すがら打ち解け、酒宴の後就寝した。
これを見届けると遠藤喜右衛門は早馬に鞭を当てて急ぎ小谷へはせ帰り、長政を諌めて申し上げるには
「信長という人物は、大変に表裏の深い大将です。彼の行跡をよくよく見れば、その知略の早いこと、
サルが梢を伝うようです。我が浅井家を縁者として組み込み、こちらに参って懇切に言ってくるのも、
ただ上洛のための、当面だけの事です。功成り名を遂げたならば、朝倉も当家も必ず敵とするでしょう。
また、終始信長の気に入るように出来るかと考えても、なかなか想像のつかないことです。
そうして信長の怒りを買った時に戦うことになったとしても、必ず討ち負けて後悔しても手遅れとなります。
であれば、今夜柏原において、二百人ほどの供の者たちも皆町家に寄宿し、信長自身は酔いつぶれて
寝入っております。彼の側には14,5歳の小姓2,3人が眠っているに過ぎません。
ここで、どうか私一人に仰せ付けください。今夜中に柏原に罷り帰って、信長を安々と討ち取って
見せましょう。二百あまりの供侍たちも、大将が討ち取られればその上は、我先にと逃げ出すでしょう。
それを追って美濃に入り、岐阜の城を攻めるなら、城主はなく家督を継ぐ嫡男も幼少であり、彼の地の武士たちも
我も我もと味方に参り、美濃・尾張両国は時を移さずして攻め取ることが出来るでしょう。
そうなれば、その威勢に乗じて六角親子を押し倒し、帝都へ攻め上がって天下の仕置を助ける立場になることも…
誠に当家の興廃は、ただこの一挙にあるのです!」
こう言葉を尽くして説得した。これに長政はしばらく迷い、家老や一族を集めて密かに相談したが、一同が言うには
「信長はあれほど当家に対し懇切で、心やすく打ち解け、頼みまいらせているではありませんか。
そんな良好な関係を失い、公方様の上洛を妨げ、その上酔いつぶれて寝ている人を殺すというのは、
籠の中の飼い鳥を殺すのと同じ事です。
それに今のような時節に信長を討ち取れば、人望に背き、天の冥加も恐ろしく、侍の本意が立ちません。
そんなことは、絶対にあってはなりません。」
長政もこの意見に同意し、遠藤の諌めを用いず、彼に早々に帰って明朝も又接待をするようにと命じた。
しかし遠藤が重ねて申し上げる
「天の与えることを取らなければ、災に会うと申します!信長は表裏の大将です!必ず当家を
押し傾けようとするでしょう。その時、この判断が返って災いとなること、私には鏡に写したように
見えるのです!
どうか、どうか私の申し上げたことにご同心ください!」
そう、涙を流して訴えた。しかし長政は頑としてそれを聞き入れなかった。
遠藤も是非に及ばず、何事かブツブツと呟きながらその夜、柏原に引き返していった。
後にこれは信長の運の強さの現れだと言われた。
(総見記)
0203人間七七四年
2012/06/27(水) 21:16:48.86ID:HK80yfd3いまさらだけど
0205人間七七四年
2012/06/27(水) 21:40:40.85ID:WXxewK+D0206人間七七四年
2012/06/27(水) 21:55:41.51ID:Q7H1kcS6今の感覚からすると親戚とは到底いえないレベルだけど血族意識の強かった平安末期だしなあ
0207人間七七四年
2012/06/27(水) 22:17:52.95ID:RTgemBWr室町後期くらまで日本は氏族社会(源平藤橘の氏族ごとで固まる)だから、そういう氏族意識はもちろん存在したと
考えられる。室町後期まで、例えば国人による一揆も「平一揆」「白旗(源氏)一揆」など、氏族で組織化していた。
これが室町後期くらいになると氏族から地縁で固まるように成る。
0208人間七七四年
2012/06/27(水) 23:04:16.39ID:WLOA6EBWヒゲがないと女子供の鼻を削いだのではないかと疑われるからである。
ただし、若い武者の場合はヒゲが生えていないこともある。
そういった場合はその若武者の持ち物を持参せよ。
『細川幽斎覚書』
0209人間七七四年
2012/06/27(水) 23:12:51.90ID:Q7H1kcS60210人間七七四年
2012/06/27(水) 23:16:10.56ID:HK80yfd30211人間七七四年
2012/06/28(木) 00:11:40.39ID:TJzbM7u/0212人間七七四年
2012/06/28(木) 00:29:37.33ID:7tOhB3Y10214人間七七四年
2012/06/28(木) 00:43:24.70ID:Z3kigmrF0216人間七七四年
2012/06/28(木) 09:23:46.25ID:zaxIDqfm0217人間七七四年
2012/06/28(木) 09:29:30.47ID:DFjGMWq7気付いたら家臣になってるだけで
0218人間七七四年
2012/06/28(木) 11:22:13.83ID:TJzbM7u/0219人間七七四年
2012/06/28(木) 22:16:18.78ID:DdCRKXiK13歳で人質として大内氏に行き三年を過ごして帰ってきたが、その際に父の毛利元就にこのように報告した。
「大内氏は必ず滅亡するに違いありません。
なぜならば、大内義隆の贅沢は度を外れていて、政治も自ら行わず家臣の陶隆房は諌言を尽くして、ついには義隆の意に反するようになりました。
そこへ相良武任という者が義隆に阿諛追従して、隆房を讒言しました。
なので群臣は皆義隆を嫌い、武任を憎み、隆房に心を寄せる者が多くなっています。
主君が隆房を疎んじ、家臣一同が隆房に帰服しているような状況ですから、隆房が兵をあげるのは時間の問題でしょう。」
元就はこれを聞いてうなずいたが、果たしてその後、隆景の予言したとおりとなった。
小早川隆景の予言による最初の犠牲者
0220人間七七四年
2012/06/28(木) 22:24:04.30ID:rXHmKKR50221人間七七四年
2012/06/29(金) 00:22:03.55ID:hWKR8dCb0222人間七七四年
2012/06/29(金) 00:27:14.93ID:JDqW3Uy+0223人間七七四年
2012/06/29(金) 01:02:50.87ID:cbJOdNM10224人間七七四年
2012/06/29(金) 01:21:25.21ID:1uc45loyバランサーは必要なのだよ、でも輝元には無理なのだよ
0225人間七七四年
2012/06/29(金) 02:34:30.81ID:UQoMqn1U元春と隆景は隆元が死んだ後から責任感が出てきたんじゃねーかな?
毛利家伝統の若いころろくでなしな奴が年取るとめっちゃ真面目な原理で。
0226人間七七四年
2012/06/29(金) 05:35:17.67ID:BMIywk230227人間七七四年
2012/06/29(金) 05:44:45.04ID:tNfUpQeG0228人間七七四年
2012/06/29(金) 07:16:30.68ID:cyq+WLeb0229人間七七四年
2012/06/29(金) 13:20:32.73ID:uHRpgtHv天正十五年に入ると、正月に小田原城、五月には上野の箕輪城と松井田城、
一〇月武蔵岩付城、十一月箱根の山中城、足柄城と領国全土で普請を始めていた。
上杉、佐竹に加え、天正十四年十月に秀吉に臣従した徳川と、
全方面からの攻撃が予想されたからであった。
しかしそんな普請で忙しい最中のはずの天正十五年五月、
武蔵の各地では北条氏邦や氏房の命令で、堰や堤の構築が行われていたりもする。
実はこの時期、上記普請の連発のためか、北条領国内では退転欠落が続発していた。
「御国の御用につき」と言う理屈で百姓を動員していた北条だが、
一方で懐柔策もとっていたと言うお話。
あるいは、とらねばならなかったと言うお話。
0230人間七七四年
2012/06/29(金) 14:23:37.93ID:itjA/vHi0231人間七七四年
2012/06/29(金) 16:37:21.52ID:+6+KYZzv余裕ぶっこいてた連中よりはまし
0232人間七七四年
2012/06/29(金) 16:59:21.95ID:TJpXzbS6数百年ばかり速すぎた、北条は未来に生き過ぎた
0233人間七七四年
2012/06/29(金) 20:19:45.23ID:aPDrTFXH0234人間七七四年
2012/06/29(金) 20:25:29.73ID:Ztwz2rjWこの時、武田の陣において、越前衆の夜襲があると騒ぎ出し、俄に混乱したことがあった。
この事を知った前線の上杉軍の武将達は、直ちに本陣に馳せ来てその状況を伝え
「この虚に乗じて攻められれば、我軍の勝利、疑いありません!」と言上した。
ところが謙信はこれを聞くととたんに不機嫌な表情になり
「虚実は解らないが、そういう事がないとも言えない。しかし仮にこれが事実としても、
空虚を突くというのは私の本意ではない!それにそんな行為は信玄に対しても、弓矢の無礼である!」
そう言下に拒否したという。
もし信玄がこの事を聞けば、感動するよりも「変な奴だなあ」と呆れる気がしないでもないがw
上杉謙信、自分だけでなく好敵手に対してもその武を汚させず、と言うお話。
(上杉謙信言行録)
0235人間七七四年
2012/06/29(金) 20:29:05.65ID:HGN8hn2A0236人間七七四年
2012/06/29(金) 20:45:50.37ID:mLhTz5Vg謙信はこれは罠だと思ったにちがいないw
0237人間七七四年
2012/06/29(金) 21:51:05.70ID:0WJoa8UP0239人間七七四年
2012/06/29(金) 21:56:28.19ID:ITAzqWCj0240人間七七四年
2012/06/29(金) 23:55:28.03ID:hWKR8dCb0241人間七七四年
2012/06/30(土) 01:39:19.44ID:nurx7Nrgこのごろ怪鳥が出没し、細川政元の家人がそれを図にした。
陰涼軒日録には次のように記されている。
「世間に化鳥あり」という話を聞いた。
その頭は馬、尾は蛇、蹄は牛のようであり、「無常引導骨積天」という鳴き声を上げるそうだ。
その図は右京兆屋形(細川政元邸)より出でて、天竜寺に在るという。
また、昨日20日、右京兆屋形の辺りで羊角風(つむじ風)が大いに吹き荒れ、人々を驚かせた。
その羊角風の中には鳶が居て、火を纏って飛行していたという。
(後鑑)
よ、呼び出してしまったのですか・・・ 管領様・・・。
0242人間七七四年
2012/06/30(土) 01:44:00.74ID:5eQHhM/Q0243人間七七四年
2012/06/30(土) 05:09:04.41ID:sP8V6lEQ0244人間七七四年
2012/06/30(土) 08:34:45.33ID:A6gePg3A0245人間七七四年
2012/06/30(土) 10:09:35.19ID:AW0Zc9N9珍しい動物が中世に出現したら漏れなく妖怪認定されるのかな・・・
0246人間七七四年
2012/06/30(土) 10:12:52.32ID:NvhdMRCN0247人間七七四年
2012/06/30(土) 10:14:23.52ID:k9LnvroQ0248人間七七四年
2012/06/30(土) 12:15:15.30ID:jEcZJefm0249人間七七四年
2012/06/30(土) 12:28:24.78ID:3zG53xIi0250人間七七四年
2012/06/30(土) 12:43:34.97ID:NvhdMRCN0251人間七七四年
2012/06/30(土) 15:31:12.92ID:5eQHhM/Q謙信の家臣に元尾州牢人・深渕金太夫と言う者が居た。
彼は10年前から謙信に仕えて覚えめでたく、軍功の数々も重なり次第に扶持の高多くなった。
謙信取り立ての近習の一人だったのである。
そんな金太夫がある時、謙信御座所の次の間で、何事かあって仙可という若者と口論になり、
怒りのあまり仙可を取り押さえ殴りつけようとした。
この物音に謙信は襖を開いて出てくると、帯びていた貞宗の脇差を抜くやいなや、物も云わず片手討ちに
金太夫と仙可の二人を斬り捨てた。
この状況を近くで目撃した仙可の父、内記は怒りのあまり声を震わせ叫んだ
「殿!先に乱暴をしよとした金太夫は公儀を恐れぬ狼藉者、御成敗は道理だと思います。
しかし咎無き倅を同罪に遊ばしたのは、近頃にない無慈悲の御沙汰と心得ます。これはいかなることか!?
ご返答によっては殿とて決して仮借いたしませぬぞ!」
そして小刀の柄に手を掛ける。しかし謙信は全く動ずる色もなく、静に脇差を鞘に収めて
自分の部屋に帰ろうとした。この謙信の態度に内記は激怒した
「ご返答がないというのは、弁解の道に窮したためだと心得ました!ならば、御免!!」
内記は脇差を抜くや謙信に斬りかかる。謙信、その切っ先を巧みにあしらいながら二太刀目に
彼の右手首を切り落とした。
その時、謙信の小姓、上村伊勢松がこの騒動に気が付き馳せ来る。内記が脇差を左手で持ち直そうと
する隙に、彼の太腿を突いて討ち伏せ、ついに止めを刺した。
これを見て謙信はすこぶる機嫌よく、伊勢松に向かい
「ハハハ。今日は妙なところでお前と相打ち(一人の敵を二人または数人で討つことの意)したな。」
そう言って大笑したのだという。
多分隣の部屋で喧嘩騒ぎされてイラッとしたのでしょうが、それによって死者3名。
謙信公の近くではよくよく気をつけていないと、命にかかわるのだ。
(上杉謙信言行録)
0252人間七七四年
2012/06/30(土) 16:09:14.20ID:L0SsltCB0253人間七七四年
2012/06/30(土) 17:03:04.49ID:ef62dox4TPOを弁えないようでは、斬られても仕方なし
0254人間七七四年
2012/06/30(土) 17:26:24.46ID:bGUHSJwM0255人間七七四年
2012/06/30(土) 17:54:32.14ID:SmDIVfrx便利だけどw
0256人間七七四年
2012/06/30(土) 20:16:56.87ID:7sp5dfUU0259人間七七四年
2012/06/30(土) 23:10:53.26ID:bZ+ypjFE俺はとてもじゃないが武家奉公して命を全うできる気がしないw
0261人間七七四年
2012/07/01(日) 00:19:20.94ID:KIbXmFfR上杉謙信家中にこの様な梅雪の意向を伝えた
『近年、信玄公は庶子の伊奈四郎勝頼君を愛され、御惣領の太郎義信君を疎まれておられます。
このため武田家中は二派に分かれ、今にも内戦に及ばんとしております。
何卒、謙信公は義信君を慈しませられ、御養子としてお取り立てあられるならば、微力ながらこの梅雪も
謙信公に従い御旗本に参り申します。そして更科よりお取次ぎがありませば、信州一円はご自身で動かれる
までもなく手に入り、また多年ご宿願である村上義清殿の領地へのご帰還も、事もなく果たすことが
出来るでしょう。
義信君をご援助の事、偏に頼み参らせます。』
これを聞いた謙信の近習、諸角喜助、本郷八左衛門、及び旗本七手組の面々は、甲州に介入する
良い便宜を得たと喜び、早速この事を謙信に報告した。
報告を受けた謙信は梅雪からの使僧、空庵を御前に召し出し、改めて来意を問いただした後、形を改め
こう言い渡した
「御坊、よく聞いて梅雪に伝えられよ。
義信の便宜を以って信州をとれとの儀、この謙信、一向に合点が参らぬ。
是非を論ずる場合において、人手を借りる謙信ではない!
特に子として親に歯向かうなど、不所存この上ない儀と心得る!
義信殿は未だ若年である故もあろうが、梅雪程の老巧者がなにゆえこの様なウツケたる事を言い出すのか。
それも身の拠り所が無い程であるから頼み入るとの話ですらない。
この謙信、あえて慮外は言わぬ。御坊の黒衣を尊重して、この度は無事に帰す。
しかし重ねてこの様な事を言ってくるのなら、その時は容赦致さぬぞ!」
これには空庵も色を失い、這々の体で甲州に帰っていったとのことである。
(上杉謙信言行録)
0262人間七七四年
2012/07/01(日) 00:34:11.29ID:v8TTcLMVいやまあ逸話に突っ込むのも野暮だけど
義信のほうが梅雪より歳上だよね
0263人間七七四年
2012/07/01(日) 00:45:30.40ID:o2kP2EXKそうなのかと思ってwiki見てみたら・・・
武田義信(1538年生誕)
穴山信君(1541年生誕)
今の今まで知らなかったw
0264人間七七四年
2012/07/01(日) 01:16:35.46ID:qokirKKi永禄4年って第4次川中島合戦の年だけど、このころ梅雪20歳くらいか…
なかなか無茶苦茶な逸話だ
上杉謙信言行録って大正時代に成立した書籍らしいけど、
元ネタが明記されてないから怪しさ爆発してる
序文を見ると著者が
「英雄豪傑のことというと、兎角誤った話が伝えられている。
(中略)、態と誇張したり、潤色を加えたりするので、とんでもない間違ったものとなってしまったのである。
それを確かめるには記録や文書による他ないが、それは史家の任務で、研究結果も乾燥無味で
趣味性の読み物としては、ふさわしくない。
かといって、私は史料を離れて、雑書の説に盲従したのではない。
研鑽して得られるものは子細に研鑽し、事実と認めたところは雑書をも採用しているのである。
煙の立つところには必ず火がある。」
とか言ってる
なんだこのスレと同じことしてるだけかw
0265人間七七四年
2012/07/01(日) 01:36:48.91ID:gqw7mYFI悪い事は言わぬ、其許は刀を捨てるが宜しかろう。
某がさる御家の庭師か門番の職を紹介してやる故、安心召されるが良い。
0266人間七七四年
2012/07/01(日) 04:45:03.30ID:apRfMBK60267人間七七四年
2012/07/01(日) 06:36:09.14ID:gqw7mYFI0268人間七七四年
2012/07/01(日) 07:16:22.22ID:Jp8Ke8at置き換わったというのはあるかな。
義信事件に穴山氏も関わってた可能性もあるみたいなので一族の年長の誰かとか
0272人間七七四年
2012/07/01(日) 08:36:52.03ID:xBkM9F9b0275人間七七四年
2012/07/01(日) 12:39:34.68ID:cFF57zbH利休が庭師に石の高さをあれはこう、ここは一寸高く、そこは・・・と細かく指示しているのを見たその大名は悪戯心を起こした。
夜の間に庭師に命じて二個の石の高さを五分、一寸それぞれ低くしておいたのである。
翌朝利休がやってくるなり、誰がかえたのだろう・・・・とつぶやきながら両方の石を直させるのを見て
その大名は利休の目の確かさに感服したそうな
なぜ大名の名を残さない。
こんなことしそうなのは・・・・誰だ?
0276人間七七四年
2012/07/01(日) 13:19:11.89ID:tKTZmzCJむしろ七哲あたりは自分で庭園作って利休に批評してもらいたがるだろうしなあ
0277人間七七四年
2012/07/01(日) 13:57:04.16ID:oW6lHdsL0278人間七七四年
2012/07/01(日) 13:57:41.28ID:oW6lHdsL0280人間七七四年
2012/07/01(日) 14:17:04.47ID:Jp8Ke8atホンマにこいつすごいんかいな?って疑ってるタイプじゃないと
案外、市松とか?
0281人間七七四年
2012/07/01(日) 14:18:20.10ID:XewhSAZ1庭師の所為にして…
0282人間七七四年
2012/07/01(日) 17:40:34.37ID:o2kP2EXK伊達政宗しか思い浮かばないw
>>265,269,270
どれもこれもフラグじゃないかw
>>271
ホントこんな上役いないかな・・・
0283人間七七四年
2012/07/01(日) 18:47:24.75ID:P/EZIwgF無断で里帰りした兵士を軍規違反で親ともども殺してるから
ベッキーも死亡フラグじゃないのか
0284人間七七四年
2012/07/01(日) 19:08:08.27ID:TXhG1pXX島津義久に実子に実子がおらず、義久三女である亀寿の婿である島津忠恒が養子に入り、
後継者となったというのは有名な話であるが実はもう一人候補がいた。
それが義久の次女新城と島津彰久の間の子である島津久信という若者で女系ではあるが義久の孫に当たる人物である。
そもそも義久自身も豊臣政権の介入によって次期後継者を決められた経緯もあってか不満があったらしく、
慶長4年(1599年)に一度家督を譲ったにも関わらず、その二ヶ月後には島津家当主の証である
「御重物」を没収するなど忠恒との仲は微妙であった。
関が原の合戦の後も義久は久信を可愛がっており、やがて後継者に据えようとしているという話が島津家中では絶えず、
ついには「義久が久信を後継者にする朱印状を徳川政権から得た事で忠恒の父義弘が異議を申し立てた」
という噂さえ立つなど家中の統率は乱れた。
こうした事態に義久はついには正八幡宮に参詣し神の力・・・要するに「くじ引き」でどちらが後継者にふさわしいかを決める事にした。
こうして行われたくじ引きでも後継者にふさわしいと出たのは忠恒の方であったので
義久も忠恒を後継者と認めることにしたという。(末川家文章)
0285人間七七四年
2012/07/01(日) 19:12:43.39ID:UNbuQykf神意を占って「どっちもだめ」とか言われたら・・・w
0287人間七七四年
2012/07/01(日) 19:30:53.82ID:yT8hhv7U0288人間七七四年
2012/07/01(日) 19:36:29.69ID:TXhG1pXXあぁ、本当ですね・・・
>>284
管理人さん、まとめる時は最初の一行の「実子に」の部分を消しておいて下さい・・・すいません。
0289人間七七四年
2012/07/01(日) 19:41:52.81ID:3ZKd8wtg今の島津ってほとんど全部悪久の子孫だよな?
0290人間七七四年
2012/07/01(日) 20:11:27.34ID:5Gdm1uI+0291人間七七四年
2012/07/01(日) 20:21:39.83ID:UZPDW8Gr相手が相手だけに…↓。ちなみに名乗りは「久信」「信久」両説があるそうな
http://373news.com/_bunka/jikokushi/182.php
http://373news.com/_bunka/jikokushi/183.php
0293人間七七四年
2012/07/01(日) 20:53:37.41ID:tKTZmzCJ家康の介入でやっと事態収拾したこの時期の悪久さんは器量を疑われても仕方ねーべ
0294人間七七四年
2012/07/01(日) 20:56:21.56ID:JV5doudt0295人間七七四年
2012/07/01(日) 21:17:00.28ID:oW6lHdsLすごい直情径行の人に見えちゃうけど実際のところはどうだったんだろ
関が原後の難しい時期を乗り切ったのは親父達よりむしろ彼の功績のようにも思えるので数々の逸話とのイメージの乖離が・・・
0296人間七七四年
2012/07/01(日) 21:26:12.35ID:UZPDW8Gr庄内の乱は義久がこれ幸いと伊集院を鎮圧にかかってるから
悪久さんと共謀してる可能性もあると思う。
この時期前後の島津は義久、義弘、忠恒の関係は事案によって
コロコロ変わってるように見えて微妙すぎると思う。
0297人間七七四年
2012/07/01(日) 23:16:44.52ID:Ywzl4oPQあの人ならあそこをうまく統治できた気がする。
0298人間七七四年
2012/07/02(月) 11:18:07.46ID:7gBopTog結城家臣の重臣。能力的にはどうでもいい存在である(武井勝伝)
結城氏配下の重臣。能力は平凡で取り柄がない(岩上朝堅)
結城氏配下の重臣。結城配下の武将は、「重臣だった」という記録しかない奴がやけに多い(玉岡政広)
『覇王伝事典』より
…記録がないのはわかるが、あまりにもひどくないか?
0299人間七七四年
2012/07/02(月) 11:52:16.23ID:XKNy6sUF0300人間七七四年
2012/07/02(月) 12:21:46.35ID:jknbxbN1一瞬、なんのことかと思ったわさ
あそこは趣味で季刊紙だかムックだかを発行していた頃まではよかったんじゃないか?
