戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話29
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0502人間七七四年
2012/01/20(金) 01:43:27.62ID:XspuTWx2その時国主であった武田信昌はこれを重く見て、悪竜の討伐に数多の武者を派遣した。
武者達は三日三晩、竜王の軍勢と戦ったが、ついに勝利を得ることができなかった。
ボウキノカミが戻ってきて国主に言うには、
「これを武力で征伐することはできません。法力を持って調伏致したく存じます」。
そこで信昌は国中の僧侶・修験者を集めて派遣し、土を盛って祭壇を作り祈祷を行った。
ある晩ボウキノカミが寝ていると、どこからともなく大きな声が聞こえてきた。
「汝はシンジョウというな。ならば汝のまことを信じて頼むのである。ソウダ淵の河原に、
赤と青の大岩が山から落ちて、互いに圧し合っているので、これをどけて欲しい」。
ボウキノカミと村人たちは人をかき集め、この大岩をどけようとした。
ところが余りに巨岩であり、とても地上を転がすことは出来ない。
そこで岩の根本にくさびを打ち、巨木を巻き付け、河原に土手を築いて増水を待った。
やがて大水が出て河原まで水に沈んだ。巨木の浮力と抵抗で巨岩は転がりだし、
なんとかその場所から河下へとゆっくり離れていった。
見守っていた人々が小躍りして喜ぶと、黒い水面から光り輝く巨大な竜女が現れた。
「以前の大地震のとき、私は妊娠の身体で岩に挟まれ、みな非常に苦悶していた。
いま仏の功徳と汝らの労苦によって、ようやく済度を得た。これからは山にこもり、
人の恩に報いるため、子を授け産を安んじて進ぜよう」。
0503人間七七四年
2012/01/20(金) 01:53:38.89ID:XspuTWx2ドラゴンクエスト3 〜そして伝説へ〜
ボウキノカミは、竜神を鎮めたことを国主信昌に報告した。
信昌は大いに喜び、大竜のこもった山に寺を建てた。これが大竜山満福寺である。
いまボウキノカミが袖ごと竜を斬った淵は、袖淵といい、その刀を袖切という。
また、人々はこのあたりを竜王という地名で呼ぶようになった。
その後、国主の妻であった人が、子を授からないのを憂いて入水しようとした。
人がそれを止めて「満福寺の竜神様にお願いしましょう」と言った。
彼女がその通りにすると、やがて子を授かったので岩下殿と呼ばれるようになった。
信縄は大いに喜んで、三度舞った。これが後に武田氏中興の祖となる信虎である。
(「古老は語る-山梨の民話伝説-」から引用した小冊子より、現代標準語に意訳)
なお竜王討伐に乗り出すのが信昌でなくて信玄だったり、満福寺に祈願して生まれた
のが信虎でなくて信玄だったりするが、具体性などから恐らく後世の仮託だと思われる。
また、甲斐国志によると、ドウキノカミというのは山本道鬼齋勘助のことだとあるが、
この説を取るなら、年代的にあり得ない。
ドウキノカミというのは伯耆守とか、主鷹司(ようしのかみ)など官職名の転訛、
シンジョウというのは苗字か法名、或いは諱の有職読みだと考えられる。
年代は戦国時代であるのに、不思議に神話的なお話。
0504人間七七四年
2012/01/20(金) 13:48:09.35ID:w9Xt6lnx記念イベントを開いたが、地元「東奥日報」は12月に「落城400年を
歩く」を連載し、津軽為信に取られた諸城を紹介した(当然ながら
落城は津軽統一戦の過程なので、400年よりもっと昔)。
初回は石川城で、落とした手口は悪い話にある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5509.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2433.html
討死したとも、落ち延びたとも伝えられる南部(石川)高信は地元に
「おらほ(=うち)の殿様」と慕う人が多い。送り盆では松明行列で
高信を慰霊するほか、2004年に弘前中心街に為信の銅像が建てられた
時も町内で集まりが悪く「石川はしょうがない」と催促されなかった。
他にも南部方として為信と戦った滝本重行@大光寺城、北畠顕村@
浪岡城らもそれぞれ地元で根強い人気があり、謀略や奇襲を常とした
為信を嫌う住民もいる。
滅亡、改易となった武将のいた城下はどこも同じかも知れないが、
津軽といっても為信を讃える地区ばかりではなく、敗将もそれなりに
偲ばれているという話。
0505人間七七四年
2012/01/20(金) 15:06:44.85ID:KW58J62k0506人間七七四年
2012/01/20(金) 15:13:10.21ID:X2Bo3mIW0507人間七七四年
2012/01/20(金) 15:22:35.00ID:KW58J62k佐賀辺りは、県としては小さいのにピンだしね〜
0508人間七七四年
2012/01/20(金) 19:53:09.86ID:eOYzXCPFドラクエwww
竜王って地名が今も本当にあるのかwwww
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A2
ロンダルキアってどこだっけと調べてみたら、上九一色村とあるんだがwwww
あと、勇者は袖切の剣をどこで回収したんだろう?
