戦国ちょっといい話30
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0403人間七七四年
2012/01/12(木) 21:20:48.78ID:MDNpxjbRこんな格好した、鴨居に頭ぶけるようなオッサンが居たら笑うしかないな
http://webgalerie.chez-swan.net/galleries/Films_d_animation/Kiki_la_petite_sorciere/Kiki_la_petite_sorciere_01.jpg
0404人間七七四年
2012/01/12(木) 22:25:15.86ID:Tx1ux6yLこれには景勝公も苦笑い
0405人間七七四年
2012/01/13(金) 02:38:35.26ID:AY2+RVW6水野勝成
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300543875/
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 00:36:35.50 ID:hkBIrevH
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/akiyama_yumi/017/index.html
水野勝成の武将としての功績は現在多くの方が著されているが、
古くは勝成の逸話をおさめた『宗休様御出話』という史料が残されている。
ひとつには、家中の軍功のある者や、古くから仕えている家臣の病が重いと聞くと、
勝成はその家まで見舞いに行き、みずから薬を与えたという。
また、家中の者は、安芸や京、大阪、伊勢へは御暇願を出さずとも、
老中へ届け出るだけで自由に遊覧できた。帰ると、勝成に土産を差しだし、世間話をした。
勝成はその者に、無事であったかとか、旅の様子など楽しく聞くのだが、
その際自分の側近衆も家中も差別なく待遇したという。
若い頃の自らの放浪を懐かしむような、温かい目線であったことだろう。
ある藩士が事情があって、紀州徳川家に仕官し、紀州から照会があった折り、
勝成は「福山藩では望み通りの知行がやれなかった。しかし召し上げれば、役に立つ者である」
と往信した。他の藩に仕官する者にもそうであった。
武士に奉公構え(他の藩に仕官できないようにすること)は無理な仕置きである。
主将の道には慈悲に欠けてはならないと言っていたという。
自らが奉公構えを出され苦労した経験が、見事に活かされている。
このような数々の逸話は、勝成がいかに家臣や領民にとって良き統率者であったかを語っている。
豪胆にして繊細、勇猛果敢な武将にして有能な為政者、
そしてその人間味あふれた人物像が浮き彫りになればなるほど、彼の虜になってしまう人は
現代においても多くいる。
分断された南側に今も建つ賢忠寺には、勝成の甲冑や肖像画、頭髪、茶碗、砂時計など
多くの遺品が所蔵されている。
水野勝成の功績や人柄と共に、広く公開されればと願う。
0406人間七七四年
2012/01/13(金) 03:38:40.89ID:tpp8ttnJ0408人間七七四年
2012/01/13(金) 10:03:34.94ID:Y7hHO2Km水原は兼続や慶次郎などよりも
落日の上杉家に清涼感を与えてくれた気がする
もっと顕彰されないだろうか
0409人間七七四年
2012/01/13(金) 11:38:52.40ID:kzahPtmK0410人間七七四年
2012/01/13(金) 11:38:54.06ID:qarJKv0c戦国の世の中を生き残るには水野タイプか立花タイプが一番いいみたいだな。
とにかく中途半端はイカンな
0411人間七七四年
2012/01/13(金) 11:53:59.86ID:/3eBJAHo豊国「そうそう」
0412人間七七四年
2012/01/13(金) 14:27:51.70ID:jtoSXHovその二人は実力と運と人脈に恵まれて、たまたま生き残っただけで