0301人間七七四年
2012/07/02(月) 12:27:57.20ID:rnlTErnM0302人間七七四年
2012/07/02(月) 12:31:09.25ID:rnlTErnMそうだ奴らに見せたい物があるんだ。
0304人間七七四年
2012/07/02(月) 17:48:43.20ID:rnlTErnM秀次の首と同じように、海も空も雲も僕等でさえも
血で染めてゆくから
0305人間七七四年
2012/07/02(月) 18:36:15.11ID:y80v+Rn10309人間七七四年
2012/07/02(月) 21:49:15.43ID:lL/DozaQ「伊達殿。故太閤の恩に報い、秀頼公に馳走するは今、この時ではないか?貴殿の意見を聞きたい。」
「何を言われる?わしは将軍家一筋に忠節する覚悟だ。そんな相談は、無用のことよ。」
この時は、おとなしく自陣に帰った高虎だったが、10日ばかりして再びやって来た。
「先日の件、如何お考えか?是非にご検討あれ。」
さすがに政宗は立腹した。「南無八幡!まだ言うのであれば、大御所に報告するぞ!!」
「さ、されば、この話は無かったことに。」
高虎がスゴスゴと帰って行った翌日、政宗は念のために大御所・家康の陣を訪れた。
「大御所に、申し上げたき儀があり申す。藤堂和泉守、異心の疑いが・・・」
「だ、そうだ。泉州。」家康の呼びかけに応じ、当の高虎が陣幕の陰から姿を現した。
「でぇぇぇぇぇえええええ!?」
「どうですかな大御所?それがしの申し上げた通りになったでしょう。」
「うむ。これで伊達殿の心中、明らかになった。ご両所、大儀。」
「・・・という訳で、アレはオレもビビったわw
あ、『この件は内密に』って大御所に言われたから、ヨソで話すなよ?」
「・・・という話を政宗公から聞きましてな。」
・・・という話を佐竹家重臣の須田盛久から聞いた、と久世三四郎の言行録『久世本翁物語御集』にある。
キミたち、機密保持とか個人情報保護とか・・・まぁこの時代にはそーゆー言葉自体ないが・・・
0310人間七七四年
2012/07/02(月) 22:23:29.29ID:YZJYaypS0311人間七七四年
2012/07/02(月) 22:30:10.53ID:j4MLJhHW0312人間七七四年
2012/07/02(月) 23:02:25.23ID:kaG6peor0313人間七七四年
2012/07/02(月) 23:13:28.31ID:s1pG4yC00314人間七七四年
2012/07/02(月) 23:21:42.83ID:41/r/Fye0315人間七七四年
2012/07/02(月) 23:49:05.57ID:bO8stOcc0316人間七七四年
2012/07/03(火) 01:02:00.97ID:IUnFH5m10318人間七七四年
2012/07/03(火) 08:03:37.22ID:VVTqG0SJ0320人間七七四年
2012/07/03(火) 08:29:25.18ID:Zxzeslwz謀を謀と見抜けないと(戦国を生きるのは)難しい
どう考えても政宗の本心を探るために仕組んだ家康と高虎の自作自演です
0322人間七七四年
2012/07/03(火) 09:39:41.57ID:I35+32n90323人間七七四年
2012/07/03(火) 11:17:38.92ID:IUnFH5m10324人間七七四年
2012/07/03(火) 12:09:51.92ID:sEZ18WdI高虎「うわぁ、まきこむなよめんどくせえ」
0325人間七七四年
2012/07/03(火) 17:54:03.08ID:/Cebjr6w0326人間七七四年
2012/07/03(火) 18:22:06.44ID:/3L9QDFF0327人間七七四年
2012/07/03(火) 18:29:57.43ID:cENsvTv3私が都に復帰することは、大いに努力したにもかかわらず、今日に至るまでそれは叶っていない。
都は甚だ混乱し、少しも安全ならざるが故に、この事は神の御許におすがりするしか無い。
シノバラ殿(篠原長房)と云う大なる異教の領主(当地方のキリシタンの武士は、多く彼に属せり)は、
我々を都に復帰せしめんために大いに努力されているが、戦争のため未だこれを了せず。
都の(キリシタンの)会堂は、昨年まで我々の敵にしてキリシタンの大迫害者たる弾正殿(松永久秀)の
掌中にありて閉鎖させられていたが、篠原殿はこの事を聞き、私が都に入る事が可能になるまで、現地の
キリシタンに託すことを命ぜられた。これによって会堂は我らキリシタンの手に帰し、都の信者たちは
従前のように同所に来て祈祷を行なっている。
篠原殿は今の都の王に使いを遣わし、もしパードレ等が都に帰ることを許さないのなら、彼の絶対権力によって
彼らを復帰させる。何故なら彼らを追放すべき何らの理由がないからである、と伝えた。
そのような中、5,6日前に尾張の王(織田信長)が、殺されたる公方様(足利義輝)の兄弟(義昭)を、
武力を持って都に入らしめんため、6万の兵を率いて突然都に向かって進軍を始めた。
これにより、必ず大戦があるだろう。
主よ、平和を来たらしめ給わん事を祈る。
何故かと云えば、この諸国(日本)でデウスの教えを弘布するにおいて、戦争にまさる障壁は無いからである。』
信長の上洛直前の情勢を伝える、ルイス・フロイスの書簡である。
(日本耶蘇会年報)
0328人間七七四年
2012/07/03(火) 21:23:52.41ID:HU9wdxzM宣教師だからと言われればまあそうなんだけど
0329人間七七四年
2012/07/03(火) 21:33:11.76ID:IDaq8dwx0330人間七七四年
2012/07/03(火) 21:34:16.95ID:hejL88An0331人間七七四年
2012/07/04(水) 06:43:08.74ID:4MRpO2lH上杉謙信の近くに仕える女に土州佐保と言うものがあった。
永禄8年春、両親と会うため故郷に帰省したいという願いを申し出た。謙信は取次の女房を呼び、
3月20日前後を日限としてこちらに帰ってくるようにと伝えて休暇を与えた。ところがその日限になっても女は
帰って来なかった。取次の女房はしきりに気をもみ、書状を出して呼び返した。
ある日、謙信はその女を不断所に召し出し、その不都合を攻めた上、小姓の荒尾助九郎をして頸をはねさせた。
後に太田三楽(資正)はこの話を聞いて北条丹後(高広)に言うには
「貴殿の主人謙信公は、武勇については別問題として、その御気性を見るに、10のうち8つは大賢人、
2つは大悪人という割合になるな。生まれながらに勇猛だが、とにかく怒気激しい癖がある。
けれども善い事には清浄潔白で、曲がったこともなければ何かを隠すようなこともなく、下々の情勢を察し
士民を憐れみ、好んで忠諫を納れられるなどは、末代ありがたき名将だと思う。
だからまあ、少々の非難はあっても贖って余りがあるので、8つは賢人と申して良かろう。」
そう言って破顔大笑した。
0332人間七七四年
2012/07/04(水) 07:01:23.55ID:UEOVj3/x安芸国吉田郡山城に隣接する船山城、毛利元就の異母弟で1516年の有田合戦の活躍で
「今義経」と異名を取った相合元綱の居館である。この船山城と郡山城の間に細声峠と言われる峠が有る。
1523年、鏡山城合戦の直後に毛利家当主の毛利幸松丸が逝去。重臣らの推挙で叔父の毛利元就が
毛利家家督を継ぐも、尼子経久の意を受けた亀井秀綱が毛利家の家督相続に介入し、毛利家臣の
坂広秀・渡辺勝らは相合元綱を担ぎ元就への反乱を画策する。
それを察知した元就はいち早く相合元綱の居館船山城を急襲し、元綱を殺害。その後坂広秀を誅殺、
渡辺勝に至っては元就自身に手打ちにされた後、郡山城の谷に落とされたという。
この反乱制圧の際、元就が弟元綱の居館を襲撃する際に気取られぬ様、声を細めて通った事からその峠に細声峠という名が
付けられたという。兄弟の悲しき骨肉の争いから生まれた地名の話。
0333332追記
2012/07/04(水) 07:38:14.26ID:UEOVj3/x船山神社が建てられ、元綱は今でも地域の守り神として崇められている。
0334人間七七四年
2012/07/04(水) 09:58:52.50ID:XWNJczEZ0337人間七七四年
2012/07/04(水) 12:02:14.41ID:joJ2Zo1u出自は知らんけど槍の勘兵衛了さんの家やとか渡辺糺さんちも一字だし
元々は嵯峨源氏の伝統なんだろうけど、渡辺氏以外はそうでもないから
直接的には有名な渡辺綱からの由来ってことになるのかな?
しかし偏諱賜るときどうしたんだろ?2文字に増えた?
0338人間七七四年
2012/07/04(水) 12:57:02.57ID:UEOVj3/xWikipediaで嵯峨源氏の項見たら三河渡辺氏の系譜は途中から諱が二文字になってた。
松浦氏は途中から一字だったり二文字だったり…
現代の謙さんとか徹さんは三河以外の嵯峨源氏のsagaを受け継いだのかな?(´・ω・`)
0339人間七七四年
2012/07/04(水) 19:27:28.87ID:xk7BPu3J元就は確か楠木正成の生まれ変わりとか言われていたな。
で弟が義経かよ。
毛利家の長男は次男、三男より影が薄くなる宿命でもあるのか?
0340人間七七四年
2012/07/04(水) 20:11:55.16ID:UEOVj3/x元就が初陣の有田合戦で戦って寡勢で大勝した武田元繁も全盛期は「今項羽」と言う渾名を
持った知勇の将だったとか…
当時の安芸国人はそう言う渾名を付けるのが好きだったんですかね…
元就の弟である元綱も戦上手の異母弟だから今義経なんて言われたのかも知れませんが、
渾名の元になった武将含め、元就以外は皆末路が悲惨な気も…(ヽ´ω`)
0341人間七七四年
2012/07/04(水) 20:35:22.28ID:APPf/NUZ0342人間七七四年
2012/07/04(水) 20:49:51.83ID:xk7BPu3J優秀な部下がいなかったのが悔やまれる
0344人間スやろ!
NGNG0345人間七七四年
2012/07/04(水) 21:33:02.83ID:+rAGS+4d0346人間七七四年
2012/07/04(水) 21:36:53.17ID:3L2rFKFo0350人間七七四年
2012/07/05(木) 07:54:27.26ID:LavHxvIU0351人間七七四年
2012/07/05(木) 16:05:29.11ID:0L2eDR090352人間七七四年
2012/07/06(金) 17:56:55.75ID:xX2le2Vu法会を催し、前の日から翌朝まで読経を行った。その僧徒供養の折、庭にウグイスの鳴き声が聞こえてきた。
これを聞いた幽斎は「これは!、特別なウグイスの初音ですね!」と言うと、三条西実枝は
「いいや?昨日も聞いたよ。」と答える。
これに幽斎
『きのふより けさかけて啼くウグイスの 声も尊しほふほけ経』
ちょっと恥ずかしいこと言っちゃったけど上手いことごまかした幽斎公であったw
0353人間七七四年
2012/07/06(金) 18:12:18.24ID:f1Sgr1Jg0354人間七七四年
2012/07/06(金) 19:07:08.96ID:VMW/JCTfそれにつけても金のほしさよ
0355人間七七四年
2012/07/06(金) 19:29:06.65ID:ZNaCR5aa0356人間七七四年
2012/07/06(金) 19:54:51.67ID:7KvUJOn20357人間七七四年
2012/07/06(金) 20:00:10.36ID:xX2le2Vu幽斎「私の歌がその程度と思わぬ方がいい」
ある時、細川幽斎の隣屋敷より火が出て、折しも風が強かったので殆ど類焼に及ばんとした。
家中は騒ぎ慌てること大方ならずであったが、こんな時に主人の細川幽斎は熟睡していた。
この爆睡している主人を家中の者たちはどうにか起こすと、目を覚ました幽斎、手水鉢のところで
顔を洗おうとした所、「早や塀に火が移りました!」と叫んだものがあった。それにも幽斎は取り合わず
『ほのぼのと かき(垣)のもとまで焼くるとも 歌さへ詠めば人まると知れ』
そう詠んだという。まあお解りの通り柿本人麻呂を詠み込んでいるわけですね。この緊急時にw
ところがなんと、この歌を詠んだ途端風向きが変わり、火災は静まった。
それにより当時の人々は、この歌を火除けの歌として、火災を免れるため常にこれを張っていたという。
(幽斎公歌集)
0358人間七七四年
2012/07/06(金) 20:00:27.25ID:DY70ekooなお、息子の三歳様は…(´・ω・`)
0359人間七七四年
2012/07/06(金) 20:12:33.61ID:2WAv7vie0360人間七七四年
2012/07/06(金) 20:15:32.16ID:7KvUJOn2言霊って奴か
0361人間七七四年
2012/07/06(金) 20:18:32.31ID:7bprRykW0363人間七七四年
2012/07/06(金) 22:07:47.92ID:32XBZ5Tv0364人間七七四年
2012/07/06(金) 22:12:14.23ID:5E+GpURUコレ、恥ずかしいことを言ったから誤魔化したんじゃなくて
ワザと三条さんから「昨日も聞いた鶯の音だよ」と言う言葉を引き出したんだろ
ウグイスの別名「経読鳥(キョウヨミドリ)」
昨日から袈裟を掛けた人(僧侶)の経読みが続いていたけれど
今朝はそれとは違う経読鳥が鳴いている
泣き声もホーホケキョ(法華経)、なんとも尊いことだ。
って感じ?
0366人間七七四年
2012/07/06(金) 22:49:06.31ID:LVSGhWoe0367人間七七四年
2012/07/06(金) 22:53:38.18ID:qL2Lr2Gk大物崩れの戦で敗死した細川高国は、弓馬の礼法を糺し、何事も絶えたるものを復興し、廃れたる道を尋ね聞き、和歌の奥義も知っているという人物であった。
そのため、公家も武家も皆、その死を惜しんだ。
また彼は、慈悲深く、感受性豊かな人物で、身分の上下にこだわらず才能を賞玩することが多かった。
この前、高国が播州へ落ちていた時、明石の人丸塚について尋ねたことがあったのだが、ある土民が承って
「ほのぼのと明石の浦の朝霧と詠めし人はこの塚の中」
と言うのを聞くや、「才覚あり!」として、白鞘巻の太刀を与えている。
土民は「忝し」と言って、恩に報いるため一族を数多引き連れて供を務め、今度の戦で討ち死にしたのだという。
(足利季世記)
0368人間七七四年
2012/07/06(金) 22:57:02.69ID:gC1aihE+俺もそう思うなあ。
>>「これは!、特別なウグイスの初音ですね!」
ダジャレの句が先に頭の中に出来てて、
三条西さんに「昨日も聞いたよ?」と言わせるべく白々しく切り出したんだろうなw
0369人間七七四年
2012/07/07(土) 00:04:22.47ID:5STTTLIJ待えたる かひも涙の ふる雨に 逢せへたつる 天の川浪
※訳
待ちに待っていた甲斐もなく涙のように降る雨は二人の出逢いを無情にも隔てる天の川の波のようだ
これは会えなくなった織女と牽牛の二人の悲しみの涙雨なのだろうか
それとも彼らのように離れ離れになった私と妻の二人の悲しみの涙雨なのだろうか
「春霞集(毛利元就詠草)」より
せっかくの七夕の日に雨が降ってしまいかなーり落ち込んでしまった元就さんであった。
0370人間七七四年
2012/07/07(土) 00:15:21.26ID:alKt/rO00371人間七七四年
2012/07/07(土) 00:28:36.49ID:5STTTLIJ待えたるけふのなみたの天の川のさはりあるよし
ふるは涙かといへるにも差別なきにや
「待っていた今日の涙の天の川という出だしの言葉がいい感じです。
降るのは涙かと言い表したのもピッタリの解釈ですね。」
0372人間七七四年
2012/07/07(土) 08:38:31.87ID:rw1Xs3y70373人間七七四年
2012/07/07(土) 08:54:36.61ID:yTOALTf1それを口実にして茶器を授けようと考えていたのである。
政宗が早速勝手に下がって茶を点てる準備をしていると家光の意を受けた佐久間将監がやってきて
「上様がこの茶入を下賜されるとのことです、この度もこれをお使いいただきますように」
と述べたが政宗は
「それには及ばぬ!今は我が裁量で茶を点てているのだ!」
と突き返してしまった。
佐久間も上意なので受け取らせようとしたがどうしても受け取らない。
佐久間が戻って言上したところ、家光は意に介した様子もなく、
「政宗が言いようもっともなり、茶入はそこに置いておけ」と言ったのみだった。
茶会の準備が済み戻ってきた政宗に家光が改めて茶入を手ずから下賜したところ政宗は
「まことにかたじけのう存じます。先ほどは将監殿が 「得体の知れぬ物」 を持参し
上様の上意である、と申されましたが仮に真に下賜の物であれば台所の畳で頂くのは恐れ多いので辞退致しました」
と述べありがたく拝領したのだった。
この時譲られた茶入が今は静嘉堂にある木葉猿茄子、元は利休が蔵していた大名物である。
直接下賜じゃないとかなめんな、とか思ってないか政宗
そして森家に対する信長並に甘くないか家光
0374人間七七四年
2012/07/07(土) 09:06:31.57ID:UgBpvZ5L親しき仲にも礼儀あり
0375人間七七四年
2012/07/07(土) 09:09:33.09ID:85q12e+mそうだったようだが)
政宗が危篤状態になった時、伊達屋敷に見舞いに訪れて嫡男の伊達忠宗に
「父上(秀忠)が亡くなる時、政宗に私のことをくれぐれもと頼まれ、政宗も大変良く私を助けてくれた。
あなたは父上がこの様な状態になって大変心細いだろうが、今度は私があなたをサポートする番であり、
何でも私に頼って欲しい。
これは将軍や大名といった立場とはまた別の、家同士の話である。」
みたいなこと言ったという記録が残ってるな。
0378人間七七四年
2012/07/07(土) 10:11:07.26ID:AKGwCrJe0379人間七七四年
2012/07/07(土) 11:40:09.18ID:bloO8G5i離れ離れになるのは辛いけど生きていてくれるだけでうれしいから体大切にして長生きしてよ、マジで
みたいなことを直接言われて号泣してたな
政宗と三斎さまは、あんなでも人を惹きつけたり頼られる何かを持っていたんだな
戦死したことを敵味方に喜ばれた誰かとは大違いだ
0380人間七七四年
2012/07/07(土) 12:23:28.36ID:L2lLcHXA一度スルーしてる所は丸くなっても一角ありと言う感じですがw
0381人間七七四年
2012/07/07(土) 15:47:09.72ID:Nq92pEaU0382人間七七四年
2012/07/07(土) 15:59:18.06ID:J78zp1w7政宗はもともと戦場以外じゃまず人殺さないからw
0383人間七七四年
2012/07/07(土) 16:08:37.68ID:0sgc2o870384人間七七四年
2012/07/07(土) 17:00:41.66ID:mZbAt7Etもうまー君なんかじゃないやい
0385人間七七四年
2012/07/07(土) 17:48:22.98ID:8uWwuZXZ0386人間七七四年
2012/07/07(土) 17:53:25.83ID:mZbAt7Et0388人間七七四年
2012/07/07(土) 18:14:12.89ID:VdlAuKXN0389人間七七四年
2012/07/07(土) 18:19:18.61ID:bloO8G5i0390人間七七四年
2012/07/07(土) 19:34:47.66ID:AKGwCrJe0391人間七七四年
2012/07/07(土) 19:44:07.02ID:VdlAuKXN0392人間七七四年
2012/07/07(土) 19:45:56.90ID:0sgc2o870393人間七七四年
2012/07/07(土) 19:56:06.94ID:VdlAuKXN0394人間七七四年
2012/07/07(土) 19:58:32.76ID:zJGl1MALえ、「鞠は朋友」?
0395人間七七四年
2012/07/07(土) 20:06:24.00ID:VdlAuKXN「ホモ達は直政です。」
0396人間七七四年
2012/07/07(土) 20:45:05.35ID:yyin5d+Y0397人間七七四年
2012/07/08(日) 07:23:03.93ID:XX825fYuその後の言動見てると気弱で悲観的な態度が目立つような気がするんだが・・・
戦国の生き残りにすがりたい気持ちもあったんじゃないか?
0398人間七七四年
2012/07/08(日) 07:30:14.81ID:JXFyeIN+統治の重圧を過剰なまでに感じてて、そりゃまあ、権現様も含めて誰かに縋りたくもなるだろうと思った。
0399人間七七四年
2012/07/08(日) 07:47:39.55ID:XX825fYu家光バカ説を最初に言い出したのは三田村鳶魚だと思うけど
このあたりの性格も幕府の組織化を進めた要素だと思うしなあ
0400人間七七四年
2012/07/08(日) 08:31:26.35ID:vkkac4ZO肥満気味の家康が隠居にダイエットで
始めたからである。
0401人間七七四年
2012/07/08(日) 09:16:36.13ID:2ZaH7MDD健康オタクの家康が、健康のためにお茶や、
みかん(皮が漢方にもなる)を好んだから。
0402人間七七四年
2012/07/08(日) 09:39:59.71ID:gO6wCZpT0404人間七七四年
2012/07/08(日) 10:15:07.12ID:G20I5Jfh0405人間七七四年
2012/07/08(日) 10:21:24.73ID:diFE59C20406人間七七四年
2012/07/08(日) 11:15:15.39ID:DrVTb7/00409人間七七四年
2012/07/08(日) 13:47:55.97ID:XX825fYu0410人間七七四年
2012/07/08(日) 14:20:57.51ID:LQjSos2gいろんな所で食い物に関する逸話があるなw
0411人間七七四年
2012/07/08(日) 14:27:38.79ID:sudbEiMj信玄が徳川領に侵攻した時は特に酷く、武田軍のあまりの
極悪非道な振る舞いに武田に靡きかけていた徳川諸侯の
多くが武田に対して徹底抗戦を唱え徳川忠誠を誓った
三河領の荒廃ぶりは特に酷く、家康も涙を流して嘆いたと
伝えられている
0412人間七七四年
2012/07/08(日) 14:44:08.44ID:zdoYwjEe0414人間七七四年
2012/07/08(日) 14:52:57.98ID:XX825fYu当時は生産面でも今より重要な地域だったろうしなあ
0415人間七七四年
2012/07/08(日) 14:55:49.48ID:HzSNf57R0416人間七七四年
2012/07/08(日) 15:36:34.09ID:8jK7yJMz涙を流す暇があるなら土下座降伏しとけ それが領民のためだ
0417人間七七四年
2012/07/08(日) 15:57:40.83ID:kV51+Mihこれが信玄と元親の差よ・・・
0418人間七七四年
2012/07/08(日) 16:01:40.55ID:LQjSos2gあまり簡単に侵略側に土地を明け渡してるとかえって荒れそうだと思うんだが
領主が入れ替わるに伴って侵略側の雑兵も入ってくるわけだし
0419人間七七四年
2012/07/08(日) 16:10:36.81ID:qE3zdK9Jぇ?
0420人間七七四年
2012/07/08(日) 16:12:04.73ID:XX825fYu0421人間七七四年
2012/07/08(日) 16:15:52.66ID:8jK7yJMz0422人間七七四年
2012/07/08(日) 16:25:32.29ID:VkmQLypR以後、この大和包永は藤孝お気に入りの佩刀となる。
そして元亀二年、大和多聞山城攻めにおいて、藤孝は奈良興福寺の僧兵 荒三位と一騎打ち。
この時、どうにか組み伏せた上で首をとったのだが・・・
「・・・・・・この刀、実戦で使うには長すぎるわ。マジやばかった」
これに閉口した藤孝は、2尺6寸強(約80cm)の刀を2尺2寸(約67cm)に磨上げた。
ところで、刀は表と裏がおなじような刃文になるのが普通なのだが、
この包永の刃文は、表は焼きの高い乱れ刃、裏は焼きの低い直刃であった。
そこで藤孝は万葉集にある
奈良山の児の手柏の両面(ふたおも)に かにもかくにもねじけ人の徒(とも)
と言う歌にかけて表と裏がまるっきり違うと言う意味で「児手柏」と銘を刻んだという。
どちらの逸話にしようか迷ったが、まあ幽斎が珍しくミス?した話ということで。
0423人間七七四年
2012/07/08(日) 17:08:54.64ID:7HwaJRNq0424人間七七四年
2012/07/08(日) 19:53:17.48ID:mKCFo+nZ0425人間七七四年
2012/07/08(日) 20:59:36.86ID:XX825fYu何だか勿体無いなあと思ってしまうのは俺等が美術品的に見てるからなんだろうな
戦国の武将にとっては役に立つ道具であることが一番なんだろうし
0428人間七七四年
2012/07/08(日) 21:08:10.09ID:sowdps6P南北朝時代には刃渡り1メートル超は普通で、中には刃渡り2メートル近いものまである。
しかも実際に使ったらしいw
0429人間七七四年
2012/07/08(日) 21:09:41.56ID:XX825fYu戦国時代だと馬上では槍か弓だろうけど
0431人間七七四年
2012/07/08(日) 22:44:50.46ID:FNk8734A0432人間七七四年
2012/07/09(月) 00:32:31.12ID:eINvvjVNそもそも馬の上で戦えたのだろうか…
上野動物園にいるあの馬じゃなぁ……かわいいけど。
フロイスさんによると、日本の武士は馬から降りて戦ってたらしいし。
0433人間七七四年
2012/07/09(月) 00:38:07.39ID:799uObyX0435人間七七四年
2012/07/09(月) 02:47:27.23ID:yBR6ytM1戦国時代の武士は、な
この時代は戦国期に見られるような雑兵の大量投入はまだ常態化してないからな
同じ武士でも戦国時代の武士と求められる役割、装備、戦い方が全く違うから、
同じに考えないほうがいいよ
0436人間七七四年
2012/07/09(月) 02:58:41.05ID:4gse2Vjx動物園にいるポニーって、ポニーの中でも小さい種だからな?
いろんなスレでさんざん語られてることだけど、ポニーってのは肩からの高さが147センチ以下の馬で、モンゴル馬も日本の馬もこのサイズ。
モンゴル戦士が馬上戦闘できなかったなんて話はなかろ?