0509人間七七四年
2012/01/20(金) 23:29:26.40ID:iGiKBQjW竜神が村人を苦しめる話は大体、
昔、河が氾濫して村人が苦しんでたって事を意味するらしいね。
で結果治水に成功したんだろう。
0510人間七七四年
2012/01/20(金) 23:54:41.51ID:tqLj9n+t0511人間七七四年
2012/01/20(金) 23:59:21.70ID:ysa3RWeN0512人間七七四年
2012/01/21(土) 00:28:23.96ID:wO1rsch3当然、その女性がなびくわけもなく、為信はその女性も攻め殺した
たしかまとめにあったかな
0513人間七七四年
2012/01/21(土) 00:52:46.22ID:/yrRuGqQ中央から派遣されたテクノクラートが、直轄領でない地域の治水に苦労した話なんだと思う。
ところで、
>>「汝はシンジョウというな。ならば汝のまことを信じて頼むのである
というのは、
『汝は「しんじやう(しんじょう)」という名であるから、私は汝を「しんじやう(信じよう)」でいいんだろうか。
0514人間七七四年
2012/01/21(土) 00:57:43.91ID:/yrRuGqQだね。しかしそういうのは大体は古代の話なのに、戦国に入ってからそれが信じられて、
地名にまで発展するってのも面白い。
このボウキノカミさんが、竜神を漠然と信じる農民をうまく騙って働かせたんだろうか。
ググってみたら、山梨での竜神信仰は明治のころまで盛んだったらしい。
0515人間七七四年
2012/01/21(土) 10:20:08.08ID:jaiZyrYOこっちは領主の娘に恋慕してクレクレするやつ
0517人間七七四年
2012/01/21(土) 19:19:18.63ID:eAk6pBiPこのスレでは『主君家康の鯉を食った男』として名前が出てきた鈴木久三郎。
彼は三方ヶ原の戦いでも従軍していた。
しかし味方は大苦戦、家康もあわやと言うところまで追い詰められる。
見かねた久三郎はこう言い放った。
鈴木「それがしが殿の旗印をいただき、身代わりとなりましょう!」
しかし家康は首を縦に振らない。
家康「お前一人に討ち死にさせて私が落ち延びることなどできん!」
と聞き入れなかった。
すると久三郎、大いに怒って家康に怒鳴りつけた。
鈴木「なんと、馬鹿なことを仰る! いいから貸しなさい!」
久三郎は家康の旗印をひったくると、ただ一人敵のほうへ引き返し、そのまま突っ込んでいった。
その後、久三郎や夏目吉信らの身代わりもあり、家康はなんとか浜松へ帰城した。
しかし、家康の顔は晴れない。
身代わりとなった家臣のことを気にかけていたのである。
家康「久三郎は討ち死にしたか……」
鈴木「殿ー! ただいま帰り申したー!」
家康「なにー!?」
が、久三郎、帰ってきた。
家康は驚くやら喜ぶやらで、久三郎を褒めた。
家康「よく切り抜けて帰ってきた!」
鈴木「いやあ、思ったよりも手強くない敵でした」
久三郎、あの武田軍相手に涼しい顔であったそうな。
身代わりになったと思いきや、生きて帰ってきた猛将のお話。
0519人間七七四年
2012/01/21(土) 22:17:46.44ID:KFOpj+4c. /;;;;;;;;;;;;;;;;;;l
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l ; l ,:'=<_〇,>; ':,く〇,,>,= ' l、.l l
ヽ 、l/ ヽ_ ~ l l ~ / ヽ/./
゙、〈 '、,r‐:l l-、 / /.,ィ,)t、 <ただ退くだけなのに大げさな様子で殿軍を申し出たり
. ヽゝ、 .ゝ,r.、 ,riノ ,r'',r' ! /l、 <手落ち傷を誇らしげに見せにきたり
l.ト //゙;彡三三ミ;ヽ /" / |/ ス <そういう浅はかな覚悟とは違うぞ