戦国時代には無数の勝成・宗茂もどきの屍が転がってたと思う
0413人間七七四年
2012/01/13(金) 15:11:10.20ID:qzUCVkDt直江は上杉と徳川が対立した原因を家康にも景勝にも求められなかった人たちが
江戸時代にスケープゴートにしただけで本人は基本的に忠臣じゃん
直江状も爽快な文章だとして広まったもんだし
水原や安田が直江と対立したような話も
出所は直江を悪臣にして徳川上杉叩きを回避しようとした話が元だし。
0414人間七七四年
2012/01/13(金) 15:25:35.16ID:gU7lqkXF0415人間七七四年
2012/01/13(金) 15:34:27.22ID:8NJoN/ZK0416人間七七四年
2012/01/13(金) 18:14:58.81ID:QXtAUjp+0417人間七七四年
2012/01/13(金) 18:17:25.01ID:AY2+RVW6それどころか家康の権威を素直に認めたものだとか何とか。
そうなるともうわけわからんw
0418人間七七四年
2012/01/13(金) 18:41:06.31ID:l0leCNf5結果としてその意思決定のために国が害を蒙ったら(武田→国が亡んだり、上杉→石高が激減したり)、
後世非難されたり、嫌われても仕方がないと思う。
国の指導的立場にある人の宿命でしょう。
直江状も、その後がうまくいっていれば、時の権力者に啖呵を切った爽快な文書として素直に受け取れるけど、
結果、主君に土下座させることになったわけだから、
身の程知らずが書いた愚かな文書、と受け取る人がいてもしょうがない。
0420人間七七四年
2012/01/13(金) 20:23:08.83ID:U6GkUUgF跡部勝資は本当に可哀想な人間だと思うぞ
側近の同僚だった山県昌景、原昌胤、土屋昌次が一時期にごっそり死んでしまったからな
0421人間七七四年
2012/01/13(金) 21:02:47.08ID:l0leCNf5基本的に異論はない。跡部勝資の人生は、個人的には気の毒だったと思う。
才幹能力と地位にミスマッチが生じたのは、
偶然と勝頼の人材を見る目のなさに起因していて、そういう意味では跡部勝資の責任じゃないから。
ただ、それなりの地位に就いた人が、その地位に見合うだけの能力がなかったってのは、
現実のステイクホルダーにとって、可哀相で片づけられない不幸だと思う。
前に土屋昌恒の逸話で、跡部勝資の判断の行き当たりばったりさが「無分別」だと激烈に非難されてたけど、
それはやむを得ないことだと思う。
一国の指導者層の人間が、判断を誤って国を滅ぼして、それでも非難されないとしたら
歴史から学ぶことは何もなくなってしまう。
うん。立派な長文スレ違いだw
お詫びに何か出せる逸話がないか、手元史料を探してくるノシ
0423人間七七四年
2012/01/13(金) 23:11:11.28ID:VwcasYXl0425人間七七四年
2012/01/13(金) 23:17:50.33ID:Bgkzh0Vu0427人間七七四年
2012/01/14(土) 00:36:51.36ID:SiGmPcGW1550年末、山口に滞在していたフランシスコ・ザビエルは、布教のために京へ向かった。
この年は寒気が厳しく、雪が膝丈まで積もっていた。
道中、この雪で難儀していた男がザビエルに言った。
「あなた方は天竺人なら、なぜもっと雪を少なくするように言ってくれないのか」
当時、日本人の中には『天竺は天にある』と考えている人がいたのである。
0429421
2012/01/14(土) 01:37:52.74ID:AoiLY2l10432人間七七四年
2012/01/14(土) 02:00:34.07ID:WP5ixwv90433人間七七四年
2012/01/14(土) 02:03:40.78ID:AoiLY2l1北条夫人の最期(上)
北条氏康の6女とされる北条夫人は、長篠の戦いに敗れ劣勢に陥った武田家が、
外交関係を立て直すため北条氏との同盟を回復したのに伴い、天正5年に正室として武田勝頼に嫁いだ。