0438人間七七四年
2012/07/09(月) 08:54:45.81ID:sexqfhfJ戦いが長期化すると雑兵の大量動員で武芸なんか吹っ飛ぶ
0439人間七七四年
2012/07/09(月) 10:38:04.69ID:wd6ZpNy30440人間七七四年
2012/07/09(月) 10:55:30.36ID:hLB8/V2D0441人間七七四年
2012/07/09(月) 11:06:17.38ID:eIwt2ARS0442人間七七四年
2012/07/09(月) 14:41:10.36ID:hoV6wWRTお腰の大小としてフィットするコンビニエントなカターナーではなく、
もっとビッグでラージなロマンをもっとですねぇ
0443人間七七四年
2012/07/09(月) 16:20:42.88ID:J24mNdZN0445人間七七四年
2012/07/09(月) 18:46:57.43ID:v1qOjcae0446人間七七四年
2012/07/09(月) 18:47:09.15ID:eIwt2ARS0447人間七七四年
2012/07/09(月) 19:44:27.90ID:eIwt2ARS雑兵軍団が強いわけないだろ
0448人間七七四年
2012/07/09(月) 19:46:24.87ID:S41Xn4BV0449人間七七四年
2012/07/09(月) 20:21:34.41ID:Um77HLya永禄12年(1569)12月17日付、日本耶蘇会年報の一節を見てみよう
『私が次に述べたいと思う事を一層明瞭にするため、先ず私が語ろうと思う人物について述べる必要がある。
キリシタンらが、当諸国(日本)においてあだ名を日本のアンチキリスト、又は肉体に宿りたるルシフェルと
称し、思慮ある異教徒は庶民の欺瞞者と称する坊主(朝山日乗)である。
彼は下賎の者にして、背は低く、甚だ醜く軽蔑すべき人物であり、日本の宗教も知らず、また学問もない愚人であるが、
悪魔がその悪事を行うために発見した、最も彗敏な道具である。
彼は談話に巧妙であり、雄弁においては日本のデモステネスである。
彼は妻子があったのだが、貧窮であるためこれを捨て兵士となったのは、未だ多くの年を得ない程度の
以前の話である。そうして武芸によって多数の人を苦しめ、また殺した故に恐怖して服装を変えた(僧になった)
が、その習慣を改めることはなく小羊の皮をかぶって僧侶になったのだ。
諸国を廻りアマンゴの王(尼子晴久)に対し反逆を行い、山口の王(毛利元就)の元に逃れ、釈迦より
「汝を日本の宗旨を改革し、また内裏を往時の名誉、地位、権力、および富貴に復する道具となす」
との夢想を得た、と称し、熱心を装って広くこの事を伝えた。
彼が8年もしくは10年前、当地(京都)において一片の金襴を購入した事は、都のキリシタン等の記憶する
ところであるが、彼は他の遠国に行き、各村落において、「これは内裏より賜った衣服である。
記念品としてあなた方に分けよう」と言い、各人小片に対し、その資力に応じて、あるいは1クルザード、
あるいは2クルザード等を彼に与えたのだ。彼はこれによって多額の資金を得、山口に寺院を建て数人の弟子を
集めた。この頃他にも千種類もの詐欺を行い、悪行のため一つの場所に落ち着くことができず、
シャンニンシウ(三好三人衆)が公方(足利義輝)を殺した弾正殿(松永久秀)を奈良の城(信貴山城)に
囲んだ時、弾正殿の裕福なことを知って、窮地にあるが故に金銭を与えてもらえると思い、山口の毛利より
弾正殿に宛てて『直に士卒を動員して赴き助けよう。三人衆が滅亡した場合は、日乗上人と称する坊主と協議
するべし』と認めた書簡を得た。
しかしデウスの御裁断により、三年前、私が堺に滞在していた時、彼はそこにやって来たが、三人衆の間者が
反逆の書簡と共に彼を捕らえた。
彼は書簡のことは知らないと言いはったが、篠原殿(長房)は堺の寺院において厳しく鞭を打たせた。
そのうちに山口より書簡が来て6,7千クルザードを送り、彼を赦免することを求めてきたが、篠原殿は
これを受け付けず、マラバルのボレヤ(南インドの賤民)の如き、日本の最も卑しき民族である穢多に
引渡した。彼らは死んだ獣類の皮を剥ぎ、また死刑囚の首を斬ることを職業としていた。
摂津国西宮と称する地においてこの人々に彼を渡したが、首に鉄枷をかけ、手足は縛られ、動くことの出来ない
状態で重罪者の牢に入れ、番人に彼に紙や墨を与えることを禁止させ、食料も大いに制限させた。
彼は釈迦の作ったフォケキャウ(法華経)8巻を前に置いていた。
私の記憶に間違いがなければ、篠原殿の用務を帯びてダミヤンをコシミネの城(越水城)に遣わした時、
彼の偽善した神性を装う姿を見た。その後、私が牢の門を通過した時、アントニオは彼の入れられた厠に入って
これを見た。ところが彼を捕らえた者は、悪魔の下僕であったために、毎日彼らの言うところの談合をなし、
地獄において彼の苦痛を増すため首を斬ろうかと協議していた所が、彼の狡知により、内裏よりその赦免を
求めるに至り、彼の死を希望する多数の異教徒の意向に反し、これを釈放したのだ。
信長が再び公方様を立てるため上洛した後、内裏はこれもまた、不幸および貧困より興起する好機を
得るべき時と見、この日乗上人を仲介者とした。同人の人間的知慮は彼に信長の寵を得させ、その後あえて
その側を去ることはなかった。これによって彼は、悪魔の如き傲慢悪意の翼を広げたのだ。』
以上、ルイス・フロイスによる朝山日乗の解説である。これでもかと言わんばかりに徹底的に悪様に
書いているが、ここまで波瀾万丈だと本当なら逆に不世出の大宗教人ではないか、とすら思うw
(日本耶蘇会年報)
0450人間七七四年
2012/07/09(月) 20:22:55.47ID:4DND2Yzr黒田のご隠居が関ヶ原の時に金ででっち上げた軍勢って数多いけど弱そうだよね、大友義統にちょっと苦労したし
0451人間七七四年
2012/07/09(月) 20:33:51.64ID:H2a8va+dよっぽど脅威だったんだな
0452人間七七四年
2012/07/09(月) 20:36:51.32ID:MKG8FPPh0453人間七七四年
2012/07/09(月) 20:45:00.72ID:lmjgjXfe長野だか山梨だか忘れたけど、いまでも木曽馬で騎射イベントしてる乗馬クラブあるよ
たしかようつべに映像があったはず
0454人間七七四年
2012/07/09(月) 21:05:55.15ID:yBR6ytM10455人間七七四年
2012/07/09(月) 21:29:12.46ID:Z8GAcVoL0456人間七七四年
2012/07/09(月) 21:57:49.96ID:D9xrLaL50457人間七七四年
2012/07/09(月) 22:51:03.34ID:84jaUo1Dフロイスも危機感というか同族嫌悪を感じたんだろうな
0458人間七七四年
2012/07/09(月) 23:00:52.02ID:7RLViAzf0459人間七七四年
2012/07/09(月) 23:14:56.05ID:tGmYUv6T>>442
木曽馬はサラブレッドからしたら、
「犬か?」ってくらいにちっさいぞw
あんなのに跨って戦争してたなんて信じられんw
0461人間七七四年
2012/07/09(月) 23:30:42.60ID:eYJR7bX5本当に木曽馬見たことある?
当時の人が今より小柄だったことを除いても十分な大きさに思えるけど
ttp://wasikibajyutu.txt-nifty.com/tankyukaikousyu/2005/06/post_688f.html
ttp://wasikibajyutu.txt-nifty.com/tankyukaikousyu/images/h_2.jpg
0462人間七七四年
2012/07/09(月) 23:49:55.71ID:eYJR7bX5に追加
こっちの方が大きさがわかりやすいかも
ttp://wasikibajyutu.txt-nifty.com/tankyukaikousyu/images/h_3.jpg
0464人間七七四年
2012/07/09(月) 23:57:52.32ID:+gDcecH/0465人間七七四年
2012/07/10(火) 00:02:51.28ID:8r+KlKpX重い甲冑や武具を装備した人間を乗せて日本の山河を走り回るのには向いてない気がする
すぐに足が折れそう
0467人間七七四年
2012/07/10(火) 00:18:33.98ID:YWbNCk+lまぁ、それしかいなきゃ歩くより速いし乗るんじゃないかね〜
0468人間七七四年
2012/07/10(火) 00:27:50.79ID:luUTeGXh馬高140cm、俺より低い馬とかwww とおもってる人多そう
0469人間七七四年
2012/07/10(火) 00:43:53.80ID:qmyEtKLOヨーロッパの、それも騎士を多量に含む軍勢をフルボッコにしたモンゴル軍の馬はポニーだって事を知ってほしいところよね
0470人間七七四年
2012/07/10(火) 01:48:03.58ID:GKvmMnacあれ普通に想像するところのポニーだよね?
あれであれなら軍馬として選別繁殖されたポニーはもっとすごいと思っていいんでないの。
0471人間七七四年
2012/07/10(火) 02:02:10.40ID:YWbNCk+l0472人間七七四年
2012/07/10(火) 02:32:45.47ID:luUTeGXh勝敗は忘れたけど
0473人間七七四年
2012/07/10(火) 06:07:49.10ID:y1u+vsqrそんな騎馬隊の突撃で神聖ローマ帝国やスペインの軍隊を蹴散らしていたわけだ。
0474458
2012/07/10(火) 08:13:12.02ID:pjHhYEGa俺、木曽にある某乗馬クラブで木曽馬で外乗したことあって、
その時に乗ったのがほんとに小さかったからああ書いたんだけど、
この写真見るとけっこうデカいな。
俺が乗ったのは一体なんだったんだろう・・・
0475人間七七四年
2012/07/10(火) 09:52:35.97ID:ziTmA3Ig同じく木曽馬の乗馬経験があるけど、生まれた季節や環境で大きさが変わると牧場農家の人が言っていた
特に冬生まれは小さめの馬が多いらしい
馬も人間と同じく昔は病気にかかりやすい上に治し難いだろうし、木曽馬でも小さめの馬を想像した方がいいのかも
>>460の写真くらいの馬でも身長160前後の人間ならビール箱くらいの高さの台から乗れば余裕
0476人間七七四年
2012/07/10(火) 10:46:14.72ID:O/hL5BJFポニーに乗って戦争をしていたことはあまり知られていない
750 :人間七七四年 [sage] :2009/06/20(土) 01:07:18 ID:6UuzqP+c
中世の軍馬の大きさは、長い間議論の主題であった。伝説によれば、騎士の馬は頑丈な軍用馬であり、
これは、現代の荷馬車用の馬と同じぐらいの大きさがあったことを意味するが、そのような馬の遺物は
十四世紀以前には発見されていない。中世後期以前の考古学遺跡から出土した馬の遺物は、体高は、
せいぜい一四二・二センチであった。
J.クラットン=ブロック『馬と人の文化史』
0477人間七七四年
2012/07/10(火) 11:08:14.32ID:FxyZ0zqOhttp://youtu.be/dhRUe-gz690
0478人間七七四年
2012/07/10(火) 12:06:36.32ID:Ga/SNBAGそれでも十分に大きいと思うわさ
0479人間七七四年
2012/07/10(火) 14:05:58.28ID:SnBFkywn0480人間七七四年
2012/07/10(火) 16:13:28.21ID:36t7eALR0481人間七七四年
2012/07/10(火) 17:29:38.49ID:GYKGtBp/陸奥>>>>>>甲斐・信濃>>>>>>>>>>>>関東>>>>>>>>その他>>>>>>>>>>四国
0482人間七七四年
2012/07/10(火) 18:26:10.05ID:y1u+vsqrしかしこの作業に下人たちはくたびれ果て、その内の一人が密かにその傍らに板を立て、
そこに歌を書き付けた
『殿はまた いらぬ事をはするかなる 富士の後ろは浅間なるもの』
幽斎はこれを見て、さてさて奥ゆかしいものだと
『我もまた いらぬ事とはおもへとも ふしか見たさにするかなるもの』
なんとも雅な労使対話でしたw
(幽斎公歌集)
0483人間七七四年
2012/07/10(火) 20:14:51.50ID:oPg311dT0484人間七七四年
2012/07/10(火) 20:26:11.35ID:luUTeGXh0485人間七七四年
2012/07/10(火) 22:21:34.20ID:YWbNCk+l0486人間七七四年
2012/07/10(火) 22:48:15.54ID:5Q6gNBqq0487人間七七四年
2012/07/10(火) 23:10:03.66ID:pjHhYEGa霞むは雪に
あらざりき
我が振る太刀の
血煙と見よ
・・・吉村寅太郎が混ざってるような気がするが、
大目に見てくれorz
0488人間七七四年
2012/07/10(火) 23:17:15.05ID:TbRjk3zU0489人間七七四年
2012/07/10(火) 23:48:08.55ID:lhEUYxP9ネタにしたらまずいか
0491人間七七四年
2012/07/11(水) 18:58:11.46ID:j+NV/K6z昭和35年(1960)、新安保条約の自然成立を目前に控えた内閣総理大臣・岸信介は、池田勇人を呼びこの様に言った
「君は保守本流なのだから、党内の反主流派と付き合うのは控えなさい。僕の後は、君か栄作(佐藤栄作)しか
居ないのだから。河野(一郎)は闘将だが、一国を任せられる器ではない。
加藤清正は確かに強かった。だが、天下は取れなかった。そういうことだ。」
昭和の妖怪・岸信介が清正を例えに出したエピソードである。
0493人間七七四年
2012/07/12(木) 04:21:18.92ID:jcIeA/hr岸信介その人は武将に例えると誰になるのかな?
能吏でもあり大国の後ろ盾があって好き放題wやったあたりは小西だけど
ありゃ天下取れんかったからなぁ
0495人間七七四年
2012/07/12(木) 18:27:26.05ID:IPTk1YZ90496人間七七四年
2012/07/12(木) 19:33:41.80ID:L9e0S6TR細川頼之、本多正信が浮かんだけど
やっぱり違う気がする。
0497人間七七四年
2012/07/13(金) 01:50:25.87ID:lu8jwE5kうーむ…
0498人間七七四年
2012/07/13(金) 06:57:36.96ID:BpbQITHP能吏とかどうかは、まず置いといて
家康のように天下を取れる位置にいることが大事ってことでしょうか。
0499人間七七四年
2012/07/13(金) 08:13:12.28ID:VotxM4Wd岸信介は佐藤栄作とのエピが好き
安保改定の夜「首相が死ぬのは首相官邸だ」と避難の勧めを無視して官邸に残る岸。
「兄貴を一人で死なせる訳にはいかない」と一緒に官邸に入る佐藤。
0500人間七七四年
2012/07/13(金) 08:59:32.92ID:Wh0Vg5KI0502人間七七四年
2012/07/13(金) 16:58:36.65ID:vZ+OKWof歌を詠めない家臣なんて、斬られちゃいますよ。
0503人間七七四年
2012/07/13(金) 17:45:49.86ID:eE4HtCGb0504人間七七四年
2012/07/13(金) 18:18:36.92ID:lu8jwE5k0505人間七七四年
2012/07/13(金) 18:55:11.11ID:HGlidSbK0506人間七七四年
2012/07/13(金) 20:01:51.45ID:rf3Ug6Rg豊後国の大身の一人の兄弟にて、名を式部殿と呼ぶ武士がこの場所にあって、ことごとく説教を聴き終わった後
洗礼を受け、バスチャンという名を与えられた。
翌日彼はパードレ・ペロ・ゴメスと日本人イルマン一人を伴ってその家に帰り、直ちにその妻と家族及び
家人一同に説教を聞かせ、約80人に洗礼を受けさせた。
また、このパンタリヤンの城において、偶然彼を訪問していた青年武士が一人キリシタンとなった。
彼については特に報ずるべき事件が起きた。
シマンと名付けられたこの青年は、説教を聞くと熱意に満ち、偶像を崇拝していた過去を恥じて、次の手段によって
これを改める決心をした。すなわち洗礼を受けた後、その家に戻らず、直ちに領内の町村に行って、同所にある
寺院に火を放ったのだ。
この事は突然行われたので、坊主も俗人も驚き、火災が甚だしいため、住民は彼が豊後の王(大友宗麟)に叛いたか、
あるいはその地が敵の手に落ちたものかと考えた。
彼は領内にある、彼の父の兄の寺院に至ると人を遣わして、
「私は既にキリシタンになったことにより、その領内における神仏の愚行を容認することが出来ない。
しかしこの寺院は叔父上のものであるのであえてこれを焼却しないが、叔父上が自ら命じてこれを焼き払われる
事を望む」
との旨を伝えた。叔父はこれに返答をせず、異教徒である親類及びその兵士とともにこの寺院を守る決意を固めた。
この叔父の態度にシマンは大いに怒り、彼を殺すことを決心し、必ずその首を取ると言い放った。
叔父は偶像崇拝の保護者たる親賢(田原親賢:大友宗麟の妻奈多夫人の兄。反キリスト教)に頼り事の顛末を
伝えた。この事は神仏を守ることであると田原親賢はこの要請を引き受け
「怖れるには及ばない!私自ら保護に当たろう!」
と宣言した。それでも青年は叔父を殺す決心を動かさず、また田原親賢は既に約束した事によりこの叔父を守ろうとした。
しかしその田原親賢の婿であるパンタリヤン(田原親盛)は、こと信仰に関することであるので青年に好意を寄せ、シマンの
許に人を遣わして、この問題においては感情的にならず、道理によって処置すべきだ。もしその結果によってあなたに
見の危険が迫ることがあれば生命をかけて防ぐ。そう伝えた。
(中略)
その後パンタリヤンはパードレ・ペロ・ゴメスに使者を遣わし、シマンとその叔父のことは既に解決し、二人の裁判官を定め
その正当と認める所に従うよう伝え、裁判官たちは田原親賢が約束を破棄し叔父を保護せず、またこれを臣下とせず
国外に追放し再び入国することを許さず、その所領の半分を没収し、残りの半分はその子に与えると決定した。
その後パードレはシマンがその家臣約2000人をキリシタンにしようと切望していると聞いた。しかし全員をキリシタンにすれば
労役者が不足するので来れをするのは不可能であった。(キリシタンは労役義務を免除されていたようだ)
シマンは信仰のことに甚だ熱心であり、たとえ世子(大友義統)が反対の命令を下しても、既に説教を聞いた上は
必ず洗礼を受けると言い、ついにこれを受けた。』
大友宗麟の時代の、豊後で起こったキリスト教絡みの騒動の一つである
(天正12年・日本耶蘇会年報)
0507人間七七四年
2012/07/13(金) 22:20:50.32ID:eeBMNuSJ同情した長政は内府(家康)に助命を請うか尋ねると行長は答えた。
「私はもはや命を重んじていない。キリシタンの教えが禁じていなければ切腹するのは
容易で私は自分の罪に対してどのような死を与えられようとも甘受する用意がある。
私が貴殿に願いたいことは自分が告白するのに一人の司祭バテレンに会えるよう尽力してほしい」
0508506 小西行長の話の続き
2012/07/13(金) 22:24:08.67ID:eeBMNuSJ黒田長政は内府の許可を得られるよう全力を尽くすと約束した。しかし、内府の家康は
司祭との面会を許さなかった。バテレンの司祭たちはあらゆる手を尽くしたが、面会はかなわず、
小西行長は処刑されてしまった。
家康はキリシタンの告白が何のことかわからず、何らかの欺瞞ではないかと思ったので、
司祭たちに面会の許可を与えなかったのだ。(イエズス会年報集)
0509人間七七四年
2012/07/13(金) 23:39:26.91ID:rf3Ug6Rg(上略)…また、モンセニュール・ド・セルケイラは、公方(徳川家康)に謁見することがあって、これにより公方は
宗教のことに関してますます寛大となられた。
この司教、日本に到着して以来、迫害、内乱、そして公方によるこの帝国の統一と厳重なる施政の展開があり、
この間、彼は長崎から動くことが出来ず、また自由に司教の職務を果たすことも出来なかったが、
ここに至って事態が好転したことを認め、この国の主権者に拝謁する計画を立てた。
エチアム(小笠原一庵為信)という朝廷(幕府)の重臣の一人はこれより前に、ポルトガル関係事務の監督官として
長崎に派遣されていたのだが、司教に助力することを申し出、ついにその謁見の許可を得た。
司教は多くの師父、及び法兄弟と共に直ぐに上洛した。大阪に至ってエチアムが用意した一艘の川船に乗り
エドガワ(淀川)を上って京都にいたり、師父の家に宿泊した。
大阪においても、またその途上においてもいたるところでキリスト教徒は群れをなして駆けつけ、司教に
服従の意を表し、京都に至るときもまた同様にて、キリスト教は尽くその権利を回復せし観があった。
モンセニュール・ド・セルケイラは司教の服を着け謁見のために出発したが、駕籠のまま宮殿の内部に
入ることを許可された。これは最大の諸侯でなければ与えられない特権であった。
公方自らも礼服を着用し、最も厚く司教を待遇した。
次に、その平常の居城である伏見の宮殿、及び城と、京都の城(二条城か?)とを司教に見せるべしとの
命を下し、また日本国中で最も壮麗である同地の諸寺院を見せた。
司教はこの滞在を機として、キリスト教徒を最も厚遇している諸侯であり、君主の寵臣たるカンズケ殿(本多上野介正純)、
及び京都の知事板倉殿(板倉勝重)に謁した。この両人は共にキリスト教の重要な保護者である。
司教はまた甚だ多くのキリスト教徒に、堅信の秘跡を授ける機会を得た。
帰途、豊前候エッツーン殿(細川越中守忠興)に、同国の首都小倉にて謁見したが、候は彼に、司教によるミサ聖祭に
臨席する許可を求め、キリスト教及び宣教師に対する保護が決して覆ることがないと、司教に確信させた。
また司教は後で、候自らもその心中においてはキリスト教徒であり、未だ神聖なる洗礼こそ受けられていないが、
候を以って神霊上の子の一人と認めざるをえないと言われた。
候が自らキリスト教徒であることを宣言し、かつ洗礼を受けることが出来ないのは、公方が諸侯のキリスト教に
改宗することを禁じたために、その意に従わざるを得ないためなのだ、とも付け加えられた。』
本多正純と板倉勝重がキリスト教の二大保護者だったり、細川忠興をキリスト教徒認定してたり、
本国への報告のためか、どうも希望的観測すぎないかと思わざるをえない記録である。
(パジェー日本耶蘇教史)
0510人間七七四年
2012/07/14(土) 00:36:10.05ID:bL+LifhN0511人間七七四年
2012/07/14(土) 00:59:02.57ID:CLucpikP0512人間七七四年
2012/07/14(土) 02:25:15.98ID:clULgAfH妄想補完とキリスト教上げが多すぎて何が本当なのかわからん
歴史とか言いつつも、結局は布教活動用の資料の粋を越えてないと思う
0514人間七七四年
2012/07/14(土) 14:40:17.22ID:fDVg0WLL馬から降りて戦うのは西洋でもそんな珍しいことではなかったようですよ
というか常に馬に乗ってなんてモンゴル軍みたいに潰れてもいいように予備の馬何頭も連れてるような場合でないと難しいみたいで
まあフロイスさんは幼少期をスペイン宮廷で過ごして成長してインド、日本で主に生活してた人なんだから
日本の現実よりむしろ西洋の現実のほうを知らないと思う・・・
0515人間七七四年
2012/07/14(土) 21:43:39.02ID:dHBxf5HS享禄4年、細川高国・浦上村宗と、細川晴元・三好元長・赤松政村(晴政)の間で合戦の火蓋が切られようとしていた。
そして、6月4日、三好方の諸勢が、打出、天王寺、木津、今宮に攻めかかった。
大物(だいもつ)崩れの戦いである。
細川高国はここを先途と防戦したが、その先鋒を務める浦上勢は小勢であったために敗れ、浦上村宗は討ち死にしてしまった。
村宗の臣・島村弾正(貴則)はこの事態に「無念なり!」と叫んで敵を引っつかみ、野里川の淵に飛び込んで死んでいった。
この時以来、彼が死んだ淵では甲羅に武者の顔のあるカニが見られるようになり、今に至っている。
周辺に住む者は、このカニのことを「島村蟹」と呼んでいる。
(足利季世記)
島村蟹とは、標準和名「ヘイケガニ」のことである。
遠浅の干潟でも見られるというこのカニは、そのインパクト抜群の姿のために様々な地方名を持っている。
江戸時代後期の『本草綱目啓蒙』という書物には、島村蟹の他にも、長田蟹(元ネタは「主をきり婿をころすは身のおはり むかしはおさだ今は山しろ」の長田忠致)、
清経蟹(平清経)、武文蟹(太平記の登場人物・秦武文)、治部少輔蟹(石田かどうかは不明)というようなものが挙げられている。
0516人間七七四年
2012/07/14(土) 21:44:54.44ID:dHBxf5HS例えば、昆虫では、ジョウカイボン(浄海坊=平清盛。火傷のような炎症を起こす別種の有毒昆虫と混同され命名されたらしい)
トウゴウヤブカ、トウゴウカワゲラ(東郷平八郎)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)、オオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)
(外人の研究者が名付けた「学名」を「和名」に反映させている)
魚類では、キントキダイ(坂田金時)、クマガイウオ、アツモリウオ
(それぞれの体色に由来)
シュンカンハゼ(俊寛僧都)、タメトモハゼ(鎮西八郎為朝)、ベンケイハゼ
(それぞれの標本の産地(薩摩硫黄島の対岸、運天港の近く、田辺湾)+容姿に由来するらしい)
等があるようです。
戦国時代の人物にちなんだ標準和名の動物とか、いかにもありそうな気がするけど・・・
タメトモハゼ「魚類に限って言えば、小耳に挟んだことも無い!」
まあ、変化球でアカハチハゼ(石垣島の豪族・オヤケアカハチ)とか、
伊達者という言葉に由来するという、お洒落な縞模様のダテハゼなんてのがあったりしますが。
0517人間七七四年
2012/07/14(土) 21:48:23.09ID:poa2keyKサナダ虫「・・・」
0518人間七七四年
2012/07/14(土) 21:49:17.96ID:poa2keyK0519人間七七四年
2012/07/14(土) 22:13:24.40ID:dHBxf5HS魚類くらいしか把握できてないもので、完全に忘れてた。
サナダムシ
形状が真田紐に似ていることからその名が付いた。
また、一説では徳川家康がサナダムシに苦しんでいた事から
「真田は虫になってまでもこの家康を苦しめる」と嘆いた事から家康が名付け親と言われる事もある。
あと、地方名なら戦国の人名由来のものは色々ありそうですね。
0520人間七七四年
2012/07/14(土) 23:26:49.08ID:KkSrYP1x話の本筋からは離れるけど、
いわゆる「大物崩れ」って戦の範囲がえらく広範囲に及んでるんだけど、
これってどう解釈したらいいのかな?
細川浦上連合軍が西宮の神呪寺に布陣してた赤松勢に
背後から襲われて総崩れになったことになってるんだけど、
天王寺や今宮のあたりから大物まで延々と布陣してたなんて考えづらいし・・・
0521人間七七四年
2012/07/15(日) 00:17:39.65ID:PKmFApoL『後鑑』収録分を使ったので前後の文章が分からないけど、
ただ単に『足利季世記』作者の誤解または故意で、数ヶ月にわたる一連の戦いを
一日のものとして描いてるだけじゃないのかな?
0522人間七七四年
2012/07/15(日) 06:08:15.45ID:73R7Butz(~)
γ´⌒`ヽ
{i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ´・ω・)
(V) (V)
し─J
0523人間七七四年
2012/07/15(日) 10:03:56.86ID:jLTHAmro0524人間七七四年
2012/07/15(日) 11:31:50.35ID:JUJOLVZM0525人間七七四年
2012/07/15(日) 19:15:41.05ID:SJCrnKFzある時には蝋燭は数本だけで残りは油火ばかりという徹底ぶりで日頃から
家人たちも厳しく言われていたらしい。
ある時、成瀬正成と松平正綱が急ぎの連署状を書くために坊主からわずか
二、三寸の蝋燭を請い得て連署状を書き、その場を離れた。
この時、二人はうっかり火を消し忘れた。見回りが蝋燭を見かけると
坊主は呼び出され「上様が御覧になったらお咎めになるぞ。何故消さない」
と叱られてしまった。
「いや、これは隼人殿たちが…」と、坊主が説明しているところに消し忘れに
気付いた二人が戻ってきた。
「お前たち、消し忘れに気付いていたなら何故消さない」
坊主はまた叱られてしまった。
0526人間七七四年
2012/07/15(日) 19:35:21.66ID:jy7EbxNU一般人は使ってなかったんじゃないかな?
