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【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX
スレ分散しても過疎るだけなので、
徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。

人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし

人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0767人間七七四年2012/03/03(土) 16:43:46.92ID:uLwCquW3
今川人質時代の松平竹千代を「武家の棟梁」と呼んだから皆が違和感持ったんだよ。
そもそもこの時期の「三河武士の棟梁」と呼べる存在は吉良氏か今川氏でしょうね。
0768人間七七四年2012/03/03(土) 16:57:36.39ID:ho1A3f3c
>今川人質時代の松平竹千代を「武家の棟梁」と呼んだから皆が違和感持ったんだよ。
それは文脈読んで解説した>>711 にやり込められてファビョってるお前だけwww

「殿様」ってだけで万石以下の旗本は違う!とか言い出す
お前の柔軟性の低さは精神障害者レベル( ´,_ゝ`)
0769人間七七四年2012/03/03(土) 17:23:46.28ID:OX2I5gse
それでいいから早く三河武士を糾合できる権力だったって証明しろよ
0770人間七七四年2012/03/03(土) 18:01:58.19ID:pCMMalS5
松平一門ですらまとめ上げられてないのに、三河一国を糾合とか大きく出たな
0771人間七七四年2012/03/03(土) 18:33:06.43ID:ho1A3f3c
岡崎松平以上の三河勢力って、具体的にどこがあったの?
0772人間七七四年2012/03/03(土) 23:26:17.52ID:OX2I5gse
そんなことも把握せずに棟梁なんて言ってたの?
程度が知れるな
0773人間七七四年2012/03/03(土) 23:43:28.32ID:BAFpxZav
>>766
え、既に出してるけど?
『神皇正統記』の記述と武家伝奏について
特に武家伝奏なんて>>752で挙げたのに
逆に反証に挙げられてどんな気分だった?
織田政権下で武家伝奏が設置されたって知らないのに
武家伝奏云々なんて言うから墓穴掘るんだよ

で、もう一度聞くけど「室町時代に“武家”といえば“足利将軍家のみ”を指す」という根拠は?
現代の歴史用語として「武家」が「武士階級」という意味で定着してるのに、
敢えて室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
答えられない、ってことで良いんかな
人様にソース聞くだけ聞いて自分は何も知りませんってそれは話通らないと思うな
0774人間七七四年2012/03/03(土) 23:47:16.46ID:BAFpxZav
ついでにもう一つスレ違いを承知で指摘しておくと

>>758
>信長自身が幕府機構を相当程度継承してるだけだろ
>脇田修もそう指摘してる
>京都所司代なんか好例
織田政権の京都所司代は室町幕府の「所司代」とは全く性格が違うし
(前者は天下諸色すなわち京都の政務統括、後者は検断沙汰すなわち刑事事件の検挙断罪)、
室町幕府の所司代が応仁の乱以後廃絶されて100年以上経ってから設置されたもの
どこの「脇田修」が信長の京都所司代が室町幕府由来だって言ってるの?
とりあえず脇田氏の名前出したといたらレスに権威付けできるとでも思ってんすかね
0775人間七七四年2012/03/04(日) 00:02:42.04ID:uLUYfoes
>>772
お前が知らないのは確定できた( ´,_ゝ`)
0776人間七七四年2012/03/04(日) 00:39:05.87ID:W6YBj3gj
>>773
おいおい今度は改竄か?w
どこに将軍家”のみ”なんてレスがあんだよw
限定したのは>>751、そして>>751は松平をさして武家の棟梁といってるやつ
対して>>766はそれを否定してる
なんで>>751と対立する意見の持ち主が>>751の行動の説明をせねばならないのか、論理的に説明しろやw