このとき勝頼31歳、北条夫人14歳。親子ほど年が離れた夫婦であるが、その仲は睦まじかったといわれる。
しかし、御館の乱における武田家首脳部による外交判断のミスにより、
北条夫人の実兄上杉景虎は上杉景勝に敗北し自害、北条家と武田家の同盟関係も破綻してしまった。
大名間の同盟に伴って相手国に嫁いだ姫は、
その同盟関係が破綻すると離縁して実家に戻るのが当時一般的であったが、
北条夫人は自らの意思で武田家に残ったといわれる。
そんな仲睦まじい勝頼夫妻にも最期の時が訪れる。
天正10年、織田信長の侵攻により、武田家の統治体制は瓦解、
本拠地韮崎の新府城を脱出し郡内岩殿城へ向かった勝頼主従は、
小山田信茂の裏切りに合い進退窮し、天目山の麓田野で自害することに決した。
勝頼は、ここまで付いてきた北条夫人に、安西伊賀守らを使いに出してこう伝言させた。
「武田家一門の命運は今日を限りとなりました。あなたは女性なのだから自害する必要はない。
幸いここから小田原へは道も険しくないので、どんなことをしてもあなたを無事にご実家へ送り届けます。」
北条夫人はこれを聞いて、
「なんと嘆かわしいことをおっしゃるのでしょうか。前世の縁が浅くないからこそ、夫婦の契りは深いものなのです。
たった一夜であっても、お互いのために命を捨てられるのが夫婦の仲なのに、
私たちは契りを結んで今年で7年にもなります。
たとえ小田原に落ち延びたとしても、あなたが末の露と消えてしまうのに、
私だけが残っても何の意味もありません。
元より夫婦は二世の契りと申します。ここで共に自害して、死出の山も三途の川も手に手を取って渡り、
来世でも共にありたいと願うのが私の本心です。」
とおっしゃって、全く小田原へ落ち延びようとなさらない。
更に女官に向けて
「長い歳月、一人の子も出来なかったことを悲しんでおりました。
神や仏に、子が出来ますようにと祈っておりましたが、今となっては、子がいなくて良かったと思っています。
幼い子がいれば、大層思い悩むことになったでしょうから。」
と穏やかにおっしゃる様を見て、哀れに思わない者はいなかった。
0434人間七七四年
2012/01/14(土) 02:05:58.87ID:AoiLY2l1この時点で、北条夫人の供の者もあらかた逃げ失せており、
早野内匠助、劔持丹波守ら4名が残るばかりであった。
北条夫人は彼らを呼び寄せこうおっしゃった。
「皆が散り散りになるなか、貴方たちがここまで御供してくれたこと大変嬉しく思っております。
ただ、後の弔いのため、何とかして手紙を小田原に届けたいのです。
もし手紙を届けてくれれば、貴方達が最後まで御供してくれるよりどれほど嬉しいことでしょうか。」
しかし、早野らも
「妻子を捨て、ここまで御供したのは、姫の最期を見届けるためです。
ここから小田原へ帰るなど断じて出来ません。」
と首肯しない。
これに対して北条夫人は、
「あなたたちを小田原へ返すのに格別の理由はありません。
私は女ですので、私がどのような場所でどのように死んだかと、小田原の者達は気にするでしょうから、
最後の様子をお知らせしておきたいのです。
それと、北条家は代々武門の家ですので、女ながらも、見苦しい最後ではなかったと、皆へよく伝えてください。」
とおっしゃって、手紙をしたためて、髪を少し切り、手紙に添えて渡そうとなさったので、
早野らは力及ばず受け取るしかなかった。
そうこうしているうちに、勝頼より、北条夫人の御座所は鉄砲の射程距離に入っているので、
少し引いて岩陰に隠れてくださいと使いがあった。
しかし、北条夫人は
「身を惜しみ、命を惜しむときであれば、矢鉄砲から避けもしましょうが、
一時も早く消えばや、と思っている身の私が、岩陰に隠れてどうするのです。」
とおっしゃって引こうとしなかった。
この思い切った様子に、女性にも関わらず誠に強健なお心をお持ちの方だと、
兵たちは一層勇気づけられ、最後の進軍をしたという。
0435人間七七四年
2012/01/14(土) 02:11:45.14ID:AoiLY2l1やがて、北条夫人は、正面で戦闘が始まったと聞くと、西に向かい念仏を高らかに唱え、