水戸黄門とかの時代劇だと農民でも使ってるけど
0527人間七七四年
2012/07/15(日) 19:35:48.56ID:SmZeOzs00528人間七七四年
2012/07/15(日) 19:46:21.38ID:rZBNcugHそして肝心の消し忘れはそれと気付いているのに消そうとしない
この見回りは一体誰でしょうな
0529人間七七四年
2012/07/16(月) 00:11:35.33ID:O8eaPXUR0530人間七七四年
2012/07/16(月) 08:10:27.90ID:uN8vUu/G0531人間七七四年
2012/07/16(月) 09:21:53.41ID:AKgEYPKZ坊さんマジ踏んだり蹴ったり
0532人間七七四年
2012/07/16(月) 10:31:26.98ID:qMOzFLgo0533人間七七四年
2012/07/16(月) 20:08:41.44ID:zifDkflFあんま関係ないけど、スカシカシパンとかのカシパン類って昔は「桔梗貝」って呼ばれてたそうだが
明治の学者が菓子パンからカシパン類なんて権現様のようなネーミングをしたせいで今に至るという・・・
05341/3
2012/07/16(月) 23:46:54.86ID:LdB3vkF6主君の真田信之に似た(?)のか、広大な屋敷地を拝領したは良いが、敷地にぐるりと竹垣を巡らして他人の
出入りを禁じ、季節ごとに行う垣根の補修も人足を雇わず、中間や領民をコキ使っていた。
「そんな中で八助よ、お前はこの右近の心に叶い、律儀に働いてくれるのう。」
「へへーっ!有り難うございます。」
「よし、この際だ。お前に加増してつかわす。年末を楽しみにしておれ。」
そして、その年の暮れ。右近に呼び出され、ワクワクして主人のもとにまかり出た八助の前に、
年給と別の包みが差し出された。「そら、加増分じゃ。」
包みには銭が百文、入っていた。
「・・・・・・」
「なんじゃ、その顔は。あのな、我が殿は十数万石の大名なれど、侍の加増は十石二十石よ。それを思えば、
わしなんぞが百文の加増をつかわすなど、おびただしき事ぞ。有り難く思えよ。」
「・・・・・・」
05352/3
2012/07/16(月) 23:47:52.71ID:LdB3vkF6餅が間食に・携帯食にと、年中作っておくのが当たり前だった時代に『米の費えが、かさむ』と
正月以外は餅つきを許さない、という有様だった。
若党八人、中間等二十数人、下女等十数人を使い、若い者も多い右近の家中がそれで収まるはずもなく、
見かねた右近の妻が用人の一場太兵衛に命じて、深夜二時ごろにコッソリ餅をついて配っていた。
さて、右近は毎朝五時に起きて支度し、六時に食事、家内の所用・指示を済ませて八時に登城、という
規則正しい生活を送っていたが、ある日のこと、餅をつく音に気づき、深夜目覚めてしまった。
「太兵衛よ、あれは何の物音じゃ?」
「・・・ははっ、あれは中間どもが、薪を割る音にございます。」
「こんな遅くまで働いておるとは感心だのう。中間に酒を振る舞ってやれ。猪口で三杯、な。」
太兵衛に振る舞い酒を命じた右近は再び眠ると、翌朝はいつも通りの規則正しい生活に戻り、登城していった。
「太兵衛、旦那様はもう、ご登城されましたか?」
「はっ、奥方様。」
「よろしい。では、あとで皆に酒を振る舞ってあげなさい。茶碗や木椀で、ね。」
「はっ、奥方様。」
05363/3
2012/07/16(月) 23:48:41.38ID:LdB3vkF6それなりの給金を出して中間等を雇ってはいたが、金銭・物品の出し入れの細部に至るまで右近の監視を受け、
『どうにも気が詰まる』と、年季が明けるとすぐ辞めてしまい、二年と雇われる者は稀だった。
「そんな中で八助よ、お前は良く続けて働いてくれるのう。」
「そりゃあ、一応加増していただいておきながら、人並みに辞める、なんてマネはできませんや。」
「うーむ。その心意気、見事!これをくれてやろう。着物の一つも作るが良い。」
右近が褒美として八助に、目にも鮮やかな反物を与えてやった、しばらく後のこと。
「どうじゃ八助よ、あの反物は仕立ててみたか?」
「・・・はっ。」
「歯切れが悪いの。・・・まさかお前、主人からの拝領品を売ってはおるまいな?仕立てた着物を持って来い!」
さっそく八助は、仕立てた着物を着込んで戻ってきた。
「なんじゃ、その着物の丈は。ツンツルテンではないか。やはりお前・・・」
「い、いえ!この通り!」
八助は懐から一尺四寸ほどの、着物と同じ柄の手ぬぐいを取り出して見せた。
「それでも、これほど着物が短くはなるまい。有り体に申せ!」
「お、恐れながら!」
八助が前をくつろげた。そこには着物と同じ柄の、目にも鮮やかな六尺フンドシが締めこまれていた。
「・・・なんちゅうケチじゃ。お前のような者は日本に二人とおるまい。」
『流石質素の右近も、此八助には及ばざると思ひたるとみえたり』と、真田家御事蹟稿は結んでいる。
0537人間七七四年
2012/07/16(月) 23:54:08.96ID:kx+wRB9H0538人間七七四年
2012/07/17(火) 00:50:05.76ID:+GMXheMFあと柳生新陰流は松代で披露したんかね?
0541人間七七四年
2012/07/17(火) 12:14:55.73ID:QOJ15MRf0542人間七七四年
2012/07/17(火) 12:25:52.98ID:QOJ15MRf忘れてください
0543人間七七四年
2012/07/17(火) 18:29:53.43ID:jpO8CV/W0544人間七七四年
2012/07/17(火) 20:53:29.45ID:DiOFImt+0545人間七七四年
2012/07/17(火) 21:48:59.41ID:3+YgdTAA信州っ子はしらんが
0546人間七七四年
2012/07/17(火) 22:12:20.34ID:YDLOSd8z0548人間七七四年
2012/07/18(水) 06:11:28.25ID:zs54iqdY> 569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 22:18:22.12 ID:BJDZhdpE
> 「黒田家譜」の毛利輝元の扱いが酷い件
> 登場人物が次々にダメ出ししてゆく、不幸な立ち位置
>
> 孝高「輝元は天下の主たるべき器量ではありません」(小寺政職に)
> 「輝元は大身ですが、天下をとるべき力量などありません」
> (宇喜多直家に)
> 「どうして、輝元が天下の主になれるでしょうか?」(別所孫右衛門)
> 「あの輝元も隆景のおかげで、今までは見事に見えていたのだ」
> (隆景の死に際して)
>
> 隆景「輝元を天下の主にするなら、たちまち天下を失うだけでなく、
> 毛利の家も滅亡してしまいます」(吉川元春に)
> 「輝元は天下を保つべき器量にあらず」(隆景遺言)
>
> 家康「輝元は愚かではあるが頼もしい人だ。石田が秀頼のためと称したのを
> 信じて味方し、家を傾け破ったものの、他の人とは違って
> 私的な野心などなかったのだから」(関ヶ原のあと)
>
> 「輝元は天下をとる器量にあらず」―大事なことなので皆で何回も言いました
> 570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 23:05:50.99 ID:P/DLDS1d
> 細川書状の「あいつ生まれつきバカだから・・・」な毛利秀就評よりはましと思えば・・・
【合子形兜】 黒田孝高総合スレ 2 【圧切長谷部】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293800734/
0551人間七七四年
2012/07/18(水) 08:24:14.72ID:4xiXU/nk家康にして毛利残してもいいか。って思わせた訳だし。
0552人間七七四年
2012/07/18(水) 09:32:25.84ID:rqzLch3R一方毛利輝元は馬鹿で家を守った
どうしてこんな差がついた…
0554人間七七四年
2012/07/18(水) 11:25:38.41ID:9irL3ZNz0555人間七七四年
2012/07/18(水) 11:42:40.71ID:FGZjr13xそりゃー一般ピーポーに比べるならそうだろ、というかホントにボンクラだったら家残せんだろうw
でも、関ヶ原の際に私的な野心が無かった、ってのはひじょーに疑問が残るw
0556人間七七四年
2012/07/18(水) 12:42:56.40ID:35oWiEoP東軍総大将の権現様の経歴考えたら普通に固辞するだろ
0557人間七七四年
2012/07/18(水) 12:53:54.11ID:IhImhVkT0558人間七七四年
2012/07/18(水) 12:57:02.76ID:bdjR7Vzr0561人間七七四年
2012/07/18(水) 13:21:44.43ID:mQqAyNaB0562人間七七四年
2012/07/18(水) 15:09:09.69ID:mQqAyNaB政宗 一揆を煽動
家久 義久が西軍だったのに、駄々をこねて本領安堵
忠興 幽斎の田辺城を攻めた小野木公郷の切腹を断固として主張
忠政 「兄の仇だ」、と、川中島の百姓を磔
正則 家康家臣の伊奈図書を切腹させた。
ちなみに井伊家は上記三つと関係がある
直孝 百万石のお墨付きをビリビリと破った
直政 島津と激戦 & 徳川氏と島津氏の和平交渉の仲立ち 強敵(とも)?
直政 公郷の助命を忠興に頼んだが断られ大激怒。細川を九州に飛ばす。
0563人間七七四年
2012/07/18(水) 15:30:07.70ID:IYv/cLge0564人間七七四年
2012/07/18(水) 15:41:54.53ID:mQqAyNaB0565人間七七四年
2012/07/18(水) 18:29:27.85ID:2MSkOlz0元就の遺言からして察してあげて下さい。
でも2代目将軍のポジならしっかり治めれたんじゃないのかな。
あの時代の藩政改革の実行力がトップクラスなのは証明済みだし。
0566人間七七四年
2012/07/18(水) 19:37:07.61ID:8BmSGQo3愛知郡中 中村(中村は上下の三ヶ所あり)の民家にて生まれられた。その幼名を猿と言ったとか。
異本に、太閤の幼名を猿といったのは、その面貌が猿に似ていたための異名であると記されている。
これによって林堂俊も、秀吉を猿面郎と書いた。また異国より渡る雑書には、木に登ることを能くした故の
名であるとある。
しかし古を調べてみると、これらの説は全く信用することの出来ないものである。
何故かといえば秀吉の面貌が猿に似ていたという事にはっきりした証拠はなく、たとえ彼が猿に似ていたとしても、
父母の身として、子供を猿と名付けるようなことはしないだろう。
その上猿に似ていたという書物も、そうなったのは成長した後だと書かれている。それならば幼少の時から
猿に似ていたため父母に猿と名付けられた、という説に相違している。
また木登りの誉れがあってその名を得たという話も、全く根拠のないものだ。推測すると、太閤は下賤の出身であると
伝え聞いて、外国で作り上げられた浮説であるのだろう。
この他外国の小説に、秀吉は呉越の間に居住していた書生であったが、科挙に合格出来なかったために日本に渡り、
ついに和の首領となって天下を治めた、などと誠しやかに書いた異説もあるが、これらは皆、信用するに足らないものである。
また別の本に、秀吉はただ人ではない。彼の母が、日輪が懐中に入る夢を見て宿った子である故に、
日吉と名付けられたと記されている。現在から見て、これは秀吉公が名を成した後、異国を攻められていた当時に、
相手に渡された書簡にこの怪異が記されているのであるが、それを事実として信用していいものか。
また一説に、秀吉公の家は山王権現(日吉大社)の氏子であり、神の御名を取り用いて、しばらく日吉と
名付けられたが、何らかの理由で急に神の名を憚ることになり、そこで、猿も山王の愛されている獣であるとして、
その名をお猿と改められたというのだ。
なお、この説は私が伝え聞いたものなのだが、少しは本当めかしい話しである。
まあ、ただ単純に太閤は申年の生まれであるので、父母もなんとなくその名をお猿と呼んでいたため、
成人のあと、計らずもそう呼ばれたのではないか?
それに本当に猿に似ていたかどうかも知り難い。
こう言った説の数々はここでどうしても言わねばならない事でもないのだけれど、筆に任せて
思いつくまま書き付けてみた。
(関原軍記大成)
江戸時代初期くらいの、秀吉=お猿という話についての考察である。
0567人間七七四年
2012/07/18(水) 19:47:19.53ID:FQLJJe7Eいまにも消滅しそうだけど
でも県名の由来になった郡だから何とか存続して欲しいわ
0568人間七七四年
2012/07/18(水) 19:51:10.74ID:8BmSGQo3申し訳ない
0569人間七七四年
2012/07/18(水) 20:00:25.55ID:k96a6zb70571人間七七四年
2012/07/18(水) 22:13:54.84ID:Yqpiy80x0572人間七七四年
2012/07/18(水) 22:26:25.01ID:5h8iDGxC>また異国より渡る雑書には、木に登ることを能くした故の
>名であるとある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1322.html
明史「日本伝」の
信長に樹の下であったから「木下人」と名付けられた、
って話の元ネタかな。その雑書
0573人間七七四年
2012/07/18(水) 22:45:27.13ID:ggb+2veL家康の経歴ってすごいよな。
・動揺しているとはいえ大大名の今川家から独立
・織田と対等の同盟(実情はパシリだけど)
・信玄に攻められるも何とか助かる(焼き味噌漏らしたけど)
・本能寺の変後の混乱でどさくさ紛れに甲斐、信濃を奪取
・圧倒的な兵力差にもかかわらずラスボス相手に互角以上で戦う
・石高ではラスボス以上で関東入り
・ラスボスが死ぬまでは律儀な良い人を演じきる
一代で大財閥築き上げた苦労人社長に、叔父さん達に支えられて
やっと過去の遺産を維持してる三代目のボンボンが勝てるとは
思えないんだけど。
0577人間七七四年
2012/07/18(水) 23:50:40.23ID:dubtJlTp0578人間七七四年
2012/07/19(木) 00:18:54.40ID:jksjAGOu0579人間七七四年
2012/07/19(木) 00:55:27.33ID:j+po3sZk0580人間七七四年
2012/07/19(木) 01:00:09.36ID:9HwcXHZY0581人間七七四年
2012/07/19(木) 06:51:10.39ID:xDnZzES40582人間七七四年
2012/07/19(木) 07:45:54.44ID:MWQHA/lj悪い意味で
0583人間七七四年
2012/07/19(木) 07:53:27.68ID:H3PazkL80584人間七七四年
2012/07/19(木) 08:08:36.20ID:qhdS+t3c0585人間七七四年
2012/07/19(木) 08:12:57.86ID:UecbY5Y90586人間七七四年
2012/07/19(木) 08:33:43.30ID:+vbzbVKh0587人間七七四年
2012/07/19(木) 08:34:02.09ID:w0UUOmauの不満のはけ口が三河なのか・・・・三河の人かわいそう
0588人間七七四年
2012/07/19(木) 08:54:54.65ID:yRomCkpM東京人にはよほど家康批判が気に入らないみたいだね
司馬コンプレックスって奴か
0590人間七七四年
2012/07/19(木) 09:00:11.04ID:H3PazkL80591人間七七四年
2012/07/19(木) 09:37:27.66ID:FQYaFi2F誰がいたっけ?
あれは、ラスボスが最も恐れた男だっけ?
0592人間七七四年
2012/07/19(木) 10:49:55.88ID:SBu7qW0t織田信秀→そりゃあ誘拐されたもんね
今川義元→まあそうかも
織田信長→まあそうかも・・・
武田信玄→まあそうだね・・・
三方原の婆ちゃん→確かに・・・
大久保忠世→テメーのせいで焼き味噌が後世に伝わっちゃったじゃねえか。
本多重次→間違い無くその通り
真田昌幸→正直コレは後世の史観
豊臣秀吉→恐れてたって言うよりライバル?
石田三成→まあそうかな・・・?
直江兼続→ねえよw
黒田如水→そこまで評価していただろうか?
真田信繁→ねえよwその2
やっぱ多いけど、それだけ家康のキャリアが豊かってことだと思うな。
0593人間七七四年
2012/07/19(木) 11:08:59.18ID:99ywWNwT0594人間七七四年
2012/07/19(木) 11:09:17.83ID:qkJ7BDzy0595人間七七四年
2012/07/19(木) 11:15:03.14ID:yRomCkpM0596人間七七四年
2012/07/19(木) 12:45:40.69ID:g/wiT4e20597人間七七四年
2012/07/19(木) 14:00:10.85ID:SBu7qW0t結局石川氏も大久保氏も許さなかったしなぁ・・。石川家成や大久保から養子になった石川忠総や小笠原には優しかったけど。
まあ数正系はあくまで外様とも言えるし林佐久間安藤らを逐った信長や秀次前野神子田その他諸々を遠慮無く殺したラスボスに比べれば
改易した有名譜代は大久保くらい(しかも忠常で小田原藩復活だし)な家康はやっぱ一部の癪に障った人以外は安全な人なんだろ。短気でドケチだけど。
でも榊原とか鳥居以外は譜代でもミスしたり後継者がいなかったら容赦なくつぶすけど。
0598人間七七四年
2012/07/19(木) 14:29:43.33ID:0gK7olWw0599人間七七四年
2012/07/20(金) 01:16:00.13ID:Hg0l0HvR長可「俺も一部の立ちふさがった人以外は安全な人。ちょっと短期でSATSUGAI好きだけど」
0600人間七七四年
2012/07/20(金) 01:40:56.66ID:9qKNODW90601人間七七四年
2012/07/20(金) 01:58:33.48ID:13YGG14u0605人間七七四年
2012/07/20(金) 12:30:49.50ID:P8Z9yYIi妄想かどうかはひとまず置いておくとしても、家康と信康と家中が割れたので、家康が殺したという学説もあるからなぁ…。
0606人間七七四年
2012/07/20(金) 12:32:08.76ID:4fyoJuX9おねって信康と関係あったっけ?
0608人間七七四年
2012/07/20(金) 15:42:06.77ID:GMovvG7E信康は従姉妹の徳姫の夫で関係あるし、
おねとは秀吉夫人ということで関係あるな
0609人間七七四年
2012/07/20(金) 15:48:00.79ID:GMovvG7E0610人間七七四年
2012/07/20(金) 16:24:01.01ID:Epu0T8Ym信康切腹の5ヶ月前に秀忠が生まれてるから、あそこらへんで家康死んだらと思うとやっぱ家康の判断で殺したとは思えない。
当時の赤ちゃん事情考えたら秀忠もいつ死ぬか分からん。
秀忠がいてもいなくても、めんどくさい三河武士のことを考えれば家康死んでも当然離散なんかするわけないが、
信長の乗っ取りと俺は考えてる。スレチ気味で申し訳無し。
0611人間七七四年
2012/07/20(金) 16:27:04.44ID:aKQddXCQ0612人間七七四年
2012/07/20(金) 17:28:55.65ID:G5GFfFLJ×おね
○おれ
信康殺害とか、石川数正の出奔、本能寺事件とかね。
多分同時代で比較的近い処にいても当人以外には判らないんじゃ無いかと。
う〜ん、もしかしたら当人にも判らないかも。
0613人間七七四年
2012/07/20(金) 17:44:21.62ID:1+V2IgD8むしろ結束した観すらある。
事件の処理から見ると、やっぱり母親の築山殿の絡みでの、信長からの圧力と見たほうが自然な気がする。
>>610
秀康は母親の身分が低いので、家康の他に男子が産まれないという事態でも起きない限り
嫡男には成り得ない。
0614人間七七四年
2012/07/20(金) 17:56:22.64ID:sD9Cgwd+信長殺害説だと信長の利益が説明つかないんだよね
信玄も義信を殺したし、親子相克はよくあることだよ
0615人間七七四年
2012/07/20(金) 18:13:07.24ID:1+V2IgD8> 信長殺害説だと信長の利益が説明つかないんだよね
だから信長が武田への内通を疑ったと見ていいんんだと思うよ?
あの当時既に政権を形成していた信長としては、配下統制の一貫としての処置でしょう。
それを言うなら信康事件で徳川家中には誰も、粛清どころか家中勢力の変動すら起こっていない。
武田の義信事件の時は、飯富虎昌を始め義信派の大きな粛清があった。
仮に家中分裂があった場合はどうしたって反対は責任者の責任追及は行われざるをえないわけで、
それが何をどう見ても存在しない以上、家康や徳川家中の都合というのは、どうにも信じられないんだなあw
徳川家の内部でも、誰も得してないんだものw
0616人間七七四年
2012/07/20(金) 18:13:18.04ID:o43kAeLPたしか秀康と秀忠でどちらを跡継ぎにするか意見が分かれたことあったんだよね
秀康の母親の身分が低いなら意見も分かれることなく跡継ぎは秀忠にならないのかな?
0617人間七七四年
2012/07/20(金) 18:19:22.75ID:bis/4Eyx関ヶ原の後だよね?あれは秀忠と秀康だけではなく、忠吉も名前が出てきてとにかく前提なしに議論してみよう、
みたいな話だけど、しかし秀忠は秀吉の時代から既に江戸で、実質的に後継者として家臣団も形成し
関東統治の中心として活動していたわけで。もし秀忠を後継者から外すとすれば既に形成されたシステムや
家臣団をぶっ壊すことになってしまうのですよ。
なので仮にあの話が実際にあったとしても、それは秀忠を後継者として再確認するセレモニーに過ぎなかったと思うよ?
0618人間七七四年
2012/07/20(金) 18:36:45.28ID:Epu0T8Ym徳姫との不仲説+信康が瀬名同様親勝頼だったとしたら・・。
&家康が死ねば政治的なやり取りで徳川を傀儡にできるかも。
十分利益はあったと思うな。
話がぜんぜん違うけど関が原後の秀康秀忠忠吉どれがいいかって逸話あるけど
あれって確か本多忠勝も井伊直政も本多親子も平岩親吉も榊原康政すら秀忠以外を推薦したんだよなw
賛成したのは大久保忠隣だけだったか…果たしてセレモニーとしてはどうだったのかと思うw
0619人間七七四年
2012/07/20(金) 22:07:23.78ID:Gtu1Y53210台で中納言だろ
秀康と官位は隔絶していたしあれで後継者内定していないわけない。
関が原の失敗で少し揺らぎはしたんだろうが
0620人間七七四年
2012/07/20(金) 23:21:10.82ID:sZLh3To0募集に応じて多くの者が集まり、皆腕を競い合った。
その中に松吉、周りからは鬼吉と呼ばれる大男がいた。
松吉は身分の低い百姓の出であったが、六尺五寸ほどの巨躯の持ち主で、鬼のように恐ろしげな容貌を持ち
素手で木を引き抜き、槍を同時に五本振り回し、矢を十本同時にへし折るほどの怪力の持ち主だった。
だが、その豪勇の割に無口で大人しい男であり、何を聞いてもまともに受け答えが出来なかったため皆からは馬鹿にされていた。
経久はこの大男をとても気に入り武士に取り立てようとした。
だが松吉は幼い盲目の妹がいることを理由に断ったため、経久は松吉に心ばかりと米俵を与えすんなりと帰させた。
部下にはそれを咎める者もいたが、経久はよいよいと言い、小気味よさげに見送った。
何年か後、経久は松吉のことが気になって部下に調べさせたが、既に亡くなったという非常に残念な報告が届いた。
松吉が住んでいた周辺は完全に経久の勢力圏で戦もなかったため、どうしてあの豪勇の士が死んだのか
経久は疑問に思い部下に松吉のことを再度調査をさせた。
すると、松吉はその性格ゆえか村人達に非道な虐めにあって殺されたばかりかその亡骸は辱められ
盲目の妹は慰み者にされたあげくに殺されたとの惨たらしい報告が届いた。
豪勇の士を遇することを知らぬ者達のあまりの仕打ちに烈火の如く怒った経久は、即座に虐めの首謀者らを捕らえ打ち首にし
その首を松吉の墓前に供えて霊を丁重に弔ったという。
0621人間七七四年
2012/07/20(金) 23:39:47.20ID:o43kAeLP後味悪すぎる・・・
松吉には少し障害があったのかな
今も昔もくだらないことで虐める奴いるんだな
0622人間七七四年
2012/07/20(金) 23:48:30.63ID:TC8d8MTi0625人間七七四年
2012/07/21(土) 00:51:51.08ID:MziHLxEh隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包、二宮就辰
0626人間七七四年
2012/07/21(土) 01:09:41.57ID:GcOViNkz0627人間七七四年
2012/07/21(土) 01:13:12.50ID:GcOViNkz0628人間七七四年
2012/07/21(土) 02:15:25.60ID:mD428EP+0629人間七七四年
2012/07/21(土) 03:06:46.68ID:93gflo4f0630人間七七四年
2012/07/21(土) 03:09:09.56ID:mD428EP+0631人間七七四年
2012/07/21(土) 07:12:08.70ID:A8CF7d2X木を引き抜くのは定番の試験だったのか?