__,,,,,,l ヽ リ!''‐´ ''' `ヤリ ./ ノ / ./┴''" ̄ ̄
,,,,,,r'ヽ. ヽ ヽ. / / ノ
| ヽ. ヽ `':、 r‐‐-.、 ,、:' ,イ
. | ヽ. ヽ `'l;;;;;;;;;r'" .t'"', ',
| ヽ ヽ l;;;;;/ 人. ゙,.゙,
| ヽ ヽ. リハ,_,,、-‐''"´/\',.',
l ヽ. ヽ l'! ゝ、-、 \ \゙、
0520人間七七四年
2012/01/21(土) 23:14:24.18ID:1C5mp1ZK0523人間七七四年
2012/01/22(日) 11:01:00.03ID:XwFsKeBUもしかして幼名?
0524人間七七四年
2012/01/22(日) 11:09:29.65ID:DrLWsCnLはっきりしないんだよな久三郎殿
個人的には則定鈴木氏か酒呑鈴木氏あたりの誰かかなと睨んでいる
0525人間七七四年
2012/01/22(日) 11:09:58.61ID:+oBSMM0h幼名。
「いつまでたっても子供っぽいなあ」という、呆れ半分、親しみ半分的なニックネーム。
個人的見解だが、粗暴なところはあるけど、筋は通すし、(酒さえ呑まなければ)優秀だし、
でも、いろんな人にへこまされたり、かみさんに長刀で追い掛け回されたり、なんか憎めないキャラクターの持ち主だと思う。
(もちろん、弁解のしようも無いむちゃくちゃなことをやったこともあるが)
まあ、そんな感じで俺は市松こと福島正則が結構好き。
0526人間七七四年
2012/01/22(日) 11:12:33.87ID:lfcSKi7Qついでにその他の愛称
0527人間七七四年
2012/01/22(日) 12:52:21.90ID:ctTztZGIhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3160.html
藤代御前が立て籠もったと言われる館跡には、この逸話通りに津軽家の
菩提寺である革秀寺が建っている。藤代には地元バスの営業所があって、
青森に転勤してきて、弘前駅前で「藤代(営)行き」という表示のバスを
見た時に「ここか」とこの話を思い出した。
0528人間七七四年
2012/01/22(日) 13:38:15.98ID:XwFsKeBU>>525
おお!詳しくありがとう
何か自分も正則に興味湧いてきたよ
色々調べてみることにする
0529人間七七四年
2012/01/22(日) 14:22:47.98ID:IEQUGWRx名古屋城の御門番所に掛けられている御幕は、福島正則より受け継いだもので、
その紋所は正則の家紋・中貫十文字紋である。
この幕は、元々は清洲城の城門に掛けられていたものであったが、
関ヶ原後の城請取の際に、そのまま改めずに引き継がれたものだということだ。
さて、この門番所には、同様に織田家家紋の入った飾り鉄砲があった。
享保年間に、この飾り鉄砲の紋を尾張家家紋に差し替えるということがあったのだが、
陣幕の方は「今まで中貫十文字紋を使用してきたのだから」ということで、
差し替えられることはなかった。
おそらく今後もこの陣幕は、改められることなく使われるであろう。
(「金城温古禄」)
正則の紋というと、沢瀉紋が有名だと思うが、
中貫十文字紋は「古来用之」とある、福島家のもう一つの紋で、
丸に十文字、十字の交点が白く抜けている家紋
江戸時代の話だが、正則後日談ということで、投下した
0530人間七七四年
2012/01/22(日) 23:57:16.53ID:3POdXiJH肖像画の厳ついイメージの清正が竹松で正則が市松っていう可愛い幼名だったかと思うとなんか笑える
まあ、小姓時代は年相応に可愛いい少年で
ねねやなかに立派な武将になるべく大事に育てられたのだろうが
0531pleaseアフィlink