>>774
一緒だなんて言った?
脇田修も知らんのかw
そんな程度なら松平を指して武家の棟梁というかもなw

>>775
ソッスネ
俺が知ってるか否かとお前が知ってるか田舎はまた別だぞw
摩り替えるなよ
0777人間七七四年2012/03/04(日) 01:09:13.55ID:ODOpgndI
>戦国時代に「武家」と言ったら足利氏のこと
>室町時代の一次史料で足利氏以外を「武家」と呼ぶ事例を見たことない
>「武家の棟梁」については、この時代では足利将軍を指すのが通例
こんな書き込みが一杯あったわけだけど、反例挙げられたらちゃぶ台返しっすか
じゃあ「足利将軍家のみに限定されて使用されるわけじゃない」、でFAですね
で、更に繰り返すけど現代の歴史用語として「武家」が「武士階級」という意味で定着してるのに、
敢えて室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
意味のない煽りレスしてないで早く答えてくれないかな

脇田修氏を知らんのは君の方でしょ
脇田修氏が「信長自身が幕府機構を相当程度継承」の「好例」として
村井貞勝の京都所司代を挙げるわけがない
だって室町幕府の「所司代」と織田政権の「京都所司代」は殆ど別物だからね
具体的な著書名挙げてみ
0778人間七七四年2012/03/04(日) 01:12:38.67ID:ODOpgndI
>>771
長親から清康までは松平家、広忠元信時代は今川家
そしてその今川家の庇護を受けてたのが松平家
0779人間七七四年2012/03/04(日) 08:20:28.99ID:gJRurbL3
>>777
”室町時代の「武家の棟梁」は足利氏”という命題に対して、
”南北朝時代の歴史書(に書かれた鎌倉殿)”
”安土桃山時代の織田信長”
”近現代の歴史用語”
を挙げても反証にはならない。
そもそも鎌倉殿も織田信長もそれぞれの時代では、
室町時代の足利氏に相当する存在だから、
むしろ補強材料になっているような。

そして、清康期に(西)三河最大勢力だったからと言って、
当該時期に今川家の庇護下にあった勢力を「武家の棟梁」
と呼ぶのは、時期が異なるので論拠にならない。
(江戸時代の足利氏を「武家の棟梁」と呼ぶというレベル)
0780人間七七四年2012/03/04(日) 09:22:18.45ID:W6YBj3gj
>>777
”柔軟性が足りない”んじゃねえのw
限定してねえじゃん
通例としてる、見たことが無い、いずれも将軍を指している場合が殆どっていってるんじゃん
なんで0か1かでしか判断できないかね、ああ詭弁ですねw
極々まれな例を出して、さらに中間を無視して甲か乙かでわけて選択をせまり、自分に反する指摘は煽ると

限定したのは>>751、そして>>751は松平をさして武家の棟梁といってるやつ
対して>>766はそれを否定してる
なんで>>751と対立する意見の持ち主が>>751の行動の説明をせねばならないのか、論理的に説明しろやw
これについて論理的に説明したら幾らでも答え捻りだしてやるよ、「松平=武家の棟梁論者」のためになw

本当に脇田修知らんのだな・・・

あとね、お前が水戸黄門の印籠のように使ってる>>755だけど、原文あたってないからこれだけで訳すとね
「ちょっと功績があったからと言って、武家代々の家臣の家臣に高い官位を与えるのは、朝廷を軽んじるだけでなく、自身のためにも控えるべきだと思います」
ここで武家を将軍としようが武士一般としようが、対象はかわらんのよw
だから一般化も特定化も出来ない
そして公家と対立させた概念としてるけど、その公家の意味は平家物語から朝廷、乃至天皇を指す
古語辞典にもでてるから引っ張り出してみ
コレと対立させるなら、幕府か将軍だわなw
武家の棟梁を将軍の棟梁もおかしいから、幕府の棟梁が当てはまるだろう
よって武家の棟梁=幕府の棟梁=将軍
そもそも武家が武士一般を指すならその棟梁は将軍以外ありえないんっすけどねw
日本国民のトップといって知事を上げるひとはおらんだろうw