0632人間七七四年
2012/07/21(土) 08:23:56.75ID:U/bKkmPx0633人間七七四年
2012/07/21(土) 09:25:12.91ID:TIG6DBQO0634人間七七四年
2012/07/21(土) 12:57:43.05ID:l/Mg6B080635人間七七四年
2012/07/21(土) 13:08:06.99ID:H4RvnM2W人の心を持たないクズ野郎共だ
0636人間七七四年
2012/07/21(土) 15:54:39.65ID:k3vcaVJN0637人間七七四年
2012/07/21(土) 16:06:39.17ID:qltYteDD0638人間七七四年
2012/07/21(土) 16:26:22.75ID:ijSPW+5s筑前中納言小早川秀秋の家臣・比奈津角助は、籠城衆の松平五左衛門を突き伏せた。ところが
後から来た同僚である田島勘右衛門はこの角助に向かってこう言い放った
「角助よ、その頸の半分は俺のものだ!そう心得よ!」
角助が松平五左衛門を討つのに田島の手は一切借りていない。当然ながら彼はこれに納得せず
「なんだと!?お主に一体何の骨折りがあってそのようなことを言うのか!?」
これに田島
「お主は敵と槍を合わせていたが、未だ互角のうちに俺が馳せ来たため、敵は気が飲まれて引き色となり、
お主は勢いを得て能く敵を討ち取った。そういう事だったのにこれをお主一人の高名とするというのは、
全く思いもよらぬことである!」
角助はこの言葉に強く反発したが
「ここでなんのかのの言い合っても仕方がない!ご主君の御裁許を仰ごう!」
そうして二人は小早川秀秋の前に出て、その経緯を述べた所、秀秋は
「この事、田島の言う所に理がある。これはいわゆる相打ち(二人、もしくはそれ以上で一人敵を打ち取ること)と
定めるべし!」
と、下知をした。
角助はこれに全く納得できなかったが、主命であるので拒否することも出来ず、仕方なく訴訟を止めたと言うことである
(関原軍記大成)
0639人間七七四年
2012/07/21(土) 17:46:03.60ID:j4aRX38L0640人間七七四年
2012/07/21(土) 18:26:57.28ID:oWZljOMIむしろ白い目で見られそうだ
0641人間七七四年
2012/07/21(土) 19:10:11.47ID:hn2RZa6E始めたことがあった。
「関ヶ原の戦の後は世も静謐になった。
まことに、わしにとってあの戦は死生の分け目であった。
我が方は挟み撃ちにされそうになったが、敵は一戦に打ち負けて
右往左往に逃げる有様は見苦しいものだったな。
それに比べて我が方は命を惜しまず、功を争わずまことに潔いではないか。
のう彦左衛門よ?」
(なっげえ話だなあ)
彦左衛門は長話にうんざりして帰りたくなった。
「なるほど一溜りに敗北とは見苦しいですね。
しかし上様が小山に御着陣の折、伏見より上方が敵だらけになった
との報があった時は、上様の御顔も真っ青になり、諸将も妻子を取られたと
聞いて顔を青くしておりましたが、太平となり青い御顔も元通りになられた
ようですから、まことに御運強くめでたいことです」
嫌味を言われた家康であったが笑って「彦左衛門はやく休め」と言って
彦左衛門を下がらせた。
0642人間七七四年
2012/07/21(土) 19:15:43.40ID:EUNK3t/x家康「彦左なら仕方ない
秀吉「お前切腹
0643人間七七四年
2012/07/21(土) 19:17:57.56ID:wWBUJrik0644人間七七四年
2012/07/21(土) 20:09:30.58ID:aLS48ZBu0645人間七七四年
2012/07/21(土) 20:50:13.82ID:JZhqPn1C0646人間七七四年
2012/07/21(土) 20:56:27.66ID:CvNoAxIAそういうのまったくないイメージだけど
0647人間七七四年
2012/07/21(土) 21:16:50.04ID:mD428EP+0648人間七七四年
2012/07/21(土) 21:52:52.73ID:0txqr0hm0651人間七七四年
2012/07/22(日) 13:33:23.96ID:R8e/BZeY0652人間七七四年
2012/07/22(日) 14:36:35.24ID:m/b7Hi1D0653人間七七四年
2012/07/22(日) 15:06:33.20ID:MsS3PSd10654人間七七四年
2012/07/22(日) 15:22:33.65ID:1i0xQXe2追放じゃなくて出奔。
しかも、既に内通していた小笠原貞慶の人質もいっしょに連れて行ったので
かなり計画的だったと思われる。
0655人間七七四年
2012/07/22(日) 20:47:07.74ID:0UtXdvam0656人間七七四年
2012/07/22(日) 20:59:26.96ID:D36IGPfX小早川秀秋が動かないんで家康がテンパって癇癪起こしてるところを知ってる人からするとこの自慢は見苦しい。
0657人間七七四年
2012/07/22(日) 21:02:53.27ID:m/b7Hi1Dところで殿、三方ヶ原はお忘れかな?(・∀・)ニヤニヤ
まあ金ケ崎とか三方ヶ原の撤退戦は普通に凄かったと思うけど。家臣が。
0658人間七七四年
2012/07/22(日) 21:36:50.21ID:pm1metR10660人間七七四年
2012/07/23(月) 00:36:23.99ID:0lxoEoaE実は義光は甥っ子との約束を三回も破っている。
天正十三年三月大宝寺義興は最上側の清水城を攻撃した。これにキレた義光は庄内に侵攻を開始。
大宝寺も上杉との連合軍で迎え撃ったが余り戦を長引かせたくない大宝寺は
ある人物に助けを求めた。まーくんこと伊達政宗である。
( ●Д゚)「伯父上、母上も和解するべき。って言ってるから大宝寺と和解しようぜ!」
(´・ω・`)「義が言うなら・・・。」
こうして義光と義興はいったん和解した。しかし天正十五年、和議は破られ義光は、
再び庄内に侵攻、大宝寺は再び政宗に助けを求めた。
( ●Д゚)「伯父上の大好きな鮭をプレゼントするから大宝寺と和解しようぜ!」
(´・ω・`)「鮭をくれるんだったら・・・。」
こうして再び義光と義興は和解した。
しかし長続きはせず同年の十月、再び義光は庄内に侵攻、またも政宗が仲介役で話し合い
三たび和解が成立した。
しかし翌年四月、義光はふたたび攻勢に出た。この時は上杉の援軍のおかげで生き延びた大宝寺だったが
同年九月、最上と東禅寺勢の大攻勢にが行われついに尾浦城は陥落し義興は自決した。
( ●Д゚)「俺・・・仲裁役で頑張ったのに。」
(´・ω・`)「DQN甥っ子との約束は破るもの。」
文下手でスマソ
ちなみに政宗と義光の会話はフィクションです。
0661人間七七四年
2012/07/23(月) 00:49:44.58ID:nGWEP6nZ0663人間七七四年
2012/07/23(月) 01:36:52.01ID:9E24BlGw0664人間七七四年
2012/07/23(月) 05:38:40.46ID:+sKn9grY0665真里谷 修理 広信【城主】32060石 ◆C.Elwep2MQ
2012/07/23(月) 05:41:22.70ID:jqAYqMmA0667人間七七四年
2012/07/23(月) 06:30:25.77ID:vYHPOYQC最近の説だと関ヶ原は2時間ほどの短時間で大勢の決した合戦で、三成の方からの
毛利や島津への出陣要請も、既に小早川秀秋が東軍として参戦した後だという事らしい。
つまりチャンスだから攻めろ、じゃなくて、ピンチだから助けて、だったというのね。
そりゃ空弁当もするだろw
0668人間七七四年
2012/07/23(月) 06:40:03.67ID:zplBjgZcチャンスだったとしても支援要請遅すぎのような
あの距離ではドンパチ始まった時点で南宮山の兵は即行動かなければ意味ないと思う
0669人間七七四年
2012/07/23(月) 07:45:07.73ID:VufuxXm2みんな目の前の敵を叩くことしかできてない。
山上とかに布陣してると、どこに敵と味方がいるかもよく分からなかった。
0670人間七七四年
2012/07/23(月) 10:20:50.07ID:s4fhGLHD0671人間七七四年
2012/07/23(月) 15:21:58.19ID:9E24BlGw0672人間七七四年
2012/07/23(月) 15:57:48.14ID:Wui+8syU0673人間七七四年
2012/07/23(月) 16:57:43.28ID:1yN8Iiwl黒田長政と後藤又兵衛は主従でありながら常に武勇を争い、
先駆けて進んでいくために、従士らは帰陣するたび
「やっと生きた心地がする」と言い合った。
栗山備後、井上周防、黒田美作らがこれについて諌めたところ、
「父上がおらぬ時は、倅の忠之を先手に出し、
私は大将の威をもって重々しく旗本の側に控えよう。
今は父上がご健在ゆえ、旗本に気遣う必要はない。
私が先手へ出て討死しようとも、父上がおれば何も案じることはない」
と長政は言ったという。
0674人間七七四年
2012/07/23(月) 18:36:41.50ID:iiXX8gbTお父上亡くなったの1604年でしょ。
ガキ先陣出すのかよ…
0675人間七七四年
2012/07/23(月) 20:20:43.41ID:2hcMoWu8後に又兵衛は黒田の軍勢で一番前を突っ走ってる奴打ち取りゃ、
それが長政だって忠興に言ったんだっけ?
0676人間七七四年
2012/07/23(月) 20:45:28.81ID:h0Jx8QpTと思うようになるのも無理もないって
0677人間七七四年
2012/07/23(月) 20:49:00.52ID:vYHPOYQCたぶんそれ、秀吉が蒲生氏郷の事を最初に突撃してくる部隊にの先頭にいるから、それ狙って
鉄砲集中すれば殺せる、みたいに言ったって話の改変バージョンだろうね
0678人間七七四年
2012/07/23(月) 21:02:43.37ID:MTVQywTN0679人間七七四年
2012/07/23(月) 21:05:27.40ID:IPxwo055仲悪いのが混ざっせまうな
0680人間七七四年
2012/07/23(月) 22:13:04.28ID:COhinuNO蒲生さんに脳筋的イメージ全くないけど、何で先頭突っ走ってたんだろうか
黒田Jr.は又兵衛に負けまいとして....
0681人間七七四年
2012/07/24(火) 01:39:25.17ID:2QcxufoA0682人間七七四年
2012/07/24(火) 01:53:20.90ID:cK+S3Ghlまぁ、戦場でならって話だろうけどね
0683人間七七四年
2012/07/24(火) 02:26:34.78ID:d6lO0Of90684人間七七四年
2012/07/24(火) 06:50:48.25ID:rok03Gjh0685人間七七四年
2012/07/24(火) 07:00:04.85ID:6WuyY/nD切腹させるとか無いわ(´・ω・`)
0686人間七七四年
2012/07/24(火) 07:15:02.69ID:gthLpY0h氏郷は新参の人間には必ず
「我が家では合戦では銀のナマズ尾の兜の武士がまっ先に突撃する。お前はその兜を目印についてくるようにせよ。」
といってた。ちなみにこの兜なw
蒲生氏郷 銀箔押し 鯰尾兜
http://www.yoroi.co.jp/gazou/topics/2007/gamou/main2.jpg
0688人間七七四年
2012/07/24(火) 13:59:53.11ID:QYY3Kwp6午後四時ごろを予定しているので興味があるやつは見に来てください。
0689人間七七四年
2012/07/24(火) 14:19:59.19ID:rok03Gjh0690人間七七四年
2012/07/24(火) 14:33:16.13ID:QYY3Kwp6もしよければ4時ころにこのスレを見に来てくれ!
前代未聞の芸をご覧に入れるぞ!
0691人間七七四年
2012/07/24(火) 15:00:33.21ID:EzPxiuHm前だけいじろうとします宣言だな
0693人間七七四年
2012/07/24(火) 16:09:28.24ID:zb/UADq+0694人間七七四年
2012/07/24(火) 16:13:41.62ID:seoRqsr70695人間七七四年
2012/07/24(火) 16:37:08.39ID:QYY3Kwp6皆様おまちかねの「スレむくり」でござるが、あいにく腹の調子がわるくなり、本日はでき申さぬ…
後日、日を改めてお目にかけるゆえ、今日はお開きとさせていただく!
0698人間七七四年
2012/07/24(火) 17:28:21.21ID:dwVKFmF3それは残念じゃ、精々養生致すが良い。
次回迄待ってやる故、その方の働き如何に依っては美濃、尾張をくれてやろうぞ
0699人間七七四年
2012/07/24(火) 18:01:14.49ID:Jdgq08Qtその頃の春日局は飛ぶ鳥を落とすというほどの勢いであったから
門番もあえて止めようとはしなかった。
ところが平川まで来た時はそうはいかなかった。
御供の者が「春日局様が急ぎの御用あって登城である。早く門を開けられよ!」
と言うので番の者は責任者の大久保彦左衛門に仔細を伝えると、
彦左衛門は臥したまま起き上がりもせず「この大久保彦左衛門が御番仕って
おるからには春日殿といえど放置じゃ。そのように仰せられてもこんな夜更けに
通すことはできませんとでも言っておけ」と言った。
門番は(後で絶対問題になるよなあ…)と思いながらも仕方なく彦左衛門の
言葉を伝えたところ、春日局は「もっともです。ならば男どもはここに残し、
我ら二、三人の女だけで歩いて参ります。どうか御通し下さい」と懇願した。
それでも彦左衛門は返事もせず、結局春日局は夜明けまで門外で待たされて
しまった。あまりの扱いに春日局は泣いて徳川家光に訴えたのだが、家光は
「お前の憤りはもっともなのだが、お前も知ってのとおりあれは不分別の
強情者だから、もしもお前ではなくわしだったとしても必ず門を開けたかどうか
わからん。あれと出会ったのは運がなかったと諦めてくれ」と言うので
春日局もどうしようもなく泣き寝入りした。その後、彦左衛門を召し出した
家光はなんとはなしに黄金と佩刀を与えたという。
0700人間七七四年
2012/07/24(火) 18:09:07.73ID:F182bNZX0702人間七七四年
2012/07/24(火) 18:16:48.80ID:GW9DHHV30703人間七七四年
2012/07/24(火) 18:23:08.03ID:g1kS2d940704人間七七四年
2012/07/24(火) 18:24:35.40ID:seoRqsr7前者を権力で押し通そうとしたのを撥ね付けた(後者ならばお福も引き下がらない)
という話なんだろうが、断言してもいいが彦左はそんなことカケラも考えずに天然でやってる
0705人間七七四年
2012/07/24(火) 18:33:23.93ID:t5b9fEG90707人間七七四年
2012/07/24(火) 20:05:59.13ID:BNwetyMc0708人間七七四年
2012/07/24(火) 20:12:22.49ID:gthLpY0h徳川の門番だけは許される。
というか家康三河時代の徳川の門番ってこんなのばっかりだよねw
その意味では確かに彦左さんは最後の三河者だわ。
0709人間七七四年
2012/07/24(火) 20:36:07.34ID:g1kS2d94多分、ガチの戦が始まる、一方的な虐殺じゃなくて
0710人間七七四年
2012/07/24(火) 20:40:03.12ID:iS03zWMj忠勝「殿かどうか分からぬ者に開ける門なぞ無い(`・∀・´)エッヘン!!」
0711人間七七四年
2012/07/24(火) 20:40:03.05ID:GW9DHHV30712人間七七四年
2012/07/24(火) 20:47:30.86ID:9IgeNr/j0713人間七七四年
2012/07/24(火) 20:49:41.41ID:KOgVWPZI0716人間七七四年
2012/07/25(水) 01:44:36.51ID:bKxAeuw60717人間七七四年
2012/07/25(水) 03:18:57.20ID:wuS1KsHw0718人間七七四年
2012/07/25(水) 03:25:08.16ID:wuS1KsHw0719人間七七四年
2012/07/25(水) 05:34:08.68ID:dytNYmpf0720人間七七四年
2012/07/25(水) 07:56:18.53ID:8GRbEXv00722人間七七四年
2012/07/25(水) 19:57:44.80ID:jXEZYHiS0723人間七七四年
2012/07/26(木) 13:29:54.12ID:iW9OmFev0724人間七七四年
2012/07/26(木) 13:47:15.19ID:zMmoNLL4三河武士に反論する。
政宗の前に陣取る。
0725人間七七四年
2012/07/26(木) 14:15:11.90ID:2N1wqhhY0726人間七七四年
2012/07/26(木) 14:49:08.60ID:uMDCdKr9病気の家族を見舞いに行く
0727人間七七四年
2012/07/26(木) 15:01:17.62ID:7uT4Rbk/0728人間七七四年
2012/07/26(木) 17:29:23.09ID:Q3DXuDNQ0729人間七七四年
2012/07/26(木) 17:49:28.90ID:LWhAbu450730人間七七四年
2012/07/26(木) 17:52:35.57ID:Q3DXuDNQ0731人間七七四年
2012/07/26(木) 18:03:50.72ID:zMmoNLL4撤退中に饅頭を無銭飲食する。
うーん。やっぱ戦国だからふっと死ぬことはあっても絶体絶命で生き残るのはきついな。
0732人間七七四年
2012/07/26(木) 18:38:52.57ID:O8WdMZ76誰も突っ込んでいないから突っ込むけど忠勝はそう言われて締め出された方だぞ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1156.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3744.html
0733人間七七四年
2012/07/26(木) 18:59:42.35ID:eUUJ6iG50734人間七七四年
2012/07/26(木) 19:17:39.47ID:tkKQMCCS12日、岐阜に到着する。以下、言継の日記より
「武井夕庵に澤路隼人を遣わした。夕庵は、『奏者の事は解りました。信長様は現在の京の状況をよくご存じないのです』
というようなことを言ったそうだ。
次に朝山日乗上人、坂井文介らに遣いを出した。文介は疲れて寝込んでいるということだった。
日乗の宿舎に向かうと、門前でばったりと出会った。そのまま談合のような形になり、私の用件の
あらましを語ると、日乗は「後で、かねて岐阜に下向している三条大納言(実澄)と話し合いをする
用件があるので、ご一緒に同道しませんか?」と言った。
(後略)
光雲の所で食事の振る舞いを受けた。それにしても今の美濃は、悪銭のために商売が停滞し、
酒なども手に入らないのだという。
三条亜相の宿舎を訪ね、稲葉貞通の所にいるのでそこに行って、信長と対面することを話し合った。」
13日
「まだ弾正忠(信長)に奏者を送っていないのに、今日鷹山からの帰りに、門前で出会ってしまった。
そこで私が岐阜に来た理由を少し話した。その後、戌の刻(午後8時頃)に松井友閑が信長の
遣いとして来て、私が岐阜に来たのは勅使としてか、それとも私的なものなのか、その立場を教えて欲しい
とのことだったので、私的な訴えで来たのだと申し渡した。」
(後略)
14日
「黄昏時になって弾正忠(信長)より、好斎、武井夕庵の二人が遣いとして来て、銭二千疋を贈って来た。
信長からの伝言は『只今、京都の方のことは何も解らないので、この春過ぎの上洛の時に、知行の分配を行うよう
申し付けるつもりです。ですので、先ずそれまでご堪忍をしていただきたい』とのことであった
(只今者京面之儀、万事不存之間、春過上洛之刻、知行分可申付之、先其刻迄可堪忍之由被申之)
その日は返事を出さず、夜半ばかりに宿所に帰った。それから先の好斎の所へ礼に行き、銭二十疋を
遣わした。」
(言継卿記)
岐阜での信長側近たちとのやり取り、また美濃が、悪銭の影響を受けて非常な不景気になっていたことなど
(これは岐阜をバビロンと呼びその繁栄を報告したフロイスの描写との差が面白い)
当時の岐阜の空気がよく伝わってくる記録である。
0735人間七七四年
2012/07/26(木) 20:07:37.81ID:ARHQDa+N小早川隆景に死の予言をされる。
厳島神社に身代わりの願掛けをする。
少弐家の当主になる。
>>728
秀吉と仲良くなる。
0736人間七七四年
2012/07/26(木) 20:42:57.67ID:px4YSSb4各DQNとのデスフラグを回避するためにラスボスとの親密度をあげる・・・
ENDが楽しみです^^;
0738人間七七四年
2012/07/26(木) 20:58:27.86ID:zMmoNLL4→GAME OVER
政宗「だと思ったか!?DQNとのデスフラグを回避するためには、DQNになればいいのだ!」
0739人間七七四年
2012/07/26(木) 21:08:16.75ID:nIE25o4Qすてがまりで大将を狙撃
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6519.html
松永弾正の話に乗る
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1384.html
宇喜多の娘を嫁にもらう
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1432.html
全盛期のラスボスをディスる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-763.html
鬼武蔵に関わる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2522.html
0740人間七七四年
2012/07/26(木) 23:02:34.40ID:xaj/wU7pあちこちから養子をとる(細川政元、他)
主君の屋敷の風呂に入る(太田道灌)
大田原一族と敵対する(那須家の皆さん)
0741人間七七四年
2012/07/26(木) 23:38:00.52ID:59T/Isplそのある暁に陣中が騒がしくなった。
長政は「敵は早朝を狙って来たか」と思い、甲冑を着て楼に登って辺りを見回すと、
大きな虎が馬小屋の馬を噛み殺して狂いまわっていた。誰も虎に近づけない
ところ、菅政利が刀を抜いて立ち向かった。飛び掛った虎を引きはがして
腰を深く切りつけた政利だったが、虎は前足二本でしっかと立ち、ますます
猛り狂って政利も危なくなった。
そこに後藤基次が助けに入り、眉間を切り割ると、二刀で虎は絶命した。
一部始終を見ていた長政だったが、殊の外不興になり「一手の大将ともあろうものが
大事の役を持ちながら、畜類と勇を争うとは不心得なるぞ!」と叱り飛ばした。
0742人間七七四年
2012/07/26(木) 23:39:09.29ID:eUUJ6iG5工場長がとても悲しげです、謝ってください
0743人間七七四年
2012/07/26(木) 23:58:08.26ID:nIE25o4Qこっちだと菅さん一人で頑張ったことに
ついでに南方熊楠「十二支考 虎」ではその刀に林羅山が「南山」とつけたとか書いてた
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/526_28258.html
(京劇「周処除三害」の元になった逸話では三国志演義にも出てくる周魴の息子、
周処が南山の白額虎を退治している)
0744人間七七四年
2012/07/27(金) 00:04:40.28ID:ceAp0aD5上杉景勝「これもうダメだろ…まあいい死んでも悔いはない最後まで戦ってくれる」
=相手が帰るフラグ
0745人間七七四年
2012/07/27(金) 00:32:59.52ID:xS+6mxRc0746人間七七四年
2012/07/27(金) 03:53:22.56ID:vcWo9dTU『腹痛を装って厠の××に潜って逃げ出す。』
『小豆を入れた袋の両端を結んで貰う。』
『干し柿を食べない。』
0747人間七七四年
2012/07/27(金) 04:05:45.56ID:sgZiDIYP0748人間七七四年
2012/07/27(金) 09:06:32.99ID:edIj3FUz0750人間七七四年
2012/07/27(金) 13:15:32.28ID:kfiNQJ4uほんとは家康のところに法会の資金を無心に行く予定だったんだよね
信長に扇子5本プレゼントして、家康の分と合わせて法会の金2万疋貰ってほくほく顔で帰るんだよなあ
出かける前は言経に神楽の秘曲・灌頂の所作を聞かせて奥義伝授するほど悲壮だったのにさ
0752人間七七四年
2012/07/27(金) 19:34:20.30ID:7qWmZT9T発言をしたため、清正は若者に切腹を命じたところ、キリシタンの掟は自害を禁じられているので
若者は拒否した。すると清正は「切腹を拒むとは臆病と弱虫の証拠である」と言って、若者の胸を
槍で貫くよう他の家臣たちに命じた。(続く)
0753人間七七四年
2012/07/27(金) 19:37:39.68ID:7qWmZT9T若者は「私が朝鮮における数々の激戦で何ら恐れを知らなかったことは殿も御承知であります。
しかし、今は反対に刀を捨て十字の印を天に捧げて、以前のような勇気を失ってしまったことを
殿に知ってもらいたいのです。私は首を差し出しますので、お望みなら刎ね落として下さい」と答えた。(続く)
0754人間七七四年
2012/07/27(金) 19:41:22.33ID:7qWmZT9T加藤清正は若者を処刑してしまったが、後になってその行いを後悔してこう言った。
「キリシタンたちもまたその名誉を守るために戦うが、他の人々とは異なっている」
(1596年度イエズス会年報補遺)
0755人間七七四年
2012/07/27(金) 21:35:47.59ID:bUdKwb22陸奥国和賀郡笹間の領主轟木長右衛門は、奥州仕置後の和賀氏没落後、その主人を和賀氏から南部氏に変え、
関ヶ原の際に南部領で起きた岩崎和賀一揆の時も
他の者達が旧主和賀忠親につく中、南部氏に仕えて岩崎城を攻め、その命脈を保ち、安定した生活を送っていた。
この長右衛門にはひとりの愛妾がいた。この妾を、長右衛門はことのほか溺愛していた。
面白くないのが本妻である。最初は我慢もしていたが、次第に嫉妬の気持ちが芽生え
遂に妾を陥れようと画策した。
ある日、本妻は夫を誘って清水観音に参詣した。と、境内の大杉をみると、
その木に釘で打ち留められた髪の元結いがぶら下がっていた。
首をかしげる長右衛門に、本妻は言葉を掛けた。
「これまで何度か申し上げようと思ってはいましたが、女ずれのはしたないことと思われてはと
そのままにしておりました。貴方の妾は、家臣の某と懇ろな仲になって、貴方様のお命を縮めようと謀っています
これ、このようにもとどりを打ち付けて祈念をこらしているよしにございます。ゆめゆめご油断あそばすな」
長右衛門は、この時はただのやきもちから来る言葉だろうと聞き流したが、
本妻はその後も折に触れて妾の行いの疑わしいことを夫に告げ口し続けた。
長右衛門も、何度も聞かされるうちに疑念の心が浮かんできて、それとなく愛妾を疑うようになった。
秋頃のこと、長右衛門は本妻と妾を連れて将軍寺という菩提寺に仏参した。
寺の本堂で誦経が終わり、焼香を終えて別間で休息している時、本妻が耳打ちした。
「妾のたもとになにやら怪しいものが潜められている様子。取り上げてごらんになっては・・・」
妾は呼び寄せられ、長右衛門の言いつけに不審に思いながらも自分のたもとを探ると、一枚の板札が出てきた。
それには墨で「轟木長右衛門」と書かれてあり、その上を何度も踏みつけられた跡がある。
怒った長右衛門は詰問するが、妾は全く覚えのないことで答えられない。
それを見ていた本妻が
「それは言えぬも道理。その板札こそは、そなたがそれが家来の何某と密会するたびに、泥足をもって
踏みつけるといううわさのものに違いない」
それを聞いた長右衛門は烈火のごとく怒った。
「おのれ、よくもこの長右衛門をたばかったな!」
彼は傍らの太刀を抜くと、動転している愛妾を斬りつけた。
「ぎゃあーっ!」
悲鳴を上げて敷居ぎわに愛妾は倒れ伏せる。鮮血はふすまに飛び散り、床を真っ赤に染めた。
思わぬ修羅場に住職も家臣たちも声を飲んだ。
0756人間七七四年
2012/07/27(金) 21:36:44.96ID:bUdKwb22それから21日後――三七にあたる夜のこと。
その日は天気も良くなかったが、夜にはいって風が吹き出し、ざわざわ落ち着かない様子だった。すると
「ぎゃーっ!」
どこからか大きな悲鳴が聞こえてきた。
書き物をしていた長右衛門が何事かと立ち上がると、吹き込んできた風がろうそくの火を消し、
とたん、血の臭いがあたりに漂った。そしてまた、
「ぎゃーっ!」
と、暗がりから悲鳴が聞こえてきた。
長右衛門も恐ろしくなり、「たれかある、灯りを持て、灯りを――」と狼狽したという。
またその翌日の夜。
長右衛門の本妻が侍女達と雑談をしていた時、侍女の一人が悲鳴を上げた。
月明かりに照らされた障子戸に、ざんばら髪を振り乱した女の影が映っていたのだ。
本妻が意を決して障子を開け放つ! が、人影はない・・・。
「ほっほっほっほっ・・・」
虚空から気味悪い悪い笑い声が降ってきて、生臭い風がさあっと吹いた。
そのまた翌日の夜。その日は雨が降っていた。
本妻とともに眠ろうとした長右衛門が服を脱いでいた時、雨がいっそう強く振ったかと思うと、
部屋が急に薄暗くなって、やがて青白い光が立ち込めた。
「ひいっひいっひいっ・・・」
不気味な笑い声がする。天井を見ると、顔面を血まみれにした愛妾が天井に張り付いて、
口を耳元まで開き、長い髪を振り乱して、恨めしげにふたりを見下ろしている。
長右衛門が床の間の刀掛けに走りよって太刀を握ると、亡霊はすっと消えた。
――以来、亡霊は毎日のように城内に出現した。家臣や侍女達はすっかり怯えてしまい、
口実をもうけて次々に暇を取っては去っていってしまった。
そして秋も終わりの頃。
さすがに長右衛門もすっかりほおの肉が落ち、恐怖と不安でイライラしながら暮らしていた。
城内の静けさが気に触り、彼は太刀を持って妻の部屋まで行くと、本妻の声がする。
「ああ、苦しや。そこを放せ、ええい、放さぬか――!」
長右衛門が障子を開けると、なんとそこには本妻の衣装をまとった愛妾がいて、虚空を睨んでいる。
長右衛門が思わず刀の鯉口を切ると、愛妾の顔はたちまち消えて、本妻の顔が。
「ああ、苦しや。まこと、わらわがそなたを落としいれようと濡れ衣を着せ、夫をたばかったもの。
わらわの奸計よ。ああ、苦しや。こう白状したからには、そこを放せ、放せい――」
妻はそう言いながら床の上を転げまわっていた。長右衛門は呆然と立ち尽くすほかなかった。
その4・5日後、本妻は狂ったままこの世を去った。
そして長右衛門は日夜を問わず亡霊を見るようになった。薬も祈祷も効く事はなかった。
そしてやがて雪が降り始める頃。
長右衛門の目に、妻だけではなく、岩崎の戦いで戦い殺したかつての仲間――和賀氏の何某や何某の首を
見るようになった。彼らは空中から降りてきては床に下りてきて、長右衛門を睨みすえ、
そして小気味よさげに高笑いしては消えていった。
その年も暮れぬうちに長右衛門は死んだ。彼に子はなく轟木氏はここに断絶。
その城館も取り壊され、わずかに土塁が残るだけだという。
0757人間七七四年
2012/07/27(金) 21:38:20.14ID:bUdKwb220758人間七七四年
2012/07/27(金) 22:49:51.38ID:Na0wy1Uf0759人間七七四年
2012/07/27(金) 23:40:07.67ID:/0XdNYsw0760人間七七四年
2012/07/28(土) 07:53:52.33ID:1QLSuGI0中川宗伴(光重)は故前田利家の娘婿であり、当時上方にあったため、上方よりの情報を金沢の前田家に送った
『今度上方一面に蜂起して、内府(家康)の味方する輩を討ち果たすべき為に国々へ手遣いあり。
殊更丹波・丹後・若狭の軍勢数千人御領内宮腰へ兵船を進め、大谷刑部少輔(吉継)、諸将を帥いて、此の口より
加州へ発向の用意夥し。御用心あるべし。』
そのうちに金沢の安否をおぼつかなく思い、直接加賀まで向かったが、越前の今庄まできたところで大谷吉継によって
捕まってしまった。
吉継は宗伴に
「其の方、何の用があって加賀に下るのか?」
と尋ねると宗伴は、『あなた方に気をつけるよう警告するためだ』とは言えず
「は、はい。今回(前田)利長が、内府の味方をするという風聞があります。私ごときが言うのもどうかとは思いますが、
御幼君(秀頼)を見放される様でいかがなものかと思い、さればその考えを覆し、上方(西軍)の要求に従うべきだと、
強く諫言するために加賀に下ろうとしたのです!」
吉継、これを聞いて頷き
「いかにも御辺の言うとおり、利長卿がもし父の遺言に背いて御幼君の秀頼公を見捨てられるのなら、彼の行末、
どう考えても目出度い事にはならないだろう。願わくば先非を改められ、宇喜多秀家・毛利輝元と同じように、天下の
御為を成して頂きたいものだ。
もし御老母(まつ)を江戸においているため、一筋に御忠節を行うことが難しいというのなら、せめて金沢から
動かず天下が治まるのを待っていても、前田の御家は恙無いだろう。
それなのに利長卿は軍勢を率いて小松・大聖寺の城を攻め落とし、そこから当国に乱入するという声も聞こえてくる。
もし風聞のとおりなら、偏に前田家の滅亡を招くものとなるだろう。
例えその方があちらに行って、言葉を尽くして諫言しても、おそらくその甲斐はないだろう。
…そこで、だ」
吉継、声色を変えて
「其の方、ここで私のいう通りにはかりごとの書を書き、利長卿の陣所に送れば、彼が軍勢を金沢に
軍勢を引き返す事、疑いない。
その上で加賀に人を遣わし、其の方の誤り無き趣、又は御亡父の志を継ぎ御幼君を守り立つべしと
理を尽くして申し送れば、どうして承諾しないことがあるだろうか?これほど解りやすい理屈を、お主、
もしこの書を書くのを辞退するというのなら、最前に言ったことは我々を欺くためのものだと判断する!