2012/01/22(日) 23:59:33.53ID:q7X/smashttp://minus-k.com/nejitsu/loader/up156507.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156508.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156509.jpg
0532人間七七四年
2012/01/23(月) 00:28:29.45ID:EKpAdN1W司馬遼太郎なんかは清正や正則の武断派はねね派、三成はじめ近江出身は淀君派って描いてたけど
それとも秀吉の遺訓を守らずに家康と縁組したりして勘気をこうむったんだろうか
0533人間七七四年
2012/01/23(月) 00:36:59.58ID:ysErkBH2というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。
そして淀殿は政治的にはむしろ家康に近く、また三成が旧主筋として尊んだ秀吉の側室は淀殿ではなく、
京極家出身の京極龍子(松の丸殿)だったそうな。
0534人間七七四年
2012/01/23(月) 01:12:50.66ID:7ZXqXj9Aつうか北政所は女性ながら大名並みの封地も所有し、それを徳川に生涯安堵されただけでも普通じゃない
人事や外交に関与した書状も残ってるし政治的影響力が無かったってのは納得できないな
0536人間七七四年
2012/01/23(月) 02:31:39.99ID:H0p29dMAボウキノカミってどこかで聞いたと思ったら、「ドウキノカミ」の逸話が『甲斐国志』二の300にあった。
清里の浅川の南西に道通という場所があり、徳川家康が信州へ移動する時の寝所に当てた。
これは浅川の口留番所であり、逸見路にかかわる平沢口の別道であったので、今でも番所橋という橋がある。
その昔この道を作って砦を築いたのは「ドウキノカミ」という人だったと伝えられている。
これは山本道鬼(勘助)のことだというが定かではない。
武田時代には平沢口へ通じる重要な場所であったために、浅川口番所を儲け浅川と樫山で守ったという。
しかし不便な場所であったので、その後は長沢(調べたらかなり麓の方)に番所が移った。
今の関本屋という商店のある場所が、番所のあった所である。
ドウキ(ボウキ)ノカミさんは、建設普請に優れた人だったんだろうね。
0538人間七七四年
2012/01/23(月) 07:55:50.21ID:tMsrIsrg0539人間七七四年
2012/01/23(月) 09:37:01.78ID:vAlCKIW/> というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。
あんもん勉強不足のキチガイ永井路子が勝手に言い出した事だろ
政略結婚でやって来る嫁を「セックスつきの外交官」などと狂人の戯言みたいな事言い出すし
0540人間七七四年
2012/01/23(月) 09:56:06.56ID:q7T7grj20541人間七七四年
2012/01/23(月) 10:01:17.38ID:I6FWk76y0542人間七七四年
2012/01/23(月) 11:05:36.11ID:EKpAdN1W信雄「燃〜えろよ燃えろ〜〜〜〜〜〜〜よ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
0543人間七七四年
2012/01/23(月) 11:09:31.89ID:JnG48o0C0544人間七七四年
2012/01/23(月) 11:12:53.18ID:nML09O3f0545人間七七四年
2012/01/23(月) 11:15:51.75ID:DtkaCxxJ0546人間七七四年
2012/01/23(月) 11:17:44.67ID:YdtnbgAD0547人間七七四年
2012/01/23(月) 11:23:41.48ID:FwHfxJjc>>546
悪いスレに帰れw
0550人間七七四年
2012/01/23(月) 16:36:19.18ID:88JHLf0b派閥を作ろうにも大阪城の女性たちは後の大奥みたいに日常生活では隔離された存在だったようだから会う機会すらなかっただろう
大政所や北政所には公式な場では面会出来ただろうが
豊臣の奉行や家老ですらない清正や正則は秀吉の権勢が増すにつれ北政所達とは疎遠にならざるを得なかったと思う
関ヶ原後なんかに会ってたら徳川にあらぬ疑いをかけられただろうしね
0552人間七七四年
2012/01/23(月) 16:47:51.26ID:PpsF+v76そしてその影響力は秀吉晩年には既に陰っていて、秀頼の産まれた頃には
北政所を差し置いて、淀殿を「北政所」「北の方」と読んでいる史料すらある。
官位において最も高貴な女性として、秀吉死後も一定の権威は持ち続けていたのはたしかだが、
だからといって大名に大きな影響をあたえるほどの存在ではなかった。と見るのが良いかと思う。
>>537
孝蔵主は北政所配下と言うより、独自のコネクションで動いていたフシがある。
北政所から半ば独立した存在と見たほうがいいかも。奥の人間と言うよりも、女性ながら
秀吉直臣に近い感じなんだよねw
0553人間七七四年
2012/01/23(月) 17:16:14.69ID:tMsrIsrg0554人間七七四年
2012/01/23(月) 17:22:28.55ID:cBK4XWwm西国から差し入れがあったんだ!
0556人間七七四年
2012/01/23(月) 18:11:42.34ID:H0p29dMA0558人間七七四年
2012/01/24(火) 02:58:57.30ID:20b2fHuV実家の力をバックになんて天下人には通用しないし
信長も家康も、特に家康は女が政治に口を出すこと嫌ってるし・・。
0559人間七七四年
2012/01/24(火) 03:32:05.15ID:iOJZHP+10560人間七七四年
2012/01/24(火) 05:23:22.49ID:MJwUdaGo0561人間七七四年
2012/01/24(火) 09:22:47.92ID:fmfMYqzN伍子胥の家は代々呉に仕えていた名家であった。
しかし平王が諌言を受け呉家を根絶やしにすることとし伍子胥の父の呉著と兄の呉尚を殺害され、伍子胥も追手を差し向られた。
伍子胥は楚から逃避行を行い中途、物乞いをして凌ぎ、草の根を齧り、病魔に苦しみ死線をさまよい、
役人の目の逃れるため裏道を通りながらも隣国呉に亡命した。
伍子胥は復讐を誓いその後、闔閭のクーデーターの後に呉に仕え、呉でも頭角を表した。
呉は富国強兵政策で強国となり満を持して楚を攻めたのである。
名将である孫武と楚に詳しい伍子胥がいて尚且つ強兵を抱える呉に
大軍を擁しながらも楚はあちこちで敗退、ついに首都まで攻め落とされてしまう。
楚は絶体絶命のピンチを迎えるのであった。
伍子胥は首都を落とした後、復讐のため自らの父と兄を殺した
平王の墓を暴き死体を鞭で打つ死体を辱めたのである。
この事態を見過ごさなかった忠臣がいた申包胥である。
彼は楚の臣下であり伍子胥の旧友である。伍子胥が楚から逃れるときに同情し伍子胥を捕らえもせず
伍子胥の「楚を滅ぼす」との言葉に「ならば自分は楚守ってみせる」と言い袂を分かった人である。
彼は秦に哀公の元に行き、援軍を頼んだものの断られたのである。そこで宮殿の前で飲まず食わずで7日間泣き続けたのである。
秦の哀公は「楚は無道な国だがまだこのような忠臣がおるから滅ぼしてはならない」と楚に援軍を送り楚は呉を撃退することに成功した。
申包胥は楚の守り神だったのである。
0562人間七七四年
2012/01/24(火) 10:16:25.07ID:/+/fTO2j0563人間七七四年
2012/01/24(火) 11:40:46.56ID:lvrI7p1n0564人間七七四年
2012/01/24(火) 13:18:35.55ID:izby63zwここ意味わからんと思ったら呉→伍の間違いだな
0565人間七七四年
2012/01/24(火) 13:29:35.84ID:A4xpkwUq0566人間七七四年
2012/01/24(火) 13:36:19.55ID:Pi5RYq/n0567人間七七四年
2012/01/24(火) 14:06:24.04ID:GEFrFAW40568人間七七四年
2012/01/24(火) 18:20:40.80ID:20b2fHuV時代も国も違うぞ、ワレェ
0569人間七七四年
2012/01/24(火) 20:49:58.11ID:bZl5g/xf通称「よしだだいはち」って歌を歌って舞いを披露していたんだが、
その歌詞の一番がこんな感じ
「舞鶴山の まつかぜ(?)の音 今も昔もかわりなく」
「郷土を愛し 命を懸けた 我らが誇る 大偉人」
「よしだだいはち その亡骸は 今も我らを見守りつ」
ちなみに二番とか三番もあるらしいんだけど
ぶっちゃけ10年も昔のことなので忘れてしまった…
山形県天童市の幼稚園児に愛されていた謎の人物「よしだだいはち」のいい話
0570補足
2012/01/24(火) 20:54:07.56ID:bZl5g/xf当時の友人が、戦国時代の人とか言ってたので…
ソース元が不確定で申し訳ない
0571人間七七四年
2012/01/24(火) 20:54:52.80ID:hlbOF3Wx謎の人物?
0572人間七七四年
2012/01/24(火) 21:26:04.62ID:yM6wHD8w0573人間七七四年
2012/01/24(火) 21:41:08.60ID:bZl5g/xf山形市から通ってたんで、
将棋駒にこんなに関係する人物だったとは知らなんだ
ありがとう
0574人間七七四年
2012/01/24(火) 21:55:53.04ID:O32M3snt0575人間七七四年
2012/01/24(火) 22:01:01.09ID:rBxaf0+f0576人間七七四年
2012/01/24(火) 22:38:43.12ID:sRo5f9ME信玄と謙信と北条と義元と元康と元就と島津と宗麟と元親と長慶と久秀と道三と義景とで
それぞれ同じ一文をどう解釈したのかなんて面白いと思う
0577人間七七四年
2012/01/24(火) 22:40:05.99ID:5MkHZSCTほんの30年だか40年だかくらい前なんだっけ。墓の発掘で出て来たおかげで判明したとか。
あと孫氏の内容が広く伝わってるのって曹操が整理して注釈つけた奴のおかげなんだよね。
忙しいのによくそんなことまでやるもんだ。
それで思い出したけど、吉川元春が陣中で写本してた太平記も現存する中では原本に非常に
近い形残してるとかですごく学問的な価値があるらしいね。
と無理やり戦国に引き戻してスレ違いをごまかしてみる
0578人間七七四年
2012/01/24(火) 22:46:11.97ID:rYvfJEzi0579人間七七四年
2012/01/24(火) 23:11:20.01ID:u5iZYnBaこれはすごい!
屋敷の中がすべて金で塗られている!
全部の部屋の内外上下、壁の屏風、廊下と縁側、台所に馬屋、厠、ついでに置いてある机や道具まで金塗りだ!
屋根瓦と外壁の瓦は金塗りの上に花柄模様がついてるし!
おまけに全部の屋敷に門が2つずつあって、うち1つは関白だけしか使えない関白専用の門(もちろん金塗り)だ!
2000軒以上も建物のあった上京のほぼ全部がこんな建物で埋め尽くされてる!
これがたった6ヶ月で完成してしまうなんて!しかもいまだに広がり続けてるなんて!
そしてこれだけの工事をしておいて、屋敷の中だけでなく、門の外にさえ一切なんの汚れも痕跡も残ってない!
この世のものとは思えないほど清潔だ!
だけど…えーと…ほら……
こんなの大砲が4門もあれば半日で壊せるから!別に戦闘用に作られてるわけじゃないけど!
