戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0068人間七七四年
2011/12/18(日) 16:24:06.14ID:2PhTy4Yv助兵衛さんは黒田長政とも仲が良かったようで、
同文書を見る限りでも、長政から広家宛の自筆書状に
「花助兵と談合します。私のところでは人が多いから、夜に助兵のところに来てください」
てな感じで登場している。時期が不明なのが惜しい。
このメンツでいったい何の密談をしてたのか激しく気になる。
豊臣政権下で築かれた武将同士の横のつながりって面白そうだ。
0069人間七七四年
2011/12/18(日) 16:48:56.73ID:23WqZsF8また「広家様」か
名前を書くのさして珍しくないのか
それとも広家だけの現象なのか、どっちだ
0071人間七七四年
2011/12/18(日) 18:52:12.47ID:7NMiqQFQ0072人間七七四年
2011/12/18(日) 19:50:43.33ID:xGSQNhVv当然ある程度以上親しい人でないと、使うのははばかられるし、逆にある程度以上親しいのに
諱を使わないのは、ちょっと空々しいと取られる。
書状も出す人それぞれで、色々と空気を読んだ表現を使わないといけないのだ。
0073人間七七四年
2011/12/18(日) 20:16:03.81ID:8efod3Ub>>68は助兵衛がまだ上方にいる時期って事だろうから1595年以前かな?
文禄と慶長の間くらい?
0074人間七七四年
2011/12/19(月) 01:34:57.70ID:hDBjMLA8というのも、この寺を建立したのは北条綱成であり
寺の名前は、綱成の妻の戒名『大頂院殿』から来ている つまり、綱成の妻の墓なのだ
それなのに何で名前が変わったかと言うと、原因は家康である
家康がこの寺を訪れとても気に入り
「山号が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」と言って、寄進状に『大長寺』と書いたことから
寺名が改まったと伝わっている
ここまでなら、またいつもの家康のネーミングセンスの悪い話になるが
家康はこの寺がそうとう気に入ったらしく、かなり多くの寄付があったり
境内には家康お手植えの銀杏があったとかいう話もある
また、家康が鷹狩りの際に、門前で杖を振り回して、杖にさされた土地を
大長寺に与えたと言われ、以後その農地は「家康お杖先の田」と呼ばれ
戦後の農地改革まで、その土地は大長寺の土地であったという
0076人間七七四年
2011/12/19(月) 13:09:08.77ID:NlzABSxd大友、相良、阿蘇の三氏が小川町の守山で会談した結果らしい(菊池政隆がいたが追っ払われた)>阿蘇惟長(菊池武経)の菊池相続
で、惟長相続に賛成した菊池家臣の面子が大友義長の次男を推戴するって起誓文を作成してたらしいね。
菊池の家督に旨みが無いのを悟り、ブチ切れて阿蘇に帰った惟長の後に大友がショートリリーフとして菊池武包を起用した後の大友義長次男にして最後の菊池家当主が菊池義武。
まあ肥後守護に欲出してみたはいいものの、実際は大友の支配下にあったのに気付いて帰ったのが阿蘇惟長だから、野心無かったってのはどうかなー?
0077人間七七四年
2011/12/19(月) 21:59:28.54ID:/vH8vLEp親しみやすかった…のか?
0078人間七七四年
2011/12/19(月) 22:38:32.67ID:JUi6MfnA景勝が諱で呼ばれてると、そうか気を引きたいのかと思う
輝元が諱で呼ばれてると、ああ舐められてたんだなと思う
長政が諱で呼ばれてると、だからどこの長政だよと思う
家康の諱が彫られてると、秀頼逃げて、超逃げて
0079人間七七四年
2011/12/20(火) 00:46:55.37ID:jrCuKj7t国家鮟鱇と書こうとして、めんどくさくて魚へんをはずしてしまった
ソースは2ちゃんねる
0080人間七七四年
2011/12/20(火) 00:49:57.34ID:mlSG59Ka0081人間七七四年
2011/12/20(火) 09:21:23.58ID:daJv0RXKあんな変なさばき方する魚はもっと平和な時代でないと
調理法が発展しないような
0083人間七七四年
2011/12/20(火) 19:53:20.65ID:XaSiufI90084人間七七四年
2011/12/21(水) 00:20:01.68ID:erYv2H5k0085人間七七四年
2011/12/21(水) 01:10:55.01ID:8EWMPkW+南禅寺から追い出そうとした、崇伝の陰謀だった、と考えるのが妥当かな
豊臣家を挑発したのはオマケ
0086人間七七四年
2011/12/21(水) 10:15:49.79ID:fgUdyRsF20日には父の細川三斎も熊本にやって来て、大広間で祝いの酒宴が盛大に行なわれ、三斎が祝辞を述べた。
「……以上!しかし、めでたい。そうじゃ、誰か謡(うたい)をやらぬか?」
「では、中村靱負を。」呼びかけに応じた忠利が、金春流の免許を持つ中村靱負を指名した。
「いや、靱負は要らぬ。伯耆よ、仕れ。『四海波』じゃ。」三斎はこれを断ると、志水伯耆守清久を呼んだ。
清久は幽斎の代から細川家に仕えるも三斎と仲違いして出奔、加藤清正に仕えたが、関が原の戦いの際に
大友義統が挙兵すると、清正に願い出て旧友たちを救うべく石垣原合戦に参加、その事を知った三斎が
清正に頼んで細川家に帰参させたという、今日の場にふさわしい男だった。
「………………」
だが、永禄末年に19歳にして三好勢と槍を合わせたという清久の謡は、老齢からか、それとも祝いの席での
思わぬ名誉による感動からか、その声はかすれがちであり、満座の空気は沈んだ。
再び三斎が呼びかけた。
「お主ら、何をしておる。伯耆が謡っているのだ、みな唱和せぬか。」
「!……不調法を致しました、父上。やるぞ、皆の者!」
「「「四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝をならさぬ御世なれや……」」」
『高砂』の一節を細川家一同で謡いあげ、家中の結束を見た三斎は、機嫌良く隠居所の八代に帰って行った。
(旦夕覚書より)
0087人間七七四年
2011/12/21(水) 12:03:51.03ID:vDA2dv5e0088人間七七四年
2011/12/21(水) 12:25:22.10ID:UH8Lun0Y0089人間七七四年
2011/12/21(水) 12:52:14.18ID:o9uRqK/q0090人間七七四年
2011/12/21(水) 17:29:19.00ID:8ogI3n2d0091人間七七四年
2011/12/21(水) 17:46:17.04ID:NdIid7by0092人間七七四年
2011/12/21(水) 18:27:00.20ID:fZQOQmGd0093人間七七四年
2011/12/21(水) 20:22:13.25ID:Fh8iFAIu0094人間七七四年
2011/12/21(水) 21:30:51.90ID:RBb21jY20096人間七七四年
2011/12/22(木) 01:03:54.54ID:PFNl98In最上義光から、とある商人へのプレゼント
1608年当時、庄内地方は最上義光の領土であった。
義光は庄内の港町である酒田を訪れ、酒田商人の一人、池田惣左衛門にあるものをプレゼントした。
「惣左衛門、お主には「鐙屋」の屋号を授ける」
「ははー!」
鐙とは馬に乗るための道具であり、当時の馬というのは武具である。
つまり武具にまつわるものを与えられるのは大変名誉なことであったと言える。
その武具名が付いた屋号を商人に与えるのだから、この惣左衛門は、よほど義光に信頼されていたのだろう。
この後、池田惣左衛門は鐙屋惣左衛門と名乗るようになる。
鐙屋は近世には廻船問屋として、町の自治衆である三十六人衆に名を連ねるほどになり、
さらに、井原西鶴の『日本永代蔵』に紹介されるほどの繁栄ぶりを築く商人へと成長することとなる。
豪商「鐙屋」の誕生に関わった義光の良い?話
0097人間七七四年
2011/12/22(木) 18:39:47.17ID:ZeKlTXhl0099人間七七四年
2011/12/22(木) 19:58:02.38ID:W64Iegsa0100人間七七四年
2011/12/22(木) 20:31:22.69ID:v0i82vYG悪政と言われながらもなんのかんので、鳥居家〜保科正之の間で、中世的勢力潰して
体制を近世化してるからね。
譜代ならシステム的に統治しやすい状況にもなっていたのでしょう。
0101人間七七四年
2011/12/23(金) 12:56:24.58ID:4iKk8bBw左遷先ってのが間違ってんじゃね?
現代じゃ、東北なんて全域(それこそ東京以外全て)左遷先だろうが。
出羽はズタズタに刻まなきゃならんくらい豊かな地だったんだろ?
逆にほぼ一国丸ごとの会津が、どれだけ貧しい国だったんだろと思った。
0102人間七七四年
2011/12/23(金) 13:12:45.30ID:4OzMeUBM「今度の伊予への出陣は、今回が家督初めの役目だからって元長が出てくれることになった
そんなわけで私はこっちに残るので、もうずいぶん会ってないことだし、
おまえが訪ねてみようと思い立ってくれればいいなと思っています
馬とか人手のことは心配しなくていいぞ
迎えをやらせるから、必要なものを教えてくれ
ここ(隠居館)には初めて来ることになるんだな
早く来てくれればどんなにどんなに嬉しいだろう!
まあちょっと考えて、すぐ返事をください
待ってます
5月4日 もと春
七尾 五もじへ
重ね重ね、なるべくすぐ返事をするように
そちら(益田家)の出陣に差し障りが出ないように、いろいろ相談しよう」
婿君も留守になるし、お父さんはお休みだから新しい家に遊びにおいで、ってことらしい
鬼吉川で猛将の元春も、父としては現代のそこらのおっさんと何ら変わりはないようで
嫁いだ娘への溢れんばかりの愛情がひしひしと伝わってくる
でもこのおっさん、この一年と半年後には会いたくても会えないところに逝ってしまうんである
親元離れてる人は、たまには顔見せに帰ってやれよ!
もうすぐ正月だし、帰省する人はめいっぱい親孝行してこいよ!
0103人間七七四年
2011/12/23(金) 14:42:52.97ID:gmuiD/5F甲斐武田家のような例も多々あるし、
うまく行ってる家族もあれば、
うまく行かない家族もあるのは現代と同じだな
0105人間七七四年
2011/12/23(金) 17:54:59.99ID:days4KtP0106人間七七四年
2011/12/23(金) 19:10:55.89ID:k4Top3bJ0107人間七七四年
2011/12/23(金) 20:01:16.23ID:days4KtP0108人間七七四年
2011/12/23(金) 21:39:56.50ID:B4z754AOこういうふうに、一部かなで書くのって現在でいう絵文字みたいなもん?
0109人間七七四年
2011/12/23(金) 21:59:09.99ID:CHM1Kl4eそういや隆元も息子のお祝い時に戦場からおめでとうコール送ってたな
0110人間七七四年
2011/12/23(金) 22:07:31.89ID:oQoX1Z5W0111人間七七四年
2011/12/23(金) 22:08:35.09ID:6B9gwRF7娘宛だし、公文書じゃないし、気楽に書いた結果じゃ?
女性宛の書状って、かなまじりが多いし
0112人間七七四年
2011/12/23(金) 22:46:35.75ID:JlrIWAiJ0113人間七七四年
2011/12/23(金) 22:50:02.42ID:4OzMeUBM宛名とか差出人名がユルユルになってる印象がある
元就の「もと就」って署名の書状も多いし、隆元も隆景宛で「景へ、もとより」とか、
輝元の吉川広家宛なんて「ひろ家へ、てる元」「ヒイへ、(花押のみ)」とかw
場合によっては本文も、かな文字の含有量が多いときがあるけど、気が緩んだのかな?
0114人間七七四年
2011/12/23(金) 23:06:45.28ID:HJ8lQWr+なんでも、この像を持って現世・当来のことを祈るにその験あらずということ無しというのだ。
置塩城主・赤松則房も「奇なり」とし、則房の奉行人・鳥居安芸守や大路伊賀守によって保護され、寺は大いに栄えたが、赤松氏が阿波に移転すると檀家も減少し、ついには無縁の地となってしまった。
やがて寺は置塩から姫路に移され、河間(こはざま)と言う所に仮の茅舎を結ったのだが、隣家の失火で民家はことごとく焼失、寺も巻き込まれて経典も宝物も全て灰燼となってしまう。
住持の日受はこれを悲しみ嘆いていたが、一両日後に焼け跡から人の声が聞こえるので近付いてみると、聖像が一樹の梢に座しているではないか!
これには万人、感嘆せぬものは無かった。
慶長年中、池田輝政によって寺は現在の場所に移される。
聖像の奇妙を聞いた輝政の令室はこの寺に祈願を修せしめ、毎年佳節ごとに修法の巻数を奉ったためかこの寺にはとにかく奇瑞が多いのだ。
ある時、盗人が寺に侵入した際なども、聖像は声を発し、賊はたちまち逃げ去ったという。
(播磨鑑)
0115人間七七四年
2011/12/23(金) 23:55:53.25ID:w2HOH5sO仏像だけは無事(笑)
善くも悪くも日蓮宗らしくて、いい話だな
0116人間七七四年
2011/12/24(土) 09:39:20.30ID:RE9w6gXM藤堂高虎は、侍臣に語った。
・・・人、あるいはその妻に馴染めないのは、
特に人情と道理に欠けている。
妻は夫に身を委ねて、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても
連れ添って離れないものである。
人情と道理の重きこと、これに過ぎるものはない。
それをも疎んずるほどの者は極めて不人情であり、
頼みとするに足らない。
心得なければならないことである。(聿修録)
聖夜だしね。
愛があれば、たとえ・・・
0121人間七七四年
2011/12/24(土) 13:58:27.34ID:oKwsF5D60122人間七七四年
2011/12/24(土) 13:59:01.99ID:IhOayrgk0123人間七七四年
2011/12/24(土) 14:31:39.68ID:zOZUwXu3これクリスマス的な妻に好かれてしょうがないっすわな恋愛の話じゃなくて、
妻や子供は最後は一家の主人を頼るしかないのだから、
家族を疎んじるような男は頼りにならないという現実的な話だろ?
クリスマスに堅い話して申し訳ないが(笑)
メリークリスマス!
0124人間七七四年
2011/12/24(土) 15:00:26.19ID:krJdR1d4( ´・ω・) みなさん、クリスマスということで休戦しませんか?
( つ旦O
と_)_) 旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦
0125人間七七四年
2011/12/24(土) 15:45:53.55ID:PyOqZD1e0126人間七七四年
2011/12/24(土) 18:05:40.17ID:41tc2wXx白「ホワイトサンタ」
青「ブルーサンタ」
茶「ブラウンサンタ」
黒「ブラックサンタ」
緑「グリーンサンタ」
全員「五人揃って、四天王!」
0127人間七七四年
2011/12/24(土) 18:19:22.09ID:RVFW6dxw0128人間七七四年
2011/12/24(土) 18:55:05.06ID:KUt25q55地味な緑よりこのワシじゃ!」
直家「・・・・・・・・・・。殺るか。」
0129人間七七四年
2011/12/24(土) 18:59:11.73ID:U/N6RtH0それはそうと調べたら緑弾正という人物が長宗我部元親と戦った武将でいたそうな
0130人間七七四年
2011/12/24(土) 19:29:31.41ID:Yl6f52RA0131人間七七四年
2011/12/24(土) 20:04:45.43ID:rIXlvlUm松永久秀とクリスマス休戦は何も関係ない
当時の松永配下のキリシタンの国人が行ったのであって
松永=クリスマス休戦は尾ひれも良い所
松永久秀だからって本当は関係ないのに何でも結びつけるのは間違いだぞ。
これは松永以外の事でも言えるけど
0133人間七七四年
2011/12/24(土) 20:16:57.80ID:Sk23NQyx0134人間七七四年
2011/12/24(土) 21:20:35.49ID:IhOayrgk0135人間七七四年
2011/12/24(土) 22:56:30.18ID:71+Rm/no黄色、桃色、銀色とか思いつかないな・・・
地黄八幡は反則?
とか思ったら「北条五色備」がいたことに気付いた
0136人間七七四年
2011/12/24(土) 23:00:18.83ID:WJGz5thdまとめサイトでは仙桃院とか、織田信秀(戒名が萬松寺殿桃巌道見大禅定門)とか上がってた
261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 03:36:31.30 ID:oig6DICa
>>260じゃあ適当に
黒田官兵衛「黒田ブラック」
赤井直正「赤井レッド」
地黄八幡「北条イエロー」
白鳥長久「白鳥ホワイト」
森長可「森ピーチ」
0137人間七七四年
2011/12/24(土) 23:26:19.75ID:B4Hp9N1r0138人間七七四年
2011/12/25(日) 02:55:48.79ID:fSAjlyieシルバーよしかね
0139人間七七四年
2011/12/25(日) 17:26:44.03ID:J0wjrkZB元文3年(1738年)但馬・円山川流域で大洪水が発生し、小佐郷に大きな石が流れ着いた。
その石は墓石にするには理想的な形状をしていたのだが、高さは1,5m、幅は50cmもあるので、村人たちはとりあえず永源寺の住職・了覚和尚に預けることにした。
その翌年、了覚和尚から村人たちへ一つの提案があった。
「お前達もよく知っているとおり、この小佐郷は120年ほど前には竹田城主・赤松広秀(広通)公によって治められておった。
広秀公は民を非常に慈しみ、この郷が凶作となった時など3年間にわたって年貢を全免してくださった。
さらに、氾濫地には桑を植えて養蚕を奨励されたことで、今もこの地は恩恵に浴し、昨年の飢饉も生糸の収入で乗り切ることもできた。
このご恩を忘れぬためにも、あの石で広秀公の供養塔を作ろうではないか。」
「赤松さん、赤松さん」と広秀のことを語り継ぎ、敬愛してきた村人たちのこと、これに反対する者のあろうはずもない。
早速「乗林院殿可翁松雲居士之墓・前竹田之城主赤松左兵衛廣秀」等の文字を刻み込むと、自分達の先祖によって密かに築かれていた、大森(養父市八鹿町)の墓に据えたのであった。
後には、この墓が雨露に濡れることの無いようにと祠で囲い、祭祀を欠かすことなく今も大切に守り伝えられている。
また、収穫を祭祀の費用に当てるための田畑は「赤松散田」として伝えられてきた。
なお、竹田城下ではこの墓の事を「腕塚」と呼んでいるそうで、
赤松の遺臣や竹田の領民が、広秀が自害した鳥取でその片腕(片袖)を下げ渡してもらい、どうにかして竹田へ持ち帰ろうとしたものの、
城接収のために城下には入れなかったので、やむを得ずこの地に葬ったものだという話が伝えられている。
大森にも竹田にも「赤松さん」への思慕は今なお残っている。
0140人間七七四年
2011/12/25(日) 19:04:54.50ID:ptZR+4GR0141人間七七四年
2011/12/25(日) 20:26:51.40ID:4Mny2YgAおのれ亀井茲矩め
和尚さんGJ
0142人間七七四年
2011/12/25(日) 20:28:17.68ID:ekVvFgtH0143人間七七四年
2011/12/25(日) 21:45:14.33ID:J0wjrkZB「私たちは今でも、赤松さんに治めてもらったことを誇りに思ってるんです。」
という言葉が忘れられません。
0144人間七七四年
2011/12/25(日) 23:10:56.56ID:2LzmoaPT0145人間七七四年
2011/12/26(月) 03:54:43.43ID:71kzmdJL亀井さんが地元の殿様だったから
0146人間七七四年
2011/12/26(月) 07:57:58.18ID:d2WqDJyr竹田小学校校歌(1番)だって。
「虎臥山に 年ふりて その名も高き 赤松の
葉末の雫 むすびつつ 二葉の小松 茂りゆく
学びの園は 千代八千代」
0147人間七七四年
2011/12/26(月) 08:05:29.24ID:Z+T6d6Py0148人間七七四年
2011/12/26(月) 09:20:59.43ID:nCx9g6Lh意味が無いどころか逃げ出して将来の収入増の可能性を無くすので害になる
3年かどうかは知らないが状況に応じてある程度の期間減免はありうる
0149人間七七四年
2011/12/26(月) 10:48:05.39ID:wEUFfWEOさすがに領国全域での全面免除はそうないと思うが
0150人間七七四年
2011/12/26(月) 11:30:15.96ID:8KH1fnb3やっぱ校歌はこういうのがいいよな土地に根ざしてような