そうでないのならさあ、今ここで筆を取れ!!」
そう言って硯と料紙を出した。そんな状況で宗伴も断ることが出来ず、吉継の言うままに書をしたため、
それを利長に送った。
前田利長はその書を見て驚いた。間違いなく宗伴の筆跡であり、また彼は利長を謀るような人間ではない。
それがどうしてこの様な内容の書状を送ってくるのか?
利長は判断がつかず、弟の能登守、その他老臣達を集めて評議をさせた。
そして、吉田保馬一人は反対したが、その他は全員、金沢に御帰陣あるべしと諌めたため、
利長もそれを受け入れその日、軍勢を大聖寺へと後退させた。
大谷吉継計策、という逸話である
(関原軍記大成)
0761人間七七四年
2012/07/28(土) 08:27:51.12ID:0eHGz4i80762人間七七四年
2012/07/28(土) 17:48:53.32ID:p8+58x42まぁ、一網打尽って言葉があるくらいだからなぁ〜
0763人間七七四年
2012/07/28(土) 17:49:40.63ID:p8+58x420764人間七七四年
2012/07/28(土) 20:53:10.40ID:s/bsdWtf0765人間七七四年
2012/07/28(土) 21:21:38.85ID:KP1Dk9Iwビューンと飛んでく 伊勢長島
0767人間七七四年
2012/07/29(日) 03:29:27.65ID:wCCV8kBY元亀二年(1571年)、九州大隅の国人である禰寝重長は
摺ヶ浜で島津義久の軍と戦い激戦となった。
戦いは苛烈を極め戦場のどこにいようとも安全とは言い難い状態となった。
そんな中、時刻は昼時となった。
すると長重は、いきなりその場に座り込み平然と昼飯を取り始めた。
心配した家臣が、
「このような場所で危険です。おやめ下さい!」
と言うと、長重は
「古来より腹が減っては戦ができぬという。
それにもし、飯の最中に命を落としてしまうならばその男は所詮それまでだったということよ」
と答え、昼飯を食べ続けたという。
禰寝重長の豪胆な話
0768人間七七四年
2012/07/29(日) 06:10:42.44ID:f/1B3mzs0769人間七七四年
2012/07/29(日) 06:28:52.94ID:CW530lSZ0770人間七七四年
2012/07/29(日) 06:41:23.00ID:CQQ1pKt3みな悩んだ末に結局誰も狙わないということになりそうな
0771人間七七四年
2012/07/29(日) 06:53:18.51ID:n+J2+2oy0773人間七七四年
2012/07/29(日) 08:35:49.12ID:3BMsO3c2http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4044.html
>謙信は
>「確かにお前の言うことはもっともだ。
> が、人間は死のうと思えは生き、生きようと思えば死ぬものだ。
> 心を集中して動じていなければ、火に入っても焼けないし
> 水に入ってもおぼれぬ、とある人に言われたのだよ」
>そう言って笑った。
0774人間七七四年
2012/07/29(日) 10:24:28.11ID:bQCh8446この大会で宮居眼左衛門が一番の成績を治めたので、信長はその褒美として、秘蔵の重籐の弓を与えた。
この弓は山城国伏見の、島田喜内という名人の制作したものであった。
ちなみにこれが、勝ち相撲に弓を与えることの始まりとされる。
ところがこの眼左衛門、その後相撲を取ることをぷっつりとやめてしまった。
信長は不審に思い、その事を眼左衛門に尋ねると、彼はこの様に申し上げた
「相撲というものは、強いものが必ずしも勝つというわけではありません。
自分はたまたま勝利し弓をいただきましたが、次は打ち負け、この弓も別のものに取られてしまうかも知れません。
そして次に弓を取った者が殿様に敵対し、それにて文字通り殿様に対しに弓をひくようなことになれば、
せっかくの私の名誉は空しくなってしまいます。
そう懸念するため、私は相撲を取らないのです。」
信長はこの言葉に納得し、以後、褒美として弓を渡すことをやめたという。
(古今相撲大全)
ちなみに安土城跡の西側には、今も「眼左衛門」と言う地名が残っている。
これは宮居眼左衛門が信長の家臣として、屋敷を与えられた地であるという。
そんな信長の相撲取り、宮居眼左衛門のお話。
0775人間七七四年
2012/07/29(日) 17:05:56.12ID:gh6mgBPhまあ、名誉の品で実用性は二の次ってことなんだろうけど。
てか、眼左衛門ってすごい名前だな。
どんな目してたんだろw
0776人間七七四年
2012/07/29(日) 19:51:59.08ID:X5+SVVPC天正二十三(1554)年三月十二日付けで、当時三十二歳であった隆元が、深く慕っていた一つ年上の竺雲恵心に送った有名な手紙。
前にもちょこっと挙がってたけど、拙い訳で全文挙げてみる。
「恵心公宛隆元自筆書状」
謹述胸念
一、来世の善所(極楽)の事については、強く心に留め置いております。ですから、心の及ぶ限りに善根(善い行い)を積むように致したく思っております。
一、娑婆(現世)については、果報は一つもないと見ておりますので、何を恨む事がありましょうか。これも前の世の報いと弁えておりますので、殊更思い悩む事もありません。
一、私の一生は、先の易にも見えておりますから重ねて申し上げるまでもありませんが、私は無才無器量であるだけではなく、これは必然であるのかも知れません。
一、我が家も、父・元就の代で終わりと見えます。
私の代で家運が尽きてしまうのも因果の道理に従っており、これも必然の道理であります。
一、他の諸家の有様については論じてませんが、この国も悉く変わりました。
それは至って明白な事であります。
また、そのような中で、当家だけがこの世に今日まで存続して居るのは不思議な事に思います。
これは、偏に父・元就の信心の故と思います。
私にはそのような信心がないため(原文:サノミハナキ習ニテ)、毛利の家運の尽きる時に当たり生まれたのだ、と思っております。
一、当家は代々名を留めた当主が多いと言う中でも、父・元就ほど先代を超えた者はありません。
ですから、私に才覚器量があったとて、到底父には敵わない事でしょう。
私が形ばかりとて当主として存在していても、家臣や人の覚えは莫大の劣れがあり、況んや他国一円においては沙汰の限りではありません。
一、その上、私には無才無器量に加えて良く補佐してくれる家臣もおりません(原文:家ニ無人候)。
只今はこのように思っておりますが、ただ偏に父の一心の心遣い、心労によってこのような状況です。
家に賢佐良弼もおりません。これは物事を見知る以前のことでしょうか。
(続く)
0777人間七七四年
2012/07/29(日) 19:52:50.73ID:X5+SVVPCこの理は能く悟っておりますから、迷う事はありません。
一、兎も角、今生においては十分に良く知っています。偏に来世安楽の念願は骨髄に染みております(原文:偏ニ来世安楽之念願骨随ニ染ミ候間)ので、お頼み申し上げます。
一、右、私の心の内を申すままとしました。
一、このように申したとて、国家を保つ事は努々(ゆめゆめ)油断なく、力不足と言えども、懸命にその心がけを果たす覚悟でおります。
その次第については、少しも疎かにしないようにしております。
一、右の心中については、胸の奥に納める覚悟であります。
何れにしても、帰真の道理を覚悟するまでの事であります。
一、盛者必衰 一、生者必滅 一、会者定離
此の理は悉く覚(さと)りました。
一、天道満ヲカク、
此の理を以って覚(さと)りました。
右の理を更に深く理解せずに迷っておりましたので、速やかに分別して悟りました。
誠に恐れ多いとは思いますが、確かに現世・来世の二世共にお頼みしたいので、私の念を残すところ無く申し上げました。重ねてお頼み申します。恐惶。
天文廿三 三月十二日 拝進 恵心公
足下
タカ元(花押)
0778人間七七四年
2012/07/29(日) 20:00:00.81ID:X5+SVVPC初めてこれをみた時、思わず涙がこぼれてしまいました。
この書状を隆元の死後に読んだ隆景、元就の反応について(毛利家文書七六三、四)は既出であったと思います。
長文失礼致しました。
0779人間七七四年
2012/07/29(日) 20:00:37.39ID:7LkG5TlJ0780人間七七四年
2012/07/29(日) 20:08:39.58ID:yai3/TVz家臣涙目
0781人間七七四年
2012/07/29(日) 20:18:05.61ID:CQQ1pKt30782人間七七四年
2012/07/29(日) 20:18:31.06ID:CW530lSZ0783人間七七四年
2012/07/29(日) 20:22:31.77ID:xiCdRbje最期まで曲げずに貫いた人だ。
0784人間七七四年
2012/07/29(日) 20:38:43.36ID:t6G27uqvしかしそれが逆に毛利家を大大名へと飛躍させるきっかけを作ったんだから大したものだ。
0785人間七七四年
2012/07/29(日) 20:48:10.38ID:gOZG/EXP弓は手近なところにあったからじゃないのかな
信長はけっこう相撲取りを召し抱えてるよね
本能寺でも殉じてるのがいた気がする
0786人間七七四年
2012/07/29(日) 21:05:16.27ID:LYh5x/En腕っ節しか取り柄がなくても、武将の護衛とかには使えるだろうし。
0787人間七七四年
2012/07/29(日) 21:29:10.70ID:qmElIRHf0788人間七七四年
2012/07/29(日) 21:49:11.68ID:DZ7Dn8uv思慮がまったくない鮭様ですか?
0789人間七七四年
2012/07/30(月) 00:24:30.22ID:cFBHc3UN攘夷と真逆の航海遠略策を長井雅楽に言われるままに
藩論にしてるし何でもそうせい言ってた単なる馬鹿だろ。
0790人間七七四年
2012/07/30(月) 09:07:07.85ID:uIG/xTnR弓取式のWikipediaで信さん起源が思い切り否定されてて笑った
0792人間七七四年
2012/07/30(月) 14:46:23.55ID:GOW/5i/Xものすごく有名なやつで今更と思ったけど、清正公ベタ褒めの中でこれかよと思うと笑えてきたのであえて貼ります。
以下原文ママ
0793人間七七四年
2012/07/30(月) 14:52:37.31ID:GOW/5i/X怒ると怖い?忠興
忠興の愛刀には「歌仙・兼定」とよばれたものがあります。
「歌仙」(六歌仙または三十六歌仙)とは和歌の名人の総称で、刀はこ
れにちなんで名付けられたといわれています。
では、なぜこの刀は「歌仙」になぞらえて呼ばれるようになったのでしょうか? それは、忠興がミスをした自分の家臣や使用人を、この刀で6人(一
0794人間七七四年
2012/07/30(月) 14:55:38.39ID:GOW/5i/X説では36人・・・)手討ちにしたから、といわれています。
戦国時代を生き抜いた忠興は、怒るととっても怖い武将だったのかも
しれません。仕える家臣たちもまさしく「命がけ」だったようです。
以上。
0795人間七七四年
2012/07/30(月) 14:58:33.03ID:Aa25Wzxv公正ではないなw
0796人間七七四年
2012/07/30(月) 15:04:51.91ID:GOW/5i/X本文の長さを調整してたら投稿ミスしてしまいました。お恥ずかしい・・・
炎天下の熊本城を一周した結果がこれだよ・・・
ちょっと37番目の歌仙になってきます。
0797人間七七四年
2012/07/30(月) 15:45:35.23ID:rzZNOCkj水をふんだんに用意した故、備中高松城へ参られよ。
0800人間七七四年
2012/07/30(月) 22:53:13.64ID:ffqDqkYL0801人間七七四年
2012/07/30(月) 23:20:43.99ID:+FETX6Hb0802人間七七四年
2012/07/31(火) 01:02:14.86ID:SHqZ/elM0803人間七七四年
2012/07/31(火) 04:27:48.16ID:gQleTZO7昨年の天文二十二年には三村元親と結んで尼子氏側の備中猿掛城を攻略し雲州進出を目論んでいた頃に当たり、隆元の嫡男・幸鶴丸(輝元)が生まれたのもこの年だった。
毛利家内部では関係がギクシャクしてきた陶晴賢と断交するか否かで家中が真っ二つに割れていて、隆元は元春、隆景、口羽道良ら重臣たちと「力のある今こそ、大内義長を擁して賢(陶晴賢)を破るべきだ」
と元就に進言するけれど、
元就自身は「しかし仕損じては陶、尼子から挟撃され、毛利は末代まで失せる。ならば晴賢に味方して家を保つべき」
と晴賢との断交に消極的な態度を取っていた。
評定は結局堂々巡りのままに過ぎたが、天文二十三年の三月に入って晴賢の安芸国内の調略が明るみに出、遂に元就も断交の意志を固めた。
しかし陶方の兵力は圧倒的、今は吉見氏を攻めているために動けないが、近いうちに進撃して来るのは必定だろう――
と、そんな状況の中で>>775-776の書状をしたためたと考えてもらえればより隆元の胸中、特に
>国家を保つ事は努々油断なく、力不足と言えども、懸命にその心がけを果たす覚悟でおります
なんて所についてはわかって頂けると思い申す。
0804人間七七四年
2012/07/31(火) 08:08:01.19ID:26quZrkC相変わらず、外見と内面が一致しない人だ。
0805人間七七四年
2012/07/31(火) 14:51:32.67ID:dL+82e8W陶は信用できない父ちゃんが闇討ちされたら毛利家は潰れると泣き脅しだからな
結局らちあかないと陶からの使者を国司元相に討たせて強制断交w
0806人間七七四年
2012/07/31(火) 20:31:19.30ID:gQleTZO7小早川隆景書状
書簡を拝見致しました。常栄(隆元)の書き置き数通を読みましたが、誠に是非に及ばぬ次第であります。
これ程までに思い詰めていたとは、言うべき言葉もありません。
おおよそ全ての事は紙面から伝わりましたので、更に論ずるまでもありません。
今世、来世の二世までもあなた様にお頼み申し上げておりましたようですので、
安芸に上国されて隆元のために一寺を建立して頂く事を肝要に思います。このこと、私と元春も力の限りを致すつもりでおります。
元就の御心底についてはお察し下さい。
一寺建立の儀については急ぎお願いしたいとの事であります。
詳しくは昇蔵司に申し含めておりますので、よろしくお願い致します。恐惶謹言。
卯月十一日 隆景(花押)
(『毛利家文書 七六三』)
毛利元就書状
寄越して頂いた隆元の書き置きを日々拝見しております。
何と言えばよいのか、とても言葉では言い表せず(原文:言語道断)、感涙に堪えません。
これ程までに禅師を頼られているとは知らず、とても感謝しております。
是非とも御上国下さい。
また、お越しになられた際には隆元の菩提を弔ってやりたいと思います。
詳しくは昇公に申しております。恐惶謹言。
卯月十二日 元就(花押)
(『毛利家文書 七六四』)
元就の文書に関しては隆元の書簡を読んだ元就が本当に「言語道断」であったが如く、短い文であります。
0807人間七七四年
2012/07/31(火) 21:36:30.36ID:41vm73fE毛利の時期当主だからと言うだけじゃなくて個人的に気に入られていたとしか思えないくらいだったような
0808人間七七四年
2012/07/31(火) 22:37:19.87ID:JY1+A6Vs世継ぎを人質ってのはうまく教育(洗脳)して自分たちのシンパにしてしまうって意味もあるからね
厚遇しない理由がない
0809人間七七四年
2012/07/31(火) 23:34:42.82ID:+6SRIQEk0810人間七七四年
2012/08/01(水) 00:02:08.86ID:tn5qtDWN0811人間七七四年
2012/08/01(水) 10:42:16.50ID:lDuJTCjx0812人間七七四年
2012/08/01(水) 11:14:20.55ID:lnubV3dS家臣が逃げ出さない?
0814人間七七四年
2012/08/01(水) 16:57:27.13ID:ObEW6HMJ0815人間七七四年
2012/08/01(水) 19:34:20.94ID:1H29ZaN/羽柴秀吉が家臣を集め酒宴を開いた。このとき秀吉は非常な御機嫌で
「我が家の弓矢の勢(家臣の数)も、昔と比べて随分盛んになったとは思わんか!?」
と尋ねると、居並ぶ家臣たちは「ええ、3倍になりました!」「いやいや、5倍にもなりました」
などと秀吉に和し、これに秀吉はますます機嫌よく
「何を言うか!10倍になったわ!!」
と大笑いした。
が、ここで竹中半兵衛が声を発した。
「いいえ、我が家の弓矢は昔に比べ劣りました。」
水をさされた秀吉はとたんに機嫌を悪くし、半兵衛を問い詰めた
「どういうことだ!?何故我が家の弓矢が昔より劣ったというのか!?」
半兵衛は静かに語った
「先年、宮田喜八郎(光次)が死んで以来、羽柴家の弓矢は甚だしく劣化しました。」
「あ…」
半兵衛は三木城攻めで討ち死にした羽柴家随一の勇者、宮田光次の名を出した。
これを聞いた秀吉も、宮田のことを思い出し
「そうだ、半兵衛の申すとおりだ」
と、嘆息を漏らしたという。
(名将言行録)
0816人間七七四年
2012/08/01(水) 19:40:48.65ID:uKfc7Vum秀吉「我が家の弓矢は勢いをましたな」
官兵衛「いいえ、先年半兵衛が死んで以来衰えました」
0817人間七七四年
2012/08/01(水) 20:13:07.06ID:gTisydH0秀吉「我が家の弓矢は勢いを増したな」
某「秀なg…左様にございますな!」
0818人間七七四年
2012/08/01(水) 21:00:07.51ID:I7kHkDV+0819人間七七四年
2012/08/01(水) 21:09:06.92ID:Ljew9wdW0820人間七七四年
2012/08/01(水) 21:30:31.78ID:FBGbFxz9いや・・・あんたは自重しろw
しかし、三傑から一度は「もうこいつにはついていけねぇ」と、出奔
(小十郎は未遂だったが)されたにもかかわらず、いつの間にか
帰参している辺り、DQNの人望もパネェなぁ。
>>814
しかし、羽柴の残りの四人組の末路を見ていると、宮田も生き残っていたら
あんな目に合っていたんだろうかねぇ。
賤ヶ岳合戦以降、どうも秀吉は古参の家臣に対して、有能無能問わずに
扱いが悪くなっているんだよなぁ。
山内なんかぼやきまくっているし。
0821人間七七四年
2012/08/01(水) 23:08:15.37ID:wQ14VJFA0822人間七七四年
2012/08/01(水) 23:20:21.47ID:VGlFSC+y0823人間七七四年
2012/08/01(水) 23:24:40.89ID:GrmdYFno0824人間七七四年
2012/08/02(木) 00:41:40.34ID:g2tGJO2R種無しのちびなイエローモンキーとは雲泥の差じゃないっすかwww
0825人間七七四年
2012/08/02(木) 07:36:21.56ID:y1CKMUTe0826人間七七四年
2012/08/02(木) 10:50:12.76ID:J1mbkMnD0827人間七七四年
2012/08/03(金) 17:38:15.61ID:2HLtgDKJこの日、家康をもてなすため山海の珍味を残らず取り揃え、その上に能を
梅若太夫に申し付けた。そして舞は幸若太夫に申し付けた。
この幸若太夫の舞を徳川家康は殊の外喜んだ。これを見て信長は
「ではもう一番舞わせよう」
と、すでに幸若が下がっていた楽屋へ使いを立てた。
戻ってきた幸若は『和田酒盛り』を舞った。これは最初の舞より更に素晴らしい出来であると
信長も絶賛し、彼に金子百両、帷子五十を遣わした。
梅若にも同様の御音物が遣わされたのだが、梅若のその日の能は大変不出来で、
2度に渡りど忘れをしてしまった。
信長は後から腹が立ったのか、饗宴が終わってから梅若の泊まる宿に
「お前のその頸を刎ねてやる!!(其頸を可被成御刎)」
と、わざわざ使いを送ったそうである。
(川角太閤記)
0828人間七七四年
2012/08/03(金) 18:24:29.08ID:6EoNdPSA早速兵を集めてまいりますゆえ暫しお待ちを・・・」
0829人間七七四年
2012/08/03(金) 18:40:26.36ID:gu+iVM4A0830人間七七四年
2012/08/04(土) 00:21:03.27ID:C/r8pJwt0831人間七七四年
2012/08/04(土) 10:17:11.93ID:i11XuGZ2「信長記」だと「向後嗜もなく失念等仕候はば、頸を可レ被レ刎とぞ宣ひける」
だから、「次ミスったら殺すぞゴルァ」という念押しぽい。
ここで首飛んでたら梅若家は今はなかったろうし。
流れとしては、
・幸若頑張る。
・信長喜ぶ。
・梅若ミスる。
・信長キレる。
・幸若もう一度頑張る。
・信長機嫌直す→褒美あげる。機嫌直ったから梅若にも褒美。
・信長終わってからまただんだんムカついてきた→一言
っぽい。
0834人間七七四年
2012/08/04(土) 12:00:58.74ID:H557dgB/その場で怒ってたら家康を供応している側の自分の接待ミスにもなるから
幸若さんにもう一度頑張らせて梅若さんの失敗を帳消しにして
2人に褒美を与えてその時は穏便に済ます振りして後で叱ったって感じじゃないかな?