あと、ここの外にある京の町はヨーロッパの町より全然ショボいから!こことは直接関係ないけど!
あと、この町はいかにすごくて、所詮お金をたくさん出せば買えるけど、
ヨーロッパの町とか教会には無限の価値があるから!お金じゃ買えないから!
こんな無理矢理作らせた町は、関白が死んだら消えてなくなる気がするし!
繰り返すけど、日本の町が全部こうなわけじゃないから!
これから日本にくる新任の宣教師は勘違いしないように!
安土城や大坂城は手放しで賞賛しているのに、なんでこんなに真っ赤になって否定するのか。
フロイスのこの記述から、聚楽第がいかに凄い建築物だったかが逆説的にうかがえるのである。
0580sage
2012/01/24(火) 23:28:43.56ID:80/CUFp6陶晴賢の大叔父にあたる陶弘詮は、各地から『吾妻鏡』の写本をかき集め、自分で校訂。
その写本が、その後吉川家に渡り「吉川本」となって今に伝わってる。
そして、今ではこの吉川本が、『吾妻鏡』の最善本とされてるのよね。
他にも、吉川経基は趣味が禅問答、愛読の書が『元亨釈書』という文化人。経基筆の『元亨釈書』も吉川家に伝わってる。
こう見ると、吉川家って本当に史料の宝庫だよね。
ってか、元春の『太平記』が少し霞んで見えるような気も……。
0581人間七七四年
2012/01/24(火) 23:31:53.33ID:80/CUFp60582人間七七四年
2012/01/24(火) 23:50:33.41ID:tR2JMIjmフロイスの日本史は面白いよね
日本の権力者のなかでも秀吉が下賤の出だって内心で小バカにしたりして血統を重んじる西洋人の感覚が丸出しだったり
仏教も宗派によって邪宗だって貶める一方で
貴重な仏像とかうっかり書いちゃったり
ちゃんとした学僧の悪口はかかなかったりで読みながらフロイスの腹の底を探るのが楽しい
0583人間七七四年
2012/01/25(水) 00:45:48.03ID:qXk8QNMS0584人間七七四年
2012/01/25(水) 01:08:08.03ID:8OTx067s0586人間七七四年
2012/01/25(水) 05:35:47.49ID:2+GdgyCD0587人間七七四年
2012/01/25(水) 08:59:18.42ID:MIp6tndCこれが家康流出版ビジネスか
0588人間七七四年
2012/01/25(水) 11:43:39.01ID:lx9tGg+e0589人間七七四年
2012/01/25(水) 11:47:34.26ID:REPIzGSg血統を重んじるのは日本も同じ。
「日本の祭祀はすべて悪魔によって考案された」と書いているよ。
貴重な仏像もあるのは事実だし、布教を邪魔しない人については特に何も書く必要もないだろう。
0591人間七七四年
2012/01/25(水) 12:20:43.18ID:PKYnQ7s3直家・秀久・元就・為信「では我が郷里の銘酒でも」
六韜なんて和訳版すら見た事ないが、こんなことまで書いてあるのか。
0594人間七七四年
2012/01/25(水) 13:52:43.82ID:wNeS96voそのたびに弾正の陰謀と言われてたけど、
実は十河あたりの陰謀だったりして
0595人間七七四年
2012/01/25(水) 18:53:21.76ID:ackwj7cA十回秀久or久秀って言ったらどっちがどっちか分からなくなるわ
0596人間七七四年
2012/01/25(水) 19:21:06.66ID:JdTtOPNgセンゴクさんは秀吉より地位が低かったから「秀久」
0597人間七七四年
2012/01/25(水) 20:25:25.78ID:kVqEqsdV0598人間七七四年
2012/01/25(水) 20:32:17.26ID:wJtVSMIX0599人間七七四年
2012/01/25(水) 20:33:15.44ID:EiFFBlZo織田秀信:秀吉の偏諱をうけている
曽祖父と曾孫でややこしい
0600人間七七四年
2012/01/25(水) 21:25:09.53ID:CCveSuNi■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています