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戦国ちょっといい話30

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0001人間七七四年2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0850人間七七四年2012/02/09(木) 21:17:18.46ID:Oaf9NwIT
よその争い持ち込むバカは居るわ、2ch内のネタスレで作られたネタ持ち込むバカは居るわ……
0851人間七七四年2012/02/09(木) 21:18:26.45ID:Qr7bo9BN
槍相手に鎌で激戦とか人間じゃねーな……
0852人間七七四年2012/02/09(木) 21:19:54.31ID:zTl/CmhY
あ、2ちゃんねるで作られたネタだったのか
さすがにオーバーすぎるけど、元ネタがあると思ってた
0853人間七七四年2012/02/09(木) 21:23:55.18ID:ro6Nu5fs
あるだろ 伊勢長島で半裸で餓死寸前の非武装農民相手に織田軍壊滅とか
0854人間七七四年2012/02/09(木) 21:34:47.54ID:CQCdKDTP
そろそろ春休み突入した大学が多いだろうから、バカが大量に湧いてきても、
まあしょうがないかと。
0855人間七七四年2012/02/09(木) 22:05:34.63ID:9aBbVzZW
首狩り茂吉のコピペはネタとして好きなんだけど言葉遣いが戦国期の農民ぽければと思う
まあ、このスレでそう言うのは不粋かもしれんけど
0856人間七七四年2012/02/09(木) 23:10:41.76ID:zPiE/uGq
天正19年(1591)2月、千利休が豊臣秀吉の怒りに触れ切腹した。死地に赴く利休を細川忠興と古田織部のみが
見送り、秀吉の勘気を恐れず師を見送った二人は、数寄者として大いに名を上げた。

同じく利休の弟子であった蒲生氏郷は、二人に後れを取ったことを、深く後悔した。
そこで氏郷は、利休の養子・千少庵をかくまい、徳川家康・前田利家等、有力者に千家赦免を願い出た。
(早く、早くお許しをいただかねば・・・)

懸命の嘆願が実り、ついに文禄3年(1594)千家再興の許しが出され、秀吉が没収していた利休の家財・茶道具が
少庵に返還された時、氏郷は病の床に着いていた。

文禄3年2月、氏郷重体の報を聞いた少庵は、ただちに伏見蒲生屋敷に駆けつけた。
死相の濃く現れた氏郷を、あえて少庵は激励した。

「ま、まだご回復半ばと見えまするな。貴方様は、まだ若い上に文武両道たる事、日の本に一、二の将におわし、
皆々大切に思っております。失礼ながら、ご養生がおろそかと見えますぞ?ご油断無きよう。」

氏郷はこれに答えず、一首の和歌を少庵に示した。

“限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風”
(花は、いつかは散るものを、この氏郷という『華』を散らさんと、春の山風が吹き付けて来よるわ。
運命とは、気の短いものよ。)

「・・・殊勝なお心掛け。」
氏郷の『辞世』を見た少庵は、思わず落涙し、「さ、されど」その上で涙を押さえ、返歌をしたためた。

“降ると見ば 積らぬ先に 払えかし 雪には折れぬ 青柳の枝”
(貴方様は、散り行く花などでは無く、積る雪にも折れずにしなり、ついには払う青柳にございます!
しっかりなされませ!)

返歌で氏郷を叱咤して、少庵は蒲生屋敷を後にした。(長夜茶話他より)


少庵の激励も空しく2月7日、蒲生氏郷は世を去った。享年40。
少庵の孫・江岑宗左の言行録『江岑夏書』において、蒲生氏郷の名は『利休七哲』の筆頭として書かれている。
0857人間七七四年2012/02/09(木) 23:12:21.35ID:wQ/wxWSe
>>853
いやいや、一向衆徒武装してるだろw
本願寺も雑賀衆も金あるし
0858人間七七四年2012/02/09(木) 23:20:08.20ID:Vh8nGdb6
>>857
降伏開城した後だから武装解除されてるかな
0859人間七七四年2012/02/09(木) 23:32:59.50ID:CIsAQyup
開城退去は武器は持ったままだろ。武器は私物だし。
武装解除は近代以降の概念
0860人間七七四年2012/02/10(金) 00:28:26.09ID:h92ZWXCD
>>856
氏郷の辞世の句はこの時代の武将のものとしては屈指のものだと思うけど、
これに対する返歌があったんだなあ。
0861人間七七四年2012/02/10(金) 00:56:32.02ID:xO0XYn2s
少弐政資の辞世が好き