0835人間七七四年
2012/08/04(土) 13:26:07.85ID:L0+pEHnw0836人間七七四年
2012/08/04(土) 19:34:16.03ID:aNaivOgn0837人間七七四年
2012/08/04(土) 22:29:08.03ID:6KZRWF6B0838人間七七四年
2012/08/05(日) 10:03:46.53ID:ey+545yD0839人間七七四年
2012/08/05(日) 10:06:35.41ID:yAXPKXQK信長なりの空気の読み方なんだろう。
0840人間七七四年
2012/08/05(日) 11:19:42.44ID:ey+545yD0841人間七七四年
2012/08/05(日) 11:24:08.81ID:tQ2LIkoIやばくなったら信長に寝返った高山右近さん
0842人間七七四年
2012/08/05(日) 14:21:49.39ID:m85Bzr2k0843人間七七四年
2012/08/05(日) 16:51:10.42ID:yAXPKXQK如水と軍評定を行い、薩摩に攻め込む軍略を話し合い、先ず清正を先に立て、肥後を通って
薩摩との境、浅敷・水俣・湯ノ浦に軍を集結し、不日に薩摩に攻め入るべし、といった内容を
確認し合った。
この時黒田如水の軍勢は、彼が挙兵した頃にはおよそ9千。1万に足らないほどであったのだが、
熊谷内蔵充、筧和泉守、福原右馬充、太田飛騨守、毛利民部大輔、毛利壱岐守など西軍の将の配下たちを
望み次第に抱え、その他筑前、筑後の牢人たちが、我も我もと馳せ加わったため、今や事々しい
大軍となっていた。その上加藤鍋島も幕下に属し、如水も「この上はどんな望みでも叶う」と
面白く思っていた所、子息甲斐守(長政)より急な使者が届いた
使者は如水の前で報告する
『今度天下分け目の決戦、内府公(家康)勝利を得られ、石田治部少輔は一戦に打ち負け、
敗北し伊吹山中の民家において生け捕り。大谷刑部少輔は戦場を去らず自害。小西・安国寺は
どこどこにて生け捕り。すなわち大路を引き回され、三条河原にて獄門にかけられました。
毛利輝元・金吾中納言(小早川秀秋)は甲州様の御計略を以って裏切りをなさったため、御国御安堵。
さてまた美濃、神戸川、また関ヶ原では二度、甲州様はご自身でお手柄をなさいました。
この事やいろいろな方面でのお働き、内府様へのご忠節、人に超えたものである故、内府様も
甲州様の意向を聞かずに何事も決めないと、いかにも入念に語られました。
この上は天下静謐になりましたので、九州での弓箭(合戦)はお止めください。』
これを聞いた如水はしたたかに腹を立てて怒鳴った
「さてさて甲斐守、いくらまだ若いとは言いながら、なんと知恵のないことだろう!
天下分け目の合戦とは、そのように急いでやるものではないぞ!
何としてでも長引かせ、牢人に口過ぎをさせ、方々にて合戦があれば敵味方ともに、もし歳が行っていれば
老年の慰みとなるよう、若者は、老いてからも人として生活できるよう、武功を立てさせるように
させることこそ、人を引き回すものの役目である!
それなのに、今の状況で天下が治まっては、我が軍に集まってきた牢人たちは餓え死にしてしまう!
しかも集まってくる牢人は、一日一日増えているのだぞ!?
全く以て、物を知らぬ日本一の大たわけは、甲斐守である!!
どうしてそんな忠義立てをして、あれをくり分け、これに裏切りをさせ、それほど急いで家康に勝たせて、
一体何の利益があるというのか!まったく残念大き事である。上方が治まってしまった上は、
もはや是非に及ばず。」
そう言うと不機嫌な表情のまま、中津川の城にすごすごと引き上げた。
表向きはこの様であったが、その内意については計り難いものであった。
(古郷物語)
0844人間七七四年
2012/08/05(日) 17:25:02.23ID:lwmMR0o/0845人間七七四年
2012/08/05(日) 18:29:41.97ID:bRl2+K7Tこんな危ない奴がもし100万石持ってたら…(((( ;゚Д゚)))ガクガクブリブリ 」
0846人間七七四年
2012/08/05(日) 18:44:11.48ID:tIWtSurk官兵衛さんは先見の妙のある切れ者であるのは間違いないけど、
同時にどこまでも「戦国大名」であり「軍師」だったんだなぁ、というか。
0848人間七七四年
2012/08/05(日) 20:14:58.17ID:8klr0w7u官兵衛さん先読み力がもう少し足りなかったね
0851人間七七四年
2012/08/05(日) 21:59:40.65ID:XA+iD0hj0853人間七七四年
2012/08/06(月) 14:57:44.50ID:IWBy3ccGその経歴の複雑さはhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5455.htmlここにも出ているが
それがどんなものであったか書いてみよう
成里の父、牧野某は尾張国毛呂崎城(現愛知県知多郡南知多町師崎)の城主であった石川筑後守と、
囲碁の事で論争におよび、ついにこの石川に殺されてしまった。享年29歳であったという。
この頃成里は未だ幼少であり、父の旧臣らによって育てられ成長し、元亀二年(1571)に至って父の敵を討とうとするが、
石川筑後守はすでに年老い、家督を息子の隼人佑に譲って隠居していた。そして筑後守は成里が父の復讐を
しようとしている、という話を聞き及び
「壮年の隼人佑が家督を継いでいるというのに、老衰の私を狙うなどとは、まさしく勇気の無い行い様である!」
と嘲り笑った。このことを今度は成里は伝え聞き、
「筑後守は正しく父の仇であり、だからこそ今まで彼の命を狙っていたが、そういう事であるならこの上は
隼人佑を討つべし!」として年月を送り、大野宮川の狩場においてついにこれを討ち果たした。
この時隼人佑の家来たちが成里たちを追ってきたが、かねてから牧野成里の敵討ちのことを知っていた
滝川一益が兵を出してこれを救け、伊勢長島城に迎え入れた。
そののち、滝川一益が没落すると織田信雄に仕え、また所縁があったために長谷川藤五郎秀一に属し、
文禄元年(1573)朝鮮の役に長谷川家の一員として従い、長谷川秀一が陣中において没した時、
豊臣秀吉が
「長谷川秀一の軍勢を預かるべき者は誰が良いか?」
と諸将に尋ねると、皆が牧野成里こそ然るべきと推薦したため、成里は秀吉の命令で長谷川家の軍配を預かり
士卒を下知して各所で軍功を立てた。
帰国の後豊臣秀次に仕えたが、秀次事件の後、石田三成に属した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役において三成が敗亡すると、郎党十余人を従え包囲を突破して
池田輝政のもとに逃げ込んだ。
輝政は徳川家康にこのことを報告し、成里を扶持した。
この時彼は剃髪し名を一楽斎と改め、輝政の領国播磨に暮らした。
やがて寛永8年(1631)の徳川秀忠の上洛の時に、伏見において仰せを被り江戸に下向し、秀忠の御前に召されて
還俗して再び名を傳蔵と改め、下野国梁田郡三千石の旗本と成った。
牧野成里の、非常にややこしい履歴についてである。
(寛政重修諸家譜)
0854人間七七四年
2012/08/06(月) 16:35:02.63ID:y16USDnQ0855人間七七四年
2012/08/06(月) 17:25:48.83ID:eASKNGlM0856人間七七四年
2012/08/07(火) 06:42:02.42ID:VFpxUdEN0857人間七七四年
2012/08/07(火) 07:33:02.19ID:VpX0d1Ko0858人間七七四年
2012/08/07(火) 10:11:36.36ID:aXGL0qQ60859人間七七四年
2012/08/07(火) 12:39:06.11ID:8wvkDqSF0860人間七七四年
2012/08/07(火) 13:37:11.33ID:MKrFIbp7その宿舎には諸大名たちは言うに及ばず、越前中納言様、当時は三河守(結城秀康)からは、
日々御使者が送られ、度々自身御見舞され、懇ろに饗すという、類少ない扱いであった。
その他徳川家の御旗本衆、御近習、外様衆、更には牢人衆など、訪問者が門前市をなすありさまであった。
こういった状況を心配したのが、久しい如水の友人である山名禅高(豊国)であった。
彼は如水を尋ねるとこの様に忠告した
「諸大名衆が色々と訪問する場所がある中、あえてここに参られるというのは、一体何の御用があるのか?
人目を避けて夜から明け方まで御密談なされているという。
牢人衆の事も、一体どんな理由があって、ここに大勢入れ込まれているのか?
特に三河守殿に関しては、3日と開けず御使者を使わされ、ご自身による御見舞も度々のことだという。
私がその場にたまたま居合わせた時に見たが、三河守殿はまるで親を崇めもてなすように
心がけられていた。その様なこと、家康公にとってお気に召すはずがないではありませんか。
ご存知のように内府公は単純な人ではない。いかにも親しい体の出入りの衆の内に、内府公の横目(監視役)も
きっといるだろう。きっと内府公は、如水は面倒な相手であると思われていることでしょう。
それでは立場はどんどん悪くなり、さらにもっと大事を引き起こすと考えます。
現在、筑前守殿(黒田長政)の幸福は極まっていて、当代肩を並べる人も稀な程です。
ご自身の様子、人からの評価、内府公からの信頼、今の日本において彼よりも幸福な人は2,3人も
居ないでしょう。そうであるのに、貴老のそのほうな、現在の御作法では、筑前殿のためにも
然るべからざるものでありましょう。
ここは、同行させてきた家臣も大方国元に返され、病気療養として静かに在京されるべきでしょう。
天下が治まったというのに、『未だ治まらず』と、徳川家の御旗本が警戒しているのは、大方
貴老の事を念頭にしている事であると、世の中では申し散らしている。無論邪推ではあるが、
天に口無しとも言い、猶以て警戒しなければいけないことです。
真偽は知りません。ですが醍醐・山科・狼谷・六地蔵・宇治・その他京に近い在家に牢人であるとして、
侍たちが方々に居住しているが、これは如水が隠し置いている人数であると、もっぱら噂されています。
返す返すも大変なことだと思う。あなたはこれについて、その様に見られている事への御覚悟を
持っているのか!?」
このように繰り返し繰り返し意見した所、如水は言った
「禅高、よく聞いて欲しい。もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら、関ヶ原の折
九州において数ヶ国討ち取り、島津だけが手に入っていないは国境まで押し詰めていた。
あの時彼らを蹴散らすにしても味方に引き入れるにしても、さほど時間はかからなかったであろう。
そうして九州を掌握した上で甲斐守(黒田長政・当時)を引き取り堂々と、家康に敵対するという
我らの方針をはっきりさせて、当時中国地方、備前、播磨は空き国であったし、我々には
2万余の人数があった。これを以って陸海を押し上がり、道中牢人や侍たちを吸収しつつ、
内府との出会い次第に合戦を行えば、天下が私の掌中に入った、ということもありえただろう。
だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために、討ち取った国を捨て、下鞘一つで上洛したのだ。
特に筑前守は大国の主になったので、心安く養われ、後は後生に願いをかけているだけの状況である。
そんな私に何の用心、何の気遣いがあるだろうか!?
あなたの言ったような風聞には、このたわけ共はそんな事を言っていると聞き流し、真実とは
考えないでいただきたい。少しでも私のことを知り、会話をしたことのある人間なら、
その様に思うことはない!」
そう、扇で畳を叩き、まったく取り付く島もない有り様で主張したので、禅高も呆れてしまい
もう何も言わなかった。
やがて禅高の言ったように、京大阪の牢人に対する取り締まりが厳しくなったが、徳川家の
老中のうち黒田長政と特に親しいものより密かに連絡があったため、如水と親しい牢人たちは
俄に取り散ったという。
(古郷物語)
0861人間七七四年
2012/08/07(火) 17:41:45.68ID:bHJhD/3sこれには禅高も苦笑い
0862人間七七四年
2012/08/07(火) 18:11:04.54ID:cN9q46nx0863人間七七四年
2012/08/07(火) 18:23:38.61ID:JZirb/Sm計画が大風呂敷過ぎてネタにしか見えない。
0864人間七七四年
2012/08/07(火) 21:51:01.09ID:cFnD2V+J0865人間七七四年
2012/08/07(火) 21:51:06.14ID:86NNy1Gv0866人間七七四年
2012/08/07(火) 22:57:34.13ID:rwvlED7/0867人間七七四年
2012/08/07(火) 23:32:50.82ID:Goy/BcYj如水の現代から見ればやりすぎな計画も、
同時代人にとってはさほどおかしくはない気はするけどね
0868人間七七四年
2012/08/07(火) 23:35:40.33ID:xdocKTRo広家にそれっぽい書状を出してたな。
美濃で今月(10月)まで睨み合ってたら
中国へ切り返して一合戦しようと思ってたのに
内府の勝手になっちゃったので残念。みたいな感じ
0869人間七七四年
2012/08/07(火) 23:36:12.38ID:r2J0z4CY0870人間七七四年
2012/08/07(火) 23:44:12.38ID:7uiimwfz0871人間七七四年
2012/08/08(水) 10:35:52.16ID:eXaOyBTq主人公が黒田長政と本多正純というのも良かった。三斎様が物凄い嫌な奴で出てくるw
0872人間七七四年
2012/08/08(水) 11:34:38.62ID:EJrvxqvE風の如く、て権現様にあてはまるのか
0873人間七七四年
2012/08/08(水) 11:53:15.02ID:Mds0W+dQ地下人に金銀を下し、地子銭(固定資産税)の永代免除を発表した。
これに京都の人々はみな有難く思って喜び合い、禁裏よりは久我宰相・土御門少将を勅使として、地子銭免除が
叡聞に達し叡感を得られた旨を伝えられた。
6月10日の未明、明智日向守光秀は参内し、久我宰相を通して金子五百両、白絹百疋、
綿五百把を献上。そして奏上して曰く
「私は奸心によって信長親子を害し、不慮に天下の政道を掌握しましたが、これは天の許さないところなのでしょう。
それ故に今、朋輩であった羽柴筑前守秀吉が中国より馳上り、諸勢を尼崎に集結させていると報告を受けました。
きっとここ両3日の内に、洛外において山河を動かすほどの戦いをし、私は討ち死にをするのだと思い定めております。
今日は、今生のお暇乞いとして帝の龍顔を拝し、忝く思い奉ります。」
これに久我宰相は天意を承って、答えた
「戦の勝敗は、朝廷の関知できることではない。
しかし地子銭免除は洛中洛外の永代の厚情であり、その積善は後世の子孫にまで及ぶだろう。」
これを聞いた光秀は忝なさのあまり落涙して退出した。
光秀はその他に仙院、女院、三公、九卿、百司、女官等まで尽くに金絹を献呈した。
これこそ死後までの栄華であると、その頃言われたのだという。
(増補筒井家記)
山崎の戦い直前の、明智光秀暇乞い、という場面である。
しかし光秀の洛中洛外地子銭免除というのは、相当のインパクトのある政策だったのだと
実感させられるお話である。
0874人間七七四年
2012/08/08(水) 17:28:45.09ID:mHVSUtao柳生宗矩が剣術仕合について話しているのを傍らで聞いていた
大久保彦左衛門は突然「但馬殿、仕合を致しましょう」と言い出した。
宗矩も断る理由がないので仕合の日を約束した。
当日、宗矩は庭に砂を蒔き、仕合の用意をして待っていた。
そこに彦左衛門がやって来たのだが、彦左衛門は甲冑を身に付け、直槍を持った
物々しい出で立ちで、宗矩の方へ行って小さい砥石を取り出し、槍の穂先を研ぐと
「但馬殿、いざ参らん!」と言った。
困惑した宗矩が「これは一体どういうことです。
そのようなお姿では仕合はできません」と言うと彦左衛門はこう言った。
「それがしはいつもこのようにして仕合を致しております。
このように庭に砂を蒔いて所で、竹に皮袋をはめ、木の先に毛毬のようなものを
括り付けて人と仕合を致したことはありませぬ。
それがしはいつも山や田の中、畠の畷のような所で仕合を致して参った。
しかし、このような庭で致しても一向に構いませぬ。さあ但馬殿、いざいざ参らん!」
当然、宗矩は仕合?を断ったという。
――『名将言行録』
0875人間七七四年
2012/08/08(水) 17:47:44.17ID:wJrs8txV0876人間七七四年
2012/08/08(水) 17:50:36.94ID:cu3uAtem0877人間七七四年
2012/08/08(水) 18:00:10.69ID:Mds0W+dQ改変バージョンなんだろうな。
0879人間七七四年
2012/08/08(水) 18:32:13.63ID:XH7TY4VB0880人間七七四年
2012/08/08(水) 19:16:04.43ID:FWGx8qE20882人間七七四年
2012/08/08(水) 19:31:06.39ID:bvZQLNg7この人って失脚した人だっけ?
0883人間七七四年
2012/08/08(水) 19:54:06.01ID:eXaOyBTq上に向かって物の言える人間というのが求められていたらしく、そのシンボルとして彦左さんが注目されたらしい。
0884人間七七四年
2012/08/08(水) 20:05:19.62ID:o1YlFD6e新参の宗矩が譜代の面目を潰すわけにもいかないよね。
可児才三とどっかの武芸者なら、戦場往来の古強者が薄肌剣術の隆盛に物申すいい話になるけど、宗矩と彦左衛門だと
新参者にパワハラする老害の話になる。
0885人間七七四年
2012/08/08(水) 20:13:56.40ID:eXaOyBTq柳生宗矩に一本食らわした』という痛快な話としてのものでしょうな。
あまり難しく考えずに、一休さんのトンチ話と似たようなものだと思えばいいw
0886人間七七四年
2012/08/08(水) 20:15:49.10ID:V1MseDbzイメージで決めつけすぎ
0887人間七七四年
2012/08/08(水) 20:16:33.94ID:j4ZhLhzB0888人間七七四年
2012/08/08(水) 20:16:35.33ID:nAeyhI040890人間七七四年
2012/08/08(水) 20:55:04.80ID:Yz7ZaWV40891人間七七四年
2012/08/08(水) 22:18:15.03ID:trKb4po3まぁ、あと200年もすれば同じ扱いになるからwww
というか、幻の『民明書房』を探すことに一生を捧げる研究者がでるかもしれんぜw
0892人間七七四年
2012/08/08(水) 22:44:02.33ID:SnIlGC2o0893人間七七四年
2012/08/08(水) 23:30:27.45ID:FWGx8qE20894人間七七四年
2012/08/09(木) 00:02:31.57ID:3gqbyJV6大人げない小野忠明vs嫌味ったらしい彦左衛門
二人の対決を呆れ顔で見ている
宗矩と横田甚右衛門
0896人間七七四年
2012/08/09(木) 09:23:06.12ID:awAqdDYX0897人間七七四年
2012/08/09(木) 17:29:25.43ID:M2QzuxWM鴫野の戦いの時、上杉景勝は敵の大軍を破って勝利した。
この時、軍監を務めていた小栗忠政は、徳川家康の陣にやって来て、
戦の次第を伝えると御次の間に退いた。
そこで忠政は戦の時の話をし始めた。
「今日の戦で敵を追い討ちする絶好の機会があったゆえ、
景勝にすすめたのだが、もう日暮れだといって聞き入れなかった。
しかし、残った敵も多かったゆえ諦めきれず、直江に兵を貸せ、
わしが行くと言ったのだが、これも同じ様なことを言って断られたわい。
さてさて、残念なことじゃ」
…と言っているところに家康が入って来た。忠政の声がよほど
大きかったのか、家康は話をすべて聞いていた。
「やい、又一。お前の身分で景勝の指揮を非難するはいらざることぞ。
このたわけ者め!」
主に厳しく咎められて、流石の忠政も平伏して恐縮した。
――『徳川実紀』
0898人間七七四年
2012/08/09(木) 18:07:14.23ID:G8q1lgcT0899人間七七四年
2012/08/09(木) 19:25:12.53ID:nVNH7eNI0900人間七七四年
2012/08/09(木) 19:52:22.06ID:6ehqqsG6理不尽でめんどくさくて大久保彦左とガップリ四つに組める男なのに…
0901人間七七四年
2012/08/09(木) 20:14:45.54ID:RtLGP5if直江に「兵を貸せ」と言ってもそりゃお断りされるような…
0902人間七七四年
2012/08/09(木) 20:19:38.27ID:2zdOeasM兵を貸してはくださらぬか?」
景勝「・・・」
直江「殿は、もう日暮れなので兵は貸せぬ、とおっしゃってます」
忠政「では直江殿、貴公の兵を」
直江「わたしも、日暮れなので兵は貸せませぬな」
そりゃ同じ様な返事になるよな
0903人間七七四年
2012/08/09(木) 20:30:21.38ID:e8TeZ/K+0904人間七七四年
2012/08/09(木) 20:30:36.96ID:M+sQuYa2つまりこの発言後まもなく命に関わる負傷をしてしまう。
0905人間七七四年
2012/08/09(木) 23:00:10.53ID:8Xj1weZz「最近『甲陽軍鑑』という本を読んだが、上杉謙信が武田陣に乗り込み、武田信玄は謙信の太刀を軍配で請けた
と、書いてある。ありゃ、ウソじゃ。
わしは、あのころ会津不動院に住しておったが、武田家に祈祷師として呼ばれる事があった。
天文23年(1554)8月、わしが甲州へ檀那廻りに行くと、信玄公は信州で上杉と対陣との話。急いで川中島へ
向かい、8月17日、信玄公と対面かなった。信玄公は機嫌良く会ってくれたが、
「一両日に輝虎と合戦に及ぶであろう。ひとまず御坊は会津に帰り、来年ゆるゆると甲斐に来られよ。」
と、さっさと追い出されてしもうた。
わしも一度は帰路に着いたが、「出家の身が、大檀那の大事なる戦を聞き捨てにして去るとは、道理に合わぬ」
と思い直し、夜通しかけて立ち戻り、翌18日の合戦を、近くの山に登って眼下に見届けた。
両大将は御幣川に馬を乗り入れ、太刀にて一騎打ちに及んだが、敵味方入り乱れるうち、退いて行ったわ。
その夜、わしは信玄公の陣小屋へ見舞いに行った。信玄公は手負い、壁に寄りかかっておったが、
「御坊は帰られたと思っていたわ!」と喜んで迎えて下さった。
それを受けて、わしも
「源平の合戦以来、大将の太刀打ちなど、聞いた事がありませぬ。古今に無きお手柄にございますぞ。」
と褒めたが信玄公は、にわかに顔色を変え、
「輝虎と太刀打ちしたのは、わしでは無い。知らぬ者は信玄と見ただろうがアレは、わしに似せた法師武者よ。
わしでは無いので御坊、奥州に帰られても、左様な話は無用ぞ!」
と怒られた。が、わしは近々と見たのじゃ。なかなか見間違えるハズも無し。」
話を聞いていた横田尹松が尋ねた。
「わしも謙信公の太刀にての斬り掛けに、信玄公は軍配で受けた、と聞きましたが・・・」
「しゃっ!甚右衛門は生まれてもおらぬ時の話の、何を存ずるか!?わしは直に見たのじゃ、両大将の、
騎馬にて川に乗り込んでの太刀打ちをな。わしが45歳の時の話じゃ、間違いない。」
(上杉将士書上より)
・・・ホントですか大僧正?(天文23年に45歳だと享年133、4になるw)
0906人間七七四年
2012/08/09(木) 23:05:38.72ID:e8TeZ/K+こういう事ですね
.-、
ヽ、メ、〉 r〜〜ー-、__ ________________
∠イ\) ムヘ._ ノ |
⊥_ ┣=レヘ、_ 了 | え−−い、信玄公は軍配で受けたんじゃないっ!
-‐''「 _  ̄`' ┐ ム _..-┴へ <
| |r、  ̄ ̄`l Uヽ レ⌒', ヽ. | 川に乗り込んだんだ! 騎馬での太刀打ちだっ!!