「勝頼様はどこにいらっしゃいますか。私は先に自害いたします。
お急ぎください。お待ち申し上げております。」
というお声を最後の言葉にして、脇差を胸元に突き立て、
声も立てずに衣で顔隠して御倒れになった。
そのころ勝頼は、4、5人の敵と渡り合って戦っていたが、
秋山紀伊守より北条夫人が自害したと聞き、北条夫人の元へ引き返した。
勝頼は北条夫人の枕元へ立ち寄ると、衣を除けて顔をご覧になった。
北条夫人の雪のような肌は血に染まり、化粧も消えかけ、朝顔がしおれたような風情になっていた。
剛健で知られた勇将の勝頼も、悲しみのあまり北条夫人の顔を二目と見ることが出来ず、
涙に暮れ心乱れたのも無理がないことであったろう。
ややあって、涙を押さえて、北条夫人のお顔をかき抱くようにして自身の膝に乗せ、
北条夫人がまるで生きているかのようにこう語りかけた。
「不意にこの大乱が起きて、
そうであってもなんとか反撃しようと思っていたが、結局立て直すことができなかったよ。
それだけでも情けない思いをしていたのだが、
最後にこのように涙に沈み切ってしまうほどの悲しみを味わうとは。
暫く待っていてくれ。死出の三途の川を、手を取って共に渡ろうぞ。」
勝頼は北条夫人に突き立てられた柄まで赤く染まった脇差を抜き取ると、
その脇差で自身の腹を十文字にかき破り、
はらわたを掴んで四方へ投げ捨て、北条夫人と同じ枕に倒れ伏し絶命した。
なお、小田原への手紙を託された4名のうち、劔持丹波守は、一人も北条夫人のお供をしなければ、
あまりに聞こえが悪いとして、小田原へ帰らず田野で討死したとも伝わる。
小田原に遺髪と共に届けられた北条夫人の手紙には、以下の辞世の句が詠まれていた。
黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思に消ゆる 露の玉の緒
乱世に消えた彼女の「思」とは、勝頼への想いであったのだろうか。
以上、「甲乱記」より抜粋、雰囲気訳で。
北条夫人の最期は、理慶尼記に記載されたものもなかなか趣深いのだけれど、
仏教色が強すぎて、さらっと訳すと趣きがなくなるので、こちらを紹介しました。
長文失礼いたしました。
0436人間七七四年
2012/01/14(土) 02:23:17.28ID:rx8PcQ52泣いた
残念だったがなんと立派な最期なんだろうか
この夫婦の人柄が垣間見える話だなぁ
0437人間七七四年
2012/01/14(土) 03:39:29.53ID:qnI6JcJv0438人間七七四年
2012/01/14(土) 04:12:40.26ID:3aoZ5wqkこれと思った男の側で死ぬのもまた、女の花道よ。
しかし、四郎さんも年の差夫妻だったとは知らんかった
0439人間七七四年
2012/01/14(土) 07:39:15.36ID:COCtoorz0440人間七七四年
2012/01/14(土) 09:15:24.64ID:oZElkRTa※前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1316767827/鬼の女房に何を期待しているのやら
0441人間七七四年
2012/01/14(土) 14:02:35.26ID:WP5ixwv9勝頼らは首を信長に送られてるんだが北条夫人の遺体がどうなったかについてどこでも読んだ記憶がないんだが・・・
氏康が生きてたら怒るだろうなと思ったけどそもそも結婚させないか
0442人間七七四年
2012/01/14(土) 14:58:04.11ID:rWOLSkhk妹かと思ったら松姫でがっかりしたという話があったような。
0443人間七七四年
2012/01/14(土) 15:15:36.59ID:I+iO/EFY凄く凛としたイメージがある
幻庵さんの教えにもある通り、一族の女性として徹底されてるんだろうな
0444人間七七四年
2012/01/14(土) 15:24:34.91ID:4LFd4BvB0445人間七七四年