あと>>779の指摘の通りね
なんで織田信長と義昭の共通点あげたか、”柔軟”に理解してほしかったなあw

でえ?三河最大勢力って論証はやくしたらー?w
0781人間七七四年2012/03/04(日) 10:19:26.01ID:NznuUp3Y
↑悪魔の証明で逃げて、対抗勢力のボス出せないお前らの負け( ´,_ゝ`)
↑悪魔の証明で逃げて、対抗勢力のボス出せないお前らの負け( ´,_ゝ`)


>>岡崎松平以上の三河勢力って、具体的にどこがあったの?
>そしてその今川家の庇護を受けてたのが松平家
今川家は駿河の勢力で、三河も庇護してただけだろwww
0782人間七七四年2012/03/04(日) 10:52:22.79ID:BcNEzkJ2
今日もファビョってんなぁ
0783人間七七四年2012/03/04(日) 11:02:56.36ID:W6YBj3gj
>>781
サッスネ
0784人間七七四年2012/03/04(日) 13:11:53.16ID:gJRurbL3
>>781
>今川家は駿河の勢力で、三河も庇護してただけだろ

という理屈なら
「今川家は駿河の勢力だから、遠江の棟梁も今川家ではない」
ということになってしまうけど大丈夫?
そもそも国単位で区切る意味がわからないけど。
ゲームの仕様ですか?
0785人間七七四年2012/03/04(日) 13:50:56.99ID:Jctq25KB
今川出されるの想定して、わざわざ三河勢力ってしてるのに
意図読取れないって言ってんの。

論破されたからって、頑なになり過ぎwww
0786奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2012/03/04(日) 14:38:26.89ID:hh2DliGZ
なにこの伸び具合。
0787人間七七四年2012/03/04(日) 16:16:19.92ID:ODOpgndI
>>779
「“室町時代の「武家の棟梁」は足利氏”という命題」については誰も否定してないと思いますよ
「室町時代に“武家の棟梁”と呼ばれうる存在が足利氏のみだったか?」
「戦国大名としての松平宗家は“武家の棟梁”と呼ばれうる存在だったか?」
というのが今問題になってるわけで
少なくとも近現代の歴史学用語としては上記二つは問題ない
「武家」や「棟梁」、または「武家の棟梁」の同時代的用法については
なお検討を要する、ってのがスレの現状でしょう
ちなみに『神皇正統記』で引用した部分の現代語訳では
「鎌倉幕府の将軍」ではなくそのまま「武家」だし、
武家伝奏の「武家」も『官職要解』の和田英松は
「武家=公儀(将軍)」との交渉役というよりは、「武家=武士階級」からの
要求を主上に伝えるからそう呼ばれたと解釈してるようですよ

戦国時代における三河の権力構造を語るのに、江戸幕府という
強力な中央政権が存在した近世封建制度における
足利氏(喜連川氏)を反証にするのはそれこそナンセンスでしょう
中世において存在し得た「血縁集団や地域集団の統率者」としての棟梁が、
天下一統の後に(徳川家を除いて)その意義を大きく喪失することになったのは周知の事実なわけで
もっと適切な例を挙げるなら、織田信長上洛後に保護された足利将軍家くらいだと思うけどね
もちろん足利家→織田家や今川家→松平家という名目上あるいは実際上の主従関係の違いはあるが、
どちらもその庇護者により、特定の集団に対する権威を発揮することを期待されたのは同じ

>>780
@「室町時代に“武家”といえば“足利将軍家のみ”を指す」という根拠は?(ないということで解決済みでFA)
A現代の歴史用語としての意味を無視して室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
B脇田修氏が「信長自身が幕府機構を相当程度継承」の「好例」として京都所司代を挙げた彼の著書名は?(捏造の可能性大?)
ほらほら、君が中身のない長文糞レスしてる間に宿題がどんどん溜まってるよ
ID:gJRurbL3さんと比べて君のレベルの低さは惨めだね
まともな教育受けてないの丸分かり
0788人間七七四年2012/03/04(日) 16:21:03.36ID:W6YBj3gj
>>787
>意味のない煽りレスしてないで早く答えてくれないかな
応えられないならそれでいいよ
勝利宣言でも何でもして逃げてればいい
馬鹿らしくなってきたわ
0789人間七七四年2012/03/04(日) 16:39:00.40ID:ODOpgndI
質問を受けて逃げまわってる人間が言うに事欠いて
「応えられないならそれでいいよ」とは此れ如何に
そういうのをネットでは「勝利宣言」というんだよ
「馬鹿らしくなってきたわ」とはこっちのセリフ
0790人間七七四年2012/03/04(日) 16:40:50.04ID:W6YBj3gj
あぁ、勝利宣言ね
お疲れさん
0791人間七七四年2012/03/04(日) 16:43:14.83ID:ODOpgndI
いや、こちらは君が自説(と言えるほど立派なものではないかもだけど)の
根拠を提示する気になってくれるまで謙虚に待ってますよ
ここ数日の君のレス見る限り平日も休日も一日中暇みたいだから、
そのうちソースを持ってきてくれるんじゃないかと期待してます
それじゃひとまずお疲れ様でした
0792人間七七四年2012/03/04(日) 17:23:54.81ID:Jctq25KB
>>家康みたいにどん底から這い上がり天下を取るような人は人類史においても稀。
>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
結局「武家の棟梁」=将軍って知識をひけらかせたかったバカが
1人か2人居て、将軍の子じゃないって言い張ってただけだよなw

誰もそんな事言ってないのに、、、
0793人間七七四年2012/03/04(日) 17:25:16.74ID:Jctq25KB
そんな暇なら、俺の考案した小大名スレ盛上げてくれよ( ´,_ゝ`)

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
0794人間七七四年2012/03/04(日) 17:37:12.95ID:HSQtC4Yr
家光が「余は生まれながらの将軍」と言ったことはよく知られてるが、
言いだしっぺはそれとごっちゃにしてない?
家康がそうなら、同盟を結んで晩年は家臣のようにしていた信長や
臣従させた秀吉は何なの?って気がするが。
0795人間七七四年2012/03/04(日) 17:50:45.41ID:W6YBj3gj
だと思うよ
家康をして生まれながらの武家の棟梁なんか普通言わないし
後半は三河の武家の棟梁にスケールダウンして無理からこじつけてたけど、
有光友學も広忠時代は絶対的な権力は存在せず、混沌とした状況なんて評価してるし
0796人間七七四年2012/03/04(日) 18:32:33.92ID:Jctq25KB
日本のTOP100に入りそうなボスを
「どん底」とか言ってたからだろ。

それくらい理解しろよ頭悪いなぁ(′・_・`)
0797人間七七四年2012/03/04(日) 18:34:33.26ID:Jctq25KB
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
0798人間七七四年2012/03/04(日) 18:45:25.02ID:o+wPWGxV
>>796
家康スレだから荒らせば自分の勝ち、みたいなw
0799人間七七四年2012/03/04(日) 20:01:29.12ID:HSQtC4Yr
>>796
どんな人間にもいい時と悪い時がある。
生まれてから死ぬまでいいことだけの人間も、
悪いことだけの人間もそういない。
今川人質時代の家康を「どん底」と表現することの何が
おかしいの?
それこそ信長が義元を討たなかったらどうなってたか
分からないのに。
0800人間七七四年2012/03/04(日) 20:18:19.02ID:kcIPclq+
>>794
さすがにそれは無いだろ。
「武家の棟梁」と言う言葉は本来
大名クラスの家々(武家)を束ねる立場って意味で使われるけど、
普通の武士=武家って思っちゃったから、
多くの武士達を束ねる存在=武家の棟梁って使っちゃったんでしょ。
色々突っ込まれてファビョっちゃったけど、
俺も家康をどん底から這い上がったってのはどうかと思うけどな。
そこそこの勢力の嫡男として生まれて、
人質とは言え当時全国有数の家から親族並みの扱いを受けてるのに。
0801人間七七四年2012/03/04(日) 20:34:27.90ID:oA2ABVU6
>それこそ信長が義元を討たなかったらどうなってたか
大高城へ兵糧入れてたんだっけ?

今川義元にとって、何番目くらいの盟友?なんだろうか。
嫡男は出来が良くないワケで、、、
1番は武田北条あたりだよな。その次が重臣連中?
0802人間七七四年2012/03/04(日) 20:36:47.61ID:W6YBj3gj
いうほど悪くないけど決して恵まれてるってわけでもないよな
人質にされるってのはなくもないけど、途中で誘拐とかありえないもんな
親父は伊勢に逃げるし
0803人間七七四年2012/03/04(日) 23:25:18.16ID:jTEXvk2b
>>801
盟友ってことはないよ。
今なら高校生の年だしガキのパシリだから。
0804人間七七四年2012/03/04(日) 23:54:41.53ID:ODOpgndI
>>800
少なくとも近世から現代での用法としては「武家=普通の武士」で問題ないよ
0805人間七七四年2012/03/04(日) 23:57:21.26ID:ODOpgndI
>>795
広忠時代ではなくて家康の人質時代の話でしょ
つーか2chに一日中居るのね
0806人間七七四年2012/03/05(月) 00:22:31.50ID:NG6DH9iF
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

西条吉良
東条吉良
今川
一色
仁木
細川
斯波
戸賀崎(荒川)
畠山
桃井
渋川
岩松
石塔
上野
鹿嶋
粟生
倉持

上杉
0807人間七七四年2012/03/05(月) 00:27:23.29ID:NG6DH9iF
■元弘の変当時の室町幕府支配層

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城

【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官)の屋敷(梅藪屋敷)

【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷

【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)

【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷

【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
0808人間七七四年2012/03/05(月) 00:35:51.23ID:ZjRCR8I5
>>804
武「家」ってのはあくまで独立した「家」が基準になるんで、
近世であっても陪臣クラスを武家とは言わない。
「武士の家柄」を武家と呼ぶのは一家族が「家」となった現代になってからだね。
0809奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2012/03/05(月) 00:40:55.25ID:xUaUukbj
普段の生活に根ざしていないと理解され辛い。

その部分は特に。
0810人間七七四年2012/03/05(月) 00:43:57.71ID:NG6DH9iF
■元弘の変当時の室町幕府支配層

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)

【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官)の屋敷(梅藪屋敷)

【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷

【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)

【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷

【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
0811人間七七四年2012/03/05(月) 00:52:51.64ID:vqh/1R5D
>>808
山鹿素行の『武家事紀』では上は天下人、下は諸侯の陪臣まで「武家」扱いされてるよ
0812人間七七四年2012/03/05(月) 07:26:59.44ID:oT06n3Zz
なぜ、家康にどん底の時代があったこと嫌いの?隠そうとするの?
家康の魅了は、苦労人が天下を取ったことにあるわけで、どん底や苦労を知らないなら、山岡荘八も小説なんて書かなかっただろうな。

本当の家康ファンなら、どん底時代があった家康を含めて好きになれるはず。
0813人間七七四年2012/03/05(月) 10:24:16.51ID:2WbEaU5z
人質時代なかったら、
あらゆる重大局面で自重できずに暴走して
天下取れたと思ってるバカなんて居ないだろw
0814人間七七四年2012/03/05(月) 11:20:23.24ID:kWypWHR0
>>780が言っているように「公家」の意味は時代によって異なるのに、
異なる意味で使われている時期の「武家」の定義で松平氏を語ろうとしたから拗れた。
江戸時代の「御家人」の意味で鎌倉時代の「御家人」を語るようなもの。
0815人間七七四年2012/03/05(月) 12:47:54.54ID:RfpN1/mS
武田旧臣でのちに徳川の旗本になった横田尹松って武田時代に三方ヶ原と高天神、徳川時代は大坂の陣に参加しているのは分かるが小牧長久手や小田原には参加していたのか?
0816人間七七四年2012/03/05(月) 17:22:19.55ID:NG6DH9iF
日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆関ヶ原の戦い◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)

◆大坂の役◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
0817人間七七四年2012/03/05(月) 19:35:14.03ID:I51+GDhO
>>808は間違い。804が正しい。

1)武家は将軍家のこと、武家衆はそのとりまき

2)武家衆を略して武家ともいうようになった

3)侍のかっこしてれば「お武家様」
0818人間七七四年2012/03/05(月) 22:16:22.58ID:NG6DH9iF
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

西条吉良■後の将軍御一家
奥州吉良■後の奥州管領家、関東公方御一家
今川■後の将軍御一家、九州探題
一色■後の四職家
仁木■後の室町幕府執事
細川■後の管領家
斯波(斯波、石橋)■後の管領家(斯波)、将軍御一家(石橋)
戸賀崎(荒川)■丹後国・石見国守護
畠山■後の管領家
桃井■
渋川■後の将軍御一家、九州探題
岩松■
石塔■後の奥州総大将
上野■奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆
鹿島■
粟生■奉公衆
倉持■奉公衆
高■後の室町幕府執事、武庫川で一族滅亡
上杉■後の関東管領家


太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0819人間七七四年2012/03/05(月) 22:17:38.78ID:NG6DH9iF
■元弘の変(1331年〜)当時の室町幕府支配層(西三河武士団)

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)

【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官)の屋敷(梅藪屋敷)

【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷

【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)

【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷

【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
0820人間七七四年2012/03/05(月) 22:32:40.60ID:e3fyEUKV
>>817
であれば、議論の核である『家康スタートライン』は、どの武家が該当するわけ?
0821人間七七四年2012/03/05(月) 22:41:50.32ID:2tDwNadC
低脳ってどうしてこう自分の過ちを認められないのだろうか(′・_・`)
0822人間七七四年2012/03/05(月) 22:51:59.38ID:NG6DH9iF
>>821
お前は誰と戦っているんだ?w
低能(低脳じゃないぞ)は自己紹介か?w
0823人間七七四年2012/03/05(月) 23:06:40.17ID:vqh/1R5D
>>812
単純に家康の出身階級は到底「どん底」と形容されるようなものじゃないから
「体制の破壊者信長」とか「人殺しの嫌いな陽気者秀吉」みたいに
型にはまった「耐え忍んで天下を取った苦労人家康」という人物像が好きなのは分かったけど、
>家康の魅了(魅力のタイプミス?)は、苦労人が天下を取ったことにあるわけで
>本当の家康ファンなら、どん底時代があった家康を含めて好きになれるはず
とか自分個人の好み押し付けられても正直ちょっと
0824人間七七四年2012/03/05(月) 23:20:20.33ID:PRvwoP9z
家康は武家の棟梁といってるやつが馬鹿なのがよくわかるレスだな>>821
0825人間七七四年2012/03/05(月) 23:26:51.85ID:vqh/1R5D
>>824は書き込む前に自分のレスを読みなおす癖付けたほうが良いね
相当頭悪いから
0826奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2012/03/05(月) 23:31:25.17ID:j17TMDtJ
煽り合いはいいから論を出しなさいな。
0827人間七七四年2012/03/05(月) 23:47:41.90ID:2tDwNadC
自分のミスを認めたく無いが為に
文脈無視した曲解するなチョンって事w
0828人間七七四年2012/03/06(火) 00:24:24.80ID:6AmJX+3w
レスからたったの六分でレスしてやがる
>>791はどんだけ必死なんだw
0829人間七七四年2012/03/06(火) 01:50:04.90ID:fTFcYEGs
大阪の陣をもっと詳細に濃く駆け引きを描いた大河ドラマ希望。
もちろん、家康役は松方で。
0830人間七七四年2012/03/06(火) 16:50:45.85ID:fTFcYEGs
あ、そう?
むしろ、俺は成功した後の家康には全く興味がない。
特に浜松城時代の苦労をした家康に惹かれる。


どん底から這い上がった男、死ぬまで階段を駆け上がった男。それが、家康だろ。
0831人間七七四年2012/03/06(火) 17:08:44.20ID:EjFPvdtJ
最初から最後までやればいいんだよ
山岡家康みたいな聖人君子キャラじゃなくて、
葵の時みたいな豪腕腹黒タヌキで
0832人間七七四年2012/03/06(火) 18:49:02.72ID:w8MzLyHd























0833人間七七四年2012/03/06(火) 18:50:10.93ID:w8MzLyHd
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

01.西条吉良氏■後の将軍御一家
02.奥州吉良氏■後の奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後の将軍御一家、九州探題、守護職
04.一色氏■後の四職家、守護職
05.仁木氏■後の室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後の管領家、守護職
07.斯波氏■後の管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■守護職
09.畠山氏■後の管領家、守護職
10.桃井氏■守護職
11.渋川氏■後の将軍御一家、九州探題
12.上野氏■奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後の奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■奉公衆
17.倉持氏■奉公衆
18.高氏■後の室町幕府執事、守護職、武庫川で一族滅亡
19.上杉氏■後の関東管領家、守護職


太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0834人間七七四年2012/03/06(火) 18:55:48.75ID:w8MzLyHd
■元弘の変(1331〜1333年)当時の室町幕府支配層(西三河武士団)■

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、守護職)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、守護職)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)

【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)

【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷

【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆 )の屋敷
・中条一族(守護職、奉公衆)の屋敷と城(金谷城)

【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領家)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、守護職)の屋敷

【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、守護職)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家、守護職)の屋敷
0835人間七七四年2012/03/06(火) 19:54:10.45ID:/MCGz8aC
>むしろ、俺は成功した後の家康には全く興味がない。
組織構築術とか素晴しいだろ?
組織構築術とか素晴しいだろ?
0836人間七七四年2012/03/07(水) 00:11:24.21ID:1pP/TvnR
>>835
家康って、組織構築とかしてないからなぁ。
0837人間七七四年2012/03/07(水) 01:46:53.76ID:50IMtxWP
最晩年の秀吉が窮して五大老の制度を設けたなんて、嘘。徳川家による歴史のねつ造。
豊臣政権の作り上げた身分秩序(官位や家格による)は完璧
0838人間七七四年2012/03/07(水) 01:48:50.59ID:TTvOZGf5
はいはい
0839人間七七四年2012/03/07(水) 01:52:46.23ID:Alg50Noz
そこだけ見てたらね。

もう少し広く考えるのも大事じゃにかな。
0840人間七七四年2012/03/07(水) 02:05:14.11ID:FZHWtbe4
何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」 

■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(三河四郎、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
0841人間七七四年2012/03/07(水) 06:49:04.50ID:1pP/TvnR
秀吉自身が、秀頼に継がせるために、関白を頂点とする
体制をを崩しただけだからなぁ。

有力大名に中納言を与えまくり、秀次を殺して関白ではなく
有力大名が連署する体制に変えたからな。

これを徳川の捏造などと言い張るのは妄想も良いところだ。
0842人間七七四年2012/03/07(水) 10:22:58.49ID:V2t/PGZG
何が秀吉じゃ
スレ違いだろうが、田舎モンめ


0843人間七七四年2012/03/07(水) 10:53:13.85ID:DbIqei55
>>836
大番
0844人間七七四年2012/03/07(水) 20:13:28.67ID:FZHWtbe4
何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」 

■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(三河四郎、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
0845人間七七四年2012/03/08(木) 10:27:59.85ID:mZ4DiFGw
>>843
石川数正が出奔したから、付け替えただけでは?
0846人間七七四年2012/03/08(木) 15:56:23.64ID:A/l4iITN
>>845
石川数正は一人だが、大番頭は複数いるぞ
そもそも数正は西三河衆旗頭だから立場が全然違う
0847人間七七四年2012/03/09(金) 13:32:01.28ID:tvxU5Ciy
>>846
西三河衆旗頭を廃して、編成しなおしただけだと思うが。
0848人間七七四年2012/03/10(土) 00:59:00.87ID:KmBgeh8D
大番ってどんな組織かわかって言ってるのか?
そんなことどうでもいいんだろうけど
0849人間七七四年2012/03/10(土) 18:18:21.44ID:UY7l9D94
そういえば徳川家の家臣って大幹部でも領地の石高が異様に小さいんだよね
でももちろん兵士の数はそれなりに任されてるはずだから、
領地は少ないけど権限は十分に持ってたって感じかな
0850奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2012/03/10(土) 18:58:52.35ID:PUy0IF1i
そりゃまあ吏僚に大封与えて基盤が弱まった前例なんていくらでもあるだろうし。
0851人間七七四年2012/03/10(土) 19:42:38.77ID:aUT9xMS6
久しいな
0852人間七七四年2012/03/10(土) 20:41:59.72ID:/xk0rtrt
明日は、百姓の一周忌か。南無南無。
0853人間七七四年2012/03/10(土) 21:08:29.02ID:G9zZohIh
百姓も地獄からこのスレを見守ってくれてる事だろう。
0854人間七七四年2012/03/11(日) 00:43:01.70ID:mUugy7er
そいや、いなくなって1年になるのか・・
0855人間七七四年2012/03/11(日) 00:49:58.73ID:dnlF/qL/
居なくなると寂しいもん・・・・では無いなべつに
仮設住宅とかならネット環境無いだろうし元気でやっててくれればいいが
0856人間七七四年2012/03/11(日) 21:28:36.16ID:kpzQA0kj
百姓タソ、南無南無。
0857人間七七四年2012/03/12(月) 01:18:11.50ID:JCoeV0To
一周忌
0858人間七七四年2012/03/12(月) 20:28:10.09ID:Rr+emi9G
まだこの時点では瓦礫の下で生きてたかも知れないだろwww
まだこの時点では瓦礫の下で生きてたかも知れないだろwww
0859人間七七四年2012/03/12(月) 23:00:01.79ID:Iv85F6EC
駿府年寄
本多正純(菅貫太郎)
0860人間七七四年2012/03/20(火) 14:04:05.01ID:Kvci7cY8
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職

太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0861人間七七四年2012/03/20(火) 14:05:23.39ID:Kvci7cY8
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の2つの城(細川御前田城、細川城山城)

【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)

【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷

【岡崎市西部地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷

【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)

【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
0862人間七七四年2012/03/20(火) 16:11:53.12ID:fEonKCR2
源次郎信康が生きてたら家康の人生も違っただろうか
というか清康以降の安城家の男は早く死に過ぎだ
0863人間七七四年2012/03/24(土) 01:59:05.99ID:euOhvYhK
そんな事いうなら前田利家が長生きしたらそもそも天下取れてたのか家康?
0864人間七七四年2012/03/24(土) 11:20:29.61ID:sOX4du5b
取れただろ
利家は結局、家康に恭順して死んだし長生きしても結果は変わらない
秀吉や秀長が長生きしてたら無理だけど
0865人間七七四年2012/03/24(土) 13:20:56.45ID:HllFMg8/
利家は言われるほど実績があるわけではないからな
所詮は実力主義の織田家でも軍団長レベルには遠く及ばない存在でしかない
たまたま秀吉と親交があって上手く取り入っていい時期に死んで過大評価をもたらしただけだよ
0866人間七七四年2012/03/24(土) 13:45:19.72ID:CkVfZxie
言うまでもなく優秀な部類には入るんだが、
秀吉とか家康と比べると激しく見劣りするからなあ
相手が悪い
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