おれは新設校の薄っぺらい校歌だったからあほくさかった
大人になって歌詞読んで色々感じられるのがいい
0151人間七七四年
2011/12/26(月) 12:41:28.78ID:azna+/Pd非常に優秀な統治をしていたんだろう。
0152人間七七四年
2011/12/26(月) 16:52:33.19ID:YOViG9M4巷はやれ伊達だ真田だ言ってるけどやっぱりこういう人達が評価されてほしいな・・。
0153人間七七四年
2011/12/26(月) 16:55:32.89ID:YOViG9M4決して隻眼や具体的に何したか分からん人をけなしたわけではないのであしからず・・。
森さんについては否定しません。
0154人間七七四年
2011/12/26(月) 22:37:58.62ID:oagGq/Hn0155人間七七四年
2011/12/27(火) 00:05:55.92ID:q1XTyam50156人間七七四年
2011/12/27(火) 08:53:01.28ID:VpQ0F4Q2あ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
本当にh抜かねらや和末亜ぬやわー。呂な日ぬたに雪見様基地機だに言わん波やぬ針、和マヌやわ。
?leはスク阿智眉夏阿智味ゃらっつぁsな玉置生君か巻きやす湯近間か幕マカ様話チアな湯な比喩てぬそな粉屋な。
巻き右間側沼かいまな体にゃ街化しは山に釜釜釜は可否ら味様様に間は酒屋あや位ユアや草や可否アラ玉さ並木間釜様方マサ隊ユアや穴藤間様に打ち返される。
樓魔寧文へ真帆斃瑜も聾薆を禰伊れ偉ぷ武万葉其方を砂魑ね地魏とぞ廻れ倭嶺、あ蘭魔廼擢と他部釜无劣不ぞ哈密き貯寸那致䄅く釜奴辺戸は善魔慈魔梨た魃厦亜に嘉羅汰鬼戦弥踏み縷魔荼父母夛め都莉鎖圖師苑て魘巍衛恵る木歩雨他琉偉な。
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0158人間七七四年
2011/12/27(火) 13:12:26.91ID:4VVXyXjS父親信虎はなぜか長男信晴(信玄)を疎んじ、
信繁を殊の外可愛がり、家督は信繁に譲りたい、とまで言いだすようになる。
こうなると家臣団も晴信派、信繁派に分かれ武田家の行く末も危ういものと思われた。
しかしこんな中、信繁は信虎から珍しい玩具をプレゼントされた時でも、
「これは兄上様のものです」
と、晴信に届けていたという。
長幼の序を守ると同時に、父に疎んじられる兄を哀れむ仁の心情も多いにあったと思われる。
仁なき忠義は心なき礼儀作法であるが、
信繁には形式化したところはなく真心からの礼儀作法であった。
後、信繁が成人した後、自ら直属の家臣たちに言った。
「信玄様は兄ではない。甲斐武田家当主だ。
間違っても我ら信繁家臣団の者たちは、
信玄様の弟直属の家臣団などと誇ってはならぬ。」
と諭し、
有名な99箇条の家訓の第一にも兄信玄への忠義をあげていることは今に伝わる通りである
0159人間七七四年
2011/12/27(火) 13:16:29.90ID:4VVXyXjS訂正します
父親信虎はなぜか長男晴信(信玄)を疎んじ
0160人間七七四年
2011/12/27(火) 14:02:26.74ID:3dub6oDn信繁が家督を継いでいたら武田家の滅亡は無かったような気がする。
0161人間七七四年
2011/12/27(火) 16:13:58.02ID:tYipOkiR0162人間七七四年
2011/12/27(火) 17:21:39.00ID:7SKW+ANu甲斐の国の貧困を考えたら、誰か家督を継いでも同じ。
というか、信玄だから家康ボコボコにして、信長に本気出させようとする事も出来た。
0163人間七七四年
2011/12/27(火) 18:02:03.20ID:+XVPbf3Y0164人間七七四年
2011/12/27(火) 18:23:51.73ID:aHtAteDc0165人間七七四年
2011/12/27(火) 19:30:11.01ID:7SzPRQKk0166人間七七四年
2011/12/27(火) 19:48:42.10ID:2Phlz4nt0167人間七七四年
2011/12/27(火) 20:03:56.25ID:4VVXyXjS「能力的に兄上にはかなわない」
と言っていたと童門冬二の本にあったよ。
ただ歴史にifはないけど、信玄亡き後に信繁いたら、
武田家の分裂をどうにか対処していた気もするな。
信濃は信繁亡き後、反乱が発生するようになった話もあるし
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