2012/01/14(土) 17:21:28.65ID:AoiLY2l1武田勝頼と天目山で殉死したその家臣らの菩提を弔うために建立された景徳院には、
勝頼夫妻の御墓とは別に没頭地蔵尊という史跡があって、
そこに首を失った勝頼、信勝のご遺体と北条夫人のご遺体が葬られているといわれているから、
北条夫人のご遺体は現地で葬られたとみてよいのではなかろうか。
0446人間七七四年
2012/01/14(土) 18:09:29.39ID:Txb+Pfqc北条嫁道連れの勝頼
0447人間七七四年
2012/01/14(土) 21:55:12.25ID:jMjEl+zA嫁の実家があるから返そうとしてずるずるそっちにつられたのか
信濃育ちの勝頼なら信濃方面に逃げたそうだが武田の当主としては甲斐は捨てられなかったか
景勝とか真田を巻き添えにしたくなかったか 嫁はどうせ景勝とか嫌ってそうだしな
0448人間七七四年
2012/01/14(土) 22:57:04.17ID:F5NdAd6S0449人間七七四年
2012/01/14(土) 23:07:59.55ID:floe4nr2少なくとも勝頼の嫁は助かっただろうけど
0450人間七七四年
2012/01/14(土) 23:10:40.73ID:jMjEl+zA0451人間七七四年
2012/01/14(土) 23:37:42.19ID:2CNYQG+B0452人間七七四年
2012/01/14(土) 23:43:33.63ID:F1o5IB5w0453人間七七四年
2012/01/15(日) 00:17:04.49ID:owoKT2iQ0454人間七七四年
2012/01/15(日) 00:23:15.57ID:RLEc3Yw50455人間七七四年
2012/01/15(日) 00:31:07.08ID:sB7d7dwk0456人間七七四年
2012/01/15(日) 00:57:38.40ID:njmSC6Lb0457人間七七四年
2012/01/15(日) 01:25:22.78ID:mVctGRs10458人間七七四年
2012/01/15(日) 01:58:21.11ID:yBz6KDJD0459人間七七四年
2012/01/15(日) 11:00:18.06ID:M7BTWqv90460人間七七四年
2012/01/15(日) 11:03:37.21ID:KmVqosCO0462人間七七四年
2012/01/15(日) 11:29:28.71ID:LxS+m1+T0463人間七七四年
2012/01/15(日) 11:57:50.18ID:JpRkT9YY出身:阿波国、勝瑞館東方の守将として活躍、勝瑞城落城後、江戸へ
0464人間七七四年
2012/01/15(日) 12:48:14.66ID:kZ5edQlN0465人間七七四年
2012/01/15(日) 13:03:50.17ID:sB7d7dwk0466人間七七四年
2012/01/15(日) 13:21:10.25ID:ufJ/ZaY+0467人間七七四年
2012/01/15(日) 14:17:58.79ID:PnXnnzPl彼はその頃、備中にあった。
ある夜、夢のなかに新九郎は、吉備津宮の明神から、太刀を賜った。
翌朝、見知らぬ人物が現れ、彼に『毘沙門』の文字が彫られた太刀を持ってきて、
これを新九郎に与えた。そして
「後日、この太刀によって僥倖を必ず受けるだろう」
と言い残し去っていった。
それより新九郎はこの太刀を、類題の重宝として大切に扱った。
その後、新九郎は伊勢に居住した。文明年間は意図せずに得た護符を、
太刀と共に家の中に丁重に納めた。これらは今(寛永期)に至るまで北条家に伝わるという。
長享年間、新九郎は駿河に趣き、姉の子である今川氏親に仕えた。
氏親は彼を、興国寺城に置いた。
(寛永諸家系図伝)
伊勢新九郎に僥倖を与えた、吉備津宮明神の太刀、という話である。
0469人間七七四年
2012/01/15(日) 14:42:38.92ID:vdvFJhDw0470人間七七四年