(三 |`iー、 | ト、_ソ } ヽ |
| |`'ー、_ `'ー-‐' .イ `、  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | `ー、 ∠.-ヽ ',
__l___l____ l`lー‐'´____l. |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| .| |
|| |__.. -‐イ
|| | ノ/
0907人間七七四年
2012/08/09(木) 23:39:15.96ID:WJIhcnj10908人間七七四年
2012/08/09(木) 23:48:59.34ID:mscTs0VD0909人間七七四年
2012/08/10(金) 00:19:41.79ID:BSV3slSp0910人間七七四年
2012/08/10(金) 09:49:36.54ID:hzrsj5qo←──≪
←──≪
←──≪
三本の矢
(お兄ちゃん早すぎる)
なぜか、一番上が短くみえるのは、気のせい?
0911人間七七四年
2012/08/10(金) 10:48:22.93ID:A8NxHFdf0912人間七七四年
2012/08/10(金) 11:25:12.62ID:l1z91fYL0913人間七七四年
2012/08/10(金) 12:09:59.23ID:XzAs2U1Z大坂の陣にて、塙直之が蜂須賀至鎮に夜討を仕掛けた時、
至鎮の家臣、稲田九郎兵衛は十五歳にして大功を立てたので
徳川家康から感状を下された。
この時に家康が近臣に向かって曰く、
「子に名前をつける時はきちんと考えなければならないな。
九郎兵衛はわずか十五だというのに、無闇に大人らしい名前を
つけるから散々なことになる。
何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ」
――『徳川実紀(天元実記)』
名前はよく考えろって、それなんてブーメラ(ry
0914人間七七四年
2012/08/10(金) 12:15:00.55ID:BqjjkEmG>>何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ
なるほど、珍しい名前をつけておけば評判になるのか
さすが権現様
0915人間七七四年
2012/08/10(金) 12:28:31.39ID:nUTaD59d0916人間七七四年
2012/08/10(金) 12:29:04.59ID:ZfC0qa9S逆逆。九郎兵衛が子供なのに珍しい(大人っぽい)名前だったから今一インパクトがないよ、
子供らしい平凡な名前だったらもっと評判になったのに、って話だよ。
0917人間七七四年
2012/08/10(金) 12:36:52.46ID:q3WwlswE0918人間七七四年
2012/08/10(金) 12:55:58.13ID:3b6zioRaこういう事言われるって事はまだ元服前で幼名九郎兵衛ってことか
親は凄いセンスだな
0919人間七七四年
2012/08/10(金) 13:02:30.74ID:WLFh4AEK人間がどう成長なるかなんてわからんけどね
0920人間七七四年
2012/08/10(金) 14:39:31.79ID:ur+b5Yrw0921人間七七四年
2012/08/10(金) 18:18:42.69ID:Vp9vd+Sj九郎兵衛だけに苦労するんですね、判ります
でも神君が名前ネタでいじって後世に名を残せるように計らってくれて
九郎兵衛も末代までの誉れになったから良かったね
0922人間七七四年
2012/08/10(金) 21:31:34.89ID:ZH26C3W8徳島藩筆頭家老稲田氏の嫡子だからなあ
物々しい名前も付けられるってもんよ
そんな大身の御曹司でありながら感状を賜るほどの目覚ましい
働きは大したもの
0923人間七七四年
2012/08/10(金) 23:44:58.10ID:CU/QAYC2すったもんだの末に南部家25代当主として家督を相続した南部信直は、北信愛をそばに呼びこう語った。
「天下に名高き武将は多いが、今皆がその名を知り四海に武威を振るっているのは、織田信長様だ。諸国諸士はこぞってよしみを結んでいると聞く。
私も参上こそ叶わないが、土産を持たせて使者を送りたい。だが、この遠い糠部の地、なかなか思うようにはいかない。
それに、信長様に我が家の由緒を示したいが、代々の由緒を記した巻物(系図書)も火災によって失ってしまっていてなぁ……」
天文18年(8年とも)に、当時の居城であった本三戸城は、晴政に妻を奪われた家臣の赤沼備中によって放火され、
南部家相伝の証文・系図・家宝などはことごとく燃えてしまっていた。
信直はどうしたものかと思案していたが、そこへ北信愛が
「御屋形様、これを……」
と、差し出した。それはまさに焼けて無くなった筈の系図書だった。
「どうしたのだこれは?!」
「はい、御城炎上ののちに、晴政様は家中に自家の系図を提出させ、その時集まった30巻余りをつき合わせて抜きだし、
御前で清書しました。私の父は文筆の心得があったので、その手伝いを任されました。
その下書きを、晴政様は私の父に賜り、その後父はこれを私に譲ったのです」
そして信愛はそれから延々系譜の内容について詳しく説明した(長いので割愛)
「――ということで、そのほかにも筆にも及ばぬ言い伝えは数多ありますが、それは追々話すとして、あらましはこのようなものでした」
信直の喜びはひととおりではなかった。
「よし、こうとなればさっそく信長公へ使者を登らせよう! 誰が良いと思う?」
「このたびの使者は御家の一大事のことです、私が行きましょう。良い伝えを持って帰りますので、安心して待っていてください」
と、信愛は御家の由緒を荒々と書き抜いて、献上するための馬三頭・大鷹五羽を持って糠部を出立した。
時に“天正10年 6月中旬”のことだった。
北信愛は順調に進み、日本海側に抜けて下越後へ着いた。が、そこで、信長公が京都で逆臣のために果てたことを風聞に聞いた。
不安に思った信愛はしばらくその所に逗留して情報を集めていたが、風聞が真実だと知ると、今は上洛しても詮無しと、力を失い帰国したという。
0924人間七七四年
2012/08/10(金) 23:46:00.21ID:CU/QAYC2天正10年、出羽仙北の領主小野寺輝道は、織田信長の家臣千福遠江守に対して返書をした。
『わざわざ書状をいただき、ありがとうございます。
上様(信長)が甲斐・信濃・駿河を始め、関八州までことごとく掌握されたこと、
また西国では中国地方も毛利氏を安芸一国まで追い詰めるのは時間の問題であるとお聞きしました。
上様に対する祝意の御礼を申し上げるべきところ、当方で紛争(小野寺氏は当時安東氏などと対立していた)があり、
承知していながら先延ばしになっておりました。
ぜひとも孫四郎を使者に御礼を申し上げますので、その時は上様に対して諸事よろしくお取り計らいください』
輝道もまたほかの奥羽大名たちと同じように、天下統一を目前に控えた信長と好を通じようとしていた。
信長を『上様』とまで呼び祝意を示している。
が、この手紙が書かれたのは“8月1日”
既に信長は本能寺に倒れていた。輝道は信長の死を知らなかったのだ。
というわけで、本能寺の変が遠く奥羽の地まで影響を及ぼしていたという話。
0925人間七七四年
2012/08/11(土) 01:53:21.67ID:TZJ+STfh色んな情報が錯綜してそうで面白そう
0926人間七七四年
2012/08/11(土) 03:20:11.11ID:QL8qErtRちょw2ヶ月経ってるじゃねーかw
周りはもっと早く情報を入手してるのにどんだけ世間ずれしてんだ
0928人間七七四年
2012/08/11(土) 07:56:09.23ID:PVQ/QCRb0929人間七七四年
2012/08/11(土) 08:14:00.48ID:iu2O5qkN0930人間七七四年
2012/08/11(土) 08:50:16.87ID:7w7T/gqH0931人間七七四年
2012/08/11(土) 09:02:13.58ID:HF/OB6T/閏月の挿入時期で混乱したのは、天正10年12月〜翌1月の話だから
この話の時点ではいっしょだよ。
0932人間七七四年
2012/08/11(土) 16:46:39.73ID:/qNjNtQX信長が死んだことを知らないのになんで越後側に抜けたんだ
まさか上杉が織田と戦ってたことすら知らなかったのか?
0933人間七七四年
2012/08/11(土) 16:54:23.60ID:yi+zMmTj0936人間七七四年
2012/08/11(土) 19:30:48.90ID:9jyoXUZh>諸国諸士はこぞってよしみを結んでいると聞く
この程度の把握では信長急逝後の後継者見込みを立てられなかったんじゃないかな
0937人間七七四年
2012/08/11(土) 21:28:59.16ID:LYIXatLM信長は喜んで勝頼の首に向かい、
「うぬが父、信玄入道以来の積悪によって、うぬは信玄の死から時を経ずして滅亡するハメになったのよ。
しかし、かかる小せがれめに多くの将士を討たれしこと、くやしゅうてならぬわ。
・・・よし、うぬら親子は上洛を望んでいたと聞く。望み通り、その首を都の大路にさらしてくれるぞ!」
そう言うが早いか床机から立ち上がり、勝頼の首を蹴飛ばした。
見ていた近習の竹中重矩は、たまらず隣にいた後輩の細川忠興に話しかけた。
(アレは、今回の御征討が始まって百日もせぬうちに大した苦もなく取った首ゆえ、あのような真似を
されるのだろうか?普通は、大将首なら首実検をするものだが・・・)
(うむ、そうだな。ならばその旨、信長様にご注進いたそう。)
(やめておけ、あの御景色では聞き届けていただけまい。益なき事ぞ。)
(それもそうか。)
「・・・それから百日もせぬうちに、信長様は本能寺に果てた。ゆえに、大将首は丁重に実検せねばならんぞ。」
細川忠興は、のちに家臣たちにそう言ってきかせた。(綿考輯録)
お盆に向け、こんな話をどうぞ。「信長は勝頼の首を粗末に扱った」説の元ネタかな、これ?
0938人間七七四年
2012/08/11(土) 22:11:25.46ID:5bsoGrnl視界の隅でしか見ちゃいけないとか。
あの辺ってやっぱり怨霊をおそれてのことかしら。
0939人間七七四年
2012/08/11(土) 22:16:28.63ID:XTtQybm00940人間七七四年
2012/08/11(土) 22:53:34.37ID:HshhauHa信濃に対する傍若無人・悪逆無道な行いに対する報いで滅んだよようなもん
信濃の民衆は武田滅亡を泣いて喜び、進んで武田残党狩りに勤しみましたとさ
0941人間七七四年
2012/08/11(土) 22:57:08.56ID:CDJc4OlC朝倉・浅井の頭蓋骨は供養のつもりだったんだろうか
趙襄子が智伯に同じようなことしたのは侮辱のためだったらしいが
0942人間七七四年
2012/08/11(土) 23:20:06.82ID:9QHghjUI誰が見ても信長は因果応報の悪逆非道だろ カス織田厨
0943人間七七四年
2012/08/11(土) 23:21:47.86ID:DxcBpOZgあ、でも名門だしなぁ
0944人間七七四年
2012/08/12(日) 00:00:07.11ID:VBE/hqIi0945人間七七四年
2012/08/12(日) 00:19:33.93ID:T/tkyNye自分が首なしになって供養もされないハメになるとは・・・
0946人間七七四年
2012/08/12(日) 02:00:46.05ID:TH/ROrAo0947人間七七四年
2012/08/12(日) 02:43:05.90ID:ZTEh3t560948人間七七四年
2012/08/12(日) 17:49:11.64ID:iaaTX/9o勝頼もとんでもない業を背負わされたもんだ
0949人間七七四年
2012/08/12(日) 18:34:47.82ID:VBE/hqIi0950人間七七四年
2012/08/12(日) 19:56:33.75ID:6Q8PSRjp0954人間七七四年
2012/08/13(月) 14:48:54.75ID:HF7C+RxT全く浮世を捨て切ったと言って、召し使っていた侍たちも筑前守(長政))に揃えて渡した。
その時、無足者(知行を持たない家臣)のうち確かな者には知行をこれだけ、知行を与えるほどではない
者には扶持・切米をどれだけ、知行を取っている者には相応に加増を取らせ、その者たちを
安堵させるようにして、如水自身は知行も家臣もいらない、と言い渡した。
ところで如水の弟に黒田養心という人が居た。養心は病弱で役に立つような人ではなかったので
2千石で召し置かれていたのだが、この養心に1万石を取らせ、宗像郡のうち津屋崎という所、
ここは城はないが要害だというのでこの場所に置き、如水もこの近所に小屋同然の家を作らせ、
小姓など知行取り10人ほど、徒者少々にてそこに暮らしていた。
それから博多においては、博多町屋敷の空き地に、表向きは町家に拵えた屋敷を造り、
いかにも逼塞の体に、殊勝に見せていた。
さてさて、そのころ如水は太宰府天神信仰の体にて、時折太宰府まで出かけていたが、そのあたりの山陰、
いかにも閑静な山中に茶屋を造り、その近辺、あの藪の中、この森の陰と屋敷を造らせ、
ここに屈強の侍60余騎を置いた。
さらに牢人衆を町中に住まわせ、彼らを商売人に紛れさせた。
また馬敷という深山からは材木が採れた。如水は、ここは涼しい山中であり、また中間どもに
材木を採らせるためとしてこの山中に小屋を掛け、定番だのなんだのと名目を付けて侍どもを
隠し置きいた。
さらに博多の町外れに広い空き地があるのを見つけると、如水は長政に、鷹師どもをここに置くようにと
指図した。これに長政は
「その場所は城から1里ばかりも離れていて不自由な場所です。鷹師であればもっと近くに置きましょう」
と反対したが、如水は
「悪いようにはせぬ!とにかく私のいう通りにしろ!」
こう頻りに言ってきたので致し方なくそこに鷹師を置くようにすると、それに紛らわして
家来も馬も持っていないような小知行の者たちに
「人も要らず、まして馬も無用である!家をあの地に、町家のようにして造れ!」
そのように申し付けた。この下知に従い、指図通りに、この小知行の者たちを
町人とも鷹師とも解らないような体で召し置き、牢人も少々紛らわせた。
この他、ここの新田・あそこの山守などと名づけ、あるいは牢人のようにして人を置き、
突然の合戦などで人が必要な時は、いつでも騎馬の侍200騎余りが確かな者たちを引き連れて
集結するようにしていた。
それなのに普段は人も持たず、逼塞一遍の体で居たのだ。全く恐ろしい覚悟である。
ある者の言う、奮馬は死するまでと言うのは、この様なことを言うのだろう。
(古郷物語)
0955人間七七四年
2012/08/13(月) 16:14:02.27ID:EBJkiDF+0956人間七七四年
2012/08/13(月) 16:33:14.14ID:W6MJCntJ「愚息め、せっかくの好機であったものを…いいこと考えた!
百万石あれば天下を取れると太閤のお墨付きをいただいておるこの如水ならば
半分の五十万石もあればたちまち天下の半分を切り取ってみせるであろう
然る後内府と天下分け目の大いくさを行い是を打ち破れば宿願の天下も夢ではない!
都合よく目の前に五十二万石の領地が広がっておるグフフ」
0957人間七七四年
2012/08/13(月) 19:09:56.89ID:ER4+IZgZ本気で隠居もするけど、備えも細やかにきっちりしておく
いかにも知恵者らしい如才ない話
0958人間七七四年
2012/08/13(月) 19:13:13.68ID:nW9C8wHs松平定綱と井伊直孝は故あって数年にわたって断交していた。
ある時、直孝は麾下の士に「いま天下で異変があったとしたら、
その時に私が会わなければならないのは松平越中守だけだ。
近年、互いの心に隔たりがあって疎遠になっていることを
残念に思う」と言ったのを、その士が定綱の家に来て告げた。
これを聞いて定綱は喜び、和談のために使者を取り交わして
早いうちに面会しようとしたのだが、病に罹ってしまい、
直孝と会うことができずに死んでしまった。
――『名将言行録』
0959人間七七四年
2012/08/13(月) 19:44:30.33ID:VsMs2P86死去が1604年だからまだまだ油断出来ない時期の話だもんな
で、なんか問題になったら「隠居が勝手にやってたんです、ほらあんな人ですしー(棒)」
てすっとぼけられる配慮までしたものと思われる
0960人間七七四年
2012/08/13(月) 19:49:53.48ID:7X34yFFk0961人間七七四年
2012/08/13(月) 20:00:32.75ID:UaTtOTGh0962人間七七四年
2012/08/13(月) 20:04:20.52ID:l2uRUcA5あ、そうか、権現様のかくし…
0963人間七七四年
2012/08/13(月) 20:45:51.86ID:MV1dIMPX0964人間七七四年
2012/08/13(月) 21:04:42.54ID:UaTtOTGh翌年の春、宗茂は清正に
「これまでの御芳志によって、心静かに休息させていただき、満足この上もありません。
ですが私は現在、暇を持て余している遊人ですので、都に上り名所旧跡を見物したいと思っているのですが
これをどうお考えでしょうか?」
まあ、ニートしてますが引きこもってばかりいるのもアレなので外に出て京都観光でもしたい、という
ような話である。これに清正は
「尤もの仰せです。どうぞ御心に任せて下さい。この清正からも一つ馳走させてもらいます。」と、
京までの旅行について懇切に取り計らい、宗茂を京都まで上らせた。
宗茂は京都、南都(奈良)、泉州堺などを心静かに遊覧し、三歳の春を送った。
3年も遊び歩いていたのかと思わないでもないが。まあともかくもそのあたりで「今度は江戸に行ってみたい」と思い、
慶長8年の秋ごろ、江戸に行き高田の宝祥寺に忍んで滞在していたのだが、旧交のある大名小名が
これを聞きつけ訪問してきたため、後々は忍ぶも何も無いような状態で、諸大名の馳走に会って
彼方此方と忙しくしていた。
そんな時、土井大炊頭(利勝)が取り持ちをして、この宗茂の江戸滞在のことが
大御所(徳川家康)に伝えられた。このとき家康は
「先年関ヶ原の時、宗茂が石田に与したのは心から出たことではない。後から聞いたところだが、
宗茂は小早川秀包と共に、毛利輝元に色々と異見したのだが、輝元が聞く耳を持たなかったので
致し方なく大津城の攻め手に加わったのだという。宗茂にとっては詮方無き次第であったのだ。
大炊頭、その方より宗茂に、彼が輝元に異見した当時のこと等を聞き、その上で今後の身の上について
相談をしてくるのように。」
そうして訪問した土井利勝に、宗茂も徳川家から扶持されることに、いまさら異議はないと答え、
直ぐに召し出され奥州棚倉において1万石を、堪忍分として与えられた。
この時立花宗茂は
「この度1万石を仰せ付けられたことを、完全に満足とは思っていない。
だが、関ヶ原の折、私が毛利輝元に諫言したということが上聞に達した。
これこそ私の本懐であり、どんなものもこれに過ぎることはない。」
そう言って喜ぶこと限りなかったという。
(立斎旧聞記)
「とにかく輝元が悪い!」で家康と宗茂が即座に和解、という微笑ましい逸話である。
0965人間七七四年
2012/08/13(月) 21:38:35.13ID:MV1dIMPX0966人間七七四年
2012/08/14(火) 00:18:43.43ID:4JYYrUrJ0967人間七七四年
2012/08/14(火) 01:39:55.21ID:XAdBBDXl0968人間七七四年
2012/08/14(火) 07:17:20.89ID:E1Hky5l80969人間七七四年
2012/08/14(火) 08:06:20.34ID:b1X0oJOX0971人間七七四年
2012/08/14(火) 11:33:25.70ID:fiOs9Nt20972人間七七四年
2012/08/14(火) 11:42:45.08ID:9LaxXP4H0973人間七七四年
2012/08/14(火) 11:58:22.66ID:flU5ze7h0975人間七七四年
2012/08/14(火) 14:52:27.24ID:Ib2dEjUM0976人間七七四年
2012/08/14(火) 15:25:13.76ID:tUPjInXhなんか干し飯濡らした印象しかない。
0977人間七七四年
2012/08/14(火) 15:33:13.33ID:K+oDm8So亀レスだけど確か信長が勝頼の首実験の時不運だったと
労わりというかそういう言葉をかけたという逸話もなかったっけ?
どっちが本当なんだ。
0978人間七七四年
2012/08/14(火) 16:58:26.36ID:IZFYcCRz0980人間七七四年
2012/08/14(火) 17:16:45.86ID:tUPjInXh0981人間七七四年
2012/08/14(火) 17:24:53.22ID:udOYREmL神妙に勝頼親子の首を信忠と一緒に見続けたという逸話もある
0982人間七七四年
2012/08/14(火) 17:30:54.33ID:IZFYcCRz秀吉は勝頼さえいれば東国の平定は楽だったのにと惜しみ
家康は甲斐信濃平定の足がかりをつかんだ
ここで信長は天にも地にも人にも見放され滅亡フラグ立てる
0984人間七七四年
2012/08/14(火) 19:11:15.49ID:4IK9zLH20985人間七七四年
2012/08/14(火) 19:14:01.26ID:4IK9zLH2戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
0986人間七七四年
2012/08/14(火) 20:39:04.46ID:lPYzGUNE永正9年(1512年)、下野宇都宮家で「宇都宮錯乱」と呼ばれる大きな家中騒動が起き、当主宇都宮成綱は隠居に追い込まれ子の忠綱が跡を継いだ。
隠居をした後も実質的な権力をは忠綱に有り、2年掛けて錯乱を鎮圧し、反抗勢力の主である芳賀家を叩き、
宇都宮家の安泰に務めたがその成綱も永正13年(1516年)に死亡してしまう。
忠綱の代の宇都宮家には2つの爆弾があった。まずは父成綱の弟興綱、もう一つは宇都宮錯乱で大いに活躍した壬生綱重の息子、壬生綱房である。
忠綱は叔父の忠綱を仲の悪かった芳賀家に送り込んで取り込みを図ったが、仲の悪い芳賀家に
これまたさほど良好ではない間柄の叔父を送り込んだ事は、反忠綱勢力の結集を強めてしまったらしい。
大永3年(1526年)、ついに反抗勢力が忠綱に牙をむく。
結城政朝が宇都宮領に攻め込んで来たことで忠綱が迎撃に出撃した隙に興綱が宇都宮城を占拠したのである。
本拠を追われた忠綱は壬生綱房に匿われたが大永4年(1527年)に興綱を接近した綱房に暗殺されてしまった。
こうした経緯で宇都宮家19代当主宇都宮興綱が誕生したのであるが家中の混乱はこれで収まらない。
興綱は忠綱への反抗に役立った芳賀家嫡流に家督を返還し、宇都宮家中での地位を保全したのだがこれがまずかった。
芳賀家は忠綱時代より更に強大になった壬生綱房と手を結び、やがてこの両者の専横に手が付けられなくなったのである。
天文元年(1532年)、興綱は芳賀高経・壬生綱房によってかつての「家督簒奪」の罪を糾弾され強制的に隠居に追い込まれ、
天文5年(1536年)にはついに芳賀高経よって暗殺されてしまう。
芳賀や壬生が興綱の家督簒奪を罪に問うのはまさに「お前が言うな」状態では有ったのだがこうして興綱の短い春は終わった。
0987人間七七四年
2012/08/14(火) 20:44:47.89ID:QoHnq8Qd頭悪すぎだろう・・・
0988人間七七四年
2012/08/14(火) 21:30:35.14ID:xUEdL4ex0991人間七七四年
2012/08/14(火) 23:59:11.01ID:xUEdL4ex宇都宮中興の祖・成綱の跡を継いだ18代当主・忠綱は叔父の興綱に城を追われ、腹心の壬生綱房の元に落ち延びるも暗殺。
これにより19代当主となった興綱も壬生綱房、芳賀高経らによって若干二十歳の嫡男・尚綱に家督を譲らされたうえ暗殺された。
しかし宇都宮家の混乱はさらに続くのである。
まず、興綱へのクーデターで協力関係にあった芳賀高経と壬生綱房が対立した。
芳賀家は宇都宮家当主を出すほどの有力な一門だったが「宇都宮錯乱」で失脚。返り咲きを望む芳賀高経は先代当主・興綱排除の功績から宿老筆頭の座を要求した。
しかし先々代当主・忠綱暗殺の功績により宿老筆頭となっていた壬生綱房はその座を譲らず、クーデター後も尚綱の後見役として宇都宮城代に就任。
家中での権勢を高め、ついには宇都宮惣領家が相伝してきた日光山御神領の支配権まで握ってしまった。
これに憤った芳賀高経は天文7年(1538年)に挙兵するも敗走。常陸の小田政治を頼って落ち延びるも、あっさり宇都宮家に引き渡され斬首。
そして天文18年(1549年)に那須高資との戦いで20代当主・尚綱が討ち死にすると宇都宮家の混乱は最高潮に達する。
当主討ち死にの知らせが伝わるやいなや城代の壬生綱房は宇都宮城を占拠。
那須高資と和睦し、那須家に身を寄せ亡父・芳賀高経の仇を討った芳賀高照を当主として招く。
もちろん高照にはほとんど実権がなく、実態は綱房による傀儡に他ならない。
こうして主家を乗っ取った壬生綱房、まずは会心の笑みであった。
0992人間七七四年
2012/08/15(水) 01:11:14.22ID:7RQ+gPFVこれの更に続きがこれになる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4508.html
0993人間七七四年
2012/08/15(水) 07:51:11.19ID:NQXs0Hg/0994人間七七四年
2012/08/15(水) 08:50:24.96ID:JcWCV5o5ちょwwww天庵パパひどいwwwww
0995人間七七四年
2012/08/15(水) 09:13:00.06ID:2eVX/EEK0996人間七七四年
2012/08/15(水) 10:18:31.21ID:JcWCV5o5つか、まぁ、逃げる先が小田家ってのがそもそも間違いだと思うんだけど、
なんか縁故あるんだっけ?
0998人間七七四年
2012/08/15(水) 10:26:08.30ID:qxrimqnSえっ
0999人間七七四年
2012/08/15(水) 10:41:38.76ID:mr0nU9S7じーちゃんから孫に口聞いてもらう気だったなら考え甘すぎだろ…
1000人間七七四年
2012/08/15(水) 10:49:46.05ID:JcWCV5o5これが世の爺・婆の常だ!
孫の頼みなら引き渡しても仕方ないか〜
1001人間七七四年
2012/08/15(水) 11:01:09.12ID:JcWCV5o5戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
すまぬ、余計なことをしたようだ・・・
10021001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
'、 `'ー‐''" / lzュ、__
---‐ヽ -' / 〃ィ ヾ'‐,--
/ | |iゝr;ァ--‐''" 〃/./ l | 戦国時代(仮)@2ch掲示板
./ | | ',ヾ゙ / / / / l http://hobby9.2ch.net/sengoku/
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。