花ぞ散る 思えば風のとがならず
時至りぬる 春の夕暮れ

花の散り様にもいろんな捉え方がある
0862人間七七四年2012/02/10(金) 01:14:25.83ID:N/8HrRSC
確かにいい句だな・・・さわやかだよ
0863人間七七四年2012/02/10(金) 11:06:30.08ID:did6RLua
少弐は戦死の家系だよなあ
0864人間七七四年2012/02/10(金) 20:07:57.08ID:xO0XYn2s
少弐家は戦になれば当主が魁するような家風だったんだろう。
そうとしか思えない当主の戦死率。
爽やかなまでに無常を受け入れる辞世と言い、
鎌倉以来の武家の名門の武士的な上品さがある
0865人間七七四年2012/02/10(金) 20:34:56.44ID:WTZ3zLJg
ライバルの菊池が勤皇の誉れ高いぶんその割を食らった評価受けてきた感じ
菊池が没落した後に台頭してきたライバルが大内というのもまた
0866人間七七四年2012/02/10(金) 21:29:41.09ID:415rCOFC
少弐家当主「私が死んでも代わりはいるもの」
0867人間七七四年2012/02/10(金) 21:32:16.18ID:U17yYi2S
まあ少弐氏の場合、当主古人云々よりその官位である大宰少弐の方が
本質だった節は確かにあるw
0868人間七七四年2012/02/11(土) 01:31:42.04ID:Q8NC4alX
>>867
だからこそ大内義隆は上官の大宰大弐への任官を望んだわけだw
0869人間七七四年2012/02/11(土) 04:42:23.16ID:IhwJQFzD
>少庵の孫・江岑宗左の言行録『江岑夏書』において、蒲生氏郷の名は『利休七哲』の筆頭として書かれている。
逆にゲヒ殿は七哲の中で底辺扱いされたり
下手すると金森長近(こちらは長子の道安を匿った)あたりと入れ替えられてたりで
千家の後嗣からはあんまり好かれて無いっぽいね
利休の気概を一番濃く受け継いだのは織部だと思うんだけどねえ
0870人間七七四年2012/02/11(土) 07:32:15.79ID:wEhKoqhj
>>869
そういう位置だからこそあれだけはっちゃけられたのかも知れんよ。
0871人間七七四年2012/02/11(土) 07:40:21.05ID:dIJ7p0EA
蒲生氏郷は肉体は衰えても志は健在だったんだろうな
オレの今の心境は少弐政資に同感する・・・
0872人間七七四年2012/02/11(土) 07:47:44.65ID:wEhKoqhj
>>861
そういや「死にともな」のオリジナルって結局誰のどれなんだろうか。
0873人間七七四年2012/02/11(土) 17:01:18.28ID:5aGtYdHw
元亀2年(1571)、毛利元就死去。
ここで名実ともに毛利家当主となった毛利輝元に対し、一族・家中から新たに輝元への忠誠を誓う
誓紙が提出される。

ここで叔父・小早川隆景からの誓紙の内容を見てみよう

『日頼様(毛利元就)、常栄様(毛利隆元)より続く筋目のこと、勿論忘却するようなことはございません。
別して最近聞き及ぶところには、このような私の心中も、輝元様に相通じているように承っております。

一、私に対し、疎かにする気持ちは毛頭なく、今まで以上に懇意にしたいとのお言葉、忝く思います。

一、私が知っていることは全て申し上げ、毛利家内部の情報は一言も外部に他言しないこと、
   これは既にご存知だと思います。
   どうぞこれからも思っていることは全て、御心隔て無くおっしゃってください。
   私からその情報を漏らすことは断じてありません。

一、当然、我ら一族の者は色々なことを輝元様に申し上げます。ですが、これは許容できないと
   お考えになったことは、どうぞお気遣いすることなくそうしてください。

   第一私の認識は、こんな事を今更申し上げるのもかえって隔たりがあるようですが、
   私は輝元様お一人の他に、頼るべきもののない身上でございます。
   私一代に対し、大小のどんな事においても御見放しなく、深重なるご憐憫を
   頂いていること、忝く思っております。

   毛利家の筋目という意味でも、私個人の冥加という意味でも、輝元様に対し無二の忠誠をなす
   覚悟であります。

右の意趣に偽りがあれば、日本国中の大小の神々、特に当国の厳島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天、
氏神様、それらの罰を蒙るでしょう。

               左衛門佐 隆景(花押 血判)
元亀二年八月五日
輝元様』

輝元に対する隆景の心情、隆景・輝元双方の、お互いへの気遣いがかいま見られる史料であろう。
(毛利家文書)
0874人間七七四年2012/02/12(日) 01:25:49.67ID:ukR7cFnK
しかし、必要とあらば容赦なく殴る景さまw
0875人間七七四年2012/02/12(日) 01:29:28.10ID:60IopdR2
>>874
一応その他家来に見えないところでな。
0876人間七七四年2012/02/12(日) 02:10:12.91ID:Ouo+QHEG
人目につかない所で叱る気遣いは現代にも通じるな
0877人間七七四年2012/02/12(日) 05:53:15.01ID:IO/178gk
たしかに。
人前に晒して説教は現代でも謀反フラグ。
それやる上司は一気に人望なくす
0878人間七七四年2012/02/12(日) 11:15:41.72ID:MTzz/Q/x
殺してしまえ女陰伽す
0879人間七七四年2012/02/12(日) 13:09:42.60ID:1ot4HfJT
女陰イカロス?エロいのうお主
0880人間七七四年2012/02/12(日) 17:46:22.85ID:2xBmyiRo
後のイカロス出版社である
0881人間七七四年2012/02/12(日) 20:25:55.08ID:73pbmnvl
1577年、北陸地方の平定を任されていた柴田勝家のもとに援軍として派遣された羽柴秀吉は
勝家と意見を対立させた末に無断で戦線を離脱した。この事に激怒した織田信長から秀吉は謹慎を命ぜられてしまう。
この時秀吉の弟の秀長も謝罪と釈明の為に安土城を訪れた兄に同行し、控えの間で待機していたのだが、共に来ていた浅野長政は

「秀吉は切腹させられるのではあるまいか・・・」

と気が気でなく、蜂須賀正勝に至っては

「もはや生きて城を出られぬかも知れぬ。だが、わしは無抵抗で死ぬつもりはない。」

と短刀を握りしめる始末で、室内の緊張感は高まっていた。すると、兄の窮地であるにもかかわらず冷静さを保っていた秀長は
おもむろに扇を開き、庭に咲く菊の香りを室内に届けるかの様に無言で仰いだのである。続いて竹中半兵衛が

「控えめに咲くあの菊の様に、我々も驕らずにいれば誠意は通じるでしょう。」

と静かに語ったため周囲も落ち着きを取り戻し、やがて秀吉が許されたこと知った一同は手を取り合って喜んだという。

「武功夜話」より、扇で皆を落ち着かせた秀長の逸話である。
0882人間七七四年2012/02/12(日) 20:57:40.35ID:IO/178gk
武功夜話での蜂須賀を始めとした川並衆の信長嫌いは話として面白い。
荒くれ河川労働者と信長じゃ気が合わなさそうだし
0883人間七七四年2012/02/12(日) 21:06:27.86ID:VtWUkM6v
>>877
大衆の面前で東京03に説教した紳助。

その後、紳助引退。

なるほど
0884人間七七四年2012/02/12(日) 21:45:40.24ID:k1kweMZi
確かに、荒くれ河川労働者じゃ秀吉の方が相性良さそうだね
荒くれ労働者の後家なら家康にお任せだけど
0885人間七七四年2012/02/12(日) 21:53:30.47ID:4B0umsjS
蜂須賀、前野は秀吉と苦労を共にしてそうなのに扱い悪いな
0886人間七七四年2012/02/12(日) 22:02:42.52ID:PvSieo2p
>>885
蜂須賀さんなんて明治に至るまで盗賊の子孫扱いだったはず。
0887人間七七四年2012/02/12(日) 22:13:34.71ID:pxMPt5Z8
蜂須賀さん明治には侯爵まで上り詰めているぞ
明治天皇に冗談でからかわれはしたけど(笑)
0888人間七七四年2012/02/12(日) 22:22:54.04ID:9xgL0Bcx
明治天皇にからかわれた蜂須賀さんは、徳川家から養子に入ったので、蜂須賀の血筋じゃ無いのに可哀相に。
0889人間七七四年2012/02/12(日) 22:26:07.24ID:XQmJY4nL
そもそも蜂須賀の盗賊伝説は江戸中期以降、絵本太功記の創作から。
0890人間七七四年2012/02/12(日) 22:55:37.70ID:pxMPt5Z8
蜂須賀侯爵
「陛下、お言葉ですが、
そもそも蜂須賀の盗賊伝説は江戸中期以降、
絵本太功記の創作でございます。
まして私は徳川から蜂須賀に養子に入った身。」

明治天皇
「・・・・・(いや、実際煙草とられてんだけど)」


な三河武士な展開にしてほしかったなw
0891人間七七四年2012/02/12(日) 22:57:04.31ID:DQbO/mcF
まとめサイトのその話の解説では
実は明治天皇に蜂須賀小六の血が流れてたという、衝撃の事実が
0892人間七七四年2012/02/12(日) 23:02:19.91ID:XQmJY4nL
要は家風の問題であって血が云々ってあまり関係ないんだけどね、日本では。
0893人間七七四年2012/02/12(日) 23:25:04.25ID:aZe8Uzdl
家柄も教養もばっちりな幽斎さんが油を盗んだり柿を盗んだり(ry
0894人間七七四年2012/02/12(日) 23:53:05.26ID:PvSieo2p
結局どこも戦国からの血筋は残ってないんでない?
大名家も養子ばかりだしな。幕末なんか水戸家からの
養子ばっかり

そういう意味で水戸家最強だな。水戸藩は幕末前半で消えたけど
そのあとの将軍や主要な藩の藩主は水戸藩系ばかり会津や桑名の
松平、尾張の徳川も親父かその祖父が水戸家出身だから
それ含めると越前松平を超える最強の連枝集団だな
0895人間七七四年2012/02/13(月) 00:06:43.93ID:8f2U2jKn
島津とか毛利などの外様大名は血が残ってるんじゃ?
0896人間七七四年2012/02/13(月) 00:30:16.11ID:selISkyR
足利(喜連川)は養子入ってるのかな?
0897人間七七四年2012/02/13(月) 00:40:15.83ID:TgcyyrdD
本多忠勝の家は女系の子孫を必ず養子にしてる
榊原家なんかも血族は続いていたはず
0898人間七七四年2012/02/13(月) 02:25:19.42ID:A27AQDfe
それはそうと大和守△
風流過ぎる
0899人間七七四年2012/02/13(月) 06:12:44.45ID:LGIIVCVg
センゴク絵のイメージになってるから
風流されると戸惑う
0900人間七七四年2012/02/13(月) 15:58:26.79ID:8f2U2jKn
1566年ごろ、織田信長に仕える木下藤吉郎秀吉が斉藤家との戦いの拠点として敵地である美濃国墨俣に
砦を築くように命じられた。異母弟の秀長を従え、木曽川の水運を取り仕切る蜂須賀党(川並衆)の首領であった
蜂須賀正勝の元に赴いて協力を求めた秀吉は旧知の間柄であった正勝を得意の弁舌で説得したが、色よい返事は得られなかった。
場に重苦しい空気が流れる中、それまで無言だった秀長は

「この戦いは兄の出世ばかりではなく、戦乱の世を治める足掛かりになります。大した名声も持たぬ我らはこの度の戦に全てを賭ける覚悟です。
 ぜひ協力願いたい。」

と発言。その誠実な人柄を感じさせる切々とした語り口は、秀吉の能弁振りよりも強く正勝の心を動かし、正勝の協力を得た兄弟は
砦を完成させて、信長の美濃平定に貢献したという。 「武功夜話」より、秀長の説得が蜂須賀党を動かした逸話である。
0901人間七七四年2012/02/13(月) 16:04:25.24ID:+uSZYDLv
秀長無双ですなw
0902人間七七四年2012/02/13(月) 16:10:24.14ID:Gp6ex8vX
前野さん関係の文献だから秀吉を下げようとして秀長上げてるんかね?
0903人間七七四年2012/02/13(月) 16:16:37.01ID:nnXPDbvE
秀長と良いてんきゅー信繁と良い
こう言う控えめ実直な有能bQって日本人の心にきやすいよな
0904人間七七四年2012/02/13(月) 16:29:33.99ID:8SjeKcY2
「武功夜話」の史料評価ってどんなもん?
ある程度は認められてる?
0905人間七七四年2012/02/13(月) 16:36:09.05ID:huiNTWR0
死ぬ順番が逆なら世が乱れることもなくうまく収まったのかな
0906人間七七四年2012/02/13(月) 16:38:10.48ID:a2SdNpSM
逆に二人共先に死んだからこそ評価が高いのかもしれない
生きていれば兄の死という重大事件によって失態をさらして評価だだ下がりだったかも
0907人間七七四年2012/02/13(月) 16:38:29.93ID:ENSG7cdH
>>904
ぶっちゃけると資料価値はほぼ0。
よくて江戸後期の創作。
そしておそらくは戦後に創作されたもの。>武功夜話
0908人間七七四年2012/02/13(月) 16:41:45.03ID:xmvm4Ky7
秀吉の弁舌でグラグラ来て迷って、でも決め切れないって時にポンと置いた言葉だろうから
やっぱり両方共いないと機能しない良いコンビだったって事じゃないかな

そんな解釈しちゃうと武功夜話が近世近代の作り話っぽくなっちゃう訳ですが
0909人間七七四年2012/02/13(月) 17:08:35.17ID:eO402xW+
その話が出来たころにどう見られてたか、ってのを類推するくらいかな
0910人間七七四年2012/02/13(月) 17:11:47.71ID:Cg0eUmlC
秀長さんは理想的なNo.2だったよな。斬新だけど大雑把な兄貴をうまくフォローしてたと思う
秀長が長く生きていれば、と思わずにはいられない
0911人間七七四年2012/02/13(月) 17:18:17.82ID:KaZFxktm
生きてても秀吉が同じようにラスボス化が進行してたら、止められなかった気もなあ
0912人間七七四年2012/02/13(月) 17:29:05.25ID:ENSG7cdH
ちょっと面白い話で言うと、秀長は徳川家康と非常に関係が良くて、三河一向一揆以来断絶していた
家康と本願寺との和解を斡旋したりしてる。
家康も秀長が病に倒れてから何度も見舞いに行ってる。

秀吉政権で東西の2トップとして徳川家康と小早川隆景があったのだけど、どちらも秀長と
非常に関係が深く、秀長がまさに、大名政策における扇の要となっていたフシがある。
0913人間七七四年2012/02/13(月) 19:27:19.30ID:ygCuAbWr
>>897
つい最近も徳川宗家と徳川四天王の現当主が浜松に集結していたよ
0914人間七七四年2012/02/13(月) 20:01:54.01ID:Cg0eUmlC
もしかして、井伊家もか?
0915人間七七四年2012/02/13(月) 20:07:52.86ID:ZJKx+UTU?2BP(11)
>>914
0916人間七七四年2012/02/13(月) 20:10:36.32ID:ZJKx+UTU?2BP(11)
申し訳無い。赤備の先鋒disってんの?と書き込むつもりでした。
0917人間七七四年2012/02/13(月) 20:18:45.60ID:ygCuAbWr
>>914
勿論だよ
井伊家の現当主は婿養子なんだよな
11月には彦根博物館での「武門の絆−徳川将軍家と井伊家」という企画展で
徳川宗家の当主を招いて講演会もやったし
0918人間七七四年2012/02/13(月) 20:27:12.34ID:UxteXDn9
今の井伊家当主は彦根博物館の館長やってるな
0919人間七七四年2012/02/13(月) 20:33:32.55ID:DDb2vD9P
徳川宗家や井伊宗家くらいになると、
表に出ていない歴史の逸話とか知っていそうだ。
0920人間七七四年2012/02/13(月) 20:34:12.02ID:ygCuAbWr
先祖が徳川幕府に仕えた子孫しか入会出来ない柳営会なんてのもある
ttp://www.ryuueikai.net/kaiinboshu_v2.html
先祖が幕臣だった人はどうぞ
0921人間七七四年2012/02/13(月) 20:41:32.57ID:Cg0eUmlC
>>916
>>917
そうか・・・井伊彦根は鳥羽伏見での振舞いのせいでいい印象がないもんでどうも引っ掛かってね
井伊を呼ぶくらいなら松平家を呼んでやれと思ってさ
まぁ過去のことを引きずらないのは日本人の大きな美徳だし、別に悪いことではないか
徳川宗家も大阪城から逃げ出す始末だったしな・・・
0922人間七七四年2012/02/13(月) 20:47:10.11ID:fHA5Opr6
>>921
初代の功績が大きいし大老も何人も出してるし
時代の流れだ、そこは大目に見てやらねば
0923人間七七四年2012/02/13(月) 20:57:33.54ID:SbtKbb6p
>>920
事務局長の鳥居さんって「三河武士の鑑」の子孫かな
幕府は無くなってもこういう交流会が有るのはなんだかほのぼのする
0924人間七七四年2012/02/13(月) 21:09:42.22ID:DDb2vD9P
幕末も井伊は桜田門外までは矢面に立っていたからな。
時代の流れと地理的な問題考えると>>922に同意
0925人間七七四年2012/02/13(月) 21:14:32.30ID:nDnxI+b+
井伊家問題ないだろ、むしろ幕末で言うなら尾張とかだな…
0926人間七七四年2012/02/13(月) 21:24:18.95ID:4kEPnC0Q
宗家は会津にひどいことしたよね
0927人間七七四年2012/02/13(月) 21:29:57.55ID:KzSAZSH3
>>926
どこの宗家の話?
0928人間七七四年2012/02/13(月) 21:35:11.32ID:0bC4E7Tq
徳川宗家現当主は会津松平家出身だね
0929人間七七四年2012/02/13(月) 21:37:33.37ID:DDb2vD9P
鳥羽伏見で錦旗が出て、慶喜総大将で戦した場合考えると、
総大将は逃げるしかないような気もする。
0930人間七七四年2012/02/14(火) 01:01:02.98ID:jThBDuyp
学習院の各科には松平姓が多かったと聞いた
0931人間七七四年2012/02/14(火) 01:19:26.53ID:lGyTUE3p
学習院大学アンサイクロペディアの「学生生活」項目にあるような
大名家や旧幕臣による格差みたいなのってやっぱりあったのだろうか…
0932人間七七四年2012/02/14(火) 02:14:07.76ID:0dbaJUyB
萩の乱、西南戦争などなど薩長でも維新後に反乱起きてるし、
割を食った武士はたくさんいたんだろう
0933人間七七四年2012/02/14(火) 02:17:06.44ID:Spw3YiDW
昔は、大名の格で爵位が与えられたから、
あったろうけど・・・
いまでも学習院には名家の子息はいるのかな?
0934人間七七四年2012/02/14(火) 07:32:46.74ID:MCvznjrq
>>933
今でも松平は多い
0935人間七七四年2012/02/14(火) 19:12:27.06ID:1KK5dxkf
>>896
何回も入っている。
上杉も景勝の子孫ではあるけど、男系でたどると吉良氏なのは有名な話
0936人間七七四年2012/02/14(火) 20:10:06.31ID:fWF2+pvT
>>929
早めに手を上げたから徳川宗家は今も残ったと言える
明治は武家の代表として公爵だし
0937人間七七四年2012/02/14(火) 21:45:13.22ID:YM1vYQDX
それは確かにその通りだろう。結果だけで物を見れば
でも徳川体制を必死に維持しようとした会津、桑名、新撰組を始めとした幕士たちに対してあんまりだろ
会津なんて壮絶としか言いようがない戦いをして、多数の犠牲を出し、新政府からずっと冷遇されてた
考えても意味がない事だが、将軍がもっと事態に積極的だったらあんなことにならなかったかもしれん
残りさえすれば、なんて考え方はちょっと薄情すぎるんじゃないのか
0938人間七七四年2012/02/14(火) 21:49:19.51ID:U6QN2395
まあまあ、歴史とは残酷なものですよ

スレチですので
0939人間七七四年2012/02/14(火) 21:54:31.46ID:bmsO7vgi
>>937
会津観光史学に毒されすぎ。
もうちょっときちんと勉強することをおすすめする。
0940人間七七四年2012/02/14(火) 21:56:26.01ID:0dbaJUyB
スレ違いすまないが、
維新軍が天皇の許可なく錦旗を出したんだけど、
どの道、錦旗が出たら幕府総大将としては逃げるしかないだろ時代的にも・・とフォローだけさせてくれ
0941人間七七四年2012/02/14(火) 22:00:31.54ID:i3Kymnwe
時代的と言うか水戸藩の流れを汲む将軍としては…って気がするのは、
井沢史観に毒されすぎかな。
0942人間七七四年2012/02/14(火) 22:14:28.16ID:a3twqzdY
史観は色々だろうがまあ純粋に好みでは無いな慶喜の行動は
0943人間七七四年2012/02/14(火) 22:37:50.00ID:KkMQV1PE
>>934
変わった名前だから目立つけど、多いってほどでは…
あ、でも普通の学校には松平って名前の人はまずみないから、
他と較べると多いな
0944人間七七四年2012/02/14(火) 22:56:00.29ID:6rZxEOEx
秀忠の功績だが徳川にとって会津藩の祖、保科正之の存在は大きかったな
0945人間七七四年2012/02/14(火) 22:57:57.79ID:HGtQXQe+
ネットの簡易苗字検索だと、
松平姓は日本の苗字数順位1864位世帯数2072
日本の苗字数約30万からすると結構存在するんだな

ちなみに織田は世帯数8497で575位
豊臣は世帯数13で45217位
羽柴は世帯数1080で3201位
0946人間七七四年2012/02/14(火) 23:08:03.47ID:9aYCnnvX
そういえば今川氏についての研究本で、
今川範忠の時に足利義教から「天下一苗字」を許されたため、
今川家では宗家以外は今川を名乗れなかった、また、江戸時代には
幕府から今川は庶流には使わせなかった、
よって現在今川という苗字が他の大名に比べて極端に少ないのはそのためだろう
というようなことが書かれてあったが、

インターネットの苗字検索の結果
今川:965位 約19,100人
羽柴程度、てことは一応少ないほうかな
0947人間七七四年2012/02/14(火) 23:45:01.40ID:GnV0xuUp
手の汚れる仕事を松平容保さんに押し付けた松平春嶽さんがちゃっかり新政府ででかいかおしてるのはなんか納得できない
0948人間七七四年2012/02/15(水) 00:08:12.60ID:wqe54H6k
今川はまったく別流なら名乗り放題だと
0949人間七七四年2012/02/15(水) 00:14:25.09ID:4tYK08B3
>>940
維新軍だと長州力じゃねえかwww
ちゃんと官軍と言えよ。
0950人間七七四年2012/02/15(水) 01:03:23.02ID:Vw/GRtIV
NHKは受信料ぼったくってお笑い大河連発しないで
時代考証をしっかりして高須四兄弟やれよ
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