2012/01/15(日) 18:34:14.48ID:VuOO3RbO0471人間七七四年
2012/01/16(月) 01:46:03.24ID:YL6C6JHoって笑われたが未だに理由が分からないorz
それはそうと、こういう夢のなかで神様から太刀を受け取ったって逸話は多いけど
実際には夜、家臣がこっそり太刀を枕元に置いておいて
、次の日「きっとこれは神が(ry」とか言いつつ主君の士気を高める
…とかありそうな気がするのは自分だけでいい
まあ逸話と史実は違うし、無理に現実的に考える必要はないのだがw
0474人間七七四年
2012/01/16(月) 10:49:52.19ID:eymfK7ns0475人間七七四年
2012/01/16(月) 10:56:22.77ID:UMtwRRff政宗から義光に送られてきた紅茶の茶葉をひじきだと思って食べちゃった、て逸話とは
多分関係ないんだろうな
0476人間七七四年
2012/01/16(月) 11:17:25.92ID:UMCm6O+O0477人間七七四年
2012/01/16(月) 11:57:46.24ID:Z7H2vYjl0478人間七七四年
2012/01/16(月) 13:09:33.96ID:p91pD8I1義光「ムシャムシャしてやった」
04791/2
2012/01/16(月) 17:59:25.82ID:nEbxNjIs天文19年(1550)7月、塩尻峠で武田晴信に敗れて以来、衰退著しい長時は、祈願寺である兎川寺の住職を訪ねた。
「和尚と会うのも、これが最後となろう。」
「やはり、いけませぬか。」
「うむ。無念だが、武田には勝てぬ。信濃を落ち延び、上方で助力を請う。・・・和尚に頼みがある。」
「承りましょう。」
住職の了承を受けた長時は、一株の見事な牡丹を持って来た。
「わしは、花が好きじゃ。この地を落ちるは、当家存続のため仕方ないとしても、わしが手塩にかけた花を
武田の奴輩に踏みにじられるのは、我慢ならん。
そこで、わしが特に気に入りの白牡丹、この寺で育ててはもらえまいか?」
住職は申し出を快く引き受け、長時は居城を焼き払い、山中を隠れ行き、上方目指して去った。
長時の残した白牡丹は住職が大切に育て、住職亡き後も、牡丹の話を住職から聞いた兎川寺檀家の久根下氏が
『殿様の白牡丹』と呼んで、密やかに守り続けた。
04802/2
2012/01/16(月) 18:00:10.48ID:nEbxNjIs昭和32年(1957)、小笠原氏本貫の地・松本市の市立図書館長に就任した忠統を、一人の青年が訪ねて来た。
「“殿様”、よくぞお戻りになられました。今こそ、これをお返しいたします。」
「これは・・・?」
青年の名は、久根下栄一。『殿様の白牡丹』を守り続けた、久根下氏の末裔であった。
栄一は、小笠原氏も一時居城とした松本城に、この牡丹を株分けする事を提案し、忠統もこれを快諾、
牡丹は松本城本丸庭園に移植され、『小笠原牡丹』と呼ばれるようになった。
戦国乱世の兵火を逃れ、400年の時を越えた『小笠原牡丹』は、今も松本城で美しい花を咲かせている。
ttp://www.shinmai.co.jp/flower/200005/00052302.htm
ttp://www.oshiro-m.org/quiz/g1_4.pdf (PDF注意)
0481人間七七四年
2012/01/16(月) 18:24:20.42ID:kVgPYhsu0482人間七七四年
2012/01/16(月) 18:40:24.10ID:LqaT6squ0484人間七七四年
2012/01/17(火) 00:57:33.45ID:WAh17nbXこんな見事なの、よくぞ守ってくれたねえ。
小笠原長時も久根下さんもいい仕事をなさったわ
0485人間七七四年
2012/01/17(火) 10:07:32.88ID:zEzPJ5T9旧主の小笠原家に託されてずっと貴方達の目に触れないように
守ってきた牡丹を株分けに行きますとは時代的に言えなそうですよね。
後で知られても面倒になりそうだし。
0486人間七七四年
2012/01/17(火) 12:16:20.88ID:y5jQAZXY0487人間七七四年
2012/01/17(火) 19:53:27.42ID:frhW3ahoでも、逸話の中にもあるように、小笠原長時の息子、小笠原貞慶は
1583年からの2年間、松本の領主だったこともあるわけで。
さらにその息子、小笠原秀政も1613年から松本の領主だし。
なぜその時ではなく明治維新まで待ったのか、激しく疑問。
0489人間七七四年
2012/01/18(水) 00:29:03.58ID:XB8+aVzd0490人間七七四年
2012/01/18(水) 01:34:01.55ID:xwullzVz先祖の名を借りての売名行為だろうなと思う
そうだとしても
いい牡丹が広まるならそれでいいことかもしれないしな
0492人間七七四年
2012/01/18(水) 13:47:05.32ID:2y+dcaG40493人間七七四年
2012/01/18(水) 19:52:35.75ID:fI82nRiW0494人間七七四年
2012/01/18(水) 23:11:45.33ID:gLtHvzOZつくり話も必要だよな
0495人間七七四年
2012/01/18(水) 23:56:35.09ID:dAE1MDAq0496人間七七四年
2012/01/19(木) 00:07:20.58ID:rz6fE7kD墨俣城は平成19年に26,379人
これはどんなもんなんだろう
0497人間七七四年
2012/01/19(木) 20:27:17.62ID:o3UKwLsP0498人間七七四年
2012/01/20(金) 00:26:07.31ID:3I1sSiA1あそこは桜並木があって花見シーズンにはそれなりに賑わうから、その人数をカウントに入れてそう。
0499人間七七四年
2012/01/20(金) 01:01:54.39ID:D+3sOqhPそも、博物館の平均入館者数は平成19年度で4.93万人だから(一部がものすごく底上げした結果だけど)
こんなもんなんじゃないの
うん、スレチだな
0500人間七七四年
2012/01/20(金) 01:32:53.07ID:K+caqm2pあるんじゃないの
0501人間七七四年
2012/01/20(金) 01:39:07.28ID:XspuTWx2人から犬に至るまで戦闘力が高く、ロンダルキアに例えられる甲斐であるが、
なんと戦国時代初期にはドラゴンまでが多数生息し、人はその頭を竜王と呼んだ。
ショウキョウのころのことである。甲州巨摩郡に貧しい村があった。
ある時戦があり、道に迷ってボウキノカミという武士がやってきた。
村人達は宿をしつらえ、村を挙げて彼を歓迎した。
夜半、ボウキノカミは大きな物音に驚いて飛び起き、何事かと尋ねた。
村人はこれは大竜が叫び暴れている音なので、心配いりませんと答えた。
「なんと珍しい話だろう。それならば私が成敗して参らせよう」
といって、ボウキノカミは広い河原を歩いて行き、黒い淵をのぞき込んだ。
すると水面に泡が立ち、巨大な竜が躍り出て襲いかかった。
ボウキノカミは少しも慌てず、弓を引き絞り矢を放つと、矢は竜の片目を射貫いた。
竜は一度淵に沈み、これで落着かと思われたが、再び躍りかかってボウキノカミの
袖に食らいつき、彼を水の中に引きずり込もうとした。
ボウキノカミは刀を抜き、竜の鼻先を袖ごと両断した。
竜は刀を鼻先に食い込ませたまま再び淵に沈んで、ついに浮かんでこなかった。
ボウキノカミが「確かに大竜であった」と言うと、
村人は「あのような竜が数知れずおり、さらに巨大な竜王がいるのです」と答えた。
ボウキノカミは驚いて、「それでは私の手に負えない」と言った。
村人は「ありがとうごした」と言って彼をねぎらい、別れを告げようとした。
するとボウキノカミは、
「この貧しい村が私を歓待してくれた礼に、国主信昌公に申し参らそう」と言った。
村人達は相談して、嘆願状を作